吉+++

吉++へ

「で、まだティディアは怒ってるの?」
 ジスカルラ湾岸地区の谷間、ちょうど有名なテーマパークと話題のショッピングモールに挟まれた片隅に建つ優美なビル――何の因果か、またも新小古典主義的なデザインの建物にやってきたニトロは、人目を忍んで入れる地下駐車場のエントランスに降りるなりそう訊いた。
 すると出迎えに来ていたドレスとネグリジェ相半ばする姿の女執事が、挨拶を封じ込まれたことで多少目を丸くする。彼女は彼を見つめ、すぐに彼の眼にさっさと“仕事に取りかかりたい”意志と、さっさと“ここから出たい”意志とを読み取って頷いた。
「ご立腹です」
 ニトロの隣に、買い物袋を手に提げたハラキリが並んでくる。この地下駐車場エントランスはとても狭くて、煌々と照らされた出入り口の他には誘導灯のぼんやりとした光しかない。彼らの乗ってきた車が『ラブガーデン』のシステムに誘導されて車庫に運ばれていく様は、まるで狭い吊り橋を渡って洞穴に飲まれていくようだった。
 自動ドアの向こうにすぐエレベーターホールがある。ニトロはヴィタの先導で施設内に足を踏み込みながら、
「あいつが一つの件でこんなに長く怒ってるのって、わりと珍しい気がするんだけど」
 エレベーターのボタンを押し、開いたドアを抜け、操作パネルの前に控えてヴィタは応える。
「そうでしょうか?」
 ニトロはハラキリを引き連れエレベーターに入り、
「あいつはこういう場合、即断即決みたいな感じで怒るじゃないか」
 こういう場合ということは、例えば“政治的な怒り”は除外しているのか。ヴィタは口元の笑みを隠し、
「それだけ怒っている、ということです」
「……」
 彼女の背に伝わるのは釈然としない気配。エレベーターは指定された階へノンストップで昇っていく。ヴィタは口元に笑みを表し、
「もしわたくしがティディア様と同じ状況になりましたら、もっと怒っていたでしょう」
「そんなに?」
「それだけ、食べ物の恨みは恐ろしいのです」
 ああ、と小さい納得が漏れる。ヴィタは目を細めた。エレベーターが止まり、ドアが開く。
 真っ白な空間が眼前に広がった。
 ニトロは一瞬戸惑ったようだったが、臆してはならぬというように先陣を切り、それをハラキリが追う。続いて等身大の芍薬が出ていった。
 ヴィタは、目の前をまるで本物のように揺れて過ぎるポニーテールを見つめた。その内心には小さな驚きがあったが、それは微かにも表に出さない。考えるまでもない。芍薬はこちらの用意したアクセスキーで『ラブガーデン』の管理システムを介して肖像シェイプ立体映像ホログラムに投じたのだ。が、そこに生物的な気配のあるはずもなく、その生物的な気配への探知能力に長けているからこそ不意を突かれてヴィタは驚かされてしまったのだが――芍薬はこちらの動揺を推測して“してやったり”と思っているだろうか? しかし、だとしても、それは実に心地良い。
 彼女は背筋を伸ばして三人の先頭に立った。真っ白すぎて遠近感を狂わせてくる廊下を進む彼女のその背中は、青く透けている。彼女の纏う蒼い薄絹のドレスは古典時代の高級娼婦を思わせた。そこに覗く真紅のブラジャーの取り合わせと、場所の醸す空気が……
「――何をニヤついてるんだ?」
「いえ?」
 ニトロの声と、それに応ずるハラキリの声とを聞いただけでヴィタはまたも笑いそうになる。だが、ここで彼の機嫌を損ねるのは得策ではない。
「こちらです」
 真っ白な壁にシミのように浮き出る黒い扉の前でヴィタは止まった。振り返るとニトロの絶妙に緊張した面持ちが目に飛び込んできて堪らず吹き出しそうになるが、虎にも負けない咬合力でそれを噛み潰す。隣にいるホログラムが、A.I.やアンドロイドとの性交も提供するこの場所ならではの『艶』を纏っていることも彼の調子を崩しているのだろう。それに対して芍薬は、その演出つやめく唇が、桃色を帯びた肌が己の意図せぬものであり、また普段の生活とはかけ離れているものでもあるから実に無頓着である。だからこそマスターの己への態度に幾分怪訝そうであり、常ならば凛とした芍薬からしてその様子は珍しく、またいじらしくもあった。であるのに、そんな二人の一方で普段と全く変わらぬハラキリがあまりに生活感に満ちた買い物袋を提げていることがこの世界であんまりにも異彩を放っているからヴィタはもうッ、悶えたくても悶えられない!
 彼女はドアに向き直った。
 ニトロ達からは見えない目元を完全に弛緩させることでどうにか快楽の表出を防ぎ、そこで気を鎮める。
 するとニトロ達からは見えない目元が自然、引き締まる。
 彼女はノックする。
 独特のリズム。
 ――返事はない。
 しかし許可を得ることもなくヴィタはドアを開いた。
 それにニトロは驚いたが、王女の執事は堂々と部屋に踏み入るとドアを抑えたまま頭を垂れる。それは王女に対するものではなく、彼らを室内へ促す一礼であった。
「……」
 促されるままに部屋に入ったニトロは、そこに一歩入り込んだ瞬間、怖気おぞけに襲われた。
「――」
 怒気、というものが、鋭い無数の爪が直接皮膚を掻いてくるかのような実感を伴って感じられた。もし針のむしろが実際にあったとしたら、それに包まれている方がきっとずっと心地良いだろう。室温は適切であるはずだし、外に出れば雨を前にした夜空の下――なのにここは渇き切っていて、寒い。
 そこに真紫のドレスに身を包み、黒紫の髪を肩に流し、黒紫の瞳でこちらを射抜く女がいた。
 そして、ニトロが白い生地に暗赤色の糸で刺繍の施されたソファにだらしなく座るその姿を認識した瞬間、鋭く蠢く無数の爪が彼の肌を一掻きもすることは一切なくなった……いや、その気配はまだこの深窓の令嬢の寝室とでもいうような部屋におぞましく充満し、かつそれを増している。今にもまた爪が彼を襲うことは容易であろうし、事実襲い続けている。しかし彼がそれをもう受け付けない。彼は平生へいぜいに呼吸をする。室温も快いものだ。ある空間に怒りを放つ人間がいる場合、周囲の人間に生じるものは、萎縮か、野次馬根性か、不愉快かの三種に大別できるものだが、彼の心が得た態度はそれらのどれでもなかった。
 一方で、先のトラブルに加え、執事の無作法によってさらに煽り立てられた王女の怒りは、彼を目にしたことでより一層沸き立っていた。
「何」
 怜悧で、酷薄な声。
「あいつらはとうとうあなたに助けを求めたの」
 白い生地に暗赤色の糸で刺繍の施されたソファにだらしなく座り頬杖を突く、そこに表情はない。
 なるほど、実に恐るべきは食べ物の恨みか。正直、予想外なほど怒り狂っているティディアを見て、ニトロはその視線の突き刺さる先へ問う。
「どう?」
 王女の執事は答える。
「私の独断です」
「それが許されると?」
「思ってはいないだろうさ」
 応えたのはニトロである。主従の問答に割り入った不躾にティディアのまなじりが尖り、されど彼は続ける。
「ていうか、そもそもお前の許しがいるようなもんじゃないだろ?」
「……何故?」
「ヴィタさんは、お前の許しがなきゃ俺に何かを頼んじゃいけないのか?」
「私的には構わない。けれどこれは私的なこと?」
「私的というのなら、お前こそ私的なことで他の人達の仕事を邪魔してるじゃないか」
「はあ?」
 ティディアがゆらりと立ち上がる。
「邪魔を、したのは、あいつらよ?」
「どうやって?」
「私のサンドイッチを台無しにした」
 ふいに、子どもっぽい膨れっ面が彼女の顔によぎった。
「楽しみにしていたのよ、今日一番の、それを食べてさあ元気に仕事をしよう――それを邪魔したのよ」
 子どもっぽいと思わせた影が、次第に恐ろしく冷やかな影に侵されていく。
「しかも、その仕事を暮らしの糧にしている相手が」
 ニトロは少し首を傾げ、
「それはそこまで怒るようなものか?」
「当たり前じゃない!」
 突如声を荒らげ、ティディアは目頭に影を集めてニトロに詰め寄っていく。両足の間に際どくスリットの入ったドレスの裾が怒りに任せて乱れて揺れる。
「百歩譲って解凍を失敗したのはいいとする、千歩譲ってそれを勝手に捨てたこともひ弱で卑屈なパニックのせいにでもして赦すとする、だけどあいつらは開口一番『死んでお詫びいたします!』――死んでお詫び?」
 冷笑と、冷たさすらない声は続ける。
「その程度の命であのサンドイッチと引き換えられると思っているだけでも笑えない。何よりそれが私の大切なものを穢らわしく汚すことだとも思わないその傲慢が我慢ならない。無知が、馬鹿が、ああ畜生、畜生にも劣るクズ、ゴミクズの思想だ。そんなもので私の、この私の大切な時間を犯した連中を赦せと? 怒るようなものかと?」
 彼女の浮かべる冷笑は、冷笑というにはあまりにも無機質で、それ故に今にも破裂しそうな恐怖を掻き立てる。一方でその頭上にはまさに怒髪天を衝きそうで、それ故に天を裂くいかづちに眼球を焼かれそうな悪寒に震える。まるで遠くからは静止して見えるのに、近づけば圧倒的な力で海をえぐる大渦に肉薄しているかのようだ。クズという罵倒も、他の者ならばまだ罵倒語としての人情が感じられるであろうに、彼女の声にはただ事実的客観を述べるだけの響きしかなく、その非人情は路傍に捨てられたゴミをゴミと呟くよりもずっと無慈悲だ。全てはただの残響でしかない。
 ハラキリから買い物袋を受け取ったニトロは、その真っ只中を横切っていった。ティディアを素通りし、部屋の奥へ。壁に接する天蓋つきのベッドの手前、ちょうど彼女が座っていたソファの傍らに腰の低いテーブルがある。これもまた小古典時代の模造品だった。彼はテーブルの側に膝を突き、
「確かにそりゃ軽率な提案だし、俺もそれが正しい責任の取り方だとは思わない」
「責任を取ろうなんてしていない」
 テーブルに食材を置いたニトロは、眉根を寄せて肩越しに振り返った。
 黒紫の瞳が、真っ黒に見えた。その暗黒に一度飲み込まれた光は、決して、永遠に逃れることのない……
 彼は問う。
「何故?」
「軽率だから、軽んじているから」
 ティディアはこちらへ戻ってくる。
「その責任の取り方の提案こそ無責任の極みだから。そんなもの、何も考えていない頭から漏れ出した下痢にすぎない」
「汚い喩えだなあ」
「その下痢を面と向かってぶっかけられてニトロは我慢できる? 怒るわよ、当たり前じゃない! 怒らない方がどうかしている。じゃあそのまま『死んでお詫び』をさせておけば良かったって? そうね、その方が良かったかもしれない、そんな汚物をこの世界から消せるのだから、そうしたらいくらか綺麗な世界になったでしょう」
「けど死なせたら、お前の言う通り、俺のサンドイッチは確かに人死ひとじににまみれるな」
「そうよ!」
 一際強く怒声を上げて、ティディアは、一転力が抜けたようにソファに座り込んだ。その肘掛けに腕を垂れ、
「……あのサンドイッチ、楽しみだったんだから」
 裸で寝転んでも気持ち良さそうな絨毯に腰を下ろしたニトロは調理用ウェットティッシュで手を清めると、袋の中から一斤を十枚に切った食パンを取り出し、次いで真新しいブレッドナイフを値札バーコードの印字されたケースから取り出して、その刃も清めると、手際よく食パンの耳を切り落としていった。薄く切られたパンの一枚に薄くバターをりながら、
「そこまで残念がってもらえるのは、正直作った身としては嬉しいけどね」
「え、そう?」
 ふいに、また子どもっぽい笑顔が彼女の頬によぎる。
「だからって、そこまで怒られると逆に困るもんだ」
「……」
 ニトロはバターを塗った上に洗浄済みで袋に入ったベビーリーフを置いていく。
「……あいつらは、また作ってもらいます、って言ったのよ」
 ニトロは目を上げた。そして先ほどの主従の短いやり取りにあった事情を悟って、ヴィタの独断が、それこそ危険な独断専行であったと理解する。
「軽々しく命を放り出そうとした後に、あいつらは、今度は軽々しくニトロを利用しようとしてきたのよ」
 く、と口の端を結び、ニトロはパックの中からスライスされたパストラミビーフを取り出す。ティディアの声には劫火が揺らぐ。
「自分達のケチな失態の尻拭いに、私の恋人を、使おうとしたッ」
「恋人じゃねえ」
「恋人よ! 少なくともあいつらにとっては! あの連中にとっては、私の怒りを治めることができる唯一の道具よ!」
 ニトロはベビーリーフの上にパストラミビーフを置いて、チューブを絞ってホースラディッシュの辛味を添える。
「おこがましくも! にやけた顔で! まあ毎回手持ちの胃薬使い切って頑張ってるディレクターの顔を立てて会ってやったわ、そして今度はどんな詫びを入れるのかと思えば反省文にもならない神の愛への贖罪でごたごた飾り立てた汚い美辞麗句を並べたその挙句何を言うかと思えば『わたしたちがニトロ様に頼んできますので』――ッアァァ! 世が世ならその瞬間に首を刎ね飛ばしてやったのに!」
 殺意の残り香が首筋を撫でる。初耳の情報に思うところはあるものの、ニトロは問う。
「どこまでが演技だ?」
「ニトロは演技で人を殺せると?」
「お前ならな」
「……」
 ニトロはチーズを載せて、またパストラミを載せる。これもまた洗浄されてパックされていたトマト――ほぼ円柱形で、サンドイッチ用に改良された肉厚で水気の少ない品種をブレッドナイフで薄く輪切りにしながら、
「で、実際、面と向かってそう言ったのか?」
「蒼い顔が真っ白に、真っ白が土気色に、それで死んでも構わなかったけど、死んだら結局同じこと、永遠に赦されない」
 パストラミの上にスライストマトを三枚、少しずつずらして重ね置く。
「それも言ったのか?」
「言うまでもなく逃げ出した、逃げ出す足だけは、残っていた」
 吐き捨てるティディアの目に感情はない。しかしそれは、逆説的に、彼女のその二人への感情そのものであった。
 そう、その二人はもう彼女にとってどうでもいい相手であるのだ。
 しかしまた逆説的に、だからこそ彼女の怒りは解消しえないでいる。何故なら、ティディアは現実にはこうやって怒っていても、本質的にはその怒りをぶつけられる者はもう存在しないのだから。
 ならば本来、彼女はこんなトラブルなどとっくに機械的に処理しているか、罪悪により己の意のままにできるその二人を手駒にしてバカ騒ぎを企てていたはず。なのに何故、彼女はこの期に及んで諦観に至ることもなく、こうも現実に怒り続けているのか?
「あーあ」
 ため息がティディアの口からこぼれ出る。
 周期的に襲ってくるのか、絶望的な喪失感がまた彼女を覆っていた。そしてその喪失感がまた怒りを具体的に燃え上がらせるらしい。
 ニトロは彼女の瞳が宙をさまようように見えて、どこか一点にあることを知った。そちらを確認したくもなるが、しかし先になすべきことがある。彼はティディアの怒りを本質的に解消する方法は知らないが、食べ物に関わる怒りを一時だけでも鎮める手ならば知っていた。
「こうなったらあいつらに罰を与えてやろうかしら、お望み通りに罰してやって、その上で『赦さないけどね』って言ってやろうかしら。ねえ、どんな顔をすると思う?」
 と、問われたのはヴィタである。ニトロはスライストマトをベビーリーフで覆う。
「その顔を見れば少しは笑えるってものかしら? それとも『カーマディグ』を実践してもらおうかしら、ねえ、流行はやりの素材を手に入れられる?」
 と、問われたのはハラキリである。ニトロはもう一枚のパンにもバターを塗ってサンドする。
「そうだ、こっちでは獣姦させながらあっちでは全身性感帯の軟体生物に変えて側坐核そくざかくの中でのた打ち回らせてみようかしら。きっと素晴らしいことになるわ。実際獣姦やって死んだ例もあるし、どこまですれば死ぬかの検体としても、議題としても即している……」
 ティディアは立ち上がる。
「ヴィタ! 種ウシを手配して! ハラキリ君は“薬”を手に入れて! 大丈夫、どうせここにもあるからすぐに探せるあなたなら!」
「つまらない演技だな」
「――ッ」
 ティディアは口を閉じ、頬を膨らせ、紅潮した。
「当たり前じゃない!」
 彼女は怒鳴った。しかし反面、その底に喜びがあるのをハラキリとヴィタ、そして芍薬は見逃さなかった。ただニトロだけがそれを見逃していた。彼は四角いサンドイッチの対角線上に刃を入れていた。
 その落ち着いた様に煽られるようにティディアはテーブル越しに彼に詰め寄り、
「だってそうやって脳までべちゃべちゃにさせたのを哂ったところで何になるっていうの!? サンドイッチが戻ってくるわけでもない、それどころか思い出がもっと汚れる、それで憂さが晴れるわけでもない、けれどそれくらいはやらなきゃ気が済まない!」
「気が済んでも憂さが晴れてなけりゃまた気が済むようにしたくなって? そりゃキリがないなあ」
「そう、それほどに、赦されないのよ」
「本当に二人は赦されないのか?」
「ニトロは赦せと?」
「つうか、お前は大切なお前の時間をそんなつまらないことにいつまで費やすんだ?」
「ッつまらないことってな−」
 その刹那、力強く“な”と口が開けられたその瞬間、ニトロはサンドイッチをティディアの口にツッコンだ。
「んん!?」
 あまりに作為のない彼の動作にティディアは回避行動を取ることができず、今まさに目の前で作られていた――怒りの吹き荒ぶ心の奥底でも、それが、ああ、悔しくもずっと楽しみだった!――それをいきなり咥えさせられて、そのため行き場を失った声の逆流に喉と鼻と耳を殴られ目を回した。
 綺麗な二等辺三角形、その断面も食欲をそそるサンドイッチは、鋭い角からちょうど口一杯に噛み切れるよう差し込まれている。
「……」
 短い混乱を即座に切り抜けたティディアの網膜に、サンドイッチを支えるニトロの手と、その先にある瞳が映る。
「これ食ったら赦してやれとは言わないよ。ただ、ちょっと休め」
「……」
 ティディアはニトロからそれを受け取るように、両手を添えた。彼の手が離れる。彼女はすとんとソファに座った。
「……」
 もくもくとサンドイッチを食べ出した彼女の前で、ニトロはさっさと同じ物を一つ、二つと作っていった。慣れた手際で切り分け、先に作った片割れと合わせて計五つ。バターをしまい、今度はクリームチーズを残りのパンに塗る。そこに上質なハチミツをかけて挟めば、濃厚なコクと濃密な甘みが頬をとろかすサンドイッチの出来上がりだ。パンを使い切っても食材は残っていたが、残り物で料理をすることもない。これらはここに残していけば適切に処してくれるだろう。彼はパストラミ・サンドの一つを手に立ち上がると、少しずつ腹を埋めていく王女をそこに残し、部屋に入った時の位置でずっと黙して控えていた執事に歩み寄った。
独断については、ちょっと出すぎた真似をしたかな?」
 差し出されたサンドイッチを受け取って、ヴィタは微笑んだ。
「いいえ」
 ニトロは軽く目を細め、
「さて」
 一仕事終えた己を労うように肩をほぐすと、
「ねえニトロ」
 呼び声に振り返れば、早速二つ目のサンドイッチに手を伸ばす笑顔があった。
「次もこうやって作ってくれる?」
「作ってもらえるとでも?」
「それじゃあまた誰かを怒ろうかしら」
「そしたら今度は無視するさ」
「あら、そうしたら次は見殺しにするのね?」
「そうしたら俺はお前を見殺しにするんだよ」
 ティディアは愉快そうに笑った。そして新たなパストラミ・サンドにかぶりつく。その様子に何とも言えぬ顔でニトロが前に向き直ると、ヴィタは既にパストラミ・サンドを平らげていた。ニトロの目が丸くなる。
「え?」
「いかがいたしましたか?」
「……もしかして、ヴィタさんもお腹空いてたの?」
「ティディア様が何も召し上がられていないのですから」
「……」
 どこまでも涼やかに言う女執事のマリンブルーの瞳はまたどこまでも涼しげで――ハ、と、ニトロは息を吐くように笑ってしまう。そしてふとハラキリを見ると、親友はどこか神妙にこちらを見つめてきていた。
「なんだよ」
「いいえ」
 その応えには満足できないが、その眼差しには悪いものを感じず、むしろ何かとても誉められたような気分になってニトロは嬉しくなってしまう。傍らに控えようと近寄ってきた芍薬の顔には慰労と同時に誇らしげな色があり、それにも嬉しくなってしまう。
「帰っちゃうの?」
 食事のお陰で頬に赤みの浮かぶティディアが訊いてくる。
 ニトロは振り返り、
「もう俺の出る幕はないよ」
「私と「実践などせぬ」
「ヴィタ――いえ、いいわ。初めてはきっとロマンチックにね?」
 お姫様はそれだけで卒倒する者がどれだけ出るか判らぬウィンクを“恋人”に贈る。
「……」
 ニトロは眉間の皺を指で叩き、大きく息を吸うと、先ほど怒れる女の眼差しがさまよったあたりを見て、
「一応言っておくけど、食うなよ?」
「それでも食べたら愛の証になるかなーって迷っていたんだけど」
「そうだな、それを愛の証と思う人もいるだろうな」
 素直な彼の、素直ではない言い回しにティディアは微笑む。
「ちゃんと、捨てておく」
 その多層的な言葉に思うところは残しつつ、ニトロは踵を返した。
「じゃあ、仕事頑張ってな」
 ひらと手を振った少年の背を見るティディアの眼差しを、無論彼が見ることはない。しかしそれを見たハラキリとヴィタ、そして芍薬は黙して部屋を出て行くニトロを追った。

 一人先んじて部屋を出たニトロは考えた。
 内心には事態に区切りをつけられた安堵がある。そしてその安堵によって連想されるのは、お人好しの性とでも言おうか、自分の他にも安堵を欲する者達がいるということだ。
 今もまだ死刑執行を待つ心地であろう顔も知らぬ例の二人にもこのことを伝えようか?
 ――しかしそこまでする必要はないとも思う。
 人の安心する顔、人の喜ぶ顔を見るのは楽しいが、かといって今それを求めて行くのは感謝を強請りに行くのと同じことだ。それに自分のしたことは問題の解決ではない。猶予を作っただけ。おそらく番組の収録は無事に行われるだろう。例の二人がどうなるかについては……いや、それこそ自分の出る幕ではあるまい。既にその二人は挽回のチャンスを一度与えられていたという。この猶予によって二度目が与えられるかどうかは解らないが、ティディアの口振りからしてどうやら優秀らしいディレクターがさらに胃を締めつけられながらも上手く立ち回るだろう。つまり、あとはその二人しだいだ。“死ぬ”のは前提だとしても、その上でなすべきことをなせれば浮かぶ瀬もまたあるだろう。
「……」
 と、思っても、何かしら気にかけてしまうのがお人好しと言うもので。
 何とも言いがたいものが胸に残るニトロは背後に振り返った。
 最後に部屋を出たヴィタがドアを閉める横で、芍薬が微笑みかけてくる。
「帰ロウ、主様」
「折角ですので、ご見学されていかれてはどうですか?」
 涼やかに、今しがた執り行われた事の全てに満足しているかのような笑みを浮かべてヴィタがそう言ってくる。
 ニトロは首を振った。
「いや、帰るよ。ハラキリは?」
「結局何にもならない議論に興味はないです」
 と言ってから、ニヤリと笑う。
「おひいさんの予言が正しいかどうかここを掘ってみるのはおもしろそうですが」
 何のことかと思い返して――ニトロは苦笑した。
「いやいや、あったとしてもティディアが来るってなった時に全部処理してるだろ」
「貸し切ったのはこのフロアと下のフロアだけで、誰が来るとは知らせていませんでした」
 と、ヴィタが意味深長に微笑む。ニトロは初めそれを当然のことのように聞いていたが、やがて意味を理解し、その頬に苦笑じみた引きつり笑いを浮かべた。
「それに従業員の全てが品行方正とは限りませんし、お客となれば油断し切っていることでしょうしねえ」
 と、ハラキリが肩をすくめる。
 ニトロはいよいよ引きつっていく苦笑に渋面を混ぜ合わせて自分でも今どういう顔になっているのか分からない。
「うん、じゃあ、どうぞ? でもハラキリ、俺は帰るから帰りの足は自分で何とかしてくれ」
「では拙者も帰りましょう」
「……」
 ニトロはジトりとハラキリを睨みつける。最初からそのつもりなら最初からそう言えばいいのにこの親友は……。
「どうしました?」
 しれっと訊ねてくる相手に、ニトロは半笑いを返し、
「このまま帰るんじゃ、わざわざ来たのに無駄骨になるんじゃないか?」
「用心棒とつっかい棒はそこに在るだけで働いているものです」
「そりゃごもっとも」
 本当にこの親友には皮肉も通用しない。深く息をつき、ニトロは踵を返した。
 来た道を戻ろうとする彼の前に芍薬が立つ。
 と、その時、背後から奇矯な声が聞こえてきた。それは遠くから高鳴り波打ちながら長く細くたなびいて、やがて急にステレオのプラグを引き抜いたかのようにふつりと消えてしまう。
 驚いたニトロが振り向くと、その瞬間、最後尾にいるヴィタの恍惚が目に飛び込んできた。視線がぶつかる。すると彼女は、得も言われぬ思わしげな眼差しをこちらに向けてきた。もし何も知らずにその顔を見たのならば、彼女の纏う衣は下着も透けている、それに男の性は抗えないであろう。
「……」
 ため息をまた一つ。ハラキリが興味深そうに何処いずこかを伺い、おそらく自分には聞こえなかった声まで聞き取っていたのであろうヴィタのふるりと小さく震える様を尻目にニトロは歩き出す。
 その内に、稼働中であるというこの場所の存在感が急に胸に沁み込んできたのだろうか? それとも先ほどの声に一種の絶頂を感じたからだろうか、しかも藍銀色の麗人の色を目にしたニトロはやけに胸の騒ぎ出すのを感じた。そこで彼は芍薬の背にじっと隠れて地下駐車場に降りると、芍薬が先んじて回しておいてくれた車にすぐさま乗り込み『ラブガーデン』に別れを告げた。別れ際、その一部始終を観ていた女執事が妙な満足感を瞳の底に湛えていたのは変に気恥ずかしく、その分腹立たしかった。
 地上に出た車は海岸通りをしばらく走っていった。
 他に目立つ建物のない一角に煌びやかな『ラブガーデン』の残照もようやく薄れたところで、やっと落ち着いたニトロは、ふうとシートに身を沈め――その拍子に思い出した。ここ数時間の濃密な疲労がその記憶によってひとまず脇に置かれる。彼はぱっと身を起こし、
「そうだ、芍薬」
 ダッシュボードのモニターに、いつも通りの芍薬が表れる。
「ナンダイ?」
 ニトロは安心感をそのまま声にする。
「クオリアから連絡があったようだけど」
「御意。伝言ヲ預カッテルヨ」
 と、そこでニトロは思い至った。『ラブガーデン』までの道中において芍薬がそれを言ってこなかったからにはやはり急ぎの用件ではないだろうし、また後に回しておいてもいいのだろうが――
「えーっと、ハラキリが聞いても大丈夫かな?」
 そのハラキリはシートベルトを外して助手席から後部座席に身を伸ばしている。車載システムの警報が少しうるさい。芍薬がそれを抑えるような身振りをすると実際に音は小さくなったが、けして消えることはない。
「ソウダネ、大丈夫ジャナイカイ?」
 芍薬の視線の先、体勢を直したハラキリの手にはボトルが二つあった。どうやら買い物袋の中から取り置いていたものらしい。一つを受け取り、ニトロは早速口にする。思えば喉がカラカラだった。すっかり常温に戻ってしまった清涼飲料水の爽やかなシトラスの香りと、ほのかに舌に広がる甘みが心にも沁みてくる。警報も消えた。彼はほうと息をつき、
「それじゃあ聞かせてくれる?」
「御意。
 明日――モウ今日ダネ、放課後モシ時間ガアッタラ画廊ギャラリーニ付キ合ッテ欲シイッテ。主様ノ意見ガ聞キタイソウダヨ?」
「俺の?……知り合いの個展か何かなのかな」
「ウンットネェ……知リ合イジャアナインダケドネ」
 芍薬は腕を組んで体ごと首を傾げて言いよどむ。微妙な影が眉間に表現されていた。困っているようで、苦笑しているようで、それだけにとても言い難そうで。
 ニトロが待っていると、ぽつり、ぽつりとフロントガラスに落ちるものがあった。芍薬は意を決したように言った。
「『ザ・ティディア展』」
 思わぬほどのド直球。ニトロは目を点にした。脳はその意味を理解しても、精神が拒絶する。彼は思わず疑念を返す。
「へぇ?」
 芍薬は息を一つ吸って繰り返す。
「『ザ・ティディア展』」
「ざ・てぃでぃあてん……」
「御意」
「……えっと?」
「美術評論デソコソコ知ラレタ電脳講義室ヴァーチャルサロンノ主人ガ音頭ヲ取ッタ企画デ、趣旨ハソノママ。クオリア殿ノ知リ合イガ出展シテイルモノデモナクテ、モチロン非公認非公式。ダケド本人ニ知レタトコロデ何ガ起コルワケデモナイ展覧会」
「むしろ冷やかしに観に来るでしょうね、時間さえあれば」
「トイウカ自分自身ヲ作品ニシテ、ソウダネ――全身ニ金粉ヲマブシテ出入リ口ニ突ッ立チデモスルンジャナイカイ?」
「それに似た彫刻がありましたよ?」
「ダカラ言ッテルノサ」
「なるほど、御自おんみずから手本となさるか。実にあり得る」
 芍薬の皮肉にハラキリが笑うのを呆っと見ていたニトロはふいに我に返り、
「え? ハラキリ、行ったのか?」
 それともサイトで作品紹介がされていたのか、あるいは仮想画廊オルタナギャラリーでも閲覧できるのか。
 ハラキリはニトロの疑念を気軽に受け止めるように肩をすくめ、
「今日――ではなく、もう昨日ですか。君と合流する前に、拙者はクオリアさんとダレイ君といました」
「え、聞いてない」
「お誘いも急でしたから。『今どこにいる? 良かったら来られない?』――二人は既に二人で回った後で、その後、拙者の意見が聞きたくなったそうで」
「へぇ……」
「もちろん最も意見の聞きたかった相手は君ですけどね。ただ、彼女はそれを躊躇していました」
「なんで?――ああ、いや、うん、判る判る」
 慌ててうなずくニトロにハラキリはニッと笑い、
「ええ、そうです、製作者の中にはかなりの『マニア』もいましたから。出展者の全員がそうではないですし、常に会場にいるわけでもないですが、しかし君が来ているとなれば総員どこにいようがすっ飛んでくるでしょうね」
「それで俺は揉みくちゃか」
「行くなら相応の変装を。何ならご準備いたします」
「ハラキリは行ってくれないのか?」
「お腹一杯です」
「俺も既にお腹一杯な感じなんだけど」
「主様ノ意見ニハ、ハラキリ殿モ興味ガアルンジャナイカイ?」
 芍薬の指摘は急所を突いたようだった。ハラキリが一瞬、同意に頷きかけたのを見取ったニトロはすかさず言う。
「その時はクオリアも盛り上がるかもな。それは後で聞くんじゃなくて、ライブじゃないと絶対面白くないぞ」
 ハラキリは腕を組み、窓の外を見た。
「なるほど――もし君が行くというのなら、考えてみましょう」
 ということは同行の可能性はきっと大きい。ニトロは芍薬に眼差しを贈った。芍薬は目を細めてうなずき、微かにユカタの袖を振る。ハラキリはそのやり取りに気づきながら、見ないふりをしているようだった。その様子が妙におかしくてニトロは笑いそうになるが、もし行くというのなら、親友が意見を翻すようなキッカケは少しも作らない方がいいだろう。そこで彼は息をつき、腕を組むと頭をシートにもたれかけさせる。フロントガラスに当たり出した雨粒は小さくもなく、大きくもない。だが早くもワイパーが動き出す。
「……でもなあ、『ザ・ティディア展』か」
 芍薬がうなずく。
「『ザ・ティディア展』ダネ」
 ハラキリが頷く。
「『ザ・ティディア展』です」
 ニトロは首を傾げる。
「『ザ・ティディア展』」
 そしてニトロは宙を眺めた。芍薬も倣うようにモニターの中で宙を眺め、ハラキリはぼんやりする。
 その時、三人の瞼の裏に映るのは、先ほどのティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの怒れる姿。ニトロが部屋に入ってからの出来事が一巡し、最後にサンドイッチを頬張る彼女と、朗らかなその笑顔。
「「「『ザ・ティディア展』」」」
 三人は同時にそれを口にした。
 すると急におかしくなってきて、誰が始めに吹き出したか、とうとう声を上げて笑ってしまった。
 腹を抱えてしばらく笑ったニトロは荒れた息を整えながら、
「ああ、いやいや、笑っちゃ関係者さん達に悪いね。真剣にやってるんだから」
「中にはその企画自体を嘲笑うような作品もありましたよ」
「それは、それがその作者さんにとっての“ティディアらしさ”かな?」
「でしょうね。ですが、それはホロアートだったんですが、その露悪的なところがかえって作品を浅くしていたように思います」
「それがハラキリの意見?」
「クオリアさんは作者のお姫さんの魅力を語る声は小さくて、逆に……相当言葉を探していましたが――優越感に乗っ取られた自尊心が残念だと」
 と、そこでハラキリは何かを思い出したように笑った。
「そういえば、我がロディアーナ朝の初期、不敬罪の罰は耳を削ぐことでしたね」
 ニトロは眉根を寄せた。突然、それがどうしたというのだろう?――と考えたところで彼は思い出す。思わず皮肉げに苦笑し、
「てことは俺は何回分の『耳』を切り落としたのかな?」
「あれはどうするんでしょうねえ」
「食ってんじゃないか? ヴィタさんが。
 で?」
「その3D彫刻スカルプの“お姫さん”は人間の耳を連ねたネックレスをしていまして」
「――うん」
「さらに真新しい材料を左手につまみ持ち、右手に握る血のしたたる刃の切っ先を、その作品を――ある一定の距離に近づくとどの角度から見ても切っ先がこちらに向けられるようになっていたんですが、作品を観る者に突きつけて。しかし姫君の目はあらゆる角度において閲覧者に向けられず、常に周囲の展示物に向けられていて、その眼差しは見下し、その表情は嘲りに染まっている。そしてその足元にはうずくまり、踏みつけられ、耳の削がれたところを押さえて彼女を仰ぎ見る者がいました。確固としたモデルがいるのかどうか曖昧な容貌で、その表情はどうとでも取れるよう造られていましたが」
 ハラキリは薄っすらと笑う。
「ただ、少し君に似ていましたかね」
 ニトロも薄っすらと笑い返す。
「耳を削がれて、それから過酷な開拓地に流されるんだったっけ? もし今も不敬罪があったなら古典時代みたいに鼻まで削がれた上で星外追放かな」
「望むところですか」
「耳も鼻も『再生』できるだけの予算も組めるしね。誰かさんのお陰でさ」
 喉を鳴らしてハラキリは片眉を跳ねてみせ、
「まあ、そこにあるのは実態を表現する力ではなく、風刺の出来損ないにもなれない露悪、でなければ嫉妬でしかなさそうだったというわけで」
「その露悪ってのについちゃ大体分かったけどさ、それでクオリアは何で? えっと、優越感と〜?」
「その像は、実際よくできていました」
「うん」
「立体表現の中では表面上最もお姫さんを忠実に表していたと思います。ですが、クオリアさんは作者の努力の伺えるその美しい像よりも、演出のため意図的に骨格を狂わされた屈服者の方に魅力を感じていました。骨格が狂っているのに、それが違和感なく見える、そう見させる作者の力に。だから
『それならティディア様の影をなぞるだけじゃなくて、もっとこの人の“ティディア様”を形象化すればいいのに』――クオリアさんはそう言った後も何かを考えているようでしたので、拙者は聞いてみました
『何故、それができなかったんでしょう』――彼女は相当考えてから言いました。その目は宙をさまよい、その作品を今一度感じているようにも思えました。
『……怖かったのかしら』
『怖かった?』
『だって、他の人の作品を嘲りながら、全力を注いだ自分の像が「こんなのはティディア様ではない」って評価されたら? そして「ただ他人を嘲るためにティディア様に仮託しただけだろう」って突かれたら?』――クオリアさんはその作者の過去作品にもあたってみていたようです。それを拙者もてみましたが、確かに“ティディア像”は異質でした。その作者の作品群に、モデルが作者の感性によってデフォルメされなかったものは一つもない。しかしお姫さんだけは“見たまま”なんです。その理由は? 拙者は聞いてみました――『では、だからあれだけ“忠実”にすることで身を守った?』『……邪推だと思うけど』と、クオリアさんは明言を避けましたが、しかし言われてみれば頷ける。拙者も“露悪的なところがかえって浅さを”と言ったでしょう? そこでそう感じた本質的な理由はそれかもしれないと思いまして、それをクオリアさんに聞いてもらった上で、付け加えてみました。
『ということは、もしかしたら“忠実”であることもまた露悪であったのかもしれませんね。自分だけはこんなにもティディア様を理解している。自分だけがティディア様の美の忠実なしもべなのだ、という嘲笑として』――クオリアさんは何か見つけかけているようでしたので、そこで思いつきを口にしてみたんです――『己の主張は引きながら、しかし他者を見下し嘲ることだけは引けぬからには?』
『だとしたら、それは……』と、彼女は沈黙しました。じっと考え込んで、その思考と自分の感性とを織り合わせることに苦労したようで、長い沈黙の後でやっと言ったんです」
 ハラキリは口を閉じる。ニトロは、彼に促されたかのように言う。
「優越感に乗っ取られた自尊心」
 ハラキリはうなずき、
「クオリアさんは少し自信なさげに、それでも何か確信のあるように……もしかしたら身に覚えでもあったのでしょうかね。こう言いました。
『だとしたら、自分の作品を信頼することよりも、それを守ることよりも、ただ自分を大きく見せたいだけの優越感に乗っ取られた自尊心が、作品も、作者自身をも削ぎ取っている』――それはとても残念だと」
 ニトロは息をつき、
「正直、俺には難しすぎるよ」
「いやいや、本来難しくないものを拙者とクオリアさんが難しく考えてしまっただけかもしれませんよ?」
「……で、ダレイは?」
「よく解らないと」
 ニトロは笑う。ああ、彼と握手がしたい。
「俺もダレイと同じことしか言えないと思うけどね、とにかくそんな議論にゃ俺じゃとうてい追いつけない」
「クオリアさんは、君からはそんな議論よりも単に素直な感想を聞きたいのでしょう。主観に影響を及ぼすのは常に別の主観ですから。『ザ・ティディア展』にクオリアさんが共鳴する作品はありませんでしたが……」
「ハラキリは?」
 彼は飄々と笑う。その表情にニトロは苦笑する。ハラキリは肩をすくめ、
「もちろん皆さん立派な作品を作られていましたよ? ただ、偉大な肖像画家は対象の姿ではなくその精神、その魂そのものを描き出すと言いますが、それに近づくものはなかった。それよりも『ティディア』という存在によって逆にその作者の内面が引っ張り出されているものが多かったように思います。先ほど話したものもその一つでしょう。中には詩もありましたがそこに記された美辞麗句は、ただ美辞麗句、あるいはただ崇め奉り、あるいはただ愛の告白、あるいは彼女に受け止めてほしい欲望のあらわれ。ですので、それぞれ魅力あるものはあったにせよ、そういう意味において『ザ・ティディア』と評するに足るものはなかった――というのが拙者の結論ですね。
 とはいえ、それでもクオリアさんは色々な刺激を受けていまして、そこで、さらなる刺激を求めているんですよ」
 その言い方にニトロは苦笑してしまう。そうだ、ちょうど今の自分がそうであるように――
「でもさ、それでクオリアが俺を誘おうって言い出したのはハラキリと議論したから俺のも聞きたくなった、なんてことはないよな? お前に刺激されてさ
 するとハラキリは口角を持ち上げ、
「ご想像の通り、そんなに聞きたいなら直接聞けばいいと、躊躇う彼女を焚きつけてみたのは何を隠そう拙者です」
「おい」
「別にいいでしょう?」
 ストレートにそう問われると、ニトロに否定は返せない。彼は黙す。
「クオリア殿ハ、明日学校デ返事ヲクレタライイカラッテ言ッテタヨ?」
 ニトロはもう少し黙考し、
「……クオリアは、いつかあいつを描いてみたいって言ってたっけ」
 ハラキリはうなずく。
「今回もその参考ですね。そうして機が熟すまで火薬を蓄えている」
「火薬? 栄養とかじゃなくて?」
「彼女の場合はそうでしょう?」
 ニトロはうなずき、そして笑ってしまう。その表現は当を得ている。
「それじゃあ俺もその貯蔵に手を貸そうかな。むしろ湿気しけさせる可能性もあるけど」
「イイノカイ?」
「うん。さっきも言ったけど、『師匠』のおかげで興味も出てきたしね」
 ハラキリが苦笑するのにニトロはしてやったりと笑い、しかしすぐに表情を固めると、
「ただちょっと覚悟を決めていく必要がありそうだし、もしそんなところに行ったことがバレると色々面倒だから念入りに変装していかないと。てことでハラキリ」
「かしこまりました。撫子に手配させておきます」
「うん、よろしく」
 その決定に芍薬がうなずくのを見て、ニトロはぐっと伸びをした。それからだらりと力を抜くと、そのままの状態でぼんやり前方の赤信号を眺める。
 青に変わった。
 青……今、その色から連想するのは、蒼い顔。
 思えば、例の二人が失態を犯した後、どうしてそんな非合理で非理性的な行動を取ってしまったのか理解できないほど心を乱したのは……もちろん王女を恐れたこともあろう。しかしそれ以上に、その二人もそうだったのではないか。いや、帰り際に聞こえたあの奇矯な声――あれを改めて思えばそうとしか思えない。
「みんな、ティディアが大好きかあ」
 何気なくぼやくと、ハラキリがくっくっと喉を鳴らした。
「君もいっそ大好きになりますか? そうしたら、きっとそれで楽になれる」
 それは悪魔の誘惑というものか? ニトロはいつも笑っているような親友の、いつにも増して細められている双眸を横目に見、くっと口角を引き上げてみせる。
「いいや御免被る。皆が好きだから好きになるってのが悪いとは言わないけどね、そしたら皆が嫌いになったら俺もあいつを嫌いにならなくちゃいけないだろう?」
「それが嫌ですか」
「うん、嫌だ。だってそれは俺の内面じゃない。俺はさ、俺があいつを嫌いなんだよ」

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