地下鉄に乗って、家に帰りたくないなと思っていたら、見知らぬ町にやってきていた。
何をどうして辿り着いたのだったか。
確か、初めに目的の駅を乗り過ごしたのだ。
次の駅で降りればよかったのに、何故だか立ち上がることが出来なかった。眺める先でドアは閉まった。滞りなく車輪が回り出した。買い物に行きたかったショップはどんどん遠のいていく。そのうちに意識も遠のいて、うとうとしていたところ、その車両は別路線に乗り入れるものであったらしく、ふと気がつくと全く馴染みのない駅名がアナウンスされていた。
しかも地下鉄に乗っていたはずなのに、いつの間にか地上に出ていた。
ドアが開いた。
急に焦燥感に襲われて、逃げ出すように降りた。
すると隣の線路にすぐ特急列車が来ると表示されていた。
――ニトロは、家に帰るのは気が引けた。
最近、見知らぬ人々が押し寄せてくるのだ。
その大半は報道という大義を持っている。そこには知る権利という武器を振り回す者もいる。権利問題については高等教育で習う範囲のことしか知らないけれど、その権利がもたらすべきものは、花壇を踏み荒らされた母の悲しい顔では絶対にない。それ以外はほとんどが野次馬で、混雑の生んだいざこざは父のシャツを駄目にした。あとは妬みや恨みの目を向けてくるちょっと怖い人達。それについても妬みや恨みをもたらす理由が虚構にすぎないから理不尽だ。
それでも両親はただただ賑やかになったねと笑う。それは息子を気遣うというより、十中八九、生来の気楽さから出たセリフなのだろうけど、やはり胃は痛くなる。
鬱々と考えていると、気がつけば特急列車に乗っていた。
発車オーライ。
終点は北東部のカァロ領領都。
そこまで行くのも気が引けて、そのくせ『どこか人のいないところに行ってみたい』なんて昔の歌の
大きな駅だった。
当然人目も多い。
人目は怖い。
そこでとにかく一番発車時刻の近い電車に乗った。平日の夕刻前とあって車内はすいていた。そこから一つ目の駅を過ぎ、もう一つ過ぎ、川を渡り、三つ目の駅でふらりと降りた。自分以外に降りた客は片手で足りた。そのままホームに突っ立って電車を見送っていると、この先にもまた川があるのに気づいた。どうやらここは二本の川に挟まれた地域であるらしい。駅舎は小さいけれど近代的で、それほど時代を経ていないようだけど、なんとなく風化して見える。
目的もなく駅を出た。
駅前広場はやけに大きかった。
それなのにロータリーには無人タクシーすらいない。
広場の外縁には建物が並び、どれも立派な造りの四階建てで、上の階は住居だろうか、もしかしたら昔は事務所などが入っていたのかもしれない。一階にはテナントが入っている。けれど、果たして本当に営業しているのか疑わしい。古ぼけたカフェにだけ客が入っているのが見えて、よぼよぼの老人が太った中年女性と会話している。どうやらウェイトレスらしいその女性が老人に殴りつけるような素振りをして、奥に引っ込んでいく。老人は笑っている。店内にはギターを持った女性の
広場からは真っ直ぐ目抜き通りが延びていて、その両脇にも広場と同じような建物が並んでいた。石造りか、石造りに見せているのかは分からないが、かなり年代を感じさせるデザイン。見事な
それぞれの一階のテナント部分には、駅から離れるに従い『
建物の上階は、きっと昔は憧れの的であったアパートだ。しかし現在は壁に等間隔に並ぶ窓の内、まばらに鉢や洗濯物など生活臭を感じさせるものがある一方、その多くは内部に光を感じさせない。窓枠は塵に塗れ、洒落たデザインの落下防止柵は、防錆加工がされていることを失念したかのように錆びついている。歩を進めていけば建物の並ぶ中、ふいに空き地がいくつも現れる。まるで永久歯が抜けた跡に思えてならないそれらは、それだけここから人の離れた圧倒的な証拠だろう。横道を覗けば静かな住宅街に、日の暮れる前から薄暗い空気が漂っている。
人通りは、もちろん少ない。
駅近くにはまばらにあった人影も、今や前方数十メートルに渡って皆無である。
ただ街路樹だけが活気に溢れていた。
この木の名は何だったろう? 常緑の葉の中に名残惜しく花がいくつか残っている。大振りで、優雅に反り返りながら六角形を描く花。満開の頃にはさぞかし
寂しい。
端々にかつてこの町がとても栄えていた面影があるからこそ、余計に寂しい。
特急列車の停まった大きな駅の周りはとても発展していて、この町の駅のホームから見えた川の先にもまた経済の回る景色があった。
二本の川の間で、ここだけが何もかもから取り残されているようだ。
過去の栄光の面影を路傍の石にして、息を潜めるように現在が営まれている町――ニトロは、ここなら静かに暮らせるかもしれないと思った。今も自宅を取り巻いているだろう目を逃れて、もしかしたらアデムメデス百億人の目も逃れて暮らせるかもしれないと。
「……いや」
思わず、声に出してその妄想を否定する。
例え百億人を避けられたとしても、一人、たった一人のあの女は、必ず俺を見つけ出してしまうだろう。そして銀河の星々までにも恥を晒そうと引きずり出してくれるだろう。
安寧はない。
この星に、平和はない。
とぼとぼと歩き続けているうちに、前方に大きな道が横たわっているのが目に入ってきた。駅前広場から続く通りとT字に交わっているその道にはどこか幹線道路の趣があり、実際に多くの車が行き交っている。気がつけば道行く人も増えていた。なんだか廃墟の中に町の栄華が
駅前広場からの通りは、その大きな道に合流したところで終わっていた。
そして大きな道路を横断した先には、また広場があった。
その広場にはアデムメデス国教会の礼拝堂の尖塔が見える。
どうやらこの広場こそ、この町の中心部であるらしい。
広場を取り囲む建物は駅前のものより背が低く、デザインも無骨だが、そこに並み居る店舗には活気があった。老人がテラス席を埋めるカフェ、看板の字もかすれて読めないレストラン、最新の釣竿を紹介するディスプレイだけが眩い
(……いや)
ニトロは心の中で頭を振った。
気のせいだ。
弱った己の心が、目に見えるものにそれを投影しているに過ぎない。
気を取り直して眺めれば、広場は悠然としていた。
一面を灰黄色の石畳に覆われて、その中でより多く人々の通った場所は踏まれ踏まれて角も取れ、滑らかに凹んで帯をなし、それは広場の中にいくつもの水なき流れを生み出して、その最も幅広い本流の源には、一歩広場の中に踏み出すようにして礼拝堂が佇んでいる。それを取り巻く建物は全て年季の入った石造り、その背後に迫るように密集している住宅も道すがらに見てきたものよりずっと年月を重ねているらしい。駅前広場と目抜き通りが中年なら、ここは老境にある。
礼拝堂は、思えば意外なほど小さかった。ただ、小さいながらもやはりかつての繁栄を窺わせるものがある。手の込んだ装飾と、当時はそこに金や銀箔のふんだんに使われていたであろう痕跡。開け放たれた正面扉の上には立派な三体の守護天使の彫像がある。両開き戸のそれぞれの軸の上に立つのは、船乗りの守護天使と、家財の守護天使。……もしかしたら、本来、天使像は広場を見守るこの二体だけだったのではないだろうか? 二体を底辺の角に置き、三角形の頂点に配するように、少し上がったところにどこか趣の違う車輪の守護天使があり、その眼差しは遠方に向けられている。多分、時代の要請に応えて後から付け加えられたものなのだろう。
その天使達も、礼拝堂全体も、ここまでの建物と同じく薄汚れている。
斜陽を浴びて、色褪せた礼拝堂は、周囲の建物と同じ色に輝いている。
ふいに鐘が鳴った。
17時を報せる鐘だった。
この時期、すぐに日没一時間前の予鈴も鳴るだろう。様子からして常駐の司祭も堂守りもいないだろうから、これらの鐘はタイマー式のもののはず。人によっては――この銀河を渡る時代にあっても――人の鳴らす鐘でないと温もりがないと言うが、ニトロにとっては、鐘の音はただ鐘の音だった。その音色は美しくて、別に国教会の熱心な信徒というわけでもないのに、心に沁みる。
「……」
そういえば、ここに来るまでどれだけ時間がかかっていただろう?
未だ帰ろうとは思えないが、ひとまず正確な現在地を確認しておこうと、ニトロは
気づかぬ間にメールが届いていた。
父からだった。
『チキンドリアとシーフードドリアのどちらがいい? 母さんはベーコンポテトドリアがいいって言うんだ』
思わず、ニトロは笑った。
質問が破綻している。二択を提示していながら、これではその選択肢に正解が無いではないか。
彼は一つ息をついた。
「……帰るか」
調べてみると、ここは思ったほどには家から離れていなかった。とはいえ戻るまでにたっぷり二時間はかかる。急げばちょうど夕食時に着けるだろうが、余裕を見て父には少し遅くなると返信する。無論、質問への回答はベーコンポテトドリア。父はきっとあの自家製ベーコンを使うだろう。焦げ目のついたチーズ、ハーブの風味をまとうポテトはほくほくとして、その相性はことさらに言うまでもない。味を底で支える優しいガーリックライス。そして全てをまとめる素朴なベシャメルソース。――楽しみだ。
古びた礼拝堂の鐘が鳴り終えて、余韻が空に馴染んで消える。そういえば、この町の空は驚くほど広い。
遊んでいた子ども達が一人帰り、また一人帰り、最後に残った二人が手をつないで帰っていく。
礼拝堂から出てきた老夫婦が手を取り合い、ゆっくり、ゆっくりと帰路につく。
ニトロもまた、もと来た道を引き返す。
夕暮れはもう間近。
しかしそれは、次の朝を迎えるための準備である。
終