「ししょー、質問でーす」
その口調の気楽さに反して、その声にはどこか張り詰めたものがあった。空中で皮膚と肉の剥がされた膝を曲げ伸ばししていた人体模型が動きを止めた。
「何です?」
テニスコート二面分は優にある地下室に
タイルともリノリウムともつかぬ象牙色の床に置かれた小さな
「今さら聞くのも何だけどここまでやる必要はあるのか? なんだかもうちょいとした解剖学の領域にまで踏み込んでるじゃないか。いや関節技の技術向上のために関節の構造を知ろうってのは理解できるよ? だけどそんなリアルな、えっと」
ニトロは空中に寝そべる人体模型――まるで実体があるかのようなその立体映像を一瞥する。ハラキリが応える。
「フランシナイ君」
「そう、その腐乱しないナイスガイの筋肉を一束一束追いかけてまで詳細に知る必要はあるのかな。正直、膝十字固めの習熟のために
「そこまで流暢に口が回るなら後二時間はいけますかね」
「ししょー、実際には二秒後にも意識が飛びそうでっす」
このジジ家の地下トレーニングルームに時計はない。ニトロは現在午前五時頃だろうと検討をつけていた。間違ってもそれより早いことは無いだろう。ここにやって来たのは昨晩の七時。異文化情緒溢れる夕食をごちそうになった後、八時にここにやって来て、遠く南大陸にいるティディアから『漫才』のための特訓を受けた。アンドロイドに
「だけどまぁ俺に暇がないことは解ってるんだ。俺にはししょーから習っておかないといけないことが山ほどあるんだ、山ほどあっても足りないと思うんだ。たまに挟み込んできてくれる剣術やら馬術やらはまだしもワルツの踊り方とか紳士の優雅なお辞儀の仕方まで仮想訓練にプログラムされているのは(いつも何度もいつまでも疑問ではあるんだけど)ホントは要らないんじゃないかなー? とは思いつつも、まぁそれはそれで良しとしてはいるんだけども、それでもやっぱりンなことに時間を割かずにみっちり護身術に特化して欲しいなあと希望するんだけども、それはそれとして習うより慣れろとも言うじゃないか。だから座学はここらで切り上げて実践的に教えてはくれませんかししょー」
「エスプレッソでも飲みます?」
「カフェイン増でよろしく」
「撫子」
「カシコマリマシタ」
淑やかに鳴ったオリジナルA.I.の声が、奥ゆかしく消えていく。
ハラキリは腕を組んだ。
「さて、ニトロ君。
確かに君の言うことには一理あります。しかし、そう言うということは、どうやら君がこの講義において何ら想像力を働かせていない証拠でもあります」
ニトロは反論しようとした。しかし『師匠』はその隙を与えずに言う。
「ちゃんと考えていましたか?
君は新しく得ていく知識を経験に、体験に擦り合わせてイメージしていましたか?
仮想、現実に限らず、実践的に関節技を極めて・極められていたその時に、その膝が構造的にどうなっていたかを想像し、それがどうなっていたから膝にダメージが与えられていたかを思い返していましたか?
もしそうでなかったのであれば、君の言う通り、このような学習をするより実践練習をしていた方が遥かに良いでしょう」
「いや、考えたよ、でもあんまり詳しすぎないかってことを言ってるんだ。話されることにはもう感覚的に知ってることもあるし」
「その感覚を知識によって補強するんです。感覚が頼りにならないときのために」
相手の言い分を以前から知っていたとでも言うように、ハラキリは事も無げに続ける。
「それに君は感覚で知ると言いましたが、君は感覚だけで技術を全て
ニトロは反論の術を失っていた。疲労困憊の頭でも理解できる。もはや『師匠』に逆らうには自分が天才、それとも天才的であらねばならない。もちろん『師匠』は才がなければいけないとは決して言っていないが、その場合に味方とすべき時間が貧弱である以上、己を天才と主張できぬニトロには、ようやく一つの隙しか見出せなかった。
「なら、もっと格闘技に直接関係する事だけを繰り返しみっちり教えてくれればいいじゃないか」
「だから、今みっちり教えているじゃありませんか」
ハラキリはばっさりと切り捨て、飄々と続ける。
「こと学習において言うなら、君は一を知って十を知るタイプではありません。基本的には五を知って
ニトロは苦笑した。
「せめて五を知って五を知りたいなあ」
「それは秀才です。まあ、そうなりつつあるとは思いますよ?」
「色々必死だからね」
おそらくはフォローに過ぎないであろう言葉、しかし嬉しい言葉に照れてニトロは小さく笑った。ハラキリはうなずき、
「そこで、今、君に十まで教えているんです。九までいかなくてもいい、七で幸い、少なくとも五までは十分知ってもらうために」
格闘トレーニングにも使われているマネキンのようなアンドロイドがトレイを持ってやってきた。簡素なデザインの機械人形は淑やかに動き、ニトロの傍らで膝を突いて座す。小さなカップとシュガーポットが彼の小卓に置かれた。ハラキリが続ける。
「君が言うように繰り返し学ぶことは極めて重要です。ニトロ君。君にとって不要な知識が語られる時、その周辺組織には君にとって必要な構造がありませんでしたか? それを明示しなくともこのフランシナイ君が献身的にも膝の内部までをも明らかにしれくれる時、君には不要に思える組織の一部を君にとって必要不可欠な全体に関連付けて想像することは視覚的にも容易だったはずです」
ニトロは香りからして濃厚なエスプレッソに砂糖をたっぷり入れた。溶けきらずに底に溜まる砂糖をスプーンで突き砕く。ハラキリは既に彼好みに加糖されているエスプレッソを受け取った手で一気に飲み干して、すぐに空いたカップをアンドロイドの手に戻す。ニトロも飲んだ。思い切り甘くしたカフェインプラスのエスプレッソは、それでも苦くて芯に効く。
ニトロからもカップを回収した
「ついでに言えば」
ハラキリは指を振り、グロテスクな
「君は外科医並みになっていいんです。むしろそうなるつもりでいて下さい。『それ』が無いに越したことはありませんが、君は今後どんな窮地に陥り、あるいはどんな負傷をするか……君が抵抗し続ける限り、可能性はゼロではない。王家に婿入りすればこれ以上ないセキュリティに守られましょうが、それを拒否し、しかも君自身が最大の不安要素にして脆弱性ともなれば、いかに無敵の王女様でも守り切れませんからね」
「芍薬がいるよ」
ニトロは言った。
ハラキリは目を細め、
「それに、何か事件とまではいかなくとも、レジャー等の最中に怪我をすることもあるでしょう。ニトロ君自身でなくとも誰か友達が怪我をするかもしれない。そんな時、医者ともなれば応急処置にも心強い」
「……師匠、講義の続きをお願いしまーす」
ニトロは居住まいを正した。
ハラキリは、そこで苦笑した。
「拙者は君の『師匠』になった覚えはないんですけどねぇ」
「なんか定期的にそんなこと言ってるけど、もう今更じゃないか?」
「そんなことはありませんよ。世間にニトロ君が『恋人』と認識されているほど手遅れではありません」
「おうし、がっつり目ぇ醒めた。解剖学が終わったら情報操作についても
「はあ、知り得る限りはお教えできることもありましょうが……」
「何だよ、徹夜は無理だってのか?」
「いや、ニトロ君はそうやって自ら実にお姫さんの喜ぶ人材になっていくんだろうなあ、と、ふと思いまして」
その一言には異様な破壊力があった。理由は単純にして簡潔。ニトロはハラキリの指摘を一も二もなく認めてしまったのである。
しかしここには彼にとって激烈なジレンマがあった。確かにこちらの成長をあいつが非常に喜んでいる節はある。あいつを喜ばせるのは御免だし、あいつの望むようには心底なりたくない。だが、ある範囲ではあいつの希望に沿わねばならないのもやはり事実であるのだ。何よりもそれが我が身を守るためならば。だが、だが、ああ! されば俺はあいつを何度も何度も喜ばせる! 喜ばせてし ま う!
その激烈は熱を生み、熱は神経を焼き切らんばかりの負荷となる。
ニトロの疲労しきった脳は、そこでジレンマを拒否した。さらに言えばジレンマの原因となるハラキリの指摘から拒絶することにした。そのためにはどうすれば良いのか。聞かなかったことにすればいい。聞いたとしてもすぐに忘れてしまえばいい。忘れるために、記憶しなければいい!
次の瞬間、ニトロはほとんど気絶するかのように眠りに落ちていた。
「おやっ?」
ハラキリが目を丸くする。
一拍の呼吸停止の直後、がくりと頭を垂れた勢いで椅子から転げ落ち、にもかかわらず安らかな寝息を立て出した友を眺め、眠りに落ちる直前のほんの刹那にだけ見えた彼の哀れな苦悩を思い返し、事態を概ね了解したハラキリは次第に大きな困惑を覚えて眉根を寄せた。
「モシ、人ヲ本当ニ直接殺シ得ル言葉ガアルトスレバ、ソレハ何気ナイ一言デアルノデショウ」
撫子が思わずといったように言葉をこぼす。
トレーニングルームのスピーカーを揺らしたその感想に、ハラキリは、肩をすくめた。
「仕方がない。ニトロ君を客間へ」
「カシコマリマシタ」
マネキンのようなアンドロイドがハラキリの視界に入り込んでくる。その機械人形にはろくな表情を刻めるだけの機能はないのに、そののっぺりとした顔面にはどこか学者じみた興奮が垣間見える。
ニトロは、早くも悪夢でも見始めたのだろうか、顔をしかめて小さく言葉もなく唇を震わせていた。
アンドロイドは実に興味深そうに少年を覗き込んだ。それから彼をそっと抱え上げたが、その両目は絶えず震える唇から心を読み解こうとしている。
「撫子、研究もほどほどに」
苦笑いのマスターに釘を刺されたアンドロイドが肩を揺らし、恥じるように振り向いた。やはり何の表情もないその顔には、険しい寝顔のニトロ・ポルカトとは裏腹に、不思議と何か夢見るような明るさがあるようにハラキリには思えてならない。
――そしてそう思ったことで、彼はまた苦笑するのであった。
終