夏みかんとカーボン

(『恥を転じて福と為す』の前日、『2016おみくじ 中吉』の三日前。
また本編第三部『行き先迷って未来に願って』の四日前)

 昼下がりから降り出した雨は、放課後には土砂降りとなっていた。
「またひどくなったな」
 教室棟と特別教室棟に挟まれた中庭を叩く雨音は、窓の締め切られた部屋の中では聞こえない。しかし、その音は目に見えた。窓から見える花壇の草花も、ベンチの傍に控える金色沈丁花ゴールデンダフネも、庭の中央に佇む月桂樹の葉も皆打ちひしがれている。
 外は初夏の夕、まだ五時にもならないのに驚くほど暗い。
「そうだな、また酷くなった」
 窓辺で分厚い雨雲を仰ぎ見ていた少年は、その大きな背中を揺するようにして振り返った。太陽光に近い光を降らせる電灯の下、広い机に突っ伏している少女が、軽く重ねた腕の上に顎を載せ、物憂げな目を少年に投げかけている。彼女は会話を求めていた。それを察して彼は言う。
「これじゃあ傘も役に立たないだろう」
「靴下もすぐにぐっしょりだろうなあ」
 ぼやく少女に少年はうなずき、
「風邪を引くなよ」
「ダレイも」
「こっちはもう終わっている。風邪を引いても問題はない」
「問題ないって、土日は家族旅行だろ?」
「姪と甥の子守だ。仕事だよ」
「仕事か」
「それもタダ働きだ。おお兄貴には世話になっているから仕方ないがな」
「……。結果、残念だったな」
蹴鞠部こっち陸上部そっちほど熱心じゃない。何ともない」
「ダレイだって頑張ってたじゃないか」
 窓辺の少年はまた雨雲を仰ぎ見た。少女は体を起こして、机に両肘を突く。
「明日の朝には晴れるそうだな」
「うん、それから大会の日まで晴れだって」
「雨が今日で良かった」
「うん」
 少女――ミーシャは微笑を浮かべた。彼女は今週末の大会に向けて調整中で、今日は幸いにして休養日であった。つい先刻まで同じく休養している部活仲間と駄弁だべっていたのだが、雨を警戒して思いのほか早く解散したため、そこで美術室にやってきたのである。
 今、美術室には四人の生徒がいた。
 その中で、この時間、この部屋を主な活動場所とする美術部員は一人だけ。
 彼女はミーシャの隣で一心不乱に本を読んでいる。
 タブレットの文章が切り替わる速度はミーシャには信じられないほどであり、さらにミーシャの信じられないことには、読書中の友人は自分が教室にやってきたことにも、それどころかこうして隣に座ったことにも気づいていないらしい。文字を追う彼女の瞳は燃えている。その額は内側から輝いている。
 彼女以外の美術部員は、三人いる二年生の一人が“セファ雨景派”とやらが好きだとかで、そのため新入部員の一年生二人を含めて顧問の引率で写生に行ったという。もちろん野外写生ではなく、どこかの飲食店でレクチャーをしているそうだ。もう一人いるはずの三年生は最近人生観に大変革があったとかで猛勉強を始めたらしく、部に籍は置いてはいるものの、完全に引退状態であるとのこと。人づてに聞いたその大変革には読書に耽るこのクオリア・カルテジアが大きく関係しているようだが、それについて彼女が話すことはない。そしてミーシャも、それを彼女に聞いてはいけないと思う。
 クオリア、ダレイ、ミーシャ、さて、美術室にいるもう一人はハラキリ・ジジであった。
 ミーシャは隣の机で一人座る、息をしているのかしていないのか、信じられないほど気配を薄くしているクラスメートに目をやった。彼は昨日、一昨日と二日続けて学校を休んでいた。だからてっきり風邪でも引いたのかと思っていたら、どうやらサボり癖が出ただけであったらしい。本日、彼はピンピンと登校してきて、しかも今もひっそりとしながら実に気楽である。
「ハラキリはいつまでここにいるんだ?」
 壁に掛けられている絵を眺めていたハラキリ・ジジは、いつも笑っているような目をミーシャに移し、
「お邪魔でしょうか」
「邪魔じゃないけど、あっちを手伝わないのかよ」
「必要ありませんから」
 ミーシャは唇を固め、目を細めた。
「だけど、お前が言い出したんじゃないか」
「ええ」
ってきたのもお前だったよな」
「ええ」
「それでニトロに作らせておいて、そうやって怠けてるのか?」
「手厳しいですねえ」
「あたり前だろ」
 ハラキリは小さく笑う。その笑みがミーシャには気に入らなかったが、一方で彼の眼差しには何か妙に文句を言わせない迫力――そう、迫力のようなものを感じて心が後退あとずさりしてしまう。
「……まあ、そう言うあたしも、おんなじで、待ってるだけだけどさ」
 腕を組み、ミーシャがたどたどしく言うと、ハラキリはまた小さく笑った。その笑みにまた彼女はどぎまぎしてしまう。迫力――そうだ、それは彼にこちらの心を見透かされているように思えてならないから、そう感じてしまうのだ。
「実際、手伝いは必要ないんですよ」
 負けん気を奮い起こしてミーシャはハラキリを見つめた。彼は肩をすくめ、続ける。
「人手は余るほどあります。行ってもやることがないのなら、何用か呼び出しがあるまで待っていた方がいい」
「余る? キャシーとフルニエと、クレイグがいるだけだろ? 言うほど余るか?」
「それに園芸部が三人」
「園芸部? なんで?」
「朝、収穫している時、部長さんに会いました」
「う?――うん」
「昨年、ニトロ君が『レモンカード』を作ったの、覚えています?」
「あー、屋上のレモンのやつな。意外に美味しかったよ」
「それを作ったことがちょっと話題になったでしょう」
「うん。なんでかネットニュースでも見た」
「部長さんは勘の働く方のようでしてね、拙者が夏みかんを収穫しているのは、ニトロ君が校内の果実を使ってまた何か作るからだろうと察したようです。まあ、それは誤解だったわけですが」
「作るからじゃなくて作らされるから、のが正解だけど、結果的には同じだな」
「おやまた手厳しい」
「いいだろ?」
「いいですよ。
 それで彼女はしきりにニトロ君が何を作るのかを知りたがりまして」
「なんで?」
「何で彼女が収穫の場に居合わせたと思います?」
「――あ。園芸部でも収穫しようとしてたのか」
「数がなければあちらに譲るべきでしょうが、それは問題ありませんでした。というより、むしろもっと持っていくように勧めてくれました」
「うん、で?」
「ニトロ君が何か作ります。それを園芸部でも作ります。それを宣伝材料に園芸部をアピールします。今年はまだ一年が入っていないようですからね。二年も一人しかいない」
「ああ……なるほど……大変だよな、それじゃ。でもそうか、それはいい宣伝になるよな」
「しかも『ニトロ・ポルカト』が関わるのが実に良い」
「……どういうこと?」
 彼女の質問に少々とどまった後、ハラキリは応えた。
「園芸趣味は、結構“上”で活かせるんですよ。マナーとダンスほど必須というわけではありませんが、まあ、一種の教養規制カルチャーコードみたいなものでしょうか」
教養規制カルチャーコード?」
「ドレスコードの文化版みたいなものです」
「例えば?」
「――
 よくあるでしょう? ある集団で前提となる知識。陸上好きならディクセン・バーンを知らないはずがない、蹴鞠キックアップ好きならハイレッドコシューマーズを知らなければニワカ、アニメ好きならあれ、クラシックならそれ、流行りのゲームをしていない子どもがハブられる等々、それは小集団でも力を持ちますが、それが階層で固定されると階層間の『見えない壁』になる――そういうやつです」
「ヤなこと思い出した」
「はあ」
「あたしもハブられたことある」
「大変でしたね」
「……。それで? 園芸が例えばどんな風に活かせるんだ?」
「例えば花言葉も知らずに花を贈れば教養無しというレッテルを頂戴します。逆にそれをいきに効かせることで好印象を与えることもできる」
「うん、で?」
「……邸宅内の温室が社交室サロンになることもままありますからね、話題に困った時は――そろそろバラも見ごろですね、というように、それこそ天気の話題と同じように扱うこともできる。そもそも母星うちの園芸趣味は貴族の『庭園』が主な源流の一つですから」
「そうなんだ」
「そうみたいですよ」
「それから?」
「――……暇に飽かせた貴族や好事家こうずかが庭を自慢することも、やはり未だにあります。庭師が当主の一番の相談相手なんてことも聞く話です。となればご婦人のみならず、紳士も知っておいた方がいい。上流社会と言っても“流れ”は色々ですから文化への造詣なんぞ不必要なものでもありますが、宇宙時代に入ってからの内文化誇示の傾向は今も根強い、貴族社会はその性質上保守的ですから、特に。だから将来貴族そちら方面のコネクションを講じたいと思うのなら、まあ、暇な学生のうちに触れておくのも良いでしょう」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……あのさ、先生」
「……はあ、先生ではないですが、何でしょう」
「よく聞くけど、貴族社会ってやっぱり保守的なのか?」
「わりに」
「でもほら、オペラ界の異端児とか、鬼才過ぎて業界のトラブルメーカーだとか、文壇とも出版社とも喧嘩してる作家とか、そういう改革って言うかさ、アウトローみたいな人達のパトロンになって発表の場を提供し続ける貴族ってのもよく聞くぞ? 他にもどっかの領主が先鋭的な活動家を後押ししているとか、ティディア様だって大暴れしてる」
 最後の言葉にハラキリは思わず笑い、
「ティディア様は色々と例外ですよ。昨晩もニトロ君は大変だった」
「放送事故になりそうだったもんな」
「『アデムメデスごと事故るだろ!』」
「あはは、あん時のニトロには笑ったよ」
「ですから、あの方は基準にしてはいけません」
「うん、まあ、そうだよな……」
 物足りなさそうな彼女の眼差しに気づかないふりをして、ハラキリは言う。
「それで、確かに母星うちでは貴族社会が社会全体の流動性において重要な役割を演じています」
 ミーシャは――うなずく。その促しにハラキリは吐息混じりに続ける。
「しかしそれもまた、彼らの“社交”という慣行、“人を見る目がある”という仲間内の評価項目、“社会への影響力”という自尊心、“貴族として”という自負、時にそこに付け込む才能を装ったろくでなしや錬金術師のような連中に食い物にされることがあってなお、そういったものが彼らによって保守され続けている結果です。ミーシャさんが違和感を抱いたように保守的な階層によって流動性がたすけられているという点は面白いところですが、とはいえ誤解してはいけないのは、誰か引き立てられた人がすなわち『貴族社会の一員になった』というわけではないということです。その人がいくら貴族社会の一員になりたくても、その社会の成員から認められるまでは、たまたま転がり込んだ他山の珍しい石、それとも愛玩される才能、つまり他圏よそ様であることに変わりありません」
「……で、よそ様から本当の仲間内になるためには、さっきの『見えない壁』を越えなきゃいけないってことか」
「最低限。もちろん園芸だけでどうにかなるものではありませんがね」
「なるほどなー」
 肩をほぐすようにぐっと腕を伸ばして、ミーシャは吐息をつく。そして、
「で、そこにニトロはなんで関係が?」
「それを露骨に言わずとも、そういう方向性を連想させるに『ニトロ・ポルカト』は最適な材料じゃないですか」
「あ、ああ、そっかそっか、なるほど。……でもさあ」
「何でしょう」
「ハラキリはマジで物知りだよな。そんな事まで知っててさ」
「聞いたことばかりですけどね」
誰から?」
「Webから」
「あぁ……あ、なるほど……そっか……うん……そうか……」
「で、部長さんがそう言ったわけじゃないんですが、そうなんだろうなあと拙者はニトロ君に話しました」
「うん」
「その時、そこにフルニエ君もいました」
「うん」
「彼が園芸部を『ご招待』したようです」
「あいつ」
 ミーシャは苦笑する。
 ハラキリも内心で苦笑していた。
 まったく、ダレイかクオリアが会話に参加してくれればこんなに語る必要もないのに、彼は口数が少ない上に今は完全に聞き手に回っているし、彼女は本の世界に没入している。一方でミーシャが何でもいいから会話を求めてくるのはそれこそ露骨に理解できるし、それを無闇に拒否しては面倒なことにもなるだろう。この後の茶会に響く事柄は、できる限り避けたい。
「だからフルニエも手伝うって言ったんだな」
 苦笑したままミーシャは言う。ハラキリは、うなずいた。
「園芸部って女子が多い?」
学校SNSエスエス公式アカウントを見る限りは全員」
「それであんな大張り切りだったのか」
「良い所を見せたいんでしょう」
 ダレイがうなずいている。それに気づいたミーシャは未だ窓辺にいる彼に声をかけた。
「こっちに来て座ったら?」
「おお」
 別にどこにいてもいいが、誘いを断る理由もないという様子でダレイはミーシャの向かいに座る。クオリアはがつがつと読み続けている。
「だが、いいところを見せるのは難しいだろう」
 ダレイの言葉にミーシャが眉をひそめる。
「なんでだよ。フルニエも得意だろう?」
「ニトロは花も知っている」
「あ、そうか」
 そこでダレイは黙る。ミーシャはダレイからハラキリに目を移す。ハラキリは、頭を掻いた。
「加えてキャシーさんもいますからね。まさか女子を押しのけてまで第一助手になろうとはできないでしょう」
「押しのけたら顰蹙だもんな」
「ええ」
「でもなんかそれならごり押しでアピールするかな」
「それもまた顰蹙でしょうがね、しかしまあ、そこら辺はクレイグ君がいるから大丈夫でしょう」
「ニトロじゃなくて? ニトロがなにかとツッコんで止めるだろ」
「そうですね」
 ハラキリは肯定するが、ミーシャはそれが実際には否定だと理解していた。そうだ、彼の言う通り、この場合はクレイグで正しい。ニトロでも間違いではないが、それがより正しい。
「ハラキリってさ、全っ然あたしらに興味なさそうだけど」
 そこまで言って、ミーシャははっと口をつぐんだ。思わず出た本音にどうしたものかと迷うが、いいや、このまま途切れずに言った方がいいだろう。
「実際、よく見てるよな」
 ハラキリはミーシャの言葉に気を害した風もなく、さらりと応えた。
「そんなことはありませんよ」
「そうかあ?」
 彼女はあからさまに眉をひそめる。ハラキリは苦笑し、
「しかし興味はありますよ。例えば――」
 と、彼はミーシャの陰に目を投げた。
「クオリアさんは何をそこまで熱心に読んでいるのかな、と」
 ミーシャはクオリアのタブレットを一瞥するが、タイトルは判らない。
「『シンニョーグーン ジュウチーカラ』」
 そう言ったのはダレイだった。
「一昨日からずっとだな」
 ミーシャはそれがどんな本か知らない。が、ハラキリは眉を跳ね上げていた。
「そりゃまた随分な」
「え? なに?」
「古代の叙事詩ですよ」
「古代ッ?」
 ミーシャはまたクオリアのタブレットを横から覗く。文章は現代訳されているが、それでも文体はいかにも古めかしい。
「なんでも読むんだなあ、クオリアは」
「この前は何でしたっけ」
「何だっけ?」
「『初恋しちゃってキュンキュンラ〜ブ』」
 そんなタイトルをゴツいダレイが真面目くさった顔で答えるから、ミーシャは思わず吹き出してしまった。彼女の笑い声を聞きながらハラキリも笑顔を作らずにはいられなかったが、反面、彼は嫌な予感に襲われていた。
 クオリアが読んでいるその叙事詩は、非常に珍しくスポーツを主題に置いている。それは競技者の力や技を通して神を賛美するという形を取りながら、古代のボクシングやレスリング、各種陸上競技に剣や弓などの武器術まで、時には俗人的なエピソードも挟みつつ当時の観衆が感じていたであろう迫力、興奮、そして感動を現代に伝えるものとして実に名高い。また当時の美意識を反映した肉体の描写は比肩するものがないほどに秀逸である。
 クオリアの勢いは先ほどよりも減じていた。
 その瞳には早くも余韻が現れているように思われる。
 おそらく、既にクライマックスを読み終え、今は、当時の叙事詩の定型らしく終章に置かれた神々への讃歌に陶酔しているのではないだろうか。
 笑い終えたミーシャはこれを機会にダレイへ会話の矛先を向けていた。タイトルに反して中身はなかなかエグいらしい十代前半向け娯楽小説スナックノベルの『しちゃってシリーズ』が二人の間に話題を提供したようだ。
 それを幸いと、ハラキリは立ち上がった。
「ちょっと用を足してきます」
「え? ああ、うん」
 ミーシャがうなずき、ダレイもうなずく。
 ハラキリはすうっと美術室を出て行った。ドアが開いた時、どこか遠くから雨音が聞こえた。ドアが閉まり、音は止んだ。
 彼の引き締まった背中を見送った後、ミーシャはダレイとの会話に戻った。
 それからしばらくすると、
「は〜〜〜!」
 突然、大きな息をついてクオリアが天を仰いだ。
 驚いたミーシャが「わッ」と声を上げると、それに気づいて彼女は言った。
「あ、ミーシャも来てたんだ」
「うん……来てた」
 改めてミーシャは驚く。やはりクオリアは気がついていなかった。隣でハラキリと、ダレイと、声を潜めることもなく話していたというのに。
「……読み終わったの?」
 ミーシャが問うと、クオリアはタブレットを胸に押し当てたまま力強くうなずいた。
「素晴らしかった! 嗚呼、人と神の生きた世界! 詩想の燃えた血肉の時代! 野蛮で崇高な力への讃歌! 私は古代の息を呼吸した! 嗚呼、何て素晴らしい!」
「そ、そう」
 こけた頬を活き活きと赤らめ、むしろギラギラと瞳を輝かせるクオリアの迫力にミーシャは思わずたじろぐ。しかしそんな友人のことはお構いなしにクオリアはもう一度大きくうなずくと、机の向こうからこちらを見守る筋肉質の男に目を向けた。
「ダレイ」
「おお」
「脱いで!」
「おおッ?」

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