(『怖い話』と『黄金に輝く』の間)

 混じり気のない青のペンキをぶちまけた中に、大きな綿のかたまりを無数にちぎって自由に振りまいたような空だった。
 近く深く遠近感を狂わせる大空とコントラストもくっきりとしたそれら幾つもの雲は、あるいは薄く、あるいは厚く、揃って低いところを足早に流れ、かつ足早に太陽を隠しては大地に影を落とし、かつ足早に通り過ぎては再び大地に光を与える。太陽は高く、日差しは百花繚乱と彩色された屋根石スレートを叩き割らんばかりに鋭かった。無防備にそれを受ける雲の白は暴力的なまでにまばゆく輝き、時に己を忘れて銀色にまで昇華する。一方で、その腹の底は地に落ちる己の影を吸って灰を帯びている。
 また雲が太陽を隠した。
 また雲間に太陽が現れた。
 晴れと曇りが頻繁に入れ替わり、明暗の差があまりに激しい時には地表を行く人の目はくらんでしまう。
 また太陽が半ば隠れた。
 淡い白雲を透かして光は変わらず鋭角に差し込んでくるが、やがて角はまろく溶けていく。
 その時、蛍光色とパステルカラーでパッチワークを施されたような道沿いのアパルトマンは、銀と灰の混ざる光で色褪せながらも色鮮やかに照らされて、傍らの古色蒼然とした道を歩く人々は、和らいだ景色を歓迎するようにあちこちを見回し、
「主様」
 枯れ野を極彩色の花畑が侵食しているような、それともオールドファッションにケミカルなチョコスプレーをたっぷりトッピングしたような奇抜な街並みを楽しんでいた彼の目の端に小さな矢印が表れた。それは右前方にあるカフェを示している。
 ニトロは、空を見上げた。
 真上には綿雲を額縁にしたブルーホール。背後から傾く光がまた射して、ライムグリーンに塗られた屋根石スレートに瑞々しさを加えたかと思うとすぐにまた太陽は隠れてしまう。確かに先刻より雲は増えたようだ。が、他に目立った変化はない。周囲も静かで、このカラフルな街を味わう観光客やにわか客たちにも変化はない。
「ソコノケーキニハ外レガナイラシイヨ」
 外耳道に貼り付けたマイクロイヤホンを通じて届く声に揺らぎはない。自然とニトロの足は歩道を外れ、上りも下りも車の往来のない道路を横切っていく。
 そのカフェはY字路に張り出す岬の先端にあった。濃い赤から薄いショッキングピンクへのグラデーションに塗られた石の柱を広く等間隔に置きながら、その間に大きな窓を連ねて開放的な様子である。店内は茶と金を基調とした落ち着きながらも華やかな雰囲気。敷地は台形をしているようで、その上底部分に大きな扉が外向きに、つまりなだらかな登り坂になっているY字の足に向けて開け放されていた。下底にはキッチンとバーカウンターがあり、夜は酒類も出すのであろう、コーヒードリッパーやエスプレッソマシンと並んで無数の酒瓶が照明を反射している。眼前で左右へ分かれる道に沿う側面にはカウンター席があり、都合三つのカウンターに囲まれた中にテーブルが十数席。
 出入り口は上底のメインエントランスの他に、下底の両端にも一つずつ設けられていた。おそらくサブとして後付けされたものなのだろう簡素な扉がこちらも開け放されている。
 ニトロはその一方から店に入った。
 片手で一枚、もう片手で二枚の皿を運ぶウェイトレスが新たな客に目を向けてくる。ニトロが人差し指を立てると、女性は快活に「お好きな席を」と言い、てきぱきとテーブル席へ料理を届けにいく。
 店内をぐるりと見回すと、満席でなく、閑散ともしていない、ちょうどいい混みぐあい。
 できるだけ出入り口に近い席がいい。
 左右二つの扉……今通り抜けてきた扉に間近いカウンター席とテーブルは埋まっていた。もう一方はカウンターが一席空いているものの、その隣にいる二人連れが気になる。二人とも女性で、二人とも黒紫の髪、そして妙に熱を帯びた話し声。それなら……メインの大扉から最も近いカウンター席はどうだろう。そこから外に出るには届いたばかりの料理に手をつけている客らの座るテーブル席を避けていかねばならぬが、まあ許容範囲か、ニトロはそこへ向かった。そしてメニュースタンドの板晶画面ボードスクリーンに手をつけることもなく――店内に入った際に“お勧め”を書いたボードを一目見て決めていた――振り返る。
「ご注文は?」
 気配を察知したウェイトレスが近寄ってきた。ニトロは彼女に目を――赤いカラーコンタクトレンズを入れた瞳を向けて、努めて低い声で言う。
「『哲学者の石ソフィストーン』をカプチーノとセットで」
「はい、少々お待ちをー」
 明らかに駄洒落た品名はさらりと言い切るに限る。ボードにはチョコレートケーキだとあったが、さてどのようなものが出てくるか……エンジ色の天板に肘を突いて想像を巡らせていると、ふいに視界を人影が横切った。
 ドキリとしてそちらを見ると学生らしい男が窓の外の歩道を足早に進み、と急に気を変えたようにこの店に入ってくる。
 ニトロは帽子を目深に被り直し、学生から目をそらした。するとこの席からほとんど正面に望める一本道――すぐそこで二股に分かれる前のなだらかな坂道を歩いていた人々も、ある人は手近な軒先へ、ある人はとにかく目的地へと足を速めていることに気づく。
 空は明るい。
 この辺だけで言うなら晴れている。
 だが、人々がそれぞれのA.I.や天気アプリに受けた警告は正しかった。
 ポツリと大きな水滴が道路に一つ落ちた。
 かと思うや、突然、雨となる。
 A.I.や天気アプリからの警告に気づいていなかったか、そもそもその手のものを擁していなかったか、壮年の男性が悪態をつくように空を何度も見ながら、窓を隔ててニトロの前を走り抜けていく。
 大雨だった。
 雨脚はさほど強くないが、とにかく粒が大きい。
 ばらばらと大きな雨音がさらにワントーン高くなり、
「ああ酷い!」
 店内に響いた声にニトロは驚き、振り返ると、今しも大扉を抜けてきた老女が目を丸くしている。帽子のつばからポタポタと滴が垂れ、灰色のサマージャケットの肩から背にかけて色が濃くなっていて、せめてと傘代わりにしたのか片手に持つ大判のボードスクリーンからも水が落ちていた。濃灰のパンプスも濡れ、見れば地に跳ねる雨粒は店内にも吹き込みながらタップダンスに狂っている。ニトロの注文を取ったウェイトレスが笑って「教授」と呼んだ。雨の急襲を受けた老女は――もしかしたら教え子なのかもしれない――ウェイトレスの態度に苦笑で応え、勧めに従いバリスタの待つ奥のカウンターへ向かっていった。それと入れ替わりにウェイターが大扉を閉める。と雨音が褪せ、すると、ふいに店内に人々の立てる音声が際立った。
 いつの間にか店は満席になっていた。
 ニトロの隣のカウンター席には先ほど彼の目を引いた学生が座り、外をしげしげと眺めながらどうにか濡れずにすんだことを喜んでいる。テーブルの中には相席となっているところもあり、老教授にしても常連のよしみでカウンターの隅に臨時の席を作ってもらったらしい。ウェイターから渡されたタオルで帽子やサマージャケットを拭きながら、隣席となった相手に頭を垂れている。
 日が陰った。
 ニトロは窓の外に目をやった。
 街は瞬く間に濡れて、色を濃くしていた。今また暗くなったことでその色はさらに濃くなったように見えた。
「お待たせしましたー」
 急に忙しくなったことにも動じぬウェイトレスが注文の品を運んできた。てきぱきとカプチーノとケーキの皿を置き、次いでカトラリーとシュガーポットを置くとニトロの会釈を受けて下がっていく。
 真っ黒な正六面体が、ケーキ皿の真ん中に鎮座していた。
 ニトロはカプチーノを一口含み、ケーキフォークの横にナイフがあることを不思議に思った。
 このチョコレートケーキは『哲学者の石ソフィストーン』という。しかし言うほど見た目は“石”ではない。では?
 彼はフォークを手にし、それで『哲学者の石』に触れた。
 その途端、彼は理解した。
(なるほど)
 固い。
 これはこの小さなフォークでは手に負えない。
 彼はフォークを左手に持ち直し、ナイフを右手に取った。
 ケーキを押さえるためにフォークを軽く刺そうとしてまたその固さに驚く。ウェルダンに焼いたステーキもこれほどではなかろう。ケーキに対するにはあるまじき力でやっとフォークの先端が刺さる。ナイフの刃を当てるが、焦げついたスジ肉だってここまで抵抗するものか? 確かに“石”を思う。しかしケーキには違いなく、表層から数mmを過ぎるとねっとりとした感触が指に伝わり、やがてナイフは『哲学者の石』を切り分けていく。
 さながら石工になった気分にもなりながら、ニトロは切り口も鋭利なそれを口に運んだ。
 ――驚いた。
 このチョコレートケーキは見た目と実際に手に感じた固さとは裏腹に、信じられないほどなめらかな触感を持っていた。一噛みすると独特の柔らかさ……固いのに柔らかいという不思議な質感が歯を楽しませる。しかも舌の上で温まると、溶ける、それまで複雑に凝り固まっていた難問がふとしたきっかけで一気に解けていくように、とろけていく。
 美味しい。
 甘味という物はいつだって精神の味方だ。
 いつだって人を憐れみ、脳を慰め、しかも活動させるための力を与えてくれる。その感動は舌から全身を活性化させてくれる。ニトロはふと思い当たった。
――「ソコノケーキニハ外レガナイラシイヨ」
 雨を予告してきた芍薬の言葉。
 そこのケーキには
 ニトロは『哲学者の石』の余韻を喉の奥に流して外を眺めた。
 雨脚は変わらず、道には小さな川ができ、太陽は先ほどよりも身を隠し、周囲は暗く、それでもここから見える空は青に染まっている。その中を綿雲が悠々と泳いでいる。
 現実に雨が降っているのを見てもなお不可思議な天気雨。
 芍薬は一体どうやって一早くこれを予言したろう。
「お見事」
 小さく呟くと、少しの間を置いて、マスターの視界の隅に控えめに二輪の花が咲く。
 ニトロは微笑んだ。
 花は現れた時と同じくそっと消えていく。
 急に外が明るくなった。
 日を隠していた雲が流れたのだろう、これまで暗い顔をしていた太陽が鬱憤晴らしとばかりに輝く。
 景色が一変した。
 新たな光を受けて雨粒そのものが光の玉となり、それは流星のごとく尾を引いて、雨が光線となる。眩しさが増した。乱立する光線の間で、飛び散る水滴の中で、あらゆる場所で光が乱れ舞う。
 ――昔、南大陸に一人の男があった。
 彼は色について哲学する者であった。
 当時、あらゆる色は光の内に在ると信じられていた。とりわけ太陽――神の力の顕現である太陽の光にのみ全ての色は存在し、物が色を帯びるのはその光によって色を与えられるからである。また星や灯火などのあらゆる光は月と同じく太陽からそれを部分的に借りているのであり、そのため太陽に比べて色数も鮮やかさも劣るのだ――そうアデムメデス国教会は教えていた。
 男の思惟はそれに反した。
 よって彼は異端となった。
 追われる哲学者を匿ったのは、彼の恩師であった。
 師は己の預かるアカデミーの一室に彼を隠した。そこで彼は哲学とそれを実証するための研究を続け、ある日、アデムメデスで初めて工業生産に適う合成顔料を発明した。それはアデムメデスの色彩に革命を起こした。初めの色は、それまでは高価な希石を削らねば得られなかった青にも勝る青。次に毒を含む紅よりも安全で深い真紅。安定した緑。世界の絵画は安価で鮮やかな色彩を手に入れ熱狂した。次いでまた青、さらに黄、そうして次に紫――紫は人工染料として見出された。それまで高貴にして富む人間しか着られなかった紫の衣は、彼の恩師の死装束として初めて庶民の体を覆った。
 その後、男は己の作り出した色の生み出す利益と、その権利とを、アカデミーと街とへ譲渡した。ただし、今後何があっても己の自由を保障し、哲学を邪魔せぬと誓うことを条件に。
 その誓約の下、彼は国教会に禁じられていた哲学を本にまとめた。
 当然、国教会は猛然と反発したが、アカデミーと街は彼を守った。
 彼は哲学者を自称していた。
 しかし彼の哲学はアカデミーの書棚にのみ留まり、彼の作り出した色と技術ばかりが世界を変えた。後年、色がどのようなものであるかを科学が解き明かした時、それを国教会も認めざるを得なかった時、彼の哲学は復活したが、同時に彼もまた多くを間違えていたことが明らかとなった。それでもその時代において注目に値する考察をしていたことに違いはないのだが、結局、彼の名は今も色彩の化学者として歴史に深く刻まれている。
 国教会が彼の名を異端のリストから削除したのは、色の解明からさらに百年後のことだった。
 そしてその時、それを記念して、彼の遺産によって栄えたこの街はそのアカデミーから生まれたあらゆる色で街を染めることにした。秩序だって計画的に? いや、国教会に抗った反骨精神に習い、自由に。ただ重要なのはその“異端者”が生み出した色、そして彼の死後に研究を継いだ化学者達が生み出した色、色、それら色のみ!
 百花繚乱と彩色された屋根石スレート
 蛍光色とパステルカラーでパッチワークを施されたような道沿いのアパルトマン。
 枯れ野を極彩色の花畑が侵食しているような、それともオールドファッションにケミカルなチョコスプレーをたっぷりトッピングしたような奇抜な街並み。
 今、それら色、色、色が、乱れ踊る光に吸い取られ、混沌としながらも何か魔的に融和して、今、ここに描き出されるのは、陽光を裂いて降る雨に映る万華鏡の世界!
 ふいにニトロの脳裡にアデムメデスで初めて幻覚剤を合成したのもその大学を出た者であったことが浮かんだ。もしやその人もこの景色を見たことがあるのだろうか?――そんなことを考えてしまいながら、彼の心はひたすらこの摩訶不思議なスペクタクルに感動していた。
 ただ店内にいる全員がこの非現実的な色彩に気づいたわけではない。
 だが、同じ景色に気づいた者は誰一人欠けることなく心奪われて、言葉をなくし、賑やかなカフェの所々に静寂が混じっている。
 やがて天候の悪戯が生んだこの奇跡は、それが生じた時と同じようにあっという間に消えてしまった。
 誰かがため息をついた。
 ニトロがそちらを見ると、ウェイトレスが空き皿を取り落としそうになって慌てていた。
 きっと彼女も見たのだ。
 彼は外に目を戻し、相変わらず不可思議ではあるが“ただの”天気雨のやむのを待ちながら――不可思議であるのに味気なさを感じながら――『哲学者の石』を口に運んだ。
(……そういえば)
 芍薬も見ただろうか?
 あの景色を、この眼鏡型表示板ウェアラブル・ディスプレイにはカメラも付いている、芍薬も見ることができただろうか? 人の手が作ったレンズを通して、人の遺伝子の作ったレンズと同じ色彩をその電子のまなこに受け止めたろうか。
 それを聞きたい気もするが、それを聞くのは野暮な気もする。
「主様ァ」
 問いの是非を自問していたニトロの耳に送られてきたその声は、先に呼びかけてきた時とは違い、揺らいでいた。
 一瞬、ニトロはそれが芍薬の感動を表しているのだと思った。
 しかし違う。
 その揺らぎにはネガティブな波長があり、有体に言って、芍薬はうんざりしていた。
「……ぁぁ」
 ニトロの喉の奥からため息が漏れ出す。
 空に、一台の飛行車スカイカー
 現在このカラフルな街には広範囲で交通規制がかかっている。眼前のなだらかな坂をしばらく登って行くと道はやがて緩やかな下りとなり、それを下りきって川を越えたところにあの学者の活躍した例の(現在は公立大学となっている)アカデミーがあるのだが、本日、そこに高貴にして富んだ人が来校するのだ。そのためこの付近にはスカイカーの進入がもちろん禁止されている。それを免れるのは厳重なチェックを受けた地域住民か関係者だけで、それにしても自由な行動はできず、自由に動けるとなれば緊急事態に直面した警備車両か、あるいは高貴にして富んだその女だけだ。
「?」
 ニトロは眉をひそめた。
 雨を通して遠目にも高級と知れる飛行車はてっきりカフェのすぐ前に降りてくると思っていたのだが、ここから随分離れた場所、そこここの店の軒先で雨宿りする人々が立ち並ぶ一本道の途中に降りてきた。すっかりズボンの裾や靴下を濡らして雨の止むのを待つ人々も怪訝に思っているらしい。
 後部座席のドアが開く。
 一拍置いて、その間近にある雑貨店の軒先で親子連れが文字通り飛び上がった。さらに一拍置いて店の中から飛び出してきた女性が躓いて前のめりに転んでしまう。が、彼女はスカイカーから出てくる者から目を離したくないらしい。ここから見ても、例え顎を打ちつけても見つめ続けるという執念が――いや、実際打ちつけたのではないか? 彼女は倒れたままピクリとも動かなくなる。それは痛打の衝撃のためか、それとも精神への衝撃のためか。
 スカイカーから出てきた女は、傘も差さずに雨に身を晒していた。
 ニトロの眉間の皺が深くなる。はて、先刻あいつと別れた際にはジャケットも着ていたはずだが?
 シャツの白とスラックスの黒が景色に加わると、まるで店の前で倒れた女性の衝撃波がこちらまで伝わってくるかのように驚愕が坂道を下ってきた。
 雨宿りしていた者の全てが雨の中に一歩飛び出し、しかし何かに抑えつけられたかのようにその一歩以上は足を進められずに身を固める。
 ただ顔を上気させて、その顔も雨に濡れた傍から乾くように赤らめて。
 続いて店々から飛び出てきた人も同じだった。道沿いの建物の上階にいて騒ぎに気づいた者は窓を開いて歓声を上げ、あるいは腕を伸ばして思い切り手を振っている。
 その中を、その高貴で富んだ人は進んでくる。
 その人に駆け寄ろうとする素振りはそこかしこに見られるが、やはりその人との距離が縮まるに比例して足は止まってしまう。しかし足は止まりながらも口や手は動いて、その騒ぐ心をどうにか表現しようとしている。
 ニトロのいるカフェも大騒ぎだった。
 彼が店内に入ってきた時に警戒した黒紫色の髪の女性二人組みが真っ先に大声を上げて大扉をぶち破るように開け放し、外に三歩出たところで硬直してしまう。
 気づいたのだ。
 その人が、真っ直ぐこの店に向かってきていると。
 なだらかな坂の真ん中に引かれた直線から半歩も逸れずに真っ直ぐに、一歩一歩大雨を物ともせずに歩いてきていると気づいたのだ。
 その通り、やがてその人は――王女は――ここにやってきた。
 カフェの門前に立ち竦んで硬直し、息も止まる女性達に微笑みかけた彼女は悪戯っぽく二人の間をすり抜け店内に入ってくる。そこで店内に沸き起こった驚愕とも感激ともつかぬ声は、過去にこの店に響いたどんな音よりも大きかったのではなかろうか。そして直後に訪れた沈黙も、どんな時よりも深く静かであったのではなかろうか。
 王女は、ティディアは、軽やかなリズムでヒールを打った。静寂に見事な楽器の音の鳴るように五つ六つ、そうして立ち止まると腰に片手を当て、もう片方の手で濡れた髪をかき上げる。まるで何かのポスターででもあるかのように、それとも映画のワンシーンであるかのように。一挙手一投足、全てが絵になっていた。彼女の肌を伝うしずくは一つ一つが宝玉で、濡れたシャツには優美なレース飾りも扇情的な純白のブラジャーが透けている。ニトロの耳にごくりと生唾を飲む音が聞こえた。隣の学生の目がどこに釘付けかは見ずとも分かる。ニトロはカウンターに片肘を突き、ぞんざいな態度で足を組んだ。
 客らが一斉に彼こそ『ニトロ・ポルカト』であると知る。
 彼は彼女を促すように顎を上向ける。
 彼女は言った。
「いい天気ね」
 ニトロは薄笑みを刻む。
「ずぶ濡れじゃねぇか」
「だって貴方を愛しているから」
「いいやそれは雨に濡れたから」
 ティディアは視線で背後を示し、
「ニトロも行く?」
「話聞いてるか?」
「行く?」
「行かない」
「なら後で。待っているわ」
「待たせないよ。ちゃんと時間通りに行くさ」
「今でさえ待っているのに?」
「何を?」
「言わせたい?」
「言わなくていい」
「そうね、ニトロは解ってくれているもの」
「さあどうだか」
「確認してみる?」
「だから言わなくていいって」
「ほら、それが解っている証拠」
「ああ、熱が出てきたな? そうやって濡れたまんまだから風邪を引くんだ」
「いいえ私はずっと貴方に熱くさせられているの、だから傘もいらないのよ、貴方のお陰ですぐに乾くから」
「俺じゃお前を乾かせないさ」
 するとティディアは小首を傾げて微笑んだ。
 額にかかる髪の一束から雨の名残がほんのり桃色を帯びた頬を滑って落ちていく。
 ニトロは何だか嫌な感じがした。
 そう、メインエントランスからこちらを見る二人組みの視線が嫌だ。隣から感じる気配も嫌だ。何よりもティディアの微笑が嫌だ。――いや、もう理解している。今回もティディアにうまく転がされたということは。しかし相手の言葉に全く応じないわけにはいかない。それはそれで都合よく利用されるのだから。例えば今回ならば、沈黙すればそれはすなわち“その色っぽさに言葉を失った”とでもいうところか。最善はティディアと対面しないこと。それしかない。それが叶わねば何かしらダメージを負うことは必然でしかない。彼は一つ息をつき、
「で? こんな話をするためにわざわざ立ち寄ったのか?」
「ええ」
 そしてティディアはまた微笑む。
「だって少しでも直接話していたいから。ニトロがずっと一緒にいてくれていればこんなに濡れてくることもないんだけどね?」
「俺の仕事はアカデミーの800周年にお祝い申し上げるついでに余興をご覧いただくだけ。王女様がお偉方とお話しするところに首を突っ込むなんて、分不相応さ」
「そうかしら、やればきっとすぐに相応しくなるのに」
「買いかぶりだな」
「ええ、私はニトロを高く買っているわ」
「売った覚えもないけどな。てか、濡れてくることもないって言うなら濡れてくるなよ」
「だって傘がなかったから」
「すぐそこに停めりゃ良かったろ? いや、むしろ濡れるために濡れてきたんだろ」
 それは小さな反撃のつもりだったが、ニトロは口にしている最中から失敗に気づいていた。ティディアは肩をすくめ、
「一番近い発着場があそこだったから仕方ない」
 と、至極当然とばかりに言うが、その何でもない表情の裏側にはニヤニヤとした笑みのあることがニトロには解った。こいつは、このバカ姫様は、いつもなら居住区におけるスカイカーの発着可能区域のことなどお構いなしに――そう、道交法違反などその度に握り潰して動くだろうに! 内心歯軋りする彼に反してティディアは余裕綽々で、しかしふいに息を吐く。どこかなまめかしく、吐いた息を追うように胸に手を当て、
「でも思うより濡れちゃった。早くシャワーを浴びないと、ね?」
「ハッハッ」
「何よそれ」
「何もない。それより、ホントに風邪ひくなよ」
 するとティディアが一瞬、虚を突かれたような顔をした。
 ニトロは一瞬、彼女の反応が理解できなかった。
 が、彼はすぐに理解した。
 何も考えずに口にしてしまった言葉――そう、何も考えないのなら、雨に濡れた相手に自然とかけるべきその言葉。そこに少しばかり皮肉の風味が込められていたとしても、それを聞いた者は……ああ、メインエントランスからこちらを見る二人組みの視線が嫌だ、周囲から感じる気配も嫌だ!
「あら」
 と、ティディアがつぶやいた。
 彼女の視線を追うと、雨脚が弱まっていた。そして降り出した時と同じようにあっという間にやんでしまった。
 ティディアが目を細める。
「どうやら風邪を引かないように神様も気を利かせてくれたみたいね」
「珍しいことを言うじゃないか」
「そう? だって私は今夜そんな講演はなしをするつもりなんだけど」
 ニトロは思わず笑ってしまう。
「ここはその神様に喧嘩を売った男が眠る街だぞ?」
「良い趣向でしょう?」
 ティディアの瞳が光を受けて宝石のように輝く。茶目っ気を潜ませる唇の赤は得意気に引き上げられ、その黒紫の双眸の美しさへの賛嘆の吐息が聞こえてくる中、ニトロはただ小さく肩をすくめて応えた。それを機にしてティディアがニトロから視線を外し、ふとある一点を見つめて止める。その甘えるような眼差しから彼女が訴えるものを察して彼は言う。
「ご期待には添えませんよ、我らの王女様」
「ちぇー」
 大きく開きかけていた口を尖らせて、ティディアは踵を返しながらも名残惜しそうにカウンター席に並ぶケーキセットを見つめ、
「お味はいかがだったかしら? 私の相方様」
「テイクアウトできるなら「できます!」
 ウェイトレスがてきぱきとした口調で言ってくる。そのタイミングの良さにティディアが視線を送ると、彼女は音を立てて息を飲んだ。肩をすくめるようにして、耳まで顔を真っ赤にして銀色のトレイをひしゃげんばかりに胸に抱く。ニトロは苦笑し、
「差し入れはそれでいいな?」
 ティディアは満足そうにうなずき、再び開け放されている大扉メインエントランスに向かった。そこから店内を覗き込んでいた二人組みの女性が慌てて道を開け、大扉の両脇で門番のように直立する。王女はすれ違い様に各々に視線を送ったらしい、その瞳に至近距離で射られた二人がへなへなと腰も砕けて座り込む。
 そして王女は元来た通り、なだらかな坂道の真ん中を歩いていった。
 濡れて艶めく黒紫の髪の流れる背中――白い生地に白い肌の透くその背中を誰もが見つめている。
 ある者はじっと息をつめて、ある者は囁き合いながら。
 そしてニトロもそれを見つめていた。
(なんだろうなあ)
 雨が上がると空気が澄んで、世界を濡らした水が鏡のような効果を生み、ここから見える景色はどこまでも輝いている。そうしてその輝きは、まるでただ一人のためにあるかのようにも思えてくる。
「わあッ!」
 誰かが声を上げた。
 一人ではない、何人もが声を上げた。
 ごく自然と、ニトロは笑ってしまう。
(なんだろうなあ)
 ひとは生まれながらに幸運な人間がいると言う。ひとよりも機に恵まれた人がいると言う。何かと間の良い人、運命に愛された人、引きの強い人、“持っている”人間がいるのだと。
 虹が出ていた。
 なだらかな坂の一本道、その空に、まるで栄光の未来へ行けとばかりに七色のアーチが二重に架かっていた。
 本当に神様とやらが気を利かせているのだろうか。
 生まれながらに王女、時を経ては第一王位継承者――ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナはその下を真っ直ぐ歩く。
 のぼり坂の両側から歓声が上がっている。
 人々に賛美される王女は車に乗り込む。陽光を照り返す黒いスカイカーはカラフルな街の上空へと飛び上がり、二重の虹をくぐり抜けるように去っていく。
「ナンダロウネ」
 ニトロは、その言葉だけでなく、実際に芍薬のため息を鼓膜に感じたように思う。
 目を閉じる。
 すると蘇るのは、あの天気雨の最中に見た素晴らしい色彩、混沌としながら美しい摩訶不思議な世界。
 あの感動は今も胸にある。
 しかしそこにティディアが滲んでくる。
 そして虹。秩序だった七色。
 それにもティディアの笑みが重なってくる。
 だけど感動は残っているのだ。
 この心模様は一体どんな色で表せばいいのだろう。
 目を開けば雨上がりの街。
 水溜りに外壁の色が映りこみ、空に屋根の彩りが燦然と映えている。
 あの万華鏡とは別に魅力のある光景だ。しかしそこにいる人々は傍らの美観を捨て置きこのカフェに向かってきている。店内の空気もこちらに向けて圧縮してくる。
 ああ、この心模様は一体どのような色で?
 ニトロは答えを求めるように『哲学者の石』を口にした。
 美味である。
 美味であると感じられる。
 それだけだ。
 もしや哲学者ならば何か応えてくれたかもしれない。
 しかし石は応える口をもたない。
 ただこの石は憐れむように思惟することを促して、そのための熱量カロリーを与えてくれるだけ。
 されどその思惟を妨げる声が、声が、声が彼の名を呼ぶ。
 ニトロ・ポルカトは、振り返った。

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