(『元おみくじ内掌編 大凶』の後)

 ニトロ・ポルカトが一人暮らしを始めて、三日目のことである。
「5時30分ニナ――」
 即座に目覚めた彼は部屋付きの汎用A.I.に応え、モーニングコールを止めさせた。
 呑気な母親に呆れられるほど最小限にしか物を置いていない部屋はすっきりしているというより殺風景で、雑に閉めたカーテンから漏れ入ってくる曙光が全体を寒々しく照らしている。
 彼はさっさとベッドを離れた。
 以前には憧れもした一人暮らしである。
 しかし、夢想に反してここには親元を離れた誇りも解放感も、寂しさもない。これからそれらを感じることはあり得るのだろうか。
 朝食に温めたレトルトの野菜スープはなかなか喉を通らず、結局、半分食べたところで食事を終える。
 そして手早く朝の支度を終えた彼は追い立てられるように家を出た。
 まだ6時前、通学にかかる時間を考えても早すぎる。
 だが昨日は7時だった
 ドアを開ける前にニトロはインターホンのカメラで外の様子を確認し、ドアを開ける際にもまず少しだけ押し開けて、首だけを出して左右を確認し、廊下に人がないことを納得してから忍び出る。やはり静かにドアを閉めた彼は、鍵をかけるのはエレベーターに乗ってから、遠隔操作でロックしようと決めていた。何故なら、何かあった時には部屋にすぐに逃げ込めるようにしておかねばならない、その時にはきっと開錠にかける手間が惜しくなるだろう。
 マンションの外廊下は静かだった。
 下の道には二・三の人影が見える。勤務地が遠いのか、早出を強いられたのか、疲労の抜け切らないサラリーマン達だ。
 少し先で大通りに合流する角に人影が覗く。ニトロはびくりとする。角を曲がってこちらにやってきたものがジョギング中の老人であることを目視して、彼は息をつく。
 挨拶が交わされることなく人の行き交う道には通学・通勤のピークを前にした一種の緊張感が漲っている。
 ニトロは緊迫していた。
 彼は可能な限り足音を殺して廊下を進んだ。
 エレベーターホールに辿り着き、周囲を見渡してから、呼び出しボタンを押す。
 二基のエレベーターの片方は地階にあり、もう片方は最上階にあった、それが下りてくる。
 エレベーターがやってくるまで、ニトロはしきりに周囲を気にしていた。
 特に背後を何度も振り返った。そこに誰もいないのは判っているのに、それでも背中に視線を感じて振り返らざるを得ない。
 天井も見る。
 電灯がある。監視カメラがある。彼はカメラをジッと見つめた。
 エレベーターが一階上にきたところで、彼は目を前に戻した。エレベーターの外扉には小窓がついていて、そこから内部が見える。暗い小窓に、ふいにギロチンが落ちたかのようにカゴの底部が現れた。やがて小窓の上辺に明かりが差す。カゴの内扉の小窓からこぼれる光が窓枠を満たしていく。そしてその光が窓を完全には満たさぬうちに、ニトロは瞠目していた。
「ヒッ!」
 思いもよらず、彼の喉が引き攣る。
 小窓の向こうには人がいた。
 女である。
 ビジネススーツを着て、纏まらない髪型を気にするように手を頭にやり、さながら遅刻寸前であるため非常に焦っている、女である。
 彼女は口にトーストを咥えていた。
「わ、うわあ!?」
 ニトロは踵を返すやエレベーターホールから脱出し、外廊下を全力で走った。慌しく足音を立てて。背後に感じる視線。しかし彼は振り返ることなく――いいや振り返ってはならない!――とにかく息をする間もなく走る! ドアノブに手をかける、もしロックされていたら? と一瞬疑惑にかられてゾッとする。が、ドアは開いた。彼は背後に迫る足音を聞いた。何やらもごもごと濁った声も聞いた。彼は身を千切るようにして最小限に開いたドアの隙間から内側へと体をすり込ませると渾身の力でドアを閉めた。手動でロックし、ドアガードをかけた。その時、
 ドンドンドンドンドン!
 目の前のドアを激しく叩く音がして、ビクリと体を震わせたニトロはよろめくように後ろに下がった。
「うぅ……ッ!」
 ガチャガチャ、ガチャガチャとドアノブが外から回される。ドンドンドンドンとヒステリックにドアが叩かれる。声は聞こえない。ドゥン! ドゥン! とドアに体当たりをしているような音に変わる。それでも声は聞こえない。だが、きっと何かを言っている。
 ニトロは頭を抱え、その場に座り込んだ。
 携帯モバイルを取り出す。
 助けを求めよう。彼に、親友に、助けを求めよう。例え友情に応えてくれなくとも依頼ビジネスには応えてくれるハラキリ・ジジに救助を乞おう。
 切実な思いで携帯の画面を見たニトロは、息を飲んだ。
 画面にはこんがりキツネ色に焼けたトーストをもしゃもしゃと食べる女の顔が映っていた。
 真正面からの顔である。
 女はトーストを食べている。ほとんど白目に近い上目遣いで、ただ一点、じいっとこちらを見つめて食べ続けている。そういえばドアはシンと静まり返っていた。
 彼は携帯を投げ捨てた。
 慌ててインターホンのモニターを表示させる。
 するとどうだろうか、やはり女はそこにいた。
 しかし女はもうトーストを食べてはいなかった。
 今の短い間に全てを食べ切ったとは思えない。捨てたのか?……いや、そんなことはどうでもいい。それよりも彼の心胆を寒からしめた事実は、ドアの前にいる女が髪で顔を隠し、その爪でドアを掻いていることである。防音の利いたドアは殴打ノックの音は届けても、爪で引っ掻く程度の音は内部に響かせない。なのに、どうしてだろうか、彼には聞こえる気がした。モニターに映る女が鳥の足のように開いた両手をドアに当て、上から下に、キィぃ……キィぃ……と何度も掻き立てる音が彼には確かに聞こえた!
「あああ、あああああ」
 ニトロが震えていると、ふいに女の動きが止まった。かと思うと、くるりと、突然女がカメラへ振り向いた。
 そこには乱れ髪の内から覗く、絶世の美貌があった。
 美しい。
 美しいからこそ、ああ……
 女は非常にゆっくりと、まるで直接愛しい男と顔をつき合わせているかのように、ゆっくりと、唇を引き上げてにんまりと笑った。
「うあああああああ!」
 ニトロはもう玄関にいることはできなかった。ドア一枚を隔てて女と向かい合っていることに、物理的な隔たりがあってもなお向かい合っていることに耐えられず、靴も脱がずに部屋の奥へ駆けていった。
 このままベッドに入ってしまおう。
 そうして頭から毛布をかぶって目をつむろう。
 それで現実から逃避できることはできないと頭の隅で理解しつつも、彼にはそうすることしかできない。例えこれがどんなに滑稽であろうと、そうすることしかできそうになかった。
 ところが彼はそれすらもできなかった。
 彼が玄関から居室に至るまでの短い廊下を抜け切った時、突然、クローゼットの扉がひとりでに開いた。
 そしてその内側から、人影が滑り出て――
「ひ!?」
 ニトロの眼前に、ピンク色の新妻エプロンをつけた女が立ち現れた。女は艶めく黒紫色の髪を後ろでまとめて、カーテンの開け放たれた窓から差し込む朝の光を背負い、逆光の陰の中から魂をも吸い込むような深い色合いの瞳を彼に向けた。
「あら、お早いお帰りなのね」
 ころころと転がるような、同時に喜びを帯びた甘い口調で女は言った。その華やかな声音の底には、男の淫を誘う媚が潜んでいる。
「どうしたの、あなた。まあ、そんなに青い顔をして」
 眉根を寄せ、驚いたように、そして心底労わるような顔をして歩み寄り、女は手を伸ばした。
 その手を、ニトロは避けようとした。
 しかし彼は動けなかった。
 膝から力が抜けている。なのに脚は棒となったかのように硬直している。体は冷え切っているのに、頭は燃え上がったように熱い。硬直している。冷静な判断ができない。
 無理もなかった。
 彼には全く理解できなかった。
 確かにこいつは外にいたはずなのに、おお、まだベランダから突入してくるならまだ理解できる。だが、何故こいつはクローゼットの中から出てきたのだ? いたのか? ずっと居たのか? 潜んでいたのか!? いつから? あああ、それはいつからだ!?
 そっと、女の手が彼の頬に触れた。
 彼はびくりと震えた。
 恐怖か――それとも、女の手の、女の細い指の淫らな動きに――逆らいがたい官能のためにか?
「かわいそうに、よほど怖い目にあったのね?」
 混乱のあまり機能停止するニトロに身を寄せて、ティディアはまろやかに言う。
「大丈夫よ、ニトロ。あなたを怖がらせる人は私がこらしめてあげるから、ね? 私のニトロ、可愛いあなた、安心して、落ち着いて、何も怖がらなくていいのよ」
 彼女はそっと彼の頬に当てていた手を彼の首の後ろに回すと、優しく引き寄せた。
「私が守るから。
 私が、慰めてあげるから」
 ニトロはティディアの胸に抱きとめられていた。顔が柔らかな乳房に埋まる。甘い匂いが脳幹をくすぐる。
 頭を、彼女が優しく撫でてくれる。
「愛するニトロ、私の大事な旦那様」
 震える、声。
 女の体は男を飲み込まんとするばかりに、奇跡としか思われぬ感触で彼の心までをも包み込む。エプロンと、その下の部屋着を隔ててもなお伝わってくる女の体温に感情までもが溶けていく。
 首筋を女の指がなまめかしく這う。
 膝だけでなく、彼の腰から、臓腑からも力が抜けていく。
 女の崩れそうで崩れることのない柔和さが、母性、あるいは原初の愛とでも言うのか、得も言われぬ感動を以て彼を安堵させようとする。
 ――と、その安堵が、突如、彼の混乱した脳裡に理性の宿る隙間を与えた。
 そして彼の理性はその刹那、恐怖を理解した
「――うわ」
 ニトロが己の胸の中で漏らした声に、もはや勝利を確信してほくそ笑んでいた女は眉をひそめた。
「うわ?」
 ティディアの声を今一度聞いた時、ニトロの恐怖は爆発した!
「うわああああああああああ!!!!!」
 爆発する恐怖に理性が掻き消される最中、ニトロは何か恐ろしい声を聞いた気がした。
「うぎゃあああああああああ!!!!!」
 その身の毛もよだつ断末魔の声は、どうして、一体どこから聞こえたのだろう?

 ニトロ・ポルカトは、気がつけば教室にいた。
 教室――そう、学校の教室。
 しばらくぼんやりと虚空を見つめた後、彼は制服のポケットを探った。携帯がある。取り出して見る。ホーム画面が表示されている。時刻は6時40分……ちょうど6時に家を出て、のんびり歩いて電車に乗ってきた場合の通学時間が経過したくらい……。
 当然ながら、教室には彼一人だけがいた。
 彼はふと思い当たって慌てて体を検めた。
 何も異常はない。
 それから記憶の欠如している間、何があったのかを必死に思い出そうとした。
 が、何も思い出せなかった。
 ただ、最後に聞いた気のする絶叫だけが、耳の底にこびりついている。
 ――悪い夢を見続けているような気分だった。
 現実感がない。
 席に着き、机を撫でてみる。
 物に触れている実感があるのに、脳はそれを受け入れることができないでいる。
 やはり夢を見ているのだろうか。
 ベッドの上で目覚めることができずにうなされているのだろうか。
 ……いや――違う。断じて、夢などは見ていない。
 俺は起きていて、これは、そう、
「現実だ……」
 ニトロは呻いた。
 どこをどう通って学校までやってきたのかも解らないが、判り切っていることはある。今日も家に帰らねばならないということだ。そして今夜か、また明朝か、昼夜を問わず、いつ何時なんどきかも問わず、再び、何度でも繰り返されるであろうあのクレイジー・プリンセスの襲撃を恐れなければならないということだ。
 貞操の危機。
 人生の危機!
 しかし、何故帰らねばならないのだろう?――ふとそんなことを思って、ニトロはすぐに思い直した。
 家に帰らねばそれを避けられるというならば、いますぐ家を捨てて放浪しよう。
 それでは帰らねばそれを避けられるのか?
 そんなことはない。
 どこにいたってアイツはやってくる。
 ハラキリ・ジジに匿ってもらおうか? だが、匿ってもらったところでそれも一時的なことに過ぎない。場合によってはむしろ悪いことにもなりかねない。
 それに何故、俺は一人暮らしを始めたのか。
 確かにそれは『王女の恋人』にまつわる騒ぎから実家に迷惑をかけないためということもある。
 と同時に、これは戦いなのだ、闘争なのだ、あのクソ女への抵抗のための根城であるのだ! あの部屋は。
 解放感など一つとてない、一人暮らしのあの部屋は。
 やはり帰るしかない。
 自ら選んだ、あの部屋へ。
「現実なんだ」
 静まり返った学校の一室で、額に手を当てて、ニトロはそう繰り返した。

大凶

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