2−4−1 へ

 王都ジスカルラのあるアデムメデス中央大陸の北東部に位置するカァロ領。その丸く膨らんだ平行四辺形様の領地を縦断するセグトス山脈の麓には、豊富な湯量と数ある効能の中でも特に美肌効果に優れた泉質を誇り、大昔より現在に至るまで客足の絶えたことなきアデムメデス有数の温泉地帯がある。
 そこで最も栄えている温泉街の名を、シゼモという。
 人がまだ移動の足として馬しか持たぬ時代には西――内陸側からセグトス山脈を越える玄関口としてあり、また山々から零れ落ちる水を集めたリゴウ川のほとりという景観、昔は町外れであった一角には王家の別邸が座し、何より上質な湯と宿同士の厳しい競争から生まれた高いサービスをもってセグトス温泉地帯の中心であり続けている街。
 その歴史の長さの分、この街は様々な出来事や事件の舞台となってきたであろうが、しかしまさか現役の第一王位継承者様が『恋人』と連れ立って漫才をしにくる……なんてこと以上の珍事はきっとなかっただろう。
 というか、これと同等の珍事を起こした王族があったとするならば、間違いなくそいつはドがつく阿呆に他ならない。
(何しろあいつと同じ思考回路を持ってるってことだもんなぁ)
 ドーム型の強化プラスチックの天井から降るオレンジがかった陽光の下、中庭一面を埋める緑の絨毯のように手入れの行き届いた芝生の上、この国の王女が服の汚れることも厭わず子どもらと『勇者と悪いお姫様ごっこ』に興じているのを眺めながら、ニトロは内心ため息をついた。
「どうした勇者共、貴様らの力、その程度か!」
「くっそー!」
「うしろうしろ、おまえうしろまわれ!」
 以前、彼女は自分のことを『わりと子どもに好かれるタイプ』だと言っていたが、それは実際確かなことだった。
 彼女と戯れる三人の男の子らは終始楽しげな顔で汗を拭くのも忘れて芝生の上を暴れ回り、彼女は彼女で時に『勇者達』を圧倒し、時に適度に攻め込まれながら彼らに飽きを与えることなく興奮を煽り続け、
「ぱんち!」
「ぎゃあ!」
 最年少の子どもに背後から太腿を殴られた悪いお姫様は、迫真の演技で苦しんでみせるとがくりと膝をついた。そこに最年長の子どもが、まだ操りきれていない手足をばたつかせて駆け寄っていく。
「くらえきぃっく〜っ」
「ふははは甘いわ!」
「なにぃ? うけとめただとッ?」
「こんなキックでこのティディアをヤれると思うたか! 返り討ちジャイアント・スウィングじゃあ!」
「っきゃー!」
 勇者の蹴り足を掴み止めた悪いお姫様はそのまま立ち上がるやロングスカートを翻し、男の子の体を勢いよくぶん回し始めた。
「っきぃやーー!」
 その声は……歓声か。
 目が回らない程度でジャイアント・スウィングをやめたティディアが男の子を芝の上に立たせてやると、羨ましかったらしい別の子が即座に自分もと王女にせがみ、ロディアーナ朝第129代王位継承権保有者は再びスカート翻して回り出す。
 そして回転が止まると、さらに別の子が自分も自分もとパワフルな姫君に要求した。
 少し頬を引きつらせたバカ姫は、しかし気合を入れ直すとよせばいいのにまたも回り出す。
「タフな奴……」
 そうつぶやいたニトロの心は呆気に囚われていた。
 王都を離れて行う出張漫才は、真面目に『仕事』をしているティディアに直接触れる機会でもある。
 午前中は王女の慈善事業の一環で三つの老人福祉施設を笑かして回り、その移動の車中でティディアは電映話ビデ-フォンを用いて二つの会議に『出席』。午後に入っては漫才コンビとしてカァロテレビ局や地元紙など計九社と分刻みのインタビューを受け、並行してティディアは為政者としてもインタビューを受け。その後ティディアは公民館で講演を行い、その楽屋ではやはり分刻みにシゼモ市議やカァロ領議、貴族などの表敬訪問を受け続け、さらに休む間もなく同館にて漫才ライブを行った。
 毎度毎度、ついていくのがやっとのきついスケジュールだ。だが、それでも『出張漫才の本題はあくまで漫才』のため、それに集中できるよう可能な限り緩くさせているのだと彼女は軽く言うから驚く。
 その上、こっちはここに来るまでに疲れきってしまったというのに――
「ひめさま、もういっかい!」
「よーし、姫様頑張っちゃうわよ!」
 自分よりも忙しく動き回っていたはずのティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは本日最後の仕事として視察に来た王立児童養護施設シゼモ支部で子ども達と派手に元気にじゃれあっているのだから、もはやあいつの体力は底無しかと呆れる他、一体何ができるというのだろうか。
「ニトロ様は参加されないのですか?」
 一人終わってはまた一人、一巡したらまたもう一度と回させられ続けているティディアをただ傍観し続けているニトロの肩を、背後から涼やかな声が叩いた。
「参加されれば、子ども達も喜ぶと思いますが」
「俺は『援軍』なんだって」
 振り返り、声の主にニトロは言った。
 彼女は四・五歳くらいの赤毛の女の子と手をつないでいた。その子は有名人と手をつなげているのが嬉しいのかにこにことして、麗人と『姫様の恋人』を交互に休むことなく見比べている。
「勇者がラスボスの『悪いお姫様』に負けそうになったら助けに駆けつける『正義の魔人』だそうだよ、設定上」
 でも、この分だと幼い勇者達に呼ばれることはなさそうだけどね、とニトロが付け足すと――なぜか、ヴィタは大口を開けた。
「あ」
「あ?」
 彼女の珍妙な反応に首を傾げ、次いで背後にどたばたと迫ってくる足音を聞き、ニトロは何が起ころうとしているのかを敏感に察した。
 慌ててそちらへ振り向く――と、
「ありゃれへれはれ」
 ジャイアント・スウィングのやりすぎに決まっている。完っ全に目を回したティディアがふらふら奇妙な声を漏らしてニトロの胸に突撃してきた。
「うおわ!」
 ニトロは反射的にティディアを抱き止め、さらに脊髄反射で彼女を背後にうっちゃっろうとし――その刹那、これをこのまま後ろに投げ捨てればヴィタはともかく女の子に怪我をさせてしまう可能性が万が一にでも存在することに気づき、そのまま胸の中のティディアとダンスを踊るようにくるりと一回転、その勢いを利用して彼女がやってきた方向へと投げ戻した。
「あれ〜ぇ」
 力ない悲鳴を上げてティディアが芝生の上に転がる。
 そこへ彼女を追ってきていた三人の『勇者』が歓声を上げて飛び込んでいく。
 ――どうやら、先程のジャイアント・スウィングをきっかけに遊びの内容が『プロレスごっこ』に変じてきているらしい。
「ぅほっぐ!」
 なかなか見事なエルボードロップをくらって、ティディアがわりとマジなうめき声を噴き出した。
 中庭の周囲に控えていた施設の職員と、王女とじゃれあうにはもうそぐわぬ年齢の『兄姉』の中から数人が慌ててこちらへ駆けてくる。その顔には恐怖と焦燥と怒りがあった。これ以上ない賓客に『幼い家族』が狼藉を働いたのだ。いかに最初にティディアが「無礼講だから」と告げていたとしても、そう対応してしまうのは無理からぬことだろう。
 しかし職員と兄姉達は、先んじて動いたヴィタに前を塞がれて立ち止まった。声が小さくて女執事の言葉をニトロは聞き取れなかったが、皆の表情が戸惑いに、ついでしぶしぶながら納得と安堵に変わったのを見ると内容は推し量れる。
「ニトロ助けてー」
 三人の勇者に押し潰されている『悪いお姫様』からの救援要請は聞こえなかったことにして、ニトロは、ヴィタが職員達を相手にし始めたため彼女の手を離れて所在なげにうろうろしている赤毛の子に歩み寄った。
「何かして遊ぶ?」
 聞くと、女の子は首を横に振った。そしてニトロをしばらく見つめた後、何か思いついたらしい、ぱっと顔を輝かせた。
「まってて!」
 彼女はそう言うと、中庭の外縁でこちらを見つめている『兄姉』の中で一番年長らしい少女へと駆けていった。ニトロと同年代ほどのその少女は駆け寄ってきた『妹』に急かされるまま傍らに置いてあった鞄に手を入れ、小さな箱を二つ取り出した。その二つを小さな手に大事そうに抱えて、女の子がとてとてと駆け戻ってくる。
「ニトロくん!」
 息を弾ませて、女の子は言った。
「おててだして!」
 言われるままニトロが右手を差し出すと女の子は首を振った。左手だと目で示されて差し出し直すと、彼女は箱の一つを足下に置き、手に残した一つの蓋を開け、その中から――おそらくはこれを預かっていた『姉』と作ったのだろうビーズの指輪を取り出した。それを、ニトロの薬指に通し、
「けっこんゆびわ!」
 大きく開かれた女の子の目の中で、グレーの瞳が銀色を帯びてキラキラと輝いていた。
 ニトロは笑み、少しサイズの大きな指輪が落ちないよう気をつけながら女の子の前にしゃがみこんだ。目線を合わせて彼女の頭を撫で、
「ありがとう」
 ニトロの礼に女の子の顔はさらに輝き、彼女は足下に置いていたもう一つの箱を興奮した様子で拾い上げた。
 そして、それをニトロに差し出す。
「はい!」
「ん、もう一つあるの?」
「ううん」
 女の子はぶるぶると勢いよく首を横に振り、まるで……気の利かない恋人にそうする女性のように、怒った調子でニトロへ箱を突きつけた。
けっこんゆびわ、ひめさまにも!」
 つまり、それは――
(げ!)
 女の子の意図を理解した瞬間、ニトロは体幹に走ったマイナス百度の悪寒に心臓を震わせ、恐る恐る、ティディアへと顔を向けた。
「、つー、すりー! かんかんかん!」
 レフェリー役の男の子が歓声を上げていた。
 レスラー役の二人にのし掛かられ、完全に動きを止めて地に横たわった『悪いお姫様』は、スリーカウントを取られて敗北を喫していた。
 レスラー役の片方が立ち上がってレフェリー役と一緒に歓声を上げる。もう一人の――最年少の子はまだ遊び足りないのかティディアの腹の上に馬乗りになったままで、そして腹に彼を乗っけたままのティディアは……まるで獲物を見つけた鷹のような双眸を、こちらに、びたりと据えていた。
(――しっかり聞いてやがったっ)
 ニトロが心中で毒づいた瞬間、ティディアがむくりと上半身を起こした。離れようとしない男の子を抱きかかえて立ち上がり、輝く笑顔のお手本とばかりの表情でこちらに歩み寄ってくる。
 ニトロは、逃げられなかった。
 ティディアの笑顔を失望で染めることが嫌で。何てことではさらさらない。
 ただ、傍らで期待に満ちた真っ直ぐな瞳を向けてくる幼い女の子に失望を与えることができなくて、足を地に打ちつけられてしまっていた。
 それを理解しているのだろうティディアは余裕綽々と、子一人を抱きながらもそれを苦にすることなく優美な足取りでニトロへと迫っていた。目尻を垂れ、口角を弓なりに引き上げ上機嫌かつ自信に溢れた姿で――ニトロの前に、立った。
「あ、こら。おっぱい揉んじゃ駄目よ、これはニトロのなんだから」
「子どもに何馬鹿なこと言ってんだっ! それに、ソレはお前のだ、俺のじゃない」
 悪戯心を起こしたか胸に触れてきた幼子にティディアが言うのを、立ち上がりながらニトロは正した。
「あくまで、お前のだ」
 目線を合わせて念を押すニトロにティディアはふふと笑い、男の子を降ろした。だが、その子はよほど姫君のことを気に入ったらしくどうにも離れようとしない。ティディアはそれならと男の子に右手を差し出した。すると男の子は満足げな顔で彼女と手をつなぎ、それにアデムメデスの王女は目を細め、それから彼女は愛しい少年に顔を向けた。
 空いた左手を、すっと、優雅に彼に差し出す。
「くれるんでしょ?」
 ニトロは、目の端に『その瞬間』を待つ赤毛の女の子の顔をかすめ見た。
 ……解ってはいたが、一つも表情を変えずにこちらを凝視するその姿に内心ため息をつき、また、ふと中庭が妙な緊張感で満たされていることに気がついてもう一度胸中に息をこぼす。
 周囲の目のほとんどが『その瞬間』を待ち固唾を飲んでいた。
 ティディアの背後、取り残された二人の男の子はまだ彼女と遊びたそうにしているが、それでも幼いながらに何かが起ころうとしていることを察しているらしい。つまらなそうな顔をしながらもその場で佇んでいる。
 遊戯に混じらず広場の周りにいた年上の児童達はもちろん誰に言われずとも『それ』を壊すような行動を取ろうとはしない。職員共々、皆で貴重な光景を見守ろうと口を結んでいる。
 王女の執事は当たり前のように特等席に移動してカメラを構えていやがるし。
「ね、ニトロ?」
 ティディアの囁きにも似た呼び声は、ニトロにとって逃げ場も逃げ道もないことを確認させる促しだった。やがて彼は観念し、女の子から箱を受け取った。
「ほれ」
 明らかに不機嫌な――きっと周囲には照れていると思われているだろう――仏頂面で指輪の入った箱を渡そうとするが、しかし、ティディアは差し出した左手の平を下に向けたまま動かさない。
 ニトロは一瞬鋭くティディアを睨みつけたが、彼女は微笑んだまま何を言おうとも何をしようともせず、じっと待っている。それは、ニトロがそうしてくれると確信している姿だった。
「…… 」
 ニトロはこぼれ出てきた嘆息を口の中で潰した。
 解っている。視界の隅で輝き続ける瞳を裏切ることは、できない。
 箱を開けるとクッションの上に置かれた指輪が姿を現し、自分がもらったものより一回り小さなそれは、オレンジ色の太陽光を受けて宝石の代わりに飾られたパールビーズを美しく煌めかせた。
 指輪を取り出したニトロは箱を……嫌味にしか思えない気の利かせようで近寄ってきたヴィタに渡し、嫌々ながら――同時に空箱を受け取るや特等席に戻ってカメラを構え直す執事の素早さを忌々しく思いながら――ティディアの手を取った。
 微妙に『ここにはめろ』とアピールしてくる薬指は当然無視し、隣の中指に指輪を通そうとして、
(……う)
 ニトロは、今一度赤毛の女の子の視線を強烈に感じた。
 『その瞬間』を前に、女の子の瞳の輝きが尋常でなくなっている。その顔は興奮で赤らみ、拳は固く硬く握り締められている。
 それに、何だか……決め時はちゃんと決めろと、強制されているような気がする。そうしなければいけないと、ひどく叱責されているような気もする。
(……あー……ちくしょー)
 ニトロは眉間に皺を寄せ歯を噛み締め頬を強張らせ、それとは対照的に柔らかな表情でかすかに睫毛を伏せ、自分に掴まれた手の指先を見つめているティディアの、その、左手の、く、薬指に 乱暴に、輪を通した。
 歓声が上がった。
 ニトロのすぐ傍らで、そして周囲で。ため息のような歓声が。
 その意味がよく解っていないらしいティディアと手をつなぐ男の子が、自分の手を握る女性が指輪を幸せそうに見つめているのを、きょとんと呆けた顔で眺めている。
 その子がいつか今日のことを振り返った時、王女と手をつないだまま目撃したこの光景をどう思い返すのかな……などと、もううなだれるのも億劫な諦観の極地でニトロが思っていると、
「ありがとう」
 ティディアが指輪を見つめたまま、感動そのものを口にするように言った。
 ニトロは随分素直に喜びを示したティディアを半ば驚愕の眼で見つめ、それから赤毛の女の子が何も応えずにいる自分に非難の目を向けていることに気づき、頭を掻いた。
「……どういたしまして」
 ニトロが返したぶっきらぼうな応えに、ティディアと、王女の薬指へ輝く『けっこんゆびわ』をもたらした女の子はふと顔を見合わせ、そして笑った。

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