(おみくじ2020『大凶』の翌日)

 現実感、とは奇妙な言葉だ。
“現実”は常にそこにあるのに、現実感、と言うと途端にそれが曖昧になる。
 感覚される現実。
 だが、そもそも現実とは感じることのできるものなのだろうか?
 現実は確かに常にそこにある。
 しかし、それを感覚した瞬間、現実とは、ただ感覚する個人に内面化されたイメージに過ぎなくなるのではないか。
 すなわち、万人が万人に共通する“現実”などは存在しない。
 逆説的ではあるが、その意味では『現実感』こそが正しく『現実』であるのだ。
 常に我々を取り巻く現実は常に曖昧に存在し、ただ我々には個々に固有の確固とした現実感だけが常に与えられている。
 だから、例えば現実感がないということは、現実に伴われるべき実感がないのではなく、それはその個人が感覚する現実が、単にその個人の抱く『現実』のイメージにそぐわないか、イメージの許容範囲を超えた状態にあることを示すのに違いない。もしあなたに確かな現実感があるというのなら、それはあなたが以前から現実に期待するイメージに、現状が理想的にオーバーレイしているということなのだ。
 現実を見ろとはよく聞く言葉だが、であればその言葉ほど現実を直視していないものはない。
 なるほど現実は常にある!――ただし、それは各個人の内面にのみ存在するイメージとして。
 内面化されたイメージを見ろとは、それこそ非現実なことではないか?
 もし他者の意識を変えたいのであれば、正確にはその『現実感』をこそ修正しろと助言すべきではないのか。
 してみると、さて、ではこの現状に『現実感』を得られぬ己はどのように内面のイメージを修正すべきなのであろう。
 ニトロ・ポルカトは、そこでふと息を止めていた自分に気づいて、ゆっくりと息を吸った。彼の体は外的な力を受けて激しく揺れていた。
「ニトロさん! ニトロさぁん! 見て見てあと一つ! 27でフィーバー!」
 深緑の残滓に濡れるカクテルグラスを片手に、もう片方の手に数字と穴の並んだカードを持った半裸の女性が肩をすり寄せながら――というよりタックルじみた激しさで何度もぶつかってきながら声を張り上げる。興奮を隠さぬ彼女は豊かに波打つ金髪を振り乱し、金色のマスカラのかっと見開かれた両眼をまるで大輪の花のようにして、燃える血によって真っ赤になった耳や頬よりもなお赤い口紅を、ミラーボールの不規則に乱れる光片に濡らしている。彼女の向こうにはブラックライトに青く輝くシャツらが無数に妖しく揺らめいて、他方ではカクテルライトの淫らな色に肌を染めた老人が編み込んだ自慢の髭を撫でている。ニトロの耳は、先刻まで空間を揺らしていた音の余韻にまだ重く痺れていた。
 無数の人の蠢くダンスフロア。
 その中心には――広いとはいえ天井の低く配管もむき出しのフロアの中心には、小ぶりながら、この場には似つかわしくない噴水があった。古代遺跡から引っ張ってきたかのような厳めしい彫刻の吐き出す水は微かに香る。それがとても高価な香料を用いたものであるとは先ほど聞いた。そして古代より人を惑わす効果の謳われているものであるということも。ただ、友人が言うには、そういう効能が科学的に実証されたことはないらしい。しかし非科学的には効果を発揮するようで、甘さと甘ったるさの中間をいく幻怪な香りに包まれて、例えば傍らにいる女性のようにハメの外れた大人達がそこかしこに存在し、噴水の縁に腰かけて肩を寄せ合う二人などは今にも公衆の面前でおっぱじめそうだ。こんなこと……ニトロは、それこそ香薬のせいだと思いたくてならない。
 だが、もし二人が本当に性交を始めたとして、果たしてこの場にそれを気に留める者はどれだけいるだろう? あらゆる光を溶かし込み、また反射する噴水の中心で香水を吐く像の中に一際大きく彫られた竜がある。その背には一人ひとり女が寝そべるように座っていて、皆の目はただ――二人だけの世界に甘々と浸っているはずの即席カップルの瞳でさえ――そこに集中していた。
「2じゅう……」
 その女の声は香水よりも甘く華やかにフロアに響く。
「9」
「ああ!」
 ざわめくフロアで、ひときわ悲痛な声を上げたのはニトロの傍らの女だった。彼女の手を離れたカクテルグラスが劇的な音を立てて砕け散る。女はその場にうずくまり、するとその白い背中に、それまで忠実な守衛であった黒いブラジャーが突然牙をむいたかのように食い込んだ。それが苦しいのか、それとも惜しくも的中ビンゴを逃した事実を振り払いたいのか、女の手が背に回り、ホックが外される。ストラップが緩んだかと思えば、分離したバックベルトの片端を女の手が握りこみ――
 ニトロは、ぎょっとした――否、ぎょっとしない自分を不思議に思ってぎょっとしようとした。
 目の前に、うずくまった状態から勢いガッと立ち上がった女の乳房が豊満に跳ねてぶるんと揺れる。
「姫様ー! 姫さまぁーあ!」
 外したブラジャーをタオルか旗かのように振り回し、女はぴょんぴょん飛び跳ねる。
「27! 27です27! ほらニトロさぁんも27!?」
 同意を求められても困る。女は同意を得られなくとも構わず期待に漲る乳房を跳ねさせる。
「ほらお聞きになりましてニトロさんも姫様ポルカトさぁんも27って言ってますよー!」
「いや言っ「ヒメさまオぉ願いしまーッ!」
 反射的にツッコみかけたニトロは、しかし耳をつんざく女の懇願に閉口してしまった。やがて聞こえてきたのは口笛や女を囃し立てる声、あるいはライバルに負けじと己のビンゴカードを掲げて噴水の中心に横たわる竜女に数字ナンバーを求める声。
 アルコールと汗と人いきれ、ダンスの熱の残るフロアは誰の熱狂をも歓迎する。
 女の破廉恥を咎める目も非難する眉もここにはない。
 というかニトロのもう一方の傍――上半身裸で飛び跳ね続ける女の反対側には男が床にうつ伏せて、屈強な尻を丸出しにしている。
 ミラーボールの乱反射とブラックライト、カクテルライト、視覚を惑わす光の中で女の乳首が分裂し、それらが一つながりとなって卑猥なラインを描く。男の尻は二つ峰を描いて不動である。
 男のズボンとパンツはずり落ちて足枷のようになっていた。先刻、ダンスの最中、それらは彼の背後から突然引き落とされたのである。それは気の知れた身内のよくある悪戯といった様子だった。しかも主犯は被害者の部下で、王女もいる場で性器を晒してしまった上司は、なのに一本取られたとばかりにゲラゲラ笑っていた。間近にいた女性は嫌だと言いながらも笑顔で痴態を眺め、むしろ男性陣の方がまだ嫌気を示していたと思う。ただその頃には既に彼らを非難する者は誰もなかった。ズボンを支えていたサスペンダーも無理に引っ張られた挙句に外れた勢いで跳ね上がり、奇跡的な軌道を描いて近くにいたご婦人の派手な髪飾りに絡みついてしまったのだが、ところがそのご婦人は泥酔加減で全く気がつかない。それを周囲の人間はどういうわけか日常ごとのように受け入れている始末。そうだ、今思えば、その頃からこのフロアの空気は完全におかしくなっていた。
 何がきっかけだったのかニトロには分からない。
 ただ、メディアや各種関係者を招いて開かれた『映画』の完成試写会から続けて開かれたこのパーティーの主催者挨拶、その後もダンスタイムを挟んで催された数々のイベントの折々に彼女の唇を割ってフロアへ放たれた言葉、言葉、言葉の作用がこの結果を招いたように思えて仕方がない。ズボンとパンツを引き上げようとしたその男はシャンパングラスを落としそうになり、それをこらえようとして足をもつれさせて顔面から転んだ。彼の――確か超有名広告代理店の――部下らはひとしきり笑い転げ、それから突っ伏したまま動かぬ上司を放ってバーカウンターに行ってしまった、それもまるで日常ごとのように。やがてレトロな給仕服姿で歩き回るウェイトレス・アンドロイドの一体がやってくると倒れた男を診察し、それもそのまま去ってしまった。ということはつまり大事はなかったのだろう、実際、彼の背中は今も安らかに上下している。そして一方ではおっぱいが激しく上下している。
 ああ、現実感、とは奇妙な言葉だ。
 ニトロは思う。
 こんな状況はこれまでの人生において全くなかった。
 このような乱痴気騒ぎがあると噂には聞いていたが、それに自分が遭遇するなどきっと将来にわたってないだろうと何の疑問もなく確信していた。そのはずだった。
 だが、この現実。
「27! 2じゅなつぎは姫サマ2じーーーななーーーーーア!」
 それまで別所に目を向けていた、竜の背に横たわる女が、やっとこちらを見た。
 乳房がこれまでになく震える。
 竜の背の女――姫様――ティディアはどこか鱗を思わせるタイトなロングパンツに通した足を組み、ブラックライトに青く光るタンクトップの上にワンサイズ上の黒いTシャツをダボつかせている。彼女の身動きに合わせて、その胸元に散らされたラメが明滅していた。
 乳房が、止まった。
 ティディアは微笑んでいた。
 やおら彼女は奇妙なほど緩慢に片眼を閉じると、優雅に人差し指を立て、それを暗緑色の紅の差された唇に寄せていく。艶めかしい唇の端は引き上げられ、この距離ではその吐息は聞こえないはずなのに、ニトロは、確かに「しぃ」と吹きかける音を聞いた。
「――はぁ……」
 と、硬直した横隔膜を絞り込むようにやっと息をついたのは傍らの女である。否、竜の背の姫君のその微笑と仕草を目撃した皆々がそれぞれ彼女に見惚れ、ある者は女と同じくため息をつき、ある者は膝から崩れ落ち、ある者は茫然自失とただただ王女を凝視し続けていた。
 王女、そう、王女だ。
 ニトロはそれを再発見した。
 おお、この現実!
 そして彼はまた発見する。
 27が来れば一番に的中となる女に向けられているとばかり思っていたティディアの眼差しが、いつしか自分に注がれていたことを。その指と唇が「しぃ」と命じているのは、賑やかな半裸の女ではなく、実は自分であったことを。
「……」
 彼はぞっとした。所在なく体の脇に垂らしていた握り拳を慌ててスプリングジャケットのポケットに突っ込んだ。その手の中にはくしゃくしゃのビンゴカードがある。パーティー会場に入った時に配布された、この場で一番の年配者も初めて見たという紙製のビンゴカード。縦横7×7のマスには1〜147の数字が無作為に並び、その内、真ん中はフリーナンバーだ。マスには上と左右に切り込みがあり、押し込めば穴を開けられる。ゲームマスターはクジなりマシンなりアプリなりを用いて抽選し、数字を読み上げていく。読み上げられた数字がカードに印字されていればそこに穴を開け、縦横斜めいずれか一列に穴が開けば的中ビンゴとなる。
 何のことはない、普通のビンゴゲームである。イレギュラーと言えば主流の5×5マスに対して数が多いことだけ。アプリケーションにしても彼も知るオーソドックスなビンゴアプリが用いられていた。
 しかしニトロは、信じられなかった。
 ゲーム開始からすぐ、ティディアが六つ数字を抽選し終えた時、彼のカードには中央縦列にキレイに穴が並んでいた――いや、それは真実ではない。彼はもとよりパーティーのどのイベントにも積極的には参加していなかった。“主演挨拶”だけは強制的にさせられたが、その後はその折々に一番人口密度の薄い場所を求めてさまようだけ。形ばかりに軽食をつまんで、時折値札のない商店で慎重に品を見定めるように話しかけてくる相手と適度に言葉を交わしたら、いつもどこかに行ってしまう友人を探すことを口実にその場を離れてまたさまようだけ。だから彼は、最初から熱狂するゲームの最中、一人ビンゴカードに穴を開けてはいなかった。
 しかし穴を開けずともカードはぼんやり眺めていた。
 二つ目の数字が読み上げられ、次に上から順番に穴が三つ並んでフリーナンバーとつながった際には、ぼんやりと、まあそういうこともたまにはあるだろうと思っていた。
 四つ目の数字がフリーナンバーの直下にあると知った時、変な汗が出た。
 彼は彼女に疑惑の目を向けた。
 ゲーム開始時に噴水の上部に投影されたアプリの画面は、ニトロも学校のレクリエーションで使用したことのあるものと全く同じであった。だがしかし、それが本物であると誰が保証できる? 暗黙の了解として皆はそれが正規品であると承認しているが、そこに誰の作為もないと誰が証明できる?
 五つ目の数字も中央縦列を貫いたところで、ニトロはそっとビンゴカードを握り潰した……それを、あいつは見ていたのだろうか? 他の誰よりもあいつの目だけは避けるようにして棄権したのに? 続いて読み上げられた六つ目の数字も間違いなく中央縦列最下層に印されたものであった。やはりあのアプリにはあいつの悪意が反映されているのだろうか。ニトロにはそれも証明できない。ただ「しぃ」と沈黙を命ずる王女の姿が恐ろしい。
 こちらを見つめていた、あの黒曜石の双眸。
「ッ――」
 ニトロは堪え切れずに目を背け、どこか安心できる目の置き場を探した。
 と、彼はここからそう離れていない場所、バーカウンターの片隅に背を丸めて座る女性を見つけた。長身の彼女は自身の存在までをも縮めようというように背をぐっと丸め、青いグレージュの髪を厚い肩に垂らしている。
「?」
 ニトロは彼女の様子がおかしいことに気がついた。彼女の視線は三点の間を忙しなく移動し続けている。その一点はフロアを動き回る恋人……実際には内縁の夫である『映画監督』。もう一点は彼女が胸の前で手の中に隠しているビンゴカード。最後に王女――彼女が経済的にも精神的にも支え続けてきた男を大抜擢してくれた恩人――ティディア姫。
 どうやら彼女もリーチがかかっているらしい。その狭い額には不安が粒となって光り、その気弱そうな眉の下では眼球が飛び出さんばかりに丸くなり、そのせいで三点を行き来する瞳はぎょろぎょろと彼女の秘密を周囲にばらしてしまっている。
 ニトロは反射的にティディアに目を戻した。
 すると彼は王女が己の視線を追い、彼女もまたそれに気づいたことを知った。
 内縁の妻の助けを求める視線を受けてフロアを歩き回る監督は、ただひたすらこの場で何か傑作を得ようとカメラを回すのに夢中である。
 その監督が通り過ぎた先にニトロはハラキリの姿を見つけた。友人はこちらの視線に気づいたようで、ひらりと手を振ってくる。彼のもう片方の手にはクラッシュアイスの間にカットフルーツの浮かぶタンブラーがあり、どうやら彼はカクテルを飲んでいるらしい。確かに、ここに参加する未成年には『酔い止め薬』が配布されている。それを飲めばアルコールに関する『特区』でない王都にあっても“保護者”の監督下である程度のアルコール飲料を摂取可能だ。が、ニトロは友人が薬を飲む瞬間を現実に見たというのに、実際には彼が本当に薬を飲みこんだのか確信が持てずにいた。いつも笑っているような顔の友人に今も酔った様子はない――それでも、本当は彼は酒を何の阻害もなく楽しんでいるのでは?――そう思えば何やら恨めしくもなる。酒を飲んでいることがではない、彼が呑気にこの場を楽しんでいることが恨めしい。
 何か愉快気にハラキリが笑った。
 ニトロは胸の裏がきっと表に出てしまったのであろうと気づいた。
 思わぬ羞恥が頬に差す。
 すると隣でおっぱいが激しくまた跳ねた。
「27! 27! 27!」
 見ればティディアの頭上にある画面で、ルーレットがゆっくりと回り始めていた。
「27! 27ぁああ!」
 ブラジャーを振り回し、ぴょんぴょん跳ねる金髪の奥、その頭脳はあのモスキート型のカメラを作り出す主力であったと聞いたはずだが、ニトロはいまいち記憶に自信がなくなってきた。
 この現実。
 ブラジャーが回る、回る。
 ルーレットが回る、回る、回る。
 これまで見知った現実とはかけ離れた現実。回る。現実感はなく、現実感を得ようと思っても助けを求めた同級生はまた姿を消してしまった。
 回る、回る、回ったルーレットがふいに止まる――その刹那、ニトロはティディアの瞳に閃くものを見た。それはまるでこれから一瞬間後に起こることを確実に視たといった様子で、その口元にかすめた影は不吉と恍惚を孕み、ニトロは、彼女が未来視したものを再び現実に見ようとこちらを見つめてくるのに一段と現実感を喪失した。
「21!」
 その数字が読み上げられたが同時、
「うわあ!」
 そう離れていないところから悲鳴に似た野太い声が聞こえた。
 また、どこかにまさしく悲鳴にしか聞こえぬ金切り声も上がった。
 とうとう的中者が出た。
 おめでとう!
 一等に贈られるのは体重と同じだけの重さのきんである。複数同時に的中が出た場合はそれぞれの体重の総計を人数分で割って山分け。『映画』の完成に、ひいてはその大成功を祈念して超ご機嫌な王女の超大盤振る舞いである。
 巨大な幸運を得た二人の周囲に羨望と祝福と嫉妬が一気に湧き上がる。
「ヒュッ」
 突然、鋭い風切り音が鳴った。
 反射的にニトロが振り返ると、ウェーブのかかった金髪が勢いよく振り上げられ、ツンと突き立つ乳首が天を向いていた――瞬間的に入ってきた視覚情報が何を意味するのかニトロが読み解くより先に、あと一歩と迫ったところで金塊の山を逃した女が、ちょっと恐ろしい音を立てて後頭部から倒れ込む。
「うわあ!?」
 驚愕し、ニトロは倒れたエンジニアを介抱しようと屈みこんだ。場の空気に飲まれている中にも流石にこれは看過できず、もう一人二人と助けに入ろうと近寄ってくる者がある。その後ろには手が足りなければ力を貸そうという雰囲気が控える。
 エンジニアは完全に失神していた。もしかしたら倒れる前から失神していたのかもしれないが、とにかく彼女は白目を剥いていた。ぽかんと開いた口の奥には虚無が見える。ニトロは介抱しようとしたのはいいものの、その方法が分からず戸惑い、そのまま動きを止めてしまった。その様子につられて他の二人も動きを止めてしまう。そのことで何やら重い責任を感じたニトロは焦ってしまった。そういえば脱ぎ癖のあるこの人を始めは止めていた同僚はどこに行ったのだろう? 焦燥と共に思い出されるのはその人が憧れのタレントに声をかけられ、うまく会話できず、やけ酒をあおって酔い潰れて壁際に転がっていることだった。もちろん助けなど乞えるはずもない。現実に目を戻そう。両腕は万歳とばかりに投げ出して、両脚は滑稽にもガニ股に開き、そして豊かな乳房をあらわに横たわる女の姿を改めて見ると……ニトロは一つ、行うべきことを理解した。スプリングジャケットを脱いで、彼女の体を隠してやる。これは丈の短いもので全身を隠すには足りないが、胸から股間までは覆うことができたから、それだけでも上々だろう。
 レトロな給仕服のウェイター・アンドロイドが駆け寄ってくる。
 ニトロは場を明け渡した。
 アンドロイドはエンジニアを診察し、追って加わった応援と共にすぐさま彼女を運び出していった。
「なんだろ!?」
 突然、尻丸出しで寝ていた男がガバッと起き上がった。間の抜けたタイミングでの覚醒に周囲に小さな笑いが起き、的中者のいる辺りから熱気と興奮が伝わってくると、早々に今のアクシデントは忘れられてしまった。
 その中でただ一人、倒れた女を見送ったまま呆けていたニトロは、ぼんやりと、ただ何を考えることもなく、ただ何となく首を回した。すると噴水の中心、見事な彫刻の中でも一際見事な竜の背に座す、あの女が見えた。
 そこから全ての騒ぎを眺望していた王女は体の内から沸き上がるものに堪え切れぬように身悶えていた。生々しく、もしそこに口づけられるならまさに命を捨ててもいいと断言する者の絶えぬ頬には傲慢な満足が微笑となって輝いていた。
 ニトロはティディアと目が合おうという瞬間、目をそらした。そして目をそらしたその瞬間、それを避けようとしたのに避けきれず、視界の端に尋常ならざる愉悦の眼差しを見てしまった。そしてそれは今も首筋をちりちりと焼いてくる!
 その感覚から慌てて逃れるように、ニトロは再び監督の恋人を探した。
 あの人はきっとそのかねが欲しかっただろう。それがあれば生活力皆無の監督おっとを支える経済的な苦労はなくなるだろうし、さらにはどんな映像を撮らせてやることもできたかもしれない。だから、彼女はとても残念がっているだろう――そう思っていたニトロは、しかし、裏切られた。
 相変わらずバーカウンターの隅の席で縮こまる彼女は確かに残念そうではあった。が、それ以上に、何故だか安堵しているようであった。いや、確かに安堵していた。
 ニトロには、それが何故なのか解らなかった。
 芸術家にして不世出の天才を自称する男に連れ添う彼女の苦労を聞いた身としては、かつ恋人かんとくにやっと作品を撮らせてくれたことを涙ながらに感謝された身としては、そのおもてに浮かぶ幸福と被虐と優越の混在する安堵がどういうものであるのか、どうしても理解できなかった。
「どうしました?」
「うわ!」
 疑念の底に沈みかけていたニトロは、急に意識を引き上げられて思わず声を上げた。
「どうしました」
 振り返れば、いつの間にか近づいてきていたハラキリ・ジジが怪訝そうに片眉を跳ねている。ニトロはどう応えようか逡巡し、
「……どうしたもなにも、見てなかったのか?」
「ああ、彼女を?」
「倒れて運ばれた」
「はあ」
 生返事をしてハラキリは、あの的中者の一人が何か言ったのか、大きく上がった歓声に気を取られてそちらに目を向ける。
「心配だろう?」
 反射的に、半ば怒りを込めてニトロは言う。
 ハラキリは振り返り、と、その拍子に何かを見つけたようだ。体を曲げ、それを拾い上げる。彼の手に取った丸く潰れた紙屑に気づき、ニトロは「あ」と声を飲み込んだ。
 紙屑が開かれる。
 ニトロはエンジニアを助けようとした際にうっかり落としていたそれを凝視する。彼は耳のすぐ下にまで心臓がせり上がってきたように感じた。ハラキリはそれが誰よりも早く的中していたと分かるだろうか? いや、まさか今まで出た数字をその順序まで全て覚えている者はあるまい?――いや、だけど、このハラキリ・ジジならきっと……
「ふむ」
 と、ニトロはハラキリの鼻を鳴らすのを耳元で聞いた気がした。
 するとハラキリは何食わぬ顔でカードを握り潰し、そのままポケットにしまった。
 ニトロはハラキリを凝視した。
 ハラキリは言う。
「むしろ、何を心配すればいいのです?」
 その問いかけが何を意味するのか理解するのにニトロは苦しんだ。やがてそれが先の自分の問いかけに対する返答であったことに気がつき、そこでニトロはすぐに心配すべきことを挙げようとして、しかし口をつぐんでしまった。その“心配すべきこと”のことごとくがハラキリに提示してみせるまでもないことだと自分で気づいてしまったのである。そうだ、アンドロイドたちは女性を運んでいったが、そこに重大な緊急性を見出すことはできなかった。例え頭部に重大な傷を負っていたとしても、それをリカバリできない体制をあのクレイジー・プリンセスが看過するものか?
 また大きな歓声が上がった。
 何が起こったのか、ニトロは人々の隙間にそれを見た。
 一等的中の一人は小柄な男性で、もう一人は細身の女だった。その両者が今、共に酒瓶に直接口をつけて懸命に飲んでいる。どうやら測定までに体重を増やそうというつもりらしい。明確に嵩増しをするその姿。レギュレーション違反なのかどうかグレーだろう。ところが、その体重と同じだけの金を支払うと約束した主催者は眼前で見逃している。それどころか主催者は愉快気に体重測定は1時間後にすると宣した。となれば的中者たちは目の色を変えて腹に重量物を詰め込もうと挑みかかるし、それ以上に、おそらく彼と彼女からおこぼれを頂戴しようという知人友人諸氏が目の色を変えて二人を応援し始めて……その狂騒を眺めるバカ姫の姿こそ、まさしく高みの見物と言わずに何と言おう!
 怪しい香水の泉の中心、竜の背に立ち上がった王女はミュージックを要求する。
 それに応えるのはオーロラ色のサングラスをしたクールなDJ『犬』である。ていうか執事お前何やってんだ。真っ白なタキシードにショッキングピンクの蝶ネクタイを締めたナイスミドルがブースで腕を振る。と、途端、ダンスフロアを音が蹂躙した。
 腹の内部を圧してくる重低音。心を浮き立たせるメロディ。体を加速させるリズム。ミラーボールとカクテルライトの乱反射、不気味にブラックライトを浴びる青白い光の中に人影が狂おしく揺れる。
 ある少女がニトロをダンスに誘った。彼女はニトロも知る人気女優で、今回試写会に呼ばれてきた一人であった。ニトロは半ば戸惑うように、一方でおどおどと断りを入れた。彼女はさして気を咎める風もなく了承した。が、仲間の輪に戻ろうと振り返った彼女の目が何かを有しているらしい男にコンタクトを取ったのを、臆病なニトロの警戒心が見逃すことはなかった。
 若い女優が体にリズムを染みこませながら誰かからカクテルグラスを受け取るのを眺めるニトロを、周囲の人間もまた眺める。
 今、この場において『ニトロ・ポルカト』は不思議な注目を浴びていた。彼がアデムメデスに広く知られるようになったのはつい昨晩のことである。しかもそれは王女のラジオ番組に突如ゲストと現れ、そのブースの様子がインターネットで生中継されたが同時、次期女王を拳骨で殴り飛ばす――という登場の仕方で。それが衝撃でなくて何であろう? 十数秒の空白の後、抗議の電話・メール・各種メッセージにウェブコメントがくに方々ほうぼうで各種回線をパンクさせたという。が、その番組が終わる頃には『ニトロ・ポルカト』を弾劾する言葉は早くも薄くなっていた。代わって浮上したのは「王女の新しい恋人なのでは?」という趣旨の文言。何故なら、それだけその回のラジオは面白かったのである。オープニングでその美貌を打たれたというのに終始上機嫌な王女は『クレイジー・プリンセス』の面目躍如とばかりに嬉々として危険なネタを俎上に載せ続け、彼女の一言一言にスタッフが何度も心臓を凍りつかせる中――いや安全地帯にいるはずのリスナーすら息を飲む中、その全てを、ニトロ・ポルカトは逃げず躊躇わず真正面からツッコミ倒すことで逆に危険を回避し、さらには笑える話とまでしてみせたのだ。オープニングで強かに殴られたはずの姫君の頬には不思議と跡のないことも話題を呼んだ。つまり、それはどれだけ派手に見えても相手を負傷させぬ“極めて高度なドツキ”であるのだと、ある識者がしたり顔で流した動画コメントが大いに注目を集めた。故に、昨晩の衝撃を浴びたばかりのこの場の参加者の多くは、『ニトロ・ポルカト』という巨大な新星をどのように扱うか決めかねていたのである。
 もし、この少年が本当に『王女の恋人』となるならば、今からツバを付けていたほうが望ましい。覚えめでたければ甘い蜜にもありつけるだろう、そう、このパーティーのように。
 しかし、もしこの少年が本当はただの無礼なだけの阿呆で、王女はその気まぐれから単にこれを手慰みにしているだけなのだとしたら? 無論、触らぬ神に祟りなし!
『ニトロ・ポルカト』は一体どのような存在なのか――パーティー会場にいるメディア関係者は特に喉から手が出るほどをその答えを欲している。それなのに、意地悪なお姫様はただ共演者をただの共演者として紹介するに留まっていた……そう、今はまだ
 その事実にニトロはずっとどうしようもない不安を感じていた。気にせず、気にしないようにしていても、心のどこかでずっとあのバカ姫が恐ろしい爆弾を破裂させることを恐れていた。
 恐怖に苛まされる心はフロア諸共肉体を揺るがす爆音と、さあ魂を開放せんとばかりに盛り上がるダンスによってもかき乱される。いっそそこに埋没してしまえば楽かもしれない。しかしそうすればどうなるだろう? 竜の背で肩をくねらせ小さな身振りで大きく踊る王女は人々を魅了し、彼女に先導されて皆は踊る。
 重低音と軽快なメロディの洪水、リズムの刻む光の明滅が耳からも網膜からも脳髄に突き刺さってきて、肌を侵食する熱狂がニトロの肺を圧迫する。
「なあ」
 水中で空気を求めてあえぐように、思わずニトロはハラキリに呼びかけた。だが絞り出されたその声は小さく、彼はこの轟音の中、己の声がどこかを眺めている友人に届きはしなかっただろうと絶望した。
「なんです?」
 が、ハラキリは姿勢もそのままに言った。その声は周囲の音に負けず奇妙にもはっきりと聞こえた。
 ニトロは彼がビンゴの的中者を愉快気に眺めていたのだと、その時知った。小柄な男は自分の顔より大きな皿に盛られた料理を掻き込んでいる。細身の女はウォーターサーバーのタンクから直接水を腹に流し込んでいる。両者共にその形相は必死である。大皿を支えるのもタンクを支えるのも二人の後援者達だ。声援、応援、いやそれは声援なのか? 応援なのか? むしろ罵倒ではないのか。されど幸運に浴した的中者達は限界を超えていく。
 茫然と、もはや鬼気しかないその光景にニトロが茫然としていると、ハラキリが繰り返した。
「なんです?」
「……これは、現実なのかな」
 ニトロはそう言った直後、ハラキリにわらわれると思った。しかし彼は何か物珍しそうにこちらを見ただけだった。そして彼はカクテルを飲む。そうして間を置いてから、彼は言った。
「つまり、これを現実にしたいのですか?」
 その言葉にニトロは面食らった。その顔を見て、今度こそハラキリは笑った。しかしそこに嘲りの色はない。
「現実なんて、すべて結果論ですよ」
 腹の内部を圧してくる重低音、心を浮き立たせるメロディ、体を加速させるリズム。ダンスに興じる人影が、ミラーボールとカクテルライトの乱反射、不気味にブラックライトを浴びる青白い光の中に狂おしく揺れる。それらを背負ったハラキリの表情は陰にあってよく見えない。
「結果論?」
 ニトロの問いに、友の口元に、砕け閃く光の中に、根もなく漂う笑みがかすめる。
「ええ。ただあらゆることの、あらゆる結果にすぎません」
「……なんか、誤魔化そうとしてる?」
「君がそう思ったのなら、結果的にそういうことなのでしょう」
「……」
 煙に巻かれたような、妙に説得力のあるような。
「現実感がないんだよ」
 ニトロは繰り返すように、言ってみた。
「無理に現実だと感じる必要もないのでは?」
 ふいに、急に面倒臭そうにハラキリは言った。ニトロは彼に見捨てられるような気がして恐ろしくなった。と、その時、友人は続けた。
「君がどう感じようが、あれは彼女にとっては現実に起こっている事ですし」
 ハラキリがタンブラーを持った手の人差し指だけ伸ばして示したのは大量の水を口からも鼻からも噴射している的中女で、それから彼はここから見ても顔の青黒い的中男を示し、
「彼にとっても現実的な苦しみです」
 小柄な男は周囲の声に押され、涙と引き換えに肉塊を喉に押し込んでいく。女はそれまで腹に入れた物の全てを吐き出してしまったようだが、周りは早々に再起を促していた。ハラキリの指はニトロの視線を噴水へと促し、
「そしてそれを現実に、彼女はとても楽しんでおられるようで」
 踊りながら、姫君は恍惚と頬を染めていた。欲に溺れる者達を眼下に収め、天をも引きずり落さんとばかりに蠱惑に踊る。時知らず、彼女を讃える声があちこちから沸き上がる。
「……現実感が、やっぱりないんだ」
 そう言いながら、ニトロはハラキリと話したことで気の楽になっている自分に気がついていた。すると不思議なことに、何度も現実感がないと言いながら、それを今や現実に受け止めようとしている自分にも気づいてしまった。瞬間、ひどい恐怖に襲われる。同級生という自分にとって日常の世界にも属しているハラキリ・ジジ。あの日から大変な困難を一つ一つ乗り越えさせてくれた友を――そう、日常の世界に属している同級生を強く意識することによって、ニトロは全く別のことにも気がついてしまったのである。
 嗚呼、そうだ、日常だ……
 日常なのだ!
 この現実感のない現実は、きっとこれから自分の日常を侵食してくる。望まずとも必ず頻繁に遭遇してしまう。最後にはすべてこれらが日常となる。
 現実感がない。
 それは、その現実を拒絶しようという無意識の咆哮であったのだ。
 気づくな、と。
 それを気づかせないための煙幕が、これを現実だと感じさせていなかったのだ。こんなことは現実感のないことなのだと。
 ニトロはため息をついた。
 そのため息は空気を震わせる重低音に散らされて、今度は友に届かなかったらしい、ハラキリはふらりとどこかに消えてしまっていた。
 憂鬱に、ニトロは息を吸った。
 汗とアルコールと人いきれ、甘さと甘ったるさの間をいく香水の中心で両手を天に差し上げてとても気持ち良さそうに踊るティディアは、現実感のないほど美しかった。

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