理由

(『おみくじ2016 中凶』の後、及び『ランチと共に、思い出を』と『夏みかんとカーボン』の間)

 ニトロはぐったりしていた。
 ぐったりと、テーブルに突っ伏していた。
 不本意ながらやることになってしまったティディアとの『漫才』――そのために練習せねばならないことはやっぱり不本意ながらも納得しているが、それで舞台俳優ばりの発声や滑舌のトレーニングまで課されるとは思わなかった。いや、それらが不必要だとは言わない。しかし劇場の最後方にまでマイクを使わずはっきりくっきり言葉を届ける技術とまでは別に要らないのではないか? だってマイクを使えばいいじゃない。
 それでもティディアは聞く耳を持たない。
「必要」
 の一点張りで非常に真剣に、かつ非情に厳しく指導してくる。
 ああ、喉が痛い。
 だが簡単に喉が痛くなるようでは駄目だと奴は言う。実際、同じ時間、同じように大声を張り上げているのに奴の声は最後までひとっつもかすれやしなかった。美声である。おのれ腹立たしい。腹立たしいが、この腹立たしさを外にぶつけたところで八つ当たりである。となれば内で消化するしかあるまい。
「芍薬」
 体を起こしたニトロのかすれた声に応じて壁掛けのテレビモニターが点き、オリジナルA.I.が肖像シェイプを表した。
「ゴ飯カイ?」
 無地の白いユカタに、夕空を雲がたなびくような薄紅色の帯を締めた芍薬が問う。ニトロは眼だけをそちらへ向けた。
「うん、頼むよ」
 ポニーテールを揺らして芍薬がうなずくと、キッチンから多目的掃除機マルチクリーナーの動作音が聞こえてきた。夕食はゴルスキという羊肉マトンの煮込み料理、それもちょっと高価格帯の冷凍食品だ。ゴルスキはスタミナ料理として知られ、がつがつ具を食べた後にはショートパスタを放り込んで残ったスープもがっつがつ食べる。明日も明後日も明々後日も特訓があるからと、帰りに即席食品プレクックドストアへ立ち寄って買ってきたのだ。
 電子レンジの扉の開閉音。
 食器の用意される音。
 ニトロは、言った。
「芍薬」
「ナンダイ?」
「何かあった?」
 体を背もたれに預け、痛む喉を触りながら、彼は芍薬を見つめる。
 キッチンの作業音が一瞬、途切れて即座に再開する。
 多目的掃除機マルチクリーナーの操作に意識を向けていた芍薬はやや遅れてニトロへ目を移した。
 マスターは疲労困憊である。
 しかし彼は、促している。
 モニターに映る芍薬の表情に逡巡や躊躇いの影はない。電脳世界に佇む芍薬はそれに絶対の自信を持っていた――何故なら肖像シェイプに紐付けられた感情表現プログラムの根本から、それを『オフ』にしてあるのだから。であればそれらが表現されることはあり得ない。実際に客観的に精査してもそう窺わせる顔が写された形跡はない。無論、そうしていたのはマスターに要らぬ心配をかけぬため。それなのに……どうしてマスターは気づいたのだろう? 不思議なものだ。そして不思議と思うと同時に湧き出してきた感情に胸をくすぐられ、芍薬は思わず言った。
「アノサ、主様」
「うん」
 芍薬はそこで黙った。その顔には今は逡巡がありありと反映していた。気づかれた以上、それを隠す方がきっと良くない。ならばちゃんと聞くほうが良い。
「あたし、フルニエ殿ニ何カ失礼ナコトヲシタカナ」
 なるほど、と、ニトロは内心うなずいた。その友人から特訓中に連絡があったことは聞いている。それに芍薬が応対し、遊びへの誘いに丁重に断りを入れたことも聞いている。その対応はもちろん申し分ない。だからそれで芍薬が相手にどんな態度を取られたとしても気に病むことはないし、芍薬も気に病むことはないだろう。
 ――おそらく、問題は、きっと今日のことだけには限るまい。
 これまでにも芍薬がフルニエを応対したことは何度かある。
 だから、
「前から気になってた? それで今回、確信した?」
「……御意」
 ニトロは眉を垂れた。
「すぐに聞いてくれれば良かったのに」
「デモネ、ドウ分析カンガエテモ思イ当タルコトガナインダ」
「だからどう聞けばいいかも判らない?」
 芍薬は無念そうに、うなずく。
 ニトロはまた苦笑し、電子レンジの調理終了音を聞きながら、
「こっちは思い当たることがあるよ」
「本当カイ?」
 マルチクリーナーのロボットアームがキッチンカウンターの向こうに伸び上がる。電子レンジの扉が開かれて、とても美味しそうな匂いが濃厚に漂ってくる。
「芍薬がどうって問題じゃないんだ。フルニエは『オリジナルA.I.』がどうも苦手みたいなんだよ」
「『オリジナル』――全般ガ?」
「うん。まあ、実は本人がそう言ったわけじゃないから確実なことは言えないんだけどね、でもクレイグも『フルニエはオリジナルA.I.が苦手みたいだ』って言ってた」
 そのクレイグもオリジナルA.I.を持っている。旧式のロボットの肖像シェイプに、紳士ぶりながらもどこか間の抜けた性格キャラクター。面識のある仲間A.I.を思い浮かべ、芍薬はうなずいた。
「クレイグ殿モソウ言ウノナラ、ソウナンダロウネ」
「こういうことは伝えておくべきことだったね。うっかりしてたよ、ごめん」
「謝ルヨウナコトジャナイヨ。ソレヨリソノ可能性ニ思イ至ラナカッタあたしモ“ウッカリ”シテタモンダ」
 理由が判ったことで芍薬の顔には安堵が浮かんだ。声も明るい。が、一方でその声にはどこか寂しげな気配が感じられた。
 それもそうだろう。
 自身の不安が的外れだったとしても、悪感情の対象が『オリジナルA.I.』となればそこには自分も含まれる。これが全く無関係な者からのものであれば芍薬は意に介さないだろうが、マスターの友人にそう思われるのは、そう、きっと寂しいのだ。
「デモ、ドウシテダロウ?」
 何気なく漏らしたような芍薬の疑問に、ニトロも首を傾げる。
「さあ。でも――」
 ごほ、と咳をしたニトロを芍薬が心配そうに見つめる。ニトロは喉を落ち着かせ、改めて言う。
「でも、俺も実は気になってたからさ、機会があったら聞いてみるよ」
「デモ聞カレタクナイコトナンジャナイカイ?」
 と、芍薬が急いて言った。ニトロは目を細め、
「うん、だから、機会があったらね」
 マルチクリーナーがキッチンから出てきた。ロボットアームが器用に動いてテーブルに皿が置かれる。湯気の立つ薄く赤茶けたスープの中に、蕩けるようなマトンの肉と野菜がごろごろ入っている。ニトロの口に自然と唾が溢れる。
「そういうわけだから、フルニエのことは気にせず相手してよ。気を遣わないように、でないとかえって気を悪くするだろうから。――芍薬には悪いけどさ」
「ソンナコトナイヨ」
 ロボットアームを操りスプーンとフォークをニトロに渡しながら、芍薬は微笑んだ。
「色ンナ人ガイルカラネ。ソウイウコトナラ、あたしニハ何デモナイノサ」
 つまり、己の失態がマスターに泥を塗ったのでなければ、それでいい。
 ニトロは芍薬の言葉の底にある意識を察して、微笑を返した。正直に言えば常にマスター本位の『オリジナルA.I.』のその思想には思うところもあるのだが、とはいえそれを否定することには違和感があり、もちろん矯正しようなどとはとても思えない。だから彼は、微笑みだけを返した。
「それじゃ、いただきます」
「御意、オアガリ下サイナ」

 しかし、ニトロがフルニエにそのことを聞く機会は、長らくやってこなかった。

 その時がやってきたのは、二人の間でそんなやり取りがあったことをニトロが記憶の抽斗ひきだしにしまいこみ、芍薬もまたそれを記録ログの優先順位の低い箇所に整理し直した後。
 やっぱり不本意ながらも『ティディア&ニトロ』としてデビューを果たし、真冬を越え、春に魔女と交戦し、年度も替わってそろそろ梢に新緑が盛る頃。
「ミーシャって、スーミア君のことが好きよね」
 ふいに、クオリア・カルテジアがそう言った。
 ニトロは彼女の大きな目からふいと視線をそらした。
 彼女の背後には画架に掛かったスケッチブックがある。卒業制作のための素描をしているのだと彼女は言っていた。画面の中には弦のない竪琴を携える女神が一柱あり、その周囲には様々な植物が萌え出でて、花を咲かせると同時に実をらせ、そこに妖精達が舞い躍り、それらの下には恍惚と女神を仰ぐ詩人が一人いる。粗描というわりに随分と丁寧に描かれているものだ。そして粗描なら高価なスケッチブックを使わずにモニター上でやればいいのでは? とニトロは思うのだが、この絵に関してはそれでは駄目だという。詳しい理由は知らないが、それならきっとそうなのだろう。
 ――と、その絵を眺めて心を落ち着けた後、彼は頬のこけた少女に目を戻した。彼女は鉛筆の粉で汚れた指を洗うことなく、紙ナプキンを包装紙代わりにしてストロベリー&生クリームサンドイッチを持っている。そうしてニトロの反応を待っている。彼は訊ねた。
「なんでそう思う?」
 クオリアは笑った。
「なんでそう思わないと思う?」
 ニトロは苦笑した。
 彼女の隣ではダレイが、小食な美術部員が食べ切れないからと渡したストロベリー&生クリームサンドの片割れを黙々と齧っている。こちらの隣では既に食事を終えたハラキリがぼんやりとしていた。皆のゴミを放り込んだ購買部の袋の中で、役目を負えた包装フィルムがくちゃくちゃになっている。
 ニトロは最後のライスボールを食べ、間を取ってから、応えた。
「本人がそう言ったのを聞いたことはないよ」
「でも、バレバレよね」
「まあ、バレバレだけどね」
 クオリアは満足気にうなずいて、サンドイッチを齧る。
「それで理解できないのは、何故それがスーミア君には分からないのかということなの」
 彼女の目には強い好奇心があった。しかしその好奇心は恋への関心というよりも、難解な事態に対する疑念そのものでもあるようだ。
「だって露骨とまでは言わないけど……それでも、判りやすいでしょう?」
 ニトロは苦笑するしかない。ミーシャと交友を持ってまだ日の浅いクオリアが断言できるほどのことである。――いや、ここは情熱的な芸術家の観察眼を誉めるところだろうか?
「それなのにスーミア君が判らないはずがないと思うんだ。彼は気遣いのできる人だし、それだけ人の気持ちを理解できる人でしょう? いつも誰かに声をかけられていて、楽しそうにお喋りしてるのを見ててもそれが分かるもの。なのに何故彼はミーシャの気持ちだけは解らないのか。それとも、解らない振りをしているだけなのか」
 そう言うクオリアの好奇心に満ちた目の陰に、怒りに似たものがあることをニトロは見て取った。それは無論、彼女がミーシャの『友達』であるがためのものだろう。クレイグ・スーミアも彼女と交友を持った“友達”ではあるが、共通の本への思い出から距離を縮めたミーシャと比べては贔屓も偏る。彼女は一つ息をつき、
「もし解らない振りをしているんだとしたら、それは残酷だと思う。だけど私はまだスーミア君のことをよく知らないから、勝手にこんな風に思われて彼はいい迷惑だとも思うの」
 ニトロはまた笑った。そしてグリーンティーを一口含んで少し考え、言う。
「ご期待に沿えず悪いんだけど、それは俺もよくわからないんだよ」
「そうなの?」
「このことに関しちゃ俺もクオリアと同程度の理解しかないと思う。俺もミーシャはクレイグのことが好きだと思うし、てか、てっきり二人がくっつくもんだと決め付けてたところもあるから……」
 そこでニトロは言葉を止めた。クオリアはうなずき、
「君は驚愕、私は困惑」
「そういうことかな」
「じゃあ、謎解きは無理かしら」
「少なくとも俺にはね」
 そう言いながら、ニトロはほとんど無意識にダレイに視線を移していた。クレイグの親友であり、ミーシャとも付き合いの長い彼なら何か事情を知っているだろう。
 ――が、彼はそれを話すまい。
 よっぽど話さねばならない状況であれば別であろうが、彼はそのようなことを簡単に喋るような人間ではない。それを、クオリアも知っている。だから彼女は最も親しい彼に聞くのではなく、この話をこちらに振ってきたのだ。
 彼女はサンドイッチを齧り、口元についたクリームを指で拭って舐めようとして――指の汚れを思い出してやめる。ダレイが差し出したウェットティッシュで指を拭きながら、彼女は白旗を上げたニトロからハラキリへ目を移した。その視線につられてニトロも隣に目をやる。相変わらずぼんやりしている親友は、ほとんど自動的にグリーンティーを飲んでいる。
「ハラキリはどう思う?」
 クオリアが問うと、ハラキリは緩慢にカップを置き、
「はあ」
 その生返事に動じることなくクオリアは再度問う。
「ミーシャとスーミア君のこと。ハラキリはどうしてスーミア君が気づかないのか、おかしいと思わない?」
「ボンクラだからでしょう」
 ざっくりとした返答にクオリアは面食らった。ニトロも面食らった。ダレイは一瞬どこか吹き出しそうな顔をして、ハラキリを見た。
「そうかしら」
 気勢を取り戻してクオリアが反論する。
「私は彼がボンクラだとは思わない」
「はあ」
 またも生返事だけを残してハラキリはグリーンティーを飲む。しかしクオリアは引かない。その大きな目でじっと彼を見つめて、じっと応答を待つ。
「俺もクレイグがボンクラってのとは違うと思う」
 と、ニトロもクオリアに加勢した。自分もこの件についてハラキリのまとまった見解を聞いたことがないから、ミーシャとクレイグの関係性よりも、こうなればこちらの方が興味深い。さらにはダレイまでも興味深そうにハラキリを窺っている。
 皆に注目されながらもハラキリは変わらずぼんやりとグリーンティーを飲み、何やら催眠術でも掛けてくるかのように肩をすくめ、
「ミーシャさんに関しては全くボンクラですよ。事実、そうでしょう?」
 問い返されたクオリアは、今度は反論できなかった。が、
「ミーシャに関しては?」
 タイミングよくニトロがツッコむ。話を打ち切る機を奪われたハラキリは横目にニトロを見た。ハラキリの掌握していた場が転じ、逆にハラキリが掌握される。今や確かに答えねばその先の問答で確実に窮する状況に追いやられた彼は軽く息をつき、
「クレイグ君は、ミーシャさんの自分に対する態度をそれが“当たり前”だと思っているようです」
 どうやら腹を決めたらしく、彼は続けた。
「何も悪い意味で言っているわけじゃありませんよ? 毎日激辛料理を食べている人が今日も激辛料理を食べるのを見たところで何の不自然もないということです。逆にミーシャさんの方から見れば、やはりクレイグ君の自分に対する態度もまた“当たり前”であるのでしょう」
「どういうこと?」
 眉をひそめて首を傾げるクオリアに、ハラキリは腕を組み、
「クレイグ君がキャシーさんと恋人になった時、それはちょっとしたニュースになったでしょう? クレイグ君とキャシーさんの仲を知っている者は納得し、また一部は激しく嫉妬していました。一方でクレイグ君とミーシャさんの仲の方をよく知っている者は、概ね驚いていました」
 ニトロはうなずく。クオリアはまだ交友のない頃の話に加えて、学生間の噂に疎いためにハラキリの報告が新鮮なようだ。話についていけていることを示すために彼女もうなずくのを見て、ハラキリは続ける。
「しかし『クレイグ君とミーシャさんの仲の方をよく知っている者』の中にもその展開に驚かず、むしろ納得している人々がいました。それは一様にクレイグ君とミーシャさんと同じ中学の出身者で、何よりミーシャさん自身がそうです」
 ニトロとクオリアはダレイを一瞥した。しかしダレイが表情を変えずただ黙して聞いているのを認めると、すぐにハラキリへ目を戻した。彼はマイペースに続ける。
「ということは、二人のことを高校からよく知った者は『ミーシャさんとクレイグ君はいずれくっつく』と思っていたのに、二人を中学からよく知る者は必ずしもそうではなかったということになります。おそらく拙者らが『ミーシャさんはクレイグ君が好きだ』と思うような関係は中学の頃からずっと続いていて、しかしそれは拙者らの認識とは逆に、昔馴染みの間では、やはり中学の頃から『だけどミーシャさんはクレイグ君に特別な思いを寄せているわけじゃない』ということになっていたのでしょう。つまりミーシャさんがクレイグ君をそっと見つめた時、クオリアさんがそれを“特別な視線”と見て取ったとしても、中学からの知り合いには同じそれが“当たり前な視線”としか映らない。そしてそれはクレイグ君にとっても同じことで、だから彼はミーシャさんのその態度を“当たり前”だと思っているのだし、彼女も同様だと拙者は考えるんです」
 ハラキリの説には力があるように思えた。ニトロは考え込み、クオリアは何か異論を探そうとしている。その中で二人はちらちらとダレイを窺っていた。
 しかしダレイは黙し続けている。
 そのダレイを無視するように、ハラキリが言葉を連ねる。
「おそらくは、もちろんそうなるだけの事情があったのでしょう。クレイグ君がキャシーさんと付き合い始めてからは、ミーシャさんの二人を見つめる眼差しには羨望が混じったように思われます。それなのに彼女には不思議と嫉妬は見当たらず、反面どこか自分を責めるような態度が加わったようにも感じられました。もしかしたら――中学の時に一度くらい、クレイグ君とミーシャさんは恋仲になりかけたんじゃないんですかね。先ほどはクレイグ君のことをミーシャさんに対してボンクラだとは言いましたが、流石にそうなる前には彼女の態度に特別な意味があると意識したはずですから。だけど、おそらく、ミーシャさんが怯んだ。そうでなかったとしても不恰好な行き違いがあって……そうですねえ、ミーシャさんが自分の本当の気持ちに無自覚だったからうっかり別の男子の告白を受けたとか、クレイグ君に告白したいという友人を応援してしまったとか、逆にクレイグ君が告白されたことを試しにミーシャさんに相談してしまったとか、そういうようなことがあって恋仲にはなれず、しかしそれまでの関係はそれからも崩したくなくて、そのせいでミーシャさんの“本当は特別な視線”はクレイグ君にとって“本当に特別でない視線”となってしまい、いつしか周囲にとってさえも“当たり前”にしかならなくなって、それが未だに、そして現に今もまた続けられているんじゃないか、
 流れるように、畳み掛けるように、そして最後に押し付けるように発した一音と共に、ハラキリはそこで初めてダレイを見た。つられてニトロとクオリアも振り返る。
 ――ダレイは、苦笑した。
「調べたのか?」
 どこか鋭い舌鋒にハラキリは飄々と応える。
「状況から適当に言ってみました」
「……それならむしろ恐ろしいな、お前は」
「それじゃあ?」
 クオリアがダレイを覗き込むと、彼は深く息をついた。
「全てが正解じゃあない。大外れのところもある。だが大体そういうことだ。――『当たり前』に思われるというのはきっと辛い、が、それでクレイグを責めることはできない。かといってミーシャを責めるのもな」
 ダレイの低い声は部屋に浸透し、その響きを消してもなお響き続けた。
 クオリアは温くなったグリーンティーを静かに口にし、窓の外の光を見る。
 ニトロは小さく息を吐き、ハラキリを見た。
 不恰好な行き違い――それはきっと外れていない。いや、それこそ核心だろう。その重みをこそ軽くするように口軽く推理を披露していた親友は、今やまたも我ここにあらずとばかりにぼんやりし始めている。
「その絵だけどさ」
 話題を変えようとして、ニトロはスケッチブックを目で示した。
「うん、何ッ?」
 こちらも話題を変えたかった――この話を切り出したのが自分であるがためになおさら変えたかったらしいクオリアが思わぬ勢いで振り返る。それにニトロが面食らい、面食らったニトロを見てまた面食らったクオリアが肩を震わせた、とその時、美術室の扉がいきなりガラリと開かれた。二人が揃ってそちらに目をやると、そこには数人の生徒を背景にしてフルニエが立っていた。
「おお、なんだよ」
 ニトロとクオリアの反応が急だったから驚いてしまったらしい、しかしすぐさま俺は別に驚いたわけじゃないと態度を取り繕って美術室に入ってきたフルニエは、背後の『ニトロ・ポルカト』目当ての野次馬を攻撃するようにドアをビシャリと閉めた。
「クレイグは?」
「ファミレスに行った。キャシーの友達に誘われたんだと」
 ニトロが応えると、フルニエは薄く色の入った伊達メガネの下で眉間を曇らせ、
「んだよ……。ミーシャは?」
昼連ひるれん
「精が出るな」
「大事な大会の前だからな。いつもの食堂はどうだった?」
お陰様で今日も大盛況だ」
お役に立てて何よりだよ」
 フルニエの皮肉に軽口を返してニトロは笑った。フルニエはふんと鼻を鳴らして皆の座るテーブルの横、ある意味上座となる位置にどっかと席を取ると、購買部で買って来たらしいサンドイッチを急いで食べ始めた。
「飲むか?」
 ニトロがティーポットを示す。
「何だ?」
「ハラキリ・ジジお勧めのグリーンティー。クオリアのリクエスト」
「あー、まあ、いいや。こいつには合わなそうだ」
 と、ハムカツサンドを示す。むしろ合いそうな気もするが、ニトロは強いて勧めることはしなかった。
 食事を終えたクオリアは、会話が途切れたとはいえ、ニトロが口にしたことで再び絵に意識を向け始めたらしい。立ち上がると画架に向かい、短くなった鉛筆を手にして――ふと首を傾げる。どうやら何か気に食わないところがあるようだ。
「セケル。ゼルツパかずらの資料、それと……ギルフィオとメセン、ディポナイサのを」
 クオリアが言うやスケッチブックの右にゼルツパ蔓の立体映像、左に図鑑の植物画が投射された。続いて画架の上に、いずれも同じ蔓植物つるしょくぶつの描かれた古典的・写実的・近代的な絵画が並べられる。最後にクオリアの右腕に猛禽の形をした光が止まり、小さく会釈をすると、それは飛び立つようにして姿を消した。
「んだよ、カルテジアも『オリジナル』か」
 ぼそりとフルニエが呟いた。
 ぐるりとクオリアが首を回した。
 彼女の大きな目が、再び好奇心に輝いていた。
 フルニエがぎょっとして身を引いたところに彼女が問う。
「もしかするとフルニエ君はオリジナルA.I.が嫌いなの?」
 思ったことがそのまま流れ出した、といった勢いで放たれた質問にフルニエが身を固める。クオリアはそれを見て、今度はこちらがぎょっとした。
 ニトロは思う。おそらく、クオリアは最近になって友人が増えたことが内心とても嬉しいのだ。コミュニケーションにおいて何か強い不安を抱えているようでも、特にミーシャとの交流を契機にして、その不安を抱えながらもなお友達と積極的に関わろうという節がある。そこから先ほどのミーシャとクレイグの関係性への質問も生まれたのだろうし、今もふと漏れたフルニエの態度に考えなく知的欲求をぶつけてしまったのだろう。
 そして、このクオリアにとっての失態は、ニトロにとっては非常に好都合だった。
 過日かじつの芍薬との会話を思い出した彼は、話題が潰れる前に口を開いた。
「別にフルニエは純粋人間社会主義者ヒューマニソシアルピューリストってわけじゃないよ」
「おいニトロ、あんなのと一緒にするな。俺は『オリジナル』が信用ならねぇだけだ」
「何故? とっても仲良しになれるのに」
 クオリアが心外なとばかりに言う。フルニエも言う。
「そりゃお前らが奴らの本性を知らねぇからさ」
「それじゃあフルニエ君はどう知ってるって言うの?」
「それは……」
 と、そこでフルニエが珍しく押し黙った。本来なら負けん気を前面に押し出して持論を捲くし立ててくるのに。
 その様子に、ニトロはさらに重ねようとしていた問いを慌てて飲み込んだ。もう一つ思い出したのである。芍薬は『聞カレタクナイコトナンジャナイカ』とも言っていた。――確かに、その通りだ。どうやらクオリアも同じことを感じ取ったらしい、次の句が見つからず、話頭を転じる言葉も見つからずにまごついている。そこに
「知られたくないなら話さなくていいんじゃないですかね」
 ハラキリが、刺し込んだ。
 恐れも怯みもない彼のその言葉にはフルニエは黙っていなかった。
「別にそんなんじゃねえよ」
 喧嘩腰でフルニエが身を乗り出す。ハラキリはティーポットを取り、ゴミ袋に茶葉を捨て、茶筒を開けて新たな葉を入れる。その態度にフルニエは苛立ちを見せる。
「それなら良かった」
 電気ケトルの湯をティーポットに注ぎながら、ハラキリは言う。
「芍薬やらビビック君やら『オリジナル』の話が出ると君は渋い顔をしますからね、気になっていたんですよ」
 ハラキリはティーポットの蓋を閉めた。
 フルニエは相手の科白せりふに少し驚いたようであった。やがて、その口元が奇妙に緩んだ。
 ハラキリはクオリアに顔を向け、
「お代わりは?」
「……頂くわ。『ビビック』って?」
「クレイグ君のA.I.です。まだ面識は」
「なかった」
「なかなかユニークですのでお楽しみに。フルニエ君も飲みますか?」
 先ほど彼が断ったことなどまるで知らぬようにハラキリは聞く。
「……ああ、もらう」
 ハラキリはうなずくとクオリアが空けたカップを引き寄せ、次いで黙って差し出されたダレイのカップを、それから新しく取り出した使い捨てカップを並べ、その三つにかぐわしく緑立つティーを注いでいった。一度に一杯を注ぐのではなく、少しずつ、順に、同じ濃さになるように。
 不思議な時間だった。
 茶の注がれる音が、妙に大きく聞こえた。
「あまり時間もありませんし、これくらいでいいですかね」
 カップの半ばまで注いだところでハラキリは三人にカップを渡す。そしてまた湯をティーポットに注ぎ、二番煎じを自分とニトロのカップに注いだ。
 ――ニトロは、もしや親友はこちらの意図を見抜いてこの流れを作ったのではないかと疑っていた。芍薬がフルニエの態度を気にしていたことを彼に話したことはないが、先ほど自分がフルニエの胸中を探ろうとしたことから聡くそれを察し、そうして気を利かせてくれたのでは?……ニトロは香気の揺れるカップを受け取った。普段と変わらぬハラキリからはその心情を察することはできない。
 クオリアとダレイが一口茶を含み、フルニエを見る。
 フルニエはきょうされた茶を見つめ、それを一口飲み、頬を緩めると、ふいに切り出した。
「俺の母親が親父を捨てたことは知ってるだろ?」
 ニトロ達は――彼がどこか自慢しているような調子で語ったことがあるので――知っていたが、クオリアは初耳である。目を丸くした彼女は周囲を見渡してニトロ達の態度を確かめると、身を縮めてフルニエを見つめた。彼は彼女の様子に満足気に続ける。
「まあ、前にも言った通り母親は上手くやったよ。今も社交界に出入りできてるようだし? そのうちお貴族様のご夫人にでもなってくれるかもしれねえ。それもこれもオリジナルA.I.様のお陰でな」
「どういうことだ?」
 ニトロの促しにフルニエはくいと伊達メガネを直す。薄く入った青が電灯に照らされる。そして彼は、やはりどこか自慢げに語り出した。
「離婚をしたがったのは、母親の方だ。だが原因は親父のせいになった。そうなったのは母親の命令を受けたオリジナルA.I.が俺達に秘密で有利な証拠を集め続けていたからだ。それも裁判にも使える条件を備えた上でな。親父のせいになったってのも、今になって思えば母親が上手くやったんだよ。間抜けな親父はそれに上手くはまりやがって、馬鹿な女と馬鹿な夜を過ごしやがって、そこからは母親のヒステリーの独壇場さ。大喧嘩の毎日だ。それもまたオリジナルA.I.が有利に働かせたよ。俺の乳母ナニーでもあったのによ、俺達のオリジナルA.I.でもあったのによ、その俺も捨てようって母親の味方になってマジでとことん尽くしやがった。まあなんつっても驚いたのはその『死に際』だぜ。出て行った母親マスターに自分もゴミのように捨てられたってのによ、情けない親父の八つ当たりでデリートされるってのに、笑ってやがったんだ。奴は、満足そうに、間抜けにも泣いちまった俺を見ているくせに、その口元からは気味の悪い薄ら笑いを消しやがらねえんだ。なあ、ニトロ、お前は芍薬って『オリジナルA.I.』を心底信頼してるみたいだけどな、気をつけろ。奴らはとことんエゴイストだ。奴らも自分が良けりゃ何でもいいのさ。糞の世話もした赤ん坊だった相手が泣いていても後悔もせずに笑い続けられる残酷な奴らなんだ。だから、いつか裏切られて、絶対に痛い目を見る。いや、その芍薬が憎くて言ってるんじゃねえぞ? カルテジアのもな、ハラキリもクレイグのだってそうさ。ただ心配して言ってるんだぜ、俺は、お前も、お前達も、まあ、知らねぇ仲じゃないからさ」

「――ということだったよ」
 駅前ロータリーに面したカフェのテラスで、ニトロはその話を終えた。
 彼が組んだ手を載せる丸いテーブルの向こうには、無地のユカタに深い青の帯を締めた芍薬がいる。細い骨組みの洒落た椅子に真っ直ぐ背を伸ばして腰掛けて、やはり背中に真っ直ぐ落ちるそのポニーテールの後ろには、満席のテラスと賑わう歩道とが左右に分かれて背景を描いている。
 古びたデザインの車が何台もロータリーをぐるりと回り、家族連れや恋人達がレンガ造りの建物に面してウィンドウショッピングを楽しんでいた。昼下がりのカフェは忙しそうに動き回るスタッフとゆったり食後の時を過ごす客とが実に対照的である。
 そしてそれらは、全て、無音の中にある。
 ニトロの隣の席に座る老紳士が新聞――紙の新聞――を大きく広げた音も、そこへ軽食を届けたウェイターの足音もない。車道にたなびく土煙、歩行者にベルを鳴らしているらしい自転車、駄々をこねる子も、駄々っ子に困る親の顔も、何もかもが音の無い世界で生きている。
 芍薬は伏していた切れ長の目を、そっと上げた。
 マスターはこちらを見つめていた。
「なるほどね」
 芍薬は吐息混じりに、ほとんど呟くようにそう言った。
 深い理解、その実感が一言に込められていた。
 背もたれに体重をかけ、ニトロは腕を組む。
「だけど、それだけがフルニエの気持ちじゃないと思うんだけどね」
「そうなのかい?」
 ニトロは顔を上向けた。
「ああ言いながら結局フルニエは……『オリジナル』を嫌い切れてない」
「御意。アタシもそう思う」
乳母ナニーのことが、本当に好きだったんだろうな」
「……」
 芍薬は何も言わず、ニトロはテラスに張り出す日除け屋根オーニングを越えて空を見る。
 しばしの沈黙の後、彼は視線を芍薬へと落とし、
「芍薬は、笑える?」
「そういう風に『死ぬ』時にかい?」
 ニトロはうなずいた。
 芍薬は少し考えた後、首を振った。
「わからない。笑えるかどうかはね。だけど――フルニエ殿は正しいよ、アタシ達は残酷なエゴイストだ。アタシがそのオリジナルA.I.と同じ立場に立ったとしても、絶対に後悔はしない。だから笑うかどうかは別にして、ただ満足であることは間違いないよ」
「何故?」
 率直な問いに、芍薬はまた少し考えた後、マスターをじっと見つめた。
 彼はその視線から目を逸らさない。
 芍薬は言う。
「確認するけど、件のオリジナルA.I.のマスターは、フルニエ殿の母君だったんだよね?」
「そうだと思う」
「それで、そのマスターは幸せになったんだろう? そのマスターの主観でさ、その時は」
「……そうだ、と思う」
「それならやっぱりアタシの結論は変わらない。主様、そのオリジナルA.I.は、マスターに尽くし切ったんだ。そして自分の『命』を使ってマスターに幸福を贈れたんだ。それは幸せなことだよ。もちろん至善至福の『死』ではないけれど、それでも最善の終わり方の一つなのさ」
「マスターに捨てられたのに?」
「違うよ、捨てられたんじゃない、必要を全うしたんだ」
「そう解釈するんだ」
「御意」
 断言した芍薬は真っ直ぐな目をしている。その口元にはほのかに微笑がある。
「そっか」
 ニトロはうなずき、やや目を落とした後、つぶやいた。
「……でも――必要、か」
 芍薬がうなずく。
「それが存在意義だからね」
 ニトロは目を上げて芍薬の黒く澄んだ瞳を見た。
「よく言われることだけど」
「なんだい?」
「それに縛られることは、苦しくないの?」
「人間は『自由な魂』を持っているからそう思うんだろうね」
 即座に返されたその言葉に、ニトロは苦笑した。
「その“自由”は、必ずしも良い意味じゃないね?」
 人間の問いに、オリジナルA.I.は笑顔で応じる。
 ――人間も、笑む。
 二人の周囲では無音のまま人々が活動し続けていた。サウンドのオン/オフに隔たれた一つの世界。随分前に届けられたカフェオレはいつまでも温かい。
 丸みのある白磁のカップを手にしたニトロは一口喉を潤し、今日知ったこと、考えたこと、考えさせられたこと、これから考えたいこと、それら全てを一つにまとめるように息をつくと、背筋を伸ばして対面に座る芍薬へ言った。
「そろそろ始めようかな」
「承諾」
 芍薬がうなずいたところに慌ててニトロはまた言った。
「ああそれで、フルニエへの対応だけどさ、これからもこれまで通り普通にしてくれる? さっきの話を聞いて、もしかしたらやりづらくなったかもしれないけど」
「そんなことはないよ。感情のオンオフなんてアタシらにはそれこそ朝飯前、なんならこの記憶メモリを消して本当に『聞かなかったこと』にもできるんだ」
「――ああ、そういやそっか」
 それは当たり前なことなのに、うっかりしていたニトロは自嘲気味に苦笑し、
「消す必要はないけど……まあ方法は何にしても、そういうことでよろしく頼むよ」
「承諾」
 改めて芍薬がうなずくと、瞬間、世界が騒がしくなった。
 車の走行音、雑踏、食器の擦れる音、溢れる音・音・音らを押し分けて聞こえてくるのは、人々の声。
 だが、その声の中にニトロの馴染んだ響きは無い。
 それらの全ては銀河共通語で語られていた。
 町の看板にもアデムメデスの文字は一つもない。このカフェのメニューにも。
 ニトロの反応を確認すると芍薬は立ち上がり、彼を力づけるように言った。
「それじゃあ主様、ちゃんとアタシを見つけておくれね」
 その言葉、その声が消えると共に、芍薬の装束がその身と薄れ、さらりと揺れたポニーテールもまた空に尾を引いて消えていく。
「……」
 一人カフェテラスに残されたニトロは、しばらくどことなしに景色を眺めていた。
 やがて、誰かが声をかけてくる。
《こんにちは》
 振り返ると、隣席の老紳士がこちらに笑顔を向けていた。
《   ですかな?》
《失礼、もう一度お願いします》
 ニトロが銀河共通語で返すと、老紳士はゆっくりと、
《ご旅行ですかな?》
 ニトロは首を振った。胸ポケットに手をやる。そこには期待した通りの物があった。
《私は人を探しています》
 基本的な文型を使って言いながら、取り出した写真を老紳士に見せる。
《彼女はこの町にいます。彼女の名前は芍薬です。どこに彼女はいますか?――いえ――どこに彼女がいるか、あなたは知っていますか?》
《申し訳ない、知りません》
《そうですか。ありがとうございます》
《無事に見つかるよう、祈っています》
《ありがとうございます》
 老紳士は新聞に目を戻した。
 ニトロはやはり銀河共通語でウェイターを呼び、支払いを済ませるとカフェを出た。
 駅に周辺案内図がある。
 それを見に行くと『行動可能範囲』は存外広い。どうやら芍薬はなかなかハードな設定をしていってくれたらしい。この地図の中のどこかにいる芍薬を見つけ出すには、果たして何人と話さなくてはならないだろう。
 ニトロはロータリーの先に広がる街へ体を向けた。
 アクションアドベンチャーゲーム風の他言語習得のための仮想世界。だが、今は現実。埃っぽい空気だ。歩き回れば汗も流れよう。
「さて」
 思わずアデムメデス語で呟いて、それを打ち消すようにニトロは咳払いをした。
 そして息を吸い、力を込めて探索の一歩を踏み出す。
 空には太陽が眩しく輝いていた。

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