小吉

(『おみくじ 2014』の二日前、第五部『誕生日会』の二週間前)

 カラン、とグラスが鳴った。バランスを崩した氷が赤みがかったオレンジ色の液体をくゆらせて一段低く沈み、グラスの肌を濡らす水滴が、一つ流れてコースターに吸い込まれる。
 ハラキリ・ジジは疑問に思っていた。
 我らが通う高等学校の最寄りのファミリーレストラン『ギルドランド』。
 小古典時代をモチーフにしたインテリアにランプ型の照明器具がよく似合う店内の隅の一席。
 暗褐色のテーブルを挟んで対面に座るのは体の大きなクラスメート。
 放課後、帰ろうとするこちらを捕まえてここに連れてきたのは彼だった。ニトロの友人である彼とは普段から親しくしてはいる。しかし二人でアフタヌーンティーと洒落込むほどには親しくはない。それなのに、しかも口数の少ない彼が「話をしたい」と誘ってきたのには驚かされたものだ。
 が、今に至ってもクラスメートは『話』とやらを持ち出さず、いつもの寡黙な態度でベジタブルジュースを飲んでいる。
 疑問は膨らむばかりだが、こちらから口火を切る義理もないなのでハラキリも黙ってコーヒーをすする。
 熱はとうに冷めている。
 そろそろ二杯目にいこうか。沈黙に耐えられない性質たちでもない。というかこの状況が面白くもなってきた。こうなればとことん成り行きに任せてみようか。
 ハラキリがそんなことを思っていると、ふいにダレイがハラキリのカップを見た。ハラキリはいくらか呼吸を置いてからコーヒーを飲み干し、ドリンクバーに向かった。だいぶ古ぼけた、しかし内部は最新のマシンを操作して二杯目を注ぐ。席に戻ると、腕を組んでじっとしていたダレイが、そのたくましい腕をほどいた。
「ハラキリは、物知りだな」
 淹れたての芳しい液体の上で、細かい水の粒子が立ち揺らめいている。
「それほど物を知っているわけではありませんよ」
 ハラキリの応えにダレイはうなずき、
「どうしたらお前のように話ができる?」
「知っていることを、知っているように話せばいいかと」
「それをどこで知る?」
「知りたいのならば、どこででも」
「うん?」
「コーヒーの存在を知らない人が、コーヒーが飲みたいと探すことはできません。コーヒーの存在を知っている人がコーヒーを飲みたいならば、幸いここでは様々な場所で飲むことができます。探すこと自体はアプリやA.I.に任せてもいい。先人達がデータベースをいくらでも用意してくれていますから、それを当たってもいい。例えコーヒーの存在を知らなかったとしても、どんな飲み物があるかを調べているうちに存在を知ることもあるでしょう。そうしたらまたそこから始めればいい」
 ダレイはうなずく。
 ハラキリはコーヒーを一口飲む。
 二人とも口を開かない。
 ダレイは納得している。そこに不満はない。ただ満足もない。
 しばらくしてダレイはベジタブルジュースを半ば飲み干し、
「どうしたらお前のように話ができる? クオリアと」
「その必要がありますか?」
「お前と話していると楽しそうだ。刺激にもなるらしい」
「君はどうしたいのですか?」
「助けになりたいと思う」
「なるほど?」
「……俺は」
 ダレイは、言う。
「クオリアのように熱中できるやつを尊敬している。一生懸命に何か力を尽くそうとする、ミーシャ、フルニエ、ニトロもな。……多分、キャシーもだったんだろう」
 そしてまた彼はそういう人間が羨ましくもあるのだろう。しかしハラキリはそれを指摘せず、うなずいてみせる。
「尊敬できるやつは、助けたいだろう?」
「ダレイ君は助けになれていないと?」
「どうだろうな。人手ひとでにはなれているだろう」
 ハラキリは微笑した。
「現状では満足できませんか」
 ややあって、ダレイはうなずいた。ハラキリは肩をすくめ、
「しかしダレイ君がしようとしていることは、とても美味しいコーヒーを淹れられる人が、より美味しい紅茶を淹れられるよう修行に出るようなものです」
「うン?」
「拙者はコーヒーが飲みたいんですよ。それなのに紅茶を勧められても困りますし、そのうえ紅茶の蘊蓄まで語られ出したらうんざりです。その人に単に美味しいものをとしか期待していないなら、それでも問題はないんですがね」
「つまり、求めるものが違うと?」
「そして求められるものも違う」
「俺は何を求められている?」
「さあ? ただ、君が失望されているようには見えませんね。とても頼りにされている。拙者は確かにクオリアさんと何かについて批評を出し合うこともありますが、それを彼女に頼りにされている、とは思いません。ニトロ君が彼女と感想を交換し、フルニエ君が意見を戦わせていることもありますが、それもまた同様に頼られてはいません。もちろん“そういう話ができる相手”という信頼は得ているかもしれませんが、それもまた君に寄せられる信頼とは違う」
 ダレイは聞き入る。ハラキリはふいに面倒臭いなと思い、ここで切り上げようかとも考えたが、そうした方が後々面倒臭すぎることになるだろうと思い直し、
「君は、彼女の作品に感想を求められますか?」
 ダレイは不思議そうにハラキリを見た。その瞳は「知っているだろう?」と言っていたが、質問には答えることにしたようだ。
「どう? とは聞かれる」
「どのように応えます?」
 ダレイはまたしても不思議そうに見て、また答える。
「大抵、いいな、と答える。俺には解らないものもあるが、その時は難しいと答える。後は感じたことを一言二言、それ以上は俺の手には余る」
 では、彼が『ハラキリのように』と言ったのは、その“余り”も相手に贈れるようになりたいからか。ハラキリは吐息混じりに、
「その答えは、ダレイ君の正直な感想ですか? それとも何か誤魔化しやご機嫌伺いが含まれますか?」
 ダレイの口の端が硬くなった。
「正直でありたいと思っている」
 ハラキリは、笑んだ。
「それなら何故拙者のように、なんて言うんです。わざわざ理屈でごたごた飾り立てては、折角の正直さも台無しですよ」
「俺はお前は正直にクオリアと話していると思うぞ。だからあれだけ」
「クオリアさんも楽しそうだ、と? なるほどそうかもしれませんね。だとしても、拙者のその正直さは他者よその理論などに頼った借り物です」
「借り物は偽物とは違うだろう」
「ええ。しかし理屈立てようとすると、形を整えるために削ぎ落とされる部分が出るものです。得てしてそういうところに真心がこもるんですよ。ああ、理屈で真心を伝えることができないとは言ってはいませんよ? しかし千の言葉が一つの笑顔に敵わないなんてのはざらにあることでしてね。――クオリアさんが、君の言葉だけを見ていると思いますか?」
「……」
「それに、これは正直でありたいダレイ君の心掛けのためか、君の性格のためかは分かりませんが、今まで拙者の聞いたところ、君は彼女を否定しませんね。それは彼女にとってとても嬉しいことだと思います」
 ハラキリはコーヒーを飲み、ダレイがまだ話を聞こうとしているのを見て、続ける。
「知人に、正確には母の知人なのですが、ある芸術家がいまして。その芸術家はことあるごとに『ゴーロ』を羨むそうです」
「ゴーロ、は知っている」
 小学校レベルの美術の授業でも出てくる名だ。ダレイはそこで首を小さく振り、
「だが何故だ?」
 正直に問われ、ハラキリはうなずき、
「ゴーロには兄がいました。いつまでも売れない画家をただ一人認め続け、支えた兄のテミロです。今では美術史において外すことの出来ないゴーロですが、兄の献身がなければ大成することなく消えていたでしょう。そこで知人の芸術家は羨むのですよ『嗚呼、自分にもそんな存在があったならあ……』」
 納得したダレイが感心したようにうなずくのに、ハラキリは片笑みを浮かべ、
「まあ、その芸術家はそう言いながら、他人に認められることを拒絶して孤独に浸っているから世話がないんですけどね」
「何故拒絶するんだ?」
「さあ? あるいは認められることが怖いのか、それとも孤独でいるのが気持ちいいのか。――しかし、クオリアさんは拒絶しませんね。怖がってはいるようですが」
「……ああ」
 氷がほとんど溶けて薄まったベジタブルジュースを思い出したように飲むダレイを眺めて、ハラキリは、腕を組んだ。
「もしかしたら、ダレイ君も怖がっているんですかね」
 ダレイが目を上げる。
「というより焦っているんでしょうか」
 ダレイはハラキリを見つめた。ハラキリは少し遠間にある照明器具を見た。金メッキされた鶴の首のような長い柄に、隣の照明の光が星型に反射している。
「だとしたら、いきなり拙者のように〜なんて言い出したことにも理解ができます。何しろ彼女には、情熱がある。あの熱量には驚かされます。可能性を感じますよ。どこまで上昇して、どこまで輝くだろう? しかし、そう思う一方で、不安がよぎる。あの情熱は、彼女の体には余るのではないか。彼女は遠くないうちに自らの熱で自身を燃やし尽くしてしまうのでは? 今は『人付き合い』が楽しいようで少し大人しいけれど、それもいつか爆発するためのエネルギーを溜め込んでいるだけで、例えばミーシャさん達と道を別つ卒業後にはどうなるだろう」
 真剣な表情を向けるダレイを見て、ハラキリはふと嫌気が差した。何を真面目にクオリア・カルテジアの行く末を占おうとしているのだろう? ダレイはその憶測に、それも助言の一つと大変興味があるかもしれないが、こちらとしてはそんなことをしても意味がない。得てして情熱家と付き合い続けるには――それが交友にしろ恋愛にしろ――同じくらいの情熱か、情熱と引き換えられる労力が必要になるものだが、やはりそんなことを彼に説いてみたところで何にもなるまい。もしそれを既に覚悟していないのなら、どのみち辛くなるだけなのだから。
 そこでハラキリは、ダレイを真っ直ぐに見た。およそ不意打ちに近い眼差しに、ダレイが面食らったような顔をする。
「まあ、それで彼女が遠くに行ってしまうにしろ、燃え尽きてしまうにしろ、そうでないにしろ。
 好きなら好きで、その気持ち一本で支えりゃいいんじゃないですかね」
 ほとんど投げやりな、しかし切っ先鈍らぬ舌鋒に今度こそダレイは面食らった。その大柄な身を揺すって何か言おうとするところへ、
「こんな話を持ちかけて、その点には触れてくれるなと言うのはフェアじゃありません」
 へらりと笑ってハラキリは、言葉を飲んだダレイへ片眉を跳ねてみせる。
「正直でありたいんでしょう? なら正直になさいな。別に告白しろと言っているんじゃありませんよ? 人にはその人なりの付き合い方があるものですから、恋仲にならずともパートナーとして歩く道もある。将来的に生活面でも助けたいと言うならゴーロの兄のように経済力が必須ですが、それはそれとしてもこの際知識だとか、批評力だとか、審美眼なんてものは何の役にも立ちません。正直に。結局、それが君の求めるもので、求めるべきものなんじゃないんですかね」
 ハラキリはそれをさも夕飯の献立を語るように言ってのけた。するとダレイの頬から力が抜け、半ば唖然と開かれた口とは逆に両の眉は硬く強張った。そこにハラキリは肩を軽くすくめて、
「そうしたら、それが愛になるんでしょう」
 ダレイの両目が見開かれる。面食らうよりも甚だしい、たまげた様子で彼はつぶやく。
「愛?」
 ハラキリはうなずく。
「愛です」
「……愛か」
「多分ね」
 またもダレイはハラキリを丸い目で凝視した。しれっと梯子はしごを揺らがせてきた相手は事も無げにコーヒーに口をつけている。
「……」
 やがて、ダレイの厚い肩が震え出した。それは次第に、胸に、腕に、首に伝わり、とうとう彼は大声で笑い出す。脳天から突き抜けるように、快活に。それは他愛のない会話に笑う少年の声にほかならず、これほど笑うダレイを見たことのなかったハラキリが物珍しそうに見つめていると、笑い終えた彼は腕を組み、一つ大きくうなずいた。
「感謝する」
 冷めたコーヒーを飲み干し、ハラキリは短く息を吐いた。
「お構いなく」
 カチャリ、とカップの置かれる音が静かに鳴った。

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