一つ言葉

(第五部『2.鏡の中の』の後)

 アデムメデスの貴族に生まれついた者は、大抵一度は王家の一員になることを夢に見る。凛々しい王子、美しい王女、その恋人になれれば、ゆくゆくはその伴侶となれれば……しかしそれはあまりに畏れ多く、夢のまた夢。
 だから大人になるに従って、夢は王家の一員になることよりも王家の一員に直接仕えることへと形を変える。
 王家運営組織の構成員、さらには家庭教師、側仕え、侍従・侍女に近衛兵、そして執事――その御身のよりお近くで働くことができればそれだけ幸せだ。必ずや命を賭して尽くしてみせよう。その御方はきっとわたしを心にお留めくださる。その名誉、その栄光! いいや、貴族でなくたって多くの者がそう夢を見る。
 だからこそ、東大陸のクレプス-ゼルロン山脈の一角、寂れたルッドラン地方に住むたかが田舎貴族のいち令嬢が第二王位継承者の執事に大抜擢された際には、アデムメデスに小さからぬ激震が走った。
 それはまさに奇跡の大出世。
 セイラ・ルッド・ヒューラン。
 その時から彼女は郷土の誇りとなった。それまで他所よそに誇れるものといえば希少なカロルヤギくらいしかなかった土地の人々は、こぞって彼女を己の身内がごとくに自慢した。
 そしてまた彼女はその時から国中の社交界で激しい羨望と嫉妬の的ともなった。
 その羨望と嫉妬は第二王位継承者の存在感が薄かったこともあって全国的には時と共に薄れていったが、一方で東大陸の社交界ではルッドラン地方を擁するハイアン領を中心にいつまでも薄れることはなく、むしろ年々濃縮されていた。特に彼女がすぐに解雇されると踏んでいた“目上”の者達は面白くない。いつまでも若者達の尊敬の目が“格下”にばかり向けられるのにも不愉快が増すばかりである。
 それ故、過日の『劣り姫の変』の折、それが“祭”ではなく“事件”と発覚するや東大陸の社交界ではセイラ・ルッド・ヒューランに対する囂々ごうごうたる非難が巻き起こった。命を賭してもお助けすべき主人を窮地に追いやった無能な執事! 過熱する誹謗中傷は凄まじく、もしその時『無能な執事』がハイアン領の応接室サロンに現れていたら義憤に逆上のぼせた者に殴り倒されていたことだろう。
 しかし人の世はまことに移ろいやすい。
 事件の後、謹慎を申し渡された姫君が執事の故郷にやってくるとなると、一転してつい先日まで毒を吐いていた同じ口からセイラ・ルッド・ヒューランを歓迎する声がほとばしった。
 なにしろ『劣り姫の変』により再評価されることになったミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――その人となりを語るに欠かせぬ人物として執事の評価も同時に改められ、無能に思えた彼女が実は王女を支え続けていたという事実によってその価値が瞬く間に上昇していたのである。それもいったん地の底の奥底にまで落ちていたからこそ、反動は凄まじかった。
 故郷に戻ってきたセイラは仰天した。
 請願書、嘆願書、招待状、東大陸各地から届けられたその類の目のくらむような数!
 いや、数の問題だけなら彼女が驚くことはなかったろう。
 ミリュウ姫への表敬訪問を希望する者については当然予想していた。
 しかし、自分自身への面会を希望する者がいるとまでは全く予期していなかった。
 しかもそのあまりの多さときたら!
 ルッドラン地方の社交界――といっても華やかなものではなく、ほとんど町内会のような催しで親しくしていた同じ“田舎貴族”の娘達が招待状を送ってくることは旧交を温める意味もあって理解できる。が、一・二度挨拶を交わした程度の都会の貴族、それどころか全く面識すらないお歴々、さらにはハイアン領主の母君までもが使者に『直筆の手紙』を持参させてくるとはとても信じられなかった。そんなことをされるような身分ではないと慌ててしまった。
 すると、いつまで経っても“田舎貴族であるという自覚”の抜けぬ執事を見かねたミリュウが、
「挨拶よ? セイラ。別に取って食われるわけじゃないんだから、こう、がおーって」
 おどけ混じりの主人に笑わされて気の楽になったセイラは、父の伯爵とも相談の上、自邸へのお返しの招待が可能な限りの人々の招待を受け、他とは社交界の催しで会うことを約束した。とはいえそのような華やかな場へ行くためには行動範囲を制限されているミリュウを邸に残して一人出かけねばならない。それでセイラには最後まで抵抗があったのだが、当の王女が強く奨励してきたのに押し負け、まずは東副王都イスカルラに二日、それからハイアン領都にも二日間滞在し、その間に催されたパーティーや茶会、領主の母君のサロンなどを休む間もなく飛び回ってきた。
 そこでセイラがまた驚かされたのが、周囲の己に対する目であった。
 昔は誰にも注目されることのなかったセイラ・ルッド・ヒューランに、誰もがじっと眼差しを向けていた。その多くには賞賛があり、それから羨望と好奇、媚びと追従、そして隠しきれぬ激しい嫉妬から不気味な敵意まで、きっと以前の自分では気づくことのなかったであろう感情が華やかな光の中で色を乱し、穏やかな笑顔と快い談話の陰にちらと奇妙な花を咲かせては散っていた。
 それは、一種の発見であった。
 その発見は彼女に強烈な自覚をもたらし、彼女の心を鋭く引き締めた。
 そうだ、己は敬愛するミリュウ姫の執事である。己の失態は、ひいては愛する『妹』の恥となる。
 セイラ・ルッド・ヒューランは社交界を堂々と渡り歩いた。
 諸所で礼節を尽くし、誠実に対応した。
 田舎貴族の面影などどこにも無く、王女の執事として高邁に、しかし傲慢になることを繊細に避け、再会した人々が目を瞠るほど立場の作る衣を立派に着こなしてきた。
 ――つもりだった。
 帰路を急ぐ飛行車スカイカーの中、セイラはふと不安に襲われた。
 疲労の引き連れてきた弱気が彼女を落ち着かせなかった。
 ダンスのステップは間違っていなかったか? 茶会の作法に間違いはなかったか? サロンでは機知ウィットに富んでいたろうか。脳裡に溢れる記憶は映画の一コマ一コマをチェックするように何度も現れては消え、消えては現れ、ぐったりと疲れているのに彼女をいつまでも眠らせてくれなかった。
 そんなセイラを安心させたのは、ルッド・ヒューラン邸に戻ってきた翌日、約束通り訪問してきた昔馴染みの子爵夫人の笑顔であった。
「まァまァわたくしの可愛い“リンゴちゃん”。さあ、このおばさんの頬っぺにキスして頂戴な」
 夫人は赤ん坊の頃から知るセイラの成功を心から喜んでいた。ハイアン領社交界のみならず電脳社交界CPSでも交友関係の広い“おばさん”の賞賛は、それだけに確実な保証となった。後日、お返しの招待状を送った領主の母君からの返事も恐ろしく早く届いた。その文面にも世辞を割り引いてなお十分な成果が表れていた。何よりセイラが嬉しかったのは、それをミリュウが我が事以上に喜んでくれたことであった。
 その一方でセイラは、“姪みたいな子”の成功にのぼせた子爵夫人がルッドラン近隣に住む婦女子にマナーや立ち居振る舞いを教える講習会を開くよう提案(というよりも実質強要)してきたことに困ってしまった。
 すぐに結論は出せないと、その場での返答は控えた。
 本音を言えば即座に断りを入れたかったが、断るにも流儀というものがある。
 それに子爵夫人には様々な恩があった。個人的にも、ルッド・ヒューラン家としても。それを考慮すればその程度の提案を断ることなどできるはずもない。が、だとしても自分にはミリュウ様のお世話という重要な仕事がある。もうそれに専念したい。“おばさん”を納得させるには骨が折れるだろうが、それでもセイラは断固として謝絶しようと心を決めた。
 そうして頃合を見計らって断りを入れようとした矢先、彼女はふいに父のルッド・ヒューラン卿に書斎へ呼び出された。
 何用かと思えば件の講習会についてである。
 流石の子爵夫人、堅実な根回し。
 時代と共に在りし日の権勢を失ってきたルッド・ヒューラン家、その当代伯爵は貴族として社会に貢献する意義を熱っぽく持ち出しながら講師を引き受けるよう勧めてきた。普段は遠く離れて暮らす父のその思いを無下にすることは、セイラには苦しい。経済面からろくに人も雇えず、雇用を生み出すこともできない――といって地域を振興するにも力の及ばぬ父の密かな苦悩も知っている。心の揺らいだ彼女が思い悩んでいると、さらに事情を知った王女が微笑み言った。
「一緒にダンスやテーブルマナーを練習したことを思い出すわ。だからセイラが教えるということは、私が教えることと同じになるのでしょうね」
 セイラは講師を引き受けることにした。
 しかし、一口にマナーや立ち居振る舞いと言っても何を課題とすればよいのだろう? 例えばテーブルマナーにしても、ディナーの際、ティータイムの際と場面によって求められるものが違ってくる。普段からの所作ともなれば、それこそ専門の教師と行動を共にして年単位で習得するものだ。短期間ではとても手に負えない。
 そこで子爵夫人に了承の返事方々相談してみると、何のことはない、ある程度それらの基本を身につけた相手をチェックして、もし王都の作法との間にズレがあったら――つまり何かしら田舎臭い癖があったら取り除いてやってくれればそれでよいという。難しく考えなくていい。そもそも『王女の執事に教えを受けた』という思い出作りの意味合いの方が強いのだから、と“おばさん”は笑った。
 やるからには! と張り切っていたセイラはいくらか気落ちしたものの、それでもその講習は決して無意味にはなるまいと気を取り直した。
 なにしろ昔の自分がそうだった。
 伯爵の娘として躾を受け、こちらでは十分淑女レディとして通用していたにもかかわらず、いざティディア様の監督にあっては不備ばかりであったのである。
 王都や副王都セドカルラにおける上流社会の洗練さはこちらのものとは比較にならなかった。
 そう、子爵夫人の『田舎臭い』という表現は的を外していない。
 もちろんそれも風土の育む個性ではあるのだろう。それはそれで何ら恥ずべきものではないとも思う。
 だが、この片田舎から見る王都の輝きはやはり眩しい。
 その眩しさの一欠片でも身に付けられることは……やはり、憧れなのだ。
 かくしてルッドラン地方の出世頭、郷土の誇り、セイラ・ルッド・ヒューランによるマナー講習会は大好評を博した。
 何十人もの婦女子――子爵夫人の推薦他、身分を問わず応募要綱を満たして抽選に通った女性達がルッド・ヒューラン邸、あるいはその近隣の館において王女の執事から教えを受けた。自らも苦労したからだろうか、セイラの教え方は分かりやすく、また時に方言を丸出しにして緊張感を解くやり方が親しみを呼び、教わる側の吸収も早かった。マナーにおいては王都から招いた講師などによってあちらと変わりない作法が身についていても、地元民だからこそ分かる発音の癖への注意は毎度驚きを呼んだ。訛りを引き起こしやすい単語など、実地で経験してきたセイラの失敗談に慄く者もいた。だが、その知識の共有こそが講習会最大の利益となり、一方で長年王女の傍にいながら故郷を未だに大切に思う彼女の姿勢によって、王都への憧れだけではなく、むしろ郷土愛をくすぐられる者も多かったのである。
 そしてその愛の象徴としていつも語られるのが、ルッドランティーであった。
「ミスコのおばあさんが言っていたわ。最近の若いモンは本当のルッドランティーの淹れ方を知らないって」
 ミリュウがそっと挟むように手を添えるマグカップの中で、セイラの淹れたルッドランティーが馥郁ふくいくと香っている。部屋着に身を包んだ王女はグッと鼻の付け根に皺を寄せてみせ、
あもうなカいけね、ヘルシーだからんガ砂糖さとー抜きなてタダんちゃミルグ煮だ。インスタントなどもってン他だ」
 ミスコのおばあさんはセイラもよくよく知っている。あの老婆はまったくそのように言うだろう。セイラは笑いつつも眉根を寄せて、
「あまり真似をされては感染ってしまいますよ?」
 そのモノマネはイントネーションに至るまで完璧だった。ミリュウは小さく笑って小首を傾げる。
「最近、感染うつる前に習得しちゃおうって思っているの」
「はぁ、習得ですか?」
「それなら意識的に使えるでしょう? そうすれば無意識に出ちゃうこともない。だから、安心して?」
 セイラは幾分訝しげながらも、ルッドランティーの味に目を細める主人へうなずきを返す。するとミリュウはマグカップから離した唇を悪戯っぽく歪め、
「でもね、ここで暮らしているうちに愛着も出てきたから、近頃は感染るのなら感染ってもいいかな? って思っているの」
 セイラは慌てた。
「いげません!」
 思わず訛りながら、彼女は続ける。
「そらミリュウ様が――」
 と、そこでミリュウがやけにニコニコしている様を見て、やっと自身の訛りに気づいたセイラはこほんと咳払いし、
「ミリュウ様がここに愛着を感じて下さることは光栄ですし、とても嬉しいことですが、ミリュウ様にはミリュウ様に相応しいお言葉がございます。それをまさか失するようなことともなれば、私はティディア様にとても顔向けが出来ません」
 執事として真っ当なことを述べるセイラをミリュウは穏やかに見つめていた。姉の名が出るとその頬には微笑が浮かび、その微笑に、どうにもセイラは負けてしまう。
「……本当ほんど、えら嬉しンだスがね」
「気ぃづけるでン大丈夫でじょ
 セイラは笑った。大口を開けて。ミリュウも笑う。お腹を押さえて。
「――それで、ミスコのおばあさんだけどね」
 涙を拭いながらミリュウが言う。
「あのお転婆だったセイラが本当に偉くなって、伝統的な淹れ方を広めてくれて、本当に嬉しいんだって」
 刹那、セイラの胸が熱くなる。ファミリーネームと同じ『ミスコ』という店を営むあのばあさんは、自分が子どもの頃からばあさんだった。気難しいくせに人の世話を焼きたがり、幼い頃は厄介な“敵”で、今でも手のかかる相手だが、それでも彼女にそう言ってもらえたのならとても嬉しい。いつか貰った飴玉が、ふと思い出される。
「そうですか。あのばあさんがそんなことを」
 マグカップの中のルッドランティーを見つめるセイラを、ミリュウは見つめる。感慨に耽っていたセイラはやおら小さく首を振り、己を見つめていた主人に微笑みを見せた。
「しかし、それもこれもミリュウ様が好いて下さったお陰です」
「それもセイラが淹れてくれたものをね」
 ミリュウは朗らかである。その目は純粋に執事の働きを見つめている。セイラはまた目を伏せた。涙がじわりと浮かぶ。最近とみに涙もろくなったと言われる彼女は、それを誤魔化すように視線を窓にやった。
 夜。
 明かりの灯るこの部屋は、ルッド・ヒューラン邸で一番の客室である。先祖の遺してくれた立派な調度品。手の込んだ装飾の数々。物心がついてからのセイラは、いつしかこれらを見る度に「キチンとしなければ」と思わされてきた。
 その特別な部屋で、今、彼女は主人と二人でお茶を嗜んでいる。
「……ミスコのばあさんに怒鳴られていた頃は、まさか自分が『王女の執事』になるなどとは夢にも思っていませんでした」
 居住まいを正して、セイラはミリュウを見る。王女の目は真っ直ぐこちらに向けられている。
「もちろん『お姫様と友達になれたら』などと子どもらしく思ったことはありますが、そのような夢、歳が長じてからはベッドの中ですら見たことはありませんでした。時に友人と王都への憧れを語り合い、そこで王家のどなた様かとお目にかかれたらと口にすることはあっても、それはただ馬鹿馬鹿しく笑い合うための物種ものぐさ――まるで飛行機もない大昔に月へ行けたらと語り合うようなものでした」
 ミリュウはうなずく。セイラは一つ息を吸い、
「私はこの山で育ち、若者の常と申しましょうか、この寂しい田舎を厭うこともありましたが、それでもここで一生を過ごすのだろうと感じていました。それは諦めではなく、口ではどう言おうとも、結局この土地を愛していたからでしょう。心に決めた殿方がいたわけではありませんが、おそらく結婚を機に貴族であることもなくなり、ミスコのばあさんのようにこの山を離れることもなく、そしてここが衰退していくのと同じように老いていく……」
 窓の外には満天の星。
 星影に照らされる山肌にはまた星のように小さな光が幾つもちらついている。
 しばらく前までは美しい景色の望めるこの客室を王女が使っていた。しかし時が経つにつれて予想以上に『ミリュウ姫』を求める人々が押し寄せてきたことにより、現在は警備上の問題から中庭に面したセイラの部屋を王女が使い、替わってセイラがこの部屋に入っている。山に散開する厳しい光は異常のないことを執事に知らせていた。
「それが今や、東副王都イスカルラでも領都でも、以前の私ではお目通りも容易ではなかった方々とご挨拶を交わし、さらにはおこがましくも夢に溢れたお嬢さま方を相手に講習などをさせていただいています」
 しばし口をつぐんでから彼女は続けた、言葉に先立って漏れた吐息が部屋に沁み入る。
「不思議なものですねぇ、ミリュウ様。夢にすら見たことのなかった現実は、やはりどこか夢のように思えて、私は、時々恐ろしくなるのです。本当の私はベッドの中にいて、本当ならカロルヤギのちちの出の悪さに悩んで、もしかしたら出産間近の馬の様子が気にかかってうまく眠れず、そうしてふと気がついたら東の尾根に朝日が差していて、私は今にもあの後光を背負う稜線の輝き、我らが愛する『銀の背』を見るのではないのかと思えてならないのです。
 ですが、そうしたらどうでしょう? 夢から覚めた私はミリュウ様のお世話ができないのです。こうしてルッドランティーを淹れて差し上げられることもなく、それどころか、本物の夢が目覚めてすぐに忘れさられてしまうように、やはり私もこんなことはもう夢にも思うことなく、せわしくベッドから飛び出ては我が子の食事を用意しにいくのです。……もちろん、それはそれでとても幸せなことでしょう。しかし今の私にはその幸せこそ眠りの中で見るべき夢。もはやそのような夢は、月に行けるはずもない人間の語る月の世界のように、存在も実現もしないからこそ美しく幸せな夢なのです。
 ミリュウ様、私にはもう、夢にすら見たことのなかったこの現実で生きることだけが本物となっているのです。なのに私は、それが不思議でならないのです」
 地上は様々に移ろっている。時代に伴う土地の盛衰も、自然の成り行きによる地形の変化も。だが、太古に描かれた星座は今も変わらず天にある。ミリュウは和やかにセイラを見つめている。セイラは、ふ、と笑った。
「故郷にいると、どうも感傷的になっていけませんねぇ。最近は昔馴染みともよく会いましたから、余計に昔と今とを比べてばかりで……」
 セイラはルッドランティーを一口含んだ。ミリュウも同じように飲む。互いにマグカップを置き、セイラが言った。
「覚えておられますでしょうか。初めてお会いした時、ミリュウ様が私にかけて下さったお言葉を」
 ミリュウは首を傾げた。
「覚えている、って言いたいところだけど、どのことかしら。あの時はあなたと色々お話したわ」
 するとセイラは目を見開いた。いきなりのことにミリュウはぎょっとしたが、目を見開いたままセイラがぱちぱちと瞬きをしてみせたことで気がついた。
 王女は背中を丸め、少し見上げるように相手の顔を覗き込み、言った。
「あなたは目がとても綺麗なのね」
 かつての新米執事は応えた。
「はい、私は視力がいいのです」
 二人はそのままじっと目を見合わせ、やおら同時に吹き出した。
「あの時もミリュウ様はお笑いになりましたね!」
「だっておかしかったんだもの。セイラだって笑っていたじゃない?」
「はい、はい、そして嬉しかったのです。ミリュウ様、私はあの時、ミリュウ様にお仕えできることを初めて幸せに感じたのですよ。それを思い出しますとねぇ、ああ、またいけませんねぇ、涙もろくなっちゃって」
 ハンカチを取り出して涙を拭い、セイラは続ける。
「今日も可愛らしいお嬢さま方に歩き方を教えてなんぞいますとね、部屋の中を走り回る幼い自分がふと目に映るのです。何も知らずにお姫様ごっこなんかして、弟に命令している小さなセイラがそこにいるのですよ。私はそのプリンセス気取りの小さなセイラにこそ教えたくてたまらなくなるのです、ミリュウ様。――セイラ、お前は将来、本物のお姫様にお仕えするんだよ。そしてそれは自分がお姫様になるよりずっと幸せなことなんだよ、と」
 ミリュウは忠実な執事であり、優しい『姉』でもあるセイラを穏やかに見つめる。昔から変わらない彼女の丸みのある頬はリンゴのように赤らんでいる。
「ねえ、セイラ、今夜はあなたの子どもの頃のお話、もっと聞かせて?」
 マグカップの縁に指を触れ、ミリュウは訊ねる。
「そうだ、あの話をもう一度聞きたいな。家出したセイラがたくさんの流れ星を見た話。あれはどの辺りで見たの?」
「そのお話ですか。ではミリュウ様、こちらへいらっしゃってくださいませ」
 席を立ったセイラが窓辺へミリュウを誘う。ミリュウはマグカップを手にそちらへ向かった。セイラが窓枠の片側に、ミリュウも逆の側に腰を寄せ、
「ちょうどあの辺りですよ、ほら、ぼんやり白く照らされているあの岩の」
 長い時を間に置いても未だ忘れぬ山を指差し、セイラは語る。
 その双眸もまた澄んだ夜空から降る星明りに照らされている。
 それをミリュウはまた幼い頃のように綺麗だと思い、そして指し示された辺りに見当を付けると、『姉』が感情一杯に語る昔話の中へ心地良く入り込んでいった。

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