大凶+

(『2019大凶』の直後)

 ホテルへの帰路、ニトロにこってり絞られたティディアが車を降りた時、その美貌はがっくり曇る一方で、その肌はエステティシャンの施術を受けたばかりのように艶めいていた。
 いくら叱るためとはいえ、彼はなんと真正面に座ってくれたのである。
 車は往路と同じく後部座席が長いソファの対面式に並ぶ最高級車。ミニバーも備えられ、音響も抜群。立ち上がることもできる車高で、何ならダンスだって踊れてしまう。パーティーをするなら六人まで。運転席とはボードで仕切られているのでマイクを切ればプライベートなあれこれだってオーケーだ。
 しかし、叱られている最中はその広さが逆に堪えた。
 車内にはニトロと私の二人にアンドロイドが一体。
 彼は静かに訥々と道理を説いてくる。それ自体は実に真っ当で、真っ当すぎて退屈なくらいだが、不思議と彼が語るとぐさぐさ刺さる。ぐさぐさ刺さるから聞いていて飽きないし、むしろもっと言って欲しい。その期待が瞳に出るのだろうか? 腕を組んで真剣に、あの滑稽な伯爵に対する王女の横暴を非難する少年の傍らで、時折アンドロイドは携える巨大なスタンガンをバチッと鳴らす。その音の反響がまた抜群で、それを聞いた彼は黒い双眸を冷やかな軽蔑に染めて、嗚呼、その際には車内の広さが寒々しくこの身に押し寄せてくるのだ。思わずうつむいてしまう。だが、目を上げるとこちらを見つめる彼がいる。そう、それは叱る相手を見据えるためではあるが、そもそも叱責の源である伯爵などどうでもいい自分にとってその眼差しはすなわち“見つめる”に置き換わる。それでもやはり彼の叱責はぐさぐさ刺さるので最終的には彼の軽蔑込みで凹まされてしまったのだが、彼に見つめ続けられたこの肉体は熱をもって仕方がない。
 別れ際の彼の一瞥はそれを見抜いたかのように、もはや無関心に近い侮蔑を含んでいた。
 ――それは効いた! この日一番の痛恨であった!
「ごめんなさい」
 車中では一言も口にしなかったその言葉。それを思わずティディアは言った。
「そりゃ伯爵に言うべきものだろ」
 それもまた道理である。ぐうの音も出ない鉄壁の指摘ツッコミである。だが、ニトロの目から無関心に近い冷たさは消えていた。代わって反省をした子どもに大人が向けるような温もりが、ほんの少しだけ差し込んでいた。
 ニトロはすぐに顔を背けて自分の部屋に帰っていく。その背後を守るアンドロイドはこちらを一瞥し、少し呆れたように目頭を歪めると、しかし何も言わずにマスターを追っていく。
 ティディアはアンドロイド――芍薬のその表情のその意味が、その時は解らなかった。
 しかし部屋に戻り、眼下に町の灯を一望する窓に映った自分の顔を見た時、彼女は己の頬がだらしなく緩んでいることに気づいて思わず苦笑してしまった。
 胸に灯るのは、嗚呼、何だろう? この温もりは?
 だが、それを理解し、味わうことは、ティディアにはできなかった。
 彼女は気づいたのである。
 同じく眼下に町の灯を一望する窓に、そこに映る自分の背後にあるその顔に。そのあまりに恨めしそうな眼差しに……
 びっくりした。
 王女は振り返った。
 すると執事が美しいマリンブルーの瞳を嫉妬によどませて、ぐっと顔を近づけてくる!
「ティディア様」
 絶望と恨み、悔いと羨望がヴィタの顔面をパレットにして見たこともない色を生み出している。元より涼しげなかおは血の通わぬ彫像となり、その中でランと光を帯びる瞳はまさしく据え膳を食い逃した餓狼そのものだ。
 ティディアの首筋が粟立つ。しかしそれは恐怖というよりも冷や汗を伴う快感のためであった。――嗚呼、この執事は何と良い顔をするのだろう!?
 しかし快感だけを味わっているわけにもいかない。今にも噛みつきそうに、さらに顔を近づけてくるヴィタにティディアは問う。
「何かしら?」
「何故、わたくしもお呼びいただけなかったのでしょう」
 その問いかけに、ティディアはゾッとした。
 背筋まで粟立つ。
 今度は快感ではない。
 今度ばかりは恐怖である。
 何故なら、ティディアはヴィタの気持ちが痛烈なほどに解ったからだ。
 同好の士たる彼女の無念が我がことのように理解できたからだ。
 そしてその理解の故に、執事の怒りの深さを、何よりも悲しみの深さを共感する。共感するが故に、恐怖する。
「待って待ってヴィタ! だってしょうがないじゃない? あれは昔の再現なんだから、その時いなかった貴女を呼ぶわけにはいかないでしょう!?」
「ニトロ様は呼ばれました」
「だ・い・り! あれは代理!」
「でなければ呼びませんでしたか?」
「……」
「ティディア様」
「わー! 待って待って待って! それに貴女には仕事があった!」
たぶらかしました。ご命令通り亀裂を入れてまいりました」
「偉い!」
「偉い私は何故そんなに面白そうな現場にいられなかったのでしょう?」
 執事は狼が唸るように言う。
「それは言いがかりよ!」
 ティディアの頬は引きつっている。
「偉いのは成果を出したからでその時はまだ成果は出ていなかったわよね? ならヴィタがいられなかったのはタイミングが合わなかったから、そう、全ては時間のせい!」
「時間と言うなら、あれらに働きかけるのはその見世物の後でも良かったはずです」
「……」
「そこで嘘でも否定しないことには敬意を表しますが、それで一層腹が立ちました」
「――ッ」
 ティディアの頬がさらに引きつる。
 ここで彼女を不遜だと叱責するのは簡単である。
 しかし、それはできない。
 何故ならこれは部下の抗議ではなく、仲間の抗議だからだ。
 ティディアは覚知かくちしている。
 ヴィタが見たかったのは、あの滑稽な伯爵そのものではない。もちろんそれも見逃すわけにはいかなかっただろうが、それ以上に見逃せなかったのは――私だ、このティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナだ。希代の王女、無敵のプリンセス、その私が過去の横暴によって窮地に陥り、外面には笑みを保ちながらも懸命に内心の暴露を防がんとするその葛藤をこそヴィタは観たかったのだ。しかもそれは彼女にしか観劇できないものである。何故なら、あの場所において穏やかな少年の笑顔と眼差しに含まれる冷たい矢を認識できた者は他にない。あの場においてその矢に射られまくって死にそうになっている王女を認識できた者もない。もしヴィタがそこにいたならば、彼女だけだ、彼女だけはそれを知ることができたのだ。唯一の存在として、おお、その愉悦! その恍惚! 秘された極上の産物を一人味わう絶頂! しかしヴィタはその幸福を永遠に失ってしまった! その彼女を叱責することなど、このクレイジー・プリンセスにできるわけがあるものか!!
「ティディア様、どうして……」
 ヴィタの嘆きが我が胸に突き刺さる。彼女はぐっと迫ってくる。
「えーっと……」
 ティディアはたじろぎ、後退る。
「どうしてなのですか……」
 ティディアの頬が限界まで引きつっていく。
 これをなだめるのもすかすのも骨が折れそうだ。というか骨が折れても可能かどうか? せめて録画でもあればそれで我慢させることもできただろうが、あの懐古主義の侯爵夫人の応接室サロンにはA.I.すら入っちゃいない。
 となれば代わりに何か慰めになるものを与えたいところだが、残念、今は用意がない。
 とすれば希望はただ一つ、
(助けてニトロ!)
 そう、彼がいればこの窮地も抜け出せる。
 しかしその希望はすなわち絶望である。
 ティディアは最前の彼の冷たい眼差しを思い出し、今この窮地を乗り切らんとする心が折れそうになった。
 それを支えたのは、冷たい窓であった。
 ――窓?
 そう、彼女はいつしか眼下に町の灯を一望する大きな窓にじりじりと逃げる隙間もないほどに追いつめられていた。その背が窓に触れる。
「ひゃん!」
 思わぬ冷感に声が出てしまう。背面がセクシーに開いたイブニングドレスの肩紐が片方ずれ落ちる。しかしヴィタは止まらない。
「ティディア様、お答えを」
 こうして迫ってくるのがニトロだったらなーと、追いつめられたティディアの脳裡に閃いたのはもちろん現実逃避の戯言である。逃げ場を失った王女はすぐ間近で美しく光るマリンブルーの瞳の中に、本日一番の禍事まがごとを見た。
(ああ、お願いニトロ、どうか助けて!)
 と、その時、ベルが鳴った。
 それは部屋付きのシステムからの報せであった。
「何!?」
 それはまさしく救いの音である。即座に応じたティディアから、ヴィタが渋々一歩離れる。
「ニトロ・ポルカト様カラ通信ガ、入ッテイマス」
 部屋付きの汎用A.I.の言葉にティディアは思わず跳び上がりそうになる。しかしそれは堪えて、
「つなげてッ」
「――あー、今いいか?」
 先ほどの説教タイムからさほど時も置いていない、どこか気まずそうなニトロの声が聞こえる。
「ええ! もちろん!」
 歓喜を込めて、ティディアは言った。
 その歓喜を彼は一体どのように受け止めただろう? きっと戸惑ったに違いない。
「あ……あいや、ええっと、明日の仕事の打ち合わせのことだけど」
「ええ!」
 やはり戸惑いを隠せぬ声を返してきた彼は、その戸惑いを形にするように間を置いて、
「えっと、何時から?」
 その程度のことなら芍薬が確認してくる案件だろう。それなのにニトロ本人が連絡してきたのは、きっとお人好しの彼が最後に反省を見せた彼女へ心を遣ったためだろう。そう思った途端に彼女の頬が赤らむ。
「今からでもいいわ、いいえ、今からにしましょう」
 ようやく抑えの利いた声ではあるが、逆に、だからこそ、そこには幸福が滲んでいた。
「うん……分かった」
 音声だけの通信でも、その向こうで彼が戸惑いを深めているのが眼前に見えるかのようだ。
(――ふふ)
 ヴィタはおもてから失意を消せないまでも、内心、微笑んでいた。
 彼は知らないだろう、今、貴方がまたどれほど敵の心を奪ってしまったか。
 そして彼女も知らないだろう、今、貴女がどれほど裸の心を晒しているか。
(まあ、仕方ありませんね)
 失われた喜劇を求めてもどうにもならない。だが、それを少しは補えるものを観ることができた。
 ティディアが小声で訊いてくる。
「ミーティングルームはちゃんと押さえてあるわね?」
「はい」
 ヴィタが執事として頭を垂れると、ティディアはうなずいた。
「それじゃあニトロ、案内を送るから」
「分かった」
 そこで素っ気なく通信は切れた。だが、ティディアの気持ちは切れない。一つ肩を上下させて息をつき、ヴィタに振り返ると、
「その件については悪かった。“補填”についての話はまた後で、いいわね?」
 すっかりいつもの調子を取り戻したティディアにヴィタは――まだこの件で利益を引き出せそうなので、ある程度満足したことはそっと隠して――しかし、そうしようとした瞬間に彼女は秘密を王女に見透かされてしまったことを察知した。それでも彼女は微笑む。だからティディアも微笑み返してくる。その同好の士の顔を見たヴィタは思わずくすぐったそうに小首を傾げ、
「はい、ティディア様。是非、その話はまた後で」

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