大凶

(番外編『花よりナントカ』の後、おみくじ2020『凶』の前日)

 ニトロ・ポルカトは疲労困憊であった。
 何故か?
 決まっている。
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナのためである。
 不本意――というより自由意思の介在せぬ映画撮影、その結果出来上がった吐物とぶつにまみれた作品を、『主演男優』としてまずはラジオでPRするという地獄のような仕事。断りたかった。しかし、それこそ不本意ながら、その『映画』の公開を、様々な事情(主に人情)からがえんぜねばならなかっただけでもストレスなのに、その成功のために尽力せねばならないとは何たることか。
 不本意で憤懣やるかたなく、精神的にもナーバスで、己でも気がつかぬほど心の平静は乱れていた。
 そこに降って湧いたのが、PRのために出演したラジオ番組のメインパーソナリティーの暴言狼藉である。詳しい経緯は覚えていない。記憶にあるのはその生番組の始まる前にブースに連れ込まれ、付き合いたくもない駄弁りに付き合わされたこと。自分としては適当にあしらっているつもりだったが、いつしか話題は妙な雲行きを見せ、マイクを挟んでテーブルの対面に座るお姫様のつま先が怪しい動きを見せて――覚えているのはその一言をゆっくりと吐き出すバカ姫の唇の艶めかしさ。あと背筋を駆け抜けた悪寒。
 次の瞬間には、蠱惑の美女――稀代の王女――ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの頬をグーでぶん殴っていた。
 それがブース内の様子をネット中継するカメラがONとなった瞬間でもあったと知ったのは、ひたすら危険なフリートークを繰り出す第一王位継承者を必死にツッコみ倒した後である。
 よもやブースの外ではそんな騒ぎになっているとは想像もしていなかった。
 だってそうだろう? 株の取引に関する不正を疑われた大物政治家の不起訴になったことを揶揄する王女なんて政治的に危険すぎるし、異性の美に対する視線について露悪的な意見を述べようとする美女なんて性差蔑せいさべつについて燃え上がる議論にダイナマイトを体に巻いて突っ込んでいく狂気の代物だ。しかもその爆発に巻き込まれるのはそのフリートークに巻き込まれている平凡な一男子高校生だけで、いや、その番組のディレクター&プロデューサーの首も一緒にすっ飛ぶかもしれないが、とかく問題のその女は爆心地で無傷に終わることの容易に想像できる無敵生命体である。理不尽だ。それを放っておくことなどできるはずもないだろう? 当時の自分は、まるで時限爆弾をリアルタイムで解体せねばならぬ処理班員であった。さらにそいつは時間の経過とともに回路とトラップを増殖させやがる。ひたすら致命的な爆発を避けるために回路を切断しトラップを避け、そのためには迂回や誤魔化しや話題の転化やらを駆使するために脳味噌フル回転、外の世界がどうなっているかなど気にも留められない、留めてなどいられるものか!
 だから、驚いた。
 そう、まずは驚いたというのが正直なところだ。
 どうにかラジオ番組を“番組”として成立させて、ブースから出て、もう一秒たりともクソ女と一緒にいたくないからさっさと帰ろうとして、そうする自分を慌ててスタッフが止めようとするのが不思議でならなかった。
 彼らは何かわちゃわちゃ言っていた。
 だが、自分からすれば彼らはティディアの仲間である。
 自分の仲間は唯一、収録に付き合ってくれた親友のハラキリ・ジジだけである。
 そこでハラキリと共にラジオ局を去ることにした。もたもたしていたら執事の『犬』さんから何か報告を受けている王女様が暇を得て襲いかかってくるかもしれない。
 だから、ハラキリまでもが何故か妙に引き留めようとしてくるのを振り切って――とはいえハラキリ自身はついてきてくれて――自分は王都で最も古いラジオ局を出たのだ。
ニトロッポルカロぉぉ!!
 両開きの自動ドアがスライドし終わる間もなく、その男は玄関脇の陰から、ラジオ局エントランスホールから漏れる光の中へ飛び込んできた。怒号を上げ、その凄まじい目つき、剥き出された歯は殺気に満ち、振り上げられた拳はぐっと固く握られ……だからニトロは驚いてしまった。
「いやポルカ
 反射的に自分の口をこぼれたツッコミはなかなか間の抜けたものだと、その刹那、驚くほど緩慢な世界の中でニトロは思った。後から思い返せば、それはきっと現実逃避の成せる技であったのだろう。
 そう、ニトロは、その時すでに何が起こったのか理解していたはずなのだ。
『ティディア・マニア』
 以前から知るその存在。
 病的なほどティディア姫に心酔するファン――熱心な支持者――狂信者!
 そうだ、自分はティディアをグーで殴った。あのブースの様子がネット配信されていたことを思い出したのは、その自分よりも大きな男が振り上げた拳をこちらに向けて……
「あ!」
 と叫んだのは、誰だったろう。
 ニトロは後になっても思い出せない。その声は自分のものだったとも思うし、暴漢を見逃してしまった警備員のものだった気もするし、それとも突き出した拳を驚くほど滑らかにそらされ、その勢いのまま地に組み伏せられた男の悲鳴だったのかもしれない。
「いてぇなあおぉ!? てめぇ邪魔すぁあああああア!」
 警察の捕縛術のお手本とばかりに男の肘と肩の関節を極め、その手首をうつ伏せになった男自身の背中に押し付けるようにして固め、自分よりずっと大きな相手を完全に制圧したハラキリはどこか呑気な調子で言った。
「動けば折れますよ」
 それは一方で別所への呼びかけのようであった。そこでニトロは気がついた。ラジオ局の外には今拘束された暴漢の他にもまだ襲いかかろうという『マニア』がいたことに。
 ハラキリの足元で暴漢が激しく悲鳴を上げる。
「ぎゃあああ! やめろやめうわーーーああーーーーー!!」
 もしその切実な響きがなかったら、おそらく暴漢の仲間なのだろう、ほんの3m先にいたその少年は『ニトロ・ポルカト』に飛びかかってきていただろう。
 老年に差しかかる警備員が慌ててニトロを局内に押し込む。システムを統括するA.I.に呼びかけて彼は自動ドアを締めようとする。その先にいるハラキリは独り取り残され――
「あ待っ――」
 ニトロが言い切る前に、ドアは閉まり、ロックされた。
 もう悲鳴は聞こえない。
 ただ、遅れて現れた殺気立つ十数人の男女を前にして、外に一人取り残されたハラキリ・ジジはじっと佇んでいる。もしかしたら、そこに彼がいなかったとしたら、その『マニア』達は怨敵を討つためドアをぶち破ろうとしていたかもしれない。
 ハラキリの足元では初めの暴漢が肩を抑えてのたうち回っていた。骨を折られたのか、肩を外されたのかは判らない。ただ、その悲惨な姿がまた群衆をその場に押し留める堤防になっているらしいことだけはニトロにも理解できた。
 と、ドアの前で、せめて敵を逃さぬと壁を作る興奮した群衆の向こうに赤い回転灯が見えた。警察が来た、それでその場は収まるかと思いきや、逆に警察が来たことで場はさらに混乱をきたしたようである。『マニア』達は、正義の使徒である自分達を制しようという公僕に怒りの矛先を向け直したようだ。その隙を突き、わずかに開かれた自動ドアの隙間をすり抜けてハラキリが内側に戻ってきた。
「大丈夫か!?」
 思わず、ニトロは声を大にする。
 親友は何か非常に険しい顔をして腕を組み、ちらと“上”に目を向けているようだった。しかしすぐに駆け寄ってこようとする相手に気づくと雰囲気を和らげ、反面、眼差しで強く制する。君がドアに近寄るな、と、ニトロは言われずとも理解した。ハラキリは言う。
「まあ、ひとまずご無事で何より」
 そこにはどこか皮肉気な響きがあった。
「……」
 ニトロはしばしハラキリを見つめ、そして彼の背後の混乱を一瞥し、暗く、目を落とした。
「ご無事なもんかい」
 その力のないツッコミに、ハラキリは笑う。目を上げると、笑う友の背後にはつい数時間前から一変した世界が今も持続していた。そこから目をそらすようにニトロは天を仰ぎ、息を吐いた。
「ひどい事になった」

メニューへ