中吉

(『2019小凶』と同日)

 ヴィタは腹が空いていた。
 今日は朝から何度『変身』しただろう。
 主人の手となり耳となり口となってこそこそ動き回った。
 午前中には芍薬様と相撲を取った。
 ハンデ付きでも過酷だった。
 昼食はろくに食べられなかった。エネルギー摂取のみを目的とした糧食を口にしただけで、王女の手となり耳となり口となってあちこち訪ね回った。
 ディナータイムは執事として給仕をしながら、王の名代の手となり耳となり口となって誰それと話して回った。
 その後は芍薬様とレスリングをした。
 腹ごなしに夜這いだと意気込んでいた姫様はとうとうブチ切れたニトロ様に頭を鷲掴みにされて泡を吹いて気絶した。ぷらぷらと揺れるつま先が最高級の絨毯をスッス、スッスとかすめる音が耳に残っている。『馬鹿力』に悶絶する姫様は何度も見てきたが、頭蓋骨があのように鳴るのは初めてだった。否、その鳴った頭蓋骨は、もしや自分のものであったかもしれない。芍薬様の――警備用アンドロイドにヘッドロックされると死ぬほど痛かった。大抵の人間はただ制圧されるだけであろうから、なかなかこのような経験をした者はないだろう。
 エネルギー摂取のみを目的とした糧食を食べる。
 領主夫人主催の夜会でもろくに食べられなかった。一口二口は食べたが、どれも立食パーティー用の小振りなものであったから文字通り腹の足しにもならない。ティディア様の私のためにセレクトされたドレスはヘソ出しのもので、あるいはそれはお腹の鳴りそうな私への拷問かと疑ってしまった。無論、紳士淑女のお歴々の間を王太子の手となり耳となり口となって歩き回った。滞在時間も短く、王女の威光によって領主夫人の名誉かおを照らしたところで車に乗った。追加の食事とも別れを告げた。
 エネルギー摂取のみを目的とした糧食を飲み込む。
 その後も仕事は続く。
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは王家所有のカントリーハウスに帰ってくる間にも、帰ってきてからも、数々の通信会議に出席していた。現在はセスカニアンこくの外相と会談している。王女の背後に立つ二人――片や貴族、片や平民――は王都から参加している担当官の立体映像ホログラムだ。王女は外相に友好的な笑みを送っている。三ヵ月後、あちらの姫殿下がアデムメデスを訪問することが決定していた。公的な星間通信会談が終わると、その中継が切れる間際、アデムメデスの王太子は顔馴染みのセスカニアンの王女によろしくと私的な伝言を預けた。外相も友好的な笑みを浮かべていた。
 ヴィタは早速次の会議への接続を行う。
 西大陸南部において王家の資産を管理する者達は既に電脳会議室V.カンファレンスルームに揃っていた。側仕えが主人にヘッドマウントディスプレイを手渡している。
 と、ヴィタの携帯モバイルに着信があった。
 王家の法定相続人を会議室に送った後、執事はほぼ私用のモバイルに持ち替えて、問い合わせてきた相手へ音声オンリーで折り返した。
「もしもしヴィタさん? 今大丈夫?」
 申し訳なさそうに彼が聞いてくる。
「はい。どうなさいましたか?」
「いきなりだけど、ここの敷地内で焚き火ってしても大丈夫かな」
 意外な要望だった。そして意外すぎて即答はできなかった。
「申し訳ありません。確認し、また折り返します」
「うん、ごめんね」
 おそらく問題はないだろう。が、このカントリーハウスも王家の所有物だ。今春から一般開放もされ、その収入見込みは決して少なくない。おそらくで許可を出すわけにはいかない。火を用いるならなおさらだ。それには地元の法律も絡むし、ここは古い施設であるため現代の物に比して防火能力も数段劣る。
 ヴィタは素早く王家執務室と連絡を取った。日々このカントリーハウスの維持を担う子爵にも確認する。執務室からは許可。子爵も了承、ただし消防に連絡願うとのこと。もちろん、王家のカントリーハウスの敷地内に火の手が見えだけでも大騒ぎだろう。ヴィタはカントリーハウスの事務をサポートするオリジナルA.I.に関係各所との手続きを命じた。いくつかサインを求められる。主人に相談もなく、第一に主人の確認も取っていないが、この独断は可だと判じて執事は全てにサインする。
「――もしもし」
「あ、ヴィタさん、やっぱダメだよね」
「可能です」
「え、いいの?」
「はい。もちろん常識的な範囲でですが、焚き火をなさって構いません」
「え? 本当にいいの? ここは文化財でもあるって」
「燃やさないでくださいね?」
 そのセリフに、受話口から笑い声が聞こえてくる。
「うん、それはもちろん。――もし火事にでもしたら責任とって『結婚』でもなんでもするよ」
 思わぬ軽口にヴィタは大きく目を開いた。ヘッドマウントディスプレイを持ってきた後も部屋に控えている王女の側仕えが、ふいに閃いたマリンブルーの瞳に、見惚れたように口をすぼめる。
「それでは……燃やして頂いた方がよいかもしれませんね」
「爆弾持ってくるかもしれないからティディアには内緒だよ?」
 ヴィタは笑いを堪え、
「かしこまりました。ところで」
 そのような軽口を言わせるほど、ニトロが機嫌のよくなったのはなぜだろう?
「何をなさるのですか? ただ焚き火をしたいというわけでは……」
「ハラキリがさ、まだ町にいるって言うんだけど、近くに甘藷スイートポテトの名産地があるんだって?」
「はい」
「ヤキイモにしないかって」
 グウゥと、ヴィタの腹が鳴った。
 側仕えが「まあ」と口に手を当てる。
 ヴィタはそれを恥ずかしいとは思わない。そもそも腹が鳴ることを恥ずかしいとも思わない。執事としては問題だろうと、それが無作法になる場合でなければ自分としては全く良いのだ。ただ通話先にその音は届かなかったらしい。
「それで広いんだから焚き火ぐらい平気でしょうってさ、なのに俺に確認取らせるんだから腹が立つ」
 ますますヴィタは腹が凹む。
 しかしなるほど。ニトロ様の機嫌が良くなったのも理解できる。やっと『師匠』が合流してくれるのに加えて、この寒空の下に焚き火でヤキイモとは、何だかんだ言って彼も魅力に感じているのだ。
「忙しいのに手をかけさせてごめんね。ありがとう」
「いえ、どうぞお楽しみ下さい」
「うん、それじゃあ」
 ヴィタはよだれのせいで舌が回らなかったらどうしようかと思っていたが、それはどうにかクリアした。激しく葛藤する胃の腑の上で、しかし涼しい顔で通話を切る。
 側仕えは何も言わない。
 互いに仕事中である。
 執事にしてもニトロ・ポルカトという“賓客”に対応したに過ぎない。
 私用のモバイルをしまい、彼女は部屋の隅の小卓に添えられた椅子に座った。側仕えは王女に仕える者らしく品良く主人の傍らに佇んでいる。
 執事はエネルギー摂取のみを目的とした糧食を水で流し込む。
 業務用のモバイルで電脳会議室の様子を伺うと、ある城館の修復に関して不可解な支出の発覚したことについて、それを担当する伯爵が釈明を行っていた。王女は黙って聞いている。その沈黙は恐ろしい。
 実際のところ、その横領は少しずつ長年続いていたもので、その金の流れも既に把握されていた。伯爵の首が飛ぶことは確定しているが、問題は金の流れの外側で彼女に協力していた者である。直接横領には関わらずとも、彼女と利害関係のある者の中には第一王位継承者に面従腹背の大物もいる。その大物の息のかかる系譜には、他の管理者達の中にも妻、従弟、交際相手といくらか関わる者がある。ティディア姫は、さてここからどれだけの旨味を吸い取るだろう。
 ヴィタの血肉にエネルギーが巡る。それでも腹は決して満たされない。
 主人から指示が入った。
 指示通りに資料を送る。
 電脳世界で王女が資料に目を通す、その素振りだけで伯爵は縮み上がる。
 会議は、尋問は、始まったばかりだ。

 最後に伯爵に対する処分が下された。
 王女が電脳空間から帰ると、側仕えが進み出て恭しくヘッドマウントディスプレイを取り外す。そして側仕えは一礼すると静かに部屋を出て行った。
 うん、と伸びをして、ティディアが言う。
「お腹が空いたの?」
 彼女の没入スライドレベルは深くなかった。ヴィタは微笑し、
「お聞きになりましたか」
「焚き火なんてここでやったことあるのかしら」
「庭師が落ち葉や剪定枝を燃やしたことはあるでしょう」
「その程度よねー。あとは密猟者が暖を取ったか。提案したのはハラキリ君?」
「はい、到着なさいました」
「となると夜這いはもう無理ね」
 ヴィタはにっこりと微笑む。これだからこの主人は愛おしい。
「それで何で焚き火?」
「ヤキイモをなさるとか」
「ニィクロン産?」
「そのようです」
「明日の昼に出るはずだけど、まあ、同じ料理でなければいいわね」
 王家の人間がある土地に訪れた場合、主人ホストからは慣例としてその土地ないしは周辺の名産品が呈される。それを食すのは王に連なる者としての礼儀であり、一種の儀式だ。
「さて、ヴィタ、何か報告は?」
「急を要するものはございません」
 ティディアはうなずき、
「あなたはもう休んでいいわ」
 そう言って板晶画面ボードスクリーンに先ほどの会議中にヴィタがまとめておいた書類を呼び出し、彼女はそちらに目を落とす。まだ王女宛に届けられた請願書にも目を通していないから、仕事はまだまだ続くだろう。
 しかし、ヴィタは頭を垂れた。
「それではティディア様、一足お先に失礼致します」
 ここで拒否することこそ主人は嫌う。
「あなたの部屋に夜食を届けさせてあるから」
「お心遣い感謝いたします」
 もう一度頭を垂れ、ヴィタは静かに部屋を出ると、すぐさま足を速めた。
 ――どこだ?
 焚き火はどこで行われている?
 ヴィタは一度部屋に戻り、テーブルの上で銀製の蓋に守られた夜食には目もくれずにコートを引っつかむとまた廊下に戻り、屋敷の内をさながら猫のごとく走り抜けて通用口から外に出た。起伏のある野原の奥に、過去は狩猟の盛んであった所有林がこんもりと影を盛り上げているのが目に入る。彼女は右方へ歩いた。建物の影に隠れていた先、軽くうねった芝地を抜けた先にある小さな林の手前に火の手が見えた。鋭敏な彼女の耳にはヴァイオリンの音も聞こえた。
 コートをはおった彼女は暖を求めて足を進めた。
 息を吐くと真っ白に凍りつく。
 風がないのが幸いだった。
 息を吸うと喉が沁みる。
 肌にぴりぴりとした痛みが刺し込む。
 ヴァイオリンは陽気な曲を奏でていた。酒場でよく歌われるような、ちょっと下品な歌の尻軽なメロディ。
 夜目の利く彼女の瞳は、火を囲む七つの人影を捉えていた。
 笑い声が聞こえてくる。
 ヴィタは微笑み、ある程度の距離まで来ると次第に足の運びを緩めた。
「――あれ、ヴィタさん」
 最初にこちらに気が付いたのは王家の経営するブランドのスーツを着たアンドロイドであったが、声をかけてきたのはニトロであった。するとヴァイオリンの音が止み、慌てて三人が立ち上がる。元々立っていた演奏者は直立不動となった。
「構いません、皆さんどうぞお座りになってください」
 星影に沈む中にマリンブルーの光が二つ、それが炎に近づくにつれ、美しい麗人のかおが赤く照らし上げられていく。涼やかな声を浴びた四人の男女は互いに目を見合わせ、どこか気まずそうに笑みを浮かべあっていた。
「冷えますねえ、ヴィタさん」
 と、そう言ったのはハラキリである。
 彼はこちらに顔を向けているニトロの背後で火のに置かれた鍋に手を伸ばしていた。鍋は二つあり、どちらとも何かどす黒い液体が入っているが、片方は若干赤みがかっている。彼はそちらの鍋のレードルを掴もうとし、
「ほい未成年」
 ニトロが急に背後に振り返るや張り手を繰り出しハラキリの額でパン! と音が立った。
 見事な快音である。
 反射的に、ブ、と吹き出す者があった。四人の男女のうち、最も年嵩の男である。彼が吹き出したことに引きずられて女二人も笑い出した。ハラキリは額に手を当て恨めしそうに唇を歪めていた。
「君は背中に目がついてるんですかね?」
「気配で分かるわ」
「お陰で頭が痛くなってきました」
「二日酔いよりゃいいだろ?」
 最後にヴァイオリン弾きも笑い出す。
 どうやら目当ての鍋に入っていたのは赤ワインだ。ヴィタの鼻はそこに四種のスパイスとシトラスが放り込まれていることを嗅ぎ分ける。おそらくニトロとハラキリの酒を巡るやり取りはもう何度も繰り返されていたのだろう。およそこの場における定番のギャグになっているのかもしれない。
 二人の少年が芝のはげた黒土にカーペットのように敷いた枯葉の上に座り続けていることもあり、四人の男女もしだいに落ち着き、座りだした。年嵩の男は庭師だった。女二人はハウスキーピング。ヴァイオリン弾きは給仕の一人で、それぞれカントリーハウスの一般公開時には『ホテル要員』としても働くため、現在住み込みで準備を進めているスタッフである。
「お隣、よろしいですか?」
「お召し物が汚れますよ」
 ニトロに声をかけるヴィタに驚いたように言ったのはハウスキーピングの片割れ、ニット帽を被ったショートカットの女だ。
「ええ。ですが、構いません」
 ぱちぱちと爆ぜた炎から舞う火の粉がマリンブルーの瞳に映じて美しい。ショートカットのハウスキーピングは小さな焚き火を挟んで息を飲んだようだ。彼女の隣で、同じニット帽から三つ編みを垂らす女も目を丸くしていた。焚き火は小さくとも冬の夜気を周囲から払い、頬を火照らせたヴァイオリン弾きは、何かに弾かれたように曲を奏で出す。それはまるで藍銀色の髪の麗人に捧げるかのように。ロマンチックな旋律が星空に響く。
「――で、別にいいよ?」
 ニトロが言うと、彼の傍に控えていたアンドロイドが少し脇に避ける。
 ヴィタは散らされた枯葉の上に腰を下ろした。尻がひやりとする。しかし、悪くない。
「コッドさん、もう一つコップありましたっけ」
「おうよ、ニトロさん」
 髭面の庭師がカゴからニトロにステンレス製のコップを渡す。
「ヴィタさんは、仕事は――」
「終わりました」
「じゃあホットワインでいいかな」
「拙者も」
「俺達はコーヒーだ」
「コンデンスミルク入りは飽きました」
「ならブラックでどうぞ」
「殺生なあ」
 沸き起こる笑い声の中、ヴィタはニトロに目礼を返した。ニトロは作業手袋をはめた右手を伸ばしてレードルを掴み、コップにホットワインを注ぐ。
「こちらは?」
「拙者が買い集めてきました、なのに飲ませてくれませんで」
「無駄にするのも何だし、どうしようかと思ってたら皆さんが集まってくれてね。コップとか鍋とかコーヒーとかは、皆さんの差し入れ」
「いやあ、初めは火事かと」
「ほんとに驚いちゃって」
 庭師とショートカットがその時の驚きを再現するように目を丸くする。笑い声。
「それで話を聞いたらとても楽しそうで」
 と、三つ編みが言うとヴァイオリン弾きは相槌を打つように弓を引く。
「他の仲間はお呼びにならなかったのですか?」
 ニトロからコップを受け取ったヴィタが――まるきり答えが解っているとばかりに――問うと、四人は目配せをしあってくすくすと笑う。
「気づいたモンだけが楽しめりゃええんです。ただ拒みません」
 庭師に同意が集まる。ここにヴィタの現れたのは、一種の涼気が吹き込んできたようなものだった。しかし涼気は炎を消さず、むしろ煽り立てて熱を増す。彼女とこのようにお近づきになれたことが嬉しいのだろう、同意を集めた庭師は鼻を高くし、女二人は炎にきらめく藍銀色の髪をうっとりと眺めている。
「お疲れ様」
 ニトロが自分のコップを持ち上げた。
「お疲れ様です」
 ヴィタはコップを彼のものに柔らかに合わせた。
「「お疲れ様です」」
 他の皆もコップを目の高さに持ち上げる。ヴァイオリン弾きは目でそれを伝える。
 ヴィタはホットワインを口にした。スパイシーで甘く、ふくよかな香りが喉を滑り落ちて、その温もりに腹の底からほおと吐息が漏れる。
 焚き火は枯れ枝と枯葉を燃料にして赤々と冷気を舐める。
 赤光は肌を通して身の内側にまで沁みこんで、火に当たる体の正面をすぐにぽかぽかと温める。
 背中は寒い。
 だが、この差がまた良い。
「昼はまだ秋って感じだったのに、そこからずっと南に来たらもう真冬。なんか色々逆で変な感じだよ」
 ダッフルコートに身を包んだニトロがハウスキーピングの二人から、庭師とハラキリを経由して何かを受け取りながら言う。
「これで家に帰ったら春なんだから流石に体がおかしくなりそうだ」
「その点は芍薬様がいらっしゃいますから」
 アンドロイドは当然とばかりにうなずく。が、それはそれとしてニトロは言う。
「スケジュールのあり方にやんわり苦情を入れてるんだよ?」
「お仕事ですから」
「それは万能の免罪符じゃないと思うんだ」
 ニトロは膝にキッチンペーパーを敷き、その上で器用にライ麦パンを薄く切る。次にサラミを切って並べて、切り取ったチーズを金串に刺して火に近づける。
「では、ティディア様はお忙しい方ですから」
「それならそれに付き合わせるなって言うよ」
 ほどよく柔らかくなったチーズをサラミの上に。そこに黒胡椒をガリッと一挽き。そして薄く切ったパンでサンドする。
「あ、勝手に作っちゃったけど」
「いただきます!」
 ヴィタは餓えていた。思わず声が大きくなった。よだれが飛び散らなかったのは幸いである。スタッフ四人は驚いたようで、ハラキリは何事もなく焚き火に太い枝を放り込む。火の粉が舞った。そのうちいくつかは驚くほど高く舞って夜空に消える。ヴィタは受け取ったサンドイッチに早速かぶりついた。
「ああ」
 ため息が漏れる。
 それが本当に幸せそうな顔だから、スタッフ達も思わずほころんでしまう。
「美味しいです」
「そりゃ良かった。チーズと調味料はギレウさんの差し入れ」
 ヴィタが瞳を向けると、ヴァイオリン弾きが光栄そうに会釈する。曲は軽やかである。彼女が笑みを返すと音符が調子っぱずれにスタッカート。ハウスキーピングの二人が意味ありげに目を合わせてくすくす笑う。
「サラミは自分です」
「素晴らしいですわ」
 王女の執事らしく庭師に応えると、庭師はふんと鼻を鳴らした。その誇らしげな様子にハウスキーピング達がやっぱり笑う。
 ヴァイオリンと四方山話をBGMに、ハラキリは金串にマシュマロを刺していた。それを火で炙り、クラッカーにのせて適当に回す。甘味に笑みが溢れる。ヴァイオリン弾きはそれが好物のようで、一度演奏を止め、焼けてとろけるマシュマロを口にした。その頬が赤いのは喜びと火の照り返しのためだけではあるまい。彼は美しい瞳への憧れを隠せない。ヴィタもマシュマロを食べて、肩をすくめるように目を細めていた。ヴァイオリン弾きは足元のコップを持ち上げホットワインを一気に煽ると、またロマンチックに奏で出す。
 その最中、アンドロイドは火バサミを時々焚き火につっこみ、灰と燃えさしを火の脇に寄せていた。外観として燠火おきびの山の横に火の山があるという様子である。
「そっちで芋を焼いてるんだ」
 ヴィタの視線に気づいてニトロが言った。
「なるほど」
 おそらく、人数が増え、パーティーのような形になったのでそのようにしているのだろう。もしニトロとハラキリだけであったら焚き火はすぐに終えて一度部屋に戻り、燠火の中で芋の焼けるまでは芍薬が見張りをする――となっていたはずだ。
「ン」
 ふいに芍薬が声を発した。
 ニトロが敏感にそれに反応するが、振り返った彼の目はまだ何も確認できない。ヴィタは既に確認していた。ハラキリはブラックコーヒーを飲んで魅惑的な炎のダンスをじっと眺めている。四人のスタッフは疑問符を顔一杯に刻んでいた。
 ニトロは炎に向き直った。
 ヴィタは半身になって二つ目のサンドイッチを齧る。今度はサラミも焼いてもらっていた。
「あ!」
 と叫んだのは四人のうちの誰だったろう? 再び彼と彼女らは立ち上がった。ヴァイオリンが金切り声を立てて止まる。そして皆、直立不動となった。
「いいわ、楽になさい」
 音楽に代わって華やかな声が場を慰める。
 しかし、誰も応えられない。
「は」
 ほとんど吐息でしかない声が漏れたが、それも誰のものだか解らない。おそらくハウスキーピングのどちらかであろうが……ニトロは炎の影に目を惑わされてそれを確かめることはできなかった。そして彼は小さく息をつくと、
「……お疲れ」
 肩越しに振り返り、ニトロは言った。瞳にはまだ怒気が宿っていた。
「お疲れ様」
 ティディアの息は白くなる。部屋着の彼女は肩にかけたストールを胸の前で閉じるように掴んでいて、その微笑みは揺らめく炎によって妖しく、その美貌をまるでこの世のものでないように彩っている。
「お前は、仕事は?」
「ちょっと休憩。すぐに戻るわ」
「こんな夜更けなのにまだですか」
 ハラキリが言った。今度は、彼も『ギャグ』を仕掛けない。
「そうね、でもとても良い夜だから」
 姫君はそう言って星を見上げる。それにつられて四人も見上げる。
「もう少し起きていたいのよ」
「妙にロマンチックな言い方だな」
「時にはそういう気分も良いものよ?」
「仕事中なら……コーヒーの方がいいかな?」
 その問いかけにティディアは小首を傾げ、
「あら、飲んでいけって?」
「休憩時間にもよるかな」
「それなら一口、あとは持って戻るわ」
 ニトロは先刻庭師がコップを取り出したカゴを一瞥した。庭師も、彼の仲間も誰一人として『楽に』なろうとはしていない。まるでそうしていないと火に焼かれて目が潰れ、その人を見失ってしまうとばかりに立ち続けている。ニトロは自分のコーヒーを飲み干し、
「“お古”でもいいか?」
「やー、なんなら口移しでもいいのよ?」
「趣味じゃないね。コーヒーはブラック? コンデンスミルク入り? ここらの飲み方だそうだけど」
「そっちのは?」
「仕事中にアルコールはダメだろ」
「あら、ニトロは全ての『政治』がアルコール抜きで決まったと思うの?」
「居酒屋談義で決められたら庶民としてはたまったものではないのですが?」
「ケースバイケースねー、でも、ブラックで」
「……」
 ニトロは手を鍋のレードルに伸ばした。そしてホットワインをコップに注ぐ。
「コーヒーの風味が加わったのは勘弁しろよ?」
「いいの?」
「俺は何だかよく真面目だって言われてるけど、実はそうでもないんだ」
 ティディアは座したままのニトロからコップを受け取り、
「そう言う人は、実は真面目どころか大真面目」
 それに吹き出したのはハラキリである。むっとするニトロの頬は赤い。が、それは焚き火のせいだろう。スタッフ達は王女を前にしてもなおこのような少年達の態度に、今さらとても驚いている。
「でも、ありがとう。いただくわ」
 ティディアはニトロを見つめ、彼は彼女の目を見ない。
「ヴィタ、火の始末はしっかりね」
「はい」
「あなた達も、明日の仕事に遅れないように」
「「はい!」」
 女主人らしく釘を刺したティディアにスタッフ達は声を揃える。
「ハラキリ君も来てくれてありがとう」
「こちらこそご招待いただきまして」
 嘘である。招待した覚えはない。しかしあえて否定することもない。ティディアは微笑み、
「明日はニトロと一緒に?」
「ええ、帰ります」
「そう。
 それじゃあニトロ、また明日」
「……ああ」
 ニトロは焚き火に振り返る。
「……おやすみ」
 そして投げかけられた彼の言葉に、ティディアは小さく震えた。
「おやすみなさい」
 最後にティディアはいつでも戦闘態勢に移れるよう身構えていたアンドロイドへ視線を送った。
 アンドロイドは――芍薬は何も返さずただ焚き火の様子を見る。
 ティディアの足音が離れ、聞こえなくなった時、
「ああ」
 と、膝から崩れ落ちたのはハウスキーピングの二人だった。ヴァイオリン弾きも大きな息と共に尻餅を突くようにして座り込む。庭師は最後に、ひどく疲れたように座った。
 しかし、それは皆、感動のためであった。
 特にハウスキーピングの二人はそれまで震える膝を辛うじて曲げずにいられたのは奇跡といった風情だ。息も荒く、完全に腰砕けとなっている。その瞳は宙をさまよい、今まで見ていた蠱惑の影をそこに追い続けているようである。男二人もそうだ。ヴァイオリン弾きは夢見心地で、庭師は恐悦に酔っている。
「……」
 ニトロは炎を見つめた。
 ヴィタはサンドイッチを食べ、ハラキリは焚き火に枯れ枝を放り込む。四人はまだ放心している。
 ニトロは星空を見つめた。炎には手が届く。星には届かない。
「芍薬」
「ソロソロイイネ」
「ヴィタさんも明日は早いの?」
 サンドイッチを食べ終え、執事はうなずく。
「はい」
「じゃあ、そろそろ戻るのかな」
「はい」
「ティディアにも持っていってよ」
 何でもなさげに、ただ先に帰った人にもお裾分けをするだけだという彼の態度に、ヴィタは微笑む。
「はい、もちろん」
「いくつ?」
「ティディア様に一つ。私は、可能であれば三つ」
「まだそんなに食べるんですか?」
 と、しれっと言うのはハラキリだ。きっと四人の心を代弁したのだろう。ヴィタは微笑した。これまでに見たこともないような麗人の美貌に、四人はまた心を失った。彼女はマリンブルーの瞳を炎にきらめかせ、
「甘い物は別腹ですから」

 ノックが鳴った。
 その特有のリズムに、ティディアは許可を返した。
「どうしたの?」
 ヴィタはティディアの向かう机の上にあのコップを見る。もう冷めているだろうに、随分大事に飲んでいるらしい。
「ヤキイモを持ってまいりました」
 ティディアが振り返る。
「ニトロが持って行けって?」
「はい」
「どんな感じで?」
「普通に」
「普通に?」
「ごく自然とニトロ様らしく」
 するとティディアは微笑んだ。
 もしその微笑みを見たとしたら、あの四人は即座に絶えることもできずに腰が抜けていただろう。
「それじゃあ、いただくわ」
 もしニトロがそのヤキイモをティディアに渡そうと思ったのが同情ゆえであれば、彼女はひどく機嫌を損ねていたはずだ。もちろん彼はあの場にいられない王女への同情やそれに近いものを全く抱いていないわけではなかったろうが、としてもそれを表に出さないのは一つの礼儀である。そして礼儀とは他者あいてがなくては成り立たず、それがどんなに形式的なものだとしてもそこには敬意がこもるものだ。そして敬意は同情からはまた遠く、それが敵に対するものであったとしても、好意に近い。
「ご一緒してもよろしいですか?」
 ティディアはうなずく。ヴィタはテーブルにキッチンペーパーで厚くくるんだヤキイモをごろごろと置いた。
「それからこれを」
 コートのポケットからヴィタの取り出したのは、一束いくらの作業用手袋であった。
「焚き火で焼いた芋はこれで食べるのがマナーだと」
「ハラキリ君が?」
 ヴィタは目を細め、ティディアは笑う。
 それから二人して目も繊維も粗い手袋をはめると、ヤキイモの一つを手に取った。キッチンペーパーのくるみをはいでいくと手に伝う熱が増してくる。
「ニトロ様は火傷に気をつけるようにとも仰っていました」
「何だかんだでお人好しよねー」
 キッチンペーパーを剥がすと灰のついたアルミホイルが現れ、スイートポテトの甘い香りが鼻腔を刺激した。ホイルの半分を剥がすと、水分の飛んで皺の寄った茜色の皮が湯気を立てて現れる。折り割ると茜色の下から黄金色の実が現れて、閉じ込められていた湯気が光明の中にほわっと白い渦を巻いて昇っていく。甘い香りは蜜を帯びて芳しい。
 二人はいよいよ相好そうこうを崩して大口を開け、実を齧った。
 途端にほっほっと二人して白い息を吐く。熱い。熱くて、熱くて、
「ほっこりね」
「はい、とても甘いです」
 そして二人はふと目を見合わせると、次の瞬間、何故だか急におかしくなって声を立てて笑った。

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