(第二部と第三部の間)

「では、これが?」
 恐る恐る硬質プラスチックのケースを開けた男は、緩衝材に収められたプラスドライバーを見つめ、再び相手の目を覗いて言った。
「これが、あの?」
 震える声。双眸は見開かれ、瞳には憧憬と猜疑とが入り混じりギラギラと粘りついている。その90を超えた老人は、10代としか思えぬ若々しい頬を赤らめて、目のぱっちりとした青年にぐっと迫った。
「……本物なのだろうね?」
「ええ」
 老人は今一度ドライバーを見つめる。息を詰めて凝視する。その原子構造すら見抜こうというようにジイッと見続けて、やがて長く息を吐く。
「本物、なのだろうね」
「ええ」
「保証は?」
「わたしの言葉以外にはありません」
「……」
「信用できないのであれば取引を中止いたしましょう。こちらとしては差し支えありません」
「いや……だが……」
 青年はぱっちりと開いた瞼の内側で、むしろ瞳孔の閉じているような瞳をぎょろつかせて悲しげに首を振る。
「良いのです。わたしといたしましては、これまでお客様のご要望に応えてきたつもりですが、ここに至ってお疑いになられるようであれば、それはわたしの誠意の至らぬためでございます。いえ、良いのです。ここは引き取ります。いえいえ、お気になさらないでくださいませ。他にも交渉を求める方はいらっしゃいますので、わたしには何の損失もございません。どうかご心配なく」
 男の顔色が変わった。
「待て!」
 露骨と言えば露骨な商人の殺し文句――他に希望者がいる――例え断崖絶壁を前にしてもコレクターの背中を押す情報に、まなじりをキッと持ち上げ、頬だけでなく耳まで赤に染まった男の皮膚の下には若化療術リプロに隠された年輪が透けて見える。それは施術のみでは抗えぬ筋力の衰えだ。彼のつらの皮を張らせているのは、ただ欲望のみである。
「もう一度、もう一度よく見せたまえ」
 硬質プラスチックのケースはまだ男の手元にある。
 青年はうなずいた。
 男は+ドライバーに目を落とす。
 しかしその目がもはやドライバーを見ていないことを青年は知っていた。男の焦点は既に他人の持ちえぬ貴重な品を独占する未来にある。
「5000万?」
「あの『セム・ダ・グラバの禍』を引き起こした者の手にあったものです」
 もし本物なら5000万リェンなど破格だ――男の額に汗が滲む。
「50億人を呑み込んだ悪夢が、このネジ締め一本無くては起きえなかった?」
「さようでございます」
 男はオーダーメイドのスーツの懐に手を入れた。カードを取り出す。
「支払いは“ギレルタ”で良かったのだね?」
 それは全星系連星ユニオリスタに所属してはいるものの、アデムメデスではマイナーな経済圏で主流の通貨だ。男は念を押すように商人を見つめる。
「さようでございます」
 ぎょろりと瞳を動かして、うなずく商人の気安さに男はふと小さな笑みを浮かべた。そのような通貨での支払いを求めるのは無論為替で益を増大させるのが狙いだろう、しかしその通貨を信用していない男からすれば、それは愚行に過ぎない。男は満面の笑みを浮かべた。取引は終わった。
 硬質プラスチックのケースをさらに厳重な合金製のケースに仕舞い込んで去っていく男に向けて、商人は深々と頭を下げ続けた。その右手には握手をした取引相手の興奮が余熱を残している。
 やがて部屋の扉が重々しく閉じ、そこでようやく商人は頭を上げた。
「ミストレス」
 商人の眼前に宙映画面エア・モニターが現れ、品のい淑女が映し出される。黒と赤が基調の、喪服にも似たイブニングドレスを着た彼女は、淡いアイシャドーの端を緩めて客に挨拶をする。
「お呼びでございますか、パジェ様」
「彼にクラウン・ミニョルフを」
 この『館』の女主人ミストレスの頬がわずかに温もる。笑みを浮かべるわけではないが、笑みの気配を伝えるその美貌は、客に金を使うことへの喜びを引き出すものだ。一本100万リェンのスパークリングワインを注文した若い商人は、しかし女主人にはさして興味なさげに、
「言うまでもないとは存じますが、“彼女”を付けるのもお忘れなく」
「かしこまりました」
 あのコレクターは今、早く家に帰りたくてたまらない。その一方で己の手に入れた物を――それがいかに口外できないものだとしても――自慢したくてたまらないだろう。その心理の隙間を巧みに突く手管は、女主人を始め『館』のホステス達の得意とするところである。
 と、今しがた若作りの老人の出ていったドアが音もなく開いた。
 青年はそちらを一瞥し、ぎょろりとエア・モニター目を戻した。ミストレスは微笑んでいる。
「あなた様も是非お食事をなさっていってくださいませ。随分ご無沙汰していますもの、たまにはゆっくりお話をお聞かせ頂きたいですわ」
「では貴女がお相手をして下さるのですか? ミストレス、貴女が」
 シックな給仕服に身を包んだボーイが運んできたのは洒落た酒肴と、ワインクーラーに入ったボトル。『クラウン』レベルではないが相応に高級なものだ。その後について、地味だが仕立ての良いドレスを着たホステスが一人、ゆっくりとした歩みで入ってくる。
「彼を捕まえてから、参ります。――その娘は有望ですのよ」
 青年は心中で吐息をついた。『ネットワーク』の保守点検には手間がかかる。彼の沈黙を了解と取り、女主人が会釈をするとエア・モニターが消えた。
 先ほどまで顧客の座っていた一人掛けのソファに、まだ新人らしいホステスが浅く腰を掛ける。古典時代に隆盛を極めた娼館の末裔たるこの『館』――表向きはこの“料理店”自慢の品がテーブルに並べられたところで、彼女は淡い紅の引かれた唇を開く。
「本日のご成功、お喜び申し上げます」
 容姿は上の下、都市よりも郊外の匂いがする。どちらかと言えば丸顔で、スタイルも緩やかであるが、その柔らかな雰囲気には不思議な魅力がある。――端的に言えば人畜無害な様子であり、しかしそれは獲物の油断を誘いやすい。
 青年はちらりと携帯モバイルを見た。
 画面にはキモノを着たオリジナルA.I.が、売買の代行を依頼してきた神技の民ドワーフへの送金が終わり、先方からの確認も得たことを知らせている。
 青年が目を戻した時、彼は眼前の女が全体の様子はそのままに、しかし抜け目なくこちらの様子を探っていることを察した。そして彼がそれを察したことを彼女も察したらしい、片えくぼが左の頬に刻まれる。
「……」
 ホステスは客の言葉を待っている。その態度はとても自然で、急かせることも、居心地の悪さを生むこともない。
 なるほど『ネットワーク』の保守点検には手間も面倒もかかる。しかしそれを怠らなければ将来の展望は良きものとなろう。
 有望。
 女主人のセリフを、彼は脳裏に繰り返す。
 確かに有望だと思う。
 だが、この女は野心家だ。幼い頃からまさに様々な人間に触れてきた経験が、柔らかな雰囲気の皮下に隠れた棘を察知してアラームを鳴らしている。その棘には返しがついていて、抱き着いた相手に一度食い込めば容易には外れない。当然、女主人もそんなことには初めっから気づいているだろう。その上でこちらに“面接”させようというのだから……いや? となるとあの老獪なミストレスも定期的な保守点検をしているのか。こちらがこれからも商売を続けていける相手かどうかを確認するために。
 なれば、まずはこの娘の野心がどのような種類で、どの程度のものかを探るところから始めるとしようか。
 彼はぎょろりとホステスを見る。素子生命ナノマシンの構成する装具ブリッジに開かれた双眸がそろそろ痛む。しかし彼はそれをおくびにも出さず怠惰な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
 随分間の開いた返礼は、それだけに間抜けに響いた。しかし同時に仕事を成功させた商人の気が緩んでいることも、相手に知らせた。
 ホステスはただ柔らかに目礼を返してくる。
 青年――商人――ハラキリ・ジジは、眼でグラスを示す。
 察したホステスが未だ脇に控えていたボーイに目で示す。
 ボーイはワインクーラーのボトルを手に取ると、慣れた手つきで栓を開けた。
 ポン! と小気味の好い祝砲が鳴る。
 淡い蜂蜜色のワインが注がれて、炭酸の膨れては弾ける気持ちの良い音が流れる。
 やおら“上客”がグラスを持ち上げるのに合わせ、ホステスは洗練され過ぎた所作でグラスを手に取った。
「乾杯」
 商人ハラキリが言うのにホステスは、うっとりと首を傾げてグラスを目の高さに持ち上げる。
 ちょうどその時、古びた柱時計が日付の変わる鐘を鳴らした。

 左手の板晶画面ボードスクリーンで種々の書類に目を通し、右に浮く9窓の宙映画面エア・モニターが時々刻々と伝える市場の動きを視野に入れ、BGMには議事録を部屋付きのオリジナルA.I. ピコに読み上げさせて、ティディアは王家運営の施設から上がってきた起案書――内容の一部は来年の王の公務にも関わる――にサインを入れる。
「ウル・キリフ・レディアント」
 ティディアがつぶやく。
「ハイ」
 ピコが主の意図を汲み取って肯定する。
 先刻からオリジナルA.I.の読み上げていた議事録は、東大陸ハイアン領の領議会のある委員会で行われた記録であった。それは現行の政策を今後も続けていくと主張する領主を筆頭とした主流派が反対派を強引にして案を通した、まあ歴史的にも世間的にもよくあるものであるのだが、興味深いのはその反対派に若い貴族のいたことである。
 その委員会、広げてはハイアン領の主流派は、いわゆる王党派である。
 特に代替わりしたばかりの領主アイラ・レド・ハイアンは、急逝した父の示した施策――東大陸において第一王位継承者が提唱した改革への支持をそのまま固持することを是としていた。
 それが無理もないことだとは、ティディアも理解している。
 何しろ当代のレド・ハイアンは年若い。しかも先代が彼女に家督を譲る支度をしていたわけでもなく、場合によっては彼女の異母弟が次代の領主と指名されていた可能性もあった。そのような立場にあって、その本心はどうあれ、自身の地位と地盤を固めるために父の意思の継承を宣言するのは当然の戦略であろう。
 ――が、残念なことに、その父の意思が悪かった。
 確かに先代のレド・ハイアンは、王女の改革路線を忠実に守っていた。だが同時に、それが周囲の既得権益者たちによって骨抜きにされ、以前より東大陸の抱える問題――例えば脱出できない低成長――をむしろ悪化させてしまっていた。であるのに、先代は何の手も打たなかった。それどころか、そうすることによって自身の“利益”も上がることを知ると、自分は王女の命令に忠実であるということを頬かむりにして全ての改悪を黙認していたのである。
 東大陸の経済は五大陸の中で最も低迷している。
 その中でハイアン領関連のものはなるほど堅調である。
 しかし低迷の中の堅調は、つまり停滞である。もっと言えば死に体である。
 それを指摘し、今こそ是正を求めていたのが、ティディアの気を引いた若い貴族――キリフ・レディアントだ。
 彼は数年前までは貴族の地位を失いかけた『称号貴族ペーパーノーブル』であったところ、先代レド・ハイアンに拾われて公職を得た男であった。それが、先代亡き今、当代に苦言を呈し、その姿勢に極めて強硬に反対を示している。裏切り者、忘恩の徒、様々な悪口あっこうが飛んできても彼は怯まず若い女領主を攻める。故に、彼はまた冷酷非道な悪となってしまう。
「問題は、理路整然過ぎることねー」
 ティディアは誰にともなくつぶやく。
 そう、議事録にある彼の主張、言葉、提案、それら全ては見事なほど論理的であった。が、それ故にひどく情感に欠けていた。亡き父の重責を健気に背負おうという女領主への支持の大半がその情感によるものだとすれば、彼の言動はあまりに機械的過ぎた。
 大衆というものはおよそ感情によって動くものである。
 そして大衆を扇動して利益を確保しようというものは、理論より感情に訴えるものである。
 何しろ感情こそは、解りやすい。
 解りやすければ共感もしやすい。
 共感できれば、その相手はつまり己と心を同じくする者――故に正義である。誰がそもそも己を悪として認定するために人に共感するだろう? 例え己を悪として認定するために共感するとしても、そうすることで強者の立場に至るためなのだ。
 キリフ・レディアントは、その意味であまりに愚かであった。
 ――けれど、見どころはあり。
 鼻歌混じりにティディアはボードスクリーンのキーを打つ。キリフ・レディアントを陰ながら支援するようハイアン領にいる手の者に命じて、するともうそれを忘れたように次の書類に目を通そうとして、ふと思う。
 小腹が空いた。
 側仕えに用意させておいた焼き菓子に手をつけようとするが、止める。
 代わって彼女はpに命じてピザを取らせた。デリバリー先はもちろん王城である。配達可能域にある宅配サービスの中からロボットではなく人間の届ける店舗を選ぶ。正門を突っ切らせるのも面白いが、まあここは搬入業者も利用する通用門にしておこうか。受け取りに出るのはもちろん第一王位継承者ことティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナである。あ、そうだ! 国教会の儀式に出るようながっちがちの礼装を着こんで受け取りに出よう。配達人は一体どんな顔をするだろう? 警備兵にも通達しておかねばならない。でなければ配達人は射殺されるか、警告に怖気づいて逃走してしまうだろう。ああ、でもどんな顔をするだろう!
 にまにまと相手の反応を想像しながらティディアは株を買う。買うのはその宅配ピザ屋の運営元と、同一業種の企業を各大陸からピックアップして。そこに食材や容器を入れている関連企業と、デリバリーロボットを開発販売している企業からもいくつか。中央大陸の市場等まだ開いていない所は翌朝の開始次第取引するようA.I.に指示を出しておく。手元のわずかな動きで何億リェンが一瞬にして動いた。わずかな時の経過で利益が出て、損失も出ていた。ついでにちょうど値下がり傾向にある国教会へ関連グッズを卸している会社の株も買い足しておく。
 ところでふいに、彼女の脳裏に先に思索したキリフ・レディアントとレド・ハイアンのことが巻き返してきた。
 そうそう、“裏切り者”との議論の中で熱くなった女領主は面白いことを言っていた。『私は先代に倣い、王太子殿下の指導なされる空前絶後の大改革を堂々と推し進め奉るのです』――キリフ・レディアントはクソ真面目に反論を試みていたが、彼の百の言葉は“空前絶後の大改革”というフレーズ(とそこに込められた王女のイメージ)を覆すことができなかった。しかし、ニトロなら――と思ったが同時、考える前にティディアの指は飛んでいた。まばたきの後には呼出コール音が鳴っている。
「何ダイ?」
 とても不機嫌な声だけを寄こしてきたのは無論、彼のオリジナルA.I.である。
「ニトロと話したいのよ」
「当タリ前ノヨウニ非常識ダネ、何時ダト思ッテルンダイ」
「起きているでしょ? どうせ試験勉強をしているんじゃない?」
「分カッテルナラ邪魔スルナ」
「明日の夕方までの安全を保障する」
 一瞬、芍薬の反応が遅れた。通話を切ろうとしたところに思ってもない提案がなされ、
「ソレヲ、誰ガ保証スル?」
 ティディアは微笑した。
「私が」
「違エタラ?」
「ニトロにかけてある出国禁止措置を解除する」
「違エタラ?」
「芍薬ちゃんとの交渉の余地を失うのは、私にとってどれほどの損失だと思う?」
「……」
「……」
「明日一日ノ安全ダ」
「夜まで」
「時刻デ明確ニ示シナ」
 ティディアは苦笑する。ならば、
「17時」
「ソリャ夕方ダロウ」
「日は沈んでいるわ」
「駄目ダネ」
「なら18時」
「19時」
「やー、そしたら私は舞踏会に行かなくっちゃ」
「20時」
「増えて」
「21時」
「20時、了解」
 それから少しの間があり、
「何だよ」
 やはり不機嫌な声だけを返してきたのは無論、ニトロである。ティディアは矢も楯もたまらず訊ねた。
「ね、私、明日の演説で空前絶後の大改革を打ち出そうと思うんだけど」
「空前はともかく後は絶っちゃダメだろ」
 刹那、ティディアの首筋に電気が走る。
「あ」
 と、追ってニトロが声を上げた。己の悪い癖、思わずツッコんでしまった失態を自責したのだろう、それがまたティディアの口元をどうしようもなく緩ませる。
「つか、そんなん俺が意見するこっちゃないだろ?」
 彼はさらに続けるが、その言葉の奥には深い困惑があった。当然である。自分が彼に『公務』に対して意見を求めるのは普段は皆無だ。ティディアは回線越しに彼の表情をありありと想像しながら、
「意見はどうでもいいの、どう思ったかだけ聞ければいいのよ。どうせ私が意見を変えないのは分かっているでしょ?」
「……」
 少しの間を置いて深いため息が聞こえた。どうやらこちらの意図を察したらしい。しかし、応える心づもりがあったのなら、それでも真面目に応えてくるのがニトロ・ポルカトである。彼は言った。
「まあ言いたいことも分かるけど、つーかそれで全部片付くと思っちゃダメだし、思わせようってのは詐欺みたいなもんだろ。もしそれで本当に全部片付くと思ってんならお前らしくないし、もしそれで本当に片付くと思うようならそいつはもう不断の努力を今後続けるつもりはないんだろうさ。そしたら結局、改革なんてできないんじゃないか?」
 ティディアは笑い声を上げた。本当は初っ端の一言から我慢していたのだが、もう堪え切れなかった。気持ち良くって堪らない。ああ、何故なにゆえ貴方はあの時あの場所にいなかったのだろう?!
「なんだよ」
 気を悪くした声が聞こえた。
 笑いをどうしても抑えられずに震える声をティディアは返す。
「とっても参考になったわ。だから面白くって」
「……まあ、参考になったのなら光栄ですよ、偉大なる王女様」
「やー、本気よ本気」
「そうかい。それじゃあお休み」
「ええ、励むわー」
 通話口の先からニトロの苦笑が聞こえた。その漏れ出した音に耳をくすぐられ、ティディアの体がまた震える。
 接続は名残もなく切れてしまった。
 無音の中、ティディアは録音時間を記す通話アプリをぼんやり眺める。もう一度聞くまでもなく、彼の声が脳裏にこだましている。
 そのこだまの中に留まっている内、彼女は我知らず息を止めていた。
 すると呼吸することで酸素を取り入れ、それを血が運び、常に全開で働き続けていた彼女の脳が夢想のために時を止める。
 今日のこの日の中で唯一の、眠りよりも深い停止――
 窓の外には冷たい雨が降る。
 ティディアはくうに彼の過ごす部屋を描く。その温かな部屋にいる彼を思う。
 日付が変わった。
 エア・モニターの一つの窓で、8時間の時差のある市場が取引を停止する。彼女はハッとして、それに気づいた。

 何の因果か……
 そんなことを思いながら、ニトロは通話を切った。
 すぐに目を戻した板晶画面ボードスクリーンにはアデムメデス史の資料集がある。
 ちょうど歴史の復習をしていた折に、現代の権力者様からあのような下問を受けるとは……それが戯れとはいえ、妙な気分になるものだ。
 しかしいつまでもあいつの戯れに心と時間を割いている暇はない。
 明日の平穏は(といって最大脅威の薄れただけの平穏ではあるが)確保できた。
 それでも明日は一体何が起こるか分からない。
 一秒後にだって異変に襲われるとも限らない。
 だから、出来る時に出来ることはやっておかねばならない。今は勉強の時間である。体力増強の必要性と同じく、頭脳の強化も必須であるのは、良くも悪くも身近にいる人間達と接する中で痛感していることだ。腕の力でしか解決できないこともあろうが、頭の力でしか解決できないこともあまりに多い。
 ニトロはアデムメデス史の講義を倍速再生しながら、その内容理解を資料集で補強していく。
 それにしても何千年も前の人間の、現在にも通用する美点に触れればそれを普遍の事柄として感動する一方で、何千年も前の人間の汚点が、近現代にもまた繰り返されていることを知ればそこに進歩のなさを見て失望するのは不思議なものだ。
 そう、歴史を鑑みれば人類はずっと良くなってきているはずなのに、現実を鑑みれば人類はずっと悪くなっていると思えてしまう。
 この感覚に名前を付けるなら“上から目線”とでもなるのだろう。
 ニトロは思わず、苦笑してしまった。
 そうだ。
 請われるままに応えたが、あれは随分上から目線の物言いだった気がしてならない。
「ドウゾ」
 横から伸びてきた多目的掃除機マルチクリーナーのロボットアームがマグカップを置く。
 ミルクの香りにハーブの香り。
 ニトロはマグカップに口をつけた。
 芍薬は最近ハーブティーのブレンドに凝り出している。これまでは母の持ってきたものをより良く淹れることを目標としていたが、自分でもアレンジしてみたくなったそうで、母に意見を求めるだけでなく色々調べてもいるようだ。
 今夜はカモミールが加わっていた。
 特有の甘い香りが心地良い。
 そういえば昨日今日と少し食べ過ぎていたっけ。なんだかどうしてもお腹が空いて、もしかしたら体が疲れを訴えていたのかもしれないが、とかくカモミールには健胃作用もあったはずだ。
「うん、美味しい」
 口元がほころぶのは、事実その美味しさだけのせいだけではないだろう。
「日付ガ変ワッタヨ」
「もう?」
「頑張リ過ギモ良クナイヨ」
「言われるほど頑張ってるかな」
「最近睡眠時間ガ減少傾向ダ。良イコトジャナイネ」
「寝るのも大事?」
「御意」
「ショートスリーパーだったらなあって時々思うよ――つうより、思うようになったのかな」
「テコトハチャント寝ルベキジャナイノカイ? ソレガ主様ノ最適ナノサ」
 はっきりとした芍薬の小気味良さにニトロは小さく肩を揺らす。
「これを飲んでから三十分。どう?」
「承諾」
 ニトロは伸びをした。
 ハーブティーと芍薬との会話で随分リラックスしたように感じる。――ということは、なるほど確かに疲労が溜まってきていたのだろう。
 ゆっくりハーブティーを飲みながら、彼は言う。
「ハラキリは、明日は?」
「ドウヤラ不都合ニナッタミタイダヨ」
「……残念」
 明日はジムでしっかり鍛えて欲しかったのだが……しかし、となるとティディアと結んだ芍薬の“契約”は効果覿面である。
「それじゃあ今日は少し、どこかぶらついてみようかな」
「何モ考エズ?」
「うん」
「ソレハイイネ」
「うん」
 ハーブティーを飲み干して、ニトロはもう一度伸びをした。
「さて」
 ボードスクリーンを手に取って、今度は銀河共通語の教科書を開く。マルチクリーナーが空のマグカップを洗い場に運んでいく。
「もう少し、頑張りますか」

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