(『第二部 第 [3] 編』の前)

 突然、ティディアが言った。
「ねーニトロ、車買うんでしょ?」
 ニトロの顔が苦虫を噛んでもこうはならないほど歪んだ。
「どこで聞きやがった」
「私達に相応しい車を選びましょうね」
「お前とは絶対に選ばないしどこで聞きやがった」
「保険の事も相談しましょう。どれだけ人身事故を引き起こしてもお咎め無し、賠償金むしろ相手持ちの絶対保険よ、しかも月々の支払いが無料なの」
「わー、お徳!――阿呆ッ!」
「内装のことにも相談が必要だけど「無用だって「何よりもまずは「おい「――免許よね」
 グッと顔を寄せられて、ニトロはぐっと息を飲んだ。ああ、これが本命か……間近にあるティディアの両目は弓なりに、細められたその奥で黒と紫の光彩がキラリと光を反射している。
 ニトロは内心、うなだれた。
 免許――(地空両用)普通自動車自動運転限定免許は最短一日で取得できる。朝から夕まで指定機関にて直接講習と運転シミュレーション――自身は運転しなくとも責任者として状況把握・対応能力を確認するための仮想実習を受けた後、学科試験にパスすればその時から自家用車を“走らせる”ことが可能である。
 そこでニトロは、今週末、最寄りの運転免許試験場に行くつもりだった。
 そして今週末、王女ティディアは北大陸に行っているはずだった。
 ……いや、王女はやはり予定通り北大陸に行くのだろう。しかし遠隔地からでも邪魔をしてくることはいくらでも可能だろう。さらに、公私混同も甚だしいが、そういう『認可』の是非などこいつにはお手のものだろう!
 ニトロには免許が是非にも必要であった。
 それに、車を運転することを、芍薬は本当に楽しみにしている。
「分かった」
 渋々、ニトロはうなずいた。このクソ女の要求は解っている。その目当ても、判っている。
お前の指定機関で受ければいいんだろう?」
 降伏した彼に――しかしその目に宿る不屈の抵抗力に、ティディアは満足げにうなずいた。

 果たしてニトロの予想はやはり的中した。
 北大陸は北副王都ノスカルラの郊外の、うら寂れた地区の運転免許試験場にて講習を受けていた彼は、道交法についての講習と、自動運転特別指定A.I.に設定した芍薬との共同シミュレーションを終えた後、昼食の時間を潰してまで急ぎ救命講習の講義室にぶちこまれたのである。
 ――彼は、当然予想し得たのだ。
 あのバカが狙いとするならこの救命講習こそが、そうであろうと。
 何故なら、全ての車には人工呼吸器やAEDをまとめた小型生命維持装置一式を装備することを義務付けられているが、何らかの理由によってそれらが使用不可になる可能性もあり得る、あるいは維持装置の数が負傷者に足りないという場合もあり得るだろう。そのような不測の事態に備えて、免許取得希望者は何の装置も用いぬ心臓マッサージや止血などの手法を学ばねばならない。つまり、そのためこの講習にはA.I.の参加が公的に禁じられているのだ。そしてこれに合格せねば免許取得も自動的に不可となるから、必然、講習を邪魔してマスターに不利益をもたらすオリジナルA.I.などいるはずもない。
「……」
 ニトロは眼前に横たわる女を見下ろしていた。
 気弱そうな中年指導員が青白い顔からさらに血の気を引かせて何やら講じているが、その声はかすれにかすれて聞き分けるのは至難である。
 だが、何を言われずともニトロは全てを理解していた。救命方法についても念入りに予習をしてきている。ああ、指導員よ、あなたは身振り手振りも交えてこちらを納得させようとしているようですが、いいのです、解っているのです。この訓練を『生身に見えるほど精巧な訓練用の人形』を相手に行わなければならないことなど、既に解っていたのです。
 しかし、こいつは解っているのでしょうか
「え、えー、それでは、えー」
 青白い額から絶えず流れる汗をハンカチで何度も拭い、ここからが本番だとばかりに声に力を込めて指導員が言う。
「こちらの『お人形様』で実践してみましょう。まずは、えー、キスして、あいや、人工呼吸を訓練しましょう」
 言い間違えを慌てて正した指導員がいよいよ汗を滝とする。一方体温の冷えきったニトロは、唇をにゅっと突き出した『お人形様』を見下ろしたまま、指導員へ問う。
「テキストには人工呼吸より心臓マッサージを優先するようにありますが」
「あ、ああ!」
 実際、テキストにおいて人工呼吸の優先度は低い。心肺停止状態の相手に対し、未熟者が下手に人工呼吸を試みるよりも心臓マッサージに専念することが推奨されている。それを指摘されてしまった指導員は硬直した。人工呼吸だ、人工呼吸だ! 私は人工呼吸に導かねばならぬ。だが受講生の指摘を覆すだけの理屈が思いつかない。体が凍りつく。人工呼吸、人工呼吸だ! マウス・トゥ・くちびる! 汗が止まらない!
 異様な気配を感じてふと目を上げたニトロは、大きく目を見開き青褪めた60手前の男のその顔を見て、ぎょっとした。
「ああ、えー、ああ」
 やっと指導員が声を発した。その声はひび割れていた。壊れかけていた。
 それを聞いた時、ニトロはふいに悟った。
 己の突き出した正論がこの指導員を追い詰めてしまっているのだと、彼は、理解してしまった。
 だが、ああ、この人に一体何の責があろう? 左の薬指に指輪の光る彼には守るべき家族があろう。いや、例え家族がなくとも、生活の安泰を願う彼をどう責めることができよう? 大体彼に選択の余地はないのだ。強大な力を振りかざすバカに強いられれば、よほど破滅的な頑固者か、ただの愚者でなければおいそれと抵抗などできはしまい。それなのに今、ある種特権的にその暴力の支配を受けぬ人間が彼に新たな圧力をかけたところで一体何になるというのだ? 強制され逃げ場のない者の顔に哀れを誘うだけだ。そんな大人の顔を見るのは辛い。いっそそれを軽蔑してしまえば楽にもなろうが、軽蔑するにも心が苦しい。
「――ですので、不安があるので心臓マッサージを先に練習したいのですが」
 何が『ですので』なのかはともかく、ニトロの要望は指導員を救命した。それは妥協できる要望であるし、その上で『王女の恋人』からそう望まれるのであればこれもまた正論になる。
「は、はい、はい、いいでしょう、きっとお許しいただけるでしょう、ではまずは、心臓マッサージからいたしましょう」
 その時、唇をにゅっと突き出していた『お人形様』が不満そうに眉をひそめ、それを見た指導員は心臓を瞬間的に止めたが、すぐに気を取り直した『お人形様』の頬が期待に赤らんだことで指導員はほっと息をついた。
 その傍らで、その光景を他人事のように眺めて、ニトロは微笑んでいた。
 ひどく薄く、双眸を軽蔑に染めて、微笑していた。
 そこはかとなく胸を張る『お人形様』は薄目にそれを見て、何やらゾクッときたらしく微かに身を震わせる。
 しかしそれは恐怖のためではない、それは、これから来るべき快楽の先走りであった。
「それではポルカト様、ご用意を」
 ニトロは横たわる『お人形様』の脇に膝をついた。
 指導員は己の役目のほとんどを終えた安堵に頬を緩めている。
 これまでずっと講義室の隅に潜んでいた影がそそくさと前に進み出てきた。
 しかしニトロはその人物を気にも止めず、教科書通りに左手の上に右手を添え、重ねたその手を『お人形様』の圧迫部位にそっと置いた。手の平が胸骨を覆う女体の柔らかさに出会い、指が乳房に埋もれる。
「あん」
『お人形様』が喘いだ。
 図らずも初老の指導員が色づく。
 少年はいよいよ冷める。
 きっとこのバカはこのようにエロさげなシチュエーションで触れ合うことさえできれば満足なのだろうし、これを一つの誘惑ともしているのだろう。だが……
「いち、に、さん、し、ご――を絶え間なく六回ですね?」
 リズムを確認する受講者へ指導員はうなずく。
「いち、に、さん、し、ご、を絶え間なく六回で、ございます」
 ニトロは姿勢を正し、腕を真っ直ぐ伸ばして肩と肘を固定する。
 手に伝わるのは『お人形様』の鼓動と、体温。
 その体温はとても魅惑的な温もりで、薄衣を通してなお熱い官能を誘いかける。
 鼓動はまるで耳元で高く激しく鳴り響き、彼の意識は己の手の下で――薄い衣、薄い皮膚、柔らかな肉体の中で脈打つそれへとやがて吸い込まれていく。
 どこかで甘い吐息が漏れる。
 彼は大きく息を吸う。
「いち!」
 そして手の平の付け根を『お人形様』の胸骨に、否、直接その奥の目標へぐんとぶち込む!
「おう!?」
 すると『お人形様』の口からヤバげな声が噴き出した!
「に!」
「おあ!」
「さん!」
「あぐ!」
「し!」
「ぐぅ!」
「ご!」
「えぐぅう!」
 規則正しく心臓マッサージが行われる度、きっと正しく心臓マッサージが行われているからこそ『お人形様』が声を上げる。それは期待されていたはずの喘ぎ声ではなく、圧し潰された悲鳴であった。
「に! に! さん! し! ご!」
 実際、意識のある人間に心臓マッサージをすべきではない。
「ち! ょ! まっ! ん! うえ!」
 意識のある人間に心臓マッサージをすれば、それは拷問である。
「さん! に! さん! し! ご!」
「あん! ぐ! ぬう! う! んうう!!」
 うめく『お人形様』が目を丸くして手足をばたつかせる。どうにかして逃げたいのだろう。だが逃げられない。その額に冷たい脂汗が吹き出した。
「よん! に! さん! し! ご!」
 ニトロはあくまで冷静に機械的に繰り返す。
「やめ! あ! ぅん! ぐ! ぎ!」
 生きながら蘇生措置を受ける女は目を見開く。
 眼球が飛び出しそうな勢いで涙も溢れ出す。
 しかし少年は機械的である。
 正しいフォームで機械的である!
「ご!「ぎぶ!「に!「おぅ!「さん!「ほう!「し!「を!「ご!「うぇええん!」
 さて。
 虐げられる『お人形様』と容赦のない受講者の姿を眼前にして、傍らでこの地獄を見守る指導員は半ば気を失っていた。彼の脳裏には、彼自身が許可を与えたことによって導かれたこの事態から引き起こされるであろう(と思われる)不幸が渦巻いていた。妻の罵倒、娘の軽蔑、息子の失望、一家離散、寂しい老年。気づけば受講者はマッサージ二順目に突入している。指導員はさらに青褪める。同じ場所にいながら遥か対岸にいる見物人はキラキラと瞳を輝かせている。
「ろく! に! さん! しぃ! ごお!」
 そして計六十回目の掛け声を最後に、受講者は心臓マッサージの訓練を止めた。
 ようやく事の終わった『お人形様』は涙を流し、口元をよだれで汚し、薄衣を苦悶の汗で湿らせてぐったりと身を横たえた。肌は桃色に上気している。苦しげに、弱々しく息を乱している。
「……あの」
 しばらくして、ニトロは『お人形様』に目を奪われている指導員に問いかけた。指導員はハッとするや激しく咳払いし、
「な、なんでしょうか!?」
「この人形、不良品のようなので取り替えてもらえないでしょうか」
 指導員は唖然とした。この少年はそれを実に冷ややかに言い切った。まるで無情である。寒気すら覚える。しかし、指導員は目に止めた。――なんとしたことか! ティディア様は冷酷な少年から与えられた苦しみに、そしてこの残酷な仕打ちに、目を蕩けさせてより一層その麗しいご尊顔を朱く染めておられる!
 彼は信じられなかった。
 おお、王女よ、これでは貴女様はまさに変態ではありませぬか!
 自ら抱いたその疑惑に彼は判断力を完全に失いそうだった。
 今まさにこの目で見てしまった淫靡な女の表情。
 いつもの『クレイジー』な振る舞いは臣民を楽しませるためだと信じている男は瞼にちらつくその顔に激しく揺らぎ、助けを求めて講義室の隅に戻った見物人に眼で問うた。
 涼やかな麗人は、鷹揚にうなずいた。
「すぐにご用意いたします!」
 ほとんど金切り声で指導員はそう言うと、一度この場から逃れるためにも、講習用の人形を自ら運んでこようとドアへ向かった。しかし異常な疲労感に襲われて足をうまく運べない。よろめくように歩き、とうとうつまづきかけた時、彼は背後で言葉が交わされていることにやっと気がついた。
「ああ、本当に死んじゃうかと思った」
「いやホントお前はバカだわ」
「それでも手加減してくれるニトロが大好き」
「……マジで胸骨ぶち折ってやりゃよかった」
「そうしたら看護をお願いね。あなたが胸を優しくさすってくれたらすぐに治るから」
 王女のその声を聞いた時、指導員は電撃に打たれた。
 長年の“王家ウォッチ”の中で、それこそ嬰児みどりごの頃からその記録を見守り、敬愛し続けてきた姫君がこんなにも心安く戯れている声を彼は聞いたことがない。優しく、厚い信頼と深い愛。しかもそれを受け止められる存在と、その存在に頼るような甘やかさ。
 そして何より楽しげな笑い声を聞いた時、指導員は確信したのである。
 そうだ! やはり美しく聡明なるティディア様が変態であるはずがない! ああ、あれこそは正しく愛なのだ。やんごとなき御方の、私のような俗人には想像もつかない高みにある精神が見出せるばかりの愛の営みであったのだ!
 疑惑から一転したが故に過剰に美しく飾られた独自解釈によって自ら強烈な感動を味わいながら、ドアノブに手をかけていた指導員は一度振り返り、何やら取っ組み合いを始めた二人を微笑ましく見つめた。
 そうしてその日、王女が去った後には奇妙なほど親切になった指導員から講習を全て受け終え、試験も無事に通過したニトロ・ポルカトは(地空両用)普通自動車自動運転限定免許を取得し、交付された免許証に映る己の固い顔つきに思わず苦笑していた。
 これを見たら芍薬はどんな反応をするだろう? ハラキリには笑われるだろうか。
 何はともあれ免許を手に入れたことを喜ぶ彼は、翌日、目撃者による『激しい愛情交歓』の風説エピソードが世に広く流布されることになることを――当然、予想し得るはずもなかった。

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