2−4−4 へ

 ティディアと夕食の約束をした時刻の直前、一階にあるレストランにやってきたニトロは、そこにあると思っていた姿のないことに首を傾げた。
 自分との『約束』に関しては遅刻などしたことがなく、時間前行動が当たり前のティディアがこちらより遅いのは珍しい。
 その代わりといったように、レストランの入口には何故かロセリアがいた。ウェイターが二人とウェイトレスが一人、彼女の背後に控えている。
「ティディアは先に?」
 もしやと思ってニトロが問いかけると、ロセリアは否を返した。むしろその顔には『恋人』と連れ立ってこなかった少年に対する疑念こそが浮かんでいる。
「芍薬」
 ニトロはロセリアの視線を避けるように、自分から一歩半下がった距離を崩さずにいるアンドロイドへ振り返った。
「部屋ニハイナイヨ。チョウド降リテキテルンジャナイカナ」
 芍薬の返答は正しかった。
 それからすぐに、エレベーターホールの陰からティディアが現れた。
 彼女はタクシードライバーの姿を捨て去り、セミフォーマルとしても通用しそうな黒いワンピースを着ていた。
 優雅な足取りに裾が小さく翻り、また華やかに翻る度、膝の動きに併せ生地の際から腿が透けて色気を魅せている。
 本来の色に戻った双眸――黒曜石を思わせる幽かに紫を帯びた黒瞳は艶めく黒紫の髪と互いに引き立て合い、化粧はわずかに唇に紅が差されたくらいで、しかしそれだけでも『ティディア姫』の美貌はロセリア達のため息を誘った。
 ニトロは自分のカジュアルな格好とでは不釣合いだなと思ったが、まあ、構うまい。
「ごめんね、待った?」
「いや、今来たところ」
 やけに軽く声をかけてきたティディアに反射的に応え、ニトロははっとした。
 ――しまった。
 これではまるでベッタベタな恋人同士の会話ではないか。こうくると服装の対比がディナーに気楽に臨んだ彼氏と気合を入れてきた彼女という構図にも見える。いや、見えるどころではない。そこに今のやり取りが重なればまさにそれだ。うっわ何だかえらい気恥ずかしい。
 ティディアは機嫌の良い微笑を浮かべている。こちらの動揺に気づいている。ニトロはティディアに『いじられる』ことを覚悟したが、
「さ、行きましょう」
 しかし彼女は、ニトロの目の前で軽く足を止めてそう言い、そのままレストランへと向かった。
(――あれ?)
 またも普段の彼女からは考えられない不可解な行動を取られ、内心の覚悟の行き場も露と消え、とかくもやもやとした気持ちをニトロは感じてならなかったが……すぐに、彼は心調を整えた。ふと目が合った芍薬に小さく口の端を持ち上げて見せ、脇をすり抜けたティディアを追って振り返る。
 すると振り返った先にあったのは、表情を激変させたロセリアの姿だった。王女と恋人の今のやり取りを見た彼女は――あるいは古い古い童話の姫君の恋のワンシーンを現実に目にしたかのように、瞳を輝かせていた。
 ここに来てからのことを思ってみても、どうやらホテル・ウォゼットのオーナーはティディアのことが大好きなようだ。その目の輝きには心酔の気配すら滲んでいる。
(まさかティディア・マニアじゃないだろうな)
 それもドが付くほど熱狂的で、王女に『協力』することに骨身を惜しまぬ……などと新たな懸念を抱きながら、ニトロはレストランに入るティディアの後に続いた。
 と、その時、もしこのレストランこそがティディアの用意した虎穴であったら――と、発作的にニトロの心臓のすぐ傍で不安が首をもたげた。
 瞬間的に、ニトロの鼓動が大きく跳ねた。
 が、しかし、それで彼の歩が緩むことはなかった。
 あらゆる筋に力がこもることもない。後ろに続く頼もしいA.I.の存在が、それに甘えていいという確信が、不気味なほど存在感を持つ王女の背を前にしてなお、彼の心身に強固な余裕をもたらしている。
 そしてその余裕は――幸か不幸か――少年に年不相応の風格すら与え、ティディア姫の連れとして相応の人物であるという説得力をも生んでいた。
「いらっしゃいませ」
 ティディアがレストランの『敷地内』に足を踏み入れた時、もはやそれが正常に見えるほど緊張して表情も体も固いウェイターとウェイトレス達が頭を下げた。
 ロセリアは幾分慣れてきたのか――逆にそちらの方が異常に思えてくる柔らかな笑顔でティディアを迎え、
「御席へ御案内させていただきます」
(ん?)
 客の先導に立ち、オーナーが言ったセリフにニトロはふと疑問を覚えた。
 いや、別に特段おかしなことを彼女は言ったわけではない。だが、ウェイターとウェイトレスという専門家がいるのに……
「……」
 ニトロが立ち位置から微動だにしない彼らに目を向けると、ちょうど視線の先にいたウェイターが畏まった会釈をしてきた。つられて他の者も頭を下げる。
 何となく釈然としないものを感じつつニトロは会釈を返し、
「ニトロ」
 疑問に気を取られていた間に何歩も先に進んでいたティディアに呼ばれ、早足で彼女に歩み寄った。
 ティディアが振り返ったのに合わせて立ち止まっていたロセリアが、王女がまた歩き出したのに合わせて奥へと向かう。
 ティディアに追いついたニトロは彼女に促され、彼女の前を歩きながら改めてホテル・ウォゼットのレストランを見回した。
 良く磨かれたセピア色の――これは合成建材だろう――床板が天井に等間隔に並ぶ白熱電球様の明かりを穏やかに照らし返し、それは赤煉瓦と漆喰モルタルに飾られた壁と調和して、暗すぎず、明るすぎず、ここにはほっと心休まる空間が作り出されていた。
 ホテルに他に客がいないこともあって貸し切り状態ではあるが、店内のテーブル全てに真っ白なクロスがかかっていて、清潔感溢れるその白布は心地良ささえ呼び起こし、ここで飲食をすることへの安心感を高めてもくれている。
 ワインレッドの絨毯と派手なシャンデリアに飾られたロビーとはまた違う雰囲気だ。どちらかといえばこぢんまりとしたホテルの外観に通じるものがあり、事実、ここは新オーナーが様々なものを刷新する中で、外観と露天風呂と並んで改革を指示しなかった部分だった。
 クレイグの――つまりセドからの伝聞では、それらはロセリア自身が元々気に入っていた場所であったそうだ。
 そしてここは、クレイグが――クレイグ自身が自信を持って勧めてくれた料理を出す場所でもある。
 シゼモの情報が集まるネットコミュニティで目にした元ホテル・ウォゼット常連客達の交流記録にも『たまにここの料理と露天風呂を目当てに行きたくなる』という複雑な心境が残っていて、そこで知った限り、シェフが作るセグトス地方の郷土料理や調理法を取り入れた品々は、目が飛び出るほど美味しいというわけではないが、ふと無性に食べたくなる味であるらしい。
 ニトロはそれを味わうことを、何より今日一番の楽しみにしていた。
 その期待には、三日前に両親と食事をした際、父が「そういう料理に星をつけるガイドはなかなかないから、探すのは大変なんだよ」と言っていたことも影響している。感想を聞きたいと言われたから、一緒に食事をする相手が相手だとはいえ、しっかり味わい楽しもうと。
「こちらへどうぞ」
 案内されたのは壁を背にした席から一つ手前の窓際のテーブルだった。窓ガラスの向こうには花壇の所々で蛍火スズランが淡い緑光を灯し、その儚い光の連なりに幻想的に照らし上げられた庭がある。この季節を彩る花壇や植え込みなどの角度を考えると、ここが一番良い席であるようだ。
 ニトロは足を止め、ティディアを席に促した。
 家族でレストランに行った時、父が必ず母に対してそうしていたこと――席までは男性が先に立ち、座るときは先に女性を。何度も何度も見た光景は癖となり、それはニトロを自然と動かしていた。
 その様子を見ていたロセリアは、少年の堂に入ったマナー通りの行動が意外であったのか妙に感心したように目を細め、それから視線を王女に戻すと恭しく椅子を引いた。
「ありがとう」
 腰を下ろしながらティディアに笑顔で言われ、ロセリアは頬を紅潮させて辞儀をした。そして足早に――
(――あれ?)
 ニトロは、テーブルから離れていくロセリアを目で追いながら、小さく首を傾げた。
 てっきり次は自分の席を引いてくれると思っていたのだが……慣れぬ給仕業に仕事を間違えたのだろうか。
「主様」
 代わって椅子を引きニトロを促したのは芍薬だった。
 その顔には少し不機嫌が表れている。マスターをないがしろにされたとでも思っているのだろう。ニトロは気にしてないよと笑みを浮かべ、座った。
「そうそう、ニトロは聞いた? 温泉のこと」
 テーブルに両肘を突き、手を組んだ上に顎を乗せるようにして、上目遣いにティディアが言った。その顔の下で光を照り返す美しく並べられた銀のフォークやナイフが、ニトロには異様にぎらぎらと輝いて見えた。
「聞いたよ」
 ぶっきらぼうにそれだけ答えて、ふとニトロは気になった。そういえばオーナーはこのことを言い忘れていて、自分は前もって情報を集めていた芍薬に聞いて初めてそれを知った。だが、ティディアがそれを知る機会はまだ無かったはず、なのに――
「何で、お前はそのことを知ってるんだ?」
「ん? 何のこと?」
「『混浴』のことだよ」
 よもやお前が手を回したんじゃないだろうな? そう問いかけるニトロの眼差しにティディアは微笑し、
「私も、部屋で聞いて初めて知ったわ。良い気遣いよねー」
「部屋で?」
「ええ、オーナーから連絡が入ってね。ニトロは違うの?」
「いや――」
 と、ニトロが否定を返そうとしたところで、カツカツと大きくヒールの音を立ててロセリアが戻ってきた。彼女の手には板晶画面ボードスクリーンが二つある。どうやらそれを取りにいっていたらしい。
「本日のメニューでございます」
 ロセリアは一枚をティディアに、もう一枚をニトロに手渡した。
 ニトロは板晶画面ボードスクリーンにはメニューの表紙が表示されていると思っていたが、そこには前菜・スープ……とコース料理の品名が並んでいた。ロセリアが持ってくる間に誤操作してしまったのかな、とページを繰るアイコンを探しても、どこにもない。料理の品もデータもこれのみで固定されていた。
(あれ?)
 ニトロは、もう三度目の疑問に大きく首をひねりたい気分だった。
 頼んでもいないし、それどころか話を聞いてもいないのに、出てくる料理が既に決められてしまっている。
 おそらくは、これはホテル・ウォゼットからの『好意』なのだろう。魚料理の名に入っているハパントフラットとは、南の大陸で獲れる有名な高級ヒラメだ。肉料理に使われている牛も同様に名立たるブランド。
 どれもこれもWebサイトで見たこのレストランのメニューには載っていない料理だ。きっと今夜限り……それとも今夜を機にメニューに登場する『特別な料理』であるのだろう。
 しかしいくら高級品を使った豪華な料理を並べられても、ここには、近くのブロバ湖で養殖されている特産のセグトスソール――淡水舌平目の名も、クレイグが言っていたアカオドリとキノコと山菜のスープの名も、ニトロが食べたいと思っていたものの名は一つもない。
 メニューを凝視していたニトロがふと視線を感じて顔を上げると、食中酒はどうするかとロセリアに聞かれていたティディアが、こちらを見つめていた。
 もしや……ティディアがメニューを指定していたのだろうか。
 眉をひそめたニトロを見て、ティディアは愉快そうに苦笑し、
「好きなものを食べさせてはくれないのかしら」
 穏やかに、ふとした疑問を口にするように――同時にニトロの気持ちを代弁するように、彼女はロセリアに言った。
「――っは」
 奇妙な息を吐いてロセリアは硬直した。王女の突然のクレームを受け、血が一滴もなくなったかのように顔が白くなる。
 ティディアは目を一度板晶画面ボードスクリーンに落とし、それから目を泳がせることもできずにいる女主人に穏やかな口調で言った。
「とても素敵な内容で感激したわ。だけど、できれば好きに選ばせて欲しいの。ほら、ニトロが料理好きだって知ってるでしょう?」
 そのことをニトロ自身がメディアで発信した覚えはないが、ティディアが『彼の手料理』が大好物だと触れ回っているお陰で、世間には何故だか一流シェフ並に上手いと誤解されている。
 そしてそれはティディア姫に関する情報を完全に遮断でもしていない限り自然に入ってくる情報だ。当然、ロセリアも知っているだろう。
「だからここの料理も下調べしてあって、食べたいねって話し合ってたものがあるの。他にも二人で相談したいし、ね?」
 ティディアは……また、本当に珍しく、言葉を選んで言っていた。普段なら『勝手に決めないでくれる』とでも単刀を突き刺すだろうに、今は違う。丁寧に相手の好意を尊重する意志を示しながら希望を告げている。
「お願いできるかしら」
 クレイジー・プリンセス、ティディアに願われて拒否できるものはこの国にそうはいない。
 ロセリアはすっかり恐縮した様子で大きくうなずき、引きつった声で「かしこまりました」と頭を垂れるとすぐにポケットから端末を取り出した。彼女がそれを操作するとボードスクリーンの固定されていた画面メニューが、流麗な書体の『表紙』と入れ替わった。
「では……」
 そこまで言って、ロセリアは言葉に詰まった。何事かを悩んでいるかのように目を泳がせ、やおら得心がいった様子を見せると一歩下がった位置でテーブルを睨み直立不動の姿勢を取り
「お決まりになりましたら、承ります」
「や、何かもう色々と違くね?」
 オーナーの行動に四度目の疑問を覚えたニトロは、つい(今度こそ)ツッコンでいた。
「――は?」
 ロセリアが、まさに不意打ちをくらった顔でニトロを凝視する。彼女の刺すような視線を受けてニトロははっと我に返り、
「あ」
 うめいた。
 悪い癖を出してしまったことを悔いるが、もう遅い。ロセリアはニトロの『クレーム』を受けて再び顔を蒼白としている。そこには王女に言われた時とは違い、わずかに怒りもあった。プライドに障ったか、それとも王女の前で失態を重ねて演じさせられそうになっての焦燥からか、ロセリアのその強い視線を受け止めながらニトロは内心でもうめいていた。
(あー、しまった)
 どうやってこの場を取り繕うか思案するが、うまくフォローが出てこない。
 そんなところに居付かれたら気になって仕方がない……とはストレート過ぎるか。
 給仕として慣れてないなら無理にやらない方が……ではフォローになっていない。
 オーナーがそんな前面に出てこなくても……だと単に生意気だと取られるだろう。
 ニトロが場つなぎの無意味な声を出そうとしたちょうどその時、
「そうね、私も気になってた」
 ふいに口を挟んできたティディアのニトロへの同意がとにかく驚いたらしく、ロセリアは瞠目し、頬を張り飛ばされたかのように王女を見た。
「あなたの部下は、あなたが仕事を任せられないほど未熟なのかしら」
 そう言うティディアの視線は相変わらずレストランの入口にいる給仕達に向けられていて、それに気づいたロセリアは青褪めていた顔を紅潮させた。
「そうでないなら任せなさい。ここは彼らの仕事場でしょう? もし王女わたしのためにオーナー自ら、なんて考えているなら、そんなこと考えなくていいわ。彼らのサービスが満足させてくれるものだったなら、それは同時にあなたの仕事への満足にも通じるのだから」
 ティディアの口調は変わらず常に穏やかで、今においては生徒を諭す教師のそれにも似ていた。
 ロセリアはやがて恥じ入るようにうつむき、そして王女の言葉が身に染みたように、言った。
「お恥ずかしいところをお見せ致しました」
「いいわ。料理を楽しみにしているって、あなたからシェフに伝えておいてね」
「――かしこまりました」
 最後にティディアに頼まれたロセリアは、オーナーの面目を立てる王女の配慮にいたく心を打たれたらしい。目を潤ませ耳まで赤らめて深々と辞儀をすると、給仕達の元へと歩いていった。
「……お前」
 ロセリアがこちらの声が聞こえないくらいに離れたのを見計らい、ニトロは困惑を隠さずティディアに問うた。
「本当に、今日はどうしたんだ?」
「何が?」
「何がって、いつもと……違うじゃないか。特にここに来てからはずっと変だ」
「そう?」
 ティディアはニトロの疑惑を軽く受け流し、メニューに目を落とした。
「……ティディア? 」
 問いかけて、ニトロはボードスクリーンを持つ彼女の手を見てはたと気づいた。その左手の薬指には、あの『けっこんゆびわ』がある。
(まさか――)
 それのお陰で心底機嫌が良いだけ……ということは、いくらなんでもないと思うが……
「ほら、早く選びましょう」
 自分の左手を見つめるニトロへ言うティディアの目はかすかに悪戯めいていて、成熟した美貌にどこか幼さの漂う魔性を浮かべた彼女には、心のひだをさんざめかせる得も言われぬ魅惑があった。
 ニトロは思わず気を飲まれそうになったが、踏み止まり、メニューに目を落とした。
「ところでニトロ」
 そこに声をかけられ――彼女の意図を掴めぬは、忙しく目を上下させられるは――ニトロは苛立った声を返した。
「何だよ」
「お酒、何飲む?」
「未成年者への監督責任って知ってっか、王女様っ」

 ――食事は美味しかった。
 『考えても疲れるだけだ』と解っていても、どうしても胸に湧き上がるティディアへの当惑のために一皿目の途中までは味もよく分からなかったが……その惑いを食前酒の代わりに出てきた炭酸水と共に飲み干してからは、存分に味わうことができた。
 ホテル・ウォゼットの料理は評判通り、確かに――以前、ハラキリに騙されティディアと食事をした『ラッカ・ロッカ』の料理のように目をむくほど美味しい……というわけではなかったが、それとはまた別の魅力に満ちた品々だった。
 野趣溢れるアカオドリとキノコの出汁が一体となり、ほのかに甘くほのかに苦い山菜がそれを引き立てるスープ。セグトスソールのムニエル――千年を越える養殖の歴史に育まれた淡水舌平目のきめ細やかな身は、きめ細やかであるが故にねっとりとした食感で、白身魚特有の旨味を十二分に楽しめる焼き加減も絶妙に、さらに色合いも美しくかけられたブロバオオテナガエビのソースがまた美味しかった。
 大昔は温泉の蒸気で作られていたという蒸し菓子の甘さは優しく、食後に得られた満足感はレストランの雰囲気ともあいまって穏やかに染み入るような感覚で、ニトロはいつかまた来て食べてみたいな……と、世辞ではなくそう思ったものだった。
 そして、部屋に戻ってきた彼は、料理のことを父にどう話して聞かせようかと記憶の中で味を反芻しながら――同時に、終始楽しげに食事をしていたティディアのことを思い返していた。
「……」
 食事中、ティディアはずっと当たり障りのない会話を振ってきた。
 最近、学校はどう? お母様はプレゼントした花を可愛がってくれてるみたいで嬉しいわ。メルトンちゃんは相変わらずごねてるのかしら。ハラキリ君のレトロ趣味に付き合ってるんでしょ? アナログレコードなんて物に凝り出すなんて、ハラキリ君らしいわよね。もしかしてニトロも影響されちゃったりしてる? 今度、私も一緒に聴きたいな。――あ、芍薬ちゃん、これいいでしょー。ニトロと『おそろい』なのよ? そうそう、ニトロ、今度お弁当を一つ多く作ってくれないかしら。パティが食べてみたいって言っていてね――
 中には、先週受けた模試の結果を本人が知るより先に見ておきながら全く悪びれず「成績上がったわねー」なんて言いやがりもしたが、看過できなかったのは……ツッコまずにはいられなかったのはそれくらいなものだった。
 ――ティディアは。
 食前酒から食後酒の最後の一滴、挨拶に来たシェフにお礼を言い、部屋に戻ってきてドアを閉める別れ際のその一瞬まで、彼女はにこやかに不可思議な態度を貫き通していた。
 何かを考えてはいるはずなのに、その尻尾の先すらも見せることなく「じゃあ、また後でね」とだけ言って。
 まるで『恋人ごっこ』を楽しんでいるだけのよう……とも思えるが、しかしティディアに演じている様子はなく、さらに本人が『チャンス』と口にしていたからには、楽しんでいるだけ――とはありえまい。
「……」
 なのに、何度思い返しても、解らない。奴の考えが。いや、むしろ思い返す度、余計に解らなくなっていく。
 加えて、思い返す度……この国の未来の主に対する現在の問題と並んで思い出されてしまうのは、このホテルの現在の主に対する未来に向けた問題。
 レストラン・ギルドランドの個室で見た友達の顔がちらついて、切なさにも似た奇妙な感情がちくちくと胸に刺さる。
「……芍薬」
「何ダイ?」
 食事前と同じようにベッドに寝転び薄暗い天井を見つめながらつぶやいたニトロに、傍に控えるアンドロイドが応える。
 ニトロは一度大きく深呼吸をし、そして言った。
「露天風呂、楽しむことにするよ」
「イイノカイ?」
 芍薬の確認はニトロの意図を把握してのものだった。ニトロはうなずき、
「うん……別に、裸を見せ合うことが目的ってわけじゃないんだし……このままあいつの企みがはっきりしないままってのは気持ちが悪いからさ、こうなったら『裸の付き合い』ってやつで聞き出してみるよ」
「簡単ニ口ヲ割ルトハ思エナイヨ」
 ニトロは同意を返す代わりに苦笑した。直接かけた問いを軽くかわされたことが、メニューを見るティディアの手前に並んでいた銀のナイフとフォークの輝きを伴い真新しい記憶の中から蘇る。
「ソレニ……モシカシタラ、主様ガコウ出ルコトヲ見越シタノカモシレナイ」
「ああ、そうか。そうとも考えられるか」
 ハラキリがいない以上、ティディアが自分と混浴を楽しみたいと考えたならば、あえて普段とは違う態度を取り続け――混浴してもいいと思わせるくらい『油断させる』か、それともとにかく疑いを募らせることでこちらから企てを暴くための『囮を仕掛けてこさせる』よう誘導するか――と、目論んだとしても不思議はない。
「……でも、あいつも混浴になっていることはここに着くまで知らなかったみたいだから……行動全てがそのため、じゃあないんじゃないかな」
「バカ姫ノ言葉ヲ信ジルナラネ」
「そう言われると、自信は皆無だけど……」
「言葉ガ本当ダッタトシタラ『混浴ノタメ』ッテイウ線ハ消エルケド、ソレナラアノ態度ハ別目的ノタメッテコトダロ? ソリャ主様ガ本当ノ目的ヲ聞キ出セレバイイケド……デキナカッタラ……アノバカニ成リ行キツイデニオイシイ思イヲサセチャウダケダヨ」
 ニトロは苦笑を深めた。
 芍薬の言い分は筋が通っている。その可能性も大いに高い。否定する材料もないし、否定するつもりもない。
 だが、
「もしそうだったら――」
 ニトロは苦笑に自嘲じみた色を加えた。
「芍薬の言う通りティディアに『おいしい思い』をさせるだけになっちゃうけど、その結果は俺の判断ミスのせいだ。……そうなったら、その時は、ごめん」
「……御免ダナンテ……」
 アンドロイドの顔には明らかな渋面が刻まれている。ニトロはそれに呵責を感じながら――そして、これから口にすることが芍薬への慰めになるかどうかと疑いながら体を起こし、化粧台の先、壁の向こうの相手を見るようにして言った。
「まあ、それにさ、露天に入るのは……あいつの企みを聞き出すとかそういうことだけで決めたわけじゃなくて……。やっぱりここのことを考えたら、もう一つくらい『売り』を作っておかなきゃと思ってね」
「ソコマデ、ココノコトヲ考エテヤル義理ハナイト思ウヨ」
「うん。だけど……ほら、ここが潰れたら、クレイグも残念がるだろうから」
「……主様。クレイグ殿ニハ悪イケド、あたしハココニ明ルイ未来ガアルトハ思エナイ。アルノハ、ジリ貧、衰弱死スル未来ダケダヨ」
「そりゃ手厳しい」
 芍薬の物言いは実に率直で、堪らずニトロは唇を歪めた。笑えることではないが、自分もそう感じているところがあるから、変におかしな気持ちになる。
「けどそれならなおさら、もう一つくらい、さ」
「……」
 芍薬が口をつぐんだことにニトロは奇妙な違和感を覚え、立ち姿を崩すことなく傍にいるアンドロイドへと振り向いた。
「どうかした?」
「……アノオーナーノ目ニ、主様ハ映ッテナイ」
「ああ」
 あまり気にしていなかったが、実際口に出されては意識せざるを得ない。
 確かに、ロセリア・ウォゼットはティディアに目を配るばかりだった。例えば太陽の出ている青空では月が霞み、満月の夜空では星が霞むように、王女という眩い存在――またおそらくは憧れの的に目を奪われて、彼女の視野ではここを予約した名義人であるニトロ・ポルカトの姿は霞んでしまっているのだろう。
「それが不満?」
「不満ナンカジャナイヨ。怒ッテルンダ」
 さらりと言ってのけられ、ニトロは目を丸くした。
「気ヅイテルカイ? 主様。オーナーハ、出迎エノ時デサエ主様ノ名前ヲ一度モ口ニシナカッタンダヨ?」
「ああ……そういえば、そうだったかな」
「レストランデダッテ……。風呂ノ件ダッテソウサ。イクラあたしニ報セテアルカラッテ、本当ナラ自分デ直接主様ニ伝エルコトガ筋ッテモンダロ? バカ姫ノ言葉ガ本当ナラ、アッチニハ自分デ連絡シテオキナガラ、主様ニハ一言モナカッタッテコトニモナルンダヨ? 主様ハソレデイイノカイ?」
「いや……えっと……気にしてなかったから」
「ウン、ソウダト思ッテタ」
 芍薬は力強くうなずいた。今まで隠れていた怒気に強まっていた口調のままで大きく肯定され、ニトロは面食らってしまった。
 目を丸くしたまま自分を見つめるマスターに向けられたアンドロイドの顔には微笑にも似た脱力感があり、唇は結ばれるか突き出されるかの微妙な形を作っている。己を動かすA.I.の感情を表現しきれないと、システムがさじを投げているようでもあった。
「主様ガソウイウコトヲ気ニシナイッテイウコトハ、解ッテルンダ」
 呆れ――というよりも、マスターの性格を清々しく認めている声。
 ニトロは、レストランでロセリアの代わりに椅子を引いてくれた芍薬がちらりと見せた不機嫌な様子を思い出していた。
(……)
 どうやら、今日は芍薬にいらぬ忍耐を重ねて強いていたらしい。
 『芍薬への慰めになるかどうか』――などと、とんでもない勘違いをしていたものだ。
 今ここに至っては、芍薬が、ホテル・ウォゼットの手助けになることをしたくないと思っていてもおかしくはないだろう。あるいは、ティディアと湯を共にすることを黙認することよりも、ロセリアの助けになることの方が我慢ならないのかもしれない。
(……うーん……)
 これではロセリアの態度に文句を言えた身ではない。
 自分も、ティディアの不可解さと、親しい友人の頼みに目を奪われて、サポートしてくれている芍薬への配慮を欠いていた。
「……まあ、元々このホテルのため、っていうよりさ。クレイグの頼みのため、ってことだから……ここがどうだろうと、そういうことで、どうかな」
 たどたどしいニトロのセリフ――それも改めるまでもない前提を彼が改めて口にしてきたのは『気遣い』のためであることを、芍薬は理解していた。
 と、同時に、芍薬は下手に不満を漏らしてマスターにいらぬ気遣いをさせてしまったと後悔していた。
 ――かといって、それにフォローをかけようとすれば、お互い不格好に気遣い合ってしまうだろう。
 そもそも過程においていくら自分が不満を持っていたとしても、結果的にニトロの役に立てるのであれば最後には不満を上回る満足が得られるというのに……現時点でマスターに心理的な負担を少しでも与えてしまったことが腹立たしい。
 芍薬は己の未熟が図らずも露呈していたことを内省しつつ、しかしそれを口にしてもまたニトロに心を遣われてしまうし、折角の彼の気遣いを拒否することなど元より毛頭考えられないことであるから、
「承諾」
 その一言だけを、ニトロに返した。
 ニトロはアンドロイドが浮かべた笑顔にいくらか安堵しつつ、同時に芍薬に気遣わせてしまったことにも気づきつつ――その上で、今日は芍薬に「甘える」と言ったのだから、とことんそうしてしまおうと腹を決めた。
 芍薬が何と思おうとここからは心配らずこちらの決めた通りに動く。
 うだうだと不格好に心を遣うより、その方が芍薬も喜んでくれるはずだ。
「それじゃあ、行こう」
 ニトロは立ち上がった。
 芍薬がさっと動き、バスバッグ――バスタオル類・部屋着と併せてこの部屋に備えてあったバッグに持ってきていた下着を詰めてある――を提げ、ニトロの先に立った。
「とりあえず、芍薬は他に誰も来ないよう番をしていてね」
「承諾。風呂内ノ警備ニハ警戒機ヲイクツカ回シテオクネ」
「それは……ホテルのセキュリティには引っかからない?」
「『警護ノタメ』ッテ言ッテ、先ニ登録サセテオイタ」
 さすが芍薬、手回しがいい。
 ニトロはそれでよろしくと返し、ふと、気になった。
「警戒機の武器って……」
 ドアノブに手をかけていたアンドロイドが立ち止まり、
「色々アルケド、状況的ニ使エルノハ麻痺銃パラライザー鎮圧用光線スタンレーザー、ソレト電撃鋼線銃テイザーガンカナ」
「……最後のはやめてね」
 ティディアに打ち込まれたワイヤーに電撃が走ったら、彼女と湯水につながれた自分はどうなるか――
 肩越しに振り返った芍薬は、浮かべた笑みに少し悪戯心を忍ばせていた。
「モチロンサ。
 デモ間違エチャッタラ、御免ネ」
 なかなかキツイ芍薬流の冗談に、ニトロは肩をすくめて戯れを返した。
「いいよ。芍薬にやられるんだったらいっそ本望だ」

 ニトロが芍薬と廊下に出てエレベーターホールに向かおうとティディアの部屋のドアにさしかかった時、まるで狙いすましたかのような――いや、実際に狙いすましていたのだろうタイミングでドアを開き、ホテル・ウォゼットのバスバッグを片手にティディアが現れた。
「あら、奇遇ね――なんて言うなよ」
 わざとらしく目を丸くしたティディアにニトロが言うと、彼女はふふんと鼻を鳴らしてニトロの横に並んだ。
「芍薬、持ってやって」
「承諾」
 芍薬に手を差し出されたティディアは目を丸くしていた。今度は演技ではない。驚いているような、興味を引かれているような……そのどちらもか。しかし彼女はすぐに納得した様子で微笑むと、アンドロイドの冷たい手にバッグを渡した。
「ありがと」
 ティディアの礼に、芍薬は軽くうなずいた。そのまま二人の背後に控え、粛々と後についていく。
 ニトロの隣に並んで歩きながらティディアが言った。
「食事、美味しかったわね」
「そうだな」
「朝食も期待できそうね」
「そうだな」
「ハラキリ君もあっちで美味しいもの食べているかしら」
「食べてるんじゃないかな」
「……ニトロ」
「なんだよ」
「そんな生返事ばかりだと、女の子に嫌われちゃうわよ」
「おお、そりゃ大歓迎だ。是非嫌ってくれ」
「それでハラキリ君が言ってたんだけどね」
「おお、無視ときたかコラ」
地球ちたま日本にちほんってここと似ている温泉文化を持っているそうよ。それを聞いた時、ちょっと親近感沸いちゃった」
(う)
 ニトロは、喉の奥でうめいた。
 ティディアの感想は自分も抱いたものと同じだ。
 だが……まあ、とはいえ親近感を抱くのは何も特殊な感覚というわけではないだろう。うん、そうに決まっている。
「ハラキリ、お前にも言ってたんだ」
 努めて動揺を出さぬようにニトロが言うと、ティディアの目が輝いた。
「あ、ニトロも聞いたんだ。オヌセンマ・ジューとかいうお菓子があるそうだけど、ニトロはどういうものだと思った?」
 どうやら彼女はニトロから返ってきたものが生返事ではなかったことで、応答のある話題を見つけられたと喜んでいるらしい。口も滑らかに、ニトロの思考を覗き込もうとするかのような興味津々の眼を彼に向けている。
「オヌセンマ・ジュー?」
 しかし、ニトロはティディアの眼を意識するよりも、新しく出てきた単語に首を傾げていた。
「あら、聞いてないの?」
「ああ。俺が聞いたのは――」
 エレベーターホールに着くと、従業員の女性が一人待ち構えていた。エレベーターが一基、ドアを開けていて、彼女がそこにどうぞと促してくる。
 ニトロとティディアが先に入り、芍薬が最後に乗り込んだ。
「いってらっしゃいませ」
 女性が頭を下げると、それが合図となっていたのだろう、エレベーターを管理するシステムが自動的にドアを閉め、静かに降下が始まった。
「俺が聞いたのは、オヌセン……ダッキューだったかな、そういうスポーツ施設と、ロカンとかいう宿泊施設。それとノタイモリっていう料理だよ」
 親友が言っていたことを思い出しつつ口にしていたニトロは、そこでふいに得体の知れない悪寒を感じた。
(――なんだ?)
 突如としてぞぞっと体幹の芯に走った寒気、それは己に備わる危険探知機が最大限の出力で作動したようでもあった。あるいはまるで、薄氷でできた橋をそうとは知らずに渡ろうとしているのを、それ以上進んではならないと神経を凍らせることで足を止めようとしたかのように……
「オヌセンダッキュー?」
 ティディアが一番関心を引いたらしい単語を口にする。
(……)
 それには寒気を感じない。ということは、ロカンか、ノタイモリか?
「オヌセンマ・ジューとちょっと似てるわね」
 悪い予感は得てしてよく当たるものだ。幸いティディアの興味は彼女の既知と通じるものに向けられているから……得体の知れない悪寒がロカンとノタイモリのどちらに起因するものかは判らないが、とにかくそれらには触れないでおこうとニトロは心に決めた。
 エレベーターが一階に到着し、ドアが開く。
「響きは似てるな」
 二人を露天風呂へと案内するために芍薬が先に外に出る。それに続きながら、ニトロはティディアの疑問に乗った。
「本当にハラキリはお菓子って言ってたのか?」
 ニトロが振り返って問うと、ティディアはうなずいた。
「そうよ。丸いらしいわ」
「……」
「……」
「え? 情報それだけ?」
「ええ。だからどういうものかしらって思ってたんだけど……」
「何だか変わった所みたいだからなぁ」
「でも何だか理解できる範囲にはありそうじゃない?」
「……ん、まあな」
「分かるだけ調べて作らせてみようかしら。それで美味しかったらお茶会でも開いて……どう?」
 エレベーターホールからしばらく行ったところで一階にある共同浴場を横に抜けると、正面玄関のちょうど真裏に位置する扉に差し掛かった。そこには男性の従業員が直立不動の姿勢で待っていて、賓客の登場に気づくやきびきびと扉を開いた。
 扉を抜けた先には露天風呂へ続く道が、庭と庭先の林の奥へと割り入ってあった。アーチ型の屋根を支える支柱全てに白々と輝く光球がかかり、林を背景にした庭の中、暗い林の内にあって一線と敷き詰められた石畳には影の一つもない。
 道に出たニトロは屋根を見上げ、庭の花壇に灯る蛍火スズランの淡光へと目を移し、一つ吐息を挟んで会話を繋いだ。
「どう? って聞かれてもな。俺は行かないよ」
「それじゃ意味ないわよ。ニトロがいなきゃ面白おかしくないじゃない」
「何で茶会で『面白おかしく』って言葉が出てくるんだよ」
「あなたがいなければどんな華やかなパーティーも色褪せる……それなのに面白いと思う?」
「絶対そういう風に考えて出てきた言葉じゃねぇだろ。『おかしく』もどこ行った。つーか嘘つきが開く茶会になんぞ誰に誘われたって行くか」
「じゃあ、ニトロをいじれないパーティーなんて面白おかしくないから嫌」
「正直にそう言われて行く馬鹿がどこにいるかい」
「えーっ、そんな理不尽な」
「お前が理不尽言うな」
 ニトロは思わずティディアの頭をはたきそうになったが、彼女が絶妙のタイミングで頭を差し出してきているのを瞬時に察し、今にも振り出しそうになっていた手を止めた。
 ――と、
「ニトロ、ここはドツク場面じゃない?」
 さも我が意にそぐわずといった顔で、ティディアが文句を垂れた。
 ニトロはため息をつき、彼女をはたきそうになっていた手をひらひらと振った。
「ここは『タメ』でもいいんじゃないかな」
「……ふむ」
 ニトロは適当に言ったセリフがティディアに思いの他真剣に受け止められて少し驚いた。彼女は一考の余地ありと思ったのか、顎に指を当ててうつむいている。
「それもありか……」
 ややあって、ティディアはぽつりとつぶやいた。それは妙に深い洞察を経て結論を得た様子で、ニトロは片頬に笑みを刻むしかなかった。
 やがて道の先、手入れの行き届いた林に入ってから少し歩いたところに小屋が見えた。
 入口は二つあり、さすがに野暮だと思ったのだろう、そこには従業員も誰もいない。
 小屋の前で足を止めると、静寂の向こうから湯の流れる音がかすかに聞こえてきた。
 ニトロは小屋の男性用脱衣所につながるドアを見て、思わずため息をつきそうになるのを辛うじて堪えた。
「ねぇ、ニトロ」
 芍薬からバスバッグを受け取って、ティディアが言った。
「背中、流しに行っていい?」
「来るな」
「スポンジはもちろんワ・タ・シなのに?」
「この世からスポンジが一つ残らず消えても来るな、いや、そん時ゃ一緒に消えてしまえ」
「やー、そんなに意固地にならないで一緒に綺麗になりましょうよぅ」
「来たら芍薬を呼ぶからな」
「ソシタラ全力デ体当タリダ」
「それは……いくらなんでも死んじゃわないかしら」
「即死確定ノ武器トドッチガイインダイ?」
「できれば優しく体当たりしてほしいな」
「拒否」
 即答され、ティディアは肩を揺らした。
「ま、別にいいわ。お湯は一緒にしても殺されないんでしょ?」
 ティディアに問われた芍薬は、応えなかった。
 しかしティディアにはそれで十分だった。彼女はニトロを見ると、
「……それにしても、変よね」
「何がだ」
 一瞬、ニトロはこちらの思惑を見透かされたかと身構えたが、ティディアの疑問は別のところにあった。
「ニトロ、全然ドキドキしてないでしょ」
「は?」
 顔を突きつけるようにして言われても、ニトロは眉間に皺を寄せることしかできなかった。
「普通女と二人でお風呂に入るなんていったら、どうしたって男は興奮しちゃうもんじゃない? 他に客もいないんだから人目を気にすることもない、私の裸も見放題! それなのにニトロにそんなに平然とされちゃうと面白くないわ。いいえ、むしろ失礼だと思うの」
「ああ」
 ニトロは熱っぽく主張するティディアとは対照的に、至極冷淡にうなずいた。
「お前の裸はなんて言うのかな、もはや戦闘服?」
「何よそれ」
「だからそのまんまだよ。俺にしてきたこと思い返してみろ」
 ニトロは芍薬からバスバッグを受け取り、脱衣所へと歩を進めた。
「ん、言い得て妙かも」
 と、背後から、ティディアが手を打つ音が聞こえてくる。
 ニトロはため息をつき、脱衣所に入った。
「……」
 ドアを後ろ手に閉めるニトロの背を見送り、ティディアはふと唇を結ぶと、小屋の前で守護神のごとく構え立つ芍薬に目をやった。
「あんなこと言ってるけど、実際目にしたら興奮しちゃうわよね」
「知ルカ阿呆」
 程よくマスターの影響を受けたA.I.の回答にティディアはまた唇を結び、そして、
「それとも、もしかしたら私、ニトロにいけない性教育しちゃってる?」
「モシカシタラ?」
 アンドロイドの双眸がぎらりと光った。
 ティディアは、本気を出されたらそれこそ身を守る間もなく即死させられてしまう芍薬の『殺気』を浴びながらも愉快そうに笑い、
「冗談よ。でもちょっとショックだったわ。わりと体に自信あったのに、ニトロに期待の一つもしてもらえてないなんて……」
「自業自得ダヨ。有効活用デキナケリャ、ドンナ優レタ道具モ『デクノボウ』ニナルモンサ」
「……それもそうね」
 ティディアは笑顔のままにそっと芍薬の頬を手で触れた。
 それはあまりに予測不可能かつ理解不能な行動で、芍薬は彼女の動作に思わず反応できず――
「!」
 頬の触覚センサーから与えられた情報に、人工眼球を通して見るティディアの微笑み手を伸ばした姿に、芍薬はぎょっとして身を引いた。
「何ノツモリダイ!?」
 警戒心をむき出しに、腰をわずかに落としてアンドロイドが瞳の内部に光を灯す。しかしそれでもティディアは微笑を浮かべたまま言った。
「ありがとう。芍薬ちゃんに『優れた道具』って言ってもらえるなら、やっぱり自信持っていて良さそうね。ニトロもいつか見直してくれるわ」
「――ソンナツモリデ言ッタンジャナイヨ」
「それにね」
 ティディアは芍薬の否定を受け止めず、マイペースに続けた。
「芍薬ちゃんも我慢しているんでしょ?」
「?」
 即座にアンドロイドの表情に疑念が――芍薬の表情が映し出されたのを見て、ティディアは微笑みを消した。微笑みが消えた後には、何故か、同情があった。
「さ、ニットロっとおッ風呂」
 しかしそれを見せたのも刹那のことで、彼女はすぐににんまりと笑うと、機嫌良く歌を口ずさみながらバスバッグを抱えて女性用脱衣所へと飛び込んでいった。
 ドアが閉まると、防音の効いた小屋からは、芍薬の駆るアンドロイドの『聴覚』にすら物音の一つも届かない。
 芍薬はこちらに移動させていた三機の警戒機――男・女湯の洗い場、仕切りの外された湯船を監視するそれぞれから送られてくるデータに変わりがないかを確認した。
 洗い場に面した女性用脱衣所の曇りガラスのドアは、まだ閉じている。
「…………」
 ティディアの手が触れた頬に、芍薬はそっと手を当てた。
 どれほど演算を繰り返しても一向に解が見えないティディアへの疑惑と、去り際に見せた彼女の不可解極まる言動……不可解極まるその表情から与えられた当惑が、脳裏メモリの中で電光を閃かせ続けている。
 ――何かが見えそうだった。
 同時に、何かを見落としている、芍薬はそう思えてならなかった。
 演算を繰り返しても一向に解が――これだと納得のできる可能性が得られないのは、ティディアが『予測ニ必要ナ数値ヲ平気デ無視シテクル』から。……果たしてそれだけだろうか。
(違ウ)
 今回に限って言えば、ティディアへの問題を読み解くにはその認識は全く役に立たない気がする。
 芍薬はこれまでの思考の蓄積を全て破棄し、もう一度初めから、今度はついさっきのティディアの言動、表情、それに頬から伝わってきた彼女の手の温もりすらも『数値』に加え、
(アノバカハ、予測ニ必要ナ数値ヲ無視シテイナイ
 マスターに迷惑をかけるクレイジー・プリンセス、そこにある自分の印象・人物評をすら除外し、極々素直に推測を試みた。
 今日一日のティディアの様子。仕事中の顔、休憩中スタッフがいる前での顔、スタッフがいない時の顔。特にホテル・ウォゼットに着いてからの疑惑の数々。脱衣所に入る直前、アタシに見せた彼女の不可解極まる言動……不可解極まるその表情から与えられた当惑。メモリの中で電光が閃き、また閃き――
 そして、ふいに、電光が一極に集中し、芍薬の思考回路に眩い曙光が差し込んだ。
(――マサカ……)
 しかし芍薬は、ようやく表れたこれだと納得のできる可能性をそのまま受け入れることができずにいた。
 いや、それは十分にあり得ることだ。何も不可思議なことではない。
 だが、ひどくおかしなことだが、『納得できる』と思っているのに……自信がなかった。
 されど、もしこの予測が正しいのであれば主に危険は無いだろう。
 女性用の脱衣所からティディアが洗い場に現れたと、警戒機からデータが送られてきた。
 男湯の洗い場では、すでにマスターが体を洗っている。
 警戒機に搭載された各センサーに異常はない。
「……」
 芍薬は鼻歌混じりに髪を洗い出した強敵を、疑心――これまでのものから随分変質してしまった疑いと戸惑いが混ざり込んだ眼差しで、それでも、油断なく看視し続けた。

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