大吉

(第三部『彼の分別、彼女の流儀』と第三部『敵、見誤り』の間)

 ニトロ・ポルカトは日々疲れ、疲れながらも癒され、また日々疲れ、疲れながらも己の生命活動によって自動的に回復され、しかしそうしているうちにも疲労のおりというものは徐々に降り積もり、肉体的にはそれを若さが払拭しても、精神的には若さだけでは一掃できるものではないらしい。
 ある人が言うには、そのような疲れには気配すらないのだという。走れば息が切れる、重たい物を持ち続ければ腕が震える。歩き疲れれば足が重くなるように、心も疲れれば重くなる。が、精神的な息はぜぇぜぇと切れない、プルプルと震えない。その重さはまだ致命的ではないと思っていても、ある時、一瞬にしてプツンと切れるのだという。どんなに恵まれた境遇にあっても関係ない。それは一種の落とし穴にはまるようなもので、何の前触れもなく、何の自覚もなく急に訪れるのだと。
 ニトロ・ポルカトは、それを聞いた以前は「へえ」と思っただけだった。
 一時期ノイローゼ状態に陥った己を顧みられる現在、それを思い出せばまた「へえ」と思う。しかしそこに込められる実感は随分違う。
 彼がそんなことを考えたのは、たまたま見かけた展覧会に足を踏み入れ、何の興味もない風景画を見て回った後のことだった。
 近場の喫茶店に入ってカプチーノを飲みながら、存外心に残った絵を思う。それは王都の雑居ビルの足元に生えるタンポポを主題にした絵だった。全体的には暗い路地裏を描いていて、タイトルを見ねば黄色いその花に意識を集中することはなかっただろう。しかし一度気に留めれば、それはそびえるビルに対しあまりに卑小ながら、ずっと力強い。コンクリートのひび割れに根を下ろす花を見てそう感じるのはむしろ自由意識のためでなく、きっと画家の目的とするところなのだろう。が、それでもそれが心地良いのは、己の心の自由によるものだろう。
 そもそもニトロは芸術にさして興味はなかった。
 もともと絵や作品を見るのは好きではあったが、それはただ見るのが好きなだけであって、それも街中や商業施設の飾りとしてたまたま目にした絵や作品をぼんやり眺めるのがせいぜいであった。ある時期までは展覧会や画廊に足を踏み入れることもほとんどなかったのに、ある時期を境にたまに展覧会や画廊などに足を踏み入れることが増えたように思う。
 その時期はいつかと言えば、“有名”になってすぐ、そう、『クレイジー・プリンセス』にも追い詰められてノイローゼ状態に陥った時期である。
 しかしそこに一体どんな心境の変化があったのであろう?
 鑑みるに、ニトロには心に残る言葉があった。
 ある友人は、芸術は感情を永遠にするものだと言った。
 ある友人は、芸術はすべであり、またコミュニケーションの一手段だといった。
 忌まわしいことではあるが、ある女は、一つの作品への多角的な視野を示唆し、また一つの作品へ心の移入される体験を示してみせた。
 今思うに、ニトロは、絵や様々な作品に触れることで、心を発見したかったのだと思う。あの心の不安定な時期に、きっと無意識に安定される心を認めたくてならなかったのだと。
 先ほどのタンポポの絵は、構図もテーマも陳腐なものであった。
 実際、その作品は展示される程度の評価は受けたにしろ何の賞も得ず、講評も芳しくなかった。
 しかし、ニトロは感動したのだ。
 その絵を見た彼の心はその時、はっきりと一つの感動として形を成していた。その感動が画家の筆に込められた感情と同じであるかどうかは定かではない。それでも確かに、彼は感動という体験を通して己の心を見た。そのようなものに感動する己の心を、絵を通じて確実にした。
 だから、ああ、己に心はまだあるんだと思える、心は死んでいないと己自身が認められる。そして心があればまた他の誰かの心と応答を試みることもできるだろう。それはきっと、希望だ。
「ソウダネ」
 芍薬はうなずいた。その耳は興味深くこちらの文字こえを聞き、その目は思量を計るように伏せられている。
「ソウカモシレナイ」
 そうして目を上げた芍薬の瞳には、どこか未知の生物を見る好奇心にも似た輝きがある。
 ニトロは芍薬の瞳の輝きに自身も好奇心をくすぐられて、板晶画面ボードスクリーンに指を走らせた。
「そうじゃないかもしれない?」
 芍薬が少し驚いたようにポニーテールを揺らした。が、すぐにマスターの口元に悪戯っぽい笑みのあるのを認め、切れ長の目を半ば挑戦的に傾ける。イヤホンに勝気な声が飛んでくる。
「主様ノ説モ一理アルト思ウヨ? ダケドソレヲ『ソウダ』ト言イ切レルカッテノハ別ノ話サ。芸術論ナンテ手元ニパット出シタダケデモ腐ルホドアッテ、ソノ大抵ハ実際ニ腐ッテルンダ」
「いや別に芸術論なんて……」
 語っているつもりはなかったが、別の側面では確かにそう取れることを言っていた。いや、半分は芸術論に足を突っ込んでいるだろう。自説を補強するために他者の論を持ってきた時点でその路線は確定してしまっていた。
 芍薬が切れ長の目を柔らかく細めてクスクスと笑う。
「ゴメンヨ、チョット意地悪ヲシタ」
 言われて、ニトロは眉間に力の入っていたことを知る。それをほぐすように指で軽く叩き、彼が微笑むと芍薬は笑みを止め、
「主様ノ体験談トシテハ、ソレハ『ソウダ』ッテヤツサ」
 ニトロはうなずく。
「ソシテ主様ガソレヲ振リ返ッテ語レルコトヲあたしハ――興味深イノハソウダケド――何ヨリ嬉シイト思ウ。ダカラ、ソレヲ否定シヨウッテ気ハコレッポチモナイ」
 芍薬は親指と人差し指で限りなくゼロに近い隙間を作ってみせて、それをパッと開くと、
「キット芸術ニハソウイウ“効能”モアルンダロウネ――タダ、気ニナッタノハ、『心があれば、また他の誰かの心と応答を試みることもできる』ッテトコロナンダヨ」
「うん」
「ソレジャア? 心ガナケレバ、マタ他ノ誰カノ心ト応答ヲ試ミルコトハデキナイノカナ」
「……ああ」
 ニトロは心のどこか痛いところを実際に踏まれたような気がした。そしてその問いかけに芍薬の――いや、オリジナルA.I.の存在に関わる大きな不安に触れたような気がして、ふいに苦しくなる。
 その様子を見て、芍薬はまた目を細める。ニトロにはそこに感激の色が現れているように思えた。だが、それは人間じぶんが勝手に感情移入してそう思い込んでいるだけだろうか?
「確カニ希望ダヨ? 主様」
 芍薬はマスターを見つめる。
「主様ガソコニ希望ヲ発見シヨウトスルノハ良ク分カルツモリサ。デモネ、あたしハ『心は死んでいないって自身が認められる』ッテコトコソ希望ダト思ウンダ」
 そこまで言って、また芍薬は先ほどのように思量を計るかのように目を伏せ、しかしそれを上げると再び真っ直ぐにニトロを見つめた。ニトロは――
「イヤ、多分、あたしハソレヲあたしガ希望ダト思イタインダッテ、ソウ思ッテルンダロウネ」
 彼が何か言おうとする前に言い切ってから、芍薬は、ふいに照れたようにポニーテールを揺らした。
「デモ、主様ノサッキノ“芸術論”ハホントニオモシロロカッタケドネ? 個人的ニハ前ノ芸術論ノ方ガ好キカナ」
 眉根を寄せ、ニトロは怪訝にキーを打つ。
「そんな論をぶったことがあったっけ?」
「あたしニハ無イヨ。主様ハソノ時、カルテジア殿ニ答エテ言ッタンダロウ? 芸術ハ、“美ソノモノ”ダト思ッテタッテ」
「――ああ」
 思い出した。
 それを芍薬に語って聞かせたことも思い出した。
 それと同時に、先ほど芍薬に語った自説が、ハラキリやティディアの影響もあったとはいえ、大きくはその学友に引かれていたことに気づいてとても驚いた。
 芍薬はまたクスクスと笑っている。
「どうしたの?」
「影響ヲ受ケルモノガ多イコトハ、良イコトダト思ウヨ」
 ともすれば、とても閉鎖的な人間関係だけに封じ込められかねないだけに――例え他に多種多様な交友関係があったとしても、実際に心理的思想的影響を及ぼしてくるに足る強烈な個性が狭い世界に集中しているがために。
 それにまた気がついた時、ニトロは何だか胸がほのかに熱くなる気がした。
「そうだね、俺もそう思うよ」
 ニトロはうなずいて、芍薬がポニーテールを三度みたび揺らすのを眺めながらカプチーノを飲み、ふと目を上げた。
 人間、じっと凝視したものよりも、時としてただ一瞬、何の心構えもない一瞬間に目にした刹那を鮮明に記憶することがある。
 それは偶然だった。
 ニトロが目を上げた時、たまたま一人の少年の顔が彼の目に入った。
 このカフェの臨む駅前ロータリーの片隅にあるモニュメント。三本の螺旋の絡まる何を象徴したのか判らぬその作品の前に落ち着かない様子で立っていたのは中学生であろう男子で、ニトロが彼の面立ちを認識する直前、携帯モバイルを手に焦燥と不安に翳っていたその顔が、瞬間、パッと紅潮した。その変化の急がニトロの網膜を焼いた。暗から明へ、絶望の淵から希望の頂へ。彼の瞳を輝かせたのはロータリーの人波から光を浴びる飛沫のように彼の元へ飛び出した少女であった。
 少女を迎えた少年の顔は、既にニトロの鮮やかに記憶したものとは打って変わっていた。それは得意気で、また彼女の遅れてきたことに不満気である。少しばかり威圧的なのは少年の若気の故だろう。少女の顔はここからは良く見えない。だが、その細い両肩のわずかに強張ったところからこちらも不満を得たらしい。
 少年が歩き出す。
 少女がついていく。
 その時、またニトロは鮮やかに記憶した。
 少年を追って一歩踏み出した少女の顔は、初めはやはり不満を表していたのに、少年が背を向けた瞬間、不安を表したのだ。
 思えば少女はどこか垢抜けない格好をしている。いや、表面上は垢抜けているのだが、その服に着られている感は彼女の“背伸び”を如実に伝えてきて、傍目にはそれがデートのために一所懸命にオシャレをしてきた初々しさをも伝えて余りある。
 それなのに、彼女は恋人が無反応というのが悲しかったのだろう。
 また同時に恐ろしかったのだろう。
 そして四五歩と進んだ時だった。
 突然少年が振り返り、ひったくるように少女の手を取った。
 少女は驚き、立ちすくんだ。
 少年と少女は顔を見合わせていた。
 ほんの間近で、二人はお互いの顔をほんの短い間濃密に見つめあった。
 少年の顔は息を詰めたように必死だった。
 少女は少年の目を覗き込んで呆気に取られていた。
 やがて二人は、相好を崩した。
 大声で笑い出すでもなく、微笑み合うでもなく、何かばつの悪そうに苦笑しあって、歩き出す。手をつないだまま。そのことに気づくわずかな間があったのだろう。二人は急に押し黙った。そうしてはにかむように唇を結んで、そのまま歩き去っていった。
 二人は、まさに恋をしていた。
 ニトロは恋というものの形を一つ、思いがけず、まざまざと目撃したのだった。
 少年の輝き。
 少女の不安。
「ドウシタンダイ? ソンナニ嬉シソウナ顔ヲシテ」
 芍薬が問いかけてくる。
 ニトロは画面に目を戻した。
 するとそこには芍薬の笑顔があった。
 喫茶店には洒落たジャズがかかっている。確か数十年前の有名なラブソングをアレンジしたものだ。芍薬のマイクは切られておらず、二人は同じ音楽を聞いている。
 ニトロの口の端は思わず緩んでいた。彼は文字こえを送った。
「芍薬こそ、何をそんなに嬉しそうなの?」
「主様ガ嬉シイノナラ、あたしモ嬉シイノサ」
 ニトロはまた頬に笑みを刻んでしまう。その気分のままに彼は今目撃したことを報告した。そしてその二人の初々しさに思わず心を惹かれてしまったのだ、と――そこまで言ったところで、はたと彼は気づいた。
 これではまるで自分が『恋』に憧れ、それを羨んでもいて、だからあの二人を恋に恋するように語ってしまったようではないか?
 そう思えば急に恥ずかしくなる。
 時折親友に「君は時々恥ずかしいことを臆面もなく言う」と指摘されることがあるが、まさしくその通りではないか。
 その思いは意志に反して表に出てしまったらしい。
 ニトロは頬に熱がこもるのを自覚した。
 それを芍薬はどう思うだろう? よもやわらうことはなかろうが、といってからかいの種にしないこともなかろう。この状態で芍薬にからかわれたら死んでしまいそうだ。
 しかし、彼の不安をよそに、芍薬は当然哂うこともなく、ただマスターのその感情を噛みしめているようだった。その様子はあまりにも穏やかで、喜びにも満ちているようで、だから、ニトロは気になった。
「どうしたの?」
「ヤッパリ嬉シイノサ」
 その返答にニトロは半ば面食らった。
「何故?」
「主様自身ガソウシテ『恋』ニ関心ノアルコトガチャント分カッタカラサ」
 ニトロは眉をひそめる。その様子に芍薬はからりと笑う。
「ダッテソウダロウ? 主様ハアノバカノセイデソノ手ノコトニャ何度トナク辟易サセラレテルジャナイカ。ダカラ少シ不安ニ思ウコトモアルノサ。主様ノ身持チ難イノヲ非難スルワケジャナイケド、他ノ女ニダッテ主様ハカタイカラ、ヒョットシテ辟易シ過ギテ恋ソノモノニモウンザリシテイルンジャナイカ? モット言エバ誰カ女性ニ想イヲ寄セル気モ失セテイル、ソレトモ諦メ果テテ他人事トシカ思エナクナッテイルンジャナイカッテネ。
 モチロン惚レタ腫レタダケガ人生ジャナイケレド、ダカラッテ人生カラアエテソイツヲ削ルコトモナイダロウ? 元々主様ガ恋ニ関心ノ無イノナライイ。デモソレガタワケタバカ女ノセイデ、元々ハ主様ニ在ッタ恋ノ心マデ喪ワレタトアッチャ許セナイ、酷イ話サ。あたしハ主様ノ幸セヲ願ッテル。ダカラ幸セノ選択肢ガ、幸セト数エラレル一ツガ今モ消エテイナイノナラ――主様、あたしニハソレガトテモ嬉シインダヨ」
 柔らかな白を満たした空間に、薄青緑のに真っ直ぐなタチアオイの赤い花の描かれたユカタを着る、その芍薬の立ち姿。
 ニトロは胸を熱くしていた。
 彼は、それをそのまま口にした。
「ありがとう」
 自らも花の名を持つオリジナルA.I.は、ちょっと得意気に頬をほころばせてみせた。

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