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 ニトロが部屋からいなくなると、パトネトはテーブルを離れ、パタパタとスリッパを鳴らしてセミオープンキッチンの内側に入り、ジューサーを用意する芍薬の傍らに立った。
 果物ナイフを扱う芍薬は、自動皮むき機もかくやとばかりにオレンジの皮をむく。あっという間に裸にした実をジューサーに放り込むと、後は容器に果汁が搾り出されるのを待つだけだ。
 一連の作業を興奮気味に見つめていたパトネトは、残った皮を冷蔵庫にしまう芍薬へ不思議そうに訊ねた。
「捨てないの?」
「後デ使ウンダ」
「何に?」
 クッキーを用意しながら芍薬は答える。
「色々サ。デモ多分、糖菓ピールニスルカナ」
「どうやって!?」
「細ク切ッテ、砂糖デ煮テ、乾カシテ――ソンナ感ジダヨ」
「今度、それ食べられる?」
「……」
 パトネトは頬を期待に染めている。
「あたしニハ答エラレナイヨ」
 芍薬はそれだけを言って、来客用のグラスをすすぐ。
 パトネトはずっと芍薬を見上げていた。相手の曖昧な答えに不満を示すわけでもなく、ただ見上げ続けていた。
 そして彼は、ふいに、綺麗に拭いた来客用のグラスに代用氷アイスクリスタルを入れる芍薬のポニーテールへ手を伸ばした。その時芍薬が体の向きを変えた。毛先が振れて彼の指先はむなしく空に触れ、希望を得なかった手もむなしく下ろされる。
「……」
 芍薬の動作は自然であった。が、それが意図的な回避行動であることを悟ったパトネトは、ジューサーから容器を外して瑞々しい果汁をグラスに注ぐ芍薬をじっと見つめた。
「その機体、すごいよね」
 やや赤みのあるオレンジ色に満たされたグラスと、様々なクッキーを載せた大皿を手に芍薬はテーブルへ向かう。パトネトがついていく。芍薬はクッキーの皿を客の座っていた席に寄せて置き、次いでコースターを置き、その上にグラスを置いた。
 パトネトは再び椅子に座り、芍薬の差し出したストローを受け取った。そうしながらもその双眸は芍薬の目を捉えていた。
 芍薬は、言った。
「ソレニハ答エナイ。気ヅイタヨウダカラ言ウケド、サッキミタイニ勝手ニ触レヨウトスルコトモ許サナイ」
「簡単に『情報』は渡さない?」
「ドンナ些細ナコトカラ分析サレルカ解ラナイカラネ」
「そんなに僕のことを評価してくれてるんだ」
 嬉しそうに目を細めるパトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナを、芍薬はじっと見つめる。
 ――ふと、あの『霊廟』の地下での彼とのやり取りが思い出された。
「評価トイウヨリ警戒ダネ。
 ソレニアアイウコトハ人間デハ失礼ニ当タル。気ヲツケナヨ、王子様」
 芍薬は言った、微笑しながら。パトネトは初め興味深げに、それから少し驚いたように芍薬を見つめ、やがて、にこりと笑った。
「芍薬は、いい子だね」
「イイ子!?」
 思わぬ言葉に芍薬は思わず大声を上げてしまった。
「誰がいい子だって?」
 そこにニトロが戻ってきた。
 ゆったりとしたルームウェアに着替え、湿った髪を無造作に手櫛で整えてそこに佇む彼は、話の内容が全く解っていない顔をしている。そんなマスターへ丸まったままの目を向けた芍薬は、言葉に詰まった。パトネトに誉められたことには驚いたが、反面嬉しい気持ちもある。他方嬉しいと思うことに戸惑いもあるし、嬉しいと思っていいのかという内省もあり、そこに嬉しいと思ってはいけないのかという問答的葛藤が起こる。さらに並行してこのことをマスターに言うべきかどうかと迷い、言えばマスターに笑われてしまうのではと逡巡が生じる。笑われるのはちょっと嫌だ。よしんば笑われるのはいいとしても笑われた後の対応にはきっと困ってしまう。そもそもコレをどのようにマスターに伝えよう。初めから? パトネトの行動も含めて? 一から十まで? それとも端折って? 端折ったら意味が解らなくなるのでは? 齢七つの王子に『いい子』と言われるのは心外のような気もする。しかし人間とオリジナルA.I.の過ごす時間は共通しながらも共通していないのだから、そもそもコレは心外だとかどうとかこだわるようなものでもないと思う、思って、さればどう言うべきかと分岐に至らずループに入って――総じて、言葉に詰まる。
「珍しいね、芍薬がそんなになるのは」
 肩を揺らして笑うニトロの声に芍薬はハッと“我に返った”。
 しかも気がつけば両手を彼に向けて差し出してわしわしと指を動かしている。――モニター上なら周囲に困惑のアニメーションを伴って表現されるべき動作をうっかりアンドロイドにも適用してしまったようだ。平面なら愛嬌にもなろうが立体ではひたすら滑稽に思えてならない。カッコワルイ。芍薬は慌てて手を腰の後ろに回して、背を伸ばした。伸ばしすぎて反らしてしまった。すると何か現状とは関係のないはずの情報が記憶メモリと関連付けられたのか急に額が気にかかり、思い出した。そうだ、ハチマキ。そういえばハチマキを締めたままだった。
 芍薬は慌ててハチマキを外した。
 それをエプロンのポケットに突っ込みながら言う。
「主様ハ何ヲ飲ムンダイッ?」
「バナナミルクを頼むよ」
「承諾ッ」
 いそいそと芍薬はキッチンに入っていく。
 ニトロは口元の笑みをそのままにパトネトの対面に座った。
 パトネトはこちらを上目遣いに見つめている。ニトロは『ミリー』を思い出す。あの時も、異星いこくの果物とのブレンドながら、オレンジジュースだった。
「美味しい?」
 パトネトはうなずいた。
 ニトロは中央に赤いジャムの乗ったクッキーを一つ取って齧り、
「そう。芍薬は『いい子』なんだよ」
 キッチンから大きな音が鳴る。
 驚いたパトネトがそちらへ振り向く。
 ニトロはクッキーの残りを口に放り込む。
 こちらに向き直ったパトネトはニトロの顔を見て、何を思ったのかほころぶように微笑むとチョコチップクッキーを手に取った。
 クッキーを齧るパトネトの姿は上品で、自然だ。見ていて心地の良い所作である。
 ニトロは特に彼に話しかけようとはしなかった。
 小さな王子様も何か話さねばならないとは思っていないらしい、会話がなくとも居心地の悪そうな素振りもなく、むしろとても上機嫌にジュースを飲み、度々部屋の中を見回しては見慣れぬ景色を楽しんで、室内の鉢やキッチンカウンターに置かれた調味料などに好奇心を閃かせている。
 ニトロの手前にバナナ(と運動後に最適な栄養入りの)ミルクのコップが置かれた。それを給仕した芍薬はそのままトレーニングマットの片付けにかかる。
 その様子をパトネトが見つめている。
 そのパトネトを、ニトロは見る。
 両親よりも姉に似ている弟君の目の中に、ふと、もう一人の姉の面影が差す。その優しい影にニトロは感傷にも似た思いを抱いた。彼女は、パティの大好きな姉は今、裁きを待っている。
「あ、そうだ!」
 パトネトが突然声を上げ、何か慌てるようにニトロを見つめた。
「ニトロ君、お夕飯はどうするの?」
 彼の真意を察してニトロは思わず笑った。
作るよ。今日は鶏肉とキノコのクリームパスタなんだ」
「あの……」
 流石にこれ以上の“勝手”を重ねることに気が咎めたのか、言いよどむパトネトにニトロは小さなうなずきを見せ、
「材料は足りるかな」
「ソレナラ買イ出シニ追加ヲ頼マナイト」
 芍薬へ顔を向けたニトロの目の端で、パトネトがぎょっとしていた。それに気づいたニトロは、もう一つ気づいて彼に向き直った。
「夕飯は一緒でも大丈夫だよ。だけど、もう一人客が来るんだ」
「いつ?」
「30分後くらいかな?」
「――チョット遅レテルミタイダネ、追加モ頼ムナラ1時間ハ見タ方ガイイヨ」
「ああ、大丈夫、信頼できる相手だか……」
 ニトロは最後まで言うことができなかった。
 パトネトがえらい勢いで残りのジュースを飲み干していく。ズゴゴッとストローが鳴った。氷のようには溶けないクリスタルが冷やかにグラスに残る。ジュースを飲み干した彼はぴょんと椅子を降り、そこではたと気づいたように姿勢を正した。
「ご馳走さまでした」
 ぺこり、ぺこりと順に頭を下げられ、ニトロと芍薬はまた当惑してしまった。
 パトネトが極度の人見知りであることは知っている。だが相手が誰かも聞かず、その人の到着までまだ時間もある内からそこまで慌てて逃げ出そうとするとは。前にはいかつい獣人を前にしても逃げなかったのに……その印象が残っていたからこそ、ニトロと芍薬は驚きを禁ずることができなかった。
 と、芍薬がニトロを見た。ニトロは芍薬の様子から、先刻と同じく『許可』を求められているのだと察した。何か端末を操作した姿は見受けられなかったが、いつの間にかパトネトはあのアンドロイドを呼び戻していたらしい。それを近場に待機させていたらしいことからも彼のある種の用心深さが感じられる。
「相手はパティも知ってる人だよ」
 ニトロが言うと、パトネトはそれでも首を振った。いや、その言葉にこそ強く拒絶を示したようにも思える。困惑したままニトロがもう一度言葉をかけようとしたところ、それを制するようにパトネトが言った。
「ニトロ君! 連絡先ナンバーを教えて!」
「え?――いや、知ってるんじゃないの?」
「知ってるけど! 教えて!」
 ということは、正式に情報を交換したいということか。
 妙な律儀さを見せる王子にニトロは苦笑し、芍薬に目をやった。その動きを追うようにしてパトネトが芍薬を見る。芍薬の目の奥に一瞬、光が走った。パトネトは掌を見て――その掌中に端末の画面が投射されているのがちらりと見える――パッと顔を輝かせた。
「ありがとう! じゃあ、これ、僕の!」
 パトネトが芍薬に指を差し向ける。芍薬がうなずくと、パトネトは至極満足そうにニッと笑い、それから一目散に玄関に向かった。
「芍薬、許可を」
「承諾」
 ニトロがパトネトを追って玄関にやってくると、彼は早くもあの箱の中で体育座りをしていた。側板にパネルが見える。そこにパトネトが手を触れると幾つものメニューが表示された。たまたま『空調』のアイコンがニトロの目についた。
「お邪魔しました。ニトロ君、芍薬、また今度ね」
 そう言ってパネルを操作しようとするパトネトをニトロが慌てて止める。
「ちょっと待った、パティ」
 語気の強いわけではない。ただ意志の強さを含んだ声音にパトネトの手が止まる。
「何?」
「今度ってことは、またうちに来るつもりなのかな」
「うん。……だめ?」
 ニトロは小さく息をつき、
「解ってると思うけど、君は王子だ」
「……うん。でも、大丈夫だもん」
「そうは言っても、お城の人達も心配するだろう?」
「そんなことないよ。誰とも会わないもん。ティディアお姉ちゃんとミリュウお姉ちゃん、お父さんとお母さん、それとセイラ。それ以外はいらない。フレアとお城のA.I.達だけでいい。だからお城の誰も心配しない」
 パトネトを見つめ、ニトロはどうしたものかと迷った。そこに嘘や誤魔化しは微塵もない。彼は本気でそう考えている。しかもさっきはティディアの関わりばかり気にして思い至らなかったが、ということは、『勝手に一人で』ここに来た彼のその口振りからしても、ただいま王城からは王子様が忽然と消えてしまっています――という事態ではないか。大事おおごとである。常識的には彼を窘めるべきだろう。が、その常識が通じないのが現在の王家だ。特にバカ姫だ。そういえばあのクレイジー・プリンセスはこの手の前例も作りまくっている、となれば『王子』を窘めようにも理屈は立たず、揃っているのはこちらが論駁ろんばくされる材料ばかり。……ああ、チクショウ! こんなところでもあのバカは!
「分かった」
 ニトロは、うなずいた。
 パトネトの頬が赤らむ。
 そこにニトロは言った。
「ただし、お父様とお母様に許可をもらうこと」
 はっきりとした口調で、彼は続ける。
「ティディア、ではないよ。パティが自分一人でお父様とお母様にちゃんとお話しして、それでお二方からお許しが出たのなら、うちに来てもいい。だけどもちろん来る時には決められた人に外出を知らせなくちゃいけないよ。誰とも会わないとしても、もしパティがいないと知ったら皆とても心配するし、お父様もお母様もきっとそうだ。それなのにそれができないというのなら、それくらいのこともできない子を迎えることは俺にはできないから……いいね?」
 言いながらもニトロはきっと“お許し”は出てしまうのだろうと思っていた。しかし、これはケジメである。彼の断固とした意志を見て取ったパトネトは、うなずいた。
「うん。ちゃんとお話ししてくる」
「よし、それじゃあ約束だ」
 ニトロの目には信用がある。その眼差しに、パトネトは頬を明らめる。
「うん、約束する!」
 と、そこでニトロは一つ思い至り、
「ああ、それで、もしお許しが出た場合、両陛下が俺に何かしようとなさるかもしれないけれど。それは無しでいこう」
「“実質的な公式”にしないように?」
「それもあるけどね」
 言いにくいことではあるが、ニトロは言った。
「その時は、ティディアも絡まなくちゃいけなくなる」
 パトネトは、うなずいた。
 彼はそれだけの言葉で全てを察してくれた。
 ニトロはそれに助かる気持ちを得ると同時に、要所要所で大人びたところを見せるパティへの、その鋭敏な心への複雑な思いも感じていた。
「それと――」
 これからこの『パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ』にどのように接していくべきかは今後の課題として、ニトロは付け加えた。
「次に来る時は、先に連絡をくれるかな?」
「うん! だってもう連絡先、交換したもん」
「うん。でも、できれば前日までにね。無理な時は無理だけど……ああ、直前でも大丈夫な時もあるだろうから、その時はその時で連絡してくれるのはもちろん構わないよ」
「うん、分かった」
「それじゃ、それも約束だ」
「うん、約束!」
 ニトロはもう一つ、その箱を使うのも禁止したかった。確かに人目を盗んで彼がやって来るには便利なものだが、感覚的にどうも嫌でならないし、『パトネト』自身にも良いことだとはどうしても思えない。とはいえこの思いは自分の独善に過ぎないかもしれないから、彼の意見も聞いて、必要なら話し合ってみなければなるまい。これもまた今後の課題である。
 インターホンが鳴った。
 ニトロは肩越しに振り返る。
 芍薬がうなずいた。
 ニトロが向き直ると、パトネトの箱が動き始めていた。スロープとなっていた前面が立ち上がっていく。それが側板と接すると、天板が閉じ始める。
「バイバイ、ニトロ君、芍薬も。今日はありがとうございました」
 箱の中の王子様が笑顔で手を振ってくる。
 ニトロも手を振り返し、芍薬もマスターの後ろから別れの笑みを送った。
 天板が音もなく閉じる。
 すると驚いたことに、箱はどう見ても一つの岩から削り出したキューブとなった。継ぎ目も何も見当たらない。つい今しがたまで間違いなく開いていたのに、そんなことは幻だったとばかりに、よもやその内に血の通う人間がいるとは到底思えない圧倒的な無機質。これと比べれば死者を運ぶ棺の方がずっと温かみがあるだろう。
 芍薬が遠隔操作で玄関のドアを開錠する。
 気がつけば次第に夜が濃くなり始めていた。それを背にしてあの配達員アンドロイドが入ってくる。ドアが開いた時にはやはり熱気が肌に触れ、耳には遠鳴りが触れてきた。だが、箱の中はきっと静かで、平和だ。存外、居心地も良いのかもしれない。
 台車のストッパーを外すアンドロイドを見つめていたニトロは、去り際にマニュアル仕立ての堅苦しい辞儀をする相手へ声をかけた。
「フレアだね」
 ドアを開けようとしていたアンドロイドが手を止める。振り返ったその機械人形の顔には、配達員であった時の無表情とはまた違う無表情が浮かんでいた。
「今度来る時は、君も正体を隠してこなくていいよ。――いや、別に隠してたってわけじゃないのかな」
 アンドロイド・フレアは何も言わない。うなずきもしない。ただそこにはニトロの言葉を聞く態度だけがある。彼は微笑み、
「君のマスターをよろしく。道中くれぐれも気をつけて」
 フレアは辞儀をした。
 その動作は先ほどと同じに堅く、しかしそれは飾り気のないが故の堅さで、同じ機械仕掛けの辞儀ではあってもそこには明確な個性の差が表れていた。
 ドアが開かれる。
 耳障りな音の中に台車の車輪が音もなく転がっていく。
 ドアが閉まる。
 また、静かとなった。
「……ハラキリの土産話に対抗できるものが出来たかな?」
 踵を返しながらニトロが言うと、芍薬は笑った。
「遜色ナイダロウネ」
 今晩、ハラキリ・ジジがやってくるのは頼んでいた買い出しのためでもあり、彼が昼に見送ったセスカニアンの姫君の様子を伝えてもらうためでもある。加えて彼の方では明日の話もしたいらしい。何でも『特別トレーニング』を用意したというが、それが何だとしてもドンと来いである。
「さて、と、ハラキリが来る前に準備しとこうか」
 パトネトの突然の来訪には驚かされたものだが、思えばそれも可能な限り引き篭もって生活している身には良い刺激となった。ニトロは機嫌良く廊下を進んだ。
「ネエ、主様」
 と、部屋に戻ったニトロに芍薬が呼びかける。彼はコップを片付けようとテーブルに向かいながら、
「何?」
「あたしハ、『イイ子』ナノカイ?」
 ニトロは足を止め、振り返った。
 廊下と部屋との境目で、少し視線をそらして佇む芍薬は、片手でそっとユカタの袖口を摘んでいる。
 ああ、と、芍薬のマスターは思った。
 さっきの流れだと、あれは冗談としての色調が強くて、であればそれを言われた『オリジナルA.I.』としては良くも悪くもココロに残るものであっただろう。それがある種の重みのある言葉であれば、なおさらに。
「いい子だよ」
 ニトロは言った。視線をそらしたまま嬉しそうに目尻を細めた芍薬へ、彼は笑い、
「でも、言葉のアヤだとしても『子』ってのは何か妙だね」
 芍薬がばっと彼を見る。
「ソウナンダヨ! あたしモソレガ“妙”デサ!」
 その勢いに面食らったニトロを見て、芍薬は失態とばかりに身を小さくした。
「……デモ、『子』ハナイヨネ」
 そして小さくつぶやいた芍薬に、思わずニトロは大きな声で笑ってしまった。

 食品の詰まった買い物袋をニトロに渡したハラキリは、キッチンで作業しているエプロン姿の芍薬を眺め、訊ねた。
「喧嘩でもしましたか?」
 黙々とパスタの生地を練っている芍薬にいつもと変わった様子はない。しかしニトロの態度が明らかにおかしい。その問いかけに彼は渋い顔をした。
「怒らせちゃった」
「はあ、なるほど」
 ハラキリは勝手知ったる調子で自分の荷物を置き、テーブルに席を占める。その席に第三王位継承者が座っていたと知ったら彼はどんな反応をするだろう。――そんなことをニトロが考えていると、どこか物憂げにハラキリが言った。
「それなら明日のトレーニングは延期しましょうか」
「ナンデダイ?」
 ニトロが問うよりも早く、芍薬が言った。
 その声にはどこかプライドを刺激されたような響きがあった。
 ハラキリは天井を見上げて答える。
「二人が仲違いをしているようなら、危険ですから」
「危険って何が?」
 今度はニトロが早かった。
 その声に含まれるものが芍薬と同じ感情だと悟ったハラキリは、天井を見上げたまま、
「聞くまでもないでしょう? 怪我をするから止めておこうという話です」
「「いいや」」
 と、ニトロと芍薬の声が重なった。
 ハラキリは天井からニトロへ、ニトロから芍薬へ目を移す。そして二人の顔に通底つうていしているものをて、
「……」
 うなずいた。
「ま、喧嘩するほど仲が良いと言いますしね。では予定通りにやりましょう」
 そう言ってハラキリは携帯電話モバイルを取り出し、読みかけの本でもあったのか、テーブルに肘を突いて画面を眺める。その彼のまるで我が家にでもいるようにくつろぐ様子にニトロと芍薬は思わず目を見合わせ、そして思わず同時に微笑した。
 芍薬は生地を練っていく。これは後でソースのよく絡むタリアテッレに仕上げるのだ。マスターの喜ぶ顔を思いながら、練っていく。
 ニトロは頼んでいた巨鶏でかどりのモモ肉――特売の印が素晴らしい――とキノコのパックを買い物袋から取り出してカウンターの上に置き、次に量り売り用の袋に詰められたジャガイモを取り出した時、ふと嫌な感じを覚え、ハラキリを見た。
「……なあ」
 緩慢にモバイルを操作していたハラキリが、やや遅れて反応する。
「何でしょう」
「あのさ、さっきのセリフに“含み”はないよな?」
 その言葉にハラキリは一瞬きょとんとし、しかしすぐにその意を察して苦笑した。
「含みなどありませんよ。純粋に、君と芍薬とのことです」
「そっか。ならいいんだ」
 満足気に買い物袋をごそごそやりだすニトロにハラキリはもう一度小さく苦笑し、手の中の画面に目を戻した。そこにはヴィタへの文面がある。それはさっきまで保留していた計画、怪力執事に『特別トレーニング』への参加を依頼するメールであった。中途で止めておいた文を完成させたハラキリは、それを送り出す。と、
「あれッ?」
 底の方に隠すようにしてあった瓶を取り出し、ニトロが眉をひそめた。
「ハニカム茸なんて頼んでないぞ」
 ニトロが刺すような視線を向けるやハラキリは顔を背けた。なおもニトロが視線を送り続けていると、ハラキリがこちらに向き直り、へらりと笑って言った。
「立ち寄った所で物産展がやってましてね。ちょっと覗いたら物凄い勢いでお勧めされまして」
「それで負けるようなお前じゃないだろ」
「自慢の天然物なのに売れないと売り子さんがとても悲しそうでして」
「それで情に流されるようなお前じゃないだろ」
「質は間違いないそうです。高いけど高いだけあると自信を持っていました」
「そりゃ高いのは知ってるよ、だから頼んでねぇんだ。確かに見た感じすっごい良さげだけどさ」
「なので食べたいなあと」
「初めからそう言え」
「半分出します」
「半分?」
「7:3でいかがでしょう」
「……」
「……持ち帰ります」
「当たり前だ」
「しかしクリームパスタによく合う、絶品だとのお話で」
「……使ってもいいけど、俺は使ったことがないからうまくいくか分からないぞ?」
「それはそれで話の種になるでしょう?」
 ニトロは苦笑し、
「まあそうかな。それじゃあ使う分はこっちも出すよ」
「いえ、やはり拙者の勝手でしたことですから」
「払わせろ」
「了解です」
 あっさりうなずく調子の良さにニトロは笑い、乾燥ハニカム茸の詰まった瓶を手にキッチンに入った。芍薬は既にパスタの生地を休ませていて手が空いている。そこでニトロが瓶を手渡すと、芍薬は早速湯を沸かしにかかった。ぬるま湯で戻すのである。
 火にかけられたヤカンを見て、ニトロは今まで忘れていたことに思い当たった。
「そうだ、何か飲むか?」
 余計な品はともかく、買い出しをしてきてくれた相手に失礼をしていた。しかしハラキリはさして何を気にする風もなく、
「そうですねえ」
 話に出た物産展でも思い出しているのだろうか、宙を眺めて少々考えた後、言った。
「今は、オレンジジュースの気分ですかね」
 ニトロはまたも芍薬と目を見合わせた。
 そして、二人揃って声を上げて笑ってしまった。
 ハラキリが怪訝な顔をしている。
 笑いながらニトロは言った。
「アンラッキーだな、ハラキリ。オレンジはちょうど売り切れたばかりなんだ」

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