諸霊と聖歌の日

(『晩秋、オペラの下で』の数時間後)

「夜ともなればもう冬ですねえ」
 ライトアップされたロディアーナ宮殿を遠目にしてハラキリが言った。
 王都の鎮座する地方は四季を通じて過ごしやすい。それでも四季それぞれの特色は、やはり人の肌に触れてくる。春はぬくもり、夏は暑く、秋は涼しく、冬は寒い。ただ極端になることはない。たまに酷暑がやってきて、稀に厳寒の朝が到来することはあっても、すぐに適度な暑さが戻り、適度な寒さに息が白くなる。夏は薄着を楽しめて、冬は厚く着飾れる。春には花が咲き乱れ、秋には紅葉が鮮やかだ。四季それぞれの楽しみを楽しみながらも過ごしやすいというのだから、この地に玉座を定めた男は素晴らしい見識を持っていたものである。
 友と歩きながら、ニトロも宮殿を振り返った。
 煌びやかに照らし上げられた華麗な宮殿をまた煌々と輝く双子月の下に眺めると、数々の鬼畜非道の伝説を残したあの覇王には、存外繊細な心もあったのだろうかと思いがよぎる。
 深夜、日付も変わり、祝日を迎えたロディアーナ宮殿の敷地内には多くの人があった。
 元々人気の観光地であり、普段から夜になっても人出のある場所ではあるが、それ以上に今はその祝日を楽しむ人々で静かに賑わっている。
 ――『諸霊と聖歌の日』――
『諸霊』とはあらゆる生物の霊のことである。それは人間われわれの命を支える動植物の霊である。そこには互いに支え合う人間も含まれる。収穫祭の後、今年も命を長らえさせてくれたあらゆる万物諸種の霊魂へ感謝を捧げ、かつその霊魂が冬を越えてまた生命の萌芽する春に(それは実際にも、比喩的にも)無事にあらわれるよう祈るのが今日この日である、と国教会は教える。
『聖歌』とは、もちろん国教会の認定を受けた聖歌のことである。同時にこの諸霊へ捧げる歌曲のことも言う。加えてこの日は覇王による国家統一の後およそ300年経って完成した“聖歌大全”の記念日でもあった。統一と同時にアデムメデス国教に吸収された他宗教の歌も組み入れ、事業発足から歴代の音楽家達の苦心と情熱と神がかりによってまとめられたこの大歌集は、長い年月を経た現在もそのままの形で受け継がれている。
 深夜零時を越えてから、所々に歌声が聞こえていた。
 二人が通り過ぎてきたロディアーナ宮殿の正門前広場では国教会の服を着た一団が合唱していた。宮殿の所有する広い敷地の各所にある広場にも歌う人々がいて、道を行けば歌を口ずさむ人々とすれ違う。
 そしてこの日、多くの人は何か動物に関するものを身につけていた。例えば犬のストラップ、鳥の羽を飾った帽子、猫やウサギの耳の付いたカチューシャ、中には着ぐるみを着ている者もいるし、凝った仮装をしている者もいる。それらは諸霊の“依り代”を携え、あるいはそれを演じるためだ。もちろん仮装をしなくとも、何かグッズを身につけなくとも、しかし人間であればそれだけで諸霊のいちであり、依り代である。例え歌わなくとも心臓がリズムを打っている。それが国教会の語る意義である。とはいえほとんどの人はそのような意義までは考慮していない。そうやってアニマルグッズを身につけるのも、仮装するのも、人間であることも、信仰のためではなく、お祭気分を味わうため、それを味わうことで人生に活気を加えるためだ。
 ただ、この祝祭が訪れると、アデムメデスは俄かに年末を強く意識する。
 この日の終わらぬうちから人々は年末の『五天の魔女』のパレードを、年越しの『二年祈祷』を、年明けの『穏安の祝日』を待ち焦がれ、日々変わらぬはずの生活の中で人心は浮き立ちながら、やがて普段宗教を格別意識することのない者までも、気がつけば暮らしから切り離せぬところに沁みついている“教え”を省みる。
「きっと冬もあっという間に過ぎるんだろうな」
 二人の行く道は緩やかに弧を描き、歩き続けているとやがて前方にボダイジュの植え込みが見えてきた。その秋色に染まる樹冠の向こうには礼拝堂がある。ロディアーナ宮殿の印象を損なわない程度の大きさで、権威づけも希薄だが、史上初めてカロコ様式で建てられた礼拝堂として有名なものであった。こちらもライトアップされていて、その外観はここから見ても華美にして優雅。白と金を主にして情緒豊かに装飾された堂内は、普段にも増して人でごった返しているだろう。
 ニトロは吐息をつく。
「光陰矢のごとしって、本当にそう思うよ」
「最近は特に忙しいから余計にそう感じるんでしょう」
「どうかな。単に歳を食っただけかもしれない」
「いやいや。まだ十分過ぎるほど若いでしょうに」
「でも今年だけで何十年分もけた気がするんだよ」
「それはそれこそ“気がする”だけです」
「そうか?」
「ええ」
「そうかなあ」
 道は直接その礼拝堂へは通じず、ボダイジュの植え込みの前で小さな広場に合流していた。他に二本の道の流れ込むそこには幾つもの屋台があり、アニマルグッズ店や諸霊を迎える蝋燭売り、民俗的な護符アミュレット売り、祭ならではのジャンクフードや甘味、それからこの祝祭に欠かせぬ焼き菓子屋が賑やかに軒を連ねている。その暖色の明かりが、滲むような夜寒の中でやけにニトロの目に沁みた。
「お前は礼拝堂に行くのか?」
 広場の明かりからハラキリへと目をやり、ニトロは小さな声で言った。
 息がわずかに白くなる。
 すぐ横を通り過ぎて行った二人連れは幸せそうで、その片方はニット帽にカラフルな鳥の羽を刺し、もう片方はズボンのベルト通しループくくりつけた尻尾を揺らしている。
「感謝と祈り、ですか」
「今日、礼拝堂、って言ったらそうだろ?」
「君は?」
 二人は学校の制服を隠す目的もあって、ビジネスマン風の出で立ちを装っていた。生真面目さを感じさせるメガネをかけたハラキリはチェスターコートのポケットに手を突っ込み、ステンカラーコートを着たニトロは最近人気の帽子を被り、長い年月で凹凸もなくなるほど磨り減った石畳を革靴の底に感じながら広場に差しかかる。人々の目は礼拝堂へ、この日だけ揺らぐ蝋燭の火へ、人目を引く仮装へ、そして愛する人の瞳へ向けられている。
「一応親に誘われてるけどな、どうだろ」
 苦笑するニトロへ、ハラキリはついと視線をボダイジュの向こうへやった。
「なんなら寄って行きます?」
 広場にいる人の流れの主なる一つは、もちろん礼拝堂に向かうものだ。逆にそちらからやってくるものも太い流れを作っている。ニトロも礼拝堂に視線をやった。『漫才』の練習を終えて、ハラキリと共にこっそり劇場を抜け出てきた時、ちょうどあの尖塔に鳴る鐘の音が聞こえたものだった。
「仮装していけば――」
 とハラキリが声を潜める。
「明るい祭壇の前でもバレません」
 ニトロはまた苦笑した。
「仮装って何をさせる気だよ」
「動物のマスクを被るだけでもいいんじゃないですかね」
 ハラキリの視線の先に、明らかにパーティーグッズショップで買ってきたのであろうビニール製のマスクを被った集団がある。猿、犬、鳥、馬、牛、それから――
「あれ、売れてるのか」
 定番の動物達の中に『ティディア』がいた。といってもそれは全く似ていない。というかまるで別人である。いや、別人と言うか“人”にすら見えないし、遠い祖先たる“猿”にも見えやしない。しかし製作者は「これはティディア姫だ」と言い張った。その度胸にバカ受けした王女が「これは私ね」と認可した。そうして売り出された商品のキャッチコピーは『これを被れば誰でもプリンセスになれる!』……しかし実際にはビニール製の動物達と一緒に並べてみても違和感しかないあまりに前衛的な代物である。
 ハラキリが言う。
「通販でもトップでした」
「マジか」
 ニトロが吹き出した白い塊が屋台の光に映え、あっという間にほどけて消える。
「まあ、君のところはマスクをして行ったとしても名前を呼ぶでしょうしねぇ」
 と、話を戻してきたハラキリにニトロはうなずき、
「呼ばないように言っても、てか呼ばないように頼めばむしろうっかり呼ぶな。あとああいう被り物はきっと剥がされる」
「どのように?」
「お祈りする時、『邪魔だろうから持っててあげる』」
「『スポッ』」
「『あッ』」
「要らぬ親切」
「余計なお世話」
 二人で喉を鳴らすように笑っていると、ふと聖歌が聞こえてきた。アデムメデスに暮らせば礼拝堂に行かずともよく耳にするものだ。それを歌い出したのは広場の片隅にいた家族連れであった。そこに通りすがりの人が声を合わせて、いつしか即席の合唱団となる。
 この特別な日によく見られる光景を眺めながら、ニトロは言う。
「それにまあ、うちも最近は礼拝堂に行くのも年末年始くらいだしさ」
「ということは、以前は日曜祭日にも行っていましたので?」
「毎週毎回じゃないけど、普通な感じでお説教を聴きにね。小さい時は御堂おどうでもらえる飴が楽しみだったなあ。けど小学校に入ってからあまり行かなくなってったよ」
「一般的にも大体そんな感じと聞きますね。『7歳ななつの聖光拝領』を終えたら遠のくと」
「一応『11の浄斎』も受けたよ」
「そうですか」
 ハラキリは口元に笑みを刻み、ポルカト家の一人息子を横目に見て、それから木々の向こうで優雅に佇む礼拝堂を眺めて息を吐く。
「まあ、わざわざ礼拝に行かずとも晩の食前に祈れば良いともなっていますしね」
「それでそっちは?」
「食卓で祈るほどの信心もありません」
「はっきり言うなあ」
「しかし生きていればそれだけで感謝になるものです。この命が、また別の命に生かされているのならばね」
「聖典の一句?」
「単に適当に言ってみました」
「そうか?」
「ええ」
「そうか」
 近くにいる三人連れが『ティディア様』と言った。
 反射的にニトロが目をやると、男二人と女一人、その男の片方が持つモバイルを残りの二人が覗き込んでいた。聖歌の合唱をバックに途切れ途切れに聞こえる会話からすると、顔にアニマルペイントをしたその三人はこれからあの劇場へ“出待ち”に行くつもりであるらしい。だが、あの周辺はニトロが副王都セドカルラへ来た時から『ティディア・マニア』が“出待ち”の大群をなしていた。今からでは当然分け入る隙間もない。それよりはロディアーナ宮殿の前広場へ行き、夜通しのオペラを鑑賞し終えた王女が家族と共に宮殿に休みに来て、そしてあるいはファンサービスとしてそのバルコニーに現れることを期待した方がまだ尊顔を拝せる可能性が高いだろう。実際、宮殿の正門前広場には、それに賭けた連中がそこでも群をなしていたものである。
「道楽ですねえ」
 と、ハラキリがつぶやいた。
 ニトロはてっきりハラキリはその三人――熱を帯びていく会話から間違いなく『ティディア・マニア』である三人のことを言っているのだと思った。だが、振り返ると、彼はそちらにはまるで関心を寄せずにある屋台を見つめていた。
 その屋台は、礼拝堂への人の流れの当たらぬ並びにあった。
 それはとても小さな店だった。
 割り当てのスペースに対して随分小さな机が一台置いてあり、そこに広げられた敷布の上には飾り蝋燭が丁寧に並べられている。その品数はおそらく百にも満たない。が、見たところ売り物はそれで全部であるらしい。机の後ろには毛布を被ったよぼよぼの老婆がちょこんと座していた。店番なのか、店主なのか、どちらにしろうつむき加減で客を引く意志は感じられない。すぐ隣ではアニマル・アクセサリーを売る店がスペース一杯に商品を広げているし、当然その他の屋台も書き入れ時に相応しい面構えをしているから、それらとあまりに対照的な老婆の店は見るほどにみすぼらしくも思えてくる。それをよしとする商売は確かに道楽といえば道楽なのかもしれないが……
「何が?」
 ニトロが問うと、どうやらハラキリはメガネにその店のARデータを映しこんでいたらしい。
「手作り、それも『年寄りの趣味』だそうです。あの様子からすると落選前提で申し込んだらうっかり通ってしまった、というところかもしれませんね」
「ああ、なるほど」
 それならば色々と理解できる。道楽であるのにも違いはない。
 ニトロはしばし老婆の屋台を見つめ、やおら帽子を深く被り直した。一歩踏み出した彼にハラキリが言う。
「冷やかしですか?」
「見てみるだけだよ」
つまり冷やかしですね?」
「……。
 良さそうだったら買って帰るのもいいだろ?」
「ええ、ご自由に」
 と言いながら、ハラキリもついてくる。
 老婆はほとんど眠っているようだった。使い込まれた電気毛布が、この寒空の下でも存外暖かいのだろう。彼女の隣には空き椅子があった。もう一人店番がいるようだが、今はトイレにでも行っているのだろうか。
 老婆を起こさぬようそっと店の前に立ち、ニトロは商品を眺めた。
 一本一本よく見えるようにディスプレイされた飾り蝋燭は、他の蝋燭店と同じくこの祝日に伝統的な品で、表面に図案化された動植物が細かに彫り出され、さらに美しく彩色されたものだった。
 老婆の飾り蝋燭は、もちろん趣味というだけあって職人の出来には及ばない。お世辞にもそれに比肩するとはニトロには言えない。
 しかし妙に心を引くものがあった。
 白い絞り模様の入った赤いバラが咲き乱れ、葉と棘のある茎の間に蜜蜂が遊んでいる飾り蝋燭を一目見たニトロは、思わずそれに手を伸ばしていた。
「お買い上げですかね」
 驚いたような声が上がった。
 声をかけられたニトロも驚きの声を上げそうになった。
 ほとんど眠っているようだった老婆が、やはりまだ夢うつつのような顔でこちらを見上げている。客が来るとは思っていなかったような、しかし来たとなれば嬉しいような……それでもやっぱり信じられないような、だからまだ夢だと思っているような、そんな目つきであった。
「――ええ」
 ニトロは手の中の蝋燭を今一度見つめ、うなずき、
「こちらをお願いします」
 声音を抑え、つぶやくように言った。
 すると老婆はおかしな声を一つ上げ、慌てて机の下から袋を取り出した。
「1000リェンになりますね」
「安いですねッ」
 ニトロは思わず声を高めて言ってしまった。それはむしろツッコミに近かった。この蝋燭のサイズで、しかも手作りとすれば相場の半分にも満たない。お得と感じるより申し訳なさを感じるほどだ。
 すると老婆はそれで初めて目覚めたように目をしばたたいた。皺の中にベルトポンチでぽつんぽつんと穴を開けたような眼で客をじっと見つめる。ニトロは奇妙な恥ずかしさを覚えてわずかにうつむいた。老婆は目元の皺にさらに皺を寄せ、
「十分なもんですね」
 と、ニトロから受け取った飾り蝋燭を労わるようにクッションシートで包んでいく。
 何となく気恥ずかしさの消えないニトロは声音を抑えて言った。
「とても綺麗だから、燃やすのが勿体無いですね」
 それは本心だった。実際、家に飾っておくのもいいと彼は思っていた。老婆は照れたように身を揺すり、
「ありがとうございます。でも蝋燭は燃やすもんですからね」
「ええ」
「火の燃えますでしょう、その火が蝋を少しだけ透かしますでしょう、頭の方でですね、すると絵がまた綺麗なんですね」
 心底嬉しそうに語る蝋燭売りを見ながら、ニトロは内ポケットからカード入れを取り出した。老婆の示した端末に触れる。決済音が鳴った。
「ありがとうございます」
 老婆は身をかがめるようにしてお辞儀をすると、袋を差し出し、顔をさらに皺くちゃにして言った。
「良い灯火ともしびとなりますようにね。感謝と祈りをヲレイ・ヤ・プレイ
 その年季の入った笑顔に、ニトロは自然と笑みを返した。
感謝と祈りをヲレイ・ヤ・プレイ
 古い文句を口にしながら品を受け取り、振り返ったところでニトロは気づいた。
 いつの間にかハラキリがいない。
 どこに行ったのかと見回すと、友は少し離れたところにいた。こちらに戻ってくる彼の手には紙袋がある。ニトロが歩を進めて出迎えると、ハラキリはニトロの提げる袋を一瞥してわずかに眉を跳ね上げた。
「おや、買ったんですか」
「一目惚れしてね」
「誰かが聞いたら歯噛みしそうな言葉ですねえ」
「勝手にさせとけよ」
 ぶっきらぼうに言うニトロにハラキリは小さく笑い、
「どのようなものを?」
「バラと蜜蜂」
「王道のモチーフですね」
「だからいいのさ」
「一理あります」
 うなずいて、ハラキリは手にしていた紙袋をニトロに差し出した。
「何?」
 ニトロがそれを受け取ると、開いた袋の口からいい匂いが立ち昇ってきた。
「ポフロンです。ご自由にどうぞ」
 そう言い残し、ハラキリは飾り蝋燭の屋台に向かった。二人目の客に老婆がまた驚いている。隣の店主も意外そうな顔をしていた。ハラキリがフレンドリーな調子で老婆と話し始める。ニトロはそれを眺めながら、ポフロンを一つ取り出した。
『諸霊と聖歌の日』に欠かせない焼き菓子である。
 専用の型で焼かれた一口サイズ。ほんのり楕円になった球状で、小麦色の表面はカリッと香ばしいのに一噛みすればほろりと崩れて素朴な甘みがじわりと広がる。ニトロはもう一つ口に放り込んだ。
 ハラキリが戻ってくる。
「華はなくとも味がある、というやつですかね」
「三本も買ったんだな」
「ええ」
 ニトロは目を細めた。
「“転売”する気じゃないよな?」
「いやあ?」
「おい」
「まあまあ、幸せは分かち合いましょうよ」
「いやそういうこっちゃないだろ。そういう商売をすんなって言ってるんだ」
「別に買い占めたわけでもなし、希少品でもなし、不当に値切って仕入れたわけでもなし。わりと真っ当だと思いますよ?」
「友達としての道義的にはどうか」
「明確に反しますか?」
 ニトロは即座にうなずこうとして、ふと迷った。迷うとそれが本当に責められることかどうかと自信が持てなくなる。ハラキリはこちらの迷う様が面白いのか、にやにやと笑っていた。むっとしてニトロは言った。
「俺が嫌だと言ってるんだ」
「そう正直に言われては仕方ありませんね」
 肩を小さく揺らして笑い、ハラキリは言った。
「ではこちらから商談を持ちかけることはよしておきましょう」
「てことは向こうから持ちかけられたら?」
「金銭を伴わぬ譲渡であれば――それでも君は禁止しますか?」
「……それを強いちゃ、逆に俺が道義的にどうかな」
 するとハラキリは心底おかしそうに笑った。目立たぬように声は上げず、しかし苦しそうに。
「……なんだよ」
 口を尖らせてニトロがつぶやくと、やっと笑い終えたハラキリが言う。
「君はね、禁じても良いんですよ。何故ならこの話題はこちらから振らねば彼女が知ることはないでしょう。その上で、こちらはその譲渡によって色々と便宜を受けるつもりなんですから」
「ああ、なるほど」
 うなずいて、ニトロは片笑みを浮かべた。
「しかも商売どころか賄賂ときたか」
「ご機嫌取りと言う方が適切ですかね」
つまり、賄賂だろ?」
「……ふむ」
 ハラキリは肩をすくめて降参の意を示した。先ほどの仕返しができたニトロはにやりと笑い、三つ目のポフロンを口に放り込んだ。
「で、何を買ったんだ?」
「君と同じものと、不死鳥のもの、それからナデシコの描かれたものがありましてね」
「ああ、そりゃいいな」
「撫子は燃やしたがらないかもしれませんがね」
「気持ちは分かるけど、蝋燭は火を灯してこそ綺麗なんだよ」
「ほう」
「つっても、あのお婆さんからの受け売りだけどね」
「――ほう」
 ちらりと見ると、屋台には肥満気味の老人が戻ってきていた。老人といっても老婆より若く、おそらく息子だろう、彼は何やら驚いている。蝋燭が売れたことが信じられないのだ。こちらにビックリまなこを向けてきて、自分が客に見られていたことに気づいて慌てて会釈する。ニトロとハラキリも会釈を返した。老婆は毛布にくるまってにこやかである。老人は体を丸めるようにして老いた母に話しかけ、母は皺くちゃな顔でゆっくり何度もうなずく。
 また誰かの歌い出した聖歌が、合唱を誘っていた。
「……行こうか」
「そうですね」
 ニトロは歩き出し、四つ目のポフロンを食べる。
「もう一袋買ってきましょうか?」
 隣に並ぶハラキリの問いにニトロははっとして、それを誤魔化すように笑いながら紙袋を返した。
「いや。ごちそうさま」
「妙に食べちゃうんですよねえ、これ。特別美味しいわけでもないのに」
「分かる分かる。止まらなくなるところだった」
「やはり買ってきましょう」
「いいよ、道なりに店があったら今度は俺が買うから」
「そうですか、それじゃあそういうことで」
 ニトロは礼拝堂へ向かう人の流れから外れて、ロディアーナ宮殿の敷地の外へ向かう道に入った。この道の先にも今いたような広場があるようだ。背後の広場の光が薄れて暗くすぼまる道の向こうにまたぱっと開ける明かりが見える。
 二人はしばらく無言で歩き、道行く人の密度の最も薄まった辺りで、ふとハラキリが足を止めた。
 それに気づいてニトロが振り返ると、ハラキリは礼拝堂を見ていた。
 その視線を追ってニトロも礼拝堂へ目を向けた時、鐘が鳴った。
 澄んだ音が一つ。
 1時だ。
「先ほどの話ですが」
「うん?」
「最近、年末年始くらいにしか家族で礼拝堂に行っていなかったんでしょう?」
「ああ。うん、そうだよ」
「それで今日、ご両親が誘ってきたのであれば。行っておいた方がいいんじゃないですか? 今年の年末年始はどうなることか判らないわけですし」
 鐘の音はしばらく透明な尾を引いてくうを渡り、やがて等級の小さい星しか見えない夜空に吸い込まれるようにして消えた。ニトロの息が白くなる。
「考えたくなかったことをはっきり言ってくれるよな」
「ご両親が寂しがっているだろうということを?」
 飄々と、とぼけた問いを――だが、とぼけきってもない問いをハラキリは返してくる。ニトロは小さく首を傾げ、また歩き出した。
「そっちもたまにはおばさんとお祈りをしに行ったらどうだ?」
「祈る暇があるならしゃくをした方が喜びます」
 ニトロはたまらず笑った。そして笑い終えた時、親友のその言葉をふと鑑みた。彼の声にあったのは諧謔的な響きで、実際、それは礼拝に行くことは自分にも母にも無意味だと言っただけだろう。酌を持ち出したのもただ比較対象である他に意味はあるまい。だが?――と、考えたところで、ニトロはジジ家の居間を思い浮かべた。一風変わった母子おやこが食卓を囲んでいる光景を想像し、そこにナデシコに飾られた蝋燭の火を加えてみる。
「……俺も、今晩はお酌をしてみようかな」
 道沿いに並ぶ照明の柔らかな光を眺めながらニトロが言うと、ハラキリはポフロンを口に放り込んでからうなずき、
「それは喜ぶでしょう」
「ああ」
 ニトロもうなずき、ハラキリのポフロンに手を伸ばしてまた一つ失敬した。そして素朴な焼き菓子を頬張りながら言う。
「おばさんも、きっと喜ぶと思うよ」
 一瞬、ハラキリはニトロを怪訝に見つめ、やにわにその含む意図を察して苦笑した。
 ……それだけだった。
 ニトロは相手の返答を待っていたが、ハラキリが何も言わぬことに失望はしなかった。
 この道は清掃ロボットがまだ巡回してきていないようで落ち葉が目立つ。しかしそれがまた絵になっている。夜でもこんなにいい光景なのだから、朝や夕にはどれほど気持ちのいいことだろう。
 ガサリと紙袋の口を大きく開けて中を覗き込んだハラキリが、それをひょいとニトロに差し出してくる。
 ニトロはポフロンを一つ貰った。
 ハラキリも一つ取り出してそれを頬張り、空になった紙袋を折り畳んでポケットに突っ込んだ。そろそろ次の広場が近づいてきている。
「何個入りだった?」
「十五です」
「じゃあ次は三十で買おう」
「そんなに気に入りましたか」
「残ったら茶請けにすればいいしね」
「というか残るでしょう」
「どうかな、なんか少し食べたら腹が減ってたことに気づいてさ」
「なら麦粥でも食べていきます?」
「のんびり食べていたら流石にバレるんじゃないかな。怖い連中マニアだってたくさんうろついているんだ」
「そうしたらその連中にも麦粥を食わせて、ついでに歌も歌ってみましょうか」
 その提案にニトロは笑った。遅れてハラキリも笑った。
 笑いながら、二人は楽しげな合唱の聞こえる広場へと歩いていった。

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