「ステテコパンソン!」
「アヒュー!」
先に叫んだオールバックの男は全身全霊で直立不動の姿勢を取り、後に叫んだ金髪丸刈りの男は腰をクイッと傾け投げキスを送った。
いきなり投げキスを送られたのはショートカットの少女である。
彼女は飲んでいたミックスジュースを吹き出した。
それは投げキスに興奮してのことでは無論なく、ましてや少し離れた席から突然目の前に駆け込んでくるなりポーズを決めた二人の奇言がツボに入ったわけでもない。単純にその奇行にびっくりしたからだ。
彼女の隣に座る痩せぎすの少女は大きな目をぱちくりさせている。
木目調のテーブルを挟んでショートカットの少女の対面に座る細目の少年はハンカチで顔を拭いていた。その彼の隣に座る長髪の少年は、手拭きに使っていたウェットティッシュでテーブルを拭いている。
「ステテコパンソン!」
「アヒュー!」
二人の男は再び叫んだ。今度の投げキスは痩せぎすの少女に飛んだ。少女は野菜ジュースを飲んだ。
「あの……お客様」
真っ白なエプロンを着けた中年女性が足音を立てて近づいてきた。この喫茶店のオーナーである。彼女の手にする木を模したプラスチックのトレイの上で、引き下げ途中の空のカップや重ねられた皿がかちゃかちゃと鳴っていた。
「他のお客様のご迷惑になりますので」
「静粛にー静粛に!」
丸刈りの男が両手をメガホンにして言った。言葉を奪われたオーナーがびくりと震える。トレイの上で食器がぶつかる。オールバックの男が直立不動のまま、ちょっとだけ顎を上向け腹から叫ぶ!
「アハハノ半島!」
「アハッ!」
丸刈りが顎の下に両手を開いてにっこり笑顔で後に続いた! どうやらそれは合いの手であるらしい!
……。
おそらくは。
直立不動の男とは違ってどこか軽薄に何らかのポーズを取ることで対象性を生み出し、そのギャップとフレーズの響きとで笑いを得ようとしているのだろう。
緑の底とも言えるほど観葉植物で一杯の店内は、今、静寂の底に沈んでいた。
放射状に広がる細い葉の間から、または二重螺旋にねじれる幹の向こう側から幾つもの視線が騒ぎの中心地へ注ぎ込まれ、その眼差しに込められた感情が既に冷え切った空気をさらに凍りつかせている。
もはや誰一人声を発せる雰囲気ではない。
極寒を作り出す冷却機と化した二人は、しかしその逆境にこそ燃え上がったようにまたも声を張り上げた。
「カポンパン大雪渓!」
「カンパーン!」
叫んで、ポーズを取る。
「マダモン茄子!」
「ネギキューリ!」
叫んで、ポーズを取る。
「アサリドン山!」
「ハイドーン!」
叫んで、ポーズを取るだけである。
「モンソモッサイ!!」
「オルサイ!!」
そろそろ唖然としているオーナーが解凍されるか、それともショートカットの少女が怒り出すだろう。しかし二人は連呼し続ける。目の前に膨らむ怒気など全く意にかけない。額に汗をびっしょりと浮かべて彼らは叫ぶ。
「ププノプ峠!!!」
「アプー!!!」
すると長髪の少年が、「はぁ」と息を吐いた。
それは絶妙なタイミングだった。
叫びの直後ではなく、かといって間延びすることなく、言うなれば相手の声と共に吐き出された息がまた吸われたちょうどその時、風船が再び膨らみきろうとするその瞬間にスッと針を刺す……それはそのようなため息だった。
問題の二人は口を突然手で塞がれてしまったかのように目を見開き、息を飲んだ。と同時、額に浮かんだ汗が頬に流れ顎を伝ってぼたりと落ちる。
長髪の少年は己を凝視する相手にそこで初めて目をやると、言った。
「やりたいことは分かる。
けど、前振りもなくそれだけでお客さんを笑わせようっていうのはあまりに雑だ。ネタになってない。勢い任せに騒いでるだけでしかない。流れしだいじゃウケるかもしれないけど、その流れを作らなきゃ。でないとこれで笑えと無理矢理押しつけてるだけでしかない。それでも冷笑を買えるようなら御の字だけど、相手の苛立ちを買うだけならもうそれはギャグじゃない、騒音と変わりない、特にこういう場所で、空気も読めないならなおさらだ」
ニトロ・ポルカトの指摘は、店内に蔓延していた冷ややかさを圧縮して男達の耳から心の奥底にまで叩き込んだ。
二人の情熱が冷や汗に変わり、彼らは全身を強張らせて立ちすくむ。
が、やがて、丸刈りの頬が震え出した。その目に火が燃え、顔が赤く変色する。明らかな憤怒が眉間に亀裂を走らせ、今にも怒鳴り声を上げんとする彼に、ニトロ・ポルカトはさらに言う。
「コメディアンなら洒落た言い返しを願います」
先とは違い敬語に改めて、彼は相手に有無を言わさず続ける。
「でなければ、笑えません」
殺し文句だった。
文字通り、彼はその一言で『コメディアン』を殺した。
それでも何かを言おうとする丸刈りをオールバックが慌てて抑える。歯の隙間から荒い息を漏らす相方をなだめながら、オールバックも長髪のウィッグで変装した『ニトロ・ポルカト』を睨むように見る。唇が震えていた。プライドと矜持がそこに奇妙な顔色を浮かび上がらせていた。その男を『ニトロ・ポルカト』はまともに正面から見返した。
ニトロは、偉そうな能書きを生意気に語ったことを自覚していた。しかし彼は堂々と相手を見つめ続けた。それを支えるのは彼の負けん気ではなく、ましてや正義感などではなく、ただ彼がバカ姫の相方として参加してきたイベントで、舞台で、番組で、目撃してきた数々の芸人達の悲喜であった。
オールバックの男は、引き際を悟ったらしい。しかし彼は頭を下げなかった。いや、下げられなかったのだろう。彼はただ少年に目礼のみを送り、ついに口汚く喚き出した相方を引きずるようにして店から出ていった。
と思ったらすぐに一人で戻ってきた。
戻ってきた男を店内の全員が驚きと不審の眼で見つめる。
その視線の中で、男は気まずそうに言った。
「お会計を」
どこからともなく笑い声が上がった。
しかしそれは瞬時に治まった。
その笑いが嘲りであった以上、男の怒りを買うことを恐れたのだ。
オールバックの男は、再び静まり返った店内に足音を鳴らしてやってくるオーナーを待った。
皆が男に注目していた。
静寂に奇妙な緊張感が
男が、急に、姿勢を正した。
何事かと皆が緊迫する。
男は声を張り上げる!
「ステテコパンソン!」
「もういいわ!」
即座に反応したのはニトロだった。
それは怒声ではなく、ツッコミだった。
一つ、間があく。
その隙間に予期せぬボケとツッコミの余韻が反響し、“観客”の心をじわじわと侵していく。
じわじわと、笑っては、いけないと張り詰めていた空気を、刺激していく。
じわっ。
初めに噴き出したのはショートカットの少女――ミーシャだった。何がおかしかったのか彼女にはよくわからない。ニトロがツッコミを入れたため面白くなったのか、あるいはそれによって会計に戻ってきた男の滑稽を笑っても良いと許されたからなのか。いずれにしても彼女はいつの間にか温まっていた空気を吸って大きな笑い声を上げた。少女の快活な笑い声の伝播力は強く、隣席の男がつられて笑い出し、そして店内が爆笑に包まれる。
大きな笑い声の中で会計を済ませた男は、全員に向けて一礼すると逃げるように去っていった。
「あんなことがよくあるのか?」
平穏を取り戻した店内にはチェロの二重奏が流れている。興味深げに訊いてきたミーシャを一瞥し、ニトロは言った。
「たまにね。だけど俺一人の時に来るのは極稀だよ」
「一人の時?」
「ティディアに評価されたいのは山ほどいるから、イベント会場とか、楽屋近くとかでネタを披露してくるのがたまにいるんだ」
「矛盾してるわね」
と言ったのはミーシャの隣、ニトロの正面に座る痩せぎすの少女だ。シンプルなワンピース姿の彼女は野菜ジュースのストローを弄びながら言う。
「山ほどなのに、たまになの?」
「それだけの度胸があるのは少ないんだよ。そもそも警備に気後れするみたいで、ほとんどは二の足を踏んでる」
納得してクオリアはうなずいた。
「それに」
と、ニトロは続けた。普段の彼にはない饒舌さで、
「今はさ、よく知られてるんだ」
「何が?」
関心を示したのはミーシャだ。ニトロはその反応を歓迎した。
「ティディアの厳しさが。ダメ出しは辛辣だし、むしろダメ出しされるのは良い方で、大半は無言で却下、それともコメディアンとしての存在すら無視される。最悪業界で干される――あいつがそう命じなくても、それを知った関係者がそのコメディアンに『つまらない』の烙印を見るからさ。一度『つまらない』と決まったら使ってもらえなくなるのは自然な流れだろ? あまりにリスクの方が多すぎるんだよ。地道に活動していた方が断然可能性がある。そうしているうちにふとあいつに目を止められたのもいたりするから、営業しながらその幸運を期待した方が安全でもある。だから時が経つにつれて挑戦者はさらに少なくなってるんだ。……本人は、再チャレンジも待ってるみたいなんだけどね」
そこで彼は皮肉と冗談を混ぜ込んだ笑みを浮かべ、付け加えた。
「今なら再チャレンジしてきただけで評価が上がるかもしれないよ」
珍しく王女との“普段”の話をしてくれるニトロに、ミーシャは目を輝かせる。普段は友達を気遣っておくびにも出さないが、実はわりとミーハーなのだ。
喫茶店のオーナーがやってきた。ミーシャの前に大きなロイヤルパフェが、クオリアの前に小さなフルーツパフェが置かれる。ニトロの前にはガトーショコラ、ハラキリの前にはアップルパイ。頭を下げて去っていくオーナーは店を一時的に閉めてくれていた。といっても新規の客を受け付けないだけで、騒ぎの前からいた客は引き続き店内でゆっくりしている――ゆっくり『ニトロ・ポルカト』を盗み見、聞き耳を立てている。
「にしても、ニトロのダメ出しもなかなか辛辣だったじゃないか」
パフェに挑みかかりながらミーシャが言う。
「さすが、プロだな」
「そんなんじゃないって」
ニトロは苦笑した。フォークに刺したイチゴを口に運ぶクオリアがにやにやしているのが目に入り、彼は口ごもるようにして言った。
「あれは、色んな人の受け売りなんだ」
「ひほんなひと?」
プリンを頬張るミーシャにニトロはうなずき、
「色んなところに引きずりまわされてるから、色んな人が色んな人に誉められたり怒られたりしているのが自然と耳に入ってくるんだ。あれは、それのツギハギ。俺は笑いについて説教できるほどの人間じゃないよ」
「ふうん」
感心したのか納得したのか、ミーシャが鼻を鳴らす。口は甘味で幸せそうだ。Tシャツにジーンズというさっぱりとした服装の彼女は、ふと隣の女友達と自分とは食べる勢いも一度に頬張る量も違いすぎることを気にしたらしい。急に食べるペースを落として上品ぶりながら、おちょぼ口で言う。
「でも、どうせネタ見せ……だっけ」
「そう」
「ネタ見せするんなら、ちゃんと言ってからやってくれないとな」
「ニトロに気づいて、夢中で突進してきちゃったのね」
驚いたり呆気に取られたりしつつも男達への観察を怠っていなかったクオリアが、品良くスプーンを扱い小口にフルーツを食べつつ言う。
「きっと偶然巡り合ったチャンスに目が眩んだのよ」
「お陰でびっくりした」
と笑って、そこでミーシャは思い出した。
「そうだ。悪かったな、ハラキリ。ぶっかけちまって」
黙々と紅茶と焼き菓子を味わっていたハラキリは軽く首を振って応える。ミーシャはいくらか気の落ち着かなさを残しながらも安堵を見せ、それから彼の前で黄金色に輝いているアップルパイを見た。
「……それ、うまいか?」
ハラキリは手でどうぞと示した。ミーシャは早速一口もらって、目を細める。喉の奥で管楽器のような歓声が鳴った。
「これも美味しいよ」
ニトロの言葉に甘えて彼女はガトーショコラも堪能した。窓から差し込む初夏の日差しに映える彼女の笑顔に、ニトロとクオリアは微笑む。高校生活最後の競技会を終えた彼女への慰労を兼ねた今日の集まりに、先ほどはとんだ邪魔が入ったものだと思っていたが、結果としては悪いものではなかったらしい。
「まあ、チャンスがあるならチャレンジすることは悪くないけどな」
ミーシャが何気なく漏らした一言に、クオリアがうなずく。ニトロはその同意に幾重かの意味があることに気づいた。彼は目にかかってきた
一瞬、ニトロはひやりとした。
マスターの反応に感づいた芍薬が素早く『筆談』をしてくる。
ニトロはちらりと目を窓の外に移した。恐れた事態でなかったことには安心したが、とはいえ芍薬の忠告は無視できない。そこには人垣がもう幾重にもできつつある。
「俺は先に出るよ」
ミーシャが額に?マークを浮かべてニトロを見る。彼はそそくさとガトーショコラを食べながら言った。
「ちょっと化粧直しをしてくる。“映画館”で合流しよう」
その言い方と、そこに含まれた虚偽に笑みを刻んだミーシャは、吐息混じりに眉を垂れた。
「大変だな、ニトロは」
「もう慣れたよ」
笑顔のニトロをじっと見て、それからミーシャは笑顔を返した。
「頑張れ、ニトロ」
からかい半分とも、全て慰めともつかない彼女の声音にニトロは一瞬惑った。しかしすぐに無言のうなずきを返すと、カップも空にし、そして通り道を開けるために立ち上がってくれたハラキリの脇をすり抜ける。
「クレイグ達にも話しておいてくれ」
目深に帽子を被ったニトロが電子マネーカードを差し出しながら言うと、それを受け取ったハラキリは片眉を軽く跳ね上げ、訊ねた。
「ここは君持ちで?」
ニトロは苦笑した。しかしミーシャが何か言うより速く応えた。
「任せろ」
なおも抗議しようとするミーシャをクオリアが抑える。
ニトロはさっさと店を出た。
途端にざわめく人垣が押し寄せてくる。
笑顔で垣間をすり抜け彼は行く。
初夏の空。
快晴。
耳にミーシャの言葉がこだましている。
ニトロは笑った。
盛夏に向けて密度を増していく光が、とても気持ち良かった。
小吉
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