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 調理室の掃除を終え、部屋の責任者である家政科(家事に加えて税金や保険の実践的な解説、節約のテクニックから身近な犯罪の紹介もあって人気である)の先生に鍵を返し、急な願いを聞いてくれたお礼がてらお裾分けをして、そうして必要な始末を全て終えたニトロはクレイグ達と共に美術室にやってきた。
 彼の手にはタルトを詰めた箱がある。
 他の荷物はハラキリの担当である。
 園芸部とは調理室で別れた。三人とも活き活きしていた。皆で掃除をしている最中、話が自然と校内の植物に及んだのである。園芸部は部外の生徒とそういう話が出来ることが嬉しくてならないらしく、また、ハラキリが昇降口近くの花が目につくと言った際、それはある女王の愛した花だと説明した部長にキャシーが興味を示したため、どうやら他者に関心を寄せてもらえることへの大きな感動を覚えたらしい。三年生の二人――部長と副部長は、今回の機会を与えてくれたフルニエにとても感謝していた。彼にはその感謝が思わぬほどであったようで、初めは恩着せがましい態度を取ろうとしていたのに最後には戸惑ってしまっていた。ニトロ達は笑いを堪えるのが大変だった。
 これから園芸部は、やはりまずはお菓子を作って学内にアピールしていくのだろう。無論、お菓子作りなど園芸とは本来関係がない。しかし園芸とのつながりを得られる諸活動を自ら切断しては狭い範囲でしか動けない。分けてもらったタルトを食べながら、三人は今頃未来について話し合っていることだろう。
 先頭を歩いていたクレイグが美術室のドアを引き、キャシーが入っていく。
 と、
「きゃあ!?」
 キャシーが悲鳴を上げた。美術室に踏み込んだところで身を引いて、狼狽した彼女は半身を廊下に逃れさせている。
「何だどうした」
 後続のフルニエが、慌てたクレイグと共に教室を覗き込む。ニトロの位置からは中が見えない。すると、
「おお、何だよダレイ。新しい趣味にでも目覚めたのか?」
 笑いながらクレイグがそう言った。ダレイの声も聞こえてくるが、何と言ったのかまではニトロにはやはり分からない。フルニエが妙に下卑た笑い声を上げ出して、クレイグの態度に安心を得たキャシーは少し目を伏せて美術室に入っていく。
 遅れて中に入ったニトロは、その瞬間、目を丸くした。
 美術室は燃えていた。
 空調が効いているはずなのに熱気むんむんであった。
 その美術室の真ん中に、両腕で力こぶを作って直立不動のダレイがいる。
 しかもトランクス一丁である。
 浮かぶ腹直筋シックスパック
 逆三角形のシルエット。
 背の高くたくましい彼の背後には大きな画板を肩と脇を巡らせた紐で抱えてペンを走らせるクオリアがいて、さらにその背後にミーシャがいる。情熱に突き動かされる画家の肩越しに画板を覗き込む少女の目は大きく見開かれ、眼前に燃える火を受けてキラキラと輝いていた。
「デッサンかな」
 ニトロがつぶやくと、
「あるいはクロッキーか、下書きか」
 ハラキリはそう言って適当な机に荷物を置き、袋の中から使い捨てコップとティーバッグの箱を取り出した。同じくタルトの箱を置いたニトロは、ミーシャと同じくクオリアの背後に回った三人の顔を見て、激しく興味を引かれた。
 三人とも驚嘆していた。
 ペンが動く。三人の面差おもざしが目覚ましく変わる。クレイグとキャシーは顔を見合わせ、フルニエは微かに――ほんの微かに眉をしかめる。その隣で輝くミーシャの瞳は、彼の眉間に生まれたその影を知らない。
 俄然、ニトロもそれを見たくなった。
 だが彼は間に合わなかった。
 早足でクオリアの背後に回り込もうとしていた時である、
「うん、こんなものね」
 手を止めたクオリアがそう言うと、ポーズを取っていたダレイが大きな息と共に姿勢を崩した。そして彼は、己のすぐ横でぴたりと足を止めたニトロへ言った。
「遅かったな」
 それは疲れた人間からの純粋なる非難であった。
 しかし、その言葉は、図らずも皮肉となってしまった。
 ニトロは不貞腐れたくなった。
 とはいえ、ダレイも今回は流石に堪えている。おそらく強引にモデルにされてしまったのだろう。彼の心情を慮れば……文句は言えまい。それでも少し口を歪めてニトロは言った。
「これでも早く終わったんだ」
「そうなのか」
「ああ、そうなんだ」
 息をつき、気を取り直して彼は続ける。
「大変だったみたいだな?」
「まあな。だが、ミーシャのお陰で助かった」
「ミーシャの?」
 ニトロはシャツを着始めたダレイから、クオリアから受け取った大きな画板を――そこに固定された板晶画面ボードスクリーンを心底楽しそうに操作しながら、クレイグ達の求めに応じて解説しているミーシャに目を移す。
「私はミーシャのお陰で助からなかった」
 こちらの会話を聞いていたらしい、背筋せすじを伸ばしながらクオリアが言った。反応してミーシャが口を尖らせる。
「なんでだよ、そりゃなんの手伝いもしてないけど、邪魔はしてないぞ」
「したじゃない」
「なにをだよぉ」
「パンツが邪魔で仕方なかった」
「あッ――いや! そりゃ当たり前だろ!?」
 一気に顔を真っ赤にして、ミーシャが大声を上げる。
「ヌードなんてだめだろ! だめだだめだ!」
「ヌードデッサンこそ当たり前よ? 大事な基礎だもの。精巧な3Dもあるけどやっぱり私は実物がいい」
「だってこんな……ッ学校で!」
「かわいいわね、ミーシャは」
 耳まで真っ赤になった少女の頬を、先ほどまで彼女に感動を与えていた手でクオリアがそっと撫でる。
 そこで彼女にからかわれていたことを知ったミーシャが最早真っ黒なほどに顔を赤くして、目を潤ませた。
 ニトロは彼女が怒鳴り声を上げるのを覚悟したが、
「それはちょっと見たかったな、はは、ダレイがヌードモデルか――ははは、どんな顔してやってんだろうな」
 笑いながら、クレイグが言った。
「だけどヌードだったら鍵をかけておかないと。でないと誰かにドアを開けられたら、大変だ」
 そう言われると皆が思い返すのはキャシーの悲鳴である。もし、彼女の見たものがマッスルポーズで全裸のダレイであればどうだったろう?
「確かに大変だぜ、“きゃあ”じゃすまねぇや」
 フルニエがげらげらと笑い、少しむくれたキャシーがクレイグの肩を小さく叩く。彼は笑顔のまま彼女に目で謝り、そして黙々と着替えをすませた親友へ言う。
「本当に、助かったじゃないか」
「だからそう言っている」
 ダレイはやっと人心地のついた顔でうなずいた。
「でも、何でヌード?」
「それはな」
 と、素朴な疑問を口にしたニトロへ応えたのはクオリアではなく、ミーシャだった。ついさっきまで真っ赤だった顔も元に戻り、それどころか実に得意気に彼女は言う。
「『シンニョーグーン ジュウチーカラ』の時代は、スポーツする時は全裸だったからさ」
 ニトロは眉をひそめた。
「シンニョーグ、何だって?」
「シンニョーグーン ジュウチーカラ」
「何それ」
 ニトロだけでなく、クレイグもキャシーもフルニエも解らない。いっそう得意気にミーシャは言う。
「古代の叙事詩だよ」
「どえらく古いな!」
 ニトロが驚く。皆も驚く。ミーシャは鼻高々である!
「と言っても正確にはそこに書かれている『神前競技大祭』のみが全裸で、同時代でも別の場では下帯を付けたり、それなりの服装があったりするのですけどね」
 そこに突然、美術準備室から電気ケトルを持って出てきたハラキリが口を挟んだ。ミーシャの態度が一変する。あんまり得意にしていたものだからひどく恥ずかしげに身を小さくして、彼女はうめくように言う。
「……そうなんだ?」
「そうだけど、だからってミーシャが間違っているわけじゃないわね」
 と、フォローしたのはクオリアである。
「その大祭にしても“謳われた時代”以降は着衣になっていったそうだから」
 それを聞いてフルニエが大きくうなずいた。
「そりゃあなあ、アレをぶらぶらさせながらスポーツって、ちょっと俺は絶対嫌だぜ」
「やだ――」
 キャシーが小さく漏らした声に反応し、彼は実に楽しげに続ける。
「ぴょんぴょん跳ぶだけでも暴れて邪魔だ。反復横跳びなんかしてみろよ」
「そしたら蹴りが飛んでくるぞ」
 ニトロにツッコまれ、フルニエは死角に立っていたミーシャの凄い目つきにやっと気づいた。笑いながらそそくさと身を遠ざける。特にすねを遠ざける。そのままハラキリが仕事を続ける机に逃げていく。そして彼は言う。
「そろそろ茶にしようぜ。カルテジアも甘いのが欲しいところじゃねえか?」
「もっと描きたいところだけど――」
 画板はクレイグが持っていて、キャシーが感心しながら見つめている。
「そうね、お茶にしましょう。でも私よりダレイに振舞って」
「ンだよ、そんなにつらかったのかよ」
 フルニエの問いかけにダレイは肩をすくめる。
「辛いと言えば、姿勢が辛かった」
「これとか凄いわ」
 画板を見つめたままキャシーが言う。ニトロが見たがっていることに気がついたクレイグが彼女に問いかけ、了承を得てから画板をくるりと返した。
 板晶画面ボードスクリーンの真っ白な画面に、実際に紙に木炭で描いたような絵があった。
 筋骨隆々の男が足を前後に開いて身を大きくよじっている。
 まさしく槍を投擲とうてきする、その一瞬。
 大まかに線を取った粗描であるのに、その躍動感は心に迫る。
「おぉ」
 思わず感嘆の吐息を漏らし、クレイグから画板を受け取ったニトロは画面に食い入った。
「そんなに感心するほどのものじゃないわ」
 クオリアが言いながら、それでも嬉しげに口元を緩める。
「だな、それくらい描けるのはざらにいる」
 と、フルニエが相槌を打つ。ミーシャがいらついたように彼を一瞥するが、クオリアは平然とうなずいた。
「ええ、私なんかまだまだ。私より人物画が上手い子は、この学校にもいるもの」
「後輩か?」
 フルニエが少し意地悪に問う。クオリアは首を振る。
「同級生。もう絵を描くことは辞めちゃったみたいだけどね」
 その答えに、フルニエは言葉に窮した。伊達メガネの位置を直し、口をもごつかせながら言う。
「そりゃ、もったいないな」
「それもざらにあることよ」
 にっこりと、クオリアは言った。
 すると笑い声が上がった。
「こりゃフルニエの負けだ」
 笑顔でクレイグが言い、
「負けだな」
 ダレイがうなずく。
「いいや負けちゃいない。大体俺の言った通りだったからな、むしろ俺の勝ちだ」
 手を振ってフルニエが悪態をつく。
 それは一種の予定調和であった。
 場がまとまり、その頃には皆机に集まっていた。
 ただニトロだけ、夢中になって絵を見ていたため一人遅れていた。特に最後の二枚、両腕で力こぶを作るダレイの正面と背面の絵は他のものよりずっと詳細に描きこまれていて、その肉体の重量感は――
「ニトロ」
 クレイグに呼ばれ、ニトロは慌てて茶席に向かった。
「これはどうすればいいかな」
「その辺にでも」
 ニトロへ画板の置き場所を雑に指定したクオリアは、美術室の大きな机の一辺にミーシャと並んで座っていた。そのミーシャと机の角を挟んだ隣にキャシーが座り、その横にクレイグ、また角を挟んでフルニエがミーシャの対面にいる。最後の一辺にダレイがクオリアの方に寄って座っていて、その右にハラキリがいた。フルニエの隣で空いている席は角を挟んでハラキリの隣でもあり、つまり消去法でそこにニトロの収まる場所ができたらしい。彼はそこに座った。
「いつまでも帰ってこないでどこに行ったのかと思ったら。メールも返さないでさ」
 ハラキリの動向を知ったミーシャが、ティーバッグを片付けている彼に言う。
「トイレに行った後、行ったのか?」
「ええ」
 ミーシャは、肯定する相手を何となく胡散臭げに見つめた。
「本当か?」
「本当ですよ」
 何食わぬ顔でうなずきながら、ハラキリは湯気の立つコップをそれぞれの前に置いていく。中央に敷かれたシートの上にキャシーがタルトカップを並べ出すと、ミーシャは可愛らしいお菓子に気を引かれて小さな歓声を上げた。クオリアは目を細め、ダレイはほおと息をつく。
 外は相変わらずの大雨であった。
 閉門時間までまだ時間はあるが、空はもう真っ暗で、それだけに教室の灯りが煌々と輝いていた。
「それじゃあ食べようか。こっちにあるのがバターを使ってて、こっちは不使用」
 ニトロが言うと、早速ミーシャが手を伸ばし、そこでちょっと迷った後、ホイップクリームの乗っていないバター不使用のタルトカップをつまんだ。
 キャシーがニトロを一瞥する。
 その視線にミーシャが気づき、次いでもう一つ気がついた。彼女はニトロを見つめ、怪訝な様子でおずおずと訊ねた。
「もしかして……あたしのためか?」
 ニトロは肯定も否定もしない。しかしその態度で十分だった。驚き、そして嬉しさを前面に出すのが恥ずかしいかのようにミーシャは言う。
「そこまで厳しくやってないから、いいのに」
「まあ、食べ比べも含めて選択肢を増やしただけだよ。それに脂とクリームばっかりじゃ胸焼けするかもしれないからさ」
 ニトロの科白せりふにクレイグとキャシーが笑った。それをミーシャは不思議そうに見つめていたが、その目をニトロに戻すと、はにかみにも似た微笑を浮かべた。
「ありがと」
「どういたしまして」
 ニトロはそう言って、話を切り上げることを示すようにホイップした生クリームとバターでコク深いタルトをつまみ上げ、齧った。ミーシャも齧った。
「――おいしい!」
「そりゃ良かった」
 笑うニトロへミーシャは言う。
「あの汚い……つったらあれだけど」
「いや、確かに見た目は悪かった」
「それなのにあの夏みかんでこんなのができるんだな、魔法みたいだ」
「そんな大袈裟なもんじゃないよ」
「だけど、おいしい」
「ありがとう」
 一つ目を平らげ、早速二つ目も頬張る彼女は幸せそうだ。その隣でクオリアも頬を緩めている。逆の隣ではキャシーが微笑している。
「魔法といえば、カルテジアさんも魔法使いみたい」
 品良くコップに手を添えてキャシーが言うと、クオリアは半分齧ったタルトをゆっくりと飲み込んで、
「それも大袈裟よ」
「いいえ、ほんの少し見ただけだったけれど、凄かった。だってペンを動かす前と後で絵が全く変わってしまって」
「そうなんだよ!」
 思わずといったようにミーシャが話に加わる。いや、我慢できずにというように彼女は拳を握る。
「あたし、もうずっと感動しっぱなしでさ! 凄いんだ、なんていうか、なんてのかな、もう描くってのか、生み出してるってのか、真っ白な画面にさ、さっきまでなかったダレイの体がどんどん出てくんだよ! あれはホント魔法だよ、キャシーの言う通りだ」
「本当に、大袈裟」
 タルトの残りを頬張り――恥ずかしいのか、嬉しいのか、皆の視線から逃れるように顔をそむけたクオリアの目がばちりとニトロの視線にぶつかった。彼女は一瞬うろたえたが、すぐに話題を見つけて彼に言う。
「美味しいわ」
 彼女が食べていたのはホイップクリームの乗った、バター入りのものである。
「そっちのはキャシーがメインで作ったんだ」
「そうなの?――美味しいわ」
 クオリアがキャシーに向いて言い直すと、キャシーは嬉しそうに笑った。彼女は真っ直ぐクオリアを見つめている。クオリアも笑みを浮かべるとすぐに目を逃してタルトを眺め、それからまたニトロへ目を向けた。
「――作ったのは、これで全部?」
 彼女の仕草にはまだ慣れぬ相手と目を合わせたことへの緊張と、そこからの不安があった。それにキャシーも気づいているようだが、といって不快感を示してはいない。ニトロはうなずいた。
「タルトはね。コンポートの残りは数が少なかったから向こうで食べた。カード……タルトに入ってるやつの残りは、ハラキリの」
「ハラキリの?」
 とはミーシャである。ニトロはそちらへ顔を向け、
「今回のスポンサーだから」
「どゆこと?」
「夏みかん以外の材料は、全部ハラキリ持ち」
「あれ、そうだったんだ」
「ええ、依頼料みたいなものです」
 紅茶を飲みながらハラキリは言う。ニトロは苦笑し、
「つか、そう言う話になると俺達はただ働きなんだがな?」
「お金に替えられないものって、あるじゃないですか」
「そいつはお前が言っちゃあ横暴だ」
「そうだ、横暴だ」
 ミーシャがニトロの味方をする。ハラキリは肩をすくめてタルトを齧る。つられたようにミーシャはバター入り・クリームなしの夏みかんカード・タルトを頬張って、途端にその頬を緩めるとキャシーを見た。その視線が語るところを察したキャシーはとても誇らしげに目元を緩める。
 その二人の少女を見比べていたフルニエが、ふと思いついたようにクオリアへ言った。
「そういやミーシャはモデルにしなかったんだな」
「す、するわけないだろ!?」
 自分のことを思わぬ形で持ち出されてミーシャが顔を赤くする。しかし言われてみればそれは不思議なことに思えた。キャシーとクレイグにも疑問が浮かぶ。ニトロもスイッチの入ったクオリアならそれを希望する可能性は十分あり得るように思う。何しろミーシャも中距離走者として励んできたのだ。そう思えばこそ、ミーシャ自身も少し不安に思い始めたらしい。
 注目される中、クオリアはコップに当てていた唇を離し、言った。
「必要ないわ」
 その断言にミーシャが安堵の表情を浮かべる。一方でフルニエは追求した。
「何で女はいらないんだよ」
「その大祭には女は参加できなかった。だから、残念」
 微笑むクオリアに、フルニエは肩をすくめた。
「マジで残念」
「フルニエ?」
 ミーシャに睨まれたフルニエは、しかし机を挟んでいるから平然としている。
「でも、何でそんな昔のを?」
 と、ニトロが訊ねると、クオリアはもう一つタルトを手に取って、
「たまたま目についたから、読んでみようかなって」
「たまたま目につくようなものかな」
「ちょっと調べごとをしていたら、その関連でね」
 そこでさらにフルニエが訊ねる。
「何を調べてたんだよ」
 それは他の皆も興味のあることだった。この新しい友人は、一体何に興味を引かれていたのだろう?
「陸上競技よ」
 それを聞いた瞬間、彼女が興味を持った理由を誰もが理解した。その上でニトロは深く納得もした。
 ミーシャが我知らず顔を緩めている。
 だが、彼女の嬉しさも、まだ完全な理解の下にはないことをニトロは知っていた。クオリアの調べごとは、つまり予習である。とはいえその大会へ応援に行くことは本人に隠すよう頼まれているから、彼はハラキリと同じく何食わぬ顔で沈黙していた。
 そのクオリアは妙に黙ってしまった皆を見回し、
「次は料理のことでも調べようかしら」
 ニトロに目を止めて、悪戯っぽく言った。
「それとも庭師か、哲学者か――働き者の物語もいいかもね」
 そこで彼女の大きな眼にられたフルニエは、ふいと目をそらした。目をそらされたクオリアは微かに不安を浮かべたものの、描きかけた線を半端に止めては失敗するとばかりにすぐに続ける。
「恋のお話は一つ前に読んじゃったから、また今度」
 クレイグとキャシーは一瞬どのように応じたものか迷ったようだが、やおら顔をほころばせた。そしてキャシーが訊ねる。
「ねえ、カルテジアさんが読んだ中で素敵だと思ったラブストーリーはある?」
「そうね……」
 刹那、クオリアの『熱烈文芸講義』を受けたことのあるニトロとミーシャが警戒心を抱く。それを敏感に察したクオリアは目を細め、
「最近のだったら『マリーの部屋』かな。古典だったらやっぱり『神の国』の“オウアとナイーウータ”のエピソードがいいわね」
「オウアとナイーウータ、って、オペラの『ホウルとナユタ』?」
「ええ、読みが変わってるけど、同じもの――いえ、同じと言ってもそのエピソードだけ独立化させたもので、本質もテーマも変わってるから正確には翻案ほんあんね。でもそっちの方が昔から大人気なのも分かるわ。やっぱり素敵だもの」
「今、ハイパーリアルオペラが公演中よね」
あのヴァステロ・ヴルトン演出の?」
「そう」
「何だかんだで大評判みたいね」
「私、一度観てみたいのよ」
 そこでクレイグも話に加わり、ここぞとフルニエも『上流ハイソな趣味』を腐しにかかる。
 やがて会話は題目を変えながら、クレイグとキャシーを中心に輪を描くように続いていった。
 それぞれの話題にミーシャが明るく交わる。
 隙あらばフルニエは場をかき混ぜようとする。
 クオリアは様子を伺いながら聞かれたことに応え、ダレイが要所要所で交流を補綴ほていする。その中で、ニトロは流れに乗りつつ時々ぼけたセリフにツッコミを入れることで場を温めて、ハラキリは輪の縁側でマイペースに紅茶をすする。
 今朝、ハラキリからニトロへの思わぬ提案から始まったお菓子作りは宵の口に和やかなティータイムをもたらして、それはといを伝う雨水のようにあっという間に過ぎていった。
 タルトは売り切れ、冷めた紅茶も残りわずか。
 ようやく雨脚も衰え始め、そろそろ帰る仕度を始めようかという頃に、震えた携帯電話を一瞥してハラキリが立ち上がった。
「ちょっと用ができましたので、先に帰ります」
 会話はラストスパートとばかりに盛り上がっていた。ハラキリ・ジジが突然いなくなることはよくあることなので誰も違和を覚えなかったし、ニトロも疑問を抱かなかった。ただ一瞬、親友が何やら訴えかけるような目をしたことは気になったが、全員集まっての楽しい時間に浸っていた彼が、そのひっかかりを真剣に吟味することはついになかった。
 それからしばらくして、閉門時間も迫ってきた、茶会も切りのいいところで仕舞いとなる。
 片付けはすぐに終わった。
 皆満足そうで、特にキャシーはいつにも増して楽しそうだった。
 彼女とクレイグがにこやかに言葉を交わし、その傍にフルニエとダレイがいて、ミーシャも充実した顔で笑っている。
 それを、ニトロは少し離れたところから眺めていた。
 そして彼は、ふと思う。
 ハラキリは何の用ができたのだろう? 近頃彼は忙しそうだ。昨日、一昨日と学校も休んだ。ミーシャ達には単にサボり癖が出たと思われているし、彼もそう思わせているが、事実はそうでない。
 また誰かの頼みを聞いているのだろうか。
 もしやまた危険なことに関わっているのだろうか。
 それとも神技の民ドワーフか……最悪、王女の依頼を受けたというのであればこちらも気をつけねばならない。そうだ、彼の最後に見せたあの目は『警告』ではなかったろうか?
 そしてまた思う。
 そういえば、クオリアは?
 ――まるで遠景の一点を見つめるように眺めていた友人達の囲いから視野を広げると、彼女はすぐ傍にやってきていた。
 彼女もまた充実しているようだ。
 その口元がほころぶ。
「ニトロ」
「何?」
 その瞳が燃え上がる!
「脱いで!」
「何ぃ!?」

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