箱とオレンジ

(『第四部 8』と『9』の間。
『第四部(おまけ)第三篇』の同日)

 部屋にレースカーテンを透かして夕日の差し込む中、ニトロはスクワットをしていた。
「103、104、105――」
 息を吸いながら三秒かけて腰を落とし、息を吐きながら三秒かけて立ち上がり、ゆっくりと腰を沈め、ゆっくりと体を持ち上げていく。
「――156、157、158ガリ」
 ニトロは丸まりかけていた背を伸ばした。
「159ヨシ160」
 と、カウントしながら姿勢フォームをチェックしているのは芍薬である。思わぬ経緯で手に入れたアンドロイドの頭にハチマキを巻いて、マスターのフォームに崩れがあれば取り決めた符丁で指摘していく。その眼差しは鋭く、白磁のような手は腰の前で品良く組んでいるが、およそ腕組みをしていた方がまだ優しく見えるだろう。
「171、172右ズレ173マダ174ヨシ175――」
 しかしフォームの崩れは怪我の元ともなる。芍薬は、例え神経質と言われようともわずかな差異も見逃さない。
「195、196最後ラスト197シッカリ198、199、200!」
「ッしょ!」
 ぐっと体を持ち上げながら、ニトロは声を上げた。
 スクワット――スロー・自重のみ・200回で1セット。間に腕立て伏せを挟んで、それを3セット。やり遂げた彼の顔は汗にまみれていた。トレーニングウェアもびっしょりと濡れ、足元のトレーニングマットにも大量の汗が落ちている。
「オ疲レ様」
 これまでとは打って変わって柔らかな声で芍薬がタオルを差し出してくる。それを受け取り、ニトロは顔を拭うと、ちょうど良いタイミングで差し出されたスポーツドリンクを口に含んだ。拭ったばかりの顔にまた噴き出した汗がぽたぽたと落ちる。彼は清々しく息を吐いた。
「やっぱり汗をかかないと駄目だね。やっとすっきりしたよ」
 苦笑混じりのマスターの言葉に、芍薬は笑った。
「モウ習慣ニナッテルモンネ」
「早くジムにも行けるようになるといいんだけど」
 暇を見つけては通いつめていたというのに、もう二週間も顔を出していない。
「御意。ケド、マダ掛カルカナ」
「うん。まあ、しょうがないけどね」
 息をつき、ニトロはトレーニングマットに腰を下ろした。速乾機能の働きで既に乾き始めているマットの上で、静かにストレッチを始める。ウェアも同様に乾こう乾こうとしているが、体内にこもる熱を追い出そうと止まらぬ汗が服の力を凌駕している。それがまた気持ちいい。
「マドネルさん達も元気かな」
「トレーナーノ勤務日ニ特別変更ハナイヨ。ジムモ通常営業ダ」
「じゃあ良かった」
 アデムメデスはここしばらく、激動の中にある。
 先週はミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの引き起こした『劣り姫の変』のために。
 今週は、その後始末のために。
 ――とんでもない不祥事をしでかした第二王位継承者の処遇をどうするか。
 実に様々な意見があった。
 主として情状酌量派が大勢を占めながらもその議論は白熱し、昼夜を問わずくにのあらゆるところに論争があった。それらは渦を巻き、渦は他の渦を飲み込みながら大きくはなれども小さくなることはなく、ひたすらごうごうと回り続けていた。
 そして、昨日。
 事態は大きく進展した。
 セスカニアンこくのマードール殿下との会見を終えたティディア姫が、続けて妹の不始末に対しての会見に臨んだのである。
 星内こくないのみならず星外の記者も集まる会場で、希代の王女、覇王の再来、蠱惑の美女、クレイジー・プリンセス、様々に呼称される第一王位継承者は真摯に頭を下げた。その頭は、見事に剃り上げられていた。
 激震だった。
 地表の人間達の動揺にほしの核もが揺れるようであった。
 ニトロはその会見を見届けてからはテレビ・ラジオ・インターネット等々あらゆるメディアとの接触を避け、携帯電話モバイルも電源から落とし、世間の騒ぎの全てから目と耳を遠ざけていた。
 それでも、そうまでしても彼の目にはテレビやインターネットに乱舞する画像が明確に見え、耳にはラジオやチャットルームで交わされる声が明瞭に聞こえていた。
 全く、人一人の存在感というものは、一体どれほど大きくなることができるのだろう。
 そしてその存在が起こしたたった一つの行動は、何故、他の何千人が同じ事を行っても到底敵わぬ影響力を生み出せるのだろう。
「――主様」
 芍薬のその声が、物思いに耽っていたニトロを呼び戻した。
 開いた両脚の間に倒していた上体をゆっくりと起こして、彼は訊ねる。
「何かあった?」
 芍薬の声は緊張感を孕み、同時に困惑しているようだった。まるで血の通っているようなアンドロイドの端正な眉間と目元に浮かぶ色を見つめるニトロへ、芍薬は顎を軽く上向け、
「届ケ物ダッテ」
「誰から?」
「パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ」
 ニトロの顔にも困惑と緊張感が浮かぶ。
「王子様が何を?」
「判ラナイ。許可ヲ求メテイルケド、ドウスル?」
 彼は眉をひそめた。許可を求めるということは、宅配ボックスに放り込むのではなく、
「直接届けたいって?」
「御意」
「どうしようかな……」
 パトネト王子と面識はあるし、歪んだ形ではあるが交流を持ったこともある。
 といって何かを送りつけられるようなことは
(いや、あるにはあるのか)
 姉の件で、お詫びとして、ということも考えられないことではない。が、それはどうも違う気がする。他に自然と思い浮かぶことといえば
(ティディアの差し金)
 となるのだが、しかし、仕事など以前から決まっていた事柄以外での一ヶ月の接触禁止を約束させた現在のあいつがそれをしてくるだろうか。まさか、弟を介せば、などと甘い見通しを立てたとでもいうのだろうか?
 ニトロは芍薬の顔を見て、芍薬も自分と同じように考えていることを悟った。彼は微笑し、一つ息をつき、
「まあ、いいや。許可するよ」
「イイノカイ?」
「パトネト王子にはまだ問答無用で拒絶するだけの理由もないし、ちょっと興味もある」
「何ヲ送ッテキタノカ、カイ?」
「うん。それに、ある意味じゃ王子様には借りがあるからね」
 彼の行動がなければ、あの『結末』はきっと違うものになっていただろう。芍薬は、うなずく。ニトロは続けて言った。
「もちろん姉弟揃って結構な無茶をしてくれたから、もしかしたら危険なものを送りつけてきた可能性もあるけれど」
 立ち上がりながら、ニトロは横目に芍薬を見つめ、
「でもその時は、きっと芍薬が何とかしてくれる」
 どこか悪戯っぽく言われたセリフに、芍薬の唇が我慢し切れないように弓を引く。
「モチロンダヨ」
 誇らしく胸を張った芍薬は、早速その瞳の奥に光を走らせた。
 と、壁掛けのテレビモニターに屋上の監視カメラの映像が映る。
 中央に映し出されたのは発着場ポートに降りてくる中型の飛行車スカイカーだった。遠からぬ空には雲霞のごとく飛ぶドローンや空中走板スカイモービルが見える。時折キラキラと輝くのは夕焼けに照り映えるレンズであろう。発着場から業者用の駐車スペースに移動したスカイカーから一体のアンドロイドが降りてきて、バックドアを開くとそこから台車と箱を取り出した。
 箱。
 何の変哲もなさそうな箱である。
 大きさは一辺60〜70cmほどだろうか。
 およそ正方形の真っ白な箱である。
 アンドロイドは箱を台車に置くと、芍薬の開錠したエレベーターホールへ入っていく。
「危害ヲ加エルヨウナ物ジャナイトハ思ウケド、一応ココデ待ッテテオクレ」
 そう言って芍薬は玄関に向かい、部屋と廊下を仕切るドアを閉めていく。
 ニトロはモニターを眺めていた。カメラが切り替わり、この階の外廊下が映る。画面奥のエレベーターホールから台車を押すアンドロイドが出てきた。改めて注目すると、そのアンドロイドは作業服のようなものを着ていて、外見は中性的だが体躯は男性的だった。重量物を扱う業務によく見られるタイプである。だが、運ばれてくる箱には妙な違和感があった。それは何故かと考えていると、
「ああ」
 そうだ、その箱は、まるで岩を削って作ったキューブのようだ。開口部も無ければ蓋も無い。折り目も切れ目も――少なくともカメラ越しには――まったく視認できない。
 インターホンが鳴った。
 一瞬、外から一千の言葉を一つに圧縮したような音が聞こえ、消えた。芍薬が玄関のドアを開け、配達員が入ってきたようだ。部屋と廊下を仕切るドアはほとんどガラス張りだが、はめられているのが曇りガラスであるため、ここから玄関の様子は明瞭には見えない。しかし外の音が聞こえたように声はこちらへ届いてくる。ニトロはドアの傍で耳を澄ます。
「内容ハ何デショウカ?」
 礼儀正しい口調で芍薬が問う。それに応えたのは典型的な人工音声であった。
「生キ物デス」
「生キ物? 生物ナマモノデハナク?」
「ハイ」
「ソレハ何デショウカ」
「生キ物デス」
 どうやら相手の応答には一定の制限があるらしい。芍薬が切り替える。
「細菌ヤウィルスデハアリマセンネ?」
 なんとも単刀直入な問いだ。ニトロは苦笑する。しかし応えは冷静だった。
「身体ニ悪影響ノアルモノデハアリマセン」
「デハ、ドノヨウナモノデショウ」
「生キ物デス」
「ソウデスカ。シカシ中身ガ全ク解ラナイヨウデハ、受ケ取レマセン」
 ニトロは驚いた。今、芍薬の『身体』となっている機械人形には様々なセンサーが内蔵されている。その配達物の中身が全く解らないとなると、否が応にも緊張感が高まる。
「“生キ物”ナドト濁サズ今ココデ明確ニシテ頂ク。デナケレバ、オ引取リ願イマショウ」
 毅然とした芍薬の頼もしさよ。
 ニトロは耳に意識を集中させながら、思わず微笑していた。
 一方、相手は出方を考えているのか、誰かに許可でも求めているのか、両者の間には沈黙が降りていた。何も問題のないものを送ってきたというならその荷の正体を明かすことなどそれこそ問題のあるはずもないだろうに、一体何を逡巡しているのか。その沈黙は、そのまま第三王位継承者への疑惑ともなってくる。
 ニトロの耳に小さな音が聞こえた。
 それは何か空気の漏れるような音にも思えた。と、
「ニャア!?」
 芍薬の驚愕がニトロを襲う。
 彼の心臓が跳ね上がった。
「ヌ、主様!」
 芍薬が助けを求めている!?
 ニトロはさらに心臓を跳ね上げ慌ててドアを押し開けた。そして、
「!!」
 彼は目を丸くした。
 身を避けるように半身となった芍薬の足元で、あのキューブが稼動していた。
 天板が向こう側に跳ね上がっている。
 岩を削り出したように見えたキューブはやはり中が空洞の箱に違いなく、分厚い板が天地四方を囲むその中に、生き物が、黒紫色の毛並みが覗いていた。
 さらに立方体の展開図を描くように、箱の前面がこちらに向けて倒れてくる。
 それはまるで輸送機のスロープ式ゲートの開くがごとく。
 そしてそれが倒れるにつれ、ニトロは見る、芍薬を驚かせたものの正体を。
「うわあッ!?」
 箱の中から現れたのは、なんと体育座りのパトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!
『生き物』
 それは第三王位継承者その人であった!
 ニトロは理解した。つまり人見知りの箱入り王子様のさらなる移動式シェルターなのだ、その箱は。よくもそんな狭い空間に子どもとはいえ人一人が納まっていたものだと驚嘆するが、それ以上に驚異的なのはそれが芍薬の――神技の民ドワーフ製アンドロイドの各種センサーをも弾いていたことである。おそらく物理的な強度も並みではあるまい。ならばその中にいる限り彼が人目に暴かれることはないだろう。
 ニトロは、芍薬を一瞥した。
 芍薬はニトロの指示を期待している。
 なるほど芍薬にはそうすることしかできまい。だが、ニトロにも何をどうしたものか判断がつかない。
 動揺する二人を傍目にパトネトが立ち上がる。
 ぺこりと頭を下げる。
「お邪魔します」
 そしてパタパタと、どうやら前もって履いていたらしいスリッパの音を立て、「ア」と口を開ける芍薬の脇をすり抜けて彼は短い廊下を進んでくる。
 そろそろ八歳にしては小さく華奢な体を包むのは、半袖のシャツにストライプ生地のベスト、同じくストライプ生地のハーフパンツ。黒紫色の髪をきちんと整え、ネクタイまで締めている。
 それはまさしくキッズフォーマルの装いであった。
 王子様は当惑するニトロの前まで来ると立ち止まり、今一度ぺこりと頭を下げた。
「お邪魔します」
 繰り返された挨拶に、ニトロは戸惑ったまま、とにかくうなずいた。すると上目遣いに相手を窺っていた王子の顔がぱっと輝き、パタパタとニトロの横を通り抜けていく。
 ニトロは芍薬を見た。
 芍薬は配達員役のアンドロイドを見た。
 アンドロイドは展開した箱を台車ごとその場に残し、頭を垂れるや外に出て行ってしまった。
 ドアが開いている間は暑い外気と共にパトカーのサイレンが流れ込んできて、ドアが閉まると次第に間延びしていくサイレンがぶつりと断たれる。室内は静かで、温度はとても快適である。
 芍薬が、こちらを見た。
 ニトロは眉間の皺を指で叩き、振り返った。
 王子は一度部屋の奥、窓の傍まで進んでいた。まるでレースカーテンの目隠し機能を知っているとでも言うかのようにそれには指一本触れず、内側からは程よく透けて見えるベランダを眺め、そこに並ぶ植木鉢を一通り見終えた後、キラキラとした眼で部屋をぐるりと見回して、またパタパタとこちら側へ戻ってくる。その途中で床に敷かれたトレーニングマットを特に興味深げに見つめた彼は、はたと思い出したようにキッチンに駆け込んだ。
「……主様?」
「うん、分かってる。ただ分からないだけなんだ」
「御意」
 キッチンから出てきた小さな王子はどうやら非常にご満悦である。
 彼はもう一度部屋を見回すと、何かを納得したかのように食卓兼勉強机のテーブルに向かった。椅子を引き、身の丈に合わない椅子によいしょと腰掛ける。そして行儀良く居住まいを正し……そのまま、座ったままである。
「主様」
「うん、分かってる、分かってるよ」
「御意」
 小柄な王子とテーブルとの調子は少々アンバランスだから、椅子にクッションでも敷いた方がきっと快適だろう。
(――そうじゃなくて)
 ニトロは小さく頭を振った。
 王子はひたすら行儀良く座ったままである。背筋は伸び、少し顎を引き、美少女よりも美少女らしいと言われる彼は座っているだけでも実に絵になる。感心してしまう。どんなに性格の悪いマナー講師もそこに文句はつけられないだろう。
(だからそうじゃなくて!)
 何の前触れもなく第三王位継承者がやってきて、しかも箱に入って運ばれてきて、自分と芍薬の度肝を抜いて、お邪魔します、そうして我が部屋を一巡り、日常の象徴とも言えるテーブルに座って、何を言うことも何をすることもなくただただ行儀良く座り続けている。
(よし、ここまではオーケーだ。それで?)
 この事態の収拾を図るには、やはり分からぬものを分かるようにしなければならない。
(よし、結局はそういうことだ)
 至極当然の帰結によって気持ちを落ち着けたニトロはテーブルに向かい、王子の対面に立った。彼がこちらを、どこか不思議そうに見上げる。何故座らないのか、と問いかけてきているらしい。
 しかしニトロは座ることはせず、姿勢を正して頭を下げた。
「ご尊顔を拝し恐悦至極に存じます、パトネト様。また拙宅へのご来訪という栄に浴しましては感激のあまり言葉もございません」
 これまで彼との間にも色々なことがあった。そのため『王子』と思い切れないところもあるが、それでもやはり彼は『王子』である。
「ご挨拶が遅れまして、まことに申し訳ありません。突然のことに驚いてしまった私の未熟ゆえのこと、どうか平にご容赦くださいませ」
 言い切ってからもニトロは頭を下げ続けていた。
 しかしいつまで経っても応答がない。
 そこで仕方なくそっと面を上げると、非常に不機嫌な様子でそっぽを向く王子の姿が目に飛び込んできた。横を向いていても分かるほど唇を固くヘの字に結び、眉をひそめ、しかも目の端には涙すら浮かんでいる。
 ニトロは慌てて芍薬を見た。
 隣に並んできていた芍薬はマスターにだけ聞こえるよう指向性の声で、
「『ご尊顔』ノ“ゴ”カラコウダッタ」
 そこからかー、と、ニトロは内心うめいた。
 それにしても、何故それでこうまで機嫌を害したのか。この弟君には二人の姉とはまた違う厄介さがある。『ミリー』の際には戸惑わされ、先の件においては驚かされ、そして今また驚かされて戸惑わされている。――彼に対する態度を固めるに足る立脚点が見つからない。こうなれば『ミリー』の時のように? それとも“罰”を受けて苦悶するミリュウを前に話した時のように?
「……パトネト様」
 ひとまず話してみないことには分からない。ニトロは呼びかける。もしかしたら呼び方が気に食わないのだろうか?
「王子様」
 返答はない。彼は忍耐強く、呼ぶ。
「パトネト殿下」
 だが、相手の不機嫌はいよいよ極まっていくようだ。
「太子」
「パティ」
 思わぬ言葉が返ってきて、ニトロは目を丸くした。芍薬と一度目を見合わせ、また王子を見る。彼はそっぽを向いたままである。
「……いえ、ですが」
パティ
「……」
 そのニックネームで彼を呼ぶことができるのは格別限られた人間だけである。自分の身分で言えば本来まさに畏れ多いことでもあり、身分を抜いたとしても、そう呼ぶには親しみがあまりに勝って躊躇が生まれる。
「……」
「……」
 とはいえ、相手の望みに応じるしかないだろう。意を決してニトロは言った。
「パティ」
 その瞬間、パトネトはニトロを見た。
 どれほど嬉しいのだろう、再び満面の笑みである。頬は赤らみ、瞳も輝いている。
 ニトロは思わず苦笑が浮かびそうになるのを懸命に堪えた。
 正直、相手は勝手放題に事を進めてくれている。それは彼が自分ならそうしても当然許されると思っているためなのだろうか。彼はやはり『王子様』で、『秘蔵っ子様』の異称が示すほど様々に厚遇されて育ってきたのだからそう思い込んだとしても不思議ではない。むしろ自然ですらあるだろう。それとも、育った環境と言うよりも、単純にこういうところは齢相応に未熟なだけなのだろうか。もしかしたら……悪い見本のせいだろうか?
「本日はどのようなご用件でいらっしゃったのでしょう」
 とにかく相手が反応したからには理解を深めるチャンスである。そこでニトロが問いかけたその瞬間、またしてもパトネトにそっぽを向かれてしまった。王子様はまたしても“ぶんむくれ”である。
「……主様」
 芍薬が囁きかけてくる。
 ニトロは頭を掻き、改めてパトネトへ言う。
「それで。今日は何の用で来たの?」
 他人行儀な態度を排除して、まさに旧知の間柄といった調子で訊くと、パトネトは三度笑顔を輝かせた。
「ご挨拶に来たの!」
 元気一杯、とても上機嫌である。
 しかしニトロはその答えに少なからず当惑した。
「ご挨拶?」
「うん」
「ええっと……こんにちは、って?」
「ううん」
「それじゃあ」
「これからもよろしくお願いしますって」
「――ああ」
 それは一応納得のできる答えではある。
 であれば彼がフォーマルな格好をしてきたことにも理解が及ぶ。
 とはいえ、それだけのためになかなか突飛な訪問形式を選んでくれたものだ。そう、それは、本当にバカ姉の影響が多大であると思えてならない。
「よろしくお願い、できない?」
 惑うニトロの様子に急に不安になったらしい、パトネトが上目遣いに覗き込んでくる。その黒紫の瞳はやはり姉のそれとよく似ていた。ただこちらの魂を覗き込んでくるような魔力が彼にはなく、そこには幼い怯えが揺れている。
「いや――」
 ニトロは、決めた。
「こちらからも、よろしくお願いするよ」
 パトネトの瞳から怯えが消えて、喜びが閃く。彼は椅子の上に膝立ちとなると、テーブルに左手をついてぐっと身を乗り出し、ニトロへ右手を伸ばした。握手をしたいらしい。ニトロは、その手を握った。
「よろしくね、ニトロ君!」
「ああ、よろしく、パティ」
 握手を交わしたパトネトはとても満足そうに、行儀良く座り直した。
 そしてニコニコとして、そこに座り続ける。
「……一つ、聞いてもいいかな」
「うん!」
「このことは他に誰か知ってるの?」
「ううん、ティディアお姉ちゃんは知らないよ。僕が決めて、僕が勝手に一人で来たの」
 その答え方にニトロは思わず苦笑した。
 やはり頭の良い子だ。こちらが本当に問いたかったことを見破り、それをピンポイントで答えてきた。
 無論、弟君が初めからそのような質問にはこう答えるようにと仕込まれていたと疑うことも可能ではある。だがニトロはその疑惑をすぐに捨てていた。『一人で来た』と言った時のパトネトのどこか自慢げな口振り――その年上に対して見栄を張る態度に、彼自身、よくよく覚えがあったのだ。ふいに蘇った懐かしい記憶の中、彼は亡き祖父に山で拾ったすべすべする石をこの世に二つとない宝石とばかりに見せつけ、それを入手した他愛もない経緯を冒険譚に仕立てて語り聞かせていた。
 一方でパトネトはその自分の言葉によって何かに思い当たったらしい、目を少し丸くして、
「そうだ、ニトロ君、急に勝手に来てごめんね。トレーニング中だったんでしょう?」
 ニトロはまたも苦笑した。己の願望に突き動かされていたパトネトに、今やっと礼儀が追いついてきたらしい。彼の目はこちらのトレーニングウェアと床のトレーニングマットとを交互に行き来している。その視線の振幅はそのまま彼のアンバランスさを示しているかのようだ。
 ニトロは、またも不安に襲われている相手に微笑を見せた。そういえば汗はいつの間にか止まっていた。
「トレーニングは終わっていたから大丈夫」
 パトネトは心底ホッとしたようである。ニトロは改めて彼をつめながら、
「だけどまだシャワーを浴びてなくてさ」
「うん、待ってる」
 ということは長居をしたいのか。
 ニトロは芍薬に目をやった。芍薬はうなずき、キッチンに向かう。
「何があったっけ」
「ココア、カフェインレスコーヒー、ミルクティー、ハーブティー、ハーブミルクティー、ミルク、フレッシュジュースモ幾ツカデキルヨ」
「どれがいい?」
 問われたパトネトは膝の上に置いた手をぐっと握り、
「オレンジはある?」
「オレンジは……あったかな。ミックスでもいいかい?」
「ううん、オレンジジュース」
「足りる?」
 ニトロは芍薬を一瞥した。芍薬はうなずき、パトネトに目をやり、
「ラッキーダネ、最後ラスト一杯ダ」
 芍薬も敬語をやめていた。
 パトネトは、しかもラッキーだと言われたからには至極嬉しげに鼻息も強くうなずく。
「じゃあそれッ」
 早速冷蔵庫の野菜室から袋に入れたオレンジを取り出す芍薬に、ニトロは訊いた。
「クッキーも残ってたよね」
「スコーンモスグニデキルヨ」
「どっちがいい?」
「スコーンって、どうやってできるの?」
「冷凍のだから温めるだけだよ」
「そっか。ニトロ君の作ったの?」
「いいや、市販の」
「クッキーは?」
「市販だよ。だけど美味しい」
「そっか」
 パトネトは残念そうである。ニトロは彼を観続ける。
「ね、何か作れる?」
 良い事を思いついたとばかりに問いかけてくるパトネトに、ニトロは首を振る。
「ね、作って?」
 諦めず要望してくるパトネトに、ニトロは言う。
「今日はいきなりだったからね。何も用意がないんだ」
 ニトロはパトネトを観続ける。
 パトネトはひどく失望したように唇を歪めたが、やおら、納得したらしい。
「それじゃあクッキーでいいよ。――あ、ご馳走になります」
 追いかけるように付け足された言葉にニトロは笑った。そして、
「じゃあ、すぐに戻ってくるから。よろしくね、芍薬」
 マスターの送ってきた目に応え、エプロンを着けながら芍薬はうなずいた。
「承諾」

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