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 二本目の取材までの休憩中、ティディアがふと思い出したように言った。
「ねえ、ニトロ」
「なんだよ」
「私達、付き合ってから一年が経ったじゃない」
「経ってない、一年どころか一秒たりとて経ってない」
「色々あってばたばたしていたから一周年のお祝いをし損ねちゃったでしょ?」
「し損ねるも何も元々そんなものは無い」
「そんなことない! 私達『映画』のクランクアップの日に正式に付き合い始めて、ファーストキッスもその時だっていう設定じゃない! 忘れたなんて言わせないわよ!」
「設定言ったな、おい。てか嫌なことを思い出させやがって」
「嫌なことだなんて誤魔化さなくっていいのよ? 美しい思い出、でしょう?」
「いいや醜悪な心的外傷だ」
「酷い!」
「酷い!? 無理矢理やりやがって酷いのはどっちだ!」
「だってあのキスで私は妊娠したのよ!?」
「生物学的にありえないよな!?」
「あなたには聞こえないの? ほら、私達のベイビーが泣いている」
「聞こえてたまるか、てか聞こえたらヤバイだろ」
「ヤバイ、すっごい可愛い」
「続けるんかい」
「目元なんかニトロにそっくり、鼻は私かな?」
「ご想像でお楽しみのところ悪いがすっごい不愉快だからやめてくれ」
「そう、想像妊娠で生まれたこの子は想像長女」
「想像妊娠の設定もまだ生きてんのかい」
「想像の中ではニトロは絶倫でぶち込まれ続ける私は毎夜足腰絶たなくなっちゃって」
「だからやめろっつってんだろバカ女」
「息も絶え絶えな私を許さず攻める貴方は、でも素敵なの」
「おいこら」
「やすませて、そんなおっきいので「だから「やだ「おい「ッやめないでぇ!「やめろっつってんだろクソ痴女ぉ!」
「ところで真面目にニトロは子どもは何人欲しい?」
「お前とのって話なら一人もいらない」
「一生二人で暮らすのもいいわねー」
「はっはっは、いい加減ぶっとばすぞぉ」
「明日は晴れかしら」
「予報だと雨だな」
「大雨みたいね」
「知ってんじゃねぇか」
「午前中は傘を差しても濡れるような大雨だそうね」
「そう言ってたな」
「既に私のお「それ以上はエルボーな」
「ラジオは生放送かあ。た・の・し・み・ねー」
「よし、いざとなったらお前の顎を砕いてやる」
「エルボーで?」
「芍薬、ハンマーを買っておいてくれる? 杭をち込むようなおっきいの」
「承諾」
「!」

 ミッドサファー・ストリートからシェルリントン・タワーを有する摩天楼へと繋がる道の途中に、その店はあった。雑居ビルの三階。開け放しの入り口からは賑やかな声が溢れ出ている。
 中に入ると大きな窓がまず目についた。窓の下にはブラウンの大理石様のカウンターがあり、線の細い丸椅子が等間隔に並べられている。フロアにも同じく大理石様の天板を戴くテーブルが五席、サイコロの目のように並べられている。こちらはいずれも立ち飲み席で、十数人の客らが互いに場所を与え合いながら酒気にくすぐられて揚々と和していた。各テーブルの上には古い裸電球を模した照明が吊るされている。
 そう広いわけでもないのだが、不思議と解放感のある店だ。
 店に入って左側には満席のバーカウンターがあり、奥の棚には一目見て種々様々に100本以上の酒瓶が並んでいる。その端には樽が一樽押し込まれるように置かれていて、それはどうやらワインサーバーであるらしい、蓋板から突き出た三本のノズルが照明を銀色に照り返している。バーカウンターにはまたビールサーバーのノズルが壮観にも10本、金色に輝く首を覗かせていた。
「らっしゃい」
 ちょうど金曜の夜ということもあり、すでに混んでいる店内に野太い声が響く。テーブルの立ち飲み客に料理を運んでいた大柄な男がこちらにやってきた。四角い鼻の両脇で丸く膨らんだ頬が忙しさのために赤く染まっている。
「お二人?」
 ニルグがうなずくと店員もうなずき、
「テーブルなん隙間が有らどこんでも。カウンターがよかんば」
 と、彼はバーカウンターを一瞥してから指を窓へ向けて、
「あっちだすな」
「あっちにします」
「よがす。それはあずかりやしょうか。れが、飲みなさるか。そん場合は持ち込み料をいただくが」
(ローペイン訛りか)
 店内から浴びせられる新規の客への好奇心をニルグの背後に隠れてやり過ごしつつ、ハラキリは一人得心していた。中央大陸西南部にあるローペイン地方は酒の一大産地として有名で、ビールやウィスキーはもちろん、有名なワインの産地もある。よく見ればバーカウンターのワインサーバーにはローペイン領の紋章が飾られていた。ならば、あのサーバーには地元の人間の選んだテーブルワインが詰められているということか。
(となると実際、残念ですねえ)
 優良店であればあろう程にハラキリが内心がっかりしているとは露知らず、ニルグは店員にワインを預けていた。
「なば、お帰りんときに」
「はい、よろしくお願いします」
御名前おんめは」
「ポルカトです」
「ポルカさん。かしこまりだす。こちらを。面倒めんどなら言ってくれてかまんですから」
 そう言ってニルグに何かを手渡し、店員はさっさとバーカウンターの内側に戻っていく。その背に注文の声がかかり、彼は野太くそれに応える。
「じゃあ」
 ニルグが振り返り、ハラキリを促した。ハラキリは酒棚の下に預かったワインを仕舞い込むやジョッキを手にビールサーバーへ向かう店員からニルグへ視線を移し、ふと感じた物足りなさに思わず笑んでしまった。
 そのハラキリの笑みを、ニルグは息子の親友がこの店へ好印象を得たのだろうと解釈した。顔を輝かせるニルグの様子にハラキリは誤解されたことを悟ったが、あえて訂正することもない。人にぶつからないよう移動して窓の下のカウンター席に辿り着く。と、先ほどまで見えていた二つ並びの空席がなくなっていた。どうやらテーブルにいた一人が移動してきたようだ。もう二つ空席はあるが、一人を挟んで飛び石になってしまっている。
「ああ、どうぞどうぞ」
 すると飛び石の間にいた初老の男性が察して席を移ってくれた。
 礼を言ってニルグが男性の隣に座り、ハラキリも礼を言ってから席に着いた。男性は会釈を返した後は窓の外へ目を移し、カンヨウプラムの並木道を歩く人々をしみじみと眺め、喧騒賑わう店内で一人静かに琥珀色の揺れるショットグラスを傾ける。ハラキリの右手では若い女性二人が何やら悪口で、いや、悪口の形を取った愚痴で盛り上がっていた。
「さあ、ハラキリ君。何を飲む?」
 ニルグが満面の笑顔で問いかける。彼は店員から受け取ったカードサイズの端末に指をサッと這わせた。すると二人が肘を突く大理石様のテーブルの上にメニューが投射される。実に豊富な酒の名がハラキリの目に飛び込んできた。
 やはり、と、ハラキリは苦笑した。
 ここで言われるままに酒を頼んでもいいが、いいや、この人に無用の迷惑をかけてはいけない。
「おじさん」
「なんだい?」
「拙者は未成年ですよ」
 苦笑したままハラキリが言うと、ニルグはきょとんとした。きょとんとして、次いで怪訝な様子でじっとハラキリを見つめたまま、固まってしまった。
 思わぬほど沈黙が続いたため、ハラキリは困り顔で言った。
「いや……昨年、おじさんとおばさんに17歳の誕生日パーティーを開いてもらったじゃないですか」
 そこまで言われてやっとニルグは「ああ」と口にし、直後、全身で困惑と照れとを同時に表すや口早に、
「そうだ、そういえばそうだったね。しまった、おじさんうっかりしていたよ。すっかりハラキリ君はお酒が飲めるものだとばかり思い込んでた。ごめんね」
「いえ、実際酒は好きですから」
「あれ? じゃあやっぱり飲めるの?」
「『特区』でなら」
「――ああ」
 ニルグは深く納得したように吐息混じりにうなずいた。
「そっかあ、失敗しちゃったなあ」
 腕を組んで眉根をひそめて呻き、はたと顔をあからめて、
「そうだ、『酔い止め』を飲めば――」
 アデムメデスでは、15歳以上で保護者の監督下であれば、アルコールの吸収を阻害し、かつアルコールを胃と小腸内で分解する『酔い止め薬』を使用することを条件に15度以下の酒類の摂取を350mlまで認められている。
「――でもあれはお酒に対して失礼だしなぁ」
 自分で言おうとしたことを自分で否定して、ニルグはうなだれる。そのニルグのセリフにハラキリは大いに関心を引かれた。
「お酒に対して失礼、ですか」
 ハラキリにそう問われたニルグは大きくうなずき、しかし何かに気づいたらしく慌てた様子で首を左右に振り、再び口早に語り出す。
「いや、『酔い止め』が悪いんじゃないんだよ? 二日酔いは誰だって嫌だもんね。そういう風に使うのも問題があるわけじゃない。ただ個人的に勧めるのはやめにしておきたいんだ。僕がお酒を造る人だったら、お酒を飲むならやっぱり『お酒』として楽しんで欲しいからね。――もちろん料理に使うのも別だよ? そういうのとは違ってね、なんて言うのかな、お酒も一つの料理なんだよ。素材にもなる料理。これ一つでも完成しているけれど、他のものと合わせても美味しいんだ。例えば野菜や果物がそうであるように、例えばハムやチーズがそうであるように。そして唐辛子の入った料理を食べたら辛さに舌がびりびりきて汗が吹き出してくるように、お酒も飲んだらお腹からぽかぽか温まったり、ちょっと陽気になったりするのまでが味なんだ。でも唐辛子の入った料理から辛さを抜いたら味気ない。アラビアータから辛さを抜いちゃったらそれはもう別のトマトソースでしょ? 僕はお酒もそうだと思うんだ。ああ、僕は何を言っているんだろうね。だけど辛いのが苦手な人が辛さを避けるのはもちろん正しいし、だからアルコールが駄目ならお酒は飲まなくて当然正しいんだけど、ああこれはまた別の話だね」
 ハラキリは我慢できずに笑った。声を立てて笑うのは忍ばれる。しかし大いに肩を揺らした。
 失態に基づく動揺が取り繕おうとする心を乱し、そこに普段から抱く趣味の料理への情熱がうっかり絡んでしまったものだから始末に負えない。それを半ば自覚しつつも、それでも止まれず言葉を紡いではまた動揺するニルグの様子は、こう言っては何だが微笑ましい。もし、ここに彼の息子がいたら一体どんな顔をしただろうか。どんなことばをツッコンで父の混乱を整えていただろう? そこに思いを馳せればまた笑いがこみ上げる。
「――いや、失礼しました」
 ようやっと笑いを押さえ込んだハラキリが目を上げると、ニルグはまたもきょとんとしていた。その肩の向こうでは初老の男性が心地良さそうにしている。
「失礼ながら、慌てた時のお顔が息子さんとよく似ていたものですから」
 流石に本音をそのまま言うのは憚られ、ハラキリはそう取り繕った。とはいえその言葉も半ばは事実であり、息子に似ていると言われたニルグは眼に喜色を浮かべ、しかしすぐに情けなさそうに眉を垂れた。
「でもニトロは僕に似ずにしっかりしてるからねえ。よく怒られるんだ」
 そう言いながらも、やっぱりどこか嬉しそうな父の顔だ。ハラキリはそれも微笑ましく思いながら、反面、『ニトロ』という名をはっきり出されて少し困った。『ニトロ』という名はよくある名なので問題があるわけではないが、自分の名は珍しすぎる。そこに『ニトロ』を併せられると時々面倒事を招き寄せてしまう。しかも“そういうこと”が好きな人にとっては『ニルグ・ポルカト』とて名と顔の知られた人であるのだから。
 そこでハラキリは話題を戻すことにした。
「まあ、何にしても、拙者もおじさんと同じですので」
「同じ?」
 ニルグが問い返す。ハラキリは笑顔でうなずいた。
「拙者も酒は『酒』として飲みたい派、ということです。それに今日はここにテイスティングに来たわけではなく、おじさんに美味しい食事を奢っていただきに来たわけですから」
 三度、ニルグはきょとんとした。しかし今回は短い。ニルグは感嘆に目をみはり、吐息混じりに言った。
「ハラキリ君は、上手だねえ」
「そうですか?」
 ニルグはハラキリを少しだけ穏やかに見つめ、それからメニューに目を移した。表示されっ放しだったメニューに指を触れてページを変える。
「それじゃあ、じゃんじゃん奢らせてもらおうかな。好きなものをどんどん選んでくれるかい?」
「お勧めはありますか?」
「お店の?」
「おじさんの」
「ハラキリ君は上手だねえ」
 肩を揺らしながら再びそう繰り返したニルグは心底嬉しそうに言う。
「それじゃあスペアリブのグリルは是非食べてもらわないとね」
「お任せします」
「それから――おじさんは、ビールも飲んじゃおう」
 そう言ったのはむしろこちらへの気遣いだ。ハラキリはうなずき、
「こちらはジン・トニックをデススタイルで」
 メニューにばかり目を向けていたニルグがハラキリへ振り向く。しかし何も言わず、ただ面白そうに微笑んでメニューに戻る。
 ニルグが店員から渡された端末を通じて注文すると、酒瓶の並ぶ棚の向こうからキッチンでやり取りする声が聞こえてきた。
 注文を終えたニルグは、窓の外、明るい街灯に青々とした葉を照らすカンヨウプラムの並木道を見下ろしながら、ふいに、どこか深刻そうに言った。
「……ところで、ハラキリ君」
 ニトロの父の一変した様子にハラキリは怪訝な目を向け、やや真剣みを帯びて問うた。
「何でしょう」
「さっきのことなんだけど、恥ずかしいからさ、ニトロには秘密にしてくれないかな……」
 ハラキリは、実に楽しい晩だとしみじみ思った。

 経済がテーマの二本目の取材後、記者がエレベーターで降りた頃合を見計らってニトロは部屋を出た。扉を閉める直前、ティディアの静かな怒声が耳をかすめる。国の事業か、それとも王家の事業かに何かあったらしい。それを報せたヴィタの耳打ちを受けた際、ティディアの目に『王女の峻厳』が冷たく閃いたのを彼は見逃さなかった。一方の王女も彼がそれを見逃さなかったのを察し、どこか掴みどころのない表情を浮かべると、ため息混じりに「三十分」と言った。既に執事は三本目の取材陣に遅延の連絡を入れていた。このスケジュールの乱れによってティディアに休憩はなくなる。おそらく三本目の取材中か、それとの入れ代わりで『突撃』されるはずだ。突撃されれば、その後に『ティディア&ニトロ』がいつまでも共にいる理由はなくなる。
 五つ星を贈られるホテルの一階に下りてきたニトロは、エレベーターホールから一直線にロビーラウンジへと足を運んだ。ここからは見えないが、芍薬によればホテルの敷地の外には人だかりができているらしい。そのほとんどは『ティディア・マニア』だ。そして敷地内――レセプション周辺にもロビーにもディナータイムだというのにどこへ行くわけでもない人々が多くある。皆このホテルに王女とその『恋人』がやってきていることを聞いたのだろう。が、幸いなことにラウンジに並ぶ椅子には十分空きがあった。
 このホテルは荘重であるのに重過ぎないデザインで評判だ。到着時は駐車場から直接部屋に向かったために見ることのなかったロビーやラウンジの景色に感嘆しながら、ニトロは目当ての席に座った。こちらを窺っていたウェイターに会釈し、呼び寄せる。カプチーノを頼むとウェイターは颯爽と去っていった。どうやら彼は周囲の目をことさら意識しているらしい。ニトロは己に集まる視線とまともにぶつからないよう柱の陰に消えていくウェイターの背中から目を手元に戻し、そこで、はたと気づいた。
 すぐ隣の席に、へそ出しのタンクトップにミニスカート姿の少女が座っていた。
 ニトロは確かに隣席に人影があることを視認してはいた。
 だが、不思議とその人影を“人”として意識することがなかった。
 ロビーの内装に注意を奪われていたという理由もあるが、いや、違う、“人”として意識しなかったのは、この少女にはおよそ生気というものがなかったためだろう。彼女はゆったりとくつろぐための椅子に背筋をピンと伸ばして座っていた。背と腿の角度は直角である。膝はぴたりと合わせられ、薄い青地のかなり際どいミニスカートから抜き出る太腿の上に、限界まで握りこまれた拳が乗せられている。不動である。彼女は全く動かない。小さめの胸も微動だにしない。本当に呼吸しているのだろうか? 艶のない亜麻色の髪が真っ直ぐ流れ落ちている。幼さの残る顔は驚くほど白く――むき出しの肩や腹よりも青白く、その両目は見開かれ、焦げ茶の瞳はどこか遠い一点を凝視して凍りついている。
「……」
 あまりに異様なのでニトロがついまじまじと見つめてしまっても、彼女は彼の視線どころか、彼が隣に座ったことにすら気づかないらしい。
 よく見ると彼女の全身の中で唯一動いている箇所があった。
 薄幸そうな唇が小刻みに開閉していた。
 周囲の喧騒に埋没していたため今まで言葉としては聞こえていなかったが、そちらに意識を集中して耳を澄ませてみればやっと呟きが聞こえる。ぶつぶつと、ぶつぶつと、それは途切れることを知らない。これは関わり合いにならない方が得策だろう――と思ったところで、ニトロはふと思い当たった。
「……」
 彼は携帯モバイルを取り出しつつショートカットキーを押し、それを傾けた。するとカメラの画角に少女が見切れるくらいになったところで、画面に現れた芍薬がうなずきながらフキダシの中に小さな写真と名前を記載した。
(やっぱり)
 彼女こそ後で一緒に仕事をする相手、『崖っぷち清純派アイドル』ことメルミ・シンサーだった。
 さて、では、どうしたものか? ニトロは考えた。“仕込まれている”とはいえ相手は『気まぐれ』に『突撃』してくるのである。ここは素知らぬふりをしてカプチーノを飲み、このまま退散すべきだろうか。それとも一言挨拶しておくべきか。……いや、挨拶というよりも、
(この石化を解いておくべきか、かな?)
 正体が解ってしまえば彼女の異様な状態も容易に理解できる。
 緊張しているのだ。
 みしと心臓が張り裂けかねないほどに。
 他のスタッフらしき人間が近くに見当たらないところからすると、本番前に一人になりたいと思ったのかもしれない。シンサーの前には色の薄いオレンジジュースで満ちたコップがある。一口程度しか飲まれていないようだ。コップの氷は全て溶けていた。かなりの時間を彼女はここでこうしているらしい。
 ウェイターがカプチーノを持ってきた。
 ニトロは不自然に思われない程度の大きさで礼を言った。
 ウェイターは光栄だとばかりに顔を輝かせて優雅に頭を垂れ、また颯爽と去っていく。
 カプチーノにはラテアートが施されていた。見事な四葉のクローバーだ。ニトロは携帯のカメラで写真を撮った。画面に居残る芍薬のデフォルメ肖像シェイプがウィンクすると同時にシャッター音が響く。――だが、シンサーは微動だにしない。
 ニトロはカプチーノに砂糖を入れ、スプーンでよくかき混ぜながら思った。
 やはり、礼儀として挨拶はしておくべきだろう。石化を解くかどうかは二の次だ。
 ニトロはシンサーに声をかけようとして、ふいに彼女のつぶやきが止まっていることに気づいた。彼女の両目も閉じられている。やおら彼女の眼がカッと見開かれた。そのあまりの勢いにニトロはビクッと身を引いた。彼女の唇は再び小刻みに開閉を始める。ほんのわずかな声量が彼女を激しく意識したニトロの耳に届いてくる。声が小さい上に驚くべき早口であるが、何とか聞き取ることができた。
「みなさんこんばんはーっ崖っぷち清純派アイドル・メルミ・シンサー、略して伸ばしてメールーシーっだとぼんやりちゃん☆なのでメルシーでッす」
 確か“メルシー”はどこかの言葉で“ありがとう”だったはず、とニトロは思う。
「今日はメルシー、なんと、ホルリマン・ホテルにやってきたッす。メルシーッ!」
 メルシーッ! とそこだけトーンが1mmほど上がったのは、おそらくそれがキャラ的な口癖か決め文句であるのだろう。
「すごいッしょう? すごいッす。それよりすごいッすのが、なんと、今日、メルシーはあの方々に突撃しちゃンッす。あの方々って? 誰だと思ッす? みなさん驚きメルシーッすよ、この扉の向こうにいらっしゃいます、メルシーどっきどっきで死んじゃいソッす、メルシーが死んじゃう前に早速いっちゃいましょう――ガチャ――ティディア様、ニトロ様でぇッす!」
 そこで彼女の言葉が止まる。
「……いいえ。やはり最初は挨拶しないといけませんね、礼儀ですもの」
 彼女は目を閉じ、そうつぶやいた。
(――なるほど)
 ニトロはメルシーに声をかけるのを止め、カプチーノを口に含んだ。ほろ苦さと、クリーミーなミルクの木目細やかな泡の口当たりと、砂糖の甘さが喉を落ちる。とても美味しい。
予習シミュレーションの真っ最中か)
 メルシーは再び目を開くと――ガチャ――と扉を開けたところから馬鹿丁寧な挨拶を加えてやり直し、また止まり、少し気軽な調子に落とした挨拶を加え、また止まり……おそらくさっきから何度も何パターンも試行錯誤していたのだろう様々な挨拶の文句をいくつか連続で口にした後、もう一度挨拶無しのパターンに戻ってきて、そこから先を続け始めた。
 ニトロは仕事に備える彼女の邪魔をすまいと、静かにカプチーノを飲んでいた。
 するとふいに『ニトロ・ポルカト』に声をかけてくる者があった。ニトロが振り向くと、そこには小学生くらいの女の子がいた。その背後には頭を深々と垂れる父親がいる。握手を求められ、ニトロは快く応じた。写真にも応じる。少女は歓声を上げ、これ以上は迷惑だと思ったらしい父親に強く促され、親子共々お礼を述べてからエレベーターホールへと向かっていった。
 その間にも、メルシーは不動であった。その耳は己の声の他に周囲のどんな音も聞こえていない。目は開かれていても視野には何も写っていまい。彼女が見聞きするのは彼女の思い描く未来だけだ。――だが、その未来は果たして実現できるだろうか? 彼女はたった一つの未来しか考えていないわけではない。挨拶のパターン同様、話題の道筋も無数に想定して予習を繰り返している。上流階級ポライトソサエティ的なものから庶民的なもの、形而学上的なものから下ネタまで。
(……バラエティは豊かだけど)
 カプチーノを啜りながら、ニトロは思う。
(でも、質問の内容は無難なものばかりだな)
 それだけではない。メルシーもティディアの『クレイジー』さを当然知っているだろう。それを盛り込んだシミュレーションも無論あるようだ。しかし甘い。ティディアはもっと性質が悪い。冒頭から黙り込み、15分間中にインタビューを充実させなくてはならない『崖っぷちアイドル』が慌てふためく様をにやにや――ラジオなのに!――見守ることも平気でする奴だ。なのに、そういった極端なパターンは意図的に排除されているように出てこない。
(……)
 それからニトロが思うのは、彼女のシミュレーション通りにいったとして、それは面白いものになるのだろうか? ということだった。例えば、先ほどの取材、ニトロは“経済がテーマ”というその取材に対して自分が必要かどうか疑問だったのだが、聞き手はまずこちらに質問をしてきて、その答えを膨らまして新たな質問を投げかけてきて、それはさながら雑談に花が咲くような調子で、その雑談は気がつけば『庶民ニトロ』の肌感覚から『為政者ティディア』への専門的な議論へと変化していた。もちろん自分は専門的な話にはついていけない。しかし聞き手は専門的な話も状況に応じてうまくまとめてこちらの応え得る質問を絶えず投げかけて、こちらの話に常に耳を傾けてきた、傾けようとしてきた。――それに比べると、メルシーのシミュレーションは、相手の話を聞くというよりも、相手を質問に合わせること、あるいは質問に返ってきた答えに次の質問をきちんと継ぐことを主体としているように思える。そうやって筋道を整えられたインタビューは確かに形としては綺麗に纏まるだろうが、それが『崖っぷちアイドル』をすくい上げるような個性を発揮できるかには正直疑問しかない。
 そして一方でまた、ニトロは思う。
(真面目なんだなあ……)
 メルシーことメルミ・シンサーは。そう、とても真面目なのだ。集中力も相当に凄い。アイドル業への情熱もきっと凄い。もちろん、真面目であることや情熱のあることが成功への約束手形ではないにしても、しかしそのような態度には自然と好感を引かれるものだ。
(……)
 ニトロはティディアが言っていたことを思い出した。――『この相手に関してはむしろ遊んでやった方がいいと思うわ』――その理由はすぐに解るとも言っていたが、あれはどういう意味だったろう。
 そこで関心を深めた彼は携帯に目をやった。マスターの表情を見て芍薬がうなずき、どうやら生出演を受けた際に既にまとめていたらしい『メルシー』の情報を画面に表示した。ニトロは早速目を通し、
「……」
 彼の顔は、複雑に曇った。
 芍薬のレポートによると、元々メルシーは三人ユニットにてデビューしたらしい。幸いすぐに注目された。が、いよいよブレイクという時に、人気の中心人物が致命的な不祥事を起こしてしまった。ユニットは解散。不祥事を起こした者だけでなく、もう一人の仲間も芸能界から離れた。
 一人残ったメルシーは、ユニットでの印象を完全に払拭するために高飛車なアイドルとして出直したそうだ。そのキャラ付けが失敗し、その失敗がまた次の失敗を呼び、以降、ダウナーキャラへの転換を試みたり、裁縫が得意という要素をつけてみたり、雑学に強くなってみたり等々紆余曲折を経て、最終的に『崖っぷち清純派アイドル』に至った。
 最近の活動履歴を見ると彼女は『清純派』を宣しながら常にパンチラ必至の服を着ていて、それは今日も例に漏れない。どうやら“清純派なのにこの格好”というギャップを狙ったものであるらしい。が、狙った効果が上がっているかは甚だ疑わしい。特徴あるしゃべり方は前のキャラの名残で――何か嬉しい手応えでもあったのだろう――されどそれを残してしまったために『清純派』はますます名ばかりとなる始末。唯一目立って『清純派』らしい点は下ネタに非常に弱い(ということは現在のシミュレーションはその面でかなり頑張っている)ところだが、残念ながら『気まぐれ』という追加要素が逃げ道を作ってしまってそれを機能不全に陥らせている。彼女はプロダクションに所属していて、ならばプロダクションからマネージャーを配されているはずだが、こうなると彼女もマネージャーも共々にどうしたらいいのか分からなくなっているとしか思えないし、事実そうなのだろう、とにかく『崖っぷち』なのだ、もう限界なのだ。
(童顔だけじゃ、武器にはならないか)
 メルミ・シンサーの芸歴は今年で10年になる。見た目には自分と同年代、あるいは少し年下に見える彼女がティディアよりも年上らしいことはニトロを驚かせた。しかし、それだけで戦えるなら、彼女は今ここにいるはずもない。
 ……10年……
 本当に区切りのいい年数だ。
 彼女の立場でラジオの箱番組を得たのは望外、いや、それこそ奇跡に等しいチャンスであろうから、この仕事へ期する思いもそれだけ強いことだろう。
「というわけで、今回はティディア様とニトロ様に突撃しましたッす。お二人とも素敵ッす。あんなにラブラブで、うらやまメルシー!」
「!?」
 崖っぷちアイドルの思わぬセリフにニトロはカプチーノを吹き出しそうになった。堪え切ったのは奇跡である。
「それでは皆さんまた来週の火曜日に♪ メルシーからラブをこめて、メルシーキーッス!」
 メルミ・シンサーは目を閉じた。
 ニトロは、カプチーノを飲み終わった。というより急いで飲み切った。時間だ。
「みなさんこんばんはーっ崖っぷち清純派アイドル・メルミ・シンサー、略して伸ばしてメールーシーっだとぼんやりちゃん☆なのでメルシーでッす」
 メルミ・シンサーが再び目を開き、また繰り返し始める。これまで唇と瞼以外に動かされたところはない。全身は緊張感に漲り、顔色は青白いままで、そこにはシミュレーションを何万回繰り返そうとも拭えないだろう不安が塗り込められている。
 ――と。
 その一字一句違わず繰り返された不安を見つけた時――
 そこに『恐ろしい王女』の傍にいることで嫌でも見覚えた内向的な色を見出した時。
 ニトロは、ティディアの言葉の意味を理解した。
 芍薬のレポートの中に、彼女への寸評として印象的なものがあった。『イレギュラーへの対応力が劣化の一途』――元はそうではなかったのに、最近の彼女は想定外の事態に脆くなっているという。それはおそらく、その不安、失敗への怯えのためだ。そのために彼女は萎縮して、以前にはあったはずの彼女の力を自ら削いでしまっている。思えばシミュレーションの内容が無難なものばかりなのも失敗しないためにと守りに入っているからだろう。
 それ自体は無理もないと、ニトロは思う。だが、とも思う。イベントやら慰問やら何やらと身勝手な王女に引きずり回されながら見てきた景色に、それで希望を得た人はいくらいただろう? 親友も、戦いの中で『居つく』ことは致命傷を招きやすいと教えてくれてはいなかっただろうか。
 適切な守勢はもちろん必要だし、守らずに死しては愚挙というにしても、守りを固めるために“無難”という楯の下で身を縮め続けていてはいつしか視界までもが縮んでいく。するとかえって防御も上手くできなくなり、しかも彼女は以前からの失敗の積み重ねに退路を断たれている。『崖っぷち』という袋小路。崖の下には闇、周りには血を流す不首尾の山、脳裡には固執にも似た次の失敗への予感。動けない。されど動かなくてはならない。そこでその状況を打破するために彼女が選んだのは距離を取ることでも攻めに出ることでもなく、打破するためにこそさらに守りに入ること。――悪手だ。その悪手は悪循環を加速させ、そしてその速度を彼女の情熱と真面目さが支えてしまっている。そう、彼女の長所であるはずのものが明らかに悪い方向に働いている。焦りもあるだろう、悔しさもあるだろう、しかしそういった感情もまた彼女の周囲から遊びをなくして、周囲に遊びのなくなった彼女は首を回して活路を見定めることも思い切った方向転換を試みることもできなくなってまた身をすくめてしまう。身をすくめては、さらに視界が狭くなる。失敗のデフレ・スパイラル。だが、いくらチープになろうとも失敗を贖うのは以前にも増してより難しくなっていく。
「今日はメルシー、なんと、ホルリマン・ホテルにやってきたッす。メルシーッ!」
 彼女は音声データを再生するように、トーンが1mm上がる箇所もまるきり同様に口にする。そうでなければ困るというように。
 ニトロはウェイターを呼んで、代金を支払った。
 崖っぷち清純派アイドルに色々思うことはあるにしても、自分にはアドバイスできることなどない。いや、そもそもアドバイスするなどおこがましい。
(それではメルシーさん、後ほどに)
 ただ胸中で声をかけ、目礼だけを残してラウンジを去る。
 ニトロはエレベーターホールに向かいつつ、メルシーに余計な感情移入をしないよう心に決めていた。現在の彼女にとってティディアは相性も最悪の相手だ。しかし、だからといって下手に彼女を慮れば逆に彼女の仕事の邪魔をしてしまう。そうなれば間違いなく良い結果がもたらされることはない。無論、自分のこの選択は彼女に荒療治を強いることになるかもしれない。だが、そうならなければ『メルシー』には今日死ぬか後日死ぬかの選択肢が残るだけとなろう。ティディアが生出演を決めた時点で、もっと言えば番組があいつに依頼をした時点で、どうしたって彼女は二つに一つなのだ。だから、こちらはいつも通りの『ティディア&ニトロ』として突撃インタビューに臨むことにしよう。
「それで貴女のお役に立てればこれ幸い」
 舞台口上のように小さくつぶやき、彼は老若男女から送られてくる眼差しの中を足早に横切っていった。

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