燃える思い

(『第三部 ティディアの誤算』のおよそ二週間後)

 校庭や体育館には活動の声が溢れ、教室や廊下には談笑の声が響いているというのに、こうしてそっと耳を澄ませてみると放課後の学校は嫌に静かだ。昼間にはあれほどいた生徒達のいなくなった空間に、どこか恐ろしいほどの静寂が常に潜んでいる。
 ――その静寂の正体は、何であろうか。
 皆は知っている。
 ここはいずれ去るべき場所なのだと。
 定められた年月を経た後には友とも敵とも別れ、明るい未来への希望に胸を燃やしながら、そうして次に別れるべきもの達と出会うために失うべき場所なのだと。
 もちろん巣立ちの際に肩を並べて同じ道を行く者がいることもあろう。が、だとしても、その時には雛鳥の羽は奪われている。来るべき喪失からは、誰も逃れられない。
 その静寂は、つまり将来へ向かう自分達の足音であり、その足音の名はすなわち『不安』という。
 それは青春の影。
 若さと未来への希望に満ちた青春と切り離せぬ、もう一つの青春。
 不安は決して語らない。いつも思わせぶりに沈黙し、そっと希望に寄り添い忍び足でついてくる。希望はそのことを知っている。それなのに希望は不安を振り払わない。何故か? 何故なら、不安と希望は仲の良い姉妹であるからだ。
 不安は、今こそ青春を生きる者には厭わしい。その人は眩い希望ばかりを見上げて足元の影を見ない――それは醜悪で、溌剌と駆ける己には似つかわしくないものだと思うから。
 しかし年齢を重ねた者は憧憬を込めて述懐するだろう。その不安があればこそ青春は輝く――その陰影もまた美しい青春の輝きそのものであるのだと。
「なんてことを思うわけだが、どうだろう」
 春たけなわの光差す窓際で、ゴールキーパーの蹴り出したボールの行方を目で追いかけながらニトロは言った。すると彼の二つ前の席に座る親友がペットボトルを傾ける。炭酸の弾ける液体を一口飲んで、ハラキリは一つ息を吐く。
「疲れてるんじゃないですか?」
 ニトロは笑った。寂しげに。
「疲れてるのかもな」
 校庭の先に見える歩道には人だかりがある。そこはどの門からも程遠い場所であるのに、それでも教室から認められるほど人の頭が波打っている。
 何しろ本年度の始業式から五日が経った今日、『スライレンドの救世主』が『赤と青の魔女』事件の後に初めて登校してきたのだ。マスメディアも見物人も朝から大集合。放課後に至ってもその数は増える一方。そのため学校は厳戒態勢、周辺道路にも交通規制がかけられていて、警備員や警察のアンドロイドやロボットに守られて登下校をする生徒達は非常に窮屈そうである。それなのにニトロ・ポルカトは例外的に飛行車スカイカーでの登下校を許可されている――というよりもこれ以上の混乱を避けるためそれを強く望まれたのだから彼も心が窮屈である。クレイグとミーシャは気にするなと言ってくれた。その気遣いがありがたかった。フルニエはお陰で行きつけの食堂が満員だったと文句を言ってきた。しかし次の瞬間にはバカ話を始める後腐れのないその舌鋒が、あの事件の日、その事件が起こる直前まで一緒にスライレンドに行っていた友人から以前と変わらず聞けたことが、ニトロにはとても嬉しかった。
 ハラキリは、朝、韋駄天で迎えに来てくれた時には軽口を叩いていたが、学校に着いてからは猫を被って無用の言葉を発さない。しかしいつもより行動を共にしてくれている。放課後になっても一緒に校内に残っている事にはまた別の理由があるのだが、それでもニトロにとっては何より心強い。親友は薄紫色をした炭酸飲料を飲んでいる。ごくりと押し込む音がする。それから、息が押し出される。
「リラクゼーションでも受けに行きますか? 時間もあることですし」
 ニトロは目を教室に戻した。室内にはまだ十数人の生徒が残っている。そこに居残っているほとんどは、今年度から同じクラスになったクラスメイト達であった。
「ここを一度出てまた戻ってくる手間と、リラクゼーション一回」
「割に合いませんか」
「合わないな」
 いつも笑っているような顔のハラキリ・ジジは清涼飲料水を飲む。彼がそれを買いに行っている間、ニトロは新しいクラスメイト達から質問攻めにあっていた。しかしハラキリ・ジジが帰ってくるや、即席インタビュアー達は波が引くように『ニトロ・ポルカト』から離れていった。それはハラキリ・ジジという生徒への嫌悪や排斥の意図の表れではなく、ただそうしなければならないからそうなった、という空気のためであった。
 不思議なものだとニトロは思う。
 ハラキリはまた一口飲む。
 ニトロは訊ねた。
「どうだ?」
「この新製品は確かに、外れです」
「だから言ったろ?」
「実に言う通りで」
「金を無駄にしたな」
「まあ、話の種を買ったと思えば」
 ハラキリは炭酸飲料を飲む。顔をしかめることもなく平然と。しかも炭酸が胃から戻ってくるのを小さく小さく吐き潰しつつ、大して間を置かずに飲み続ける。そこでニトロはハラキリがその飲料をできるだけ速やかに飲み干そうとしていることに気がついた。
「……すっごい不味いだろ?」
「生ゴミを漬物にしたような味ですね。それが炭酸の刺激で倍増されて凄まじい」
「フルニエは癖になるって言ってた。くっさいチーズとか好きだしって」
「はあ、まあ、好き好きではありますが……」
「でも、あえて飲みたいとは思わないって言ってた」
「ですよね」
 うなずいて、ハラキリは薄紫色の液体を飲む。親友の実に満足気な納得と、しかし実に不満足な味わいとが入り混じった顔にニトロは笑う。そんな二人の様子を見慣れぬ新しい級友達がどこか不可思議そうな顔をしていたところ、閉め切られていた教室のドアが急に開けられ、その音に不意を突かれて幾人かが肩を震わせた。
 ニトロもその音に反応して振り向くと、ドアの外には教室内と同じく十数人の男女がいた。校章の学年を示す色は揃って黄色ばかりで、その色は昨年度までは三年生、今年度からは新一年生のものである。先ほど「たむろしてご迷惑をかけてはいけない」と校長に追い払われていたはずだが、どうやらすぐに戻ってきていたらしい。そしてそのまだ高校生に成り切れていない集団の先頭に、早くも成人の風格を備えた大柄な男がいる。
 その背の高く、ブレザーの上からも解る筋肉質の体躯は、ニトロもハラキリもよく見覚えのあるものだった。彼は窮屈そうにドアを抜けてくる。少なからず驚いて、ニトロは声をかけた。
「どうしたんだ?」
 部活動に行ったはずのニトロの友人――ダレイは、歩み寄りながらほとんど表情を変えずに答える。
「ニトロを探しにきたんだ」
「俺を? 電話してくれればよかったのに」
「校内にいるのは分かっていたからな。ハラキリも」
「ということは、拙者にも御用が?」
 炭酸飲料をじわじわと飲みながら、意外そうにハラキリが問う。ダレイはうなずき、
「二人に絵を燃やすのを手伝って欲しい」
 ニトロは眉をひそめた。
「演劇部の倉庫を整理でもしてるのか?」
「今日は美術部を手伝っている」
 ニトロはますます眉をひそめた。
 ダレイは蹴鞠キックアップ部と演劇部に籍を置いている。メインは前者だ。後者には演劇部の友人に舞台設営への協力を頼まれた際に入り、それからも必要な折に力仕事を手伝っている。だから、てっきり不要になった舞台道具の処分作業への協力要請だと思ったのだが……
「美術部とも兼部してたっけ?」
「ちょっとややこしいんだが」
 ダレイは一つ間を置き、
「演劇部の脚本を、文学部のが手伝っている。その文学部に、美術部と兼部しているのがいる」
「――で、ダレイはその美術部員と友達になっていて、そこから頼まれたと」
「そういうことだ」
「美術部員とのことなんて初めて聞くよ」
 ダレイはうなずく。彼は不必要なことは言わない。それで正しいという態度で、実際、彼にとっては正しい。自ら自分のことを話すことも滅多にないから、ニトロには単純に初耳だった。そのため驚きはしたが、それ以上に気にかかるのは、
「てことは、燃やすのは美術部の絵か?」
「そいつの絵だ」
 となるとなかなか穏やかな話ではない。何やら重苦しいものがニトロの想像力に及んできて、彼の眉間にはいよいよ深い皺が刻まれる。
「心配するようなことじゃあない」
 その様子を見て、ダレイが言った。
「燃やすといっても、それは創作活動だ」
「創作活動?」
「陶器は焼くだろ?」
「紙と土じゃ意味が全然違うだろ」
「結果として完成すれば同じだ」
 ニトロの眉はひそめられたままだった。燃やして完成する絵とは、何だ? 『焼き絵』なら聞いたことはあるが、それともどうも違うらしい。彼は強く興味を引かれた。
「まあ……それなら、ひとまず行ってみるよ。場合によっちゃ断るかもしれないけど、それでもいいか?」
「構わない」
 ダレイはうなずき、それからハラキリを見た。ニトロもハラキリを見る。ハラキリは悪意で作られたとしか思えない炭酸飲料の残りを一気に飲み干し、立ち上がった。
「では拙者も行くとしましょうか」
 ハラキリは空のペットボトルを専用のゴミ箱に放り込み、ダレイと連れ立って教室を出て行く。ニトロはその後に続いて廊下に出た。
 すると廊下に固まっていた十数人の新入生達が、瞳をまっさらな制服よりもきらきらと輝かせて三人を取り巻いた。……取り巻いたが、何やらひどく尻込みをしているようで取り巻いたまま近づいて来ない。どうやら荒事をくぐり抜けてきた『スライレンドの救世主』がさらに戦闘力の高そうな二人を従えてきたことで、新入生達は一種の威圧を感じているらしい。
 それを悟ると同時、ニトロは笑みを浮かべてしまった。それは敵意のないことを示すものであり、ハラキリに言わせればお人好しの困った短所である。しかしその短所は実際に効果を発揮し、『ニトロ・ポルカト』を伺いに来ていたミーハーな新入生達ははっきりと安堵した。もし何事もなければ彼の一番近くにいたおさげの少女を押しのけて、快活そうな男女の三人組が有名人へ突撃してきていただろう。しかし野次馬達の安堵は束の間のことに過ぎなかった。ちょうどその時、廊下の向こうからこちらへ居丈高に進んでくる人影があった。まるで剣を振り回して駆け込んでくる勢いである。それを見た野次馬達は慌てふためき、『ニトロ・ポルカト』への関心に後ろ髪を引かれながらも逃げるように解散していった。
 ニトロは、最後に去っていったおさげの少女から、その人影に目を移した。
 校長である。
 肩で風を切り、足音も力強く進んでくる彼は最上級の礼服に身を包んでいた。それは入学・卒業式で着てもちょっとどうかというような服装であった。彼は『王女の恋人』の視線に気がつくと、さらに胸を張った。すると彼の居丈高で周囲を圧倒しようという攻撃的な姿勢が一瞬にして消失し、代わってそこに粘りつくような媚態が現れる。その媚態と示威的態度は相容れない。それらは互いに反発し合い、そのため威厳をアピールしようという男の姿は途端にみすぼらしいものとなる。
 もう慣れた――とはいえ、そのような大人の振る舞いは、慣れてなお負の感情を若者の胸に与えるものだ。
 元より柔和な顔に、にこにこと人の好い笑顔を浮かべる校長とすれ違いながら、先頭に立っていたダレイが頭を下げる。校長は目礼を返す。ハラキリが目礼した時、校長は隠し切れぬ難色を示しながらうなずいた。ニトロが会釈をすると、校長はいよいよ胸を張りながら頭を下げるという離れ業をやってのけた。
 三人とすれ違った後、校長の磨き抜かれた革靴はカスタネットもかくやとばかりに甲高い音を放ち出し、しかし速度は急速に緩め、己の存在を相手の耳に確実に刻み込むために一歩一歩ゆっくりと離れていく。
 ……ニトロの胸に、軽蔑はない。
 ただ失望があった。
 失望は軽蔑ほど相手を卑小化することはなくとも、しかしその存在を軽くする。高貴なる人からの重用を望む校長先生の勇姿は、その燃える願望が増すほどに滑稽であった。そして、もはや哀れだった。
「ところで燃やすといっても、どこで燃やすんです?」
 ハラキリが口を開いた。校長とすれ違った瞬間から何となくまとわりついていた透明な膜が、その声に破られる。
「校庭だ」
 ダレイは言った。
「水場の近くでやる。それが条件だからな」
 彼の一言目には硬さがあったが、二言目にはそれもなくなっている。ハラキリがさらに聞く。
「焚き火のように?」
「バーベキューコンロを借りてある」
「なるほど。それじゃあついでに肉も焼きますか」
「ニトロがいるから、それもいいかもな」
「ん? それは俺に作れってことか?」
「得意だろ?」
「苦手じゃないけど、そういう場合は手伝おうよ。一緒に作ろう。バーベキューってそういうのが楽しいんじゃないか」
「俺はいつも運搬専門だ」
「いつも?」
「そうでなかったことはない」
「力持ちは頼られますからねぇ」
「ハラキリもか?」
「拙者は全工程でちょこちょこ手伝って、それでお茶を濁します」
 ダレイは笑った。ニトロも笑いながら、言う。
「要領がいいんだよな、ハラキリは」
「いえいえ、単純にセコいだけです」
 しれっとそう言ってのけられて、ニトロもダレイもまた笑う。
 教室棟から中庭を抜けて特別教室棟に移動した三人は、三階の隅にある美術室へとやってきた。
 特別教室棟は、教室棟に増して静かだった。最上階の音楽室から――窓を開けているのだろう――軽快な二重奏が漏れてきているが、その細くたなびく音楽が余計に静寂という形のないものに輪郭を与える。この階には人影も全くない。ひそひそ話も聞こえない。
 美術室のドアの前で立ち止まったダレイはドアを軽くノックし、開いた。
「戻った」
 ダレイの低い声に振り向いたのは艶のない黒髪を背に流す女子生徒だった。他に部員はいないのか、それともどこかに行っているのか、絵の具や油、その他種々様々な画材の匂いの染みついた広い教室には彼女一人しかいない。ブレザーを脱ぎ捨て、ネクタイを投げ捨て、シャツの袖をまくり上げ、何やらけばけばしい衣装を着た肖像画を相手にしていたらしい少女はダレイの後から入ってきた二人の顔を見て驚いたように目を開いた。
 一方、ニトロも驚いていた。
 その美術部員には見覚えがあった。
 だが、名前が出てこない。
 彼女は今年度から同じクラスになった女子で――
「おや、カルテジアさん」
 ハラキリが言った。その名を聞いて、ニトロも思い出した。そうだ。彼女を初めて意識したのは昼休みの時。食事も取らずどこにもいかず、さらに授業が始まってからも教室の隅でずっと読書に耽っていたクラスメイトだ。
「どこに行ったのかと思ったら」
 顔だけをドアへ振り向けていたカルテジアは三人に体ごと向き直り、言った。
「ポルカト君に、ジジ君まで連れて帰ってくるとはね」
 彼女の声は落ち着いていて、表面はとても柔らかいのに、底にはどこか堅さがある。
 その響きがニトロに不思議な印象を与えた。
 彼は改めて新しいクラスメイトを見た。教室で、彼女がブレザーを着ていた時にはさほど気にならなかったが、それを脱いだ今ではシャツの下からひ弱さが滲み出ている。まくり上げられた袖から抜き出る腕にも肉がない。長めのスカートから覗く膝は角ばり、頬はこけ、半ば拒食症を疑いたくなるところだ。それなのに目は活き活きとしていて、何か揺らぎのないエネルギーすら感じさせる。彼女に見つめられれば、人によっては拒否感を抱くかもしれない。
「でも、どうして?」
 その問いに、ニトロとハラキリは疑念を抱いた。ダレイとカルテジアの間で話が通じていないのか。線の細すぎる少女に比べるとなおさら大きく見えるダレイが言う。
「手伝ってくれるそうだ。人手はあった方がいいだろう」
「ほんと? それは助かる」
 嬉しげな少女の顔には独特の愛嬌があった。それを見るダレイはいつもの通り寡黙な様子で、ぼつりと言う。
「できたのか?」
 その目は肖像画に向けられている。
「ええ、できたわ」
 美術部員は誇らしげに胸を張る。小さな乳房のみならず、骨ばった胸郭までもが強調される。ニトロは心配になるが、それでも彼女の顔色の血色を見るとやはり病的なものがあるわけではないらしい。
「見てて」
 彼女はカンバスの裏に回りこみ、ちらっとこちらを見た後、いきなり両腕でカンバスを貫いた。
「あ!」
 と、声を上げたのはニトロだった。その反応に少女は目を細め、両腕を引き抜く。肖像画の肩口から表に飛び出ていたか細い腕が裏に消え、するとカンバスはとても穴が開いているとは思えない状態に戻った。描かれている人物の、派手な衣装のフリルや刺繍が上手く仕掛けを隠しているのだ。うら若い画家は実に満足気に微笑んでいる。
「ポルカト君の様子からすると、上出来みたいだね」
 ダレイがうなずき、歩み寄っていく。
 ニトロは感嘆を込めて、思い出したその“タイトル”を口に出す。
「『ザンクバックの悪魔の絵』か」
「その通り。流石はニトロ・ポルカト」
 少女の言葉にニトロは苦笑する。
「いや、有名だからね」
「それでも知らない人は知らないものよ。少なくとも、うちの部員は皆知らなかった」
 カンバスを画架から外し、美術部員はそれをダレイに渡す。
「顔の辺りはまだ乾き切ってないから」
 画家の注意を受け、ダレイは絵を汚さないよう抱えてドアへ向かう。そしてまだドアの付近にいたニトロとハラキリとすれ違う様に、
「よろしく頼む」
 と、その一言を残し、ダレイは美術室を出て行った。
 案内人、そして依頼者に取り残されたニトロは少なからず当惑したが、結局、ハラキリと共に美術室の中頃へと進んだ。カルテジアは教室に九つ――3×3に並ぶ大きな机のうち、前列の一つを脇に押しやって手頃な制作スペースを作って、そこで作業している。傍らの机の上にはまた別の絵があった。先ほどの肖像画とは全く違う傾向の作品で、こちらは彼女の自由の手になるものだろう。他方、先ほどの物は、間違いなく、
「演劇部の手伝い?」
 ニトロが問うと、少女はうなずいた。
「よければ定期公演を見てあげて。君に観てもらえたらきっと喜ぶわ」
「俺はそんな大層なもんじゃないよ」
 プラスチック製のパレットと筆、それと随分可愛らしいキャラクターのシールが貼られた水入れ――肖像画は一目見た時には油絵かと思ったが、どうやらアクリル絵の具を主体に描かれていたらしい――を傍らの机の奥に追いやり、代わって油絵用の道具を手前に揃えていた少女はニトロの言葉を聞いて動きを止めると、相手をジッと見つめた。それは肌の細かな溝まで観察してくるような眼差しだった。ニトロは戸惑った。彼の心に警戒、あるいは回避への衝動が沸き起こる寸前、彼女は目を手元に戻した。その顔には何か納得のようなものがあり、
「君の認識ではそうであっても、相手の認識は違うものよ」
 その言い分に、ニトロは面食らった。少女は続ける。
「そして君の言う通り、君が大層なものじゃなかったとしても、観客が一人多いだけでも嬉しいものだから。それは君も知ってるんじゃない?」
「……そうだね、少ないよりは、多い方が嬉しい。だけど、それは俺の力じゃないよ」
「確かに君だけの力じゃない。でも、君だけの力じゃないだけで、そこには君の力もあるはずよ?」
 ニトロはまた面食らう。ハラキリは声には出さず笑っていた。カルテジアは机の上に置いてあった1m近いカンバスを画架に掛けながら、ずけずけと言う。
「謙虚は美徳ではあるけれど、あんまり謙虚過ぎるのは卑下になるし、場合によっては嫌味になるわ」
 痛いところを突かれた――ニトロはそう思った。しかしそう思いながらも容易には承服できぬところが彼にはあった。それは一面では意地であり、他面ではそれを認めることがすなわち“現状”をも認めることへの忌避である。その忌避は己の事情を根本から知らぬ者には理解されないだろう。だが、理解を求めようにも、それを明かせぬ事情もある。
 ニトロの中に渦巻く葛藤は言葉にはならずとも、その面に影となって現れた。
 すると、ふと手元からニトロへ目を移したカルテジアが叫んだ。
「その顔!」
 突然、しかも彼女の食いつくような勢いにニトロは驚いた。その瞬間、彼の表情から影が消える。カルテジアは今見た『その顔』を忘れぬうちにと画架に向き直った。机に置いてあったメガネを慌てて掛けて、合成木材製のパレットを持ち、筆を取り、煩わしそうに絵の具を用意すると凄まじい勢いでカンバスに描かれた人物の顔に修正を加えていく。
 その絵は暗い絵だった。
 真っ白な世界を背に、人が独り佇んでいる。その人は暗色を基調として描かれ、所々に点在する明色がその暗黒を際立たせている。その人は腰の後ろで手を組んで、うつむき、その顔には深く重苦しい苦悩があった。
 カルテジアは夢中で筆を動かしながら、うわ言のように言った。
「君の会見を見たの」
「ああ……うん」
 ニトロはうめくように応えた。その会見とは間違いなく『赤と青の魔女』――つまりスライレンドに現れた異常能力者ミュータントが起こしたとされる事件について、その最大の被害者にして一番の当事者である『ニトロ・ポルカト』が王女の付き添いの元で報道陣と質疑応答した時のことだ。
 カルテジアは筆を器用にパレットを支える左手に持たせるとペインティングナイフを右手に取って細かく絵を削り、
「その時のポルカト君は落ち着いて事件に向き合い、それと同時にメディアにも丁寧に対処していたけれど」
 ナイフを机に置いて筆を取り、パレットで乱暴に油絵の具を混ぜ、それを打って変わって繊細にカンバスに塗り込めながら少女は言う。
「その内奥ないおうには隠された苦悩があった」
 ニトロはどきりとした。
「それはとてもとても深くて、拭い去れない懊悩おうのうで、君はそれとも戦っているようだった」
 灰褐色の瞳はひたすらカンバスに、その苦悩する人物に注がれている。それなのに、ニトロは己が彼女の視線に突き刺されている気がした。思わず顔が固まり、押し黙る。
「流石、文学部」
 と、ハラキリが感心したように言った。
「『内奥』や『懊悩』なんて同級生から聞くとは思いませんでした」
 ニトロ・ポルカトの親友はそう言って笑う。するとカルテジアの手が止まった。彼女はきょとんとし、ハラキリに向き直ると納得顔を見せた。
「ダレイに聞いたのね。兼部してるって」
「そういうことです」
「でもまさかそんなところに反応されるとは思わなかったな」
「ほぼ初対面の人物にやけに遠慮なく物を言う、という点に反応されると思いましたか? まあ非常に興味深い論説も文学部らしいと言えば、らしいものでしたが」
 こちらも遠慮なく物を言うハラキリの言葉は、どうやら図星であったらしい、カルテジアは小さく笑う。
「それで失敗したことがたくさんあるもの」
 そう言って、彼女はメガネのレンズ越しにハラキリをじっと見た。そこには先にニトロを観察した時と同じ眼差しがある。しかし今度は何も得られなかったようで、わずかに臆病心を覗かせて、彼女は探るように言う。
「でも、ポルカト君には言っても大丈夫だと思ったからね」
 ハラキリは片眉を跳ねて、それを応えにする。その表情にカルテジアは何か興味を引かれたようだが、すぐにニトロに向き直り、
「まあ、でも、それもそうだよね。あんな事件に巻き込まれたら、そう簡単に乗り越えられるはずもないし」
 カルテジアの声には労りが現れていた。どうやら彼女はニトロの苦悩を異常能力者ミュータントと相対したことによる心的外傷に由来するものと解釈しているらしい。それを察したニトロは、ハラキリが広げてくれた間合いにも助けられ、余裕を持って笑みを作る。彼女も笑みで応え、それからカンバスに向き直る。
「さっきは、急に失礼。ごめんね」
 それが『その顔』と言ったことを指していることを悟り、ニトロは首を振る。
「驚いたけど、別に失礼だとは思ってないよ。それより、何で『その顔』だったのかを知りたい」
 カルテジアはカンバスにぐっと筆を押し込むように色を載せ、そこで微笑んだ。修正を終えたらしい。彼女は微笑んだままニトロへ振り返り、少し罰が悪そうな顔をした。
「この絵を描き始めてからもう二年が経つんだけど、どうもイメージする苦悩の顔が描けなかったの」
 ニトロはカンバスを見た。そこに描かれていた苦悩する人物は、前よりさらに深く悩み苦しんでいた。表面上はいくらか安らかになってさえいるのに、深い淵の水面が穏やかであるように、だからこそ煩悶の底は計り知れなくなっている。その変化に驚く彼の顔を見て、少女はくすぐったそうに眉を垂れ、そして続ける。
「私の求める苦悩の顔は、ずっと私の目の前にあった。だけど私にはそれがどうしても描けなかった。目の前にある顔はぼんやりとして、掴めそうで掴めなくて、けれどそこにあるからどうしても描き出したかった。でも、描き出したい、そう思えば思うほど目の前の霧は深くなる。霧は晴れない。そのせいでまた描けない。最悪の悪循環。正直、諦めかけていたわ。だけどそんな時に君のあの会見を見た。その瞬間、これだ! って思った。
 お陰でやっと描くことができたわ。君に会えたらお礼を言いたい気分だったけど、こんなことでお礼を言われても君は困るだろうし、いきなり言われたところで訳も判らないだけだよね」
 カルテジアは笑う。その笑顔は、清々しい。
「さっきまで満足できていたんだけど、でも、やっぱり実際に見ると違うね。今度こそ、やっと描けた。ありがとう、ポルカト君」
「お礼を言われても……確かに、ちょっと困るね」
 ニトロが言うとカルテジアはころころと笑った。その様子はやはり同年代の少女だ。ニトロはその笑顔の背後のカンバスを改めて観る。それは自分には似ても似つかず、どうやら彼女は『ニトロ・ポルカトの苦悩』に触れた際のエッセンスだけをそこに写し取ったらしい。……だとしても、その苦悩を描かせられるだけのものを自分が発していたのかと思うと重い気持ちにもなる。もし、去年のノイローゼ寸前だった『ニトロ・ポルカト』を見たとしたら、この美術部員はどのような苦悩をカンバスに描いていただろうか。
 ニトロはしばし沈黙した。ここからどのように会話を接げればいいのかちょっと解らない。ハラキリは彼女の発言を吟味している。ダレイはまだ戻ってこない。彼女は自分の言葉と作品が相手に与えた影響を観て取って、笑顔を消すとカンバスに向き直っていた。一歩離れたところから己の描いた苦悩する人を眺め、深く息をつくと、絵に歩み寄って静かにサインを入れる。
 一つの絵画が完成する瞬間を、ニトロは息を殺して見つめていた。
 カルテジアはまたカンバスから一歩離れて全体を見直し、うなずいた。
「――ダレイからは、絵を燃やすのを手伝ってくれって言われて来たんだけど」
 画家の動作の音、衣擦れと足音だけが響いていた沈黙を破り、やっとニトロは訊ねた。
 パレットと筆を机に置き、メガネを外したカルテジアはうなずく。
「うん。この絵を燃やすの」
「え!?」
 ニトロは思わず声を上げた。ハラキリも小さく驚きの声を発していた。
「その絵を? 何故!?」
 描き上げたばかりのその絵を燃やすという意味が解らない。ダレイはそれを『創作活動』だと言っていたが、その燃やされる予定の絵を目の前にして、ニトロはそれが何の活動になるのかと思わずにはいられなかった。
「そんなに……上手く描けているのに」
 どのような言葉を選べばよいのか迷い、とにかくニトロは素直な感想を口にした。
「俺の顔を見て苦悩をどうのって話にはちょっと思うところもあったけどさ、でもその絵は凄いと思う。燃やすのは――」
「勿体無い?」
「勿体無いと思う」
「ありがとう。でも、これだと未完成なの。私の作品は、絵じゃない。あ、絵ももちろん描くわ、ただ今回の作品はそうじゃないって意味ね」
 カルテジアはそこで上目遣いに何かを考え、
「そうだ、自己紹介がまだだったね」
 急にそう言い出すと、ニトロとハラキリをそこに残して隣の準備室へ小走りに入っていった。
 ハラキリがカンバスに近づいていく。ニトロも同じく絵に近寄った。距離を詰めてみるとその絵の迫力がさらに増してくる。
「どう思う?」
「まあ、見た目全くの別人ですし、燃やされてもニトロ君が嫌な思いをすることはないんじゃないですか?」
「――ああ、それは思いつかなかった」
「ああ、そこら辺は全く気にしていなかったんですね。これは余計なことを言いましたかね?」
「いや、別に悪意があるわけじゃなし。てか、そうじゃなくてハラキリは――」
 そこでニトロは言葉を切った。準備室からカルテジアが片手に台に載ったスニーカーを、片手にとても小さな絵を持って出てくる。
 彼女は画架の前にいる二人から離れ、画材の置いてある机を挟んで二人に相対した。持ってきた物を机に置き、脱ぎ捨ててあったブレザーから携帯モバイルを取り出して操作する。
「まずは他の絵を」
 彼女の言葉と共に二人の間に立体映像ホログラムが表示され、そこに色彩も豊かな風景が現れた。
 ニトロの眼が奪われる。
 麦秋だった。
 初夏の緑に染まる畦道とは対照的に、畑には金色の穂が揺れている。空は鮮やかな青、もくもくと浮かぶ雲は眩しい純白、その雲の色と同じワンピースを着て、真っ黒な帽子を被った少女が風に吹かれて畦道を歩いている。
 ニトロが得も言われぬ郷愁と何かしら胸をざわめかせる景色を見つめていると、前触れなく絵が切り替わった。次に表示されたのは迫力ある格闘シーンだった。荒々しい筆致で二人の男が争っている。目を剥いて歯茎から血を流し、相手の骨を砕かんと握りこまれた拳は必殺の意志そのものである。一定時間を置いて再度絵が変わる。アニメのワンシーンを切り取ったようなイラストが現れた。極彩色の廃墟を背にして、喪服姿の美少女が挑発するように舌を出している。その桃色の舌先には黒白二色のカプセルがあった。青空には色のない歯車がギラギラと飛んでいる。
 さらに絵が切り替わり、抽象画、動物画、静物画と表示された後、
「切りがないからこれくらいで」
 カルテジアがスライドショーを停止した。
「それに、折角ここにいるから、こっちもね」
 と、彼女が手に取ったのは小さな絵だった。両手で挟むように持って、ニトロ達へ見せる。それは成人男性の手と同程度の大きさのカンバスボードに描かれた、稠密な街並みであった。
 ニトロは身を乗り出した。
 それはどこの街並みかは判らない。古い時代と現代とが混じり合う小都市、その一画のようだ。奥に行くに従って左へカーブする石畳の道。黄昏が差し迫り、パン屋には様々な形のパンが並べられ、隣の食材店では缶詰が彩り豊かなモザイク模様を作り上げている。クラシカルなブティックの隣に最先端のモバイルショップが軒を構えていた。酒場には早くも灯が灯り、画面右端の暗い路地にも店の明かりがこぼれ出している。本来ならば、ここには多くの人が行き交っているのだろう。しかし画家の筆は一切の人間をここから排除していた。ただ、よく見ると、店々の立ち並ぶ道の消え行く先から影が滲み出してきていることに気がつく。それは画面内に入り込むやすぐ傍の建物の壁に這い上がっていて、意識しないうちにはただの壁の染みのように見えていた。なのに、その影は、それを影と認識すると即座に人影と変ずる。およそ人の頭にあたる部分はこちらをじっと見つめていた。それは何者かがいずれその道をやってきて、そうしてこちらをじっと見つめるであろうことをも予感させるものであった。
 その絵の非現実的な雰囲気、反面、まさに現実的な写実にニトロは唸る。
「本当に上手いね」
「ありがとう。でも、これくらい描ける人ならいくらでもいるわ」
 ニトロはカルテジアを見た。彼女に謙虚の態度はない。
「去年の王都ジュニアコンクールで金賞を取ったのは、13歳。これは――勝手に応募されてたんだけどね、歯牙にもかからなかった」
「コンクールだけが全てではないでしょう」
 ハラキリが、珍しく熱心に絵を覗き込みながら言う。カルテジアはうなずき、
「でも一つの指針であることに違いはないわ。少なくとも私の言葉が嘘でないことは証明できたはず」
 ハラキリは何も言葉を返さない。しかし、だからと言ってその絵への関心を低めた様子はない。ニトロも同感である。彼は真摯に言った。
「だけど、やっぱり上手いよ」
 カルテジアはくすぐったそうに肩をすくめた。そして彼女は絵を置くと、次に粘土でできているらしい台に載せられたスニーカーを取り上げた。そのスニーカーは有名なメーカーの既製品。大きさとデザインからして女物であるらしい。その片方は僅かに踵が浮くように細工されている。それは今にも踏み出そうとしているようにも見えるし、踏み出し切れずに躊躇っているようにも見えた。
「タイトルは『片思い』」
 言われて、ニトロは納得した。すとんと収まるべきところに物が収まった気がした。彼のその顔を見て、またカルテジアはくすぐったそうに肩を震わせる。
 ニトロとハラキリが小さな絵と『片思い』を眺めている間、彼女は二人の後ろ、中央の列・廊下寄りの机を押し始めた。作業台も兼ねている美術室の机は重い。彼女は全力を出しているようだが、机がスライドする速度は遅かった。慌ててニトロが手伝いに行く。
「これを寄せればいいのかな」
「うん。あと真ん中のも動かして、そこにスペースを作りたいの」
「分かった。――ハラキリ」
「仕方ありませんねえ」
 小さな街並みを、そこから何かを掘り出そうとするかのように見つめていたハラキリがまさに仕方ないとばかりにやってくる。ニトロが、いつの間にやら物見高い生徒の集まり出していた廊下側の窓の下まで寄せた机に、ハラキリの押す机がまた寄せられていく。
 一方、手の空いたカルテジアは椅子を脇に寄せていた。机を動かし終えたニトロとハラキリも手伝う。それから彼女は教室の中央付近に思い通りのスペースができたのを確認すると、携帯モバイルに唇を寄せ、
「セケル」
 その名はおそらく彼女のオリジナルA.I.のものであろう。口早に命令コマンドが送られると、唐突に教室の電気が消えた。窓に遮光機能も発現する。廊下側の窓も光を拒絶した。その瞬間、教室は暗闇に没した。急に目の前が真っ暗になったことでニトロの目が暗む。と、その彼の目の前、つい今しがた彼らが作ったばかりのスペースにぼんやりと光源が浮かび上がってきた。その光は静かに集約し、やがてくっきりとした色彩と形を得る。
 それもまた立体映像ホログラムだった。
 しかし先ほどのイラストレーションとは趣向が違う。
 こちらは立体的な造形物であり、この作品は顔、それも仮面であった。
 ニトロとハラキリに正面を向けているその仮面は、初対面の人間へ向けるようなすまし顔をしていた。ただ仮面と言っても実際の人間の立体写真を加工して作ったものらしく、当然それは肉感的であり、今にも呼吸を始めそうなほど活き活きとしている。モデルはどうやらニトロと同年代の少女で、暗闇に映える明るい赤毛にくりっとした緑色の目、それと大きな口が実に印象的な顔立ちで、ニトロにはどこか見覚えのある気もするのだが……
「こちらの作品は『三つのタイトル』っていうタイトル」
 暗がりからカルテジアが言う。
「まず一つ目のタイトルは、『感情の表出』。ちなみにこの人は去年の演劇部の部長よ。さ、見る角度を変えてみて」
 なるほど、道理で見覚えがあるはずだ。つかえの取れたニトロは言われた通りに観る角度を変えてみた。すると、一定の間隔で次々と仮面の表情が変わった。すまし顔から喜怒哀楽――のみならず、およそ考えられる限りの感情がその面に表れる。さらに同じ感情でも度合いに応じて、喜び、大喜びという変化もあった。
「おお」
 感嘆の声を上げてニトロは仮面に近づき、左右に動いて鑑賞した。さらに表情の変化は上下動にも対応していることに気づき、横移動を反復しながら膝を曲げたり爪先立ちになったりぐるぐると視点を変えて作品を観る。その内に気づいたことには、正面のすまし顔以外の『顔』は出現場所が固定されていないらしく、さっき右斜め45度に見えた大笑いの顔が再び右斜め45度に現れることはない。おそらく何十、それとも何百回と試せば再び現れることもあろうが、一つ一つの『顔』は観察者に対して完全にランダムに表示されるようになっているようだ。それこそ、その『感情かお』がいつも同じ条件で見られるとは限らないことを表現するように。彼女が以前には笑ったことでも、今では怒りを覚えてしまうかのように。
 それにしても一人の人間がこれほど多くの表情を見せるとは。普段からころころ表情を変えてくる奴と付き合ってもいるし、考えてみれば全く不思議ではないものの、こうして一所に集められると驚くほど感動してしまう。
 見飽きることのない『顔』の奔流に溺れながら、ニトロは暗がりに佇む作者に訊ねた。
「これを作るには相当苦労したでしょ」
「部長がね。私はうるさく注文しながら撮影しただけ。でも、いい練習になったって言ってくれたわ」
「なるほど」
 同じ笑顔でも喜ばしい笑顔、哀しい時の笑顔、喜ばしくも哀しさもある笑顔、と、ニュアンスの微細な変化も一切妥協せずに表されている。これは本当に『いい練習』になったことだろう。そしてこの作品の出来栄えにも、きっと満足したはずだ。
「……」
 それにしても、と、ニトロは思う。この作品は、彼には同級生が作ったとはとても思えないものであった。発想も面白いが採用された表情の一つ一つが実に『絵』になっている。もちろん演劇部部長の力の寄与するところは大きい。しかし、これを形にしたのはやはり同い年の彼女なのだ。
 となると俄然気になることが出てくる。ニトロはそれを訊ねた。
「文学部では、何を?」
「文学部ではもっぱら読解と研究専門」
「てことは、創作はしていない?」
「そう思ってくれるのは嬉しいな」
 カルテジアはまたくすぐったそうに言う。そう、ニトロの関心は、これだけの視覚芸術を作れる人物が文学部では何を作っているのだろうということにあった。彼の疑問を受け止めた少女は、暗がりからホログラムの光が照らすところに現れた。
「でも、私の文学と美術へのスタンスは違うの。私にとって文学は創作の糧であり、源泉。そして表出が絵や造形物。もちろん美的な感動を与えてくれるものを見たことで創作意欲を掻き立てられることもあるわ。例えば、ティディア様なんてそうね」
 刹那、ニトロの顔に暗い影が走った。しかし、室内の乏しい光量がカルテジアにそれを見せなかった。
「ティディアが?」
 ニトロは問うた。まさか、彼女は『マニア』なのか?
「ティディア様は、特異な存在よ」
 カルテジアは灰褐色の瞳を輝かせて言う。
「ポルカト君は『華』というものを不思議に思わない? 純粋な外見だけなら同じくらいの人間でも、片方は地味で、片方は否応なく――それこそ賛否はともかく人を惹きつけることがある。それとも音楽家でもいい。同じ楽器で同じFの音を同じように弾いてみせても、片方はただFの音を出しただけ、片方は色気のあるFを生み出す。その差を科学的に証明することはある程度までは可能みたいだけど、ある程度以上は未だに解らない。特に存在感、なんてのがその一つでしょうね」
 ニトロは、うなずく。
「今の世にも『華』のある人は多くいる。役者、アーティスト、コメディアン、芸能人、それらに限っても全国で数えればそれなりに数もある。けれど、ティディア様は、別格。もしティディア様を描くことができるのなら、私は残りの生涯の全てを失ったっていい」
 ――判断に、困った。彼女は『マニア』だろうか。その言葉だけを聞けばそう思える。しかし――そう、科学的に証明することは不可能な部分で、それはどうも違うような気がする。
 そこでニトロは彼女に先を促した。美術部員にして文学部員の少女は素直な聞き手の素直な意思表示に言葉を引き出され、
「話を元に戻すと、でも、私の場合、ティディア様のような刺激は例外なの。私は霊感のほとんどを文学から受けている。一つの作品を読んでいる途中で感銘を受けたシーンを絵にすることもあるし、読了した時に浮かんだ心象が形になる時もある。ずっと後になってふとイメージが思い浮かび、それを描き上げた後に『ああ、あの作品の影響だ』と気づくこともあるし、何か一つに限らない、複数の作品が私に残した因子がある日突然化学反応を起こして絵になることもあるわ。それらは明らかに特定のエピソードに触発されたと解る場合もあるし、私自身どうしてそういう絵になったのか判らない場合もある」
「ああ、なるほど」
 ふいに、ハラキリが得心のいったとばかりにうなずいた。全く気配を消していた彼の闖入にカルテジアが滑稽なほどに驚く。ニトロでさえも少し意表を突かれていた。しかしハラキリ自身は喉に刺さった魚の骨がやっと取れたという様子で、
「『影法師の愛は心臓に答えを求めるか』」
 彼がそう言った瞬間、パンとカルテジアが手を叩いた。そして彼女も言う。
「『この街の思い出は、この手の上に載せられるだけでいい』」
 ハラキリが口にしたのはタイトルで、カルテジアはその作中のセリフを言ったということをニトロは察した。
「やっと“因子”が全て繋がりました。先ほどのあの小さな絵には、あの物語の断片が一つに編み上げられていた。そしてそれを貴女の抱いた印象が纏め上げていた。いや、どうにももどかしい思いをさせられました。その編み上げられたイメージには見覚えがあるのに、それが何であるのかには思い至れない。早い内からあの物語を想起はしているのに、その物語にはこんな『道』はなかったはず、と思えばその思い込みに目に覆いをかけられる。けれど実際、このような『道』は在った――もっと正確に言えばこのような道在ったんですね。拙者にもやっと見えましたよ、貴女の視たものが」
 感想を述べたハラキリを絵の作者は至極嬉しそうに見つめた後、おどけながらも真剣に貴族風のお辞儀をし、それからニトロへ視線を戻すと、
「そしてもちろん、これもそう。ただしどの作品の影響かは判らないパターン」
 多面的な仮面を示し、彼女は笑う。
「だから私にとっては、両方なくっちゃ駄目なんだ」
 手を腰の後ろで組んで、カルテジアはニトロの隣に歩み寄る。
「ところで、何だか物足りなくない?」
 問われ、問われたことで内々疑念を感じていたことを確信し、ニトロは答えた。笑顔はあった。大笑いもあった。腹が捩じ切れているんじゃないかという顔まであった。しかし、
「微笑みが足りない」
 カルテジアはまた笑った。とても嬉しそうに。
「後ろに回ってみて」
 ニトロは宙に浮く仮面の後ろに移動した。最後に見えたのは恥じらいの顔だった。ハラキリもついてくる。カルテジアはその場に残った。
 ニトロとハラキリがホログラムの後ろに回り切ると、二人が前面にいた時にはなかった『鏡』がカルテジアの隣に現れた。
「さ、これを見て」
 美術部員はホログラム製の鏡をニトロ達に示した。
 二人は鏡を覗き込む。
「タイトル……『あなたにはみせない』」
 少年達に直接は見られぬ鏡の中で、ホログラムの少女はどことなく妖艶にも微笑んでいた。彼らが正面に戻ってそれを見ようとすれば、きっとその微笑みは消えてしまうのであろう。
「――このタイトルを聞いて、君はどう思う? それが最後のタイトル。どう思って、どう感じて、君ならどんな言葉を“最後のタイトル”にする?」
 その問いに、ニトロは惑った。カルテジアがタイトルを言った時、何かショックのようなものを感じたのは確かだ。それは一体何だったろう? それを言語にするなら。一つの感情として表すなら――いや、違う。考えた後、彼は言った。
「言葉には、しない」
 カルテジアは目を丸くした。
「何か一つの言葉にしたら、多分、全部が不正確だ」
「そう!」
 突如、カルテジアは歓声を上げて軽く飛び跳ねた。
「そうなのよ! 流石はティディア様のお傍にいるだけはあるわ!」
 その瞬間、ニトロの顔にまたも暗い影が走った。しかしやはり室内の乏しい光量とカルテジア自身の歓喜が邪魔をして、彼女がそれを見ることはない。それどころか、例えそれを目撃していたとしても、作者としての歓喜の前には彼の懸念と疑念などは些事に過ぎなかっただろう。彼女はどこか夢見心地で言う。
「一つの、一時いっときの、その一瞬間の感情を表すのはとても難しい! 言葉は私達の手にする万能の道具で、同時に機能不全のがらくたよ。例えば人は喜んでいる時、本当に喜びという感情だけで心を成立させているのかしら。例えば人は怒っている時、本当に怒りという感情だけで動いているのかしら。いいえ、違う、例えば今私はポルカト君の言葉に私の意見との一致を見て、喜んでいる。ポルカト君、君は“作家殺し”よ。君の感想はいちいち嬉しい。嬉しくって君がいつも感想を言ってくれるならどれだけの創作家が魂を救われることでしょう。そう、嬉しいのよ。救われるのよ。でも嬉しさと喜びは同じものかしら? 喜びと救いは同じものかしら? 今、私は喜びながらこんなことを語っている。こうして語ることができるのは、私の心が、少なくとも頭脳は喜び一色には染まっていないからでしょう!」
 語りながら、語ることによって興奮が増して来たらしい少女は、ニトロが圧倒され、ハラキリが観察しているのをよそに大いに続ける。
「もし! 一人の人間が一つの感情に支配されることがあるとしたら! その時、その人は究極の人間性を発揮するか、もしくは人間性を失うと私は思う。例えば怒りに支配された人はどう? 大抵の場合、どんなに怒っても人はどこかに冷静さを備えている。目の前の人を殴ればどうなるか解っているし、言葉を並べて怒鳴ることもできるし、用を足す時にはトイレに向かうし外に行くには靴を履く。でもそれらのことすら忘れるほどに怒りに我を忘れたら、その人は果たして人間性を保っていると言うのかしら? それは獣性に陥るのではないのかしら。あるいは神性を帯びるのかしら。古の人間は忘我の境地、感情を失した人に神性を見出していたとも言うけれど、それは時代を経た今になっても真理なのかしら。そしてそれ以外の場合は、それがどんな場合であれ――私は喜んだ、彼は怒った、彼女は哀しんだ、君は楽しんだ――そのいずれの場合にしても純粋にその感情だけに支配されているとは言えないのではないかしら。喜怒哀楽、もちろんそれらは間違いじゃあない。私は喜んだ。けれどそれは全体ではなく、つまり心の突端、その一時の、一瞬間の中に成立する『心』の代表者でしかないと私は思う」
 爛々と瞳を輝かせる少女は長い黒髪をなびかせ、枝のような指を胸の前で絡ませて、まるで大いなる芸術の守護天使への祈祷のように謳う。
「だから、君が『何か一つの言葉にしたら、全部が不正確』と言ったのは正しい! もし“その時の感情”を明確にそのまま描写しようとしたら、それは絶対に一言では収まらない。一人の少女が正面からは決して微笑みを見せてくれないと知った時、その微笑を鏡越しに見た時、その人が一体何を感じるかはその人しだい。秘密の顔を見たことを喜ぶ人もいるでしょう、逆にそれを正面からは見せてくれないことに怒りを覚える人もいるでしょう、哀しくなる人もいるだろうし、背徳感を覚える人もいるかもしれない。でも、何故? その感情は、その瞬間、この少女の『あなたにはみせない』微笑によって励起されたもの。人それぞれに感じるもの。でもあなたは何故そう感じるの? 何故喜ぶ? 喜ぶからには喜びを導く琴線があるのでしょう。怒りを覚えるからには何か棘に触れるものがあるのかもしれない。一つの感情が表出する時、そこには必ず源流がある。その一つの感情を突端に押しやるだけの力がある。それを見ることができるのは、その本人だけ。そしてその本人が自らに生じた心の動きを覗き込む時、そこには文学がある!」
 カルテジアの精神の爆発は、ニトロをもはや唖然とさせていた。彼女の見解は理解できる。無論、それが正しいのかどうかは判らない。ただ、彼女が確固とした信念を持つ芸術家であることだけは、彼は疑いようもなく納得していた。
「なるほど、そして視覚芸術によって引き出された文学にも貴女は共鳴して、また美術へと反照するわけですか」
「そう!」
 ハラキリの言葉にカルテジアはまた嬉しそうに肯定した。一気に二人も自分の理解者が現れたことに対する孤独な作家の狂喜に等しいものが彼女の顔に現れている。
「まるで永久機関ですね」
 と、ハラキリがそう言った時、少女はふと我に返ったように胸の前で組んでいた手を解いた。
「そう。芸術は感情を永久に――いいえ、ここはこちらの言葉が相応しいわね。そう、永遠にするのよ」
「逆に言えば、永遠に感情を固着させられるものは全て芸術、というわけですか」
「――私の理屈では、そうだね。ジジ君はどう思う?」
「拙者の感覚では、芸術は技芸のためのすべ、あるいは才能のための術です」
「つまり語源通りということ?」
「ええ。そしてそれは学問の一分野、またコミュニケーションの一手段に過ぎません」
 カルテジアは興味深そうにハラキリを見つめる。その視線を受け、ハラキリはちらとニトロを見た。するとその目の動きに誘導されて、彼女はニトロにも問う。
「ポルカト君は?」
 ニトロはハラキリを微かに睨んだが、親友は素知らぬ顔で創作物を鑑賞している。ややあってから、ニトロは何とか口にする。
「……俺は芸術について論じられないよ。芸術と言われるものを見て、感動するだけ。ただ、ちょっと前までは単純に“美そのもの”が芸術なのかなと思ってた」
「今は違うの?」
 ニトロの脳裡にティディアと回った夜の美術館が蘇る。それから暇潰しに入った画廊や作品展、子供の頃に両親に連れられて行った美しい庭園や異星いこくからやってきた展覧会での感動を思い出す。次いでやはりティディアに『漫才しごと』の合間に連れて行かれた前衛美術展で得た大きな困惑と、仮想現実を用いた新しい芸術への大いなる当惑が心に巡る。
「今は、よく解らなくなってるかな。それでも『芸術』って言葉は便利な言葉だ、っていうのはずっとあるような気がする」
「それじゃあポルカト君にとっては何より言葉の問題なのかもしれないわね」
「そうかもしれない。だけどそのうち一周してまた“美そのもの”なんじゃないかって思うような気もするよ」
 カルテジアはおもしろそうにうなずく。その目には共感もある。彼女はそれから何かを掘り起こそうとするかのように訊ねた。
「それならポルカト君にとって、“美”とは何?」
 ニトロは肩をすくめる。
「それこそ『人それぞれに感じるもの』じゃないかな」
 カルテジアは一瞬、呆気に取られた。自分の言葉を巧く利用されたことに気づき、それがツボにでも入ったのか急に笑い出す。そして笑いながら彼女は言った。
「それだと芸術にはまるで形がないことになっちゃうわね」
「だから色々なものが生まれるのかもね」
 その言葉を聞いたカルテジアは何やら満腹に至ったようにうなずき、にっこり笑った。
「というわけで、自己紹介になったかしら?」
 それはもう強烈な自己紹介であった。ニトロもうなずき、一段落がついたところで気になっていたことを忘れぬうちにカルテジアへ訊ねる。
「ところでさっき『ティディア様のお傍にいるだけはある』とか言っていたけれど、あれはどういう意味かな」
「ああ、それはね、ティディア様は芸術を解される方だと思っているから、そのティディア様の影響が君には必ずあると思っているからよ」
 ニトロの顔が恐ろしく曇る。
 今度こそ彼の表情の変化を見て取ったカルテジアは、ぎょっとして身を引いた。
「随分と王女様への評価が高いんですね」
 そこにハラキリが問いを挟んできた。
「もしやカルテジアさんは『マニア』ですか?」
 直接的な問いに、ニトロはハッとした。カルテジアはニトロ・ポルカトの顔の曇った理由を解して苦笑する。
「そこまでじゃないわ。純粋に尊敬しているだけ。ティディア様の詩の朗読を聴く時、私はいつも泣いている。鳥肌が立って、大きな感動に恍惚となる。だから、正直言うとね、私はポルカト君が羨ましい。美術館を一緒に回ったこともあるんでしょう? そんなにも素晴らしい体験をしたなんて、嫉妬しないではいられない。――ただ、それだけね」
「それだけ?」
 ニトロが問うと、カルテジアは笑った。
「自分には得られないからといって、その対象を持つ人を攻撃するのは浅ましいことよ」
 その言葉に、ニトロは不思議なほど重い思いを感じた。彼からすればカルテジアは“自分には得られないもの”を持っているクラスメイトだ。それを思うと同時に、この自己の本位を確立している芸術家に敬意を抱く。クラスメイト――同い年の少女に、感銘すら受けてしまう。
「ま、そう思わないと創作活動なんてやってられないんだけどね」
 ニトロの視線に耐えられなくなったのか、ふいに洒落めかせてカルテジアは言った。実際、それは本音でもあったのだろう。ニトロは笑み、
「アーティスト間の嫉妬も凄いらしいね」
「それでも『マニア』の嫉妬ほどじゃあないかもね」
 うまく切り返されてしまった。ニトロは苦笑し、ハラキリは肩を揺らしている。
 やがてホログラムが消え、教室の明かりが段々と点いていく。目を慣らすようにゆっくりと。そして点灯しきったところで窓の遮光機能も解除された。その瞬間、
「うわ!?」
 ニトロは思わず叫んだ。
 彼が驚愕したのは廊下側の窓を見てのことである。カルテジアも驚いて悲鳴を上げていた。
 廊下側の窓の前に、校長がいた。
 彼は一人、仁王立ちでじっと美術室内に険しい顔を向けている。
 廊下から見ると窓は曇りガラスになっているためそこから内部の詳細を知られる余地はない。が、セキュリティカメラのあるため彼はその職務から内部の様子を容易に知ることができるはずだ。何もそんなに曇りガラスを透視しようというような勢いで目をかっぴらくこともあるまいに、一体何のつもりだろうか。そもそも、何故、そんなところで仁王立ちしているのだろうか。
 校長は美術室内に再び明かりがついたことに気づいたようで、その場でうろうろとし始める。ひどく気を揉んでいるらしい。時折廊下の左右に向けて威嚇の目を向けるのは、そこに追い払われてなお美術室へやってこようという生徒のいるためだろう。そして彼は何度かドアに手をかけようとするが、躊躇い、またうろうろと美術室前を周回する。
「何だろう」
 つぶやいたニトロに、ハラキリが答える。
「君がヌードモデルをしているという噂が」
「は?」
「学校の掲示板に」
「はあ?」
 携帯モバイルをポケットに仕舞うハラキリとは逆に、ニトロはモバイルを取り出す。確認すると本当に学校のWebコミュニティの全生徒向け掲示板――この時期は様々な部やサークルの勧誘の文句が踊り、そしてニトロがハラキリ・ジジを知ることにもなった場所――にそのような話があった。
「伝言ゲームのどこかで誰かがオリジナリティを発揮したんじゃないですかね」
「美術室でヌードだなんてわりとよくある発想じゃないか?……でも、それで何で校長先生は入ってこないんだろうな。気になるなら確かめればいいのに」
「おそらくは」
 ハラキリは下品に笑う。
「電気が消えていたことで別のことを恐れたんじゃないですかね。そしてそれが君と麗しの姫君との恋仲を裂くキッカケになれば、彼の野心は潰える。実際にヌードモデルをしていれば良い、それがデマであっても構わない、しかし“それ”は目撃するわけにはいかない。目撃すれば自分も当事者になってしまう。だが、当事者でなければ誤魔化しの道はいくらでも、ならばやはり確かめずにおこうか? いや、まだ“それ”が行われていないならば止められる。止められれば己に有利だ。だが、ここはやはり……と堂々巡りで」
「ジジ君は想像力が豊かだね」
 カルテジアは感心してハラキリを見る。
「しかもそれが正解な気がするわ。ね、良かったら文学部に入らない? 部員が少なくて困ってるのよ」
「遠慮します。読書は好きですが、それを“活動”にするとつまらなくなる」
「それは残念」
 言いながら、カルテジアは画材を片付けていく。彼女は平然としたものだ。もし校長の危惧がハラキリの予測通りなら彼女にも不都合な事態であるはずなのだが。
 ニトロの視線に彼の考えを察したらしく、少女はアクリル画の道具を教室の隅の水道に持って行きながら笑う。
「言いたい奴には言わせておけばいいのよ。真実はそれが知ってるし」
 と、教室の隅にあるカメラを身振りで示し、
「そんなつまらないことで騒ぐ連中にかかずらっても良いことないわ」
 そしてその語調と、パレットを洗い出す彼女の細い後ろ姿に、ニトロはひどく危ういものを感じた。彼女自身『失敗』したことがたくさんあると言っていたが、それはおそらく思う以上に圧縮された一言であったことを悟る。――それに、
「こんなことを聞くのは失礼だろうし、余計なお世話だとも思うけど……ご飯、ちゃんと食べてる?」
 その問いに、カルテジアは苦笑したらしい。洗い物を続けながら、
「熱中してるとつい忘れちゃうんだよね」
「食べないと頭も回らないんじゃない?」
「時々ね。でもそれ以上に読みたいし、描きたい。あ、でもカロリーブロックは常備しているわ。元々小食だし、ジュースだけでも平気なくらい」
「……今度から、昼ご飯とか一緒に食べないかな」
「それはなんだかデートのお誘いみたいだね」
「『咎山を登るオトロ』の作家がもっと長く生きていたら、と思うことはない?」
「……」
 カルテジアは水入れの絵の具の溶けて汚れた水を捨て、ニトロへ肩越しに振り返る。
「長く生きていたからと言って、あれを超える作品を描けたとは限らないんじゃないかしら」
「ということは、カルテジアさんはとにかく大傑作を創りたいのかな。そしてそれ以降自分では超えることのできないと思える作品が創れたら、そこでお仕舞い?」
 カルテジアは唇を結んだ。双眸も細められる。ニトロは、しかし堂々と言う。
「話を聞いていたら、きっとそうじゃない。カルテジアさんは多産の作家だ。それならそれに見合ったエネルギーを蓄えなきゃならないし、“永久機関”なり“永遠”なりを標榜するんなら、それこそしっかり活動してこそだ。なのにそれをないがしろにするのは一種の怠慢、そしてカルテジアさん自身への背信行為だと俺は思う」
「……『ニトロ・ザ・ツッコミ』か」
 ぽつりと彼女は言う。そして、ニトロに思わし気な眼差しを送り、
「話には聞いていたけど、本当に痛いところに“ツッコンで”くるね」
「過去の栄養状態は未来に影響するらしいよ。そりゃ今の医学に頼れば栄養不足からどうなったところで回復も楽勝だろうけど、そんな医療費を払うくらいなら創作の糧に回した方がずっと得だ」
 カルテジアは堪らず笑った。可愛いシールの貼られた水入れを洗いながら、彼女は言う。
「私は、人をよく怒らせる。喧嘩する」
 先ほどは『失敗』と抽象化していたことを、どこか寂しげに具体化する。そこにはニトロの誘いへの拒絶があった。しかし彼は言う。
「クレイグ達なら大丈夫じゃないかな。ダレイもいる。ミーシャもいい奴だし、フルニエとはむしろいい喧嘩友達になれると思うよ」
「君とは? 君と、ジジ君は」
「ちゃんとニトロ君なら“言っても大丈夫”だと、先ほどご自分で判断していたでしょうに」
 と、指摘したのはハラキリだった。彼女はハラキリに目をやる。その態度はどこか臆病で、そこには未だに“大丈夫”なのか判断のつかぬ変わり者への躊躇がはっきりと示されていた。
 そこでニトロは笑った。笑ってしまった。
「ハラキリは大丈夫だよ。てか、逆に怒らせ方を俺が教えて欲しいくらいだ」
 彼の言葉に、カルテジアは息をついた。すると強張っていた肩がすとんと落ちる。
「そうだね、私も教えて欲しいかも」
 そう言って彼女は声もなく笑い、洗い終えた道具を乾燥させるための台に乗せ、備え付きのタオルで手を拭った。
「セケル、ダレイに連絡して。そろそろ始めるって」
「了解」
 カルテジアのモバイルから聞こえたのは女性的な声だった。応答を受けた彼女はメガネを掛けて、今一度、苦悩する人の絵をジッと見つめる。
「そのメガネは?」
 ニトロは訊ねた。
「記録用」
「なるほど」
 しばらく絵を見つめた後、彼女は絵を画架から下ろした。体の半分以上をすっぽり隠す大きな絵を持ち、振り返った彼女の眼はカンバス越しに再び輝いている。
「それじゃあ、ポルカト君、ジジ君、お手伝いをよろしくね」
 カルテジアはそれだけを言う。ニトロは、しかし己が提示した誘いへの答えを強いらなかった。どうするかは彼女の自由だし、それに『ニトロ・ポルカト』と“つるむ”ことが彼女に不利益をもたらす可能性もある。彼女の痩せ方は本当に病気一歩手前だと思うから、ダレイもきっと心配している、それを思えば無理矢理にでも仲間に引き込みたい気持ちもあるが……
 そうしている間にカルテジアはドアに近づく。ニトロは慌ててドアに駆け寄った。
「開けるよ」
「ありがとう」
 ニトロがドアをスライドさせたちょうどその瞬間、とうとうドアを開けようと決意したらしい校長がそこに踏み込んできていた。
「きゃ!」
 驚いたカルテジアが絵を守るために激しく身を引き、勢い余ってたたらを踏みそうになる。そこにニトロの反応が間に合った。腕を伸ばし、肩の後ろに手を副えて転倒を防ぐ。一方の校長も瞠目して身をのけぞらせていた。彼がその場に踏みとどまり、辛うじて声を上げることのなかったのは威厳を取り繕おうという努力の成果だろう。
「どうかしましたか、校長先生」
 そう問いかけたのはハラキリである。その声音には嫌味なところが全くなく、だからこそかえって嫌味ったらしい。
 だが、その嫌味がこの場を支えた。
 カルテジアも校長も体勢を立て直す。
 校長は扱いにくい“王女の恋人の親友”へ恋敵に向けるような異様な目を向けて、間合いを測るように咳払いをする。
「ポルカト君が美術部に入ったのかと思ってね」
 校長はちらりとニトロを一瞥し、
「もしそうだとすれば我が校にとって大変な栄誉となる。今後展開されるであろう崇高なる芸術運動に何の支障もないよう応援するのは我々の務めだ」
「そうですか」
 ハラキリは実に納得がいったようにうなずく。
 色々ツッコミかけたところをどうにか堪え切ったニトロは愛想笑いを浮かべて言う。
「入部はしていません。今日はただの手伝いです」
「そうでしたか」
 校長は制服を乱さぬ二人の少年と、ブレザーを脱ぎネクタイもしていないが明らかに作業のための格好をしている少女を眺めて、どこか安堵したような、しかしそれでもまだ消え去らぬ妄念を目の裏に秘しているような顔をしていた。その顔を見て少女が抑えられぬ軽蔑を差し向ける。彼女のその眼差しに刺激されたらしい校長は口を僅かに歪めた。
「くれぐれも、火事には気をつけるように」
「はい」
 カルテジアは小さく応え、校長の横をすり抜けて廊下に出ていった。続けてニトロも出る。最後に続いたハラキリは校長に一瞥を加えた。その曲者の眼に、校長は何か公にはできぬ暗い欲を嗅ぎ出されたように感じたらしく、慌てて踵を返すと、まるでついさっきまでそうしていたのだと声高に宣言するように見回りを再開した。
「……大変だね」
 カルテジアがニトロへ囁いた。彼はそれには曖昧な笑みを返し、
「火事に気をつけろだってさ」
「もっと詩的な嫌味が欲しかったわ」
 その言い分にニトロは思わず笑う。カルテジアもくすくすと笑い、ハラキリは静かについてくる。廊下の先に数人の生徒が見えて、こちらに気がつくと何やら慌てて姿を消した。それを眺めながら、ニトロは訊ねる。
「ところで、その絵を燃やすとまでは聞いているんだけど、ただ燃やすのか、それとも何か特別なことをするのかな」
「ただ燃やすだけ。だからできれば室内でやりたかったんだけどね、でもそれだと内装に燃え移るかもしれないし、美術室には可燃性の物もたくさんあるし」
 彼女の言うように教室内で絵を一枚燃やし、もし何らかの過失を犯したとしても、現在の防火資材に守られた校舎そのものは焦げつきさえしないだろう。例え内装や画材に燃え移ったところで炎は防災システムによって小火ぼやにもならぬうちに押さえ込まれる。もちろんそれに気をつけて無事に作業を終えたとしても天井は煤で汚れてしまうだろうが、それさえ掃除をすればたちまち綺麗にできる。ただ、それでもやはり気にかかるのは、内装や画材以上に、
「絶対に皆の作品を燃やすわけにはいかないからね」
 しかし彼女は自身の作品を今から燃やすのだ。それが製作に必要なことだとしても――しかもその絵は自身の作でもないというのに――ニトロの胸にはどうしても躊躇いが残る。思い直すように働きかけたい気持ちが起こる。
 彼女は描き始めてから二年が経つと言っていた。それだけの時間をかけて“やっと描けた”絵は、それよりずっと短い間に燃え尽きるだろう。そこに込められている作者の精神も、あっという間に灰となる。
 ――いや、時間だけではない。精神だけではない。物質面から見ても、経済的な負担も重かったはずだ。
 現在の主流であり板晶画面ボードスクリーンとフリーソフト一つあれば無限の画材を手に創作を始められるCGとは違い、様々な画材をいちいち揃える必要のあるアナログな絵画は一種高級な趣味になっている。今や画用紙一枚だけでも値が張り、スケッチブックともなれば昔と比べて桁すら違う。時代を経るにつれて画材の値はそれ自身の市場を支えるために上昇し続けているという。
 それでもアナログ絵画が裾野も広く一定の居場所を確保し続けられているのは、やはり、『それでなければ』というものがあるからだろう。
 合成肉が、ペースト状の材料をそのまま食べても栄養的には十分なのに、それでも本物の肉の食感を求めて加工されるように。
 その気になれば輸液だけでも生存が容易に可能な世の中なのに、それでも毎日パンが焼かれているように。
 それでなければならないのだ。
 そうでなければ表せないものがどうしてもあるのだ。
 そうでなければ――
 ……ようやく、ニトロは胸の中から躊躇いを消した。カルテジアが絵を燃やすのも、そうでなければならないからだ。それなのに自分が外からとやかく言うのはむしろ冒涜に等しい行為であろう。
 何人もの好奇の目を向ける生徒とすれ違い、特別教室棟から外へ出た時、ニトロの耳を清廉な音が貫いた。屋上に発し、さらに高く空へ吸い込まれ、同時に地を勇躍するトランペットの軽快な音楽。それが聴く者を等しく鼓舞するように響き渡っていた。
 ニトロはカルテジアの顔を見た。決意がそこにある。
 ダレイは既に所定の場所にいた。彼の前にはなかなか大きなバーベキューコンロがある。一人で持ってくるには骨が折れたろうに、彼は汗一つかかずに待っていた。
「ありがとう」
 カルテジアが言うと、ダレイはうなずくだけだった。半分に割られた円筒型のコンロに網はない。彼女は早速コンロの底にカンバスを立てる。それを後ろからダレイが支える。30号の画布に描かれた苦悩する人が、夕日に照らされてその陰影を濃くしていた。
 校庭の先、高さ10mの柵の向こう、住宅地との境の道路にたむろする野次馬から歓声が轟いてきた。柵には外から校庭の様子が正確には判別できなくなる遮蔽ネットが掛けられているのに……ということはそれに穴を開けた者がいるのだろうか。その上空にドローンが数機飛び始め、もっと原始的に長い棒の先にカメラを取り付けて伸ばしている者が幾人も出る。さらにずっと向こうの空にはマスメディアのまばたきが見えるようだ。柵の向こうに警備のドローンが飛んでいく。警備員も駆けて行く。
 校庭で部活動中の生徒達もこちらに好奇心を向けていた。体験入部の新入生を指導している黄色いスニーカーを履いた陸上部の女子と目が合った気がして、ニトロは軽く手を上げた。それに全く別の女子が反応して何やら歓声を上げられてしまう。彼は苦笑して、ダレイの支える絵をジッと見つめている芸術家に目を戻した。
「火は誰がつける?」
 ダレイが問う。
「私が。そっちは、できるだけそのまま支えていてほしいんだ」
 コンロの脇に火バサミがある。ダレイはそれを一瞥し、それからニトロとハラキリに目をやった。
「じゃあ、それは俺が」
 ハラキリも申し出ようとしていたようだが、それを目で制してニトロが言った。
「あまり熱かったら離れてもいいからね。火傷に気をつけて。燃やしても大丈夫な絵の具を選んでいるけど、何かおかしいと思ったら、その時もすぐに離れてね」
 カルテジアがニトロへ言う。トランペットの音が甲高く空へ吸い込まれていく。空には白い雲がいくつか浮かんでいる。微風が少女の黒髪を揺らした。
「風向きは大丈夫そうですね」
 ふとハラキリが口にしたその言葉に、カルテジアははっと思い出したように、
「そうだ、できるだけ灰を飛ばさないようにしてほしいの」
 ニトロは怪訝に訊ねた。
「つまり、それが重要ってこと?」
「そう」
 なるほど、だから室内希望だったのか――そう思いつつ、ニトロはカンバスの裏側に露となっている木枠を見つめ、
「これは、不燃材?」
「逆に燃えやすいので作ってある。でも、燃え残っちゃったらそれはそれで構わない」
「了解。てことだから灰が飛んだらハラキリ、キャッチよろしく」
「無茶を言わないで下さい」
 流石にハラキリも苦笑する。その様子にカルテジアは笑った。ひとしきり笑った後、彼女は軸の長いライターを手にした。
「気をつけろ」
 ダレイが隣で言う。カルテジアはうなずき、今一度絵をしげしげと眺めた後、苦悩する人の足元にそっと火を灯した。
 火は、瞬く間にカンバスを這い上がった。
 校庭から、そして校庭に面した教室棟からも声が上がる。何が起こるのかと見物を決め込んでいた生徒達の驚嘆だった。
 しかしカルテジアはそれらの声などに気を取られることはなく、焼失していく絵を真正面からひたと見据えていた。
 炎の舌が画布を舐め上げていく。それに従って苦悩する人の足元から虚無が這い登っていく。地を黒く焦がしながら、その境界線を押し広げながら、虚無の通った跡には何も残らない。苦悩する人の体も、その人が存在していた世界も。ぶすぶすと煙を吐き出し始めた粗雑な合成木材がまるで骨のように剥き出しとなる。描き上げられたばかりの苦悩する人の顔が熱によってひび割れて、かと思えば迅速に侵攻してきた虚無と、いつの間にか上部からも降りかかってきていた炎に一気に飲み込まれて消えていく。
 ニトロは可能な限り火バサミの端を持ち、腕を伸ばして熱を避け、木枠の上部に鉄の爪をしっかりと噛ませてそれを支えていた。そう、それだ。もはやそれは絵ではない。灰がコンロに落ちる。ふいに強まった風に炎が揺れる。僅かに灰が散る。ハラキリは無茶と言いつつもその中の大きいものを追いかけようとして、されどすぐに無理と悟って足を止める。しかしそれ以降は風もなく、木枠も順調に燃えていった。釘の見当たらないことが不思議であったが、初めから燃やすことを念頭に木釘を用いていたらしい。おそらく薪かキャンプファイヤー用の合成木材を転用したのであろう木枠は黒ずみながら燃えていき、燃え尽きると色を失い、そして白くなった端からぼろぼろと砂のように崩れていく。
 やがて懸命に形を保っていた木枠に限界が訪れた。それは一瞬にして崩壊すると、妙に軽くやけに乾いた音を立ててコンロの底にくずおれた。ぱっと細かい灰が火の粉と共に舞い上がる。夕日の中で灰と火の粉はキラキラと輝き、すぐに空に紛れて消えてしまった。
「後は私が」
 燃え尽きていく自作から一時も目を離さず、カルテジアが言った。
 ニトロは火バサミを彼女に渡した。喜びと苦しみに固められている彼女の横顔を目にしながら、彼はダレイとハラキリの立つ場所へ移動した。
「お疲れ様です」
 ハラキリが言う。ニトロはそれに目で応え、それからダレイに目を移し、
「なあ、思ったんだけどさ」
「ああ」
「これなら、別に俺とハラキリがいなくても平気だったんじゃないか?」
「それは拙者も思いました」
 ダレイは腕を組み、ちゃんと木枠の残りも燃え尽きるよう火バサミを動かしているカルテジアを見つめる。
「子供の頃の話だ」
「? ああ」
「誕生日にケーキを用意してもらった。俺に似せた砂糖菓子の人形が乗っていた。蝋燭が倒れて、その火が人形の顔を溶かした」
「あ、ああ」
「以来、火は苦手なんだ」
 思わず――相手の苦い思い出を笑うのはいけないと思いつつも――ニトロはダレイの思わぬ弱点に笑ってしまった。ハラキリも声を殺して笑っている。ダレイは言う。
「手伝いたかったが、失敗を避けるためだ。やはり頼んでよかった」
 その言葉にニトロは笑い声を止めた。ハラキリも笑うのを止めて、興味深そうにダレイを見る。
「それだけですか? それならどちらか一人だけを連れてくれば良かったでしょう」
 ハラキリが問うと、ダレイは、にやりと笑った。
「ハラキリがいれば、不測の事態にも困らないだろう」
 カルテジアを見つめるばかりだったダレイは、そこでニトロに顔を向けた。ニトロを見下ろす穏やかな瞳には、少しばかりの罪悪感があった。
「そして不測の事態が起こっても、ニトロなら悪くすることなく収められる」
 それはニトロが『ニトロ・ポルカト』であるが故に。校長も、彼の関わる事だとなれば例え校舎が全焼したところで絶対に大事にはしないだろう。
 ニトロはダレイのその告白を聞いた時、不愉快な気持ちなど一向に感じなかった。日頃から良くしてくれているこの友人のそんな打算など受け止められないわけがない――ということも事実であるが、それよりも彼は大きな驚きを感じていたのだ。
 それを疑っていなかったといえば、嘘になる。
 ダレイは既にカルテジアへ目を戻している。
 背の高い友人を見上げていたニトロも、熱心に灰を集める芸術家へと目を移す。
 ……だが、野暮な詮索はすまい。
「ちゃんと燃え尽きたようですね」
 ハラキリが言うと、ダレイはカルテジアの元へ歩いていった。彼女は明るく彼を迎える。そして二人はアルミホイルを灰の上に被せ始めた。灰を保護するためだろう。痩せた少女の顔には喪失の影があり、また会得の喜びもある。大柄な少年はそれを助けている。
「いつかこれも青春の輝き、と述懐することになりますかね?」
 小さく、ハラキリが言った。
 ニトロは小さく笑って応え、それから言った。
「ダレイ、カルテジアさん、何か買ってくるよ。注文はあるか?」
 二人が振り返る。
「ミルクティーを頼む」
「私は『ベスハッコ』」
「え?」
 ニトロは、いや、ニトロのみならずハラキリもダレイもカルテジアを凝視した。その『ベスハッコ』こそ、ハラキリが苦闘していたあの不味い新製品である。
「そういう反応は解るけど」
 少女は秘密めかしてそっと微笑む。
「何だか、癖になっちゃった」

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