ティディアは前屈みとなり、上目遣いにニトロを見やった。
「ねえ、お兄ちゃん」
ニトロは半眼となり、カットソーの広い襟ぐりの奥に覗く胸の谷間をアピールしてくるティディアを見下ろした。
「とち狂ったか、年上ぇ」
ティディアは口を尖らせる。心持ち目を大きくして、瞳に光を集めてキラキラさせる。少しだけ首を傾げて、
「別に年下をお兄ちゃんって呼んでもいいじゃない? だって法律で禁止されていないんですもの」
「法律で禁止するまでもないことだから禁止されてないだけだ、ってか禁止するようなこっちゃないだろ」
「じゃあいいじゃない、ねえ、お兄ちゃん」
「だからって“いい”とも限らねぇんだ年上ぇ」
「でもプロポーズを受け入れる際に『私はあなたを兄と慕い、妹となってあなたを愛します』って、そんな感じに言うわよ?」
「いつの時代の話?」
「古典時代でギリギリ」
「何百年前だ、下手すりゃ千年に掛かるだろ」
「そんな貞淑さを復古してもいいと思うの」
「お前どの口でそれ言ってんの?」
「このお口。でもお兄ちゃんって呼ばれて悪い気はしないでしょ?」
「悪い気がするからとち狂ったかって言ってんだ年上ぇ」
「あ、今ニトロ、そういうのが好きな殿方を何億も敵に回した」
「億!? いや、単にお前にそう言われるのが嫌なんだよ」
「じゃあヴィタになら」
「そんときゃ明らかに弄ばれてるよな、俺」
「じゃあ私とヴィタ以外なら悪い気はしないと」
「さあね」
「ちゃんと答えてよ、お兄ちゃん!」
「だからお兄ちゃん言うなッ。つか何億のお兄ちゃん達を敵に回してるのは実際お前だろ」
「こんなに美人でエロい体の私をお兄ちゃん達が敵にするわけないじゃない」
「言い切りやがった。つかそこに俺を含めるなよ?」
「じゃあニトロはどう呼ばれたいのよ」
「どうとも呼ばれたくないなあ」
「旦那様?」
「血を吐きそうだナ」
「ご主人様?」
「反吐が出そうだナ」
「主様?」
「ハッ倒スヨ」
「やん怖い! 助けてマスター!」
「ヨーシ、分カッタ。今カラ重機デ突ッ込ンデヤルカラ窓際ニ立ッテナ」
「冗談よぅ」
「冗談ガ通ジナイコトモ、アルンダ」
「法律にそう書いてあるの?」
「また法律か。いい加減人をおちょくるのはやめろバカ姫」
「そう、私はお姫様。だから今度国会に提出させてみようと思うの」
「冗談が通じないこともあるって?」
「年下ヲオ兄チャント呼ンデハナラナイッテ?」
「おっぱいをアピールされたら触れなくてはならないって」
「「やめろ」」
「だってニトロったらその目は節穴なの!? さっきからチラチラ一生懸命見せつけているのに反応ゼロじゃない! そんなに気にならないの!?」
「気にはなってるさ。ああ、鬱陶しいって」
「酷い!」
「だからどの口で言ってんだ!」
「このお口」
「法律でその口こそ禁止しちまえ」
「じゃあニトロが法案提出させる?」
ニトロは唇を引き結び、そして半笑いを浮かべた。
「――その手に乗るか」
「ちぇー」
唇を尖らせて、そしてティディアはにやりと笑う。
「王様になれば、それもできるのに」
「政治家でもできるぞ」
「それで私と敵対する? それはそれで楽しいから全力でバックアップするわよ」
「応援演説にでも来るのか? それで声も高らかに言うんだ――私に反対する人は是非ニトロ・ポルカトに清き一票を」
「そしてニトロがツッコンで」
「口を縫い合わせてでもその時はツッコまぬ」
「それじゃあ落選確実ねー」
「案外通るかもしれないねー」
「そしたら王党派と公民派で漫才コンビを結成ね」
「それで議会をステージに? 侮辱も甚だしいだろ」
「議会が侮辱されてこなかった時代ってあるのかしら」
「いきなり難しい話をするねえ、お姫様」
「世界は侮辱で回ってきた」
「嫌な世界だなあ。嫌な事件もなくならないしな」
「それでもここまで回ってきた」
「だからって侮辱を肯定したわけじゃないからな? つか、それなら侮辱以外の動力源があったんだろうさ」
「人はそれを愛と呼ぶ」
「どっから愛が出てきた」
「このお口」
「いい加減にしろ」
「……」
「……」
「……」
「一本できそう?」
「ボツだろ。大体、途中トリオだったじゃねえか」
「ふふ、コンビにこだわってくれるのね」
「勘違いすんな」
「やー、古典的な照れ隠し」
「……」
ニトロは閉口した。そろそろ本気で怒ってもいいかもしれない。――と、そこに、
「お茶をお淹れしましょう」
すっと、ヴィタが嘴を挟んできた。傍らのティーワゴンを撫でるように示し、
「本日はティディア様の茶園のものをご用意しております」
「どの茶園かを言わないのは何かの挑戦?」
「是非、お当てになってくださいませ」
「いいわ、受けて立ちましょう」
「お座りになりませんか、お兄様」
「ぶ」
ニトロは噴き出して、また閉口した。眉間の皺をとんとんと指で叩く。
「どうなさいました? お兄様」
「ヴィタさん、分かってやってるよね?」
「とんでもありません、純粋に親愛の印です」
「ああ、親愛の印に弄んでくれてるんだ。
「性質の悪い年上の女はお嫌いですか?」
「嫌いだよ」
嘆息をつき、ニトロは言う。
「そういうのが好みって
「そういうのに限って逆にドハマりするのよねー」
「ハマってたまるかクソ女」
「そもそも性質の悪くない人間などいるのでしょうか」
「また難しい問題をぶち込んでくるねえ、執事さん」
ヴィタは微笑んで、ニトロの返答を待たずに紅茶をカップに注ぐ。ふわりと美しい香りが漂った。――ニトロは席に着くことにした。ヴィタに椅子を引かせないよう目で制してドカリと腰を下ろし、
「俺は、ティディアをどうあしらうかって難題に挑まされ続けてるから、それ以外の難しいのには頭が回らないよ」
「思考停止はよくないわ」
「だからお前が言うなッつーのに。考える必要があるのは考えるさ。けど考える必要があるかどうかを決めるのは俺だから、今は頭を回さないんだ」
「その要不要の判断がまた難しいんだけどねー」
ぐ、と、ニトロは息を飲んだ。ティディアを睨むが、彼女にやり込められたという意識がそこに弱みを作る。
「ソレヲあたしガ助ケルノサ」
その時、オリジナルA.I.が言った。
どことも知れぬスピーカーの位置を探るようにティディアが瞳を上向かせる。
「不服カイ?」
挑戦的に、そのオリジナルA.I.は言った。
ティディアは微笑んだ。
「私にとっては、芍薬ちゃんこそ性質が悪いわ」
「オ褒メノ言葉ト受ケ取ルヨ。礼ハ言ワナイケドネ」
「やー、いけずー」
笑いながらティディアはニトロを見た。
「さ、頂きましょう。ニトロもヴィタの問題に挑戦してみる?」
ニトロはヴィタを一瞥した。そのマリンブルーの双眸は期待を印している。彼はティディアに目をやり、軽く肩をすくめた。
「だから言ったろ? そんな難しいことには頭を回さないんだ」
そう言って彼はカップを手にして香りを楽しみ、口をつけてその風味を楽しむ。
「――美味しい」
と息をついたニトロは、そこでふと思いついたように続けた。
「俺は、それだけでいいや」
その言葉に年上の女達は目を見合わせ、そして微笑んだ。ティディアが言う。
「うん、それが正解」
そこに確信的な響きがあったからだろうか、それとも紅茶の味に
「『オイシイ』なんて茶園があんの?」
どこか呆けた問いかけに、ティディアはきょとんとした。ヴィタもきょとんとニトロを見つめる。しかし間もなく二人はその意味を悟り、同時にくっと唇を噛んだ。一方で今度はニトロが二人の表情を見てきょとんとする。
「エット、主様?」
芍薬が、恐る恐るといったように声をかけた。瞬間、ニトロは目を見開いた。その頬がみるみる朱に染まっていく。
「あ」
と、彼の口から、堪えきれぬといったように声がこぼれた。それはまさしく己の勘違いへの羞恥に他ならない。こちらも堪えきれぬとばかりにティディアの顔が歪んだ。ヴィタはくるりと背を向けた。
「あははははは!」
声を弾かせ、ティディアは腹を抱えて顎をのけぞらせる。
ヴィタは声を殺して肩を揺らしていたが、主人の声に引きずられたか、こちらも声を上げて笑い始めた。
笑い声が合わさってさらに爆ぜる。
二人があんまりおかしそうに笑うものだから、初めは仏頂面でそっぽを向いていたニトロもしだいに頬を緩め、とうとう小さな笑い声を漏らした。そしてその声に自らむっとしたように押し黙る。その様子にまたティディアが笑う。ヴィタも涙を浮かべている。ニトロはますます押し黙るが、芍薬は、なんだかマスターがかわいらしくて、笑う女達を咎める言葉を失ってしまった。
やがて一人押し黙っているのが馬鹿らしくなったかのように、ニトロが息を吐き出した。
やっと笑いを納め始めた女二人を眺める彼の目元は優しい。
そこには彼の素の顔があった。
ティディアはそれを目に留めた。
ふとその彼女と目の合った彼は口元に笑みを浮かべて、しかし彼女をあしらうように顔を背けた。その目元は再び不機嫌な陰に覆われていた。
だが、そこに垣間見えたものを、ティディアが見忘れることはなかった。
終