グッドナイトサマー・フェスティバル

(第二部『幕間話3』と『幕間話4』の間)

 アデムメデス中央大陸東部、君主の住まう王都ジスカルラは四季を通じて過ごしやすい。――が、それでも気象は酷な気まぐれを起こすことがあるもので、王都はこの年、実に半世紀ぶりに気温35度を記録した。
 慎ましやかに身内のみで祝われると言われているのに広く世の話題を集める末の王子の誕生日を翌日に控えた、八月の終わりであった。
 例年であれば既に秋が踏み込んで来ている頃合いに、半ば去りかけていた夏が急に踵を返して真っ赤な顔で戻ってきたのである。
 昨日の雨をもたらした前線がどうとか、いつも王都を快適に保つ西風が鈍くてどうとか、王座洋スロウンに発達した高気圧がどうとか、テレビ各局の気象予報士達は昨夜からそれぞれの話術を駆使して視聴者達の興味を引こうとしているが、実際、ニトロにはそんなことはどうでもよかった。前線とか風とか高気圧とか、そんなことよりも重要なことはただひたすらに、この実感――
(暑いなぁ)
 息を止めた西空に傾いてなお太陽は張り切って、夕映え近づくこの時刻が普段よりも明るく感じるのは気のせいだろうか。風もなく雲も動かぬ空の下にはねっとりとした湿気がじっと居座っている。熱吸収も輻射熱も少ない素材が使われているはずの路面からも、くぐもった熱気が吹き上げてくるような気がしてならない。
(風が出てくれるといいんだけど)
 目深に被ったスポーツキャップの陰からそろそろと空を見上げると、遠くにそびえる入道雲は徐々に縁取りを朱に染め出しながら、まさに天に浮かぶ雪山の如き威容を誇る。ニトロの足元に濃い影を落とす街路樹の葉は、彼の進む方向とは逆に走り去った大型トラックの起こした風によってのみ怠惰に揺れる。しかしその風も、風というよりは熱気をかき混ぜただけの有様で、それをまともに食らった道行く人はむしろ不快感を掻き立てられて眉間に陰を刻んだ。
 ニトロはうなだれて道を行く。その足は棒のようだった。彼の前を進みながら時折呻き声を上げる中太りのサラリーマンの、シャツだけでなくインナーまで汗まみれの背中を追って、彼は足をぎこちなく動かしながらひたすら進む。サラリーマンの前にはうんざりとした顔の子どもを抱きかかえて重い足を進める母親がいる。その前には恋人と手をつなぎながらも言葉をなくした男女が黙々とまた前方の人間に続き、ニトロの後方にも幾人もの人々が、さながら苦役の列をなして歩いている。この中で、どうやらサラリーマンだけが行方を違えているらしい。その他はニトロも含めて全員が同じ目的地を目指していた。
(……ここでこんなんじゃあ、先が思いやられるな)
 一歩ごとに顔の一部を引き攣らせながらニトロは小さく息をつく。
 足を動かす度に大腿四頭筋が、ヒラメ筋が、痛む。
 腕を振る度に上腕二頭筋が、三頭筋が、大胸筋までが痛む。
 体を捻ろうものならもう色んなところが痛んで錆びついたバネのようにギシリと固まってしまう。
 つまり、ニトロは全身これ筋肉痛であった。
 これは全身、くまなく強度に、しかも上限一杯に痛めつけられての賜り物であった。
 ニトロは一歩一歩を踏みしめる。柔軟性を失った肉が各関節の邪魔をして、足を踏み出すごとに脚と胴体を貫く心棒がつっかえたかのように体がカクカクと揺らぐ。タオル地のハンカチをデニムの尻ポケットから取り出して汗を拭く、それだけでもなかなかに苦行である。
 彼は道の脇に退き、足を止めた。
 小さな娘の手を引いた父親が横を通り過ぎていく。次に現れた女性の髪の色には少々ぎょっとさせられたが、ニトロは、内心吐息をつきながら、ポケットから携帯電話モバイルをぎこちない動きで取り出した。
「……」
 王家広報のWebサイトにアクセスし、何度も確かめたことを今一度確認して、今度は胸を小さく動かして息をつく。
 本日の第一王位継承者のスケジュールは、やはり朝から晩までぎっちりだ。急遽変更されたこともなく、無論、変更された場合には即座に連絡してくる芍薬からのコールに気がつかずにいたなんてこともない。
 ――この筋肉痛は、そのためにこそ作られたのだ。
 これまでもジムのトレーニングにおいて筋肉痛になったことは度々あるし、筋力を上げるためには必ずしも筋肉痛になることが必要ではないにしても、むしろ軽度の筋肉痛がないと何となく寂しくなる程度には付き合いを深めている。
 しかし、今回は違う。これまでのものとは話も内容も全く違う。
 昨日は一日かけてじっくりと、じっくりと追い込まれた。
 誰に?
 ハラキリにである。
 彼の指示で、昨日はトレーニングメニューを変更して、ニトロの肉体は許容限界一杯にいじめ抜かれたのだ。
――「ニトロ君がトレーニングを始めてから三ヶ月。明日は何の用事もないことですから、ここらでどこまでできるようになったかの確認も兼ねてドンとイってみましょう」
 と、そう言った親友の背後には、勤勉なトレーニーを思う存分可愛がりたいトレーナー達の明るすぎる笑顔が並んでいた。
 地獄だった。
 そして、今朝起きた時、ニトロは体のあまりの重さに驚き、筋肉痛の酷さに通り過ぎたはずの地獄が形を変えて戻ってきたことを文字通り痛感したものだ。トレーニングの後にはもちろん十分なケアをしておいたし、朝には筋肉痛を和らげる薬を飲んでもまだこれだから、もしそれらの助けを借りていなかったらと思うとゾッとしてしまう。今日ほどニトロが進歩した現代スポーツ科学の恩恵をこれほど実感し感謝したことはなかった。
(――それにしても)
 携帯をポケットにしまい――腕の痛みで一瞬おかしなポーズで固まってしまったのをすれ違った赤毛の女性に横目で注目されてしまった。それで人目を避けるように道の端を歩き出しながら、ニトロは思った。
(本当、ハラキリは付き合いが良くなったな)
 そう思うようになったのは、つい最近のこと。
 まず、ハラキリは、トレーニングに関しての面倒見が格段に良くなった。あの『映画』のPR活動のために銀河へ旅立つ前は放任主義であり、ふいに抜き打ちチェックに来ることはあっても日を空けずに連続しては様子を見に来なかったし、調子を聞こうともしなかったし、彼自身が親身なトレーナーになることもなかった。なのに、帰星後はもう何回もジムに付き合ってくれている。昨日のハードトレーニングも三日連続一緒に汗を流して後のことだった。
 トレーニングだけではない。
 ハラキリは、つまらない“ダベり”にも付き合ってくれるようになった。もちろん以前にも世間話や無駄話はしていたし、その頃から比べて心理的な距離感が縮まったという気がするわけでもないのだが、何と言えば良いのだろう……そう、質が変わった気がする。距離自体は全く変わらずとも、今はそれが『友達』として自然な距離感となった気がするのだ。
 そこで昨日、ニトロは言ってみた。
――「ノデラの『グッドナイトサマー・フェスティバル』に行かないか? ハラキリの周りも落ち着いたことだし」
 ハラキリ・ジジはこの夏、PR活動しごとの帰路で巻き込まれた神技の民ドワーフ呪物ナイトメアに関わる事件によって一時非常に耳目を集める人間となっていた。特に帰星直後の身辺は非常に騒がしかったものだが、しかし、その事件は非常な重大事であったにも関わらず、アデムメデス人『ハラキリ・ジジ』の果たした役割はあくまでその事件を解決する助手に過ぎなかったために、やがて主役であるセスカニアン人クルー(それも大貴族の子息だという)の派手な武勇伝が星の向こうから伝えられてくる度に彼の名は次第に陰に隠れてゆき、加えて止むことのない星内星外のスキャンダルやゴシップの洪水が『ハラキリ・ジジ』というニュースバリューをようやく泥炭の底に沈めていった。
 とはいえ、そういう事情を背景にしてはいても、ニトロの誘いは、もちろん夏の間気楽に外出することの難しかった友人への同情などではなかった。それは純粋に、他のクラスメートへかける誘いと同じ類のものだった。――少なくともニトロはそう思っていた。だから正直に言うと、ニトロはハラキリの答えに大した期待を持っていなかったのである。厄介なクレイジー・プリンセスやマスメディアを相手にしても気兼ねなく迷惑をかけられる唯一の友人はハラキリしかいないから、という理由を匂わせれば親友は仕方ないとばかりに首肯してくれることが解っていたからこそ……
 しかし、ハラキリは、さらりとうなずいた。
――「いいですよ。あそこには『ミートパーティー』がありますし、たんぱく質を摂取するのもトレーニングの内ですから」
――「いや、そういう意味じゃなくてね?」
 ハラキリの快諾に驚きながらも言ったニトロに、ハラキリは片眉を跳ね上げて、その仕草で冗談交じりに話をまとめてしまった。その後、ニトロは妙に笑ってしまって、それが疲れすぎて力の入らぬ体に本当に心地良く染み渡ったものだ。
 待ち合わせの時間は18:00頃とだけ決めておいた。『ハラキリ・ジジ』は舞台袖に身を潜めても『ニトロ・ポルカト』は表舞台で耳目を集め続けているから、不測の事態も考えて今回は現地集合とした。
 そよと風が吹いた。
 ニトロは顔を上げた。
 目前に迫ったノデラ公園に茂る潅木がさわと揺らいだ。
 たったそれだけのことで、ニトロと行方を共にする苦役の列の雰囲気が和らいだ。
 公園からは名残のセミの声と唱和して、賑やかな音が聞こえてくる。
 高校生であろう男女が数組――ひょっとしたら同じ学校の者かもしれない――息を吹き返したようにはしゃぎながら、うつむいたニトロの横を通り過ぎていく。目的地も近くなり、歩を早める人々から遅れ出したニトロは毛先を金に染めた髪から首に落ちようとする汗を拭き、公園口に近づいたところでまた足を止めた。
(早く着き過ぎちゃったな)
 この体の痛みと相談して家を出てきたのだが、先ほど携帯を見た時点で待ち合わせまで30分も余裕があった。
「……」
 まあ、いい。
 先に会場に行って様子を見ておこう。露店に目星をつけておいて、広場には噴水があるからそこで涼んで待つのもいいだろう。即席のステージではショーも行われているし、それでなくても人の雑踏を眺めていれば飽きることはない。
 ニトロは携帯を取り出し、芍薬に公園に到着したことをメールしてから、鶏頭の花に飾られた入り口から『グッドナイトサマー・フェスティバル』へ向かって歩を進めていった。

 ノデラ公園は、ニトロとハラキリの通う高校から地下鉄で三駅離れた場所にある。規模としてはやや中規模の公園で、大昔はここにノッンロディラという名を与えられた伯爵の大邸宅があった。その貴族が世継ぎもなく、養子も取らずに途絶えた時、どういう経緯があったのかは不明だが敷地の一部が公園として市民に提供されることになったのである。噂によると最後の当主が庭園の噴水を偏愛し、死後もこの噴水だけは形を変えずに遺したいと執念を貫いたらしい。その噂がまた噂を呼んで、実はその噴水には何らかの秘密があると当時の人に語られたものだ――よくあることで主に財宝の秘密が隠されている、と。
 確かに、当主の死後に噴水の地下に秘密の室があることが判明した。とはいえそこはまた地下の池、ミニチュア鍾乳洞とでも言うべきものがあるだけだったにも関わらず、それがまた噂に妙な信憑性を与えたことで、ノデラ公園噴水広場の財宝伝説は未だに人の口に語られている。ノッンロディラの名が発音の難しさから『ノデラ』と変わってしまったように、否定されて久しい伝説も、噴水を支える彫像達のどこかに地図が埋め込まれているとか、その襤衣らんいを纏って踊り回る男女のポーズそのものにヒントがあるのだとか次々に形を変えながら。もう一つの伝説――これもよくあることだが、噴水を愛するあまりに今も当主が時折亡霊となって人気のない夜中に池の辺に立っているとか、財宝を守るために噴水に人が近寄らぬよう脅かすために現れるのだとか、そういう話と一緒になって。
 ニトロは、その噴水の前に立っていた。
 池の中央で、今にも本当に踊り出しそうな石造りの男女の熱気に押し上げられるように水が絶え間なく吹き上がり、絶え間なく弧を描いて落ちている。飛沫は沈みかけた太陽の光を受けてきらめいて、それを精巧な彫像達の立つ円盆の縁からも溢れ出す水の幕が受け止めて、すると水の粒などなかったかのように痕跡は即座に消え去りながら、しかし絶え間なくまた空にきらめきが生まれ、またしかし瞬時に消え去り、そうして巡り続ける水を眺めているとつい時間を忘れかけてしまう。
 ところが現在はフェスティバルの真っ最中である。
 噴水の西方には屋根付きのステージが設けられ、そこで素人趣味のカルテットが陽気な音楽を奏でている。露店は噴水を中心とした同心円状の四本のラインに沿って大広場一杯に並んでいて、飲食物を提供する店や、フェスティバルならではの玩具屋、それから古着や手作り石鹸、はたまた場所柄に合わせてお化けや怪物、魔法使いの仮装セットといったホビーグッズを扱うフリーマーケットの店がそれぞれの売り場で客を引き寄せようと魅力を振りまいている。
 そこで最も盛り上がっているのが、北方の一画だった。
 そこには共通のテーマを持つ店が軒を連ねている。
 そのテーマとは、肉を扱っていること。
 通称『ミートパーティー』と呼ばれるその一画では肉こそ正義であり、夏と夏の疲れに別れを告げるために肉を食い、秋の収穫物と秋から冬にかけての寒さを迎えるために肉を食い、夏痩せしたのなら太るために肉を食い、夏太りしたのなら痩せるために肉を食う。酒を勧める者は罪人である、酒を入れる隙間があるなら肉を詰め込め。野菜を勧める者は悪人である、草の汁より肉の汁で喉を潤せ! 何、ノデラの財宝が欲しい? ならば肉を食え。何、ノデラの亡霊が怖い? ならば肉を食え!
 財宝伝説も亡霊談も水の循環への忘我も何もかもが、ここにいる限り肉の焼ける強烈な匂いによって覚醒させられる。
讃えよ、肉をウィーモ・ロ・ミーモ!」
 どこかで合唱が起こった。このフェスティバルを始めた者の出身地の古語での、このフェスタの合言葉のようなものだった。
(肉、凄いな)
 ニトロは思わず苦笑していた。
 フェスティバルの人出は、最盛にはまだまだ届かない。やはり夕闇迫り、噴水の涼気を傍にしても汗の止まらぬこの暑さが集客を妨げているのだ。それなのに『ミートパーティー』の周辺だけは既に出来上がっている。反面、その分他の場所の寂しさが弥増いやましている。ステージ付近と噴水周りの広場はともかく、北と東・南の格差にはすさまじいものがあった。
 ニトロは人の少ない南側で、噴水を背にし、水を湛える池の縁にそろそろと腰を下ろした。露店で買ってきたゴノバというハーブ飲料の瓶に口をつける。冷たくて、ほのりとした甘みと苦みが喉を弾けながら滑り落ちていき、弾けた泡に閉じ込められていた数種のボタニカルの香りが鼻腔をくすぐって、食欲増進の薬効を持つハーブのエキスが炭酸と共に胃を刺激する。
(ハラキリの奴、まさか食前酒を買ってきたりしないだろうな)
 彼なら堂々とやりかねないと思いながら、友を待つ。
「……」
 ――思えばこの夏休み、こうして友達と夏らしいイベントを純粋に楽しむのは、今日だけだ。
 ティディアとのあれこれでクラスメートは遠慮して誘いをかけてこず、こちらもあのバカとのあれこれでクラスメートを誘うには気が引けて、お陰でトレーニング以外では暇を持て余すばかり。一度は『グループデート』の誘いもあったが、それもウェジィで奴に鉢合わせてぽしゃってしまった。それからハラキリが帰ってきて、ハラキリが持って返ってきた騒動は一方では『映画』の良い宣伝にもなってしまって、そのせいであれは未だに上映ランキングの上位を走って大ヒット継続中。そうこうしている内に、おそらく、己の運命を決める日が間近となってきた。来月は――そう、来月こそは……
 いや。
 今はそれを考えまい。
 今夜はこのお祭りを存分に楽しもう。
「……」
 ニトロの前を、小さな息子に手を引かれて若い両親が笑いながら過ぎていく。子はフラッペを食べたがっていた。親の手にはそれぞれ肉の連なる串がある。前を見ていない息子が初老の男性にぶつかりそうになって、父親が謝り、母親が叱りつける。
 目の先にある露店ではフレッシュフルーツや野菜を使ったジュース屋が列を作っていた。『ミートパーティー』内では肉こそ正義でも、そこから一歩出れば正義は変わる。ジュース屋の掲げる板晶画面ボードスクリーンには健康を謳ったメニューが列記され、肉食後の胃腸に優しい、脂肪の吸収を和らげる――といった文句が特に強調されていた。これを飲んだからまた食べても太らないよね、と言い合いながら、女性のグループが敢然と肉煙の中へ戻っていく。
「……」
 ゴノバを飲み終えたニトロは膝に手を当て、うっかり倒れて池に落ちないよう慎重に立ち上がった。近場のダストボックスに瓶を捨てる。楽の音が止んだ。ステージへ振り返ると、秋めいた美しい夕焼けを背景に、今まで演奏していたカルテットが汗だくの笑顔で舞台袖へ下がっていっていた。
 まだ日の光があるとはいえ周囲は次第に暗くなりつつあり、露店の明かりははや煌々と輝き、ステージのスポットライトも三分の一が灯っている。完全に暗くなれば噴水の底の照明にも火が点けられて、亡き伯爵の形見を照らし上げることだろう。
 ニトロは携帯を取り出し、ステージにカメラを向けてアプリケーションを動かした。すると画面に演目情報が表示される。次はミシェル・ビップという女性による一人芝居、怪談物を行うようだ。この場に最適だと思うし、この暑さにもちょうどいい題目だろう。それにハラキリが来るまでの暇潰しにもちょうど良さそうだ、と、ニトロが携帯から目を外そうとした――その時、
「?」
 突然、画面の上部にアイコンが現れた。それはあらゆる通信が不可となった事を知らせる印だった。
「!?」
 それとほぼ同時に、携帯の向こうに、何かの影が落ちてきた。
 パンフォーカスのカメラのピントが合わぬほど近く、目深にスポーツキャップを被っていたニトロにとっては死角から現れた、否、この場にいる全ての者が注意を向けるはずもない場所から落ちてきた、その大きな影――
「!!?」
 それが何かをニトロが悟った瞬間、悟ったが故に彼は酷い混乱に陥った。
 その混乱は一瞬のことであったが、致命的だった。
 体も動かない。
 元よりの筋肉痛が動きを制限するところに、思考の停止がそのまま彼の神経を麻痺させ、彼は彼の友に厳に戒められている『その場での居付き』を犯してしまっていた。
 だが、それも無理はないだろう。
 なにしろここは公園の広場である。天井はない。それなのに、その女は成層圏まで何も遮るもののない上空から逆さまに降りてきて、しかも彼の前にぴたりと制止してみせたのだから!
 思わず手が滑って携帯を落としたニトロの肉眼に、よりはっきりとそれの姿が映る。
 それは黒紫の髪を地へ垂らし、息を飲むほど妖しい美貌を彫像のように固めて、ただじっとニトロを見つめていた。キャップのツバがちょうど女の首から上を隠して、彼の目にはほんの鼻先に逆さまの女の生首が浮いているように見える。
 周囲には大きなざわめきが起こっていた。
 ニトロは、それが初めは歓声なのだと誤解した。ふいに、この場に、招かれざるも歓迎すべき貴婦人が現れたことに皆が声を上げたのだと。
 しかし、それは歓声ではなかった。
 悲鳴だった。
 ニトロの視界の隅に、何か地を這う足の多いモノの影が見えた。それらは地下から次から次へと湧き出してきているらしい。その一匹が足元にもいたことに気がつき、その拍子に我知らずけ反っていた彼はバランスを崩して一歩、二歩と後退した。すると視界が大きく開け、彼は眼前にぶら下がるその異形の全てを知った。
 その女は、上半身だけが人間だった。下半身は蜘蛛であり、身の毛のよだつ毛むくじゃらの八本の足が胴に畳まれ、はちきれんばかりに膨らんだ黒い腹の先からは嫌に真っ白な糸が天へと伸びている。女の上半身はその美しい乳房を揉み潰す手にも似た毛皮の他に一糸纏わず、扇情的な陰影を生む腹のラインはヘソのくぼみで一段と濃くなり、もう一度白く映えて下腹部はそのまま蜘蛛の胴に飲み込まれている。
 周囲の悲鳴が一段と音を増す。もはや助けを請う声もある。
 はあ、と、女が息を漏らした。
 それまで腰に当てられていた両腕を頭の下にだらりと垂らし、艶かしく身をよじり、そして眼前の少年へ妖しく微笑む。
「ティ――」
 ティディア、と、叫ぼうとしたニトロの口は、次の瞬間、思わぬ光景に息を飲んでしまった。それが不本意にも見知り過ぎ、また見間違えるはずもない顔だったからこそ、彼は激しく意表を突かれてしまった。その女の明るい額に二つ、その両のコメカミと頬にも一対ずつ、計六つの赤い目が、突然ぎょろりと穴を穿ったのである。確固とした見覚えのある容貌に刻まれたが故の強烈な異形!――蜘蛛の複眼。それをニトロが理解するより先に本能的な恐怖が彼を支配し、背筋を凍りつかせる怖気が喉まで湧き上がっていた激情をも制し、それがまた彼の反応を遅らせてしまった。
 目の端に、群をなす小蜘蛛――と言ってもそれは小型犬ほどある――に襲われた女性が足を糸で絡め取られているのが見える。そして眼前では巨大な蜘蛛女の八本の足が獲物を掴み取るために広げられていく様が、スローモーションのように目に映る。
「――ティディア!」
 ようやく、ニトロは叫んだ。
 スポーツキャップが吹き飛ばされる。
 直後、彼は闇に包まれた。

 ノデラ公園噴水広場のグッドナイトサマー・フェスティバル会場は、戦慄と、恐怖と、そして怖気を掻き立てる嫌悪と混乱に襲われた後、やがて恐ろしいほどの静寂に覆われた。
 唐突に広場の明かりが全て消え、いつの間にか噴水も止まっている。
 人々を監視するようにそこかしこに蠢く小蜘蛛の尖った足先が広場の石畳をコツコツと掻く音と、火にかけられたままの肉が焼ける音とが、やけに調和した不協和音で黙する者達の耳を擦っている。それが静寂を際立たせている。
 噴水と露店の間の広場には蜘蛛の糸が撒き散らされ、その一面は先の乱れた筆を何度も走らせたように粗く白く染められていた。所々に糸が集中的に吹き付けられた場所があり、そこには餌食がいる。大人も子どもも無差別に捕らえられ、重ねられた糸が日没に向けて急速に暗みを増していく中で異様に輝いて見える。
 屋根のある店々の中にまでは幸い被害が及んでいないが、そこにいる自由であるはずの人々も、足元で動き回る小蜘蛛の機嫌を損ねぬように動けなくなっていた。
 まるで魔法だった。
 誰もが、息を詰めるようにして、一点を見つめていた。
 それとも誰もが息を殺してどこか安全地帯へ逃れようと目だけを走らせていた。
 それなのに、その目も結局は一点に集められる。
 それどころか、やがては自由であるはずの人々が自ら安全地帯を捨てて危険に満ちた蜘蛛の糸の間近に集まり始める。
 怖いもの見たさで命綱も着けず崖の下を覗く人のように、あるいは死に満ちた凄惨な事故現場に引き寄せられるように、どうしても湧き上がる好奇心に突き動かされるように、それとも不可視の蜘蛛の糸に引き寄せられるように。いくらかの人間は反射的にか、感覚の欠如のためか、早速カメラを構えてさえある。
 衆人環視の中、ふいに空から降りてきた妖女は、その名を叫んだ少年に瞬く間に糸を巻きつけると、今はさながら繭のごとき哀れな虜囚を胸に抱え、小蜘蛛がステージに張り終えた巨大な巣を音もなく這い登った。それから宝物を扱うように、その繭を巣の中心にそっと貼り付ける。
 繭の中からはくぐもった声が漏れ出していた。繭に、巣に、妖女に完全に囚われてからも、虜囚は脱出を試み続けて1〜2センチの幅でギッコンバッタンと全身をくねらせている。エビフライの尾のように外へ突き出すダークブラウンのスニーカーもぱたぱたと激しく動かしているのだが、されど悲しいことにそれらが何かをなせることは一つもない。繭の内部から響く声は、時に電撃を受けたカエルのような悲鳴に変じることがあった。それはまるで繭の内側に仕込まれた不定期に飛び出す針にふいに刺されて悶えているかのようだった。
 その様子が、妖女の頬に怖気立つほど魅惑的な笑みを刻んでいた。
 そしてその笑みが、おぞましい姿をしてなお蠱惑的なその美しさが――そこに存在するだけで、嗚呼、理不尽なことにも人心を惹きつけてやまない。
 すると人々の注目を集める半人半蜘蛛はんちしゅの女は、さらに関心を引き込むようにぐっと身をもたげた。宙に渡された巣の上から己を見上げる者らを二つの眼で睥睨へいげいし、
「御機嫌よう、明るい世界に生きる暗愚ども」
 優雅ながらも凄みのある声が、響いた。
「この広場は妾が支配した。
 お前達が頼みにする王子も、これ、このように妾の手の内だ。
 そして――」
 す、す、と、ステージの支柱に渡された八角形の網を上方へと、金属の光沢を持つ鋭い毛に覆われた八本の足をそれぞれが独立して生きているかのように動かしながら、
「もはや勇者も魔法使いもない。
 彼らは去った。
 道理の解らぬ者の悪罵に殺され、消え去った」
 巣の頂点でホホホと笑い、妖女はしなやかに両腕を広げて胸を誇る。薄暮の光をぬめらせる湿度の中に鎖骨の隆起が生々しく艶めく。
「宣託する、お前達になせることは何もない。
 宣告する、お前達はただ妾と妾の小蜘蛛どもの腹を満たせばよい。
 宣言する、さすれば妾は、お前達に蕩けるような永遠の悦楽を与えてやろう」
 その時だった。
 蜘蛛の糸によって地に縛り付けられた女性が――それは囚われる直前にニトロが見た女性だった――ふいに我に返ったように鋭く叫んだ。
「嫌!」
 と、足元に張り付く蜘蛛への嫌悪を露骨に表したその一声は、妖女の他は沈黙する者達の中にあって、異様なほどに鋭く響き渡った。
「嫌?」
 つ、つ、と巣をくだり、妖女が言う。
 女性は、はたと目を上げた。その顔がざっと青褪める。
 既に、大人達は理解していた。
 これは『クレイジー・プリンセス』の戯れなのだと。
 それも相当に性質の悪い戯れなのだと!
 ならば、この事態を治めてくれるはずの頼みの綱はこの場にいれども、そう、既に無力化されていることをも、年長者達は皆、無論その女性も、骨身に沁みるほど理解しないわけにはいかなかった。
 すると、その女性の絶望が契機となったのか、それまで急激な場の変化に理解が及ばず呆然としていた子ども達がついにすすり泣きを始めた。中には大声で泣き出した者もいる。その中で、悠然と蜘蛛の腹をゆすりながら妖女は問う。
「嫌?」
 繰り返された一言は静かで、穏やかであった。
 しかし、だからこそ恐ろしい。
 しかし、恐ろしいのに、何故だろうか、やがて子ども達が泣き止んでいった。
 それは恐ろしさのあまりのためか? それとも大人達が恐怖の中にあってなお彼女からどうしても感じてしまう魅力を、子供心にも、いや子供心にこそ敏感に感じ取ってのためであろうか。
 その魔力。
 その重力。
 ホホホと、妖女は笑った。
 女性の頬が引き攣れて、彼女もまた笑顔となった。
「安心いたせ。
 すぐに嫌と言えなくなる。
 すぐに、お前自ら求めるようになる!」
 その言葉と共に、それまで閉じられていた六つの赤い複眼が彼女の顔にぎょろりと見開かれた。
「ひ!」
 獲物とされた女性が短い悲鳴を上げる。
「助けを求めるのなら求めるが良い」
 促された女性は必死に左右を見渡す。しかし誰も動かない、動けない。女性の目の下に絶望が濃い影を落とす。
「猛き勇者はもはや生まれず。
 魔法を継ぐ者、途絶えて消えた」
 歌う妖女の指の動きに合わせて女性の胸に一匹の小蜘蛛が飛び乗った。小蜘蛛は音を立てて大きな顎を開き、金切り声を上げる女性の首に噛みついた。
 広場が、震えた。
 悲鳴とも抗議ともつかぬ喚声の中、首を噛まれた女性がびくりと痙攣し、そして――笑い出した。初めは忍び笑いを漏らすように、やがて、全身を震わせながらゲラゲラと大声を上げて笑い出した。それは蜘蛛への生理的嫌悪とは別に、人に怖気を誘うものだった。喚声が止み、変わって子ども達の泣き声が戻り、それにも増して女性の哄笑が広場を乱す。巣に囚われた繭が激しく悶える。
「ああ!」
 女性は恍惚として、時折嘆声を上げながら笑い続けた。半ば白目を向いて頭を前後に揺らし、小蜘蛛によって足に絡んだ糸を切られて自由となると、激しい快感に身悶えながら踊り狂う。開け放たれた口からはよだれが垂れ、短いスカートに構わず大股を開き、完全に羞恥をなくし、突然倒れたかと思うと近くにいた蜘蛛を掻き抱いてその不気味な顎に口を寄せて、そこから垂れる粘液を甘露のごとく飲み下す。その返礼を求めた蜘蛛にむしゃぶりつかれると嬉しそうに笑い声を高め、そこへ複数の蜘蛛が加わり四肢を噛まれて甘く絶叫する。
 異様で、異常な光景に気を飲まれて再び周囲が沈黙する中、妖女は一対の主眼と三対の複眼を喜悦に歪め、そうして次の獲物を探して首を左右に彷徨わせていた。「次は誰かな」との呟きに震える獲物達を、舌なめずりして選んでいた。
「やはり次は男にしようか」
 妖女の視線の先には、露店の下から広場の中に踏み込んできた青年がいた。彼は何やら歓声を上げて広場に踏み込むなり蜘蛛の糸の粘着力に足を捕られてつんのめり、膝から倒れて四つん這いとなる。が、彼はすぐに力任せに立ち上がり、粘つく糸の上を必死に歩きながら期待に輝く瞳を妖女の尊顔へと向けた。その意図を明確に悟った女は、しかし嘲るように目を他へやった。蜘蛛に噛まれやすいようシャツを脱ぎ捨てていた希望者は大きな失望を得て足を止めたが、一方で、彼女の嘲りが己一人に向けられたものだということに頬を赤らめてもいた。
 その青年の傍らでは、膝を突いた女性と、その女性に庇われるように肩を抱かれた幼い女の子が蜘蛛の糸に囚われている。女児はひきつけを起こしそうに顔を凍らせ、足元をかさかさと這い回る小蜘蛛を目で追っている。その小さな肩を抱く母は、何か懸命に娘に囁きかけていた。
「――幼子こそ滋味にあふるか」
 と、日に焼けた肌を晒す青年から目を外した妖女が、その母娘に目を止めて白い歯を見せた。常ならず尖った犬歯が閃く。絶望的に頬を引き攣らせた母親は化け物へ慈悲を求める眼を向ける。だが、それが嗜虐心をくすぐるのだ。
「やはり、そうしてやろう」
 妖女が言う。
 己に迫る危機を知って声もない娘の後ろで母親が何事かを叫んだ――その時、
「一体何ヲシテイル!」
 助けを請う母の声に勝る怒声が、立ち竦む人々と居並ぶ露店の隙を貫き、風のない冷え切った猛暑の中に颶風ぐふうを吹き込んだ。
「主様ハ――主様!?」
 風を纏って現れた、白いツナギに似た服を着た女性型のそのアンドロイドは、ステージにかかる蜘蛛の巣の中央でぐねぐねとよじれる繭を目視するや、瞬間、その機構に許される限界にまなじりを引き上げた。
「今スグニ主様ヲ解放シロ! バカ姫!」
 突如として舞台に登場したアンドロイドはその人へ罵声を浴びせただけでなく、広場に撒かれた粘着物を物ともせずに小蜘蛛を蹴散らしながらどすどすと音を立てて進む。その様に周囲の者達は瞠目し、蜘蛛の巣に陣を取る蜘蛛女は六つの複眼をぎょろつかせる。そして二つの主眼を弓なりに緩めて妖女は言った。
「流石に天は仕事が速い。
 よもや戦乙女を送り込むとは思わなんだ」
「何?」
 思わぬ――それも鷹揚としたセリフに、戦乙女は歩を止めぬままに眉をひそめる。
 妖女は、いやらしく目を細め、
「しかし、お前では役に立たぬ。
 あるいは天も耄碌したものか?」
「役ニ立タナイカドウカ――」
 相手の意図はともかく、逆鱗に触れられた戦乙女が凄まじい形相を作り――しかしそこで動きを止めた。
 戦乙女と蜘蛛の巣の間に、割り込んできた影があった。
 それは五人の子どもであった。
 彼ら彼女らはいずれも小蜘蛛を背負い、焦点の合わぬ目を宙にさまよわせている。
 芍薬はすぐに事を理解し、人工臼歯を激しく軋らせた。
 子ども達はふいに奇声を上げると芍薬に向かって駆け出した。蜘蛛の仲間となったためであろうか、そこら中に敷き詰められた粘着性の糸に足を捕られることもなく、機械人形へ向かって躊躇なく襲いかかっていく。
「ッ!」
 芍薬は、惑った。己の操るアンドロイドは公園近くのレンタロイド屋で手に入れたもので、馬力は人間より上でも特別な武器はなく、それ以前に戦闘用でも警備用でもない。何かしらの異常があったことに気づいて駆け付けてきたのはいいものの、公園内には通信障害が発生し、備え付けの監視システムも全て死んでいる、そのため情報を得られず、現時点ではマスターが魔物に囚われていることと、魔物に扮したバカ女がまた人に迷惑をかけていること以外の状況は掴めていない。この状態で、しかも相手が子どもとなれば乱暴な手段は使えない。子ども達はその動きから何の強化も受けていない生身と知れるからなおさらに。せめてマスターの意向が分かれば対処のしようもあるが、そのマスターは糸に巻き込まれてくねくねと身をよじるばかり。となれば、
「エエイ――ッ!」
 芍薬は、後退した。屈辱を感じながら、伸びてくる子どもの手から逃れ、囚われのマスターから遠ざかった。その間にも周囲に目を配って『彼』を探す。どうやら何らかの意図を持って沈黙を守っているようだが、ここにいることは解っているのだ。『彼』と接触さえすれば――例えハラキリ・ジジが今回は敵であったとしても道は開けよう。
 すると、芍薬の心中を察したように、大きな腹をゆすりながら蜘蛛女が広場に飛び降りてきた。見た目に反して軽がると地に降り立ち、
「猛き勇者はもはや生まれず。
 魔法を継ぐ者、途絶えて消えた」
 まるで何かを誘うように妖女が歌うと、数拍の間を置いて、芍薬を追っていた子ども達がぴたりと止まった。五人ともが踵を返し、たおやかに腕を広げる妖女の元へと集まっていく。
「動くな、戦乙女よ」
 左の手を小さな女児の頭に、右の手を年長の男児の肩にそれぞれ置いて、半人半蜘蛛の女は静かに言った。
「一歩動けば一人、二歩動けば三人」
 その言葉に従うように、子ども達に取り付いている小蜘蛛達が鋭い足先をそれぞれの宿主の柔らかい首筋にあてがった。
 ――まさか――と、思ったのは、芍薬だけではない。周囲で事の成り行きを見守る者達も、まさかとしか思えなかった。
 妖女が、いや、王女が取ったのは人質である。それも子どもの命を盾にしたのだ。世に『クレイジー・プリンセス』と恐れられる彼女ではあるが、例え今は人事不省となって横たわるあの女性に薬を盛ろうとも(それだけでも重大事ではあるものの)、それでも流石に人の命までは取るまい――誰もがそう思うからこそ、まさかと思ったのであった。
「そら」
 しかし妖女は、至極愉快気に笑いながら肩に手を置いていた男児の小蜘蛛に合図をした。
 その瞬―― 芍薬は考えた。あの子ども達は、どういう手段であのバカの意のままになっているのかはともかく、やはり間違いなくアンドロイドではない。小蜘蛛の足は鋭く、男児の肌を楽に切り裂けるだろう。だが、本当にあのバカは死をもたらすのか? あのバカはとんでもないバカでどこまでも信用できない奴ではあるが、やはりそれでも人死にまでは出すはずがない。しかし、もし、死ななければいいのだとあのバカが気楽にそう考えていたとしたらどうだろう? そう、あの『映画』で自ら致命傷を負って見せたように、万が一のリスクも己のように軽んじて、死にさえしなければいいのだ、と考えていたとしたら? ――間、焦燥に突き動かされて芍薬は叫んだ!
「待テ!」
 妖女の戒めを破り芍薬が走り出そうとするより速く、小蜘蛛の足が男児の喉笛を切り裂いた。
 まるで無理矢理栓をされていた噴水の水が解放されたかのように、真っ赤な血が驚くほどの勢いで吹き出す。
 これまでにない悲鳴が上がった。
 広場を取り囲む群衆に恐慌が走った。
 もう太陽も地平線にかかる黄昏の薄闇の中、人よりも正確に物事を観ることのできるアンドロイドの人工眼球にも、それはまさしく動脈から吹き上がる血と映った。
 飛び散る鮮血は噴水の池の中にも落ち込んで、夕闇に染まる水を見る間に赤黒く染め上げていく。群衆の中には我先に逃げ出そうとする者が現れ、罵声の混じった絶叫と凄惨な光景に泣き叫ぶ子どもの金切り声とが悲劇を飾り立てる。
 その最中さなか、ドン、と、重い音が轟いた。
 悲鳴と喚き声を諸共に押し潰す、それは重々しい音だった。
 サッと、芍薬の顔色が変わった。
 ザッと、妖女の顔色が変わった。
 アッと、群集の顔色が変わった。
 未だ四人の人質を抱えていた蜘蛛女が上半身を限界まで捻って背後へ振り返る。それと同時に全ての視線が、そこに集まる。
 ステージの下。
 一体どうやったのか、巨大な蜘蛛の巣の拘束を破り、繭が地に落ちていた。
 それも繭から突き出た足で見事に着地し、異様な迫力を纏って直立不動で佇んでいた。
 めしゃめしゃと、繭の中からおかしな音が鳴る。
 メジャジャ! と、不気味な音と共に繭の両脇から腕が貫き出てくる!
「そんな――」
 妖女が、つぶやいた。肌を粟立たせ、彼女は明らかに動揺し、慄いていた。
「まさかそんな体でも――」
 その言葉の意味を理解できたのは、この場において三人だけだった。だが、その意味を他の人間が理解する必要などはなかった。観衆が知れることはただ一つ。繭から突き出た腕が動いて顔があるのだろう辺りに手が当たるや、刹那、そこに開けられた穴の底に光る双眸を見た時――そして繭に包まれたままの彼が足首の力だけでびょんと跳ねた時、おお、妖女の胸を貫いたその恐怖! いくら腕が自由となり視野を得たとはいえ未だ虜囚であるはずの彼のその奇怪な迫力に脅威を感じぬ者などありはしない!
 びょん、と、着地するなり再び飛ぶ繭の姿に誰かが思い出す――『クレイジー・プリンセス・ホールダー』の称号を。
 粘る糸が靴を引きとめようとも意に介せず無人の野を行くがごとく、びょん、びょんと彼が妖女に迫るにつれて皆が思い出す――『トレイの狂戦士』の異名を!
「ティィィディィィアァァァ!」
 それは地獄の穴から轟く鬼の声であった。それを聞く者を無差別に心胆寒からしめる憤怒であった。
「待って!」
 持ち主の恐怖を反映したようにピンと張った八本の足で体を持ち上げ、彼女は叫んだ。
「待って、ニトロ! 駄目! こんなんじゃ駄目!」
 先ほどまでの優雅な凄みはどこへやら、上半身は彼に向けたまま、がさがさと逃げ出しながら妖女は完全に化けの皮を剥がして叫んだ。
「こんな終わり方じゃ駄目なのよ!」
 その悲痛な声に、思わず周囲に同情が沸き起こる。この場に大きな混乱をもたらした身勝手な女に対し、その迷惑な糸に絡め捕られて未だ動けずにいる者すらもが抗いようもなく心を揺さぶられる。
 だが、繭は躊躇わない。
「お願い! ニトロ! 待って待って!」
「待ぁてえええええ!」
「お願いだからそっちこそ待ってえええ!」
 びょんびょんと繭は追う。
 がさがさと蜘蛛女は逃げる。
 と、
「イラッシャイ」
 背後ばかりに気を取られていたティディアは、その声に己の失態を悟った。直後、蜘蛛の足が千々に乱れて無軌道に空を掻き、そのため蜘蛛女は足をもつれさせて大きな蜘蛛の腹と胴とを地に激しく擦りつけてしまった。と、そこに敷かれていた糸が蜘蛛の下半身を絡め取り、それで急ブレーキがかかって人間の上半身だけが振り子の錘のようにつんのめる。
「あ!」
 その王女の悲鳴は、つんのめった上半身まで地に激突せぬように必死に堪えた後に上がった。
 確かに、地への激突に関しては、彼女は堪えきった。
 だが、堪えたところでその姿勢のままアンドロイドに捕まってしまった。形としてはフロントヘッドロックである。身に着けるもののない滑らかな背中を天に向けて、毛むくじゃらの下半身は地に縫われ、冷たく汗ばむ上半身は機械人形に縛られて完全に固定されてしまった。
「ああ!」
 彼女は数秒後の展開を予期して、悲嘆の声を上げた。
 人々は目撃した。
 びよーん、と、この日一番の跳躍を見せた繭を。
 ゆっくりと横回転する繭の脇で遠心力を貪る腕を。
 その先で大きく開かれる手のひらを!
「やぁめぇてぇぇぇ!!」
 断末魔のごとく、ティディアが懇願した。
 だが、怒りの繭は目標に向けて一寸の躊躇もなく降下する。
「このッド阿呆があああ!!」
 そして――
 凄まじい破裂音が、半人半蜘蛛姿のお姫様の背中で炸裂した。

 夏の尾と秋の前髪が触れ合う折、そこに長い時を置いて訪れた猛烈な暑さもようやく沈む日と共に翳り始めた頃、夕闇の中、晩秋に先駆けて真っ赤な紅葉がひとひら舞い降りた時――
 ノデラ公園噴水広場から平和を奪っていた魔法が、まるで息を止めていた人がふと呼吸を思い出したかのように、ぱっと解けた。

 恐ろしい妖女よりも恐ろしい、それを聞く者にその痛みを実際に感じさせてしまうほどの衝撃が去った後、水の止まった噴水の周りには、囁くようなざわめきがあった。そのざわめきを生む心の全ては、池のほとりでさめざめと泣く王女と、彼女を厳然と見下ろして直立する繭とに差し向けられている。
「台無しよぉ〜、台無しよぉ〜」
 ジンジンと熱く痛む背中を誰にも治療してもらえぬまま、ティディアは繰り返し嘆いていた。
「こんな結末は違うのよぉ〜お」
「な、に、が、台無しだボケェ!」
 弁明もなく被害を訴え続ける加害者に、いい加減我慢の出来なくなったニトロが繭の中から怒声を上げた。その拍子に繭が倒れそうになるのを芍薬が支える。
「台無しなのはこっちのお祭りの方だろう! 折角みんな楽しんでたのに、何かが違うッてんならお前がこんな馬鹿げたことを持ち込んだことが一番違うわ!」
「それが違うのよ!」
 がばと上半身を起こしてティディアが涙目で――痛みのためか失望のためかはともかく――大粒の涙の浮かぶ眼で反論した。
「お祭りなのよ、ふェスティバーる! これはその出し物なのよ! 恐ろしかったでしょう? ゾッとしたでしょう? 暑気が払えたでしょう? 暑い夏の夜にこそ楽しい怪奇な現象で納涼よ!」
「いくらなんでも度が過ぎとるわ!」
 と、叫んだ直後、ニトロは眉をひそめた。広場を取り巻く人々の中にはフェスティバル運営関係者もいるが、そちらも解せぬ様子であった。
「……いや、いやいや違う。出し物ってんなら今は、えーっと」
「進行ガズレテナケリャ『ミシェル・ビップ』」
「そう、ありがとう芍薬、そのビップさんの一人芝居のはずだろう。それも確か怪談物だったはずだけど」
「それを変更したのよ」
「はぁ?」
「ビップ!」
 ティディアが一方に顔を向けて呼びかけると、久しく倒れていたあの小蜘蛛に噛まれておかしくなった女性がむくりと立ち上がり、まるでカーテンコールを受ける女優のように優雅な辞儀をした。所々から驚嘆の息が漏れたのは、彼女が知己の目を欺く見事な変装をして、しかも驚くべき『演技』を見せつけたからだろう。そしてそれ以外の人間は唖然として口を開ける。
「ソレトサ……主様……」
 と、皆と同じく唖然として言葉を失っていたニトロに、そろそろと芍薬が声をかけた。その指は首から血を流して倒れている子どもと、未だ焦点の合わぬ目をした四人の子ども達を示している。
「ああ」
 ニトロは気を取り直し、そちらを一瞥して――眉をひそめてから――言った。
「大丈夫。こいつはバカだけど、死にはさせないし、死にかけさせてもいないよ。ってことはアレだ。あの子達も?」
 ニトロに問われたティディアは眩いばかりに顔を輝かせていた。彼の確固とした言葉の裏地が心底嬉しそうにうなずいて、その胸の昂ぶりを示すように六つの複眼をぎょろぎょろ躍らせ、
「そう、『子役』よ。皆、ご苦労様、自由にしていいわ」
 その言葉と共に、首を切られた男児が身を起こした。他の四人の表情も平時に戻る。数匹の小蜘蛛に手伝われて顔から腹まで覆っていた人工皮膚と“仕掛け”を外して精巧な血糊を拭っている男児の下に四人が集まって、それから皆して雇い主の王女に元気よく挨拶すると、何やら言い合いながら――どうやら互いの演技への批評らしい――『ミートパーティー』の区画へ去っていく。
 先刻までの恐怖と混乱はどこへやら、観衆は完全に毒気を抜かれてもうどよめきすらしていない。ニトロは芍薬に言って抱え上げてもらい、それからくるりと一回転してもらって周囲を確認し、
「なるほど。出し物、ね」
 また同じ場所に下ろしてもらってから、一度うなずいた。
 それがティディアには『あらゆる理解』に思えたらしい。己の言い分が正当なのだと言いたげに改めて不満を顔にする。
「ほら、だからニトロがそんなに怒るほどのことじゃなかったのよ!」
 そこへ即座にニトロは問う。
「それじゃあ聞くが、例えば、あの子は?」
 ニトロが示したのは、母親に庇われるようにして未だ蜘蛛の糸に囚われている女児だった。その顔は己に巻きつく糸よりも真っ白い。ティディアはあっけらかんと答える。
「全く知らない子」
 ゴ
 と、ティディアの頭から物鈍い音が鳴った。
 それがぐるんと回ったニトロの腕から打ち落とされた拳骨の打撃音だと悟った時、ティディアは悲鳴を上げた。
「痛ったあああああ! いきなり何するのよニトロ!」
「これが怒るほどのことじゃなくって何だってんだバカ姫!」
 ビシッと別の場所で糸に絡まっている男の子を指差しニトロは言う。
「あの子は!」
「知らないわよ!」
「あっちの子は!」
「全くもって!?」
「向こうの――高校生達は!」
「仲良さそうだけど後々喧嘩になりそうなポーズで固まっているなって思いました!」
「つまり!?」
「遺憾であります!」
「ようするに他のは全部巻き込まれただけだな!?」
「遺憾ながら認めます!」
「てことはやっぱり納涼だ何だと言ったところで無駄にトラウマ大生産するだけだろうがあああ!!」
 この日一番の怒声が、繭の穴の底から飛び出した。
「このクソ糸の中でも音で大体のことは理解できてたけどな、てか見ずとも分かるほど酷い場面を立て続けに見せつけられてしかも自分もその餌食になりそうな体験なんてどんだけ心を抉ると思ってるんだ! 見ろ! あの子はあんなに顔がびっくりするぐらい蒼白で、絶対にまだ事情が解ってないぞ!」
 しかしティディアは食ってかかる。
「トラウマなんて何よ! そんなの後日何かのイベント時に乗り越えることで新たな力を得るキッカケくらいになろうってもんじゃない!」
 ぐるるんとニトロの両腕が回転した。
 ンゴゴ
 と、音がして、先より甲高い悲鳴が上がった。
「そりゃ大体フィクションの話だッつーかそれ以前にトラウマ舐めんな! それにそういうのは克服した本人が言うならまだしも間違っても加える側が言えるもんじゃねぇだろう!」
「遺憾ながら私もそう思います!」
「ッお前――ッ」
「でも、だからこそ、台無しなのよ」
 喉を軋らせ血を吐きそうなほど叫ぼうとしたニトロを、ふいに漏れたティディアのため息が押し止めた。
「ねえ? ニトロは解っていたでしょう?」
 じっと上目遣いに見上げてくるティディアの問いに、ニトロは一つ考え、
「ああ、これが『バラ姫様』と『アリュークナ』の混ぜもんってことか?」
 ティディアは微笑みうなずいた。
『バラ姫様』は花の国の美しいお姫様の物語で、悪役として蜘蛛女が現れて、その国で唯一魔法を使えるお姫様を糸で包んで食べてしまう。一方の『アリュークナ』は魔法使いの国の傲慢な后が美しい継子を妬むあまりに魔物に変身し、悪行を行うものだ。どちらも昔から親しまれている児童文学で、また、どちらとも六本の足と二本の腕を持つ半人半蜘蛛の女神フィネラを基にしながら、それとの差別化で人の体に二本の腕と蜘蛛の体に八本の足を持たせている。そして、『バラ姫様』の蜘蛛女は若く猛き勇者に、『アリュークネ』の后は魔法使いの国に最後に生まれた小さな魔法使いに打ち倒される。
「涼を納めた結果トラウマ作っただけ、なんてのは私も願い下げよ。そんなの笑えないじゃない」
 ティディアは肩をすくめ、
「けれどね? トラウマを作るほど――主役サイドを追いつめる時はそりゃもう受け手にトラウマを植えつけるほどの強烈な展開があればこそ、その後に来るカタルシスってものは強力になる。逆に言えば、そのカタルシスこそが強力でなければ、落とされている時の恐ろしい体験を昇華して“トラウマ”を『トラウマ』足らしめぬことは叶わない」
 ぐっと拳を握り、さらに彼女は熱弁する。
だから今回ばかりは恐怖を脅威で張り倒すんじゃなくって、恐怖を勇気で覆すのでなければ駄目だったのよ! ああもう腹立たしい、悔しい、情けない! 私はあんなに解りやすくヒントを出していたっていうのにいつまで経っても誰も乗ってこないなんて! 誰も乗ってこなければやっぱり結局台無しになるだけなのに!!」
 演説を聞いていたニトロは眉間に深い皺を刻み――それを自分の指で叩けない。察した芍薬がトントンとその眉間を叩き――そうして彼は、訊ねた。
「つまり、お前はこう言いたいと? 全て意を察してお前に尽くさぬ皆が悪い、って?」
「その通り! 当事者なのに正しく当事者でいられないのは害悪ってもんでしょう!?」
「無茶振り過ぎる上に理不尽極まりねぇこと堂々と抜かすな阿呆! つかそんなんだったらカタルシスだ何だと言ったところで初めッから破綻大確定じゃねぇか! てことはやっぱりお前だけが害悪だ!」
「いいえ、そんなことはない!」
「この期に及んで、な・ん・で・だ!」
「だって保険があるじゃない!」
「ンなもんどこにあるってんだ!」
「『彼』が!」
 う、と、ニトロはうめいた。
 そうだ。
 ハラキリ・ジジ、我が戦友にして親友、彼もバカ姫の『種本』には気づいただろうし、おそらくその目的とすることも聡く悟ったことだろう。――しかし、この期に及んで彼は一体どこにいるというのか。
「『彼』がいるんだから何がどうなろうと大団円に仕向けてくれると思っていたのに……」
 肩を落とし、ティディアがむくれたように口を尖らせる。
「てか」
 ニトロも今更ながらに全く動きのない友のことを(まさかまだ公園にいないのだろうか)不満に思いつつ、
「あいつは目立つのが嫌いなんだから、そんなことをするわけがない、とは思わなかったのか?」
「『人質』がいるのに?」
「……」
 ニトロには何も応えられなかった。
 芍薬も黙している。
 ティディアも口を結んで、三人の沈黙が耳をそばだてる周囲にも沈黙を強いていく。
 そこに、
「わ、わるいまじょめ……」
 静まり返った広場に、鏡のような水面に一滴の雫が落ちるがごとく、小さくかすれた声が上がった。
 ティディアと芍薬は振り向いた。
 ニトロはぴょんと半回転しなければならなかったため遅れたが、観衆が驚きに目を見張る様と、その声の方向から誰が言ったのかは悟っていた。
 だが、それでもニトロは驚いた。驚きのあまり、ティディアと芍薬と共に目を丸くしてそれを見た。
「おまえの、あくぎょぅも……これまでだ」
 先ほどニトロが示した、この場で最も衝撃を加えられていたであろうあの女児が蜘蛛の糸から解き放たれ、しかも金の星が一つプリントされた青いトンガリ帽子を頭に戴き、そうして子ども向けアニメに出てくるステッキを震える手で構えていた。
「わたしがみんなを、えがおに!」
 最後の『えがおに』だけを大声で叫んだ女児の傍らには、どうやらテーブルクロスを利用したらしい白いマントに身を包み、さらに白布のマスクと中折れ帽とで顔を隠す少年がいた。
「まほうの、ちからは、しあわせの、ために……」
 小さな魔法使いは、しかし、一対の主眼と三対の複眼を持つ妖女に凝視され、なお全身を震わせて声を小さくしていった。その女児の肩を支える中折れ帽の少年が、彼女に魔法を吹き込む。喘ぐように息をして、小さな魔法使いはそれを口にする。
「ぱ――パレロ・ミルカ……フー……」
 すると、一瞬、小さな魔法使いの周囲が震えた。いや、震えたように見えた。彼女の周囲の地に散らばる蜘蛛の糸が刹那波打ち、続いてパキパキと音を立てて凍りついた――凍りついたように変化して硬化した。そして次の瞬間にはそれらがばらばらと砕けて、驚いた女児が振り返ると、彼女の母親も彼女の『魔法』によって解放されていた。
 ティディアの行動は、迅速だった。
 それまでのしょぼくれた体勢から一気に妖気を取り戻し、芍薬が反応するよりも素早く作動した蜘蛛の足で高く高く宙へ跳ねた。
 ニトロと芍薬は互いに何を合図しあうこともなく、吐息をついた。二人共に少しむくれていた。――遅い、と。
 ステージ上の蜘蛛の巣に戻ったティディアは、絶妙な間を挟み、けたたましく哄笑した。それは凄まじい哄笑で、「ホ」と「ワ」と「ハ」を混ぜたような、およそアデムメデス人が発声できようとは思えぬ声であった。
 はちきれんばかりに意気を取り戻した蜘蛛の腹の上に身をそびやかした妖女の背景には、およそ悪魔が用意したかのような残照がある。もはや大勢は群青の夜である空の下、地平には粘りつく血のように赤い光が一筆だけ残っていて、それが彼女を背後から照らすことで艶かしい肉の縁取りが毒々しく朱に濡れ、しかし前面にはどす黒い影が落ち、その影の中で大きく開かれた口と六つの複眼がなお不気味に赤い光を放つ。
 再び、ノデラ噴水広場は魔法にかかった。
 もはやこれが完全なる『茶番』であることが知れ渡っているのに、それでもなお、ここには迫真なる恐怖があった。
「よくも言う、矮小なる魔法使いよ!」
 広場に残っていた小蜘蛛達が群をなし、小さな魔法使いへ押し寄せていく。
「お前に何が出来る、
 お前に何がなせる、
 お前の弱々しい魔法で妾を倒せるものか?!」
 優雅さをかなぐり捨てた大声に、女児はびくついた。助けを求めるが、あの魔法を与えてくれた『魔法使い』はいつの間にか消えていた。泣き出しそうになる。が、自らが助けた母親の「頑張って」の声に励まされ、彼女はステッキを構えたまま、懸命に一歩を踏み出した。
 すると小蜘蛛の群こそがびくりと動きを止め、小さな魔法使いに気圧されるかのように退いた。それで勇気を得た小さな魔法使いはまた一歩踏み出し、大きな声で叫んだ。
「パレロ・ミルカ・フー!」
 瞬間、これまで息を止めていた噴水が音を立てて多量の霧を噴き出した。同時に女児の背後から風が吹く。ニトロは上空に光学迷彩で姿を隠した装甲飛行車アーマード・スカイカーがいることを察し、ひょっとしたらそこでヴィタが満面の笑みでも浮かべているであろうことを思い浮かべた。その風は明らかに意志のあるもので、噴き上がる霧を半人半蜘蛛の妖女へ向けて押し流していく。
 霧はとうとう妖女を飲み込んだ。
 妖女は霧に姿を隠されるや恐ろしい悲鳴を上げた。
 もんどりうって地に落ちて、やがて霧が晴れると、そこには――皆が驚いた――毛むくじゃらの禍々しい姿をしていた蜘蛛が短い時の間に煌く水晶へと変化していた。それどころか女の体までもが水晶となっている!
 親玉が倒されたことにより命を失った小蜘蛛達がここかしこで足を畳み、腹を上向けひっくり返っていた。
 小さな魔法使いは糸に包まれたままの王子様と、彼に使える忠実な従者に促され、水晶と化した妖女の下に歩いていくと、そのステッキで水晶と化した魔物をこつんと叩いた。
 ガラスが砕けるように、水晶が砕け散る。
 そしてその水晶の中から現れたのは――嘆声にも似たため息が広場を包んだ――バラ色の薄絹のドレスを纏った美しい『お姫様』だった。
「ありがとう、勇敢な、小さな魔法使い様」
 礼儀正しく帽子を取った女児の頭を撫で、お姫様は言う。
「夢を見ていました。
 とても悪い夢、それはとても怖い夢でした。
 でも、それも一夜の夢、夢が醒めれば、そこには温かな笑顔の皆様が」
 赤い複眼もなく、声に凄みの欠片もなく、同一人物であるのにどうしてもそうとは思わせぬ麗しさで告げる王女に、皆の心がまた吸い寄せられる。
「さあ、小さな魔法使い様、一緒に悪夢を一つ残らず消してしまいましょう」
 美しい本物のお姫様から額に口づけを受けた女児は顔を輝かせ、そして、共に『バラ姫様』の魔法の言葉を高らかに謳った。
「「パレロ・ミルカ・フー!」」
 今度の変化はさらに劇的であった。
 噴水から七色に輝く粒子を含んだ水が迸り、いずこからか軽やかな楽の音が鳴り響く。広場に撒き散らされていた蜘蛛の糸の全てが凍りついて砕け、それが再び吹いた風に舞い上がって瞬きながら夜空の底へ消えていく。するとその空から雪が落ちてきた。本物の雪ではなさそうだが、しかし見た目には全く雪であり、地や人の肩に触れるや水に落ちた砂糖菓子のようにほどけて消える。その様はまさしく魔法としか思えず、にわかに沸き上がる歓声をさらに楽しげに盛り上げていく。
 その一方で、死んだ小蜘蛛達が見る間に無数の光の粒子へと変化していき、それはやがて蛍のごとく飛び上がった。
 ちらちらと猛暑の夜に降る雪と、蛍が共に空を舞う。
 とめどなく噴き上がる水の内に輝く七色は、ほんの小さな宝石の粒のように見えた。水の飛沫と共にキラキラと舞い上がった後に池に落ち、水底から噴水を照らし上げる照明の上に積もってまたきらめき、水中を彩る虹の欠片は空を飾る蛍と雪と水面で出会って、絶え間なく揺れる波の中で全ての光が雅やかに手をつなぐ。
 歓声を上げて道化姿の女がステージに駆け上がってきた。見ればミシェル・ビップだ。ステージの中央で派手に転んで尻を打った彼女が恥ずかしそうにおどけてみせて、それから舞台袖に合図を送ると、どうやら彼女の仲間であるらしい集団も駆け上がってくる。それぞれにやはり道化の格好をしていて、ビップを中心にして列を組むと楽の音に合わせて観客を囃し立てながら踊り出す。
 軽快にステップを踏む派手な道化の衣装は花の国の妖精達を思わせて、雪と蛍と七色の噴水は魔法の国を現世うつしよに顕していた。
 その陽気さと幻想に惹きつけられて、やがて広場にも人が溢れ出てきて踊り出す。
讃えよ、肉をウィーモ・ロ・ミーモ!」
 活気を取り戻したフェスティバルを象徴するように、『ミートパーティー』の中からその合言葉を叫んだのはどうやらあの五人の子役達であるらしい。
 最後にヒロインとなった小さな魔法使いは王女に手を引かれ、途中で未だ繭に包まれたままの王子様とその従者の祝福を浴びながら母の元に返るや、母に抱きしめられて誇らしげに赤らめた頬をほころばせる。
 そして母に抱きしめられながら、彼女はきょろきょろと周囲を見回した。
 ――しかし、彼女がこのトンガリ帽子とステッキを与えてくれた中折れ帽の『魔法使い』を見ることは、二度となかった。



 暴れることを止めれば親しみ深く美しいばかりの王女に人目が集まる隙をついて広場から芍薬に担がれ抜け出してきたニトロは、公園の片隅に人目につかず落ち着ける場所を見つけ、日の落ちる前よりも華やかに盛り上がっていくグッドナイトサマー・フェスティバルの明かりを遠目にしながら、ただ、待っていた。
 樹上と草陰で鳴く虫の音がうるさいくらいなのに辺りをむしろ静かだとさえ感じる中、
「――で、お前は何をしてたんだよ」
 やおらニトロが不満気に言うと、スポーツキャップを被った少年が物陰から現れた。先ほどのようにマントなどなく、マスクも外して素顔のままに、ガホル麻の涼しげなシャツにスラックスを合わせた上でしれっと言う。
「ずっと見ていました」
「茶番を?」
「茶番だからこそ楽しめるんです。あんなこと、現実であれば楽しめませんよ」
「俺にとってはどっからどこまでも現実なんだけどな?」
 ニトロは未だ蜘蛛の糸で作られた繭に包まれたままだった。芍薬が何とか助け出そうとしているが、どうやらこれに使われている糸は特別製らしい。まず刃物は役に立たず、引き千切ろうにも綿棒の綿をむしるようにしか摘み取れず、どうしてマスターが腕を突き出し顔の穴を作れたのかが不思議でならない。仕方なく、とにかく自由に移動できるよう脚部から少しずつ繭をむしり取っている芍薬の作業風景を一瞥したハラキリは、
「体は?」
「まだ少し痛い。けど筋肉痛は何でか大分治ったよ。随分動いたからかな?」
 ハラキリの脳裡を『アクティブレスト』という単語がよぎるが、そんなレベルの話ではないように思うので、彼はふむとだけ鼻を鳴らした。そして、芍薬にカップを差し出す。長いストローがついていた。芍薬は無言でそれを受け取り、マスターに給仕する。一度は自分でカップを持とうとしたニトロだったが、腕と繭と顔の位置関係から上手く飲めないため、芍薬に任せることにした。
 ストローを通ってきたのはとても冷たいレモン水だった。爽やかな香りと忍ぶ甘みが喉を潤し、やけに通気性のいい繭ではあるが思い出したように汗が額に吹き出してきて、それを芍薬が器用に拭き取ってくれる。ハラキリは手元で何か操作すると、それを足元に置いていた。どうやら虫除けであるらしい。
「――それで?」
 一息ついたところで、ニトロは再び問うた。
「楽しく観劇していたのも事実とはいえ、様子見をしていた、という方がより正しいですかね」
 これ以上、下手なことを言って友の機嫌を損ねるのは不利益だと判じ、ハラキリは応えた。
「本来、おひいさんは今頃会議の真っ最中のはずです。それが何故、ここにいるのか、いられるのか。基本的には『君』を理由に仕事に穴を開けない彼女が」
 その言葉で、ニトロはハラキリがティディアの協力者グルではなかったことを確信した。
「しかも……ニトロ君は通信妨害には?」
 と、ハラキリはポケットから携帯電話を取り出し、それを芍薬に預けながら言った。よく見れば彼の被るキャップもニトロのものだった。どさくさに紛れて拾ってきてくれたらしい。目に礼を表しながらニトロは答える。
「それに気づいた瞬間、やられた」
 ハラキリはうなずき、
「それは単純に通話やネット接続を阻害するものに限りませんでした。色々試したところ手持ちの手段が全て殺されていましたよ。ちょうどフリーマーケットの辺りを歩いていたんですが、デモをしていたラジコンも制御不能になっていましたね」
「もし壊れてたら弁償させてやってよ」
「言っておきましょう。で、それで不思議に思ったのがお姫さんの蜘蛛の足です」
「何かおかしなことがあった?」
「少々。どうもお姫さんが意図的に動かしている感じでしたし、あの妙にリアルな複眼も、彼女の感情に反応しているようなきらいがありました。もしや小蜘蛛も、あるいは色々な機能を見せた人工繊維くものいとまでも?――とも思いますが」
「……つまり?」
「お姫さんがこの時間に出ているべきは『先進技術推進会議』――それをぶっちぎるに足るとすれば、それともこの事態自体を会議の一項目と見做したならば、例えばアレは強力にして多様な通信妨害の中でも使用可能な技術のテストも兼ねていたのではないか、と。まあ、拙者が試せなかった中には脳内信号シグナルを利用して、なんてのもありますが……霊銀ミスリルでも使えばそれなりの遠距離に耐えてなお高精度のものができますしね。いや、それともただ最後の『手品』を試したかったというだけかもしれませんし、まさか『人魚』の雪辱とはまず考えられませんがお姫さんに限ってはそれもありえるのが厄介で」
 ぶつぶつと言うハラキリには何らかの心当たりがあるような様子だ。ニトロにはそれが何かは判らなかったが、
「最後は仕方ないので乗っておきましたが、そもそも勇気だ何だと言うなら勇気ある従者が来た時点でまとめに入ってくれれば面倒がなくて良かったというのに変なこだわりを持ち続けていたのか何なのか」
 とうとう友人が身勝手な総監督への文句を連ね出したのを聞いて、ふっと小さく吹き出した。その様子に、はたとハラキリが物思いから戻ってニトロを見、そこに無理解があるのを察してどこかからかうように目を細め、
「それに、そういう事情でもなければ、あれだけの準備を一晩で済ませるのは無理でしょう?」
 ニトロは目を丸くした。
「一晩?」
「お姫さんは君の筋肉痛のことを知っていましたし、ここに来ることも知っていた。その二つの情報をどちらも知った上でこの仕込みをするなら、少なくとも昨日から掴んでいないと無理ですよ」
「……『誰が』?」
「とりあえず拙者はトレーナーを疑ってはいませんが『誰が』というのは問題ではないです、手段は色々ありますからね。ただまあ、ここに来ることをロビーで話していたのは迂闊でしたかねえ。だとしても、本当に恐るべきは昨日掴んだ情報に合わせてあれだけの企画を“条件”に合わせてくる魔女とその使い魔共、というところですが」
 ハラキリの指摘に、ニトロは苦笑を浮かべないわけにはいかなかった。自然とため息も漏れてしまう。
「ホントに、油断ならないね」
「おや、油断などしていましたか?」
「おっと、そりゃ痛い皮肉だ」
「皮も肉も後でたっぷり食べましょう」
 ニトロは思わず笑った。その拍子に腹筋が少し痛む。そして彼は小さな苦笑いを浮かべ、
「食べられるかな」
「遠慮なんてする必要はありませんよ。折角のお祭りなんですし、元から大騒ぎです」
 その物言いに、ニトロは沁みるように微笑んだ。
「……そうだね」
「それから――」
 と、そこまで言って、ハラキリは急に口をつぐんだ。
「それから?」
 気になってニトロが訊くが、彼は応えない。飄々として、しかし、その口元には微笑が見える。となると俄然ニトロの好奇心をくすぐって仕方がない。
「言えよ」
 ニトロの強い要望を感じたハラキリはしばし黙っていたが、
「本当に、退屈しませんね」
 とだけ答えた。
 そして、すぐに彼は振り返り、
「ねえ、ヴィタさん?」
「お気づきでしたか」
 ニトロは驚いた。木陰から足音もなく、藍銀あいがね色の髪を既に東にある赤と青の双子月の明かりに煌かせ、涼やかな麗人が現れた。
「気づきますよ」
 ハラキリは笑って言った。
「そんなに手に一杯に肉を持っていたら、匂いで分かります」
「お一ついかがですか?」
「ニトロ君は?」
 繭の穴の底にいることもあってニトロには匂いが分からなかった。ヴィタが正面に回ってきてくれたお陰で判ったが、彼女は口一杯に肉を頬張りながら立っていた。
「後でいいよ」
 半ば呆れてニトロが答えると、ハラキリも遠慮した。
「それで、拙者の推理はいかほど当たっていましたか?」
 口一杯に肉を頬張りながら、器用に執事は涼しげに答える。
「それにお答えすることは、わたくしには許されていません」
「ふむ。――では、口に出すことを許されていることは?」
「ティディア様は、この半世紀ぶりの暑さをニトロ様とご一緒に味わいたがっていました。タイミングが良い時は何もかも上手くいくものですね」
「こんな暑さちょっとした災害だろうに、何をはしゃいだことを言ってんだ」
 毒づくニトロにヴィタは微笑み、それからいつも涼やかな顔に今日ばかりは大粒の汗を浮かべてスパイスの効いた串焼き肉を一つ頬張る。その様子にニトロはふと思いつき、
「……もしかして、変身してどこかにいた? じゃなくて」
「よい映像が撮れましたが、お腹も取れそうでした。あの匂いの中で我慢するのは拷問ですね」
「本っ当に、油断ならないね」
「一度すれ違ったのですよ?」
「え?」
「ふふふ」
 ニトロの反応が面白そうにヴィタは微笑み、また肉を齧る。芍薬は無心にニトロの繭をむしり続けている。やっと膝が楽に曲がるようになってきた。
 ざわざわと、四人が陰に潜む木立の葉が揺れた。
 繭の穴から涼気を含んだ風が入り込んできて、ニトロは息をつく。
「やっといくらか涼しくなりそうだね」
 ニトロのため息に 、空を見上げてハラキリが応えた。
「明日は夕方からまた雨だそうですしねえ」
「気温も例年並まで一気に下がるんだっけ?」
「随分差がありますから、風邪を召されませんように」
「うん、でもそこは芍薬が注意してくれるよ」
「御意」
 少しの間を置いて、今度はハラキリが口を切る。
「明日は、弟君の誕生日でしたね」
「招待はされていないよ。ミリュウ姫の時もちょっと不思議だったけど、何か考えがあるみたいだ」
「そいつは良からぬ考えでなければいいですねえ」
「うん、だから明日は念のためにハラキリん家の地下に立て篭もることに今決めた」
「え、うちですか?」
「正式に依頼するよ。一泊朝夕食事付きでよろしく」
「かしこまりました。では後程契約書を」
「芍薬、そういうことで」
「承諾」
「このお肉美味しいです」
 突然のヴィタの脈絡もない一言に差し込まれ、ニトロは思わず笑ってしまった。つられて芍薬とハラキリが笑い、とうとうヴィタも笑い出す。
「やー、皆して楽しそうね」
 そこへ、ティディアがやってきた。彼女の背後にはバラに誘われるように阿諛追従の群がくっついてきている。中でも先頭に立つ青年がやけに熱心だ。
「色々話をつけてきたわ。ね、ニトロ、お肉食べましょうよ、お肉。席も用意してくれるそうよ。それにしてもニトロ、改めて見るとその格好、可愛いわねー」
 全く悪びれないどころか無邪気も極まるティディアに、ニトロは開口一番ぶつけてやろうと思っていた怒声を飲み込まされてしまった。それには無論、このバカ姫を無闇に讃える背後の目の輝きも手伝っている。しかもそこには幾つもの嫉妬の光が見えるから余計に彼は疲労を感じてしまい、怒気の大半も散らされてしまった。が、
「なあ、ティディア」
 ため息混じりにニトロは言った。
「なぁに?」
 薄絹のドレスをひらりとさせて、流れる汗も上機嫌にティディアは首を傾げる。
「色々言いたいことは置いておいてだ、一つ、教えろ」
「いいわよ?」
「最後の『魔法』で他の蜘蛛の糸は全部消えたはずだよな?」
「ええ」
「なのに何で俺は未だにコレなんだ?」
「そんなの決まっているじゃない」
 満面の笑顔で、ティディアは答えた。
「もちろんそのまま持ち帰って、中身を溶かして食べちゃおうって思っていたからよ」
 悪い夢、とても怖い夢、一夜の夢――
 その夢の最後の残滓が夢そのものを終わらせるために繰り出したのは、それもまた夢のように美しいドロップキックだった。

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