夜の美術館にて

おみくじ2015『大吉』の数日後)

 ニトロはぽかんと口を開けていた。
 彼の見つめる先には大きな絵がある。
 縦3m、横およそ5m。
 そこに切り出されているのは、おぞましい地獄だ。画面の左辺下部から右辺中程へ、さらに上辺中央へと歪な弧を描いて下る峻険な尾根があり、その山肌のあちらこちらには朽ちた屍が埋まっている。死してなお苦悶に苛まされている屍の顔、顔、顔、その黒々と開いた眼窩や口の中には鬼火が見える。画面上部に広がる裾野には数多の亡者が群がり、慟哭に歪む不気味な群は砂時計のように幅をすぼめながらこちらへ向かってきている。さながら釘のように尖った石に覆われる尾根には魑魅魍魎を宿した蟲が無数に這う。遠景では餓えた畜生が亡者を食い千切る。尾根の中頃では病的に痩せた女が先を行く肥満の男に縋ろうとその背中に爪を立てていて、爪を立てられた男は女に対して恫喝の眼を剥き、振り上げたその手には棍棒代わりに拾い上げた屍の腕がある。絵の前に立つとこの恐ろしい尾根を少し浮き上がった位置から見下ろす形となり、すると尾根を登ろうという亡者の群は、まるで吹き上がってくる竜巻のように見る者を圧倒的な力で飲み込まんと押し迫ってくる。
 見る者は思わず目をそらす。
 すると目をそらした先でこの絵の主眼と出合う。
 それは亡者の先頭に立って尾根を登る男であった。
 彼の体は絵の中にあってただ一人筋骨逞しい。波打つ黒髪が肩に落ち、不潔な鋭い石が食い込み腐り出した足でなお地を踏みしめ、苦悶に体を歪めながらも歯を食いしばって頂上を目指している。彼の頬には涙があった。だがその色は赤い。双眸から流れ落ちるのは滂沱の血であった。彼は両目をくり貫かれているのだ。にもかかわらず彼は奪われた眼をまっすぐ前に向けている。なぜ彼は己の行くべき方角が判るのか。それは彼の背後に飛ぶ、花の冠を戴く女神のためである。悲嘆に満ちた眼差しを男に向ける花の女神はそっと彼に囁きかけるようにして彼を導く。しかし彼がその声を聞くことはない。長い髪によって隠されているが、その耳は焼き塞がれているのだ。それなのに彼は女神の声が聞こえているかのように進む。女神の右手は天を示し、その左手は彼の肩に触れようとして、されど決して触れることはない。何故なら彼に触れることは固く禁じられているために。それなのに、どうして彼は己の行くべき方角が判っているのか。愛のためである。
 アデムメデス神話、その一場面。
 だが、これは本当に神話の世界なのだろうか?
 薄暗いフロアの中、計算され尽くした照明が浮かび上がらせるのは、それが非現実的な絵であることは間違いないのに、しかし絵画というにはあまりに現実的な景色である。
 手を伸ばせば尾根を登る盲人の髪に触れられるように思えてならない。
 耳を澄ませば男の荒い息遣いと涙に濡れる女神の声が聞こえる気がしてならない。
 体を寄せれば、あるいは自分は男のすぐ後ろで手を伸ばしている亡者に掴まれ尾根の下へと引きずり落とされてしまうのではないだろうか。
「アルカノ・ミジェール、『咎山を登るオトロ』」
 その声に、ニトロははっと我に返った。
 動揺を抑えて背後へ振り向くと少し離れた暗がりにティディアが佇んでいた。
 彼女の身を包む黒いドレスのエレガントなシルエットが暗がりに馴染み、足首まで届く裾からはシックなパンプスを履いた足の甲が白く覗いている。視点を上に移していくとふと出し抜けに現れるむき出しの肩が光を集めて輝いていた。鎖骨の作る陰影が彼女の肌に魅力を与えている。暗みの中にあっても艶を失わぬ黒紫の髪の内に流れる顎のラインは、すぅと上向いている。
「アデムメデスの至宝ね」
 ティディアの瞳はまっすぐ国史に名を刻む名画に向いていた。この作品は代々王の所有物であり、今回、十二年に一度の展示が行われているものである。そのため王立王都古典美術館には連日長蛇の列が伸び、閉館後でなければこの大傑作をこうしてじっくり眺めることなどできはしない。
「ずっとここにいたの?」
 ニトロは、うなずいた。
「気持ちは解るわ」
 言いながらティディアはニトロの横に並ぶ。花のような香りがほのかに漂う。彼女のヒールの音はフロアの吸音機能によって響くことなくすっと消えるが、近くではやはり鋭い音が耳に当たった。ニトロはその足音にも気づかないほど引き込まれていたのかと我ながら驚き、そこで一度気を引き締めた。再び絵に目を戻す。と、写真や仮想現実ヴァーチャルで見た時とは違い、実物だけが持つ本物の質感とでも言うのだろうか、他では得られぬ不思議な力が絵画の中から直接目に触れてくる。気を引き締めてなお魅入られる。彼は少し間を置いてから、訊ねた。
「コンクールは?」
「また一人『天才』をあらわして、王女様としては嬉しいところ」
「妙な言い方だな。下馬評通りってわけにはいかなかったのは判るけど……」
「その下馬評本命の噛ませ犬――万年シルバーコレクターが、とうとう化けた」
「そりゃ凄い。盛り上がっただろ」
「素晴らしかったわ。あの二人が鎬を削ればもっと高いところへ行けるでしょうね」
「なるほど。王女様としては、嬉しいところか」
 ちらりとティディアのドレスを見て、また絵に目を戻してニトロは言う。
「今日は『相応』だったんだな」
「いつもキワモノだと早々に飽きられるからねー。それとも際限なく次を求められるか」
「そして最後には素っ裸か」
「そしてそれもいつかは通過点。ところで、見たい?」
「見たくない」
「ちぇー」
 ティディアが身を少し寄せてくる。しかしニトロの足は絵の真正面から動かない。
「天才、か……」
「ええ、正真正銘の天才。そして謎の人物」
「あんまり謎だから異星人説もあったな」
「遺骸の検証結果から完全に否定されているけどね」
「アルカノ・ミジェールって名前も偽名だっけ?」
「そう。絵にサインも残していかなかった」
 ニトロは目を凝らして絵の隅、よく作家のサインがある場所を見た。それから別の隅にも目を移すが確かに見当たらない。そして絵を見つめたまま、彼は美術館のガイドA.I.に訊ねるようにティディアに問うた。
「今一番有力な説は何だったかな」
「どこかの大貴族か富豪の落胤説」
「どこか、かあ」
「それくらいしか言いようがないのよねー。町で彼を知らない者はいないってくらい顔も広かったのに、その正体を知る者はどこにもいなかった。膨大な証言に共通するのは彼が好人物で、ただ暇さえあれば周りの人間を捕まえて下手くそな似顔絵を描こうとするのが玉に瑕だったこと。町外れに家を借りて、視力の弱い下女と用がなければ一日中聖典を読み続ける下男と質素に暮らし、一方では知人のみならず初対面の人間にも気前よく振舞うお大尽でもあったことだけ」
「ああ、生活には困ってなかったって聞いたけど、そんなにだったのか」
「それで当時にもどこかの大貴族か富豪のご落胤だと思われていたんだけれど、誰かがそれを確かめようとしてもうまくはぐらかされていた。同時に実は犯罪者なんじゃないかとも噂されながら出自を厳しく追及されなかったのは、やっぱり彼の人品が上流を窺わせたからだそうよ」
「中学の先生が言ってたけど、彼の死の直後は凄い騒ぎになったんだろ? 『アルカノ・ミジェールは誰だったのか』って」
「ええ。王家の記録にも残るくらいの大事件だもの、そりゃくにを挙げての大騒ぎよ」
 そこで話を切ろうとしていたティディアは、ちらりとこちらを一瞥してきたニトロの瞳に好奇心を認め、喜んで続けた。
「事件の盛り上がりに一役買ったのが、もちろんアトリエに遺されていたこの絵よ。この傑出した芸術品によって騒ぎはいつまでも燃え続け、やがて東大陸の一地方の事件に時の王までをも引き込んだ。『アルカノ・ミジェール』が犯罪者だったかどうかの捜査の過程で、彼の犯罪だと疑われた未解決事件の真犯人が捕まるという事も何度も起きたわ。それなのに彼の正体に関してだけは一向に手がかりが掴めない。途絶えないガセネタや自称親族を調査することに大量の人員が消費される、のみならず巷に溢れ出た“アルカノ・ミジェール作品”に鑑定人が浪費される、方々ほうぼうの裁判所には騙された人間が溢れ返って怒号を上げる。贋作や詐欺に類する混乱は例の描き散らかした“下手くそな似顔絵”が主な原因だった。そこで王は選り抜きの専門家達にアルカノ・ミジェールの真作リストの作成を命じ、国費まで投じた調査によって定まったのは確証の得られる“似顔絵”が129点と、この絵と、この絵の部分的な習作が8点、それとクロッキー帳一冊のみ。それらを参考に誰か名のある画家が変名していたのではって調査もされたけど該当するような人物はなし。事件が沈静化したのは王の崩御が一つの区切りになったのと、ひとえに皆が“娯楽”に疲れたから、それに尽きるでしょうね。それでも落ち着くまでには当地と他大陸でタイムラグがあったし、落ち着いた後でも現在に至るまで、否定されてなお異星人説をどうしても諦められない人間がいる程に求心力は残っている。――ところで、下女が聞いた最期の言葉は知っている?」
 有名な話だ。未来の女王に問われた少年はうなずき、どこに出かけるのかと訊ねた老女に礼拝堂の高い尖塔を眺めながら答えた青年の言葉を口にする。
「『私に絵の才能をお与えにならなかった神に、その理由を問いに行くのです』」
「こんな絵を描かれて、それで“才能がない”なんて言われたらほとんどの画家は立つ瀬がないわよねー」
「どれだけ理想が高かったんだろうなあ」
「さあ? それこそ『天才』にしか解らない領域でしょうね」
「お前には? 才気溢れる王女様」
「んー」
 ティディアはさほど困っていないように唸り、
「解ったらきっと私も自殺しなきゃならなくなるだろうから、解らないでおくわ」
「うまく逃げたなあ」
 ニトロはそこで女神に置いていた目を現身の女に移した。彼女はニトロの嫌味半分感心半分の言葉に微笑み、すっと左手を差し上げ、絵画の女神と似た調子で先を指差した。
「さ、他のも観ましょう?」
 と言ってティディアは返事を待たずに歩き出す。ニトロは一瞬惑い、それから足を踏み出した。実際、特別展示がなくとも人の絶えない美術館をこうして巡れるのは滅多にない機会だ。が、
「それで、ここのどこで『漫才』の練習をするんだ?」
 ティディアの横に並んだところで問う。
「むしろコンサートホールの方が良かったように思うんだけど」
 この美術館からすぐ近くのクイーンズホール――くにに名立たる音楽コンクールが行われるような場所で漫才の練習というのも贅沢極まりない話だが、ティディアの都合からすればそちらの方が理に適う。『咎山のオトロ』の展示される大フロアから次のフロアへ続く短い通路に入りながら彼女は答える。
「さっきから練習は始まっているわ」
「は?」
「今夜の主題はね、気分転換」
「どういうことだ?」
 戸惑うニトロを横目にティディアはくすくすと笑い、
「最近ちょっと根を詰めすぎていたからね。だから今夜は『練習』はお休み。でも何もしないでいられるほど時間はないから、これが練習。こうして素晴らしい芸術に触れることで心に刺激を与えて、同時にこうして私とお喋りをして『息』をより良く合わせる。今でも十分息は合っていると思うけれど、私達はもっともっと馴染むはずだから」
「俺はお前と馴染みたくなんかないんだけどなあ。それに……なんか、うまく言いくるめられてるような気がするぞ? つまり実は美術館でデートしたかっただけ、とかそういうことじゃあないわけだよな?」
「んー? んー、そうねー」
「おい」
「刺激にはなっていない? さっきの様子は、そうは見えなかったけれど」
 僅かに角度のついた短い通路を抜けると、程好い広さのフロアに出た。そのフロアは六角形をしていて、通路の出口はけいの頂点に配置されていた。
 フロアに出た瞬間、ニトロの目に飛び込んできたのは中央に置かれた大きな石柱である。柱の周囲には『川神の牛を駆り大食鬼グルモーグを追うステロ』を初めとして西のアデムメデス神話に登場する神獣・魔獣・魔人・亜人に関するエピソードが絵巻のように彫刻されていた。
 ティディアは地盤沈下によって崩壊した神殿から運ばれてきたその大古典時代の傑作を一瞥しただけで、フロアの六面の壁に掛かる作品の一つへと真っ直ぐ向かった。ニトロは石柱に強い興味を引かれたものの、彼女を追うことにした。ある絵の前で立ち止まった彼女に並び、彼が目をやると、それもまたアデムメデス神話に関係するものであった。
 素晴らしい神馬。鬣は今にも燃え上がりそうであり、青い瞳は神性を湛え、今にもその黄金の蹄がカンバスを突き破って眼前に飛び出てきそうだ。彼は神馬に見惚れながら、少し眉をひそめて言った。
「でも、どうせ刺激っていうのなら、もっとエンターテインメント的なものの方がいいんじゃないのか? 近場でコメディショーだってやってるだろう」
 ティディアは軽く肩をすくめ、
「人によってはそっちの方がいいわね。だけどニトロの場合は、今は観察眼とか、感性とか、知識とか、そういったものを磨いておいた方がいいと思うの。――ね? 芍薬ちゃんもそう思わない? 場合によってはこういう方面への造詣も必要になるかもしれないんだし」
 すると二人の離れた背後から声が聞こえた。
「コレガ主様ノタメニナルコトニハ異論ハナイ。ケド、オ望ミノ『場合』ハ来ナイヨ」
「本気でそう予測している?」
 芍薬は、答えなかった。ニトロもティディアに抗弁できない。何しろ今後このバカ姫様の『相方』として活動すればどこでどんな知識が必要になるか解ったものではないのだ。知識がない故にツッコミ所を逃して窮地に追いやられるようなことがあってはまずい。それこそ基礎教育の範囲外の教養が必要になることもあるだろう。観察眼は罠を見抜くにも必要だ。感性もその助けになるかもしれない。
「さて」
 と、二人からの“同意”を得たと確信したティディアが満足気な顔でニトロの腕を取る。ニトロは反射的にそれを振り払った。と、
「えええ? その態度はちょっと酷くなあい?」
 満足気だった顔を瞬時に不満に歪めてティディアが抗議する。しかしニトロはじとりと彼女を睨み、
「別に酷くないだろ。これは練習、デートじゃないんだ」
 ティディアはなおも抵抗しようとしたが、ニトロの眼の硬さに肩を落として首を振る。それから一つ息をつき、言った。
「それじゃあ、いいわ。でもちゃんとついてきてね」
「ついて来い?」
 立ち止まったままのセリフにニトロが怪訝に問い返す。ティディアはうなずき、
「言ったでしょ? 観察眼、感性、知識、そういうものを磨いておいた方がいい」
「ああ」
「まあ、何だかいつの間にかニトロはやたらと観察眼が鋭くなっているから――」
 そう言いながらティディアは悲喜交々ひきこもごもといった様子でニトロを見つめ、そして絵に目を戻して続ける。
「それに関しては磨くっていうより幅を広げるっていう感じなんだけど。
 では、この絵の作者は誰でしょう」
 ニトロは答えられなかった。思わず絵の下のプレートを一瞥する、と、
「リアンヌ・フィーブ・ディゴン」
 ティディアが答えようとするニトロを制して言った。はっとして彼が彼女に目を転じると、彼女は別に怒るわけでもなく、ただし彼に集中して絵を観るよう厳然とした一瞥を送る。カンニングをしかけてしまった彼は罰の悪さにも押されて指示に素直に従った。そうして彼がたっぷり鑑賞する時間を置いた後、王女は落ち着いた声で語り始める。
「リアンヌ・フィーブ・ディゴンは西大陸において大古典時代唯一の女流画家よ。もちろん当時の貴族で職業画家はあり得ないから、手習いが高じて評判を呼び、それが美術史にまで名を残した極めて珍しいケース。しかも画家が“彼”ではなく“彼女”だったと判ったのは彼女の死後およそ300年が経ってからのこと。跡継ぎをなくしたフィーブ・ディゴン家が消滅することになり、そこで記録が検められた際に判明した驚くべき事実だった。――と、これは携帯電話モバイルをかざしても解ることね」
 ニトロが言われた通り携帯のカメラをプレートに向けると画面に説明文が現れた。ティディアのげんはかなり要約されていたが、実際その通りである。付言すれば真実が判るまでは『リアーノ』と兄の名で呼ばれていたという。
「ちなみに現在も『フィーブ・ディゴン』という貴族はいるわ。南大陸のギュフィ領スランブドラ市で市主ししゅ補佐に着いている。もちろん血縁はない。リアンヌは西大陸の人間だったし、当時のフィーブ・ディゴンは領主でもあった。彼女はそのフィーブ・ディゴン家の最盛期を担った公爵の末娘で、競馬史に影響を与えるほど名馬を集めた父以上の馬狂いだった」
 それは画面に出ている説明文にはない。関連項目のリンクを辿れば知ることもできるだろうが、逆に言えばそれを知るには幾つかの資料を読む必要がある。
「さあ、ニトロ、この神馬はどこか性的だとは思わない?」
 言われてみれば、この神馬はどこか性的にも思える。――だが、それは言われたから、なのだろうか? いや、確かにどこかなまめかしく感じる。古来より馬と美女の組み合わせは有名だ。それは一つのカテゴリを形成すると中学の美術の授業でそんなことを聞いた気もする。だがその話は先生が豆知識として話した持論だったろうか。そして先生はそれを性的な隠喩としても語っていたろうか? 神馬の盛り上がる筋肉は男性的で、顔つきは神々しくも美しい。
「よく観て? ほら、この馬には一ヶ所、明らかに人体がある」
 ティディアの指摘を受けてくまなく神馬の体を見回すが、判らない。ただその筆致が実に滑らかで、筆というよりも指でなぞっているかのようにも思え、するとこの神馬を慈しみ愛撫する女の手が視界をかすめたような気がしてくる。
「瞳よ」
 ニトロは神馬の瞳を見た。そこには確かに人間の瞳があった。虹彩まで細かに描かれている。その水晶体には人影が入り込んでいた。
「確かにリアンヌ以外にも馬の瞳を人間のように描く者は存在するわ。だけど、後の写実主義の大家にも勝るほど写実的に馬を描きながら、一部にだけ人体を移植したかのように描くのは、彼女だけ。では何故彼女はあえてこう描いたのか。様々な暗示を伺うこともできるけれど、彼女に関しては定説がある。馬狂い――それは彼女が馬を恋していたから。それも異常なほどに。彼女には獣姦の疑惑もあったそうよ? 馬に嫁ぎたいと真剣に語っていたという話も残っている」
 その語りに、ニトロは眉をひそめた。
「……後世の創作じゃなくて?」
 主題としている絵の周りに補足するように掛けられている幾つかの小さな絵に目を走らせ、確信を得てからさらに言う。
「この絵の取材は『ファーシャンのオブラン』だろう? そっから連想して、とか」
 それはアデムメデス神話の中で、馬に化けた神と交わり、人・半人半馬・馬の三神を生んだ乙女のエピソードだ。ティディアはうなずく。
「取材はね、その通り。でもエピソードとして引っ張るんならこの場合は『カリュカイエの魔亜人』の方が相応しいでしょうね――こっちも知っている?」
「名前は忘れたけど、どっかの国の王女が魔女の呪いで馬に恋して、丸剥ぎにした牝馬の皮を纏って交わり、それによって忌まわしい半人半馬マァゼホーンが生まれた」
「よくできました」
 今にもニトロの頭を撫でそうな笑顔を浮かべ、ティディアは続ける。
「でもまあ、疑惑についての真偽は不明よ。けれど後者は事実。公爵夫人の日記にそう書かれていたわ。娘の自画像には逆に馬の瞳が埋め込まれていて、それがあまりに恐ろしいから焼き捨てたって話もある。どうも娘の教育にひどく苦悩していたみたいねー」
 ティディアはくすくすと笑う。ニトロはじとりと半眼を向ける。
「お前が言えたことか?」
「少なくとも私は獣姦に興味はないわ」
「どうだかね」
「あ、それは本当に酷い」
「『クレイジー・プリンセス』が何をしたところで“クレイジー”だろう?」
「そこは否定しないけど、私の貞操はニトロだけのものだから」
「……」
「流石に、何か言って欲しいわ」
 本当に傷ついたかのようにティディアがうなだれる。
 閉館後の美術館は、静かだ。すぐ近くに芍薬の駆る警備アンドロイドが、そしてきっとヴィタがどこかに忍んでいると解っていながらも、作品にのみスポットを当てられた薄暗い静寂の中に二人きり、こうして語らっていると段々この館内には自分達だけしかいないように思えてくる。
 ニトロは、流石に言いすぎたかと思い、ティディアに目を移した。それと同時に彼女も彼に目を移していた。瞳が交わる。良心の呵責を抱いていた彼は彼女の双眸の内に熱を認めて一瞬どきりとし、しかし次いで湧き上がった警戒心に理性が冴え渡り、すると彼は彼女の眼の周囲、表情の裏に慌てて隠れようとする演技の影をも認めた。
 その瞬間、ティディアの双眸から熱が消えた。
 変わって彼女の瞳は悪戯っぽく閃く。それは己が演技していたことを相手に知られたことを悪びれもなく喜んでいるようであった。いや、喜んでいた。
 ニトロは、しかしそれは咎めず、言った。
「次はどんなことを教えてくれるんだ?」
 その対応にティディアは不満気な気配を見せたが、すぐに気を取り直すや踵を返した。
「その半人半馬マァゼホーンを退治したガルソニアスの絵がそこにあるわ。それについて話してもいいし、ニトロが興味を持った絵を言ってくれればそれについて話してあげる」
「どんな絵でも?」
「ええ、ここにある絵の話は全部ここに入っているから」
 ティディアはトンと頭を指差す。
「本当か?」
 苦笑しながらニトロは言った。それが嘘ではないと判っていながらも、それでも信じられない思いは湧き上がる。ティディアは自信に満ちている。試しにニトロは大きな英雄の絵の脇で所在無げにしている小ぶりな絵を指差した。
「何で、そのお婆さんは泣いているんだ?」
「そうね、まずはじっくり観てみて? それから話すから」
 ニトロは一瞬目を丸くした。軽い気持ちで指定しただけのこちらに対して、ティディアはそれが試しだとしても作品にしっかり向き合うことを促している。先刻から彼女の作る変拍子に流石にリズムが狂いそうになるのを、しかし彼はすぐに修正した。一人歩を進め、年古としふりた拳を胸に押し当て皺くちゃの顔に涙を伝わせている老婆の前に立ち、しばし見つめる。
 ――ややあって、まどろむ幼子を起こすようにティディアが言った。
「自分の感想を持った?」
 ニトロがうなずくと、ティディアは乾涸ひからびた田へ水を流し込むように語り出す。まずは画家の名を口にして、次に元徒刑囚であった彼が改悛後に名声を得ていく過程を粗描し、そこから作品の世界へとニトロを誘う。
「老婆が泣いているのは、神に対して不遜を働き続けた息子が石に変えられたから。そして自分は最愛の一人息子を救うことができなかったから。取材は『ブスペとハートーマ』で、これは暗い話だし、英雄ガルソニアスの冒険譚をまとめる時にはオミットされがちだからマイナーだけど、実はこの半人半馬の話にも大きな関係のあるものなのよ。
 ……そう。
 あなたの考えていることは正しい。
 画家がこのモチーフを選んだのは、ついに報いることのできなかった亡き母への想いを塗り込めているから。元々は国教会から改悛を説くための材料として依頼されて、題材も別のものを指定されていたんだけど、彼は内密にこの絵を描き上げた。それを知った依頼者は当然激怒したけれど実際目にした絵の素晴らしさに喜んで受け取ったと伝えられているわ。そしてまた、画家が親友に吐露した言葉も残っている。助祭に絵を渡し、笑顔と握手で別れた夜、彼は筆を折り、言った。
『だが、母はどうすれば救われる』」
 その言葉によって、ニトロは一気に思索の淵へと突き落とされた。それと同時に彼の目の中から涙に暮れる老婆がいなくなる。いや、老婆はいる。しかしその老婆は先ほどまで彼の見ていた老婆ではなくなっていた。その淵の中からは絵画の表層を見ることはできない。そこに描かれたものの意味的内奥を覗き込もうとしなければ何も見えない。そして何かを見ようとしても容易に視野は開けない。視野が開けたとしても、さらに様々な角度を試さなければ己の目で見たことにはならないだろう。先にも増して、心を凝らし、彼は絵画との距離を縮めて向き合った。
 彼が思索と鑑賞に耽っている間、彼女はひたすら沈黙していた。
 そして頃合を見計らい、ティディアは口を開いた。
 ちょうどニトロの目が開き、耳は語り手に引きつけられる。
 ティディアは神話と絵を対照しながら話を広げていく。やがては画家の人生に立ち返り、時代背景も含めて作品を別角度から掘り下げていく。無論技法に関しても抜かりない。彼女にとってはまだ浅いところを泳いでいても、それらは常に彼にとっては深い解説であり、しかも耳に親しむ語り口。いずれは展示物の何割かを受け継ぐ王女は聞き手が何かを問うやすぐ声が壁に響くように答え、さらに答えた上に相手が知っている――正確に言えば中学までの義務教育に含まれる知識を用いて話をより身近に感じさせ、巧みに好奇心を刺激する。万事が万事この調子で、続けて四点ほどの絵を新たな視座から鑑賞したところで、ニトロは思わず言った。
「お前、王女をやるよりここでガイドをした方がいいんじゃないか?」
「それもいいわねー。美術系の支援プログラムで何か出来ないかっていう話もあったし、中学生くらいのを集めて一度やってみようかしら」
「あれ? 乗り気?」
「文化のパトロンになるのも、王侯富貴の役目の一つ」
「……今夜のお前はやけに真面目だな」
「ま、私は私を楽しませてくれる人間が増えればいいだけだけどね」
「で、楽しませてくれなくなったら『さよなら』か」
 ティディアは意味ありげにニトロを一瞥し、
「そういうものじゃない? 今夜も最も素晴らしい演奏をした者だけが、ゴールドを得た」
「まあ……それはそうだけども」
 歯切れの悪いニトロの様子にティディアは微笑み、『花園』を眺めながら言う。
「とはいえ育てるとなると確かに“一番だけ”を囲っておけばいいってものではないわね。知らぬ間に自生して花実をつけるものは別として、それまで下位であった者の中から今夜のような主役が現れることもある。だから誰を支援し、誰を切り捨てるかの見極めに関してはむしろこちらの資質が問われることになる。もちろんその見極めはとても難しい。だけど素晴らしいものを得ようというのならそれくらいの難題は当然だし、何より難しいからこそ勝ち得たものはさらに素晴らしいものとなる。その“素晴らしいもの”を実利とするか、名誉とするか、虚栄心の糧とするか、それともただ楽しむかは人それぞれだとしてもね」
 世間話のような、それとも教示のような、どこか掴み所のない調子で語ったティディアはまた意味ありげにニトロを一瞥する。その視線に彼はからかわれているのか幻惑されているのか判断がつきかねたが、一つ理解できるのは、
「本当に、おかしなくらい今夜のお前は真面目だなあ」
「私はいつだって大真面目よー」
「ああ、ああ、そうだった。クソ真面目にバカをやってくれるから性質が悪いんだ」
「そんな私を叱ってくれる貴方が大好き」
「そんなお前が俺は大嫌いだ」
「いけずー」
 美々しい『花園』の絵を離れ、二人は次のフロアへ向かった。そしてフロア間の短い通路を抜ける寸前、はたとニトロは足を止めた。
 そのフロアの中央には美の女神像が据え置かれていた。古典時代の代表的な彫刻で、一度盗難に遭い、その時折れた左腕が不思議と作品の魅力を増す結果となって、以来修復もされず人の関心を惹き続けているものである。
 だが、ニトロが足を止めたのはその傑作のためではない。
 フロアの壁を埋める絵画の全てに、裸婦がいた。
 直前のフロアには神話に示された様々な景色があった。その美麗壮観とは扉も隔てず地続きなのに、ニトロには周囲の空気が大きく変わったように感じられた。
「『人は本能的に女の美の秘密を知りたいのだ、男も、女であっても』」
 詩を詠むように、ティディアが言った。
 ニトロは彼女を見ずに問う。
「誰の言葉?」
「デグムート。知っているわよね?」
「小古典時代ロマン主義の代表的な作家」
「代表作は?」
「『ねむの木と乙女』」
「合格。ちなみにフルネームは?」
「ニトロ・デグムート。だからよく覚えてるんだ。でもその言葉は知らなかった」
 ティディアは吐息を漏らして笑い、
「彼の絵は残念ながらここにはないけれど、その彼が多大な影響を受けた大古典時代の最高傑作があるわ」
 そう言って、右手の壁中央に掛けられている大作に向かう。ニトロは背後を一瞥し、そこに絵画鑑賞の邪魔にならないよう足を忍ばせている影を確認してから歩を進めた。裸婦画ばかりの中にティディアと二人というのはどうにもむず痒い思いがこみ上げる。が、それよりも今は絵に対する新鮮な興味が強い。
 隣に並んでくるニトロの様子を視野の隅に得たティディアは、笑む。
 二人が見つめる絵は100号と大きいだけでなく、異様なまでに迫力があった。描かれる乙女は一糸纏わぬ身を今にも倒れそうなほどに傾けてつま先だけで頼りなく立ち、その曲線美が際立つようよじられた白い肢体を背後に立つ男に委ねている。場所は鬱蒼と茂る森陰。足元には数片の羽根が散っている。女を怖がらせないよう鶴に変身してやってきた背後の男が姿を戻す際に落としたものだ。その男も全裸であるが全体的に黄金色を帯びていて、豊かな頭髪には時折稲光のように輝く箇所がある。男は雷神である。主題は『ソーニア』――アデムメデス神話の代表的な英雄、ガルソニアスの母となる処女おとめだ。
 ティディアはしばし黙した。
 その間にニトロは絵にまつわる前知識なく、自由に鑑賞する。
 しばし眺めていて、少年は、自然と手に汗が滲むのを感じた。
 金泥に塗られた厳粛な趣のがくの内に、確かに絵具で描かれているのに、もしや触れたら指に吸い付いてくるのではと思える柔肌の質感。あまりに妖しく、あまりに挑発的でありながら、あまりに純粋できよらかなその裸体。腰回りの肉付きや乳房などは限りなく理想化されているようなのに、一方ではどこまでも生々しいその女。
 彼は隣にティディアが立っていることを意識しないよう努める。
 そして彼女に自分がこの絵に魅了されていることを知られたくないと望む。
 だが、きっとこの感動は既に悟られてしまっているだろう。どこかに隠れたくなるほど気恥ずかしくなってくる。それほどに、この絵は――
「この“エロス”に満ちた部屋で」
 ふいにティディアが声を出し、ニトロはどきりと我に返った。彼女は続ける。
「ちょうど異性への抑えられない好奇心に切羽詰り出した中学生相手に女体美について講義して、すると男子は隣の女子の体を見ざるを得ず、女子は男子の視線に嫌悪を感じながらも一方でどぎまぎしちゃう――そんな様子を眺めるのは実に甘美なことでしょうね」
 ニトロは毒づくように息をついた。横目にティディアを見、
「悪趣味な」
「でも私は別に意図して性欲を喚起するわけじゃなく、芸術について講釈を垂れるだけよ? 実際の目的はあくまで芸術への接触を深めることだもの」
「だとしてもやっぱり悪趣味だ」
「それなら芸術そのものが悪趣味なのよ」
「いきなりそんな風に責任転嫁されたら芸術さんもビックリだろうさ。大体、お前がここまで説明してきたものには必ず悪趣味なところがあったか?」
「どうかしら」
「どうかしらって――『花園』は善良な者だけを迎え入れる楽園だし、『父殺しのステロ』だって父を殺さねばならない息子の決意と悲嘆を描き出している。あの老婆ブスペについては言わずもがな。それらを表現する筆のどこに悪趣味があったって言うんだ」
 そこまで言ってから、ふと、ニトロは緩慢に口をつぐんだ。目を伏せて考えを巡らせるが、その自問は容易に答えの出ないことが明白である。そのため彼は思索を早々と切り上げ目前の芸術に意識を向けた。その価値観を揺さぶられる者の横顔にまた、ティディアは笑む。そして、
「女体の美を語る上において全て“エロス”がなければならない、なんてことはないと思うし、逆に何事も性に結び付けて解釈するのも馬鹿馬鹿しいことだと思うけど」
 と、ティディアは切り出した。が、次の言葉にまで隙間がある。ニトロは聡く勘付き、
「今さっきの悪趣味な駄弁は、つまり“話の枕”か」
 するとティディアはそれには応えぬまま、しかし満足気に続けた。
「かといって全く“エロス”と無関係、とするのは愚劣の極みね。例え純粋に女体のフォルムのみを追求したと作品だとしても、それが美であるならば“エロス”を排除することはできない。美はそれだけで快を生み、快は官能を導く。そして官能には、性愛、少なくとも恋慕に類する情動が常について回る。そして、もしそうであるとするならば、逆に恋慕や性愛から官能へ、官能から快へ、快から美へと遡及的に“美”へ向かう事も一つの道として成立し得る」
 ティディアの眼差しはニトロへ問うている。彼は彼女の台詞回しに中学で習った哲学の入門知識を刺激され、思い出し、
「……確か、“美への志向”そのものを“エロス”っていう説もあったかな?」
「ええ。そしてもし、美を善し、とするなら、それに通じる“エロス”を排除しようということは無理筋ということになるでしょう。美を理解するにおいて“エロス”の排除が無理筋なら、“エロス”に密接に関係する官能や性愛の排除も問題になるでしょう。そしてここがまた別の角度から問題を持ち込んでくる。何しろ一般的には“異常性愛”と括られる嗜好だって、それも一つの美への志向だと捉えるなら何ら異常ではない“愛”と言うことだって可能になるのだから」
「そりゃ論が飛躍してないか? 特に性愛から“性”を抜く過程はどこにあった?」
 ティディアは笑う、実に満足気に。
「訂正するわ。何ら異常ではない性愛ね。もちろん性愛それそのものを異常とするなら話は別だけど――「それも論がぶっ飛んでるな。ていうかそれについちゃ“性愛とは何ぞや”ってことを考える、芸術っていうより哲学の領域だろ。そっからじゃないと“性愛から通じる美、その美を表す芸術”って筋を追って行けないと思うぞ? 異常か正常かってところには哲学に加えて倫理や道徳も関わってくるだろうし」
 ティディアはうんうんとうなずき、
「そうね。でも、とすると、ある種の芸術は、その哲学、あるいは倫理や道徳に対して非常に重要な問いを投げかけることになる」
「それは理解できる。過去に物議を醸した芸術作品も数え切れないって習ったし、前にもお前が芸術にこじつけて阿呆なことをしようとしたこともあるしな」
「あの時の『トレイ』は痛かったわー、ニトロったら凄すぎちゃってそれはそれで別の芸術になった気もするけども」
 ニトロは眉間の皺を指でトンと叩き、
「芸術ってのは便利な言葉でもあるんだって改めて思い知ったよ。――で? その流れからするとこの作品はそういう作品ってことだな?」
「その通り。この絵は知っているでしょ?」
「見覚えはある。でも『最高傑作』と言われるほど有名じゃあなかったと思うけどな、最高傑作って言うなら、確か今は西大陸にある……」
「フキの『横臥する美の女神』」
「そう、そっちが大古典時代の最高傑作の呼び声高い作として学校でも習った、はずだ」
「うん、間違ってない。でもね、ある時までは、大古典時代最高の裸婦画と言えば間違いなくこのブールドの『雷神ガルツとソーニア』だったのよ」
「『ある時』?」
「ええ」
 ティディアは、そこでにやりと気味悪く笑った。ニトロはぞくりとする。それは不吉な笑みだ。彼が重心を遠ざけたのを認めながら、彼女は絵をよく見るよう目で促した。
「ニトロはこの絵を、どう思う?」
「どうって……」
 そこでニトロは言葉に詰まった。しかしティディアは平静に言う。
「美しい?」
「――ああ、美しい、と、思う」
 たどたどしく言って、ニトロは頬に熱が浮かぶのを自覚した。おかしな笑みを挟んだとはいえティディアは女体美をアカデミックに語っている。それなのにこちらは女体を過剰に意識している。この状態はかえって恥ずかしい。そしてそれを恥ずかしいと思うことがまた恥ずかしくてならない。
「それだけ?」
 ティディアはあくまで自然に問う。
「……」
 それでもニトロはなかなか素直に口に出せなかった。“かえって恥ずかしい”と自覚したとしても、やはり羞恥の壁を乗り越えるのは難しいものである。しかもティディアが聞き出そうとしているのは先ほど自分がこの絵に対して抱いた最も大きな情動であり、それを先ほどは彼女に悟られたくないと思っていたのだ。ティディアは黙している。ただ待っている。ある意味において“そういうプレイ”を楽しまれているようにも思えてくる。と、そう思った途端、彼の胸に激しい負けん気が励起された。するとその負けん気が、彼の口からその感想をするりと押し出す。
「官能的だよ」
 一度言ってしまえば後は楽だった。
「とても美しくて、そしてとても“エロ”い。彼女は既に虜だ。構図通り神に身だけでなく心も全て委ねている。その無防備さも、彼女の美を引き立てているのかな」
 しかし段々と、ニトロの声からは力が失われていった。美や芸術を語るということには不慣れであるし、元より自信のない分野である。それでも彼は半ば意地になって続けた。
「それに、なんて言うか、何だかこう、いけないものを観ているような……」
「背徳感?」
「言葉にするなら、そうかな」
 するとティディアはニトロが喪失した力を全て投げ返すように力強く、それも半ば感嘆すらをも面に浮かべてうなずき、
「そう、彼女はすでに雷神の虜になっている。委ねているのもそう、無防備なのもそう、そこには無と忘我からの純粋さもあるわ。そして純粋に、彼女は溺れている」
「溺れている?」
「彼女の頬は上気しているでしょう? よじられた体は絵画的なポーズでもあるけれど、むしろそれは快感に身悶えているからこその姿」
「ああ」
「でも彼女は溺れているだけじゃない。潤んだ瞳は恍惚として、神を仰ぎ、無限の愛を捧げているけれど、同時に神を見ず、神の肉体を超えてその奥の魂を確認しようとしている、そこにある彼の愛を求めている。その求める心が無と忘我と無限の愛を捧げようという心と対立して彼女の内奥で凄まじい緊張を生んでいる。その緊張がまた、彼女を内側から輝かせている」
 ニトロはじっと絵を見つめた。少しの間を置いて、ティディアは言った。
「彼女はね、今、既に、そして永遠にセックスをしているの」
 唐突な単語の現れに、ニトロは驚いてティディアを見た。からかわれているかと思ったが、彼女の横顔にふざけたところは欠片もない。
「でも彼女は神とセックスをしているんじゃない。では、誰と?」
「……画家?」
 ティディアはニトロを慈しむように見た。鷹揚にうなずき、
「そうよ。これはね、ニトロ、この絵を描いた男とモデルのセックスそのものなのよ」
 乙女の背後に立つ雷神の右手は乙女の右脇を支え、その人差し指は僅かに乳房に触れている。左手は乙女の下腹部、ちょうど子宮の上に添えられている。乙女は両腕を大きく振り上げ、今にも口づけをしようという男神を迎えながらその御頭を抱こうとしている。森の陰の中に浮かび上がる両者、その全身がこれから始まる愛の営みを予感させる。しかしティディアはそれが既に行われており、しかもそれは画面外の存在の行為であると言う。ニトロには容易に理解できないように思えたが、不思議なことに、一度聞いただけで納得することができた。
「……さっき、物議を醸す作品だって言ったよな」
「ええ」
「それは、つまり画家とモデルの関係が問題ってことか?」
 背徳感、という単語がニトロの脳裏に蘇り、その意味が彼の目を裏側から圧する。ティディアは微笑み、
「察しが良くて嬉しいわ。そう、この絵のモデルは、ブールドの実妹よ」
「おっと」
 ニトロのその反応に、半ば知っていたことを改めて確認したかのような驚きに、ティディアはくすくすと笑った。そして、
「ブールドと妹の関係は、二人が生きている時には誰にも知られていなかった。兄のブールドは成功した画家として知られ、ついに結婚はしなかったけれど顧客の上流社会で様々な浮名を流した伊達男だったわ。逆に妹は貞淑な女性として知られる非常な美人で、ある伯爵に嫁いでからは子にも恵まれた。二人の実家は裕福な商家で、何不自由なく育ち、もちろん、おかしな様子も何も無かった。周囲にはただ仲の良い兄妹と思われていたみたいね。妹の結婚を祝って兄が描いた伯爵夫妻の肖像画は、当時の社交界に大きな嫉妬を呼んだそうよ。そしてその伯爵も生涯その絵を宝としていた。伯爵はとても長生きをしてね、妻の死の翌朝、妹を追いかけるように突然死した義兄の家で発見されたこの絵――もしその死がそんなにも早くなければ画家の手で焼かれていたかもしれない――この『雷神ガルツとソーニア』がまた義兄の名誉を高めたものだから、当時の庶民の落書きにも残るぐらい滑稽なほど自慢していたそうよ」
「それが何で関係を知られることになったんだ?」
 俄然興味を引かれたニトロの問いに、ティディアは一つ息を挟んだ。彼の表情を深く見通し、刹那の内に方針を切り替え、応える。
「関係が知られたのは、ブールドの死後、つまりこの絵が世に出てから137年後のこと。現在の区分で言えば大古典時代から小古典時代に移っていて、この絵は前時代の最高傑作の一つとして時の王フヴェルに献上された。そして献上された際、そのフヴェル王が暴挙に出た」
「暴挙?」
「この絵には本来特別な額があった」
 言って、ティディアは絵の下方に向けて小さく何事かを言う。すると絵に重なるようにして立体映像ホログラフが表れた。
「おわ」
 思わず、ニトロは声を出した。
 その額縁は非常に幅の大きく、かつ非常に精緻な細工の施されたものであった。正直に言えば、その存在感は絵の味を大分殺してしまっている。
「ご先祖様は自信家でねー」
 ティディアは苦笑するように言った。
「自分は学問に秀で、芸術が解ると自負していたのよ。お陰で十数点おかしな修正を加えさせられた名画があって、後代の学芸員が修復に苦労することになったんだけど……この絵の場合は、この大きすぎる額のサイズを調節しようと、画家自らが作った額の保存を訴える周囲の制止を振り切り自らノコギリの刃を当てた」
「それで?」
「額の内部に隠されていた大量の手紙――妹との往復書簡が発見された。書簡には二人の関係が赤裸々に書かれていたわ。それは当然大スキャンダルになって、学会も画壇も大騒ぎ、子孫はとばっちりを受けて身を潜め、ご先祖様は絵を焼かんばかりに大激怒。でも芸術が解るっていう自負心が今度は良い方向に働いてくれて、この大傑作は倉庫に封印されるだけで済んだのよ。
 一つ先に言っておくと、その書簡から推測される限りは兄妹に肉体関係はなかったようね。二人共に熱心な国教徒で、理性も倫理感も強かった。まあそうは言っても兄は派手に女遊びをする男だったんだけれど、それももしかしたら妹への愛情を紛らわせるか、誤魔化すためだったみたい。二人は愛し合いながら、それを互いに伝え合いながら、それでも相手を愛するあまりに現実の世界では一線を越えられなかった――いえ、越えなかった」
「だから、絵の中で?」
 うなずき、ティディアはかすかに熱を漂わせて語る。
「絵の中で、そして、絵を描くという行為の中で。妹は兄の前で服を脱ぎ捨て、ポーズを取り、男は筆や指で女の肉体をカンバスに移していく。その場面だけでも誰かに知られれば一巻の終わり、だから数少ない機会に濃密な時間を凝縮して、互いに互いの破滅を恐れながら――もしかしたらそれをどこかで期待しながら、二人でこの絵に命を塗り込めていった。妹は兄の手に、筆に、指に、それがカンバスに触れる度に直接愛撫を感じ、兄は妹の吐息を聞き、汗ばむ肌を目にする度に直接体温を感じた。目が合うことは唇を重ねること。見つめ合うことは交じり合うこと。そして絵を描き上げることは絶頂に達すること。完成のその瞬間、二人は共に失神してしまったというわ。兄は完成の合図を出すこともなく、妹も絵を見ることはなく、それでも最後の一筆が走り終わった瞬間、二人は大いなる“光”を見た。それは神秘的で素晴らしい体験だったと二人して熱っぽく書き残している。オーガズムを神に至る道とする復興新宗教もあるから、その見地からこの二人を裁いたらどんな意見が出てくるのか興味のあるところだけど……まあ、それは別問題ね。
 ところで、書簡が発見されたことで、当時長年議論の的だったことに一つの解答が与えられたわ。ニトロ、この絵には一ヶ所、明らかに不自然なところがあるわね?」
「雷神の左手だろ?」
 うなずき、ティディアは熱を込めて語る。
「そう、タッチは似ているけれど、この左手は明らかに出来が悪い。全体の中で幾分ぼやけてさえいる。その理由が判るまで色々な説があったわ。これは乙女が子を宿すことを示唆しているとか、既に乙女の身篭る我が子に力を分け与えているのだとか、ブールド本人が左手で描いたのだとか、描いたのは別人だとか。……事実はその別人説、この神の左手はブールドの妹が描いたものだった。兄の左手をじっと見つめながら、兄に手ずから指導を受けながら。ここに手を置かせたのも妹の意思。そうすることで彼女はこう言っているのよ――『私は誰と子を成そうとも、あなたとの子を生むのです』」
「……凄いな」
 思わず、ニトロはつぶやいた。実際の肉体関係がなくとも近親相姦のメタファーとなれば、この絵を自分は諸手を挙げて賞賛することはできない。だが、一つの美としては、これは確かにその危うい情念すらも一つの要素として飲み込む『芸術』なのだ。
「書簡の発見でもう一つ判明したことがあるわ。ニトロは疑問に思わない? 何故、この絵が発見された“当時”に騒ぎにならなかったのか」
「――ああ、言われてみればそうだな。何で彼の妹だって身近な人に解らなかったの?」
 ニトロは素直に問うた。それがあまりに素直だから、ティディアは笑った。
「それはこの絵の顔が描き換えられているから。真の顔は、この顔の下にあるのよ。人間の目で見ることはできないけれど」
 と言って、またティディアは口早に美術館のシステムに命じる。すると乙女の顔に別の顔が重なり現れた。始めに灰色の線画、次に表面とは若干輪郭の違う白い顔。それぞれ撮影方法を変えた二つの画像が合成され、そこからコマ送りで工程が進み、最後に再現された顔に鮮やかに色がつけられる。その真の顔は偽の顔よりもいくらか顎がシャープで、いくらか鼻が高かった。瞳に変化はないが目の形は少しばかり丸みを帯びて描き直されている。偽の面にはいとけなさが残り、真には意志の強さが現れていた。比較を見て思うのは最小限の筆で違和感なく最大限の差異を生むブールドの技巧の凄まじさである。一定時間を経て、比較画像は薄れて消えた。
「書簡の研究から隠された顔の存在が判った時、もちろんそれを見ようという動きはあった。けれどまだレントゲンもなかった時代だから、見るとなると加筆分を除くしかない。しかも王が523年の封印を厳命していたから結局諦められて、諦めと封印のためにこの絵はやがて歴史からも忘れられていった」
 長い時の断絶を感じさせるようにティディアは間を置き、そして語る。
「だからやっと妹の顔が判ったのは、封印が解けた、美術史的には『再発見』の時。往時の“書簡の研究”も蘇り、忘れられていた『最高傑作』の真実が耳目を集める物語と共に広く知られ、そうして再解釈と再受容が行われると同時にこの絵を元の顔にするかどうかも議論されたわ。でも、この上描きはブールドの手によるものに違いはなく、書簡にもその理由が書かれていた。全ては妹のため。そして“私たち”の子どものため。万一人の目に触れた時のための“覆い”があろうとも、画家にも妹にも見えているのは常に“真の愛”の形なのだから。――結局、作者の意志を汲んで、この絵は経年劣化に対する修復をするだけに止められ、今、こうして私達の前にある。ただ形を変えた近親相姦とも言えるこの絵の美的価値観についての議論は置き去りにされたままだけどね。この絵が未だに『最高傑作』の座に戻らないのは、そのためよ」
「はぁ」
 ニトロが吐き出したのは感嘆だったろうか、あるいは呆れにも似た感情だったろうか。
 ティディアはもう何も言わない。
 ニトロは改めて『雷神ガルツとソーニア』を観た。
 特異にしてインモラルな背景を聞いた後にもなお、この絵画の魅力は減じていない。
 ニトロは思う。
 おそらく、兄妹がこの題材を選んだのは神話の中に近親相姦を受容し得る土壌を求めたからだろう。雷神ガルツも兄妹神の契りによって生まれた存在に他ならない。それなのに二人が神話に語られる直接的なエピソードを避けてこの話を選んだのは、きっと、直接的なエピソードではただ神話の中の行為に二人を重ねてしまうだけだからだろう。これは、あくまで二人だけの秘密の営みなのだ。乙女の美しい裸体の圧倒的な存在感。それに比して背後から彼女を抱く雷神の存在感は不思議だ。雷神の体の大部分は、まるで破戒を恥じるように半ば陰に飲まれている。だが、乙女に触れている両手と、乙女に抱かれようという頭部はまさに神秘的な光を放ち、確固とした力強さを湛えている。まるで彼女と触れ合わねばそのまま生命を失うと言わんばかりの切実な存在感が雷神をようやく生かしている。そしてその切実さこそが、近親相姦という禁忌を超えたところで禁忌を覗き観る者の心を飲み込もうと覆い被さってくる。
 ニトロの瞳は画面に吸い付けられる。
 ここでしか生きられない命。
 魂。
 心は強迫観念にも似た官能の渦に飲み込まれそうになる。
 彼の脳裡から倫理の枠組は次第に薄れていき、代わって、ゆっくりと、しかし激烈に、ただ一人の男の魂と女の魂とが奔流となって色濃く差し込めてくる。
 雷神の右手は何故そんなにも恐る恐る乙女を抱くのか。もっと体に引き寄せ抱き締めることもできるだろうに。そして何故“彼”は彼女の乳房に手を触れられないのか。まるで触れたが最後、永久に失ってしまうたおやかな泡を相手にしているように、ただ人差し指の先だけを乳房にそっと触れさせて。しかもその指は少し不自然な向きをしていて、指の先には彼女の心臓が、さらには雷神の左胸がある。もしや、いっそ稲妻をはたたき、共に死ねたらどんなに悦ばしいかと考えているのかもしれない。だが、それはできない。彼に彼女を殺すことはできない。苦悩が伝わってくる。薄れた倫理の欠片が問う、果たして禁忌を規定するのは肉体における関係のみなのか、心にも関わる倫理は精神における関係をも規定するのではないのか、ならばこの睦言も、やはり愛に汚穢おわいを被せるものに過ぎないのではないのか。私達は愛しているのか、愛を穢しているのか――こんなにも愛し合っているのに!――苦悩が伝わってくる! だが、苦悩するが故にとうとう結ばれた二人の歓喜はより強いものとなり、交じり合う二つの魂は無上の悦楽にむせび泣いていた。この官能の渦には様々な情念が、苦楽の吐息が、快不快の痛みが共にある。何もかもがある。なのに、何故だろう、まるで何もかもが失われていくようだ。不安に揺れ、愛に揺れ、至福に揺れ、揺れながら一つに溶け合い、やがて至る、渦の中を、絶頂に向かう。絶頂に向かい、絶頂に迫る。さし迫る。せり上がる、せり上がる。せり上がる!
甘い女の吐息が、耳元で聞こえた。
「ッ」
 ニトロは息を吸った。
 知らぬ間に息を止めていた。
 今までに体験し得ぬほどに芸術に触れ、脳が崩れかけているようだった。
 そしてを取り戻した彼は、胸をそっと愛撫する手を感じた。初めは錯覚かと思った。だが、錯覚ではない。それは実体であり、腹部にも指先を下に向ける手が間違いなく存在していた。
 ふ、と、ニトロの耳朶を吐息が打った。
 雷がびりびりと骨を軋ませた。
 彼の背中には柔らかな体温がある。心臓に心臓を重ねるように押し付けられた乳房は形を崩して密着していた。右肩に触れるのは顎先だろう。花のような香りがニトロの鼻をくすぐり、網膜から浸透する得も言われぬ官能に重ねて胸の愛撫が彼を捉える。浸透する毒が脳の髄を痺れさせる。痺れが、本能を立ち上がらせようとする。
「ねえ、ニトロ」
 甘い囁きが鼓膜を揺らした。
「私達もぁいだたたたたたた!」
 甘くない悲鳴が、裸婦画の並ぶフロアを揺らした。
「痛い痛い折れちゃう指が折れちゃう!」
「折られたくなかったら、さっさと離れろ」
 胸を愛撫していた右手の人差し指をさかに捻り上げるニトロがそう言うと、彼の右肩をトトトンとティディアの顎が突いた。うなずいているらしい。そのわりに左手はツツツと下へ向かっている。ニトロは指をさらに曲げてやった。
「ひやーーーーー!」
 一際甲高い悲鳴を上げてティディアが飛びのく。彼女は折れる寸前だった指を押さえて涙目でニトロを見やる。いつの間にか警備アンドロイドが彼の隣にいた。もし飛びのくのがあと一秒でも遅ければ後頭部をごつりとやられていたかもしれない。後ろの通路の奥側でマリンブルーの光が二つちらりと閃いて、すぐに音も無く消えていく。
「……あれぇ?」
 ティディアは指をさすりながら、首を傾げた。
「大チャンス到来!――って思ったんだけど、違ったかしら?」
 ニトロは、ぐ、と息を抑え、それから肺の中で固まった息を大きく吐き出した。そうすることで平常心を完全に取り戻し、
「お陰で貴重な体験をさせてもらったっていうのに……」
 思えばうまく相手に乗せられ過ぎていた気もする。思考の志向を相手に委ねすぎていたとなれば己の失態だ。そのことに忸怩たる思いを抱きながら、だからこそ余計に目を尖らせて彼は言う。
「どうしてお前は結局こうなのかな?」
 にへらと笑ってティディアは答える。
「というよりも、初めっからこうなのよ」
「開き直りやがってコンチクショウ」
 苦々しく、そして吐き捨てるようにニトロは言った。
「いつもいっつも悪びれもなく人を騙しやがって」
 しかしティディアはやはり笑って応える。
「やー、騙してなんかいないわよぅ」
 ニトロの双眸が鋭さを増す。
「どこがだ?」
 するとティディアは少し乱れたドレスを直しながら、
「じゃあ聞くけど、私はいつニトロを騙したかしら?」
「デートじゃないと言ったろ?」
「ええ、私はデートしていたつもりはないわ」
「形を変えた練習ってのは?」
「実際、そうしていたわね。何だかんだでニトロは素直だから教えがいもあるしねー、ハラキリ君が結局真剣に教え始めたのもよく解るわ」
「気分転換ってのは?」
「気分を変えて私を抱いてみない? 私の体も、芸術的よ?」
 ニトロの片頬が引き上がり、噛み締められた歯が覗く。彼はさらに言葉を重ねようとしたが、駄目だ、何も言葉が出てこない。
 ティディアはニトロのその様子をほくそ笑むように見つめた後、
「だけどそう思ったのは、ニトロが思った以上に作品に入り込んでいたから。誓ってこれは初めから考えていたことではないし、狙っていたわけでもない。でも」
 そこまで言われて、ニトロは続きを目で問うた。そこで彼女は笑った――いやらしく。
それまではそのままずっと絵画鑑賞をしていくつもりだったのに、ニトロがあんな顔をするから我慢できなくなっちゃったのよ」
 一瞬にして顔が発熱するのをニトロは自覚した。ティディアの笑みが深くなる。
「大チャンス到来! そう確信したのになー。まったく、ニトロの貞操はどれだけしぶといのよ」
 残念そうに言いながらも彼女には新たな愉悦を咀嚼するような明るさがあった。
「けど、芍薬ちゃんが私をすぐに引き離すかどうか躊躇っていたくらいだからやっぱり大チャンスだったと思うんだけど……どうかしら?」
 ニトロは答えない。答えられるはずもない。頬の熱が羞恥から憤慨に変わり、その眼光は冷気を帯びる。それでもティディアは調子を変えずに言う。
「それにしてもちょっと手ほどきをしただけでニトロがあんなにものめり込んでくれるとは思っていなかったわ。これはニトロの感受性が素晴らしいからなのかしら、それともやっぱりニトロも男の子だからなのかしら。年頃の男の子が官能に酔いしれる女に引かれるのは、自然なことだものね?」
 そのセリフに、ニトロは怒声を上げる代わりに大きく息を吐いた。肩を落とし、踵を返す。
「あら? どこに行くの?」
 ニトロは肩越しに振り返り、間抜けな問いを投げかけてきたバカ女を睨みつけ、
「帰るんだ。もう練習も十分だろう? どうやら才気溢れる王女様からお褒めの言葉も頂いたことだしな」
「やー、刺々しすぎて逆に痺れちゃう」
 眉根に深い皺を刻み、ニトロは眼差しに軽蔑を混ぜる。
「じゃあな」
 殴りつけるように言って、それからずっとティディアを厳しく睨みながら傍に控えていたアンドロイド・芍薬に一瞥を送る。芍薬はうなずき、二人は足を踏み出し、
「でも、勿体無くなあい?」
 去ろうとするニトロの背中に、さして慌てる風もなくティディアは言った。
 ぴたりと、ニトロの足が止まった。
「何がだ?」
「折角この美術館を大勢に煩わされず回れる機会なのに。徹夜したっていいくらいの価値は十分有ると思うわよ? ニトロは絵とか見るのもわりと好きでしょう? もちろんいつだって言ってくれたら私は計らうけれど、どう?」
 ニトロが半身を振り向ける。ティディアは微笑む。その笑みを見て、ニトロは再び背を向けた。
「お前の世話にはならないよ」
 そしてまた一歩踏み出す。
「順路をぐるりと巡って最後にまたあの『咎山を登るオトロ』を眺めたら、きっとこれまでにも増して貴重な体験ができるでしょうね」
 ニトロの足が、再度ぴたりと止まる。
「今回の展示は、そういう風にできている。そしてその予感はもうニトロの胸の中に息づいているはずよ?」
 再びニトロが半身を振り向ける。ティディアは微笑む。その笑みを見てもニトロが背を向けることはない。ただ、ちらりと芍薬に目をやった。芍薬は態度だけでマスターへの恭順を示す。それはマスターが翻意することに不満を抱くことのないことを保証していた。
「今夜は別に私に計らわせているわけじゃないんだから、遠慮なんてしなくていいのよ?」
「そう言われると逆に気になるもんだけどな」
「それは自意識過剰ってものよ」
「それをお前に言われてもなあ」
「なら、私だから言えるのよ」
「……」
 ニトロは吐息をつき、つま先の向きを変えた。逆順に進もうとしていた足を順路に戻す。
「ついてくるなよ?――って言っても、無駄なんだろう?」
「もちろん。それにニトロにとっても私がいた方が絶対に得だと思うわ」
「得?」
「それは既に証明済みのはずだけど? さらには『持ち主』しか知り得ぬ裏話なんてものもあってね……ああ、もちろん作品を鑑賞し共感し理解するのに作者や諸研究の情報は不可欠ではないわよ? それらを邪魔なノイズと切り離してもいいし、むしろそれこそが正しい観照の仕方とも言える。でも関連情報は作品を観賞して解釈して親しむことへのスパイスにもなるし、作者や創作物に関する物語が作品理解への入り口になり得ることも確かなこと。それもまた、今までに証明した通り」
 裏話、スパイス、物語とそれらを口にする度にティディアは語気に微かに力を込めていた。思惑通りニトロは――それが相手の思惑と悟りながらも――反応して考え込んだ。他方で芍薬は目を攻撃的に細めている。
 ティディアは優秀なニトロのA.I.に眼差しを送った。
 両者の目が真正面から鉢合うが、芍薬は、沈黙を守る。
 何故なら、ティディアの意図を潰すことはマスターの好奇心をも潰すことだからだ。それが身の破滅を導くことならば芍薬は身を挺してでもマスターを止めるだろう。しかし、今夜は違う。マスターを辱めるような態度を取った『敵』に良い思いをさせるというデメリットよりも大きなメリット――マスターの見識が広がる機会、それも他には得られないような機会を差し出がましく妨げることは芍薬には断じてできない。それにバカが余計なちょっかいを出すまでは、確かに、本当に、主様は楽しそうだったのだ。だからこそ芍薬の眼差しには怒りがこもる。感情表現技術エモーショナル・テクノロジーの豊かな機体が表す形を目にしてティディアは少し、眉を垂れた。ちらと首を傾げて、それから彼女は眉間の皺を叩いているニトロへ視線を転じ、そして囁く。
「さて?」
 やがてニトロはがりがりと頭を掻いた。
 芍薬を見て、アンドロイドの態度に不変の全権委任の様を認めて天井を仰ぎ、それから『雷神ガルツとソーニア』をしばし眺め……改めて観てみると、性と官能の激しい喜びを通り過ぎた先に、重苦しいほど落ち着いた生そのものへの歓喜と、自己と相手の存在していることへの高らかな讃歌を感じる。貴方に、貴女に、会えて幸せだと。――もしかしたら、それこそがこの絵を傑作足らしめている本質なのかもしれない。そう思うとまた新たに胸に迫るものがある。
 ニトロは最後に、ティディアへと目を転じた。ばちりと彼女と目が合った。慌てて恥じるようにさっと目をそらし、そして不承不承、彼は言った。
「引き続き、よろしく」
(ああ)
 ティディアは胸中に吐息を漏らした。
 その胸は苦しく締め付けられていた。
 キュンキュンと締め付けられていた。
(ああ、ああ、ニトロ、ああ)
 思わず緩みそうな唇を必死に整え、彼女は言った。
「任せて。きっと貴方に、素晴らしい体験を贈ってみせるから」

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