2−5−5 へ

 芍薬が『姫様』と言ったその瞬間――
 スッ……と、ミリーの目が泳いだ一瞬をニトロは見逃さなかった。
 無関心を装うとして逆に関心大有りだと示してしまうのは、平然と人を騙す姉に比べてとても可愛らしいものだ。ニトロは頬に浮かべてしまいそうな微笑を懸命に噛み殺し、
「ドウスル? 後デ掛ケ直スカイ?」
 当然、電話に出ることは芍薬も解っているだろう。しかし、そこにあえて普通のやり取りを持ってきた意図を汲んで、ニトロもそれに応じた。
「いや、出るよ。
 ミリー、ティディア姫から電話がきたからちょっと席を外すね。一人で大丈夫かな」
 問われたミリーは一度目をニトロに戻し、また視線を逸らすとヴオルタ・オレンジを飲みながらうなずいた。ニトロは、ありがとうと小さく返し、
「じゃあ、ここでゆっくり休んでてね。グィンネーラは好きなだけ食べちゃっていいから」
 ミリーはやはり無関心を装い、まるきり興味がなさそうに緩慢にうなずいた。
 ニトロは内心苦笑しながら携帯電話とヴオルタ・オレンジのコップを持つと席を外し、ケータリングカーからも離れ、木漏れ日を冷たいコンクリートに落とす木立の下で通話を繋げるよう芍薬に言った。
 即座に画面に『音声通話』と表示される。
「ん?」
 てっきり電映話ビデ-フォンだと思っていたニトロは疑問符に喉を鳴らした。つい、ティディアのことだからそこに活き活きと輝く瞳を映し出すと思い込んでいた。顔や仕草を見ながら話したかったから、こちらとしてもその方が都合良かったのだが……
「……もしもし」
 怪訝に感じながら電話を耳に当てニトロが声を送ると、
「ん? って?」
 ティディアからも、怪訝な声が送られてきた。ニトロは正直に答えを返した。
電映話ビデ-フォンでかけてくると思ってたんだ」
「ああ、ちょっと今、はばかりがあってね」
「はばかり?」
 さらに疑念が深まり、ニトロは眉間に皺を刻んだ。
「お前がそんな言葉を知ってるとは思ってなかったな」
「あら、私を侮るなんてニトロらしくないわねー。それに何だかついでに私のことを恥知らずって言ってる気がするんだけど気のせいかしら」
「『ついで』じゃなく主にそう言ってるんだ」
「やー、ちゃあんと恥も知ってるわよ。ただ知った上で無視しているだけよぅ」
「なおさら余計に性質が悪いわ」
「まあ、ニトロが望むんなら映像付きに変えるわよ。別に全景が映りこむわけじゃないしね。もちろんニトロが気にしないなら、だけど」
「……何だよ、含みのある言い方しやがって」
「だって私がいるの、トイレだもの」
 ぷ、と、ニトロは噴いた。
「あ、だからって排泄中じゃないわよ? そんなの恥とか何とか言うよりニトロをどん引きさせちゃうじゃない? ……それとも、私、恥ずかしいけど私ね、もしニトロが望むのなら「おぅし黙れ。それ以上シモに走るんなら今日の『漫才』のツッコミ、全てどぎつく痛くしてやる」
「それは、ちょっと期待しちゃうわねぇ。一生忘れられないくらい痛くしてね?」
 電話口の向こうで、ティディアがことさら楽しそうにしている姿がニトロにはまざまざと見えた。『ミリー』と出会ってからここまでのストレスひっくるめて怒鳴りつけたくもなるが、眉間の皺を指で叩いて何とか気を鎮め、
「って、こんな言い合いをしたいわけじゃなくってだ。――つーか、お前、何かテンション少しおかしくないか?」
「あ、解る?」
 その語尾には含み笑いが重なっていた。
 さすがに馬鹿にされている気になりニトロはとうとう怒鳴ろうとしたが、
「……こんにちは、ニトロ」
 それは、噛み締められた声だった。ティディアが口にしたのは、ともすれば他人行儀にも取れる丁寧な挨拶で――
「電話ありがとう。やっとこうやって話せて、嬉しいわ」
 彼女は胸の奥底から、本心を露にしているようにニトロには感じられた。この通話が電映話ビデ-フォンでなかったことが悔やまれる。デジタル信号の走る管の先、『はばかり』の内にいるティディアは一体どんな表情をしているのだろうか……分からない。
 だが、珍しく真摯な声を聞かせてきたティディアにペースを握られかけているという現状は、ニトロは当惑の一方でしっかりと認識していた。
「それが、狙いだったか?」
 一度冷たいジュースで喉を湿らせ、ニトロはキラキラと光を透く木の葉を見上げて言った。このままあちらのペースに引き込まれては良くないと、一気に本題に入る。
「狙い?」
「ああ。ヴィタさんから聞いてるだろ?」
「迷子を拾ったんでしょ? 何をせずとも自然と溢れ出ているニトロの優しさ、子どもはやっぱり判るのねー」
「バカップルの世迷言みたいなこと言ってるなよ。誤魔化しか?」
 ニトロは語気を固めて、直接的な言葉を続けた。
「お前の仕業なんだろう?」
「あら、何で? こんなことをして、私が何か得する?」
「色々得するな。こうやって、お前は俺と久しぶりに話をしている。一応言っておくけど、『仲直り』した気は俺にはないぞ。もし、子どもを間に挟めばオイシイ思いができる、なんて思ってたら大間違いだ」
「解っているわよぅ。でも、それでも私の『得』にはならないわね」
「そうか?」
「そうよ。そりゃこうやってまたニトロと話せているのは嬉しいわ。けど私はそれだけのために後のリスクを考えないような馬鹿じゃない。もし、子どもを間に挟んでオイシイ思いをしよう、なんて考えてその子をそういう風に仕立てて私が派遣していたらニトロはどうする? ……また、口をきいてくれないでしょう? それも、きっと……ずっと」
「……」
「これでも『リミットライン』は心得ているつもりよ」
「シゼモじゃあんなことをしておいてか?」
「…………返す言葉は、ないわね」
 またも珍しく、萎れた声でティディアは言った。
「ごめんなさい。言えるとしたら、それだけよ」
「……」
 ティディアの声には真心があると――そう思わされる響きがあった。これはあの『クレイジー・プリンセス』が自分にだけ聞かせる声だと、そう錯覚させられそうなほどにひたすら真摯な態度さえ窺えた。
「それは……そうだろうなあ」
 しかし、これまでの相手の所業を思えば、そこに真面目に取り合ってはいられない。ニトロは気のない相槌を返すとジュースを飲み、適度な間を作ってから話を戻した。
「だけど、こっちがお前が派遣したって『証拠』を見つけ出せなければ、お前と口をきかなくなる――なんてことはないんじゃないかな」
「それは私が芍薬ちゃんの実力を見誤っていると期待して、そんなふざけたことを言っているの?」
「……何か……やけに喧嘩腰に言うじゃないか」
「当たり前よ。芍薬ちゃんの力を見誤っている、なんて馬鹿にするにも程がある。心外極まりないわ。なにしろ私、ニトロと結婚した暁には王家のA.I.に迎え入れようと決めているのよ? もちろん常に身の回りにいる『お付き』としてね」
「そりゃ元からいるA.I.達が不満を持つんじゃないか? 王家のA.I.ってことにプライド持ってるだろうに、新参にいきなりそんな重要なポジション取られちまったら」
「大丈夫。芍薬ちゃんはこっちのA.I.に一目置かれているから。歓迎こそされ煙たがられることは絶対にないわ」
「ああ……そうなんだ」
 そう言われると、ティディアの誉め言葉が妙に自分のことのように嬉しい。ニトロは口元を緩ませていたが、はっと我に返り、
「まあ、そう思われているのはマスターとして光栄だけどな、それが実現することこそ絶対にないよ。ていうか、いい加減そこの『リミットライン』こそを心得ろ」
「嫌」
「嫌って、お前な」
 ティディアの即答に『ミリー』の拒絶の様子が重なり、ニトロは思わず苦笑してしまった。目をテーブルに向けると、そのミリーが退屈そうに足をぷらぷらさせながらストローをくわえている。
「……じゃあ、仲直りの件がなかったとしても」
「ええ」
「ドッキリなんかは?」
「やるとしたらもっとスマートにやるわ。それももっと慎重にもっとしつこく作り込むわね」
 言下に力を込めて彼女の阿呆な企画へのこだわりをぶつけられ、ニトロは言葉に詰まった。やるな作り込むなと言うには容易いが、創作態度にツッコミを入れるのにそんな言葉は何か違う気がする。
 というか、思いっきり本題からずれる。
「それなら……例えば……俺のイメージアップ大作戦、とかいうのはどうだ?」
 ニトロは悪い癖が首をもたげた心を鎮め、適当に思いついたアイディアをそのまま口にしてみた。
 ここまででティディアの『意図』を掴めるような情報はない。いや、むしろ、この『ミリーの件』は彼女とは無関係だと思わされるものばかりが集まっているようにも思える。とにかく、もっと『反応』を集めたい。
「お前に取っちゃ『得』だろ? 恋人が善人であればあるほど、外からのプレッシャーはどんどん良くなる」
「そうねー。それはいい手かもねー」
「……いい手かもねー、か。
 軽いな、どうも」
「そりゃあねー。だってニトロのイメージを良くするのに、そんな面倒なことしなくてもいいもの」
「どういうことだ?」
「『ニトロ・ポルカト』は、今となっては『クレイジー・プリンセス』の隣にいるだけでイメージが良くなるのよ。ほら、汚い布の横に綺麗な布があったら、それってより綺麗に見えるじゃない」
「相対的に、ってか。つか、お前自分のことをよくも爽やかに汚い布呼ばわりできるな」
「だから私は『はばかり』を知っているって言ったじゃない」
 さらりと言い切るティディアは実に清々しい。
 ニトロは――本当に――思わず笑ってしまった。いや、もう笑うしかなかった。
 受話口から、ニトロの笑い声を聞いて嬉しくなったのだろう、ティディアの揺れる吐息が聞こえてくる。
(参ったな)
 ニトロは、悔しかった。
 何を言いながらも、喧嘩腰の調子の時でさえもティディアの声には終始機嫌の良さが溢れ、そして彼女はそれを隠そうともしていない。実に素直な様子だ。それなのに、嘘をついている気配が微塵も感じられない。
 こっちは彼女からこの件に関する決定的な情報を得ようと思っていたのに……一度はそうなることを避けてペースをこちらで握ろうとしたにも関わらず、いつしか見事にあちらのペースに呑み込まれてしまっていた。
 辛うじて、何とか得られた有意義な情報でありそうなものと言えば、たった一つ――
<『迷子』が『弟』だってことだけは、認めている感じだね>
 ふいに、伊達メガネに芍薬のメッセージが流れた。有意義な情報はこれ以上得られなさそうだとマスターが判断したちょうどその時に、芍薬も『引き際』を察したのだろう。
 そして、ニトロも、芍薬と同じことを思っていた。
 ティディアの口振りを思い返せば、何らかの関係があることをほのめかしていると判断していいだろう。あちらからすれば、強いて隠す気は無いがあえて明かす気もない――といったところだろうか。
 しかし、だとすると、この事態はさらにこんがらがってくる。
 『ミリー』はやっぱり『パティ』で、それをティディアは認めていて、なのにこの『迷子ごっこ』はティディアの仕業じゃない? そんなことが現実としてあり得るのだろうか。何か……重大な見落としでもあるのだろうか。それならば、一体、何を見誤っているのだろう。
 消化不良を起こした思考の反吐が胸の中で鬱陶しく波打っている。
 ニトロは、強く頭を振った。
 美味しく冷たいジュースを喉に通し、無理矢理一息をつく。
 とにかく、事態の『正体』がさらに霧の中に入ってしまったとはいえ、当初考えていた道を歩いていては結論にいつまで経っても辿り着けないらしい事が分かっただけでも意味のある進歩だ。
 後は、目の前のことに適切に対処しつつ、芍薬の分析を待とう。
「……そういや、随分電話してくるのが遅かったけど、まだ会議が続いてたりするのか?」
 目の前のこと――まずは用件の済んだこの電話を終えようと、ニトロは会話の切り上げに向けて話題を変えた。
「トイレ休憩とか言って抜け出してきた、とか」
「いいえ、もう終わったわ。こっちはこれから局に向かうところ」
「ん? それなら何でトイレなんかから電話してきてるんだよ」
「んー? ここらで一人になれるのは、ここしかなかったからよ」
「いやいや、車ん中からでもかけてくりゃ良かっただろ」
「同乗者がいるもの」
「ヴィタさんだろ」
「ヴィタはドライバー。『同乗者』は、アンセニオン・レッカード」
「アンセニオン・レッカード……?」
 ティディアが口にした名は、ニトロも聞き覚えのあるものだった。自分でも小さく声にして、それが誰の名だったか記憶の中から呼び起こす。
「ああ、彼か」
 ニトロの記憶の浅い層に、その名を持つ青年の顔はあった。
 シェルリントン・タワーに『クラント劇場』を造り、莫大な資金を投じたその傑作を惜しげもなく国に寄贈したレッカード財閥の御曹司だ。
 アデムメデス一の――正確に言えば、根本的なところでこの国の所有権を持つロディアーナ王家が比肩するもの無き『資産家』であるのだが――莫大な資産を誇る財閥の末っ子、現当主の五番目の妻との子で、御歳二十八、独身、恋人なし。ミス・アデムメデスにも選ばれた母の美貌を引いた美男子である上、男ばかりの三兄弟の中で最も才覚に恵まれている……と、それだけの条件が揃えば当然マスメディアが放っておくはずもなく、実際、いわゆる『セレブ』と呼ばれる民間人の中では最も露出の多い一人でもある。
 最近は南副王都サスカルラで大規模な事業を手がけていることもあって、また特に注目を受けている。
「『南』の事業のことで話し合いか? 王家もひっそり絡んでるんだろ?」
「あら、よく知ってるわね。まだ一般のニュースじゃ全然扱われてないのに」
「芍薬に聞いたんだよ。お前がバカなことを仕掛けそうなあらゆるものに警戒網を敷いてくれてるんだ」
 ぶっきら棒に言ったニトロのセリフに、ティディアは何故かため息をついた
「……芍薬ちゃん、仕事熱心ねー。ちぇ、これでダメか」
「ってお前、やっぱり何か企んでやがったのか」
「あわよくば、ね」
 ニトロは、色々言いたい気持ちを包んで大きな嘆息をついた。
「――てことは、そのアンセニオン・レッカードを待たせてるのか」
「ええ」
「それならそうと早く言えよ。彼に悪いことをした」
「大丈夫よ。女性のお化粧直しは時間がかかるものだから」
「……ああ。それを口実にしてるから、トイレなのか」
「そ」
 ティディアは何も悪びれずに機嫌良く肯定を返してくる。
 ニトロは短くため息をつき、
「だからって待たせるのは悪いだろう。もう用件は済んだから、切るぞ」
「だから大丈夫なんだってば。会議が長引くことも考えてちゃんと余裕を持ってスケジュールを組んでいたから別に遅刻しているわけじゃないし、『化粧直し』をしてむしろそれで予定通りなのよ?」
 ニトロが切ると言ったところで、若干口を早めてティディアは言った。
 どうやら……二週間ぶりの会話をもっと楽しみたいようだが……
「それでも予定を詰められたんだから、早く会って貴重な話し合いの時間を長く取りゃいいだろ。それに、相手が予定より早く来てくれた時は何かと嬉しかったりするもんじゃないか?」
「んー、そうねー。それはそうかもね。彼も、長くいられた方が嬉しいだろうしねー」
 どことなく意味深長な言い方をされたが、ニトロはそれを無視することにした。そこに興味を示せば、ティディアは絶対に嬉々として喰らいついてくる。
「なら早く行ってやれ。こっちは言った通りに遅れるから、たっぷりお前を待たせることになるけどな」
「やー、最後の最後に意地悪ねぇ」
「あと弁当もないから、どっかで買ってくかデリバリー頼め」
 ティディアの返答は、すぐにはなかった。どうやら息を飲んだらしいことが受話口から伝わってくる。
 たっぷり五秒――これまた珍しく思考が停止しているらしいティディアの反応を予測し、電話を少し耳から遠ざけニトロがジュースを飲んでいると、
「ぇええ!?」
 悲鳴が、ニトロの鼓膜をつんざいた。
 予測はしていたが、思っていた以上のショックを与えたらしいことがその声の大きさから計り知れる。それを意外に思いながらも、ニトロは平然と冷やかに告げた。
「ヴィタさんの分はあるから買わなくていいぞ。美味しいハムをお楽しみにって伝えておいてくれ」
「ちょ、ちょっと! ニトロ意地悪過ぎよそれ!」
「意地悪なもんか当然だ。シゼモでの悪行を思い出せ阿呆」
「返す言葉はない……ッ、ないけど――でも、私すっごく楽しみにしてたのよ? 口をきいてくれなくてもきっとお弁当だけは作ってきてくれるって信じていたのよ!? それだけがここ二週間の心の支えだったのに!」
「ご期待に沿えず大変遺憾に思います」
「遺憾って――結局謝ってないじゃない! 残念なのはこっちよ! ってこれ今日のネタじゃなーい!!」
「じゃ、また後でな」
「待ってニトロ待ってそれならせめてニトロが買ってき――」
 ニトロは受話口から飛び出してくる恐ろしく早口なティディアの要求を無視し、無情にも通話を切った。
 ささやかながら、胸がすく気分だった。
「かけ直してくるだろうけど」
「拒否シタヨ」
 言うより早い対応に携帯電話の画面を見ると、芍薬が得意気に笑っていた。つられてニトロも笑い、ひとしきり満足したところで、彼は息をついた。
「どう思う?」
 小声で問うと、芍薬は腕を組んで首を傾げた。
「考エラレルコトハ幾ラデモアルケド……一番可能性ガ高イノハ……」
 そこまで言って芍薬は首を振った。やはり、この事態は芍薬に取っても難題であるようだ。
「マダ、ハッキリトハ何モ言エナイ。デモ、主様ニ害ハナイ、ソウ思ッテハイルヨ」
 意外な言葉だった。思わず跳ね上げてしまいそうだった声を抑え、努めて小声でニトロは問うた。
「害はない? あいつの仕業だとしても?」
「御意。バカノ仕業ダトシテモ、特ニ問題ハナイト踏ンデル。『周リ』ノ動キヲ見テルト、ドウシテモ主様ニ何カシヨウト考エテイルヨウニハ思エナイカラネ」
「何故?」
「基準ガ、主様ジャナイ」
 芍薬は言って、肖像シェイプを消すと画面にミリーの顔を映した。ヴィタに見せた時の映像か、監視カメラから得たものか、鮮明に描画された『彼女』の顔が段々と『パティ』に変化していく。髪が短くなり、色が変わり、メイクでいじられた陰影がなくなり、目の色が戻り……骨格や肉付きを変化させるまでもなく、そこにはパトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナの相貌があった。
「全テノ動キノ軸ハ、全テノ注目ハ、ココニアル」
「……なるほど」
 確かに、それなら大量にいる相手を『ニトロ・ポルカト』を狙う敵とするのはおかしい。罠の前でうろつく獲物に注目する狩人はいても、獲物そっちのけで罠に注目する狩人はいるはずもない。
「気ニナルノハ、例外ガアルコトナンダケドネ……」
「――カメラ?」
「御意」
 芍薬が再び現れ、渋い顔を見せる。
「アレダケ基準ハ主様ナンダ」
「……」
 ニトロは伊達メガネのレーダーに映る黒星の方向へ、何気なく顔を向けた。植え込みの奥、木々の隙間に、誰の姿も見えない。うまく隠れられているが……常に、視線は感じている。
 ジュースをずずっと吸い、ニトロはうなずいた。
「分かった、そこは気をつけておく。引き続きよろしくね」
「承諾」
 力強くうなずいて芍薬の肖像が消え、画面が暗くなる。ニトロは一つ息をつきながら手の内から視線を『ミリー』へと戻し――
「わ!」
 そして悲鳴を上げた。
 視線の先、テーブルにいるミリーは席を移っていた。今はニトロが座っていた椅子に座り、暇を持て余したのだろうか、その横の椅子に置いてあるショルダーバッグを勝手に漁ったらしいミリーの手にはニトロの『予備の携帯電話』がある。
 血相を変え、ニトロは全力で走った。
 それは見た目だけは人気メーカーの携帯電話だが、中身は、違う。
 あれはハラキリから借りている武器だ。
 内蔵された飛び出しナイフは子どもの指など容易く切り落とす。カメラのレンズから照射されるレーザーは低出力なれど肉を焼く。他にも多数ある。どれもこれも使い方を誤ればただでは済まない。
 起動には指紋・声紋認証が必要で、一つの機能につき各々最低二重の解除手順セイフティがあるため、気軽に持ち運びができるくらいに安全性は確保されている。しかし、だからといって自由に触れさせるわけにはいかない代物だった。
「こら!」
 テーブルの傍まで駆け寄ったニトロが怒鳴ると、ミリーは椅子から飛び上がらんばかりに背を反らした。ばっと振り向いたミリーの顔は蒼白となり、ニトロの形相を見てさらに凍りつく。
 同様に、ニトロの顔も蒼白となり凍りついていた。
 一体、何故!? ミリーの手の中で、『予備の携帯電話』が起動している。カモフラージュのための正規の起動画面がそこにあり、やはりカモフラージュのために記録させておいたショートアニメが再生されて主人公とライバルがコミカルな追いかけっこをしている。
 もし……ミリーがそのアニメーションが登録されているフォルダを選ぶ時、二つ以上のボタンを同時に押していたら……それは触れる者皆失神させる強力なスタンガン機能を発揮していたことだろう。
「駄目だろう人の物を勝手に!」
 ニトロはミリーから『携帯電話』を引ったくり、急いで電源を落とした。
 ミリーは怒鳴られたショックで失っていた我を取り戻したように、目に涙を溢れさせた。ぽろりぽろりと涙をこぼしながらもどうすればいいのか判らないようにきょとんとして、胸の前に置いた手の指を力無く絡ませて呆然と泣き続ける。
 ニトロはいつの間にかジュースのコップを取り落としていたことに気づいた。振り返ると電話をしていたところからここまでの途中に、中身をこぼして透明なコップが転がっている。気を利かせて、ドーブがそれの片付けに向かっていた。
 ニトロはドーブに気まずく頭を下げ、詫びた。ドーブは事情を了解しているとばかりにうなずいて掃除を始める。
「……」
 ミリーは、やがて泣くことをやめていた。
 涙の代わりに怒りが沸いてきたらしく、顔を赤くし、頬を膨らせてそっぽを向いている。何が悪くて怒られたのか全く解っていない様子だった。泣いたのは、怒られたことに対してではなく、どうやら怒られたことに酷く驚いてのことらしい。
「……ミリー」
 平静を取り戻したニトロが声をかけるが、ミリーは椅子の上で膝を抱えて顔をうずめる。
「ミリー」
 もう一度呼ぶが、ミリーは顔を上げない。しかし、むくれているのは明らかだった。
「ミリー」
 語気を強めて、ニトロは再度呼んだ。
「…… ぃ」
 と、ミリーから返答があった。だが、震えた声は小さすぎて聞き取れない。
「何?」
「きらい!」
 ミリーが膝に顔を埋めたまま怒鳴った。驚くほど、力のこもった声音だった。
 ニトロは『予備の携帯電話』をズボンのポケットに突っ込むと、ミリーの席であった椅子に座った。テーブルの上に使用し続けている携帯電話を置いて頬杖を突き、グィンネーラを一つ口に運びながら、言う。
「いいよ。嫌ってくれて」
 それは、ミリーに取って思いもよらぬ返しだったらしい。顔を上げ、涙の跡の残る目をニトロに向ける。意外過ぎて……というよりも、ニトロのセリフがまるで現実のものとは信じられない様子で、どうやら怒りよりもその疑念が勝ってしまったらしい。ニトロを訝しむ心持ちがそこにははっきりと溢れていた。
 ニトロは頬杖をついたまま息をつき、何でもないことのように言った。
「将来、ミリーがたくさんの人に嫌われることに比べたら、俺一人が嫌われる方がよっぽどマシだよ」
「……きらわれないもん」
 むっとして、ミリーは反論した。とはいえニトロの言い分が気になるらしく、聞く耳は持っているようだった。
 ニトロはミリーを見つめ、
「嫌われるよ」
「きらわれない」
「人のバッグの中を勝手に見たり、そこから物を取り出したりする人は、嫌われるよ。それに怒られる」
「……そんなこと、ないもん」
「今、俺は怒った」
「ニトロ君だけだもん」
「そう思う? ミリーは、俺がミリーのポーチを勝手に漁って中の物を勝手に使ったら、どうかな」
「……いや」
 ニトロは、笑った。
「だろう? 俺も嫌だった。だからこういうことはお互いにしないようにしようねって、皆は約束してるんだ」
 怒鳴った時とは打って変わって穏やかに話すニトロの語り口に引き込まれたように、ミリーは彼を見つめていた。
「その約束はルールでもいいし、マナーって言ってもいい。だからそれを裏切ったら怒られるし、嫌われもする。ミリーはマナーを破って怒られたことは?」
「…………、ある」
 ニトロにはミリーがそう答えるであろう確信があった。『王子』が様々な場におけるマナーを教わっていないはずがない。それにティディアのことだ、例えば食事中などにきっと自ら――時と場合によっては崩してもいいことを含め――きちんと教育していただろう。
「うん。だったら、俺に怒られたのも解るね?」
 ミリーは再びそっぽを向いた。しばらくそのまま明後日の方向を睨みつけ、やがて、うなだれるようにうなずいた。
「なら、俺を嫌ってくれてもいいけどさ。もうしちゃ駄目だよ」
 ミリーは、繰り返しうなずいた。そして、
「…………ごめんなさい」
「うん、いいよ」
 『姉』とは違ってすぐに素直に謝ってきた『弟』に、ニトロはほころんでうなずいた。するとミリーはニトロのその顔を見て、嬉しそうにはにかんだ。
 純粋で、愛くるしい笑顔だ。
 ニトロはなるほど露出の少ない『彼』が人気を集めているのも納得だと思いながら、
「それにしても良かった。ミリーが悪い子にならなくって」
 ふと思い出した子どもの頃の記憶をネタにして、言った。
「悪い子は、ティディア姫に食べられちゃうからさ」
「本当!?」
 ミリーは目を丸くして、身を乗り出して言った。勢い、もう空だったヴオルタ・オレンジのコップが倒れる。
 ニトロは少し意地悪く目を細めた。
「さあ、どうだろう?」
「……本当?」
「俺の時はウシガエルに食べられちゃうぞ、だったけどね」
「……ウシガエル?」
「そう。これくらいの大きさの」
 と、ニトロは手で大きさを作り、
「でっかいカエルで、鳴き声がウシに似てるんだ。
 けど、俺の父さんは『体がウシで頭がカエル』なモンスターだとずっと勘違いしてた」
「……あ」
 ニトロのセリフに、ミリーが目を丸くした。何かに気づいたらしい。ぶすっと頬を膨らせる。
「……『嘘』だったんだ」
 ミリーの指摘に、ニトロは賢い子だと感心していた。この歳で人の話をしっかりと聞くことができ、その中にある少ない情報、言葉と言葉の間の機微から真を察する力も持っている。教育を間違えさえしなければ、きっと良い王子になってくれることだろう。
「嘘というより、昔から伝わる脅し文句かな。迷信、お呪い、そういうのかも。そうだ、嘘つきは巨鶏デカドリに頭をつつかれて脳味噌出されちゃうぞ、なんてのも母さんに言われたことがあるな」
「……それ、怖い」
「怖いから効き目があるんだろうね。そんな風に言われてた頃は、それでよく言うこと聞かされてたもんだよ。まったく、あの時はホント『子ども』だったなあ」
 自嘲的に情けなくニトロが言うと、ミリーははにかむのではなく、今度は確かに笑った。楽しそうににっこりと、初めて見せる明るい笑顔だった。
「仲直りされたようで、ようございました」
 背後から声がし、ミリーが顔を伏せる。ニトロが振り返ると、すぐそこに機を計っていたらしいドーブがやってきていた。手にはトレイがあり、それにスモールサイズのヴオルタ・オレンジを載せている。こぼした分を持ってきたようだ。
 ドーブの気遣いにニトロはいいよと遠慮をしそうになったが、作ってしまったものを無下にするのも失礼か? と躊躇した隙に獣人の大男にテーブルにコップを置かれてしまった。
 ドーブは無言で遠慮なくどうぞと促している。
「ありがとう」
 ニトロは、小さく会釈して言った。ドーブは恐縮そうに会釈を返し、
「お嬢さんもおかわりしますか?」
「……」
 問われたミリーはうつむき何も言わない。
「……。おかわりする?」
 ドーブに助け舟を目で求められたニトロが問うと、ミリーは小さく首を横に振り、
「ごちそうさま」
 声も小さく、しかしはっきりとそう言った。
 ドーブは満足そうにうなずき、そしてニトロを見た。その瞳には、ある種の期待があった。
「それで、あのぅ……大変恐れ入りますが……ニトロ様」
「……なんでしょう」
 思わず、警戒心を呼び起こされたニトロはいつでも立ち上がれるよう重心を動かしていた。
 ドーブはニトロの変化に気づく様子もなく、一層瞳をキラキラと輝かせ、心なしか鼻の穴を大きくして言った。
「写真を、一枚」
 そこで彼は言葉を一度区切った。興奮か、期待か、不安か――それとも全ての感情を努めて押し殺したその声は、逆にそれがためにとても力強いものだった。
「このようなことをお願い申し上げられる立場ではないと重々承知してはおりますが、どうか、共に写ることをお許し願えませんでしょうか」
 そりゃあもう力強すぎて、大きな口に覗く犬歯が磨きこまれたナイフに思えるほどの迫力があった。
 そちらを見ずともミリーの怯えが伝わってくる。ニトロは若干身も心も引きながら、ドーブの手にある機械を見た。携帯電話などの携帯端末モバイルに付属しているものではなく、それ用に特化したカメラだった。財布にしまうことのできるカードサイズの手軽なスナップカメラでもなく、厚みのある、過去の一眼レフの流れを組む本格派。
「ニトロ様」
 顔をずいっと近づけて、ドーブは言う。
「わわ分かった、いいよ、写真くらいいくらでもどうぞッ」
 のけぞりそうになるのを堪えながら、ニトロは慌てて言った。両手を前に差し出して間合いを確保し、何度もうなずく。
 するとドーブはこの上なく嬉しそうに双眸を――まさにネコのように細くした。
「ありがとうございます!」
 びしりと背筋を正して最敬礼で辞儀をして、頭を上げると即、トレイを空いたテーブルに放り置き、エプロンの大きなポケットから折りたたみ式の三脚を取り出すとそれを組み立て始める。
(用意がいいなぁ)
 まあ、そのカメラはテスト事業の記録を撮るためのものなのだろうが……もしシャッターが切られた瞬間に本体が爆発したり、レンズが水鉄砲と化してびしょ濡れにされたとしても驚きはすまい。
 ニトロは息をついて気を取り直すと、ドーブが『ディアポルト』をバックに写真を取ろうとしていることをカメラの向きから察して立ち上がった。
 携帯電話――本物の、芍薬との接続を続けている携帯電話を操作し、伊達メガネの機能を働かせる。『レーダー』の上に重ねるようにパラメーターが視界に現れ、ニトロはメガネのフレームの色を暗い臙脂色から薄い臙脂色に変化させた。レンズ越しであれば瞳の色が元の黒に見えるようにも操作する。
 ニトロのその様子を見て、ドーブはまた「ありがとうございます」と頭を下げた。
 十数秒の内に、ニトロの外見の印象は本来の『ニトロ・ポルカト』に戻っていた。髪型は変えたままのため多少の違和感はあるが、そこまで完璧に戻す必要はないだろう。
「じゃあ……それをバックに?」
 ニトロが確認のためにケータリングカーを指差すと、ドーブが「はい」と返事と共に駆け、立ち位置を示した。
 了解を返してニトロがドーブの立った場所へ歩き出す、と――
 ガタリと音を立てて席を立ち、ミリーがニトロに駆け寄ってきた。大分スカートにも慣れたらしく、先ほど転んだ時のようなこともなく、ニトロに追いつくや飛びつくようにして彼の手を握る。
「――ミリーも?」
 よもや『ミリー』が写真に写ろうとするとは思っていなかったニトロは目を丸くして訊いた。返ってきたのは無言のうなずきで、それは、間違いなく肯定だった。
「いいかな? 隊長」
「もちろんですとも」
 ニトロが示された立ち位置につくと、ドーブはカメラの後ろに回って操作をし、やがて納得がいったようでニトロの元へと駆け寄ってきた。
 一緒に写真を撮りたくてもやはりミリーはドーブが怖いようで、自然、二人に挟まれる形でニトロが中心に立つことになる。
「では」
 ドーブが手の中のリモコンを操作すると、
「撮影シマース」
 カメラからやけに軽い人工音声が流れた。
「サア笑ッテ笑ッテ? 1+1ハ?」
 カシャリと大きな音が鳴って、シャッターが切られたことを被写体に報せる。
「ヨーシ、モウ一枚、モウ一度懲リズニ笑ッテ? 3・2・1 ハイ!」
「――ありがとうございました、ニトロ様。それと……厚かましいとは存じますが、できれば、サインもお願いしてよろしいでしょうか」
「いいよ」
 もののついでだ。ニトロが人工音声のノリにあてられたかのような軽い返事を返すと、獣人は全力でカメラを取りに戻った。三脚ごと引っ掴み、素早く戻ってくる。
「お願いいたします!」
 まるで国宝を恭しく扱うように、ドーブは三脚から取り外したカメラの背面を上にし、いつの間に取り出したのか短いタッチペンをニトロに差し出した。
「そんなに畏まらないでいいのに」
「いえ! そのようなことは!」
 カメラを差し出したまま興奮冷めやらぬ調子で言われて、ニトロは半笑いを浮かべるしかなかった。
 視界の隅――視野に入るかどうかの場所に伊達メガネのパラメーターが現れ、さすが気の利く芍薬がフレームの色とレンズ越しの瞳の見た目の色を『元』に戻していく。それを目の端にしながらニトロはカメラの背面モニターに映し出された画像を見て、頬に刻んだ硬い半笑いを、柔らかに溶かした。
 ……いい写真だ。
 構図はシンプル、露出は適正、色作りもいい。だが、そんなことよりも、『ニトロ・ポルカト』の隣でびしりと『気をつけ』をしている大男は何やら彫刻のような風体で、光栄と緊張が入り混じる表情は硬くも見る者に微笑ましさを喚起させる。
 一方、『ニトロ・ポルカト』を挟んで反対側の、何のポーズも無く立ち顔も素直に作られている『ニトロ・ポルカト』と手をつないで立つ小さな少女は、やや恥ずかしそうに半身になり、うつむき加減の顔は幽かにだが――しかし確かに、可愛らしくはにかんでいる。
 アンバランスで、アシンメトリーな絵。
 妙に、心がくすぐられる。
<ちゃんともらってね>
 慌てたように、サインを書こうとしているマスターの邪魔をするのも厭わず――というよりも邪魔をしてニトロの手を止めることを目的にしてだろう、芍薬のメッセージがレンズ・モニターに流れる。
「これ、俺ももらっていいかな」
 芍薬に言われるまでもなく、それはニトロも望むところだった。
 背面モニターにタッチペンを付く前に問うと、ドーブは大きくうなずいた。
「それはもう」
「それじゃあ先にコピーしてもらっていいかな。サインがないのが欲しいから」
「ご安心下さい。サインを頂けたらpdimgを作成するつもりでしたので、撮影時にオリジナルも同時作成してございます」
「そっか。それなら先にこのまま書いちゃった方がいいね」
「はい、お願いいたします」
 pdimgとは、来歴証明ペディグリードファイル化したイメージファイルの略であり、拡張子だ。
 そして来歴証明ペディグリードファイルとは、それ専用のデータ管理機関に『このデータファイルの作成時に第三者である私が立ち会いました』という認証を取り付けたファイルのことを言う。
 それを利用したい者はまず、来歴証明ファイル化サービスを行っている機関に認証を取り付けたいデータを、専用プラグインを用いて作成もしくは加工・変更開始時から一度も保存していない『未保存』の状態で送る。すると各機関はデータ容量ごとに定めた利用・登録料の支払いが確認された時点で、来歴証明ファイル化したデータを作成者に送り返してくる。その手順を正しく踏んで作られた対象ファイルにはシリアルナンバーが割り当てられ、認証取得以降、来歴証明ファイルに変更・加工・コピー・保存場所の移動といった作業がされる度に、その内容・回数・日時が管理機関側のデータベースに保存された『登録原本』にも常に通知されることになる。
 つまり、ほぼあらゆる画像を現実のものとして誰でも簡易に作成できる現代の――ある意味で悲しき産物である――少なからぬ金銭をかけて可視化された信頼性を付与されたファイルというわけだ。
 もちろんいくら認証があるとはいえ、既に保存を何度も繰り返してから認証を取ったファイルや作成日時と認証取得日時が離れているファイルよりも、保存回数の少ない・作成日時と取得日時が近いファイルの方が信頼性は上がる……といったようにその信頼性は絶対的なものではない(そのため、もし裁判にて、個人の作成した来歴証明付きの画像や映像を証拠として扱おうという場合にはこの点が一つの争点となる)。
 だが、ドーブの場合はカメラの機能で撮影データを同時進行で二つ作り、一方はオリジナルとして保存、もう一方はpdimg用に『未保存』のまま開いていたのだから、その信頼性は実現可能な中で最も高いもの。『有名人にサインをもらった』という事実を証明するにおいて、これ以上の手段はないだろう。
「で、どこで認証を取るの?」
「来歴証明サービス課に」
 サインを書きながら何気なくかけた問いに思わぬ答えが返ってきて、ニトロは吹いた。もうコンマ一秒サインを書き終えるのが遅かったら、危うく書き損じるところだった。
「来歴証明サービス課って……またベラボーに高い……」
 来歴証明への『信頼性』には対象データへの信憑性と共に少なからず認証を行う機関への信頼度も関係する。来歴証明サービス専門の民間企業、銀行などが副業的に行っているサービス窓口――等々その機関は数あるが、中でも最も信用を集める所は二つだ。
 一つは、アデムメデスでのこのサービスの黎明期から生き残るヘィリッジ・リライアンス株式会社。もう一つは『情報省』の内部部局である『来歴証明サービス課』。あえて一位を決めるとしたら、無論、公的機関の――それもトップの認証を得られる後者が挙げられるだろう。
 そして両者は信用の高さに比例するように利用・登録料が高いことでも有名で、確か写真程度の画像データでも五万リェンを少し超えたはずだ。
「当然の対価です」
「そこまでの価値はないと思うよ」
「そんなことはございません!」
 熱っぽく、ドーブは言った。
「失礼な言い方ではございますが、ニトロ様にはそれだけの――否、それ以上の価値があるのです!」
「いや……」
 ドーブは真剣な眼差しで、ニトロを凝視する。その迫力は彼が獣人の大男であるということを差し引いても相当なものだった。
「……買い被りだよ」
 ニトロは口元を複雑な形に歪めて言った。
 そこにドーブが反論しようとしたのだろう、口を開きかけた時――
「ね、ね」
 ミリーがドーブに声をかけた
 ニトロは驚いた。
 ドーブも驚いて、初めて自分の傍に寄ってきた少女を見下ろし目を丸くした。
 ミリーは二人の注目を浴びたことで身を縮ませながら、それでも搾り出すように――あるいは我慢しきれないように――言った。
「コピー」
 ミリーは、大事そうに両手で持ったカードサイズの携帯端末モバイルをドーブに差し出した。
「――ああ! はいはい、いいですよ。でも、ちょっと待っててくれるかな? すぐに来歴証明ペディグリっちゃうからね」
「……早く」
「はいはいはいはい」
 よもやミリーに声をかけられただけでなく、さらに急かされ、ドーブは焦っているようだった。
(まあ、無理もないか)
 ドーブが慌てて、されど慎重に手続きを済ませているのを見ながら、ニトロは内心で笑っていた。
 そして、
(それにしても――)
 思わぬところでボロが出たものだと、カメラから無線を通してデータをもらっている『ミリー』を見つめる。
 先ほど『予備の携帯電話』が起動していたのは、それを使って『彼』が電源を入れる際に必要な指紋・声紋認証システムをハッキングしたからだろう。その周辺のシステムは『本体』と違って、やはりカモフラージュのために普通の携帯電話と変わらぬ作りだ。音に聞くパトネト王子の能力が事実であればその程度のことは造作もあるまい。
(……『本体』まで見られなかったのは、幸運だったな……)
 かなり危ない橋を知らぬ間に渡らされていたのだと思うと震えが来る。
 とはいえ、いくら予備を持っていたからって誰にも不思議に思われぬ『携帯電話』のような構造的に外部からケーブルなどで接続可能なものをカモフラージュに使うと――ハラキリは決して落とさぬようにと言っていたが――それに加えて、こういう危険もあると知れたことは、そう、幸運だった。
(ハラキリにもっと安全なのを頼んでみるか。多機能って贅沢言わなけりゃ、何かいいのがあるだろ)
 自然とこぼれそうになるため息をニトロは胸に流した。全く、色々と親友には世話をかけっぱなしだ。
「では、ニトロ様」
 ドーブがカメラを差し出して言った。
 ふと気づけば、ミリーは用が済むや再び獣人を避けて自分の後ろに隠れている。ニトロは苦笑しながら携帯電話を操作し、ドーブのカメラから受け取った写真を芍薬に送った。伊達メガネのレンズ・モニターに♪が一つ、舞った。
 半ばスキップを踏んでケータリングカーに戻っていくドーブの背中を見送ったニトロは、
「さて」
 背後の、撮り立ての写真をモバイルの機能で立体映像ホログラムにしてホクホクと眺めている『ミリー』に振り返った。
「ミリー」
 その声に、何かただならぬモノを感じ取ったのだろう――ぴくっと、小さく、ミリーが体を震わせた。
「その手の中にあるものは、何かな?」
 振り返ったミリーは太陽を背にし己の体に影を落とすニトロを見上げ、
「ぴッ」
 奇妙な悲鳴を上げた。
 大分西に傾いた日輪が、ニトロの頭の後ろで放射線状に光を放っている。影となった彼の顔面は微笑を刻み、瞼も目頭も目尻も緩んだ中、そこだけ嫌に硬質な瞳が影の中でなおギラリと輝きを増して、ミリーを、見据えている。
「モバイル、持ってないって言っていたよね」
 異様な迫力のある声だった。立ちすくむミリーはニトロを見上げたまま背中を丸めて瞳を揺らしていた。
「俺を騙してたのかな? 嘘つきは巨鶏デカドリに頭をつつかれて脳味噌出されちゃうぞ?」
「……でもそれ、嘘って」
「んー?」
「……えと、あの……」
「それとも、嘘をつく悪い子になってティディア姫に食べられたいのかなあ?」
「でもでもそれも嘘って」
「本当に、嘘って、言い切れるかな?」
 ミリーに顔を近づけ、ニトロは声を殺して囁いた。
「あいつは、マジでやりかねない。そうは思わないか?」
 反論は、なかった。あるいは『弟』自身が姉ならやりかねないと思ってしまったのかもしれない。もはや『ミリー』は目の端に大きな涙の玉を作っている。それでも『全面降伏』はせず、何か言い訳を探しているように瞳を左右に動かし――
「…………嘘、じゃないもん」
 やおら、ミリーはカードサイズのモバイルを胸に抱いて、妙案を思いついたのか顔をわずかに輝かせて言った。
「あったの。これ、お家においてきてたと思ってたけど……ここに入ってたの」
 ポーチを見せるミリーは目に懸命に力を込めて、それが『真実』だと訴えている。そこには、もうこれ以上は嘘を追求されたくない、しないで欲しいという要求も垣間見えた。
 ――確かに、その嘘をこのまま本格的に追及すれば、『ミリー』はこちらの怒気に耐えかねて『事実』を吐露するだろう……ニトロはそう思ったが、ため息を一つつくとぽんとミリーの頭に手を置いた。
「そっか。入ってたのか」
「……うん!」
 ミリーはニトロの手を頭に乗せたまま何度もうなずく。
「じゃあ、連絡しようか。お母さんに」
 一瞬、ミリーは渋った。
 だが、ニトロの『そういうことにしておくよ』という妥協の気配を敏感に気取ったのだろう。最後には降参を示すかのように、弱々しくうなずいた。

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