1−10 へ

「!?」
 ハラキリは即座に身構えた。
 捕縛した敵は……ずっと『結界』に囚われたまま、今も悲劇の女性のごとき姿を晒している。今も、これまでも、
「すっごく痛かった」
 視野に捕らえ続けていたティディアの動きは止まっている。
 膝を地に付き手で耳を塞ぎ、激痛に背を弓なりに反らし天を貫く悲鳴を上げる一個の彫像としてそこに居る。
 それなのに、彼女の声が聞こえる。
 もしや……いや、まさか。
 ティディアを捕らえたと思ったのは、『幻覚』だったのだろうか。
(撫子)
 覆面の脳内信号シグナル転送装置を通して撫子に問う。
(現実。システム正常。目標ニ動キ無シ)
 端的に情報が返ってくる。
 システム正常、目標に動き無し、それなのに、またもティディアの声が辺りに響く。
「私を痛くしていいのは、ニトロだけなのに」
「!」
 ティディアの体に、ひびが入った。『結界』の中で苦悶に喘ぐ王女の体を真っ二つに分けるひびが。まるで彼女が本当に彫像であるかのように、ピシリと音を立てて。
「撫子!」
(システム正常!)
 撫子が驚愕の声を返してくる。ハラキリはとにかく大きくその場から間合いを取った。
 ティディアのひびが深さを増している。
 ひびはやがて溝となり、溝は次第に幅を広げ、そして――
 ティディアの中から、ティディアが現れた
「っどーーーーん!」
 薄い羽衣のような……どことなくウェディングドレスにも似た服を着た王女が、苦悶のサナギを煩わしそうに吹っ飛ばして出現した!
「はいっ」
 『結界』の中で平然と動き、髪の色は相変わらずだが表情を取り戻した顔に愉快気な笑みを乗せて、
「ボンッ」
 ぱちんと指を鳴らすと同時、その場にいたアンドロイド全てが爆発した。『結界』を制御していたアンドロイドも内部から破壊され、彼女の周囲で動きを止めていた塵芥が一斉に地に落ちる。
「さらに〜ぃ」
 ぐるりと周囲を見回して、ハラキリが何をしようとするより早くティディアは畳み掛けた。
「危ないのぜーんぶボンッ!」
 ぱんとティディアが手を打つ。近場で、遠くで、爆音が鳴った。
全滅!)
 撫子の悲鳴が絶望的な戦況を伝えてくる。
 しかし、その報告から与えられる衝撃などすでに取るに足らぬ事であった
 ハラキリは……眼も険しくティディアを睨みすえ、肌を粟立たせていた。
 彼のエメラルドグリーンに輝く瞳、そこに映るティディアの姿――
 彼女の体は、もう溢れ出す『力』を纏ってはいない。
 太陽と黒紫のせめぎ合い、葛藤にも思えたそれももはやない。
 ただ、その力全てが、凝縮し、圧縮し、ティディアの血肉に融合していた。
 数万匹の大蛇が蠢く洞穴を覗き込んでいるような――あるいは本能的な恐怖が、ハラキリの脳幹を震えさせていた。
「ハラキリ君」
 足に槍を刺したまま、ティディアが歩み寄ってくる。見れば彼女は素足だった。純白のドレスから艶めく太腿を抜き出し、静かに、荒れたアスファルトの上を苦痛も見せず足音も立てずに進んでくる。一歩進むごとに槍が錆び、朽ち、やがて風化して消える。
 槍が消えた後、その足には傷跡の一筋すらもなかった。肌を透く静脈の青が儚い美しさを見せ、そして、踏み込む足に込められた『力』の厚さをハラキリに伝える。
 ハラキリはこのまま接近されるのはまずいと、今一度間合いを広げようとした。無駄な動きを一切なくしたアンドロイドに予備動作すら悟らせない体捌きで後退しようとした。
「!?」
 だが、その瞬間、ティディアに背後から抱き止められていた。
「お・し・お・き」
 首元で囁かれ、ハラキリは反射的にティディアの足を踏みつけた。そして彼女を場に縫い止めたまま腹に肘をめり込ませようとして……空振る。
「んもう、女の子のぽんぽん狙うなんて悪い子」
 ティディアは、ハラキリの目前にいた。ウィンクをしてハラキリの頬をつつく。
「お姉ちん、ぷんぷんしちゃうぞっ」
 やけに脳天気な口調で彼女は言う。普段、ハイテンションの時ともまた違う調子で。
「人の恋路も邪魔してくれちゃうし。
 あ、そうだ! だったらハラキリンは――」
 ハラキリの視界の右隅に、何か巨大なものが現れた。
「――!」
 ハラキリはそれが何か悟るや、身を翻し――
「馬に蹴られちまえ!」
 馬の後ろ脚が、ハラキリめがけて跳ね上がった。前触れも無く現れた白馬。その蹄がハラキリの肝臓めがけて、跳ね上がっていた!
「ぐぁ!!」
 辛うじてハラキリは胴と蹄の間に右腕を差し込んでいた。だが、そのガードは何の意味もなかった。馬というには強過ぎるパワー。一馬力など遥かに超えたエネルギーが彼の肘を砕き、さらに下方から斜めに突き上げ抉りこむような蹴り足が素晴らしい角度でアバラを折り、肝臓レバーを潰しにかかってくる。
 ハラキリは威力を軽減しようと蹴りの『力の向き』に沿って飛び退すさった。彼の跳躍力とその蹴りの力が合わさり黒衣の体躯が宙を舞う。
(――まさか!)
 変貌したティディアの様子、ハラキリの脳裡に『最悪の可能性』がよぎった。『天使』の回復力で骨を治しながら着地し、ティディアと馬がいるはずの方向へ目を向ける。
 しかし、そこには何もいなかった。
「こっちこっち」「こっちこっち」
 声は右と左、両方から聞こえた。
 ハラキリは迷わず何もない前方に走った、走って、眼前に透明な質量エネルギーがあることに気づいた。
「――な!?」
 透明な壁。
 その存在に気づいたハラキリは踏み出していた足に渾身の力を込め、地を進行方向とは逆に踏み蹴った。前方へ推進する慣性を強引に潰し、重心を巧みに操作して停止の助力とする。
「ちぇー、失敗かあ。つまんなーい」
 どうにか止まり切ったところにティディアの不満が浴びせられる。背後から。ハラキリは振り返り、彼女の姿を視認するや――横に跳んだ。
 一瞬後、彼がいた場所をティディアのすぼめた口から吹き出された火炎が包み込んでいた。恐ろしい熱量エネルギーが魔女の吐息とともに吹きつけられ、その場のアスファルトがふやけていく。
 ハラキリは炎の熱が優れた耐火能力をも誇る戦闘服を超えて伝わってくるのに寒気を覚えた。炎の向きが変えられることを警戒し間合いを広げようとするが、しかし、息が切れたか炎が気管に入ったのか、黒煙を吐いて咳き込み出したティディアを見るやその隙を突こうとつま先に体重をかける。
 一気に駆け寄り、意識を断つ。
 太腿、ふくらはぎ、足のばね、膝の力を抜き体が前に倒れる力も推進力に加え脚力という脚力を爆発させる。
 そして彼は、苦悶に喘いだ
「ほら、お腹を殴られたら痛いっしょ?」
「……っぁ!」
 駆け出しの一歩を踏み込んだハラキリの鳩尾に、その時、ティディアの拳がめり込んでいた。
 彼とティディアは5mは離れていた。なのに半秒の半ばにも満たない直後、ティディアの右がハラキリをくの字に折っていた。『戦闘服』の衝撃吸収力も、まるで無意味だった。
「さっきのといいさ、お友達のくせに酷いことしゅりゅん、あ、噛んぢった」
 ティディアのおどけた声を聞きながら、ハラキリは歯を食いしばり彼女に組み付いていた。そのまま足をかけ押し倒し、マウントポジションを奪う。
「あらあら、駄目よん」
「?」
 唖然と、ハラキリは口を開けた。
 ティディアを倒したのは、自分だった。即座に彼女に馬乗りになり、その意識を断ち切るため顔面を打ち抜こうと拳を固めてもいた。
 それなのに――
「私の上に乗っていいのはニトロだけ」
 言って、きゃっと照れ笑いを浮かべて頬に手を当てるティディアが……自分に馬乗りになっている。位置が、入れ替わっている!
「それ以外の男は痴漢よこの変態め♪ 知ってる? あ、知らないから変態なのね、じゃあ教えてあげる」
 と、ティディアの表情が一変した。拳を振り上げ眉目を釣り上げ、口から蛇の舌の様な火をちろちろ吐き、叫ぶ。
「痴漢は大罪なり!」
 振り上げられたティディアの拳が、見る間に膨らんでいった。文字通り風船のように、その質感は、岩のように。
「貴女が言うな!」
 ハラキリは絶叫した。足と頭でブリッジし、今にも顔面へ巨大な拳を落としてこようとするティディアのバランスを崩し、俊敏にマウントポジションを返す技術を駆使して彼女から逃れる。
「ゃあん」
 ハラキリに跳ね除けられたティディアが変にいやらしく悲鳴を上げて地に転げる。ハラキリは立ち上がりながら、渾身の蹴りを彼女の頭部へと放った。
 しかし、それはまたも虚しく空を切った。
「ち!」
 ハラキリは舌を打った。
 忽然と姿を消したティディアが『力』を使っているのは明らかだ。なのに、この眼にはその動きの兆候すら見えない。まさか『力』すらこちらに見せぬようにできるようになったと言うのか、それともこの眼でも追いつかぬほどの速度で『力』を行使しているのか。
「痴漢、否。
 私は、愛」
 頭上からティディアの声が降ってくる。
 ハラキリは頭を振り上げ……絶句した。
 すぐそこに、ティディアが浮かんでいた。その手が額に触れようと伸ばされている。戦慄にハラキリの体が震えた。その手に触れられるのは危険だと直感し、それと同時に危機を悟った体が彼女の『攻撃』を避けようと動く。
「だからいいの」
 しかし、動いた先にティディアも動いてきた。逃げられない。彼女の掌がハラキリの額に触れる。何か……異常な『力』が、その頭蓋に浸透する。
「――っ!」
 ハラキリは――悲鳴を上げた。
「 ぎゃ      あぁああ!!」
 先の『捕縛システム』を上回る衝撃に悲鳴を上げた。
 息ができない。
 全ての空気を搾り出されてなお止まらぬ悲鳴が喉を破ろうとする。
 激痛が!
 この世とは思えぬ激痛――ティディアの『力』が体内で爆発し、収縮し、炸裂し、直接剥き出しの神経を焼けたドリルで「                     !!」かき回されている方がまだマシだと思える痛みが――――!!
(   !)
 撫子の声が脳裡に響いた。
 何を言っているのか、ハラキリには聞こえない。
(   !!)
 撫子の声が脳裡に響く。
 ハラキリの脳は、それを理解することはできなかった。
(   !うふふ、殺さないったら。心配性ね、撫子ちゃん)
 撫子の声が響き、それを断ち切ってティディアの声が脳裡に響いた。
 不思議と、彼女が何を言っているのかは解った。
(……殺さない?)
 死を間近に感じる痛みの中、ハラキリはふと痛みが消えていることに気づいた。
 ――いや、違う。
 脳が、痛みを感じることを止めていた
 麻痺したのか、これ以上はショック死すると自己防衛的にそうしたのかは判らないが、覆面の中に反吐を吐き、地に突っ伏した状態でハラキリはそれに気づいた。
「そうよう、殺さない殺さない。ハラキリンはたった一人のお友達」
 ハラキリは脱力して動かぬ体を懸命に動かそうとした。と、外から別の力が加わった。それは彼の希望通り、その体を仰向けにする。視界に、逆さまにティディアの顔が入り込んできた。
「お友達だから、赦してあげるの」
 ティディアはハラキリの頭側に立ち、彼を覗き込むように見下ろしていた。
「良かったね。あなたがハラキリ・ジジで」
 アデムメデスの王女を務める友人は、目を細めていた。笑顔で、あなたがハラキリ・ジジでなかったら殺していたと、そう言っていた。
「……おひいさん」
 ぼそりと、朦朧として途切れそうな意識を懸命に立ち直らせ、ハラキリはかすれた声で言った。
「駄目ですよ」
 その瞳のエメラルドグリーンの輝きが次第に失せていき、それに比例するように、その双眸から蛍光緑ネオングリーンの涙がこぼれていく。『ノックアウト』されたハラキリの体から速やかに『天使』の力が失われていく。
「これ以上は、フォローも、できませんよ」
 涙は全て流れ落ちたかと思うと、覆面をすり抜け『雑に粘土で作ったような緑色の人形』と現れた。それはティディアと目が合うと、一つ身震いし、関わり合いになりたくないとばかりにそそくさと天に消えていった。
「だから」
「何でフォローなんているの?」
 ティディアは陽気に問うた。それなのに彼の答えを待たず、その瞳にキラキラと星を散らばせ夢見心地に声を弾ませる。
「私、これからニトロにエッチしてもらうの。
 ニトロもそれを待ってるの。
 ニトロ、絶対めろめろになっちゃうんだから。
 そして私をうんと愛してくれるの。
 きっと私はとろとろにされちゃうわ、きゃっ。
 ホテルも予約してあるのよ? 運命的なの。
 婚姻届ももう少しで完成するし、ちょっと前借りの初夜みたい。
 ん? あ、二人が初めて結ばれる夜だからこれも正真正銘の初夜でいいじゃない。
 初夜。初夜! 何てロマンチックで甘美な響き――ああ! 盛り上がって感じちゃってどこまでも!!」
 自らの肩を抱き、ティディアは感じ入ったように身を震わせた。
「だから……ね?」
 ティディアは一歩退って、ハラキリの視界から消えた。それから膝を突き、にゅっと再びハラキリの目に戻ってくる。
 その顔は、一瞬前とは打って変わって表情をなくしていた。無表情にも近い静かな顔でじいっとハラキリを見つめ、やおら、彼女は微笑んだ。
 それは蠱惑の笑みだった。
 多くの者を虜としてきた微笑。しかし、ハラキリは底冷えのする悪寒を感じた。彼女の瞳孔の奥では黒紫色の炎がたぎり逆巻いているようだった。
 ――ティディアは、ハラキリの額にそっと手を当てた。
 そして稚児をあやすように優しく撫でて、彼女は言った。
「これ以上邪魔したら赦さない。
 いくら友達でも、殺すから」
「……」
 『天使』が抜けた今、ハラキリに超人的な体力は欠片とてない。もう体を動かそうとすることもできない。それでも意識が残っているのは幸いだと、彼は思った。
 クレイジー・プリンセス――ティディアが秘める狂気を、それを確認できただけでも幸いだと。
 それに……
「えへへ、ニトロみっけ」
 ふいにそう口にして、ティディアが立ち上がった。こちらに一瞥をくれ、ひらひらと手を振ったかと思うとその姿が掻き消える。
(……完全に、キレた)
 独り取り残され、冷たいアスファルトに横たわり、力なく夜空を見上げながらハラキリは思った。
 意識を保てていて本当に良かった。
 彼女の狂気を確認でき、それに……
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが、誰にも、あるいはニトロにすらも見せているようで見せない本心――そこにある想い人への本当の感情を知ることができた。
 ……今のティディアが、真に理性のトんだ状態だ。
 彼女は、彼女がしようとすることをすれば一体どうなるか完全に判らなくなっている。『それでも止められない』ではない。『何でフォローなんているの?』――止めるつもりが微塵もない。ただ己の目的が必ず叶うと夢に見て、その達成へと無邪気に突き進んでいる。
(ああ……)
 『仮説』は正しかった。そう確信する。
 これまでの姿は中途半端な『変身』。それは彼女の理性が、あるいはもう一つの本心が作り上げていた姿だ。
(   リ様! 応答ヲ! ハラキリ様!)
 ふいに、撫子の声が戻ってきた。
 ハラキリは即座に応えた。
(芍薬へ至急連絡。彼に『天使』を使わせろ)
スデニ。ニトロ様ハ準備ヲスマセ、待機シテイマス)
 半拍を置いて返ってきた言葉に、ハラキリは安堵した。
 撫子の対処の早さに感謝する。
 ニトロの、賢明な判断にも。
 それならば、まだ、希望はある。あのティディアには『天使』の力を得たニトロでも敵うまいが、少なくとも時間稼ぎにはなる。
(残り時間は?)
(『フルタイム』デアレバ、オヨソ40分デス)
 足りないなと、ハラキリは思った。
 ニトロの『天使』持続時間は、推定25分。ティディアのタイムリミットが迫っていればいいが……あの様子だと、フルタイム完走してもおかしくない。だとすれば『ニトロ』が負けなかったとしても、15分の余裕がある。事に及ぶ時間としては十分だ。
「…………」
 ハラキリが覚悟を決めた時、空に一台の飛行車スカイカーが現れた。その車は同名のA.I.以外には扱いきれないようにできている。それを証明するように『韋駄天』は急降下してくると下手くそに着陸した。
 車内からは二体のアンドロイドが飛び出してきた。片方は無数のアンドロイドの統率用リーダー、もう片方は治療用メディカルアンドロイドだった。
(ヴィタさんはもう着いている?)
 口を動かすのも辛く、ハラキリは覆面の機能を通して撫子に問いかけた。
 撫子は迅速にマスターの着る戦闘服の機能に干渉してバイタルサインを得、メディカルアンドロイドで直接肉体を確かめながら答えた。
「ハイ」
(ピコポット辺り、持ってきているかな)
「――ハイ」
(借りる。そう伝えてくれ)
「……」
(回復次第、もう一度行く)
「……敵イマセン」
(予備は一本ずつ持ってきてあるだろう?)
「危険デス」
 撫子の声は、押し殺されていた。
 『天使』の使用上の注意にはこうある。
 ――「相性の良くない者が連続使用した場合、とっても痛い副作用が出ます。また、相性が良い者でも、お腹が痛くなる可能性があります」
 ――「適量以上を服用した場合、一時的に通常の数倍の効果が期待されますが、その代わりどうなっても知りません」
 当然、ハラキリもそれを頭に入れてある。
 そして彼の『天使』との相性はけして良いとは言えない。たいした『変身』もできず、ニトロやティディアのような理不尽な力を得ることもなく、得られるのは『力』を見る特殊な瞳と単なる基礎体力の超人化。
 それなのに『天使』を連続使用し、あまつさえ二重服用をすればどうなるか……
「承知デキマセン」
 撫子が、マスターの『自殺行為』をどう思い、どう言うかなど無論ハラキリは解りきっていた。彼は撫子がそれ以上のいさめを継ぐ前に言った。
(それでもだ。何としても、ニトロ君を無事に。何としても、おひいさんを止める)
 強い、強い意志で。
 『仮説』が正しかったと確信したからには……ニトロの身を守るだけでなく、ティディアのもう一つの本心も、守ってやらねばならないと思う。
(拙者は、二人の、友達だからね)
 心情ごと送られてくるハラキリの言葉。
 しばしの沈黙を挟み、撫子は言った。
「カシコマリマシタ」

 夜の帳に覆われた公園の、森に囲まれた散歩コースの途中にある小さな広場。中央に鎮座する噴水も今は止まり、囲いの中で夜空の色を吸い込んだ池が東に浮かぶ赤と青の双子の月影を受けて揺らめいている。
 噴水池を眺める位置にあるベンチには、一つ人影。
 ――パキンと、小気味のいい音を立ててアンプルの頭部が折られた。
ほほう? ニトロ・ポルカトかね
 ニトロは度肝を抜かれた。
 『天使』を使うにあたって心構えはあった。
 というか今更『天使』を見たところで前回のように平常心を失くさぬ自信があった。
 あれから一年、本当に色んなことを経験してきたこの度胸、各方面に対してそれなりの耐性を得てきたのだ。それがどんな異様な生命体(?)相手であろうと、一度遭遇した相手であれば問題なく応対できるはずだった。
いよっ
 しかし、折られたアンプルの中から飛び出てきた小さな蛍光緑ネオングリーンの手。アンプルの縁を掴み、
こらしょ
 雑に粘土で作った人形のようなソレが、アンプルから出るやちょいとばかりに浮かび上がり頭に刺さった表に『天使』裏に『元祖!』と書かれた旗を風もないのにはためかせるソレが、ぼんやりと発光するソレが!
ぃよう、ムッシュー・ポルカト。会えて嬉しいゼイ
 ぴっと片手を挙げて、相変わらずのフランクな調子で、まさか開口一番自分の名を呼んでくるなどとはニトロには考えられようもなかった!
「んな……」
 目を丸くするばかりのニトロの口を、身に染みついた癖が動かした。
「何で知ってるんだ、俺を」
さあ?
 一瞬にして、ニトロの動揺が消えた。ふとまた『天使』を潰しにかかりそうになっていた衝動を納め、聞く。
「さあ、って。今お前俺の名前をフルネームで正確に言っただろう」
細かいことにこだわるなムッシュー・ポルカト。俺っちは全は一で一は全なのさ
「……それは、お前ら『天使』は全て一つの存在ってことか? それとも情報を共有しているってことか?」
さあ?
 『天使』はニトロの鼻先に浮かびながら、腕を組んで首を傾げる。またまた『天使』を潰しにかかりそうになっていた衝動を抑えて、ニトロは聞いた。
「とりあえず……それじゃあとりあえず、聞くけどさ。もしかして、今お前の仲間がやらかしてるとんでもないこと、知っている?」
おう、楽しそうで羨ましいんだ。だからヘイ、ムッシュー。俺っち達もごきげんに楽しもうゼイ
 くるんと腰をくねらせて『天使』が言う。ニトロはそこはかとなく苛立ちを覚えながら、努めて気を鎮めて言葉を継いだ。
「楽しむかどうかはまだ後だ。知っているなら教えて欲しいんだけど、あいつはあとどれくらいで時間切れになるか判るか?」
知るわけねえぜ、ムッシュー・ポルカト
「……全は一、一は全なのに?」
おうよ
「お前のお仲間、楽しそう?」
羨ましくってよう。俺っちも早くお楽しみといきてえのさ。ムッシューいつまで俺っちをじらすつもりだい? さっさと飲んでくれ。一緒にハイになろうぜぇ?
「……で、あいつのタイムリミットは?」
知るか
 ニトロは頬を思い切り引きつらせ、やっぱりその粗雑な造型の頭を一発ぶん殴っておこうかとも思ったが、辞めた。有益な情報が得られるならまだしも、この調子だととりとめもないグダグダ漫才になりそうだ。
「……」
 『天使』はくるんくるんと腰を回している。ニトロはため息混じりに言った。
マジカル
 『天使』が、ぴたりと動きを止めた。
カプセル
 ニトロの『命令』を受け、『天使』はぴしっと姿勢を正した。それからしゅるしゅると小さくなりながら、姿をカプセル剤へと変じていく。
 アタッシュケースに収められていた板晶画面ボードスクリーンに記録されていた『天使取扱説明書』。ハラキリが簡潔にまとめてくれていたそれに記されていた『使用方法』の一つだった。
 ――「すぐに使用しない場合は、液体・ガム・ゼリー・カプセル・粉末など好みの形態で待機させられる。命令する時の合言葉は『マジカル』。(あまり開封から命令までに時間を置いたり拒絶反応を見せると『天使』が焦れて無理矢理使わせようとしてくるので注意)」
 頓珍漢な会話をしてくれていた『天使』が命令には機械的に従ったのに、ハラキリがこれのことを『道具』と言い切っていたことをニトロは思い出していた。
 そして、もう一つ、思い出す。
(そういえば)
 箇条書きになっていた説明の第一項目には『取り合うな』と書いてあったっけ、と、ニトロはせっかくのハラキリの心遣いを自分の悪い癖で台無しにしていたと苦笑した。
 変形が終わる頃を見計らって差し出した彼の掌に、どういう原理で浮いているんだかカプセル状になった『天使』が落ちる。
 半透明の基剤の中には、濃縮された蛍光緑ネオングリーンが充填されていた。腐りかけた藻を重ねた後ろから強烈なライトで照らせばこんな色になるかもしれない。
 どんな形になろうが口に入れにくいのだけはそのままなのかと嘆息し、ニトロはカプセルを手の中に握り込んだ。ハードカプセルの手触りが、『命綱』の強度を感じさせてくれる。
「……」
 いい空気だと、ニトロは緑豊かな公園の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 中心街からも郊外からも離れた公園の深部は本当に静かで、時折そよ風が枝葉の合唱を促すくらいで、心地良い。
 広場を囲む森の向こうには、赤と青の双子月の下にスライレンドの町明かりがぼんやり見えた。赤と青……二つが混じり合う紫の月光が、その町明かりを包んでいた。
 アデムメデス人に見られる黒紫の髪。
 それは、太古の神話では月光を寄り合わせて作られたのだという。遺伝的に受け継ぐ者は数千人に一人いるかどうかだが、とはいえ物珍しいというわけではない。無論、それを持つ一族がこの星で最も有名であるがために。
 紫の月光に包まれたあの町は、今、その光から作られた髪を持つ大バカ女の支配下にある。
 願わくは、親友が勝利し、お互いに狂気の王女の戒めから解放されたいものだ。
「主様」
 耳元の襟にある小さな通信機から、芍薬の声が流れた。ニトロはベンチに腰掛けたまま応答を返した。一拍を置き、芍薬が報告を上げてくる。
「敗北」
 それは苦々しい声だった。
 怒りと、失望と、元マスターへの心配、そしてこれからの不安がない交ぜになっている、苦しそうな声だった。
 ニトロは胸を張り裂きそうな感情を何とか落ち着かせ、まず確かめねばならぬことを訊ねた。
「安否は?」
「不明。トニカク『天使』ヲ使エト、撫子オカシラガ」
 彼は沈痛に黙し、しかしそれも一呼吸の間に押さえ、
「了解」
 短く答えると、次の言葉を継いだ。
「それじゃあ、ここからは話した通りに」
「承諾」
 芍薬が不安げに、それでも力強く了解を返してくる。
 通信が切れる音を耳にしてから、ニトロは掌のカプセルを躊躇なく口に含んだ。そのまま飲み込まずに頬の裏に寄せ、立ち上がり、ただ――待つ。
 待ち人は、さしたる時を置かず現れた。
 真正面、噴水池の縁に人影が忽然と。
 広場には明かりがない。開園時間を過ぎた今、町寄りにあるレストラン等の一部施設を除き公園の火は全て落とされている。特に夜行性の動物も存在する奥側の森林部に置いてこの時間、特別なイベント週間でもない限り光が灯されることはない。
 なのに、彼女のドレスは光を集めて輝いていた。
 先ほどまでのタイトな白い服とは違う、見た目にも可憐で、ウェディングドレスを連想させる純白の衣。どこかの店から持ってきたのか、それとも『力』で作り出したのかは分からないがサイズもぴったりだ。
 それをニトロは、似合っていないな――と思った。
 いや、身形格好は似合っている。見た目は申し分ない。だが、何かが違う。何か……ティディアにドレスを合わせたのではなく、ティディアがドレスに強引に合わさせている、そんな印象を受ける。
「そうかな、そんなに似合ってないかな」
 噴水地の縁に腰掛けたまま、ティディアがドレスをつまんで言った。
 ニトロは、彼女が思考を読むことをもう怒りはしなかった。
「ま、別にいっか」
 つまんでいた生地をひらりと放し、やけに陽気な、どこかおどけた調子でティディアは言う。
「どうせ脱ぐなら何を着ていても一緒だもんね?」
「……」
「そうだ。似合ってないなら破いちゃってよ。乱暴に。私、ニトロに脱がされたい。もちろん下着も……」
 ニトロは一歩踏み進めた。
 緊張に乾き出した口がつばをなくす前に『カプセル』を飲み込む。ごくりと嚥下の音が嫌に鳴り、それを聞きとめたティディアが瞳に星を浮かべた。
「あ、興奮しちゃった? あ、もしかしてニトロそういうの好きなのね? いいよ。我慢できなかったら今ここでそうしても。そしたら二人の初めては野外ね。やん、ちょっとアブノーマル? 興奮しちゃう!」
 ニトロは数歩の間を詰めながら、眉をひそめた。
(……何だ?)
 違和感が、強く、心に鳴り響いている。
 目の前にいるティディア。
 そういえばドレスの淡い光に照らされる顔には表情が戻っている。それはころころとよく表情が動く見慣れた王女の顔だった。演技にしろ、素顔にしろ、様々な彩りを見せる『相方』の顔だった。
 だが、何かが違う。
 何故か、さっきまでのあの無表情なバカの方が『ティディア』だと、そう素直に思える。
「やー、私はティディアよう。ほらニトロ。私をよく見て? 私は、あなたの、可愛いお姫様」
 ニトロは足を止めた。
 ベンチと噴水池の半ば、彼の足で十歩ほどの距離を開けてティディアと対峙する。唇を引き結び、瞬きもせずティディアを睨み、静かな呼吸を乱さず足を肩幅に広げる。
「ああ、なんて凛々しい……」
 ほぅとため息をついて、ティディアが片手を頬に当てた。うっとりと目尻を垂れ、引き締まった体を黒衣に包んだ最愛の少年を見つめ、鼻血を垂らす。
「ますますニトロ、お・い・し・そ・う♥」
 鼻血を舌で舐め取りじゅるりとよだれを吸い込むティディアに、そのセリフは普段の彼女も言いそうなものなのに、そこにある本質の差異をニトロはどうしても感じ取ってしまって……思わず『本当にお前はティディアか』と、そう問いそうになっていた。
 しかし、その答えがどうであったとしてもそこに居る脅威を払拭できるわけではなかろう。彼はどうでもいい気のせいだと心中で頭を振り、胸中に零れ出した『熱』を感じながら、代わりに別の問いをかけた。
「ハラキリは、どうした」
「ハラキリン?」
「ハラキリ! リンって何だ、変に可愛いぶってそれ何かヤだ!」
 思わず、ニトロはツッコンでいた。ツッコンでしまってから、あ、と口を開けた。
 ティディアが身を震わせている。
「……っ気持ちいい……」
 両手で自身を抱き締め、感じ入ったように背をそらしている。
「ね、ニトロ、も一回!」
「うるさい変態! 質問に答えろ!」
 図らずも敵を悦ばせてしまった愚を恥じるニトロの胸は、高鳴っていた。
 熱く、高く、変則に、ビートを刻んで鼓動が走り出していた。
「……んもう」
 ニトロの変化を感じ取り、ティディアが立ち上がった。唇を尖らせて、苦しげに身を曲げるニトロへ歩み寄る。
「ニトロは天才だね」
 彼の体は小刻みに痙攣していた。滝のように汗が流れ、それは肌を落ち切ることなく蒸発して消えていく。
「私をじらす、天才。あなたまで『天使』を使ってくるなんて。嫌じゃなかったの?」
「……答えろ!」
 そっと、彼女は怒鳴りつけてくるニトロの頬を撫でた。そのまま彼の顎を持ち上げ、めつけてくる双眸に瞳を重ねる。
「やっつけちゃった」
「……まさか殺してないだろうな」
「どうかしら。ニトロはどう思う?」
「俺の知っているお前なら、殺さない
 ふっと、ティディアの唇がほころんだ。嬉しそうに何度もうなずき、軽くニトロに口づける。
 ニトロはティディアのキスを避けようとはしなかった。初めてただ受け入れ、しかし睨みつけたまま、彼女の答えを待った。みちりと音がして、戦闘服の肩口が伸びる。膨れ上がっていく体を懸命に押さえ、激烈なリズムを刻む心臓を努めて抑え、込み上げるパワーを歯噛み堪える。そうして、待った。
「うん。殺さなかった」
 子どものような口調でティディアが言う。誉めて欲しいと言わんばかりに目頭を緩ませる。
「でも次はないって言っておいたの。だって私達の愛の営み、邪魔してほしくないじゃない?」
 ね? と無邪気に同意を求めてくるティディアを、ニトロは突き飛ばした。
「安心したよ……これで、安心して――」
 ティディアが目を丸くして頬を膨らせ、一転して何を思ったか笑顔となり、そのまま噴水地まで退るとまたその縁に腰を下ろした。
「ぅ……ぅぅううっ」
 ニトロがうなり声を上げている。
 地の底から轟き伝わるような、うなりを。
「あはは」
 ティディアは足をぱたつかせて笑った。
「そうだね、そのニトロとヤるのも、楽しいかもね」
 余裕に満ちた口振りで、うなり声を高め、その体躯を変貌させていく少年を見つめる。骨格も、身長も、全てが大きく膨らんでいく。彼の身を包む戦闘服は盛り上がる筋肉の隆起に従い薄く薄く伸びて、ぼんと音を立てて膨らんだ上腕二頭筋を包む服の様は、もはや筋骨の凹凸を緻密に浮かび上がらせる黒タイツだ。
 記憶にある、以前の『天使』を使用した彼を超える輪郭。
 この身ですらも気圧されそうな迫力が、ニトロ・ポルカトから放たれている。
「いいよ。先にたっぷり遊びましょう」
 それでもティディアには緊張の一つも得ない。
 組んだ足の上に頬杖を突き、みっくみっく動く『ニトロ』の胸板を見つめ、再び鼻血を垂らしてつぶやく。
「あなたを叩きのめした後、たっぷり、慰めてあげるから」
「ううううう!」
 ティディアのつぶやきを上書きして、大男が声を荒げた。
 筋肉ダルマ――
 否、筋肉の鬼ダルマが天に両拳を突き上げ雄叫ぶ!
「ぅをんばさあああああああああああああ!!」
 彼の口腔から放たれた振動が大気を揺らした。咆哮の直撃を受けたティディアのドレスがはためき、その背後で池が目茶苦茶に波打ち、石材で作られた噴水が音を立ててひび割れた。
「おっ仕置きじゃああああああああああい!!」
 ティディアの目前に、コンマ1秒も無く、ニトロの巨大な拳があった。
 それをティディアの手が柔らかに受け止め、彼の凶悪な腕力を逆利用する。
「ぬを!?」
 ニトロの巨躯が空を飛んだ。
 ティディアの『力』が加わった巧みな『技』に、彼は成す術も無く宙に舞わされていた。
 天地が逆転し、天井に逆さに座る女がこちらを見下ろしている。
 ――微笑んで。
 脳天をかすめるように噴水の天頂が背後から現れ、その陰に微笑みが消える。
「うぬ!」
 ニトロはびんっと体を伸ばした。そのまま緩やかな弧を描いて飛ぶ勢いを殺さずに、華麗に前方伸身宙返り1/2ひねり、女子体操選手のごとき軽やかな着地を決める。そして、プリマドンナのように横にターンした。
 直後、彼と入れ替わるようにその場を灼熱が支配した。
 ニトロの背後に回りこんでいたティディアの吹き出した火炎吐息ファイア・ブレスが轟々と地を焼き、池水を泡立たせ、瞬く間にもうもうと湯気が立ち昇る。
 それを傍目にニトロはティディアへ駆けた。
「マッハパン!」
 気合と共にニトロが振るった鉄拳は、しかし、ティディアにさらりと避けられた。彼女は楽しげにステップを踏んで距離を取り、体ごと浴びせるパンチを空振りたたらを踏むニトロへ向けて至近距離から炎を吐きつけようと息を吸い――
「火の用心!」
 ティディアが火を吐くよりも早く、体勢を立て直したニトロが彼女の口を大きな手で塞いだ。まさにその時、息を吹き出そうとしていたティディアの目が丸くなる。
「んぶっ?」
 思いっきり吹き出されようとしていた吐息が行き場を失い、勢い余ってティディアの鼻と耳から噴出した! 彼女の口を塞いだニトロの腕にも当然鼻の穴から噴き出た炎が浴びせられ、戦闘服の耐火能力が限界に達し、彼の腕を包む袖が燃え上がる!
「ぬはははは! 温いわ!」
 だが、心頭怒り燃え上がれば烈火もまた雑魚! ニトロは顔色一つ変えず哄笑を上げ、燃え上がる腕とは逆の拳でティディアの鼻先にジャブを打った。ほんの鼻先に触れる程度。それで相手を怯ませ、同時に距離を測り――
「ふんは!」
 即座、炎に包まれた拳を地にかすめ、絶好の間合いから低空より突き上げるジャンピングアッパーカットでティディアの顎を打ち抜く!
 顎の骨が砕ける音が響き、そして、ティディアの顔面が炎に包まれた。
 くぐもった悲鳴を上げて宙を舞うティディアの全身を、顔面からドレスに移った炎が瞬く間に包み込む。その火勢は強く、なんと彼女の体は地面に落下する前に灰となって消えてしまった。
「女の子の顔を焼こうとするなんて……もう、ひどい人」
 ため息混じりの声が、ニトロの傍らでこぼれた。
 ニトロが振り向くと、そこには拳を固めたティディアがいた。オーソドックスな構えを取り、振り向き様に右フックを振るってきたニトロの拳を身をかがめてかわし、逆に強烈な打撃を返す。
 ジャブ・ストレート、ボディ、もいっちょボディ、ローキック・フック・アッパー・ストレート! ワンツー! ワンツー・ロー! ロー! ローと見せかけて飛び膝! 休む間もなくワンツースリー!!
 彼女の動作はまさに目にも止まらぬ速度。それを防ぎきれる人間はいないだろう。それを見切ることのできる人間もいないだろう。
 ニトロは、打撃の全てをもらった。
 彼でもティディアに追いつけないのか、嵐のごとき連打に対してガードもせず、全ての攻撃を綺麗に食らい続けた。
 しかし……彼は倒れなかった。
 仁王立ち、ティディアの拳、ティディアの蹴りの全てを受け止め、彼はやおら腕を組んだ。
 ティディアは手を止めると、一度間合いを広げた。びりびりと痺れる拳を舐め、短く口笛を鳴らす。
「やるわね」
 彼女の賛辞に、少年であった『本人』の面影もない顔に笑みを浮かべて、ニトロはふんと鼻息を荒げて言った。
「痴れ者が。それしきで我が鉄壁のマッスル、打ち崩せると思ったか」
「思ってた」
 ティディアは素直にうなずいた。
「素直たるやよし。しからば考えを改めい」
 ニトロに言われ、ティディアはまた素直にうなずいた。
「改める改める。ニトロったら、私が思うより強くなってる」
 言って、彼女は舌で唇を割り、大男を挑発するようにゆっくりと舌なめずりをした。
「これなら、もっと本気を出しても大丈夫そ♪」
 ふと、ティディアの姿が消えた。
 ニトロはティディアが現れる位置を敏感に察知した。先んじて左へ走り、予想通り目前に現れた女へ突進する。
 するとティディアは――ニトロがそうしたように――仁王立ち、己の強さを示威するように腕を組むと真正面から彼の体を受け止めた。
 両者の体躯には、格段の差がある。
 大きさも、体重も、測るまでもなくニトロが遥かに上だ。
 それなのに、全体重を押し込めた彼のぶちかましは、ティディアを僅かなりとも後退させることはできなかった。
 ――それどころか、
 ティディアではなく攻撃を仕掛けたニトロ自身が激突の衝撃に負けて一歩二歩とよろめき後退してしまった!
「ぬう……」
 ニトロは、うめいた。
 その事実は、そのまま、彼と彼女の間にある『力』の差を明確に示す証拠であった。
強者つわもの
 ニトロの賛辞にティディアは微笑み、可愛らしく片目をつぶってみせた。

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