大吉

(導入部――第二部『幕間話』の後)

 ふと、ニトロは前髪をつまんだ。
 大分伸びてしまった。
 ……明日、学校の帰りにでも切りに行こうか。
「――」
 芍薬、と言いかけたところで、ニトロは声を飲み込んだ。
 今は行きつけの床屋バーバーもなく、気になっているヘアサロンもない。しかし特に凝った髪形をするでもなく、どうやら自分の髪は量も質も癖がないらしいので、よほど腕の悪い理髪師に当たらなければ問題はない。だから格安の理髪チェーンも含めて学校の帰りに寄れる店舗を適当に調べてもらおうと思ったのだが……彼は、人目が気にかかった。
 髪を切ろうとすれば、身動きの取れない状態でしばらく一箇所に留まることになる。そこでもしあの『王女の恋人』がそこにいると知られればどうなるだろう? 注目を集めるのは間違いなく、それが開放的なデザインの店で、外からも丸見えな路面店なら歩道にまでギャラリーを背負って衆人環視の中でカットされることになるかもしれない。恥ずかしいじゃないか。恥ずかしいことをしているわけじゃなくても、それは恥ずかしいじゃないか。そしてカットが終わり、洗髪が終わり、そのたびに衆人のご意見がネットに流れ、数時間後にはニュースにまとめられるのだ。それなら完全個室のヘアサロンに行こうか? いいや、それでも“一箇所に留まる”ということには変わりがない。しかも椅子に体を納めて、それなりの時間をじっとしていなければならぬことにも変わりはない。ニトロには何よりそれが恐ろしかった。
 なにせ、一度はそれであのバカにちょっかいを出されたことがあるのだ。
 その頃は芍薬もいなくて、助けてくれる人もいなくて、痴女の魔の手からどうにか逃れることはできたけれども、気がつけば髪を変な形にされた状態で店を飛び出していた。
 思えばそれ以来髪を切っていない。
(あれ?)
 その後、どうやってその変な髪型を直したんだっけ?
 あれは確か二ヶ月近く前。その頃はまだ『王女の恋人』として世に知られてはいなかったけれど、それでもあの迷惑な王女に絡まれてからは色々ありすぎて……
(そうだ)
 ハラキリに助けてもらったんだ。
 喫茶店で居合わせた人々が不思議そうにこちらの頭を見る中で、ヘルプコールに応じて迎えに来てくれた親友は事も無げに言った――「なるほど、ルィ=フズィン・カットですか」
 嘘である。
 そんなカットはない。
 単に『理不尽』の発音を変えて言っただけだ。
 しかしニトロは実際にそういうヘアスタイルがあると思ってしまった。周囲の人々もそう思ったらしく、奇妙な納得の表情を見せていた。数日後にハラキリにそのことを改めて話題に出したら、その時もまた事も無げに「でまかせです」と明かしてくれた。それを横で聞いていたクソ女は大笑いしていた。
 そして喫茶店を出た後、ハラキリの家に行き、そこで撫子に切り直してもらったのだ。『ルィ=フズィン・カット』は――これがまた腹立たしいことに――ギリギリ修正可能な範囲で髪をいじくっただけだったので、整えることは容易だったと、カッポーギという白いキモノを着たアンドロイドは微笑んでいた。
(あ、そうか)
 ニトロはようやくそれに思い至り、己の鈍さを笑いたくなった。
「芍薬」
 一人暮らしを始める際に買った壁掛けのテレビモニターに、オリジナルA.I.の肖像シェイプが表れる。作業着に身を包んだ――色々試しているらしく昨日はチューブトップにダメージジーンズだった――芍薬はポニーテールを揺らし、
「ナンダイ?」
 と応じつつも、芍薬は観察によって既にマスターが散髪を希望しているのだと判断し、この部屋いえの近隣、及び学校からの帰途に立ち寄れる評判の良いバーバーとヘアサロンをピックアップしていた。
 マスターは言う。
「カットできる?」
 前髪をつまみながら問われ、芍薬は惑った。それは人間からすればほんの一瞬にも満たない時間である。しかし硬直した思考がほどけた時、芍薬は思わぬほど焦ってしまった。
「あたしガッ?」
 予期せぬ反応にニトロが目を丸くする。
 その姿をカメラ越しに見て芍薬はまた焦りそうになったが、今度は平常心を保った。――いや、ココロは平常ではなかった。己の“感情”に直結させている肖像シェイプの感情表現プログラムが自然と笑みを刻んでしまう。それを誤魔化すように作業服の大きなポケットに両手を突っ込み、ぐっと眉根を寄せ、
「あたしデイイノカイ? 本職ニシテモラッタ方ガ、ヤッパリ良イハズダヨ?」
「今後のことも考えたらさ、できるのなら芍薬に頼みたいんだ」
 芍薬はようやく頬から笑みを消し去った。ただポニーテールは小さく左右に振れてしまう。
「ソウダネ……」
 一声を挟んで間合いを取り、芍薬は左右に首を振る。
「残念ダケド、デキナイ」
 ニトロは小さくうつむいた。
「そうか、それじゃあ――」
「ダケド時間ヲクレルカイ? 道具モ揃エナキャイケナイカラ、早クテモ明日ノ晩マデ待ッテ欲シインダ」
「あ、そっか」
 ニトロは部屋の隅にある多目的掃除機マルチクリーナーを一瞥した。そのロボットアームはなかなか器用で、小物の移動や拭き掃除だけでなく、アタッチメントを換えれば料理もできる。とはいえ髪を切るとなるとさらに精密動作が可能な“手”が必要だろう。それに、まず理容器具がなければ話にならない。
「でも、明日で大丈夫なの?」
 そしてもう一つ、必要なものといえば散髪を担うA.I.の技能だ。それは様々な場所で配布されている理美容プログラムや、電脳空間での訓練によって養うことができる。確かに一晩もあれば基本的な動作は習得可能だろうが……それでも早いと思う。実践に堪えるかとなると不安が残る。A.I.側の理論的にはそれで十分だとしても、髪を切られるこちらの心構えが心許ない。何しろ購入したばかりの“手”と道具をぶっつけ本番で扱おうというのだから。
「大丈夫」
 それでも芍薬は力強くうなずいた。
「任セテオクレ」
 それは本当に力強い言葉であった。自信というよりも、そこには覚悟がある。あの撫子のサポートを長年担ってきた芍薬だ。そこまではっきり言うのなら、
「分かった」
 ニトロはうなずいた。
「必要な物は、必要だと思う予算で買っていいよ。あとは全部、任せる」
 そう言いながらもマスターの声には迷いが潜んでいることを、芍薬は分析わかっていた。そのうえで、任せると言い切ってくれた彼の心が、芍薬は嬉しくてならなかった。
「御意、主様、キット満足サセテ見セルヨ」
 その時、既に芍薬は“訓練”を始めていた。
 マスターと会話する裏で集めていた理美容関連プログラムを飲み込み、シミュレートするためのスペースを作成する。そこにカメラに映った無数の画から正確なマスターの頭髪のモデルを構築。それからマスターの『髪切録ヘアカルテアプリ』に記録されている髪質、髪の生え方、そして最終的に目指すべきヘアスタイルの三次元情報を教材にして、何度も、これから何千度も練習を繰り返す。
 同時にロボットアームのアタッチメントと理容器具のカタログを吟味し、自ら定めた予算内で最高の品を選び出していく。
 迷ったのは、アタッチメントであった。
 予算の限度一杯で買えるものと、その一つ下のランクのもの――カタログスペックを元に作成したモデルを扱ってみると、どうやらどちらも大差ない。もちろん上位の方が扱いやすいが、そこはこちらの手腕でカバーできそうだ。そこでアタッチメントの予算を削り、その分、ハサミの質を上げた。
「ああ、そうだ」
 ふいにマスターが言った。
「当日配送だと料金かかるから、通常配送でもいいよ。店が近場にあるなら俺が買ってくるし、時間がかかるようでも一週間くらいなら我慢できそうだから。で、浮いた分を予算に回してくれるかな」
 ちょうど通販の注文を確定しようとしていた芍薬は手を止めた。それなら器具の選択肢を増やせる。とはいえあまり待たせるのも悪い。
「承諾。ジャア――三日後ニ」
「うん、三日後に」
 それから三日間、芍薬は飽くことなく散髪のシミュレーションを繰り返した。どうしても一事に集中せねばならぬ時以外は他事と並行して、暇があれば集中して。
 それで芍薬が思い知ったのは未だに決定的な汎用理髪ロボットが生産されていない理由であった。
 見込みが甘かったとは言わない。
 散髪シミュレートで合格点を出せたのは、宣言通りに依頼を受けた翌晩だった。
 しかし見込みが甘かったのも事実である。その合格点は、あくまで“合格ラインに達した”だけであり、しかも髪の質も生え方も素直で、癖がないマスターのヘアスタイルにかなりの部分で助けられた上でのことであった。これが多種多様、注文も多様な客商売となれば不可能であろう。ご注文を承りました、ではシミュレーションの終了後にまたおいで下さい――ではどうにもならない。
 合格点の出た後は精度の上昇に腐心したが、その際には掌と指先だけでなく表皮の全体に触覚センサーのある最高レベルのアンドロイドが欲しいと思ったものだ。そして飛び込みのニトロの髪を見事にカットした撫子オカシラの実力を、思ったものだ。
「――ソレジャア主様、切ルヨ?」
 約束の三日後の夜。
 ニトロは複数のカメラに最もよく映る場所に置いた椅子に座し、散髪マントに頭をくぐらせていた。背後ではマルチクリーナーがハサミとクシを構えている。
 彼は目を閉じた。
「よろしく」
 ロボットアームの駆動音が聞こえる。
 その音だけを耳に聞き、しだいにニトロは雑念を消していった。
 一方、その音を芍薬はマイクでは聞いていなかった。聞く必要もなかった。何度か主の髪をくしけずる。クシと“手”を通じてから伝わる小さな負荷を全身全霊で感じ取り、目視される髪の毛の動きをシミュレーションのものと比較し、微調整し、ハサミを入れる。
 シャキ――
 シャキ、シャキ――
 そのハサミはよく切れて、髪の切れる手応えは心地良く、音は小気味よい。
 シャキ、シャキ――シャキ。
 芍薬はクシを巧みに使い、過不足なくハサミを入れていく。
 穏やかに目を閉じるマスターは髪だけでなく身も委ねてくれている。
 その信頼は、シャキ、シャキと音の鳴る度に波となる。
 合わさる刃の生むその波は、電脳の外にいる知性と、電脳の内にいる知能を繋ぐ。
 シャキ。
 シャキ――シャキ――

「ソウイエバ」
 シャキ、と、使い慣れたハサミでマスターの髪を切り、芍薬は微笑した。
「初メテ主様ノ髪ヲ切ッタ時」
「ん?――うん」
「今ダカラ言エルンダケド、アノ時、結局あたしハ出来栄エニ満足デキナカッタンダ」
 ニトロは目を開けた。視界の端にユカタを着る人影が見える。
「俺は満足してたよ? 何も問題はなかったし、誰にも変だとか言われたこともない」
 衣擦れの音が聞こえる。
「合格点サ。ケド、アレハ合格シタダケダッタ。ソリャ主様ニ喜ンデモラエテ、オ礼マデ言ワレタノハ嬉シカッタヨ。ケドネ、ソレデモあたしノ“満足”ニハ届イテナカッタンダ」
「それは……職人のこだわりみたいなもの?」
「ソウカモシレナイ」
 再び、ニトロは目を閉じた。
「それで、今は満足なのかな?」
 芍薬は滑らかに動く指でニトロの髪に触れる。指先だけでなく、指の背でも腹でも爪の先でさえも、触れるものの全てが芍薬に伝わる。その最高精度の人工眼球は髪の流れのどこにも滞りのないのを認め、スタイルの整いつつあることを知らせる。そこには、あの時の記録ログと照らし合わせても大きな違いはない。しかし、そこにあるちいさな違いこそ、とても大きなものなのだ。
 シャキ――
 芍薬は愛用のハサミを軽やかに操る。
 ――シャキ
 クシは的確に髪をき分ける。
「困ッタコトニ、マダ満足シテナインダ」
「そうなんだ?」
「ソウナンダヨ」
「そりゃ困ったね」
「困ッタモンダヨ」
 芍薬の手の動きを感じながら、ニトロは微笑んだ。
「それじゃあ、いつか満足できるといいね」
 シャキ、シャキと小気味よく、芍薬はハサミを躍らせていく。
「下手ニ付キ合ワセチャッテ悪イネ、主様」
「なあに、お互い様だよ」
「ソウカイ?」
「そうさ」
 シャキ――
 ――シャキ
 シャキリ。

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