天空茶会

(番外編『おみくじ2015 大凶』の後)

 ニトロは困惑していた。
 イベント出演のための移動中、用意された中型飛行機に乗り込むと、そこはまるで瀟洒な館のティールームであった。
 ――それは良い。
 タラップ昇るとラブホテルだった、なんて事態に比べれば快適至極である。いかに芍薬が有利な“安全条約”を締結せしめたとはいえスケジュールの都合上1800kmの空を『敵』と同道せねばならない状況で、正直言うと拍子抜けした感さえあった。
 では何がニトロを困惑させたのか。
 それは、そこに一人の貴婦人がいたためである。
 仕事を始めてから様々な人々と接触する機会も増えたが、このような――何分後かには離陸である!――閉鎖的な空間で新たな出会いとなると初めての事態だ。
 彼は態度には出さずに身構えた。
 その貴婦人が動きを見せる。
 彼女は淑やかに辞儀をした。
 優雅で洗練された礼であった。
 ……それだけであった。
 彼女の落ち着いた色彩のドレスはフォーマルとまではいかなくとも王女を迎えるに足るデザインで、しかも当人の顔立ちをよく引き立てている。首にはアデムメデス国教会の象徴イコンが下げられていた。それもアクセサリーというようなものではなく、いささかそのドレスには不似合いなほど質素なものが。
「今日のこの日を、お待ちしておりました」
 そう言って、彼女は顔を上げた。その華美な顔立ちは娘時代を遠く過ぎた現在でも若々しい。そしてこの美貌への自意識は自制してなお強いのだろう、それが高慢な光となって額の奥から眉の間へ滲み出している。しかしその高慢さこそが彼女の若さを支えているように、魅力的ですらあった。
 ニトロには、この淑女への見覚えがある。
 記憶の糸を手繰る彼の隣で王女が言った。
「ご機嫌いかが? ヘイレン・ユウィエン・ラドーナ」
「姫様のご尊顔を拝しましたからには、我が胸に例え万の痛苦があろうと晴れやかな心地にならぬことがありえましょうか」
 ティディアは小さく笑った。
「そんな言葉が出てくるくらいには元気みたいね」
 ニトロは思い出していた。
 この貴族の婦人――父は小さな町の名士に過ぎないが、兄が学識と高潔さで知られる大司教であり、彼女自身もまた熱心な篤志家とくしかである。その盛んな慈善活動の一方で彼女はエクストリームスポーツをこよなく愛しており、王都で行われる様々なパーティーに頻繁に姿を見せ、メディア受けする容姿と物言いから多くの耳目を引きつけていた。齢は既に五十を超えているが、本人の弁によると若化療術リプロに拠らず美貌を保っているそうで、それ故に少なからぬ信奉者も持つ女性であった。
「お初にお目にかかります、ニトロ・ポルカト様。こうしてお茶をご一緒させて頂きますこと、大変光栄でございますわ」
 ニトロは仰天した。あまりに慇懃に挨拶されて動揺してしまうが、これもバカ姫の何か良からぬ企てに違いない――例えこれが“メイン”でなくとも何らかの“イベント”に関係しているに違いない――という猜疑と警戒心によって彼は平静を取り戻し、ユウィエン・ラドーナ婦人へ自分なりに挨拶を返した。それは王女と時間を共にするうちに何度となく見た所作の見よう見まねであり、本式に上流社交界で薫陶されたわけではないことが明白であるものの、少年が懸命に紡いだ言動は幾らか不細工ながらもそれだけに誠実であった。
 ラドーナは『ニトロ・ポルカト』の挨拶を気立て良く受け止めた。
 婦人の半ば感嘆を込めた笑顔にニトロは安堵しつつ、その反面、彼女の目つきの中に一点奇妙な違和感を見つけて幽かに眉を寄せた。それは明に暗にティディアと戦い続けているために明敏となった彼の神経が感じ取った“何か”であった。しかし“何か”以上には解らない。婦人は最後に王女の執事へ言葉を与えている。彼は婦人の横顔からティディアに視線を移した。王女は微笑している。それが彼をまた、警戒させる。
 だが、過敏な少年を面前にして婦人がその警戒心に気づく様子は全くない。彼の――己の客ではないにせよ――客人を不愉快にさせまいとする生来の人の好さが、その『“恋人”への敵意』までをも意図せず覆い隠してしまっていたのだ。
 ヴィタが姿を消し、三人が席に着くと飛行機は離陸した。
 機体が安定したところで、ヴィタがティーセットを携えて戻ってきた。

 ニトロは困惑していた!

 眼前で繰り広げられる王女と貴婦人の会話は、有り体に言って自分とは違う世界の住人の会話であった。二人はニトロの馴染む母国アデムメデス語を用い、かつ平易で一般的な単語を操っているのにも関わらず、しかしその言葉の節々に込められるニュアンス、あるいは価値観までもがどこか違う。彼には上流社会のご婦人方が彼にも理解できているはずの話題の中で一体何によって笑っているのか理解できないことが頻繁にあった。
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――普段からバカ姫と呼び慣れた第一王位継承者が、こんな時にはあまりにも遠い存在に思える。
 ……できればそのまま疎遠な所に居続けてほしいものである。
 が、ニトロがそう思った瞬間、ティディアはまるで心を読んだかのように身近な話題をこちらへ振ってきた。彼が内心戦慄しながらそれに応えると、今度はラドーナが何か再発見した世界を覗き込むかのような目つきで話を合わせてくる。しかし平凡な会話は長続きすることなく、話題はまた社交界の内枠へと吸い上げられてゆき、すると少年はまた尾根をひたすら見上げる傍観者となる。そして時折、彼はその尾根に転落の危険性を認めるのだ。そう、所作も口ぶりも優雅な王女と貴婦人の交歓の中に、酷く剣呑な不安定さがふいに閃くのである。もしわずかにも足の運びを間違えれば谷底に転げ落ちてしまうだろう。山肌は剣山のように荒れていて、転げ落ちる最中にもきっと血だるまになってしまうだろう。ヘイレン・ユウィエン・ラドーナが王女に対しても“何か”を――それも極めて強い“何か”を抱いていることは確実であった。
 ニトロは思う。
 一体、何のために俺はここにいるんだろう?――しかも、
(何のために居させられているんだろうな)
 まさか上流社交界の会話を、作法を、見聞させるためか。いずれ俺を放り込もうという世界へ慣れさせるための一環なのだろうか。
 二人の女のお喋りは、その調子だけを聞いていればロマン主義のクラシック音楽に似ている。されど内容はロマンに冷や水をかける。
 慈善事業について語る際には高邁な精神が潤沢に溢れ、それにはニトロも思わず感心させられていたものの、しかし次の瞬間には二人の唇から溢れ出ていた清水が調子も色合いも全く変えずに某資産家が某伯爵の娘に贈ったネックレスの話題へと流れ込む。
 その贈り物は断片的な情報だけでも非常な価値を推測させるものであったが、王女と貴婦人のその愛の品への総評は“めたくそ”であった。特に嘲笑を浮かべることもなく、特に攻撃的な単語を使っているわけでもないのに、とにかく辛辣。口調に気品があるだけに嫌味極まりない。もしその資産家がこれを聞けば恥辱に赤くなり、貶められた己の品性に蒼白となるだろう。娘は娘で己が名誉を取り戻すために自らネックレスを投げ捨てるはずだ。
 なのに、全ては空々しく語られていた。
 敵の罠を疑うニトロが極限の集中力で二人の貴婦人を観察していたところ、どうやらその空々しさこそが上流の洗練と品格の証明であるらしい。少なくとも婦人の態度にはその匂いが芯から染みついている。ティディアは――解らない。ただ、とても自然に馴染んでいる。
 ニトロは側に控えるヴィタを一瞥した。執事は会話には無関心といった様子で涼やかに立つのみだ。彼はいよいよ困惑する他なかった。折角の紅茶も、スコーンも、誰かが王女のためにと精魂込めて作ったジャムも……味気ない……ジャムとはこんなにも薄っぺらい味がするものだったろうか。彼女らの会話にツッコミ所はある。無数にある。しかしツッコんだところで笑えない。笑えないどころか、そのツッコミまでもが恋に歓ぶ男女への侮蔑に転じてしまうことだろう。この場面に相応しい合いの手は、きっと自らも恋人達を安全地帯から殴りつける類の冷笑に違いない。
 と、ふいに話頭が翻った。
 ラドーナが言う。
「ポルカト様は、ティディア様へきっと素晴らしい贈り物をなさるのでしょうね」
 その問いかけには、明らかに婚約なり結婚なりの指輪のことが含められていた。しかしこの会話の流れでその問いをかけるのは一種の皮肉にも思えるし、実際、答える側には危険である。ニトロは笑った。頬に嘲笑が浮かばなかったことを我ながら感心しつつ、彼は言った。
「ティディアに似合うものなど、ありません」
 それはニトロなりの冷笑であり、またそんなものを贈るつもりはないという含意があった。今観察した限りの彼女らの流儀で測ってみれば、そのニュアンスはラドーナに容易に伝わったはずである。
 しかし婦人はそれを少年の恋人への『驚異の賞賛』――比類なきティディアにはどんな宝石もアクセサリーも及ばぬ、という賞賛だと受け止めたらしい。
「まあ、姫様! ニトロ・ポルカト様はなんというお方でしょう!」
 それは男を誉めつつも、実際には王女への惜しみない感嘆と賛辞であった。婦人の反応にニトロは失望しかけ、と、彼女のその表情の裏にはまたも“何か”があると感じた。そしてまたも、その正体を掴み切れなかった。
 そうしてニトロを困惑の渦中に弄ぶ茶会は一時間も進んだだろうか、大きく事態が変化したのは、突然だった。
「さあ、そろそろ時間でございますね」
 ラドーナがそう言いながら、いささかの躊躇いもなく立ち上がった。
 刹那、とうとう“イベント”が来たかとニトロは身構えた。
 しかしティディアには何の動きもない。
 婦人もまるでニトロの存在を忘れたかのように王女を見つめている。
「……?」
 ニトロの警戒心がもう何度目かの困惑に変わる。
 彼が傍観する中、ティディアが言う。
「やめてもいいのよ?」
 するとラドーナの頬が赤らんだ。
 ニトロは、少なからず驚いた。
 紅顔にして胸をそらす婦人は明らかに何かを勝ち誇っていた。そう、彼女は『ティディア』に対して勝ち誇っていた! そこで振り返ると、王女はもはや態度を隠さぬ貴族の女をからかうように、微笑んでいた。
 ニトロはぎょっとした。
 ティディアの瞳の色を認めて、それが己に向けられてものではないにも関わらず、ニトロは思わず動揺してしまった。
 彼は、疑念を覚えずにはいられなかった。
 ラドーナ婦人は何故この瞳を前にしてそんな顔をしていられるのか。もしや婦人は王女のからかうような……同時に何かを取りなすような微笑に囚われて、このティディアの本質に気づいていないのか?
 彼が目を戻した時、婦人は高らかに言った。
「寛大なるお心を感謝いたします、ティディア様、しかしお止めになりますな」
 その時、ニトロは婦人の中の“何か”の一端をようやく理解した。それは、敵意にも勝る優越感であった。婦人は尊大に続ける。
わたくしはけして卑しい心からでなく、私の純粋な意志と誇りを以てこれを実行するのです。
 そして実行することによって、至尊なる姫君に我が高潔なる魂をご覧に入れるのです」
 ラドーナはそう言ってくるりと背を向けると、何歩か力強くテーブルから離れ、そこでまた振り返った。婦人の頬は未だ興奮に赤らんでいた。その目は彼女の曰く高潔なる魂を反映して輝き、その身には居丈高な自尊心がそそり立っていた。
 ――が、次の瞬間、その頬の色が、褪せた。
 瞬く間に目の輝きも薄れ、自尊心も倒壊せんばかりにぐらりと揺らいだ。
 彼女は距離を置いたことでやっと気がつくことができたのだ。
 不遜にも己が相対する姫君の微笑を飾るその暗黒の宝石に、その双眸が示すものに!
 婦人は、しかし持ちこたえた。
 そして彼女はここで思い出したようにニトロを一瞥した。その視線の動きはあからさまであり、彼女を眺めるティディアもそれに容易に気づいたはずだ。婦人の瞳が光を取り戻した。それはぎらりと粘り気を帯びていた。
「それでは」
 心持ち顎を上向け、半ば傲慢な、あるいはこの恐ろしい『クレイジー・プリンセス』を侮蔑するかのごとき挑戦的な顔つきで婦人は太陽をシンボル化した象徴イコンの揺れるネックレスを外し、次に腕を背に回した。それから身じろぎをしたかと思うと彼女のドレスの襟が大きく開き、するとドレスはそのまま両肩を露にしただけでなく、肩から胸、胸から腹、そして足へとするりと滑り落ちた。
 ぱさりときぬの音が女の足元で鳴る。
 婦人は下に何も着けていなかった。
 脱ぎ捨てられたドレスの上に一糸纏わぬ裸体が堂々と晒される。
 年齢を感じさせぬ若い輝きが、玉も弾かんばかりに肌を着飾らせていた。
「!?」
 驚いたのはニトロである。喉の奥で出そうとして出せなかった驚愕の声が潰れる。反射的に目をそらそうとするが、その瞬間、彼の視界の端にヴィタの影がちらついた。
 それが、彼に貴婦人の裸を目にする羞恥を忘れさせた。
 いや、羞恥だけでなく、彼は女性の裸を凝視する無礼をも忘れた。
『クレイジー・プリンセス』の懐刀の不審な動きによって励起された不信感と警戒心――いつだって異状いじょうの中心であるティディアへの不信と警戒が一気に彼を支配したのである。
 その心は恐ろしく冷静な観察眼となって彼の表面に現れ出た。
 すると、少年のその様子を見て激しく動揺した者がいた。
 他でもない、ヘイレン・ユウィエン・ラドーナである。
 彼女は己の『女』としての魅力に多大なる信頼を置いていた。五十を超えても何ら医療の補助もなく――そう、同年輩の“淑女”達が競って追い払おうとしている老いを、彼女らとは違ってその醜い争いに混じることなく超然としてこの神から賜った身の一つで打ち負かしている己の美を、彼女は心から誇っていた。女相手だけではない。豊満な乳房、淫欲を誘う腰つき、それらが眼前に暴露されて平気でいられる男はいない。実際、一人たりとていなかった。『男』とはすなわち彼女に征服されるだけの存在でしかありえなかった。しかし!
 ラドーナは少年の眼差しに震えていた。その双眸に性の表れは影もない。肉欲に最も過敏であるはずの少年の瞳には、ただ目に入るもの全てに配られる平等な感情しか存在してない。ニトロ・ポルカトは――『王女の恋人』は我が肉体に情を煽られることなく、また我が裸体に興味も示さず、最大の関心を常にティディアに向けていて、おお、何故だ、その女から心を一向に離さない……離せない!
 一方、ラドーナの心に壊滅的な嵐を巻き起こしていることなど露知らず、ニトロは保身のために心を砕いていた。
 表向きは――敵に先手を取られないよう――落ち着き払い、意識の焦点を最大の敵に合わせつつ、注意力を突然裸になった“協力者ラドーナ”と、手に何かを携えているヴィタへと振り分ける。彼はヴィタの手にあるものが何であるかを悟った。パラシュートバッグだ。それを悟ると同時にラドーナがエクストリームスポーツ好きで、その中にスカイダイビングもあることを思い出した彼は、急激に婦人と執事への注意を薄めた。
 そして考える。
 パラシュートバックは一つしかない。ティディアは事も無げに婦人を眺めるだけで椅子を立つ気配もない。いよいよ彼の疑念は深まる。それに比例して全裸で立ちすくむ女の自尊心はいよいよ虚飾へと変わっていく。虚飾はそれに気づかぬうちにはまだメッキなりの価値を示せるが、それを自覚したが最後、二度と光り輝くことはない。少年がふと王女の執事をまるで己の召し使いのごとく働かせてパラシュートバッグを装着している婦人へ改めて注意を差し向けると、彼女は何故か悲痛な面持ちで、急に老け込んだように見えた。彼は驚いた。その驚きに気づいた婦人は突然激しい羞恥を覚えたらしく、また突然に少年をキッと睨みつけた。ニトロはひたすら困惑するしかない。婦人の目には恨みすら見受けられた。それにも困惑し、お人好しの少年は訳も解らず傷つく。だが婦人は恨みよりも強い感情をふいに目に宿したかと思うと、それを王女に差し向けた。
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは、一貫して『裸婦』を眺め続けていた。その瞳にはおよそ人間らしい感情がなかった。もしや路傍の石を見る時の方がよほど人情に満ちているだろう。それは透徹した瞳、超然とした目だった。ラドーナが見せた勝ち誇る心など全く届かぬ場所にいる、もはや誰かが勝負など挑めるはずもない全てを超越した眼であった。石が路傍をいくら転がろうとも太陽には何の影響もあるはずがあるまい。石が己を太陽だと思い込み、太陽と輝きを競おうと挑んだところで滑稽劇にすらならない。それはただただ滑稽な悲哀にしかなるまい! そして悲哀は、誰かの哀れみを引き起こすことなどは……誰よりも自分自身が我が身を哀れむことなどは、彼女には耐えられるものではなかった。
 パラシュートバッグを背負った貴婦人は、今や、みすぼらしく萎んでいた。
「ご機嫌よう、ヘイレン・ユウィエン・ラドーナ」
 ティディアの声は朗らかであった。
 その声が一体誰に向けられたものであるのか、一瞬、ラドーナ婦人には解らないようであった。
 しかしそれが自分、他ならぬ自分自身に向けられたのだと知った時、少し前には王女への憎悪を燃え上がらせていた婦人の目に現れたのは――どうしてだろう?――わずかにも慈悲ひかりを得た歓喜であった。
 ニトロは、眼前に繰り広げられるこの事実をどう記憶したらいいのか戸惑っていた。
 彼は今、婦人のその歓喜を以て、そこに完全なる敗北者を認めたのである。
 と、思ったのも束の間。
「わ!」
 ニトロは驚愕した。そして戦慄した。腰に勝手にベルトが巻き付いてきて、体が椅子に固定されてしまったのである。彼は顔をしかめた。しかし眼前の茶器の並ぶテーブルにドーム型の覆いがかかっていく段になると、これは別の事態が進行していると眉をひそめた。
 ラドーナが、ヴィタの手を借りて、躊躇いつつも機体の後部に向かっている。
 それも、乗降口へ。
 その乗降口から少し離れた所でヴィタは足を止めると、隠された装置を探り、壁の中からベルトを引き出した。全裸でパラシュートバッグを装着した――頭のおかしい光景だとニトロは思う――婦人がそこに固定される。彼女の手には光るものがあった。それは先刻まで彼女の首にかけられていた象徴イコンであった。婦人の安全を確認し終えた執事も自身をすぐに別のベルトで固定する。と同時、後部ドアが開き出した。
「うわあ!?」
 ニトロの悲鳴は誰かの耳に入っただろうか? 轟音と共に風が吹き荒れた。機内に閉じ込められていた空気が、大きく開かれた穴から自由の空へと喜び勇んで脱出していく。彼は耳を押さえた。急激な気圧の変化に体がついていかない。椅子やテーブルは磁力か何かで固定されているらしく、でなければ自分はクラシカルな椅子と共に寒空へパラシュート無しのスカイダイビングと洒落込むはめになっていただろう。室温が外気と交わり冷気を生んで肌を刺す。暴れ狂う風の中、三人の女性の髪は等しく一点に向けて激しく流れている。だが乱れ舞う髪の間から覗く顔は三者三様であった。一つは涼しげで、一つは喪失で、一つは、何事もない。
 やがて風が落ち着き、しかし開かれたドアから暴れ込んでくる音は止まず、生死を分かつ寒さの中、安全帯ベルトから解放されたラドーナは体を震わせながらよちよちと乗降口へ向かっていった。
 今日は良い天気であった。
 ニトロは抜けるような青空へ歩み寄る婦人を見て我に返った。
 彼女の足取りに力はない。意思もない。彼女はもはや最前の意志の残りかすによって機械的に動いているだけなのであろう。
「おい! 止めなくていいのか!?」
 この事態が何によって、また何のために起こっているのか理解できないまでも、ニトロはティディアに叫んだ。
「止めてやれ!」
 ニトロは本能的にティディアしかラドーナを止められないことを知っていた。ヴィタに頼んでも、ましてや婦人本人に懇願したとしてもそれは止まらない。ただ眺めることでのみ全ての進行を支配しているこの魔女をこそ説得せねば、何も止まらない!
 されどティディアは眺め続ける。
 ふと、ニトロは視線を感じた。
 振り向くとラドーナがこちらを見ていた。彼女は青くぽっかりと開いた穴の縁に手をかけて、王女ではなく、ニトロ・ポルカトを見つめていた。それは奇妙な顔つきだった。始めに疑惑があり、次に発見と驚愕が襲いかかり、最後にまた羞恥が表れる。その恥は肉体的なものではなく、もっと精神的なもので、その両目は淡く潤んでいた。
 少年がさらに何かを言おうとした瞬間、まるでそれを聞いては胸が張り裂けると言わんばかりにラドーナは飛び出した。天にその身を捧げるように。彼女は、瞬きをする間に消えた。去ってしまった。
 ドアが閉まり、気圧がゆっくりと調整され、室温も快適に、瀟洒な館のティールームといったふうの機内に安定が戻るまで誰も何も言わなかった。
 やっと言葉が発せられたのは、ヴィタが使用済みの茶器を下げ、茶菓子を並べて新たに紅茶を淹れ直した時、
「ありがとう」
 とティディアが執事に言った時である。先刻の王女は茶を淹れた執事に礼など言うことはなく、ラドーナも無論言わず、ニトロだけが言っていた。今度は彼が何も言わなかった。
 合図も同意もなく、茶会が再開される。
 ヘイレン・ユウィエン・ラドーナにはヴィタが代わった。
 ニトロは沈黙を守っていた。その顔には様々な感情が表れていたが、その最大たるものは、やはり困惑だった。
 色も香りも先とは変わった紅茶を一口飲んで、ティディアが言った。
「怒らないのね」
 ニトロは紅茶の横に並ぶ小さなカップケーキからティディアへ目を移した。彼女は微笑んでいた。その瞳は地上に降りてきていた。
 事の成り行きを顧み、そこにあらわれた要素を解剖していたニトロは、やおら無言のまま目を鋭くした。その底には怒気も光る。が、表面には出さない。ティディアの微笑に慈しみが射す。
「怒らないのね?」
「……お前が俺を怒らせたいんだとしたら、それは罠なんだろうさ」
 ティディアは唇を緩ませた。ニトロはそこでやっと紅茶を口に含んだ。
 美味しい
 彼の乾いていた唇が、歪んだ。
「結局、何だったんだ?」
「ギャンブル」
「つまり、賭けられていたのが全裸でスカイダイビングだったと? それが出来るかどうか、と」
「出来るかどうかっていうのは外れ。賭けの対象に関しては半分正解」
「もう半分は?」
「借金」
「借金?」
「ちょっと前にアドルル共和星きょうわこくで暴落があったでしょ?」
「覚えてる。こっちでもちょっと騒ぎになってたし、お前も何か王様に進言してたみたいだな」
 ティディアは誇らしげにうなずき、
「さて、彼女はギャンブル狂なのよ」
 話題が急に戻った。虚を突かれたニトロは二重の驚きに目を丸くしたが、あの婦人の意外な性癖と株の暴落とが無関係ではないと察して耳を傾けた。
「彼女は国のお得意様でね、非合法な世界でも上客だった。方々に借金があって、大好きなパーティーを渡り歩くためにも年々負債を増やしていて、そのため若々しくお綺麗だと評判の貴婦人の内情は実は常に火の車。それでも熱心な慈善活動と、定期的に投機で当て続けてきたお陰で、彼女はこれまで破綻をぎりぎり避けてこられた」
「だけど、今度の暴落で致命傷を負った?」
「平均的に十回くらいは死ねる傷かもね」
 ということは、ティディアはその正確な数字を知っているのだろう。
「……それで?」
「そのニュースが流れた時、彼女は国と王家に絶賛奉仕中だった。一報を受けた時のあの顔は見物だったわー」
 ティディアは身を震わせる。ヴィタはうっとりと思い出を反芻している。ニトロはため息をつく。
「てことはその時お前もロイヤル・カジノにいたと」
「ええ」
「まさか、狙って?」
「あの暴落は『投資A.I.のもつれ』が主因よ? しかも他圏よそで起こったものがおやと思う間に影響してきてアドルルの『黙認上底クレバス』をぶち抜いた。それがあの日その時起こるだなんていくら私でも予見していないわよ。ましてやその瞬間、彼女が特定のカジノにいて、しかもポーカーでボロ負けしているなんて、そこに居合わせただけで奇跡だわー」
「……」
 ニトロはじっと希代の王女を見つめた後、再びため息をついた。
「まあ、いいや」
 カップケーキを一つ食べ、気分を落ち着かせる。
「でも、破産すりゃそりゃ絶望するだろう」
 それは間合いを整えるための何気ない一言だったが、
「一時的にはね。だけど本当に絶望するとしたら、それは後のこと」
「?」
「彼女は破産程度で絶望するタマじゃないわ。一時的には絶望のどん底で真っ青になっても、三日も経てばまた明日から当ててやるさと鼻で笑い出す」
「……それで?」
「だけど、今回ばかりは限度を超えていた。彼女の“ツキ”は失われた。もし再起を目指していたとしたら、いつか彼女は気づいたことでしょうね。自分のこれまでの生命線は己の博才によるものではなく、ただ運が良かっただけだと。運の良さももちろん博才の一つではあるけれど、それは努力や何かで取り返せるものではない。そしてそれに気づいたその時、彼女は初めて絶望は底無しであると気づき、そのために絶望し、また絶望することによってとうとう絶望する」
「なんか……変に教義問答みたいな言い方だな」
「まあ、時日じじつを待たずに彼女はさっき別角度からやってきた絶望にやられたみたいだけどね」
 それの意味するところを悟ってニトロはぐっと息を詰めた。彼の眼光が鋭くなるのを上目遣いに眺め、ティディアは語る。
「そこで、一時的な絶望にうちひしがれていた彼女に私はこう持ちかけた――『勝負しましょう、もし貴女が勝ったら借金を肩代わりしてあげる』」
 ニトロは紅茶を吹きそうになった。それがティディア個人にどれほどの負担になるかは解らない。しかしどうあれ軽々しく賭けられる金額ではないはずだ。それでも王女は揚々として続ける。
「彼女は言った。顔どころか魂まで輝かせて、なのに苦々しく」
「しかし私には賭けられるものがありません」
 言ったのはヴィタだ。ティディアが応じる。
「別に何でもいいわ。そうね、その髪の毛一本でも」
「ッもし負けましたら」
 ヴィタは屈辱に抗するように言った。
「全裸で空から舞い降りてご覧にいれましょう。それでご満足頂けなければ、髪の一本と仰いますな、この身をどうにでもご自由にお取り扱い下さいませ」
「面白い、それで受けましょう。……アドルルでは暴落のことを俗にスカイダイビングって言うから、そこから連想でもしたんでしょうね」
 ティディアは紅茶で唇を湿らせた。ヴィタはカップケーキを食べる。
 ニトロは、ふと何の前触れもなく、あの時飛び降りようとする婦人を止めようとした自分にひどく偽善的なものを感じた。しかし何故だろう?――今、唐突に、どうしてそんなことを感じたのだろう?――それが判らぬまま、不可解な苦味を吐息に混ぜて薄めるようにして彼は言った。
「あれは、あっちが言い出したことだったのか」
「やー、私がそれを誰かに提案するくらいならニトロの前にそうやって降臨しているわよぅ」
「そしたら撃墜してやる」
「それも一興ねー。
 で、それでポーカー一発勝負」
「よくやるもんだなあ。負けたらとは考えなかったのか?」
「愚問」
「愚問承知」
「ふふ。――でもね、さっきもちょっと触れたけど、彼女はギャンブル狂だけどギャンブラーじゃない。負けを取り戻そうと躍起になっている相手を捻るのは簡単なものよ」
 ニトロからすれば、だとしても普通は金額の重さがそれを簡単にしないと思うのだが。
 ティディアはカップケーキをつまみ上げると一齧りし、
「だけど負けた彼女は、今度は絶望しなかった」
「……開き直ったのか?」
 ティディアは首を振った。カップケーキの残りを食べると先程までの上品さはどこへやら、ぺろりと指を舐めて言う。
「希望があったからよ」
「希望?」
「表向き慈善事業に熱心な貴婦人――ギャンブルに狂いながらもその人物像を巧みに維持してきた彼女のような人間が、全裸でスカイダイビングなんてことをすれば身の破滅。それをキッカケにどうしてそうなったのかと探られて、彼女の意外な素顔も暴露されてしまう」
「ゴシップが潤うな」
「だけどそれをしてもなお彼女には利益を得る計算があった」
「……」
「思い当たることが?」
「……ある種の恥は、あるいはあらゆる恥の経験は、その恥にどう向き合うかによって後には勝利となる」
「国教会お得意のお説教ね」
「お前がそう言うか」
 ニトロは流石に苦笑した。ティディアは目を細めて小首を傾げ、
「でも、正解。彼女はギャンブラーじゃないけれど、博徒としての誇りはあった。そしてニトロの言う通りに打算した。それがどんな恥であり、身の破滅であろうとも、それを自ら受け入れ堂々と実行することで克己の精神を手に入れ、その精神によって何人たりとも犯せぬ神聖な勝利を我が胸に刻むことになる――と」
 ティディアはそこでニヤリと笑った。
「だけどね? 彼女はやっぱりギャンブル狂なのよ」
「つまり?」
「敗北した時点で、彼女の中では新たな勝負が始まった。勝ち負けが付くなら何であれ賭けにできる」
 ニトロはうなずく。ティディアは笑みを得意に染めて、
「彼女はこう目論んだでしょうね。
 その勝負における勝利は、つまり“ティディアから”科された恥辱に打ち勝ったという“ティディアからの”勝利に転じられる――と。それが例え世間的には勝利と認められなくても、それを武勇伝として吹聴できる別の世間がある、しかも『クレイジー・プリンセス』に勝ったとなれば無二の存在感を得られる。一方でその武勇を認めない世間様に対しては『私はティディア様に目を覚まさせて頂いたのです』とでも涙ながらに悔悟を装っておけばいい。そうすれば片方では豪胆な女と尊崇を集め、片方では悔い改める者の模範になれる。そんな自分の利用価値は“方々に”アピールできるでしょうね」
「確かに……それなら『希望』があるな。目論見道理にいくかどうかも『賭けギャンブル』だけど」
 ティディアは楽しげにうなずく。
 ニトロは思い出していた。ティディアの一度の軽い制止にラドーナが見せた、勝ち誇ったあの顔を。なるほど、そこには自分の思うよりも多くのものが込められていたらしい。しかし哀しくも、それすらティディアによって操られたものでしかなかった。
 ここに語られたことは賭けの顛末以外はおよそティディアの予測にすぎない。
 だけど自分が目撃した一連の情動と照らし合わせれば、それはきっと真であろう。
 彼はしばし間を置き、それから訊ねた。
「俺が同席する必要はあったのか?」
「ニトロの存在は彼女に面白い影響を与えていたわね」
「実に興味深く拝見しました」
 ヴィタが興奮を隠さずにうなずく。ニトロは苦笑し、ティディアを目で促す。
「この席を設けたのは、ニトロに見せたかったから」
 ティディアはニトロを見つめる。彼は真顔となり、再度問う。
「何のために」
「後学のために」
「それで何を学ばせようってんだ」
「あらゆることを」
 そこでティディアは不思議な顔をした。その表情に何か一つの形を見出すことはできない。まさにあらゆる思惑が一面に押し固められているようで、しかも底が知れない。惑うニトロを彼女は悪戯っぽく見つめる。
「ま、色々話しはしたけれど、実際には彼女に『希望』なんてもうなかったのよ。ギャンブル狂であることだけが玉に瑕、なんて善人じゃあないしね。自分がその手の醜聞において注目を浴びればどんなホコリが叩き出されるか彼女も解っていたでしょうに、けれど、彼女はそれを考えていなかった、解っていながら、考えられなくなっていた。自分の身の破滅を知りながら、それでも破滅に突き進む者はどの階層にも、どんな人種にも存在する。それは単に愚かであるからという場合も多いけど、同時に熱に浮かされているからそうなってしまっている場合もある。その中でも最も世間に知られ、時に反感を浴びせかけられながらも同時に受け入れられさえしているものが、恋愛による破滅ね」
 ティディアの意味ありげな眼差しを――実に分かりやすい促しを――ニトロは唇を固めるだけで拒絶する。彼女は舌打ちするように目をそらす。そして小さく息をつき、
「誘惑した私が言うのも何だけど、彼女はただ破産するだけの方が幸せだった。それとも勝負なんかにこだわらず私の“慈悲”にでもすがればよかった。何しろ勝負なんて初めから成立していなかったんだから」
 そう、結局、ヘイレン・ユウィエン・ラドーナの魂を砕いたのはその事実だった。
「ギャンブルこそ最たるものだけど」
 ティディアは波模様の描かれたティーカップを眺め、それからニトロを刺すように――そう、刺すように見た。
「潮時を読み違えてはならないわ」
「……」
 ニトロはしばらくティディアを見つめた。見つめ合う二人は、しかし感情の交歓とは無縁だった。
 やがて彼は苦笑した。
 彼女の示した大きな意味をわざと矮小化して、挑戦的に言う。
「それも、お前がそう言うか」
 ティディアはまた不思議な顔をした。しかし今度は複雑な網目の裏側に何かが見つけられそうである。が、その意図をニトロが探り切る暇はない。彼女はころりと表情を変えると、どこか下卑た風情を唇に漂わせた。
「というわけで、ニトロがいようがいまいが破滅は確定していたから、彼女の結果については何も気に病むことはないわよ? 裸の恥辱だって、本当は彼女には何の痛痒もなかったものなんだから」
「?」
「ドレスアップした紳士淑女と全裸の紳士淑女が入り乱れるパーティーも、彼女は大好きなのよ。ていうか彼女はそういうパーティーでこそ最も輝いた。一晩でのセックス相手の人数が勲章となり、倫理や道徳こそ恥で、乱れに乱れるだけ名誉となる。禁じられたあらゆる物も快楽のためには神の恩恵である。キメキメでアヘアヘよ」
「……それがホコリか」
 ティディアはニトロが取り合ってくれなかったことに一瞬口を尖らせたが、
「巻き添えになるのがいくらかいるでしょうねー。全く、私がそれを知らないと思っているとは滑稽だったわ。あれの“全裸で”スカイダイビングなんてそれこそ髪の毛一本の価値もないのに」
 くすくす笑うティディアは実に愉快そうだ。反対に、ニトロは考え込んだ。やはり自分の存在が婦人に与えたものは相当大きかったらしい。“本当は”なかったはずの恥辱を、地へ落下する前、確かに彼女は感じていたのだから。
「何十年ぶりに、彼女は羞恥心を感じたのかしらね」
 甘噛みするようにティディアが言った。ニトロは、彼女の目を見た。
「以前は処女の頃かしら。だけど、その時の羞恥と、現在の羞恥はまた違う。ねえ、ニトロ、それこそは、あれが勝手に作り上げた勝負に勝手に挑んで自爆した結果よ」
 アフターケアとでも言うのだろうか? ニトロはティディアの目に目をぶつけたまま、言った。
「良心の呵責を感じているわけじゃない。本当ならそれを感じることが『正しい』のかもしれないけど……何だろうな……ずっと、困惑させられっぱなしだ」
「この後の仕事に影響は出そう?」
「それはきっちりやる。折角、みんな楽しみにしてくれてるんだ」
 ティディアは満足そうに、そして頼もしげに微笑する。
 そこにニトロは言った。
「だけど、それだけか?」
 虚を突かれたようにティディアがニトロを見つめる。
「本当は、お前は俺の“効能”もやっぱり計算していたんじゃないのか?」
「何故?」
「そう思うからだ。まだ何かあるだろう、そう感じるからだ」
 ティディアはニトロを見つめたまま、しばし黙していた。そして水底から沸き立つような微笑みを浮かべると、
「後日、ニトロはその理由を知るわ。そして、そうよ、まだ私とあれとの間に『背景』はあるけれど、それはやっぱり私にはどうでもいい。あちらはそうでもなかったみたいだけどね」
 そう言って、ティディアは、口元の形をはっきりと嘲りに変えた。
「長兄とヤったことがあるくらいで私と張り合えると思うなんて、滑稽を通り越して惨めだわ」
 ニトロは、ティディアの瞳の内側に何も見なかった。だからこそ彼はティディアの恐ろしさを感じた。より正確に言えば、改めて思い知らされた。彼女の瞳にはその口から吐き出された言葉に対応する軽蔑や嫌悪、あるいは怒り、でなくても何かしらの感情の一欠片があって然るべきなのに、それらは全く存在しない。彼女は本当にどうでもいいのだ。頬に刻んだ嘲笑も表面的なものに過ぎない。その顔は、まるで人間を相手にしているから人間用のインターフェースを用意してみました――そういった類のものだ。『恐ろしいティディア姫』の片鱗が、そこに顕現していた。
 それに、確かにティディア個人にとってはどうでもよいとしても、その手合いは『王家には』少々面倒な存在だろう。王や王妃はまだしも、心優しい妹姫にとっては、特に。後を見越せば今回の計算の価はあらゆる面でプラスに働くはずだ。その推察もまたニトロの首筋を冷たい手で撫でる。
「それにしても、ニトロは全然気にしてくれないのね」
 急に人間味を取り戻し、恨めしげな目つきでティディアが言った。
「何が?」
 きょとんとして、ニトロは問い返した。それは思わず警戒心の隙間からこぼれた素の反応で、それだけに偽らざる心情であるからこそティディアはむっとする。
「何でそんなパーティーを知っているんだとか、まさかお前も? とか、少しは疑ってくれてもいいんじゃなあい?」
 ああ、と、ニトロは理解した。ティディアはさらにむっとする。それもまた素の反応であった。ヴィタは目を細めている。しかし彼はその頬に、へらりと薄笑いを刻んだ。
「それこそなあ、心っ底どーでもいいことだ」

 後日、ヘイレン・ユウィエン・ラドーナに関するゴシップは刑事事件への発展を見せていた。考えてみればよくある話なのだが、彼女は慈善事業の関連資金に手を出していたのである。
 芍薬がジジ家のネットワークを介して調べてきたところによると、もしその情報が捜査当局にたれ込まれなければ、横領についての捜査は始まりもしなかった可能性がある、それほど婦人はその手の事には慎重かつ巧妙であったようだが、セキュリティホールは友情だった。つまり、彼女の醜聞からの飛び火を恐れた『遊び友達』の誰かが、火の粉の舞う向きを変えようとより大きな火を点けたのだ。その中には彼女のおこぼれに預かっていた者もあるだろうに、その忘恩不義の行為は、やはり報いを受けることとなった。
 インモラルな『パーティー』の写真が、どこからともなくばらまかれた。
 吹き戻された火の粉は瞬く間に巨大な火の玉と化した。
 かくして全裸でスカイダイビングというエクストリームスポーツは、広範囲に渡って、我が足元に穴が開くとは予想もしていなかった人々にも危険と興奮を提供することとなった。
 日々新たな話題が掘り起こされている。
 暴かれた『パーティー』に関しては違法薬物や売春における反社会組織との繋がりも逃がさず炙り出され、まだまだ延焼は止まりそうにない。もしや各捜査線上に浮かんでいる人物の中に王女の政敵がいて、そちらの方が彼女の狙いだったのかと疑うこともできるほどだ。ほとんどのメディアがこの話題で盛り上がっている最中、富裕層に厳しい案や庶民に厳しい案など、それぞれ各方面からの抵抗によって難航が予想されていた議案がいくつかけっされていた。
 そして事件の発端、その火種を生み、また煽り立てた『クレイジー・プリンセス』はこの件に関して白々しくも仰天顔である。加えて社交界の腐敗を嘆きつつ、しかしそれは一部のことであり、どの世界でもそうであるように善人もいれば悪人もいる、ただ一面を以て全てを眺めないようにしてほしいなどと――話し振りにはブラックジョークが溢れているものの――内容的にはそのように道徳的なことを述べる有り様だ。ニトロの頬には空笑そらわらいが刻まれて、呆れるにつれて空しい笑みもやがて消えていく。
 さらにもう一つ、この件に関しては国教会でも大きな事件となっていた。
 何しろ“堕婦”ヘイレン・ユウィエン・ラドーナの実兄は大司教である。しかも大老たいろう入りが確実視され、次代の法老長の最有力候補とさえ目されるほどの人物である。
 この実妹の不祥事は、勢い大司教のスキャンダルともなっていた。
 彼はすぐさま辞任を申し出たそうだが、法老長に強く慰留され、現在も大司教を続けている。
 とはいっても彼が出世競争から大きく後退したのは否めまい。
 アーレン・ユウィエン・ラドーナ大司教の人物像は、一言で言えば『善良』であった。学識も非常に深く、欠点と言えば高潔すぎることくらいだという。以前から在家の信徒だけでなく、国教会内の人間にも深く敬愛されている。裏もなく、いくら叩いてもホコリはでない。叩き続ければホコリが出るより先に彼の命が尽きることだろうと真剣に語られているし、まずそうなるであろう。事実、現在に至るまで、どれほど悪意を弄ぶゴシップ屋が活動したところで醜聞のシの字すら書き起こすことができずにいた。
 それなのに、今、ニトロにはこの大司教こそが第一王位継承者の標的であったような気がしてならなかった。
 根拠はない。
 ただの勘である。
 ただの勘であるとはいえ思い至ったからには気になって仕方なく、とはいえ本人にただすことは気が進まないから、彼は芍薬と議論を試みた。
 しかし事はバカ姫のすることである。
 どんな理由でもあり得そうで考えはまとまらない。
 実は大司教もティディアしか知らないような重大な犯罪に関わっているのかもしれないし、それとも高潔な彼が未来の法老長になることを型破りな次代の女王は疎ましく思い、そこで今のうちに足を引っ張っておいたのかもしれない。
 あるいはこの動揺によって国教会内部の政治力学を私利に叶うよう動かしたのだろうか?
 国教会の誰かに頼まれた可能性もある。
 単に頼まれたからといって動くような奴ではないが、利害が一致していればない話ではない。最悪、単なる愉快犯ということも考えられた。
「あとは『高潔すぎて融通の利かなすぎる大司教を成長させるために試練を与えた』なんてのがありますかねぇ」
 ニトロと芍薬が議論をしている最中に部屋に訪ねてきて、不幸にも議論に巻き込まれたハラキリ・ジジが至極面倒臭げに言った。テーブルの上には南国土産のフルーツがある。彼は『全国ガラクタor大発明品大展示会』に出かけた母親に忘れ物を届けた帰りだそうで、傍らに置かれたモバイルの上には『アロハー』姿の立体映像なでしこがちょこんと正座していた。
『師匠』の意見を聞いたニトロは、なるほどと一定の得心を抱きながら言った。
「それだとむしろ大司教に期待をかけてるってことになるな」
「それでも偉そうに何様のつもりだって話にもなりますがね」
「王女様だろ?」
「違いない」
 ハラキリは喉を鳴らして笑う。彼の手元にはニトロの作ったミックスジュースがある。くし形に切られた赤いトロピカルフルーツがコップの縁を飾っていた。
「まあ、確かに彼は高潔で、聡明で、宗教家として民衆の中に進んで入っていく活動家でもあります。一切を神に委ね、人類貢献の精神篤く、自己犠牲を恐れず、貧困に立ち向かい、また魂の貧困にも立ち向かう」
「聞いてる限りじゃ本当に聖人だな」
「しかし実際が足りない」
「『実際』?」
「これは父に聞いたことなんですが」
 ハラキリがはっきりと父の話と示すのは珍しい。ニトロは驚きつつ、しかし特異な親友の父の言うこととなればと居住まいを正した。
「彼は良くも悪くもお坊ちゃんなんです。活動家として、宗教家としての挫折は何度もあったようですが、しかし個人としては順風満帆です」
「それで?」
「つまり、魂の貧困に立ち向かう彼自身、彼個人の魂の危機とも言えるほどの試練に立ち向かったことがあるかと問われれば、それは“否”であろうと。彼の欠点が高潔すぎることと言われるのは、同情――宗教的な意味での『同情』の薄さを含意しています。彼は学識の高さゆえに理屈で相手の心を理解し、困ったことにその理屈の応用力も高いから聖人然とした実篤さを発揮しているし、できている。しかしそれはやはり心、ひいては魂の目で観てのまことにおいては実際的な行為ではなく、だからこそ、その誤解はいつか取り返しのつかない過ちを引き起こしかねない……と、法老長はご心配なさっているそうで」
「うん、今のは聞かなかったことにする」
 ジジ家のネットワークは本当に一体どうなっているんだ。ニトロは濃いピンク色のミックスジュースを一口飲んだ。甘味と酸味で爽やかに心を落ち着け、小さく首を傾げる。
「ユウィエン・ラドーナ婦人は、大司教にとってそれだけ深刻な問題になるのか?」
「なるでしょうね。二人は世間並みに仲も良い、慈善活動で協力し合ってもいた、だからこそ妹の“真の顔”に驚愕し、それに気づかなかった己の不徳も恥じるでしょう」
「それは、大司教としてかな」
「使命感も強い方ですからねえ。やっぱり、こうなってはさらに大司教として妹に接しているんじゃないですか? 噂によると婦人は以前に比してどうも矮小な性格になっているそうですが」
 ニトロの目元が歪む。ハラキリはそれを無視して続ける。
「しかし、大司教として接すれば接するほど、彼は妹を見失うでしょう。すると彼は、実は淫蕩に耽っていた頃の妹との方が心を通じ合わせられていた、ということになる。それは彼にとって宗教的にも個人的にも非常に恐ろしい事態です。価値観は崩れ、信仰心も揺らぐでしょう。その上で、彼は大司教の職務は立派に果たさなければならない」
「ああ、そうか。俺も辞任する必要はないと思ってたけど、それじゃあ」
「辞めさせてもらえた方が楽ではあったでしょうねえ」
 ハラキリはストローでミックスジュースを吸い上げる。
「もしお姫さんの狙いが本当に大司教にあったとするならば。その思惑が何であれ、まあこの事だけは確実でしょう。あとは彼女の言う通りに後日――それこそ本当に“判る”のは、いつになるか分かりません」
 ハラキリは何事か考え込んでいる様子のニトロを見て、眉をひそめた。
「何か気になることが?」
「その場合、婦人は大司教の試練のための犠牲になった、犠牲にされた――ってことになるんだよな」
 所々言いよどみ、話しながら考えを推敲しているといった様子のニトロに、ハラキリは大きくうなずいてみせた。
「構造としてはそうですね」
「それで大司教が試練を乗り越えて高みに昇ったとして、その時、犠牲になった婦人はどうなるんだろうな」
「いい大人です。彼女は彼女で自分の問題を解くべきですよ」
「まあ……それはそうだろうけど」
 ハラキリはミックスジュースを飲む。
 いくらか躊躇った後、思い切ったようにニトロは言った。
「前からさ、昔の聖人の話の中で納得のできないことがあるんだ」
「どのような?」
「例えば過去に何人もの人を殺したり、陥れたりしておいて、後にその事を悔い改め、その過去の罪によって生じた試練を克服したことで神に祝福されたとか、そういう類の話なんだけど」
「ありますね」
「その場合、祝福される者はいいさ。だけど『害』された者はどうなるんだ? 誰かの犠牲のうえに成り立つ聖なるものって、何だ?」
「国教会的には、その加害者が聖人となった場合――聖人とまでいかなくともその者が改悛した際には『罪人に糧を与えた』として天に祝福されますね。そしてこの場合は犠牲のうえに、ではなく犠牲のもとにと言われます。あえて上下を付けるならあくまで“犠牲者が上”で、その尊さにはいかなる聖人も並ぶことができません」
「……」
 沈黙する友の顔に、ハラキリは苦笑する。
「それはアデマ・リーケインも答えを出せなかった問題ですよ」
 ニトロはハラキリを見た。
「リーケインはその著作において重大な信仰問題を幾度か取り上げていますが、やはりどうしても断言はできなかった。君と同じ疑いに対しても。そのため全ての問題は登場人物それぞれの人生的帰結、あるいは限定された人間間の愛を人間愛に拡大することによって決着しました。天の答えに、人の答えで代用した形ですかね。しかしそれは多くの人の胸を打ち、時代を超えても読み継がれています」
「……」
 ニトロは目を落とした。ややあって、ハラキリが言った。
「欺瞞、ですか?」
 ニトロはハラキリを見た。ニトロの瞳には肯定と、それを欺瞞と指弾しながらも悪意や敵意のない素直な疑念とがあった。ハラキリは思う。世の実直な宗教家は、神のことが実は大好きな無神論者からの攻撃的な問いには容易に対抗できるだろう。しかし、この一種無邪気な眼差しにはどのようにして応えるだろう。
「全テ『オシエ』ト名ノツクモノハ、常ニ真実ト欺瞞ニヨッテ成リ立ッテイルモノデス」
 そう言ったのは、じっと興味深げに議論を聞いていた撫子だった。
「ソシテ真実ト欺瞞ノ間ニコソ、真理トイウモノハ存在スルノデショウ」
 ニトロは携帯モバイルの上の小さな撫子を見つめた。カラフルな半袖を着て、結い上げた黒髪に真っ赤な大輪の花飾りを付けて、いつもと違う印象のオリジナルA.I.は一体何を思ってであろうか、とても柔らかに微笑んでいる。
「私達流ニ言エバ、1ト0ノ間ニ」
 電脳世界に生きる者の、その言葉。
 ニトロはあまりに大きな“何か”を感じて思わず笑った。
「それは確かに難問だね」
 撫子は楚々として頭を下げる。
 ニトロは横目に壁掛けのテレビモニターに映る芍薬を見た。芍薬はとても考え込んでいる。それから彼は過去を遠望した。写真で見たことのある文豪が、書斎でため息をついていた。
 そして空に飛び出す裸婦の姿。
 あの手に巻きつけられていた国教のシンボルは彼女の兄の胸にもきっと揺れている。
 株は暴落し、魂は天を目指すのか。
 ティーカップを優雅に傾けて王女が微笑んでいた。
 ニトロは息をついた。
「なあ、ハラキリ」
「何です?」
「走りに行かないか?」
「走る?」
「ああ、脳味噌がカビ臭くなる前にさ、風を通しに」
 ハラキリは声を上げて笑った。
「いいでしょう。付き合いますよ」
 珍しく屈託ない親友の笑顔に、ニトロは、その頬に明るい笑みを刻んだ。

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