2014−4へ

18:45 ―大凶―


 今月末に催されるティディアの誕生日会で着る服のための仮縫い試着を無事に終え、その後、テーラーの前に集まっていた人々の目を盗んで無事に抜け出すことに成功したニトロは、その足で駅前のロータリーを臨むビルを訪れた。
 古くから服飾の街として知られる王都第三区・ゴッテオン。ここに立ち並ぶ建物は、いずれも歴史を感じさせるものばかりだ。ニトロがやってきたビルも例に漏れず400年の時をこの場でじっと過ごしてきたもので、レンガをふんだんに使った当時の流行のデザインも、今では時代がかった古着となっている。
 だが、ビルの内装は現代のものだ。
 一階から三階までを占めるのは、アデムメデス三大ファストフードチェーンが一つ『トクテクト・バーガー』である。
 朝からここで新しいジャンクフードを食べたいと思っていたニトロは、誰かに正体を見破られて騒ぎになることもなく、首尾よく店まで辿り着き、その二階の窓際に席を占めていた。
 夕食時ではあるが、店内はさほど混んでいない。
 とはいえ席の半ばは埋まり、大人の数は少なく、目立つのは学生や若者ばかりだ。
 年を通して比較的気候の穏やかな王都は残暑の季節にあっても過ごしやすい。日中はもちろん汗ばむ熱気が満ちはするが、夜は優しい。無闇に空調に頼るよりも窓を開けた方が気持ちの良いくらいだ。それもあって、トクテクト・バーガー・ゴッテオン駅前店の上階の窓は全て大きく開き放たれている。
 そこで涼しい風を受けながら、ニトロは、楽しみにしていた新製品『トクテクト・リララマ・バーガー』を齧っていた。
(うーん……)
 楽しみにしていた、からだろうか。
(辛いなぁ)
 ニトロは舌を痺れさせる特製ソースに、かすかに唇をへの字に曲げていた。
 この新製品のコンセプトであるリララマ地方で生まれたリララマ・ソースは、エシェスオンという地産のタマネギと、ケリップという香辛料をメインに作られる。その味は甘さが勝ち、その後にぴりっとした風味豊かな辛さが強まり、そうしてまたエシェスオン特有の香ばしい甘みが穏やかな後味を作る。それが肉料理に後を引く味わいを与えるのだと、ニトロはそう聞いていた。
 それなのに、これは辛味が勝ちすぎていた。甘みもあることにはあるが、常に主張する辛味がずっと舌に居座るために負け続けていた。
 果肉が多く噛めば爽やかな果汁が溢れるはずのラーマントマトも厚みが足りないために存在感が薄く、ビーフ100%のパテもやはり香辛料が強すぎて肉の味が薄い。これではレギュラーバーガーに使われているビーフとプランクトン由来の調整肉アジャストミートとの混合であるパテと大差ないし、テレビコマーシャルが誇張に満ちていることは理解してはいても、やはりそこで宣伝されていた肉汁の存在感が全くないことも不満になる。チーズも普段と全く変わりがない。宣伝に偽りなしであるのは、しゃきしゃきのレタスだけ。
 しかも、何よりも、存在感がありすぎるリララマ・ソースが全ての味を征服していることが問題だった。正直、何を噛んでもソースの味しかしない。というか、辛くて他の味をまともに感じられない。
(……うーん)
 良いところを何とか探そうとしてもレタスのしゃきしゃき感しか見つからない。ニトロは悟った顔で思う。
(大ハズレだなー)
 これで単品540リェン――トクテクト・バーガーの中で最も高いというのだから、評価も辛くなるのは当然だろう。少なくとも、店内に満足そうな顔はない。しかしあからさまにがっかりとした顔はわずかで、むしろ表情を無くした顔が多い。それらは明らかに、ジャンクフードだしこんなものか……という意思表明であった。
(それにしても)
 新製品を食べきり、手についたソースを紙ナプキンで拭き取りながら、ニトロは思う。
 リララマは、そう名の知られた地方ではない。北大陸のフォーデンや西大陸のクラケット地方のように広く知られている料理を知名度の第一軍とすれば、せいぜい四軍辺りがいいところである。それが今回、有名なチェーン店に取り上げられたことで飛躍的に名を上げた。が、その一方で、このバーガーの味がリララマの味として印象付けられてしまっては、地元の人間はきっと心外であることだろう。
(一度、ちゃんとしたのを食べてみたいな)
 ――それとも、もしかしたら、人に今の自分のように思わせることが戦略だろうか?
(いや、それは邪推ってもんか)
 内心で己に苦笑し、厚手の紙コップに注がれたコーヒーをすする。こちらはちょうど淹れ立てであったらしく、とても美味しい。粉も工場から届いたばかりだったのだろうか、香りも高く、今までファストフード店で飲んだものの中でも一番とも思えた。
「……」
 朝からの期待は大ハズレに終わったにしても――
(――うん)
 一息ついたニトロは、満足だった。
 店内は、ざわついている。
 ニトロは窓際の隅の二人用テーブル席から、ちらと店内を見渡した。
 フロアの真ん中付近で五人で固まり、談笑する学生達。隅のテーブルで向かい合ってひそひそと話す恋人達。それとは逆に、窓際の、ニトロとは反対側の奥のテーブルで何やら大声で語り合う恋人達。本を読んでいるのか、それとも勉強をしているのか、板晶画面ボードスクリーンを注視している一人、一人。何やら熱心にモバイルコンピューターを覗き込んでキーを打っている若いサラリーマンがいて、それとは対照的に、彼の後ろの席では中年と青年の間といった男性がくたびれた顔でコーヒーを飲んでいる。
 他にも多種多様の客達が、広く、古びた趣のあるフロアの三分の二を埋めていた。――気がつけば客の数も増えている。だが、急ぎ出て行かなければならないほどではないだろう。
 開け放してある窓から聞こえてくるのは街路のざわめき。
 雑踏、車両の往来。
 街路樹の葉が風に吹かれて揺れ鳴く声。
 一つ一つは意味のある音も、混然一体となってざわざわと響けば何の意味もないノイズとなって空間を包みこむ。
「……」
 ニトロは、心地良かった。
 最近は心ならずも大きなざわめきの中心にいることが多かった。
 けれど、こうして中心のないざわめきの中にいると、何故だろうか、とても安心する。
 今日は変装もとてもうまくいって、今もまだ誰にも気づかれた様子はない。
 ニトロは安くて美味しいコーヒーを楽しんでいた。
(――もしかしたら)
 ふと、彼は、今朝の芍薬とのやり取りを思い出していた。
 トクテクト・バーガーの新製品を食べたいと言ったニトロに、芍薬はすぐに変装の用意を口にした。思えばそれは不思議なことだった。もし、ファストフードを食べたいだけならドライブスルーを使ったり、それともデリバリーを頼んだりすれば、こんな変装などする必要もなく、車内なり家なりでそれをゆっくりと食べることができるはずである。なのに芍薬は――マスターの安全を第一に考えるはずの芍薬は、どうやら初めからその選択肢を外していたらしい。
 彼は思う。
 芍薬は、
ここで食べてこそ、っていうのも、解ってくれてたのかな)
 ――きっとそうだろう。
 そしてそう思い至れば、どうにも口元には笑みが浮かんでしまう。
 ニトロは安くてとても美味しいコーヒーの香りに、目元を緩めていた。
 外を見れば、何百年も前からの街並みが現代の照明によって照らし出されている。まだ西の空にしがみつく残照がその光の色合いに微妙な影響を与えていて、夕と夜との境にある時刻、過去の景色と現代の光が混ざるこの光景は奇妙なほど幻影的に感じられる。レンガで飾られた駅舎の中からは、今にも大古典復古時代リストアーリズムの馬車が走り出てきそうに思えてならなかった。
 だが、そう思えるのも、一瞬のこと。
(……あれは、多分やめた方がいいよなぁ)
 ニトロの視界の中、一箇所だけ、やけに現実的に見えるものがあった。
 それは、こぢんまりとしたロータリーを挟んだ向かい側にあるビルの壁面に大きく設けられた街頭スクリーンだった。
 街頭スクリーンに映し出されるものは、全てが現代のことで、それもコマーシャルばかりである。折角この街並みに馴染もうとする感傷も、商売というあまりに人間的な営みを前にしては抵抗することもできずに現実へ引き上げられてしまう。
 一つ、ゴッテオン街にも店を置くブランド店のコマーシャルが終わった。
 すると19:00となり、にわかにスクリーンの様子が変わった。『生中継』の文字が上隅に入り、カメラが何やらとても賑わうパーティー会場を映し出す。ぐるりと会場が一望された後、その映像は次第に薄れていき、代わって会場前の光景が映し出されていった。会場入り口からは道路へ向けて真っ直ぐにダークインディゴ――大昔、最高級であったインクの色――のカーペットが敷かれていて、やたらと興奮を示す女性キャスターのナレーションが始まると共に、その上を有名人が歩いている姿がダイジェストで流れ出す。画面に現れる者は皆、いわゆる文化人と呼ばれる者ばかりだった。俳優や女優もベテランが多く、文化に造詣が深いとされる政治家やコメンテーターが堂々と歩き、アイドルや売出し中の人気タレントの姿は見えない。
 そこに映し出されているのは、現在ドロシーズサークルで行われている『文芸祭レトワーザート・フェス』の前夜祭、そのメイン会場前の光景だった。
 文芸祭はアデムメデスで最大の文学の祭典である。
 明日、国民の祝日である『文化芸術の日』から一週間に渡って、ドロシーズサークルでは様々な賞の発表、文芸に関わる学会、また戯曲や朗読など文芸に関わる(広義には特に『言葉』に関わる)多様な芸術活動が行われる。文学賞等の式典は一般人にはあまり関係がないが、舞台や劇場で行われるイベントには参加可能であり、それには超一流とされる芸術家達の出演があり、また新進気鋭のアーティスト達は我こそ次代をリードするものだと青空劇場等自主的な企画・興行で盛り上がる――それらを格安で鑑賞できるということもあり、全地域から多くの人出のある一大イベントだ。
 ニトロもティディアと並んで『言葉の芸術家』として出演を打診されていたらしいが、それは前もって丁重に断られていた。
 正直、ここに出演者として参加するとなると、ぞっとする。
 自分は芸術家なんかでは決してないし、それに文芸に秀でた人々と会話をするほどの知識もない。恥を晒すだけだ。いや、
(既に恥の晒しっぱなしか)
 そう思えば苦笑を超えて悲しくもなるが――
「あ」
 と、誰かの声が、ニトロの耳を打った。
 それは明るい声で、何かを発見し、それを歓迎する声だった。
 一瞬どきりとした彼がそちらをこっそり伺うと、傍のテーブルに座る女子中学生らしい二人組みの片方が、街頭スクリーンを見て瞳を輝かせていた。
 ニトロは、そちらへやや険のある双眸を向けた。
[さあ、今回の主賓がやってまいりました!]
 キャスターから現場のレポーターにスイッチし、カメラに目線を送る彼女がやはり瞳を輝かせて言う。
[ティディア様です! なんて素敵!]
 ダークインディゴのカーペットを歩いてくるティディアは、体を動かす度にキラキラと星の光る深緑のロングドレスを着ていた。胸の谷間が見えるか見えないかと焦らすようにラインの流れるホルターネック。全体はシンプルにしてボディラインの出るタイプで、それがベリーショートの髪に調和している。光の加減で白から暗緑にまで色合いの変わるショールを透かして、肩から脇にかけての肌が淡く輝いていた。長い裾に入るスリットはやけに深く、そこから大胆に太腿を付け根近くまで覗かせて歩いてくる様は実に扇情的である。
『クレイジー・プリンセス』としては多少地味ではあるものの、どんな装いでも見る者にため息をつかせる蠱惑の瞳は画面越しにも魔力を発揮し、ニトロの耳にいくつもの吐息を聞かせていた。見れば、フロアにいる者の多くが街頭スクリーンに目をやり、あるいは手元のボードスクリーンに街頭スクリーンをリンクさせて、ただただ美しい姫君を見つめている。
 そんな中、ニトロはコーヒーをすすって、冷笑気味に思う。
(あれ、ボツ作品なんだよな)
 昨晩、ラジオ番組の収録前にティディアは言っていた。それはこちらの『誕生日会』用の燕尾服に関しての話題の折――「私も何回も着ているわ。明日着るのもパーティー用に作らせたものの内の一つなんだけどね、やっぱり何か気に食わなくてボツったドレスなのよ。でも、文芸のお祭にボツを着ていくのも粋なもんでしょ?」と、あいつは底意地悪く笑っていた。
[ティディア様!]
 カーペットの両側を囲むマスメディアのカメラに笑顔で応えていた王女は、そのレポーターの呼び声にふと足を止めた。
 それは、きっと気まぐれだったのだろう。
 はっとレポーターの息を飲む音が聞こえた。
 その息の音は辛うじてマイクが拾ったもので、街頭スクリーンから距離のあるここでは聞き取れるはずもない。それでもニトロにその音が聞こえたのは、例の中学生が街頭スクリーンの音を自身のボードスクリーンから流しているためだった。
[ご、ごきげんうりゅわしゅうございます!]
 レポーターが声を上ずらせて叫ぶ。まさか自分の呼びかけに止まるとは思っていなかったにしても、ひどい狼狽振りだった。
[ごきげんよう。この良い夜を楽しんでいるかしら?]
 そんなレポーターに微笑みながら、ティディアが言った。その声には慈愛がある。それに強制的に平静を取り戻させられたかのようにレポーターは、
[とても素晴らしいです! 素敵なお召し物でございますね!]
[ありがとう。これは最近作らせたもので、ここが初お披露目なのよ。ニトロにもまだ見せてないの]
 ニトロは、危うくコーヒーの入った紙コップを握り潰すところだった。
[でも、きっと今、彼もこの映像を見てくれているわね]
 切なげに、少し目を伏せて憂うティディアの顔にため息を漏らすのは、画面内のレポーターのみならず、フロアの客達も相応に。
 ニトロは、危うくコーヒーの入った紙コップを捻り潰すところだった。
[ニトロ様もいらっしゃればよろしかったのに]
 少し憤りをこめてレポーターがつぶやく。それは、思わず出てしまった非難だったのだろう。しかし、それをティディアは微笑で受け止め、
[彼は今、大切な時期だから。邪魔したくないの]
 まるで慈母のように(!)言うティディアは麗しい。
 レポーターは次の言葉を忘れてしまったかのように間を空けた。いや、どうやら間近に見る王女に見惚れて本当に言葉を忘れてしまったらしい。彼女が我を取り戻したのは、質問がないならとティディアが足を進めようとした時だった。
[あの! ティディア様は今年のアデムメデス文学賞は誰が受賞するとお考えですか!?]
 おそらく、それこそ必須の質問だったのだろう。レポーターの必死の呼び止めにティディアが足を止め、振り返る。その顔にはからかうような瞳があった。
[それを私が言ってしまったら、色々困ることになるかもしれないじゃない?]
[では、今年、何か話題作をお読みになられたでしょうか!]
 食らいつくレポーターに、ティディアは応える。
[そうね――]
 と、その時だった。
[おっぱいおっぱい 大好きおっぱい ひぃやっほう!]
 王女の声を遮るように、レポーターのマイクがそれを拾った。
「……」
 ニトロは目を丸くした。
 ニトロだけではない、カメラの向こうでティディアも目を丸くしていた。
 マイクの拾った歌声はさらに続ける。
[ママのおっぱい はぁ ちゅっちゅっ
 あの子のおっぱい おっ もっほぅ]
 ……空気は、死んでいた。
 カメラの向こう側も、画面のこちら側も。
 ニトロは必死に唇を閉じていた。
 フロアは水を打ったように静まり返っている。
 雑踏も明らかに静まっていた。立ち止まり、呆気に取られ、街頭スクリーンを見つめる者がここから無数に見える。車両の音は止まないが、それでもその音まで生気を無くしてしまったかのように萎えている。
[おお 悠久の時もまどろむ 乳房のまろみ
 やわいの ぬくいの おっぱいん
 大きいもんも 小さいもんも 神様からの贈り物]
 そこまで来たところで、やっと、カメラが、唇を震わせて目を丸くしている王女の見つめる先へと視点を移した。
 元凶が、明らかとなった。
 顔面を蒼白にする人々の中心に、誰よりも色を失う若い男がいた。カーペットを挟む人垣の最前列でカメラを従えているところからすると、どこかのテレビ局のレポーターらしい。チャンスを掴んだ新人といった風情でもある。そのうたは、大音量で、その男の胸から鳴り響いていた。
[ぱいの まるんま ぱいおッぷるるん
 おっぱいおっぱい おっぱっ大好き いぃやっふう!
 たにまに たちまち たちむかえない
 おのこの このこも たちむかえない
 へっ へっ よ!]
 いつまでやらかしてんだYO! と、ニトロはどれほど叫びたかったことか!
 たっぷり三十秒はあった沈黙を、やおら破ったのは、ティディアの笑い声だった。
 大笑いであった。
 カメラが再び王女を映し出すと、彼女は目に涙まで浮かべて笑っていた。
 その笑い声は本当に楽しそうで、そして彼女の華やかな声の人を惹きつける天性もあって、次第に周囲の人間も堪えられないように笑い出す。すると笑いが笑いを呼び、呼ばれた笑いが更なる笑い声を招き、やがてスクリーンの中のみならず、ニトロの周りにもクスクスと笑い声が起こり始めた。
 この頃になると、街頭スクリーンの中で起こった事件に注意を向けない者はなかった。店内の人間は全て、道を行く人も。歩みを止めないのは、どうしても先を急がないといけない者であるらしいが、それでも後ろ髪を引かれるようにちらちらとスクリーンを見やり、あるいは手持ちの携帯にテレビ中継を映し出している。そういう人々の顔にも自然とにやけたような笑いが見られた。
(……相変わらず、おかしな力だ)
 その中で一人、コーヒーを飲みながらニトロは思う。
 笑っても、怒っても、何故にあのバカ姫はこんなにも人心を掴めるのか。
[やー、笑った笑った]
 涙を拭うティディアは満足気だった。
 音楽はいつの間にか止んでいた。
 それは大戯曲家ルカドーが手遊てすさびに泥酔して書いた『乳房礼賛』、その大迷詩を元にした良くも悪くも現在絶賛流行の曲だった。
 肩から落ちていたショールを直し、ティディアはようやっと正気に返ったらしい男に歩み寄る。男はカーペットの両脇に張られたロープの際で王女に見竦みすくめられて固まってしまった。その頬には辛うじて笑みがあるが、それはむしろ生命の最後の輝きにも思えた。
[ね、そんなにおっぱいが好きなら――]
 訳知り顔でからかうように、ティディアはふいに前屈みになり、その白い指先でドレスの襟をくっと引き下げた。
[あなたも吸ってみる?]
 男は、瞠目した。
 引き下げられた襟の下に覗くのは、鎖骨の窪みを越えて向こうに瑞々しくふくらむ白い乳房。布地の陰で、まるで曙光に照らし出されたかのようにほのかに輝く双丘の尾根。
 男は何も言えず、ただ凝視した。何事が起きているのかと考えることもできず、唖然として、しかし凝然として王女の谷間を覗き込んでいた。その全容は、見えない。しかし、見えないが故にこそ想像力はその秘された丘の頂へと飛翔し、屹立する欲望は谷底へと飲み込まれてしまう。
 そしてカメラはまた、誘惑する王女と固まり続ける男と共にそれをも確かに捉えた。
 王女の左の乳房、その柔肌に赤い痕があることを!
[冗談よ]
 指を離し、ティディアはにっこりと笑った。
[『これ』はニトロだけが許されることだもの]
「ゴブッ」
 ニトロは――堪え切れなかった。
 ティディアがぶちかましたとんでもない言葉にせり上がる怒声ツッコミを、しかし、そのためにコーヒーを吹き出すことになることを。しかも吹き出そうというコーヒーを反射的に飲み込もうとしたら変なところに入ったし。
「ゴホ! ンゴフ! ゲヘッゲホゥ!」
 激しく咳き込む一方で、ニトロは拳を握っていた。
 あのクソ女、さもその胸の赤い痕が俺の仕業のように言いやがって――! それにその痕は……
「……」
 と、ニトロは、そこで気づいた。気づかぬはずもなかった。被っていた帽子を落とすほど咳き込めば嫌でも注目を集める。間近にいる女子中学生が、二人とも眉をひそめてこちらを凝視していた。そして、
「「ニトロ・ポルカト?」」
 二人揃って、言った。
 今のニトロは茶髪のウィッグをつけて、目には暗い青のコンタクトを入れ、無精髭まで付けている。
 しかし、見破られてしまった。
「「ニトロ・ポルカト!?」」
 二人揃って、驚愕に黄色い声を上げる。
 フロアにいる全員にまで理解されることを防ぐ手立てはなかった。
 その上、その全員に、何やら例の男性レポーター相手に受け答えを始めたティディアとこちらを見比べながらにやにやとされることも、防げる手立てなどあろうはずもなかった。
「いや――!」
 だが、ニトロは抵抗を試みた。
「違いますよ!」
 声も作らず、素の声で叫ぶとまた歓声が上がる。ニトロは歓声にめげずに頑張る。
「あれはキスマークなんかじゃない!」
[ニトロったら、時々痛くするの]
「ほざくなティディア!」
 思わず街頭スクリーンへ振り返って怒鳴り、ニトロは慌ててフロアへ振り返り、
「違う! あれは! 絶対に虫刺されの痕ですよ!」
[これだって、遠慮なくちゅうちゅう吸われちゃって]
「きっとモスキートにな!」
 皆のにやにや視線に焦るニトロは我知らず宿敵の妄言に反応してしまう。それはもはや本能、脊髄反射の域であった。
「大体キスマークだったらそんな風にゃならないだろ!」
 そう言った時、女子中学生の一人が、おずおずといったように訊ねてきた。恥ずかしそうに頬を染めながら、しかし興味津々の眼で、
「あの……なぜ、知っているんですか?」
 ニトロは言葉に詰まった。
 なぜと問われれば、キスマークをつけられたことがあるからだ。あれは芍薬の来る前のこと。奴にノイローゼ寸前まで追い込まれた悪夢の期間。ディナーに無理矢理付き合わせ、酔った振りしてよろけかかってきて、そのまま急に唇を奪ってきて! 舌を入れられ、まさぐられ! そうして首に強いキスマークをつけられた! その時は垂直落下式ブレーンバスターで切り抜けた! さらに言えば、実は、ティディアの乳房に付いたキスマークも実際に見たことがあるのだ。また別の日のことだった。いつの間にか寝ている間に部屋に不法侵入してきやがったストーカー王女。皆に知って欲しい、知らぬ間に全裸のクソ痴女が同衾していたと知った瞬間の驚きを! 本気で心臓が止まった! まさか自分で自分の心臓マッサージをするとは夢にも思わなかった! そして、その時、あのバカの体に『キスマーク』があったのだ。どうやって付けたのかは知らない。方法は色々あるだろう。何かの器具でそれっぽく付けることもできるだろうし、共犯足りえる側仕えもたくさんいる、少なくとも俺ではない誰かにつけさせたに決まっている。とにかく「昨晩のこと、忘れたの? 無茶苦茶にしたくせに」じゃねえんだバカ女! 「でも、もっと壊して」とか何言ってんだあの阿呆! その朝はベッドから部屋の外まで巴投げを連発することで何とか難を逃れたけれど!――だが! こんなこと……言えない! 全部語る前に誤解されるだけされて事態がきっと悪化してしまう! でも……待てよ? これはチャンスじゃないのだろうか。ここできっちり、ちゃんと全部語り切れれば?
 ――しかし、ニトロは間に合わなかった。
 彼の逡巡が、周囲に『理解』を及ぼしてしまった。
「きゃー!」
 と、女子中学生達が訳の分からぬ黄色い声を上げる。
 周囲のにやにや笑いが、にまにまと下世話に歪む。
「うあああ、違う! 違うんだ!」
[私のご主人様ったら赤ちゃんみたいにね?]
「ご主人様言うな! てか赤ちゃんって誰がだ!」
[って何を言わせるのよ、ふふふふ]
「本当に何を言ってるんだよ!」
 叫び、それからニトロは頭を抱えた。
 俺は街頭スクリーン相手に一体何をやっているのだ!? こちらの言葉は相手には届かない。いや、電話して怒鳴ってやるか? いやいやそれでは相手の思う壺にはまるに決まってる! 煩悶に自然と身がよじれ、地団太を踏みそうになるのを無理矢理堪えたところがそのせいで何かもう足が攣りそうになってとても痛い!
「あの……」
 女子中学生が、今度はさっきの質問者とは別の一方がおずおずと手を上げて聞いてくる。
「何でしょう!」
 よじれた体をぐるりと直し、ニトロは胸に手を当て礼儀正しく反射的に訊ねた。すると女子中学生は頬を赤らめて、
「“旦那様”?」
 ニトロは反射的にツッコンだ。
「旦那様言うな!」
 ニトロにツッコまれた女子中学生が嬉しそうに頬をさらに赤らめる。
 それを見て、羨望に満ちて、誰かが言った。
「それなら……」
 次の瞬間、ニトロは眩暈がする思いだった。無数の声が揃う!
「王様!?」
「ッ王様ちっがーーーーーう!!」
 歓声と笑い声が上がった。
 むきになって否定するニトロ・ポルカト――そのよく見る光景に、クレイジー・プリンセスが丁寧に丁寧に種を撒き、水をやり、肥料を与えて育ててきたこの絶望的な檻に囚われたニトロ・ポルカトに、しかし皆は心から好意的な眼差しを向けているのであった。
 ついでに、とっくの昔から携帯カメラも向けられていた。
「あの!」
 上機嫌なティディアがダークインディゴのカーペットを歩き去って街頭スクリーンから消えていき、トクテクト・バーガー・ゴッテオン駅前店二階フロアでも『客いじりの漫才』に区切りがついた時、女子中学生達が席を立ってニトロに言ってきた。
「「一緒に写真をお願いします!」」
 普段から仲が良いのだろう、二人は声を揃えて同時に頭を下げた。
 知らずこちらを窮地に追いやってくれた子達ではあるが、素直で礼儀正しい。彼女らの背後には無言でカメラのシャッターを落としている年上の男女がいくらもいる。その中で、くたびれた様子の大人だけが一人手元のボードスクリーンに目を落としていた。
「……」
 ほんの刹那、男が目を上げた。
 そのほんの刹那、ニトロと男の目が合った。
 あんたも大変だね――すぐに目を伏せた男はそう言っているようだった。
「……」
 ニトロは、微笑んだ。目を少女達に戻して言う。
「いいですよ」
 感激して声を上げる彼女達を、それに便乗しようと席を立つ他の客達を眺めつつ、ニトロはさりげなく取り出した携帯を操作して芍薬に迎えを頼んだ。すると即座に、既にロータリーへ車を向かわせていると返答があった。どうやら芍薬も中継を見ていたらしい。ならばここからも速やかに離脱できる。
(苦労をかけるなぁ)
 ニトロは内心で苦笑し、それ以上にこちらの失態を読んでみせた芍薬に感嘆しながら、
「でも、どうします? このままでいいですか?」
 落としっぱなしだった帽子を拾って携帯をテーラードジャケットの胸ポケットにしまい、早速写真撮影の準備をしている少女達へ、彼は無精髭の付いている己の顎を指でとんとんと叩いてみせた。
「それとも、元に戻りましょうか」

19:45 ―中吉―


 副王都セドカルラまで『キモノ』や『ユカタ』の布を買いに出かけた帰り道。
 王都ジスカルラに向けて飛ぶ韋駄天の運転席で、ハラキリは腹を抱えて笑っていた。
「あっはっはっはっは!」
 彼の前には二つの宙映画面エア・モニターがある。一方にはドロシーズサークルで行われている『文芸祭』前夜祭でティディア姫に起こった事件の動画があり、もう一方ではインターネットに投稿されていたファストフード店内でのニトロ・ポルカトの大慌てが演じられている。二窓で双方のタイミングを合わせて流してみると、これがもう楽しくって仕方がない。
「あぁっはっは! ははははは!」
「ソンナニ笑ウト怒ラレマスヨ?」
 助手席に座る少女――イチマツ人形をそのまま大きくしたような少女型のアンドロイドが眉をひそめて言う。
「大丈夫だよ」
 荒れた息を整え、ハラキリは大きく息をついた。
「こっちは撮影されてないからね」
「『ディレイ録画』ニャ間ニ合ウゾ」
「やめてくれ」
 韋駄天の指摘に苦笑を返し、ハラキリはもう一度こみ上げてきた笑いを漏らし、そこでようやっと落ち着いた。
「全く……これはニトロ君が不運なのか、おひいさんが幸運なのか」
「ドチラモジャネエカ? イヤ、キットニトロガ凶星背負イスギテンダロウナ」
「韋駄天」
「オット、怖イ怖イ」
 撫子に叱責された韋駄天が笑いながら声を消す。
 ハラキリはエア・モニターを消し、フロントガラスの向こう、眼下に映る王都を――その大地に満ちる人工の星々を眺めやった。
 今、あの星の一つに親友がいる。
 今、あの星団のどこかに友達がいる。
 そのどちらかに、これから会いに行ってみようか。
 そうしてとても楽しかったと感想を言ってみようか。
 彼は怒るだろうか? きっと怒るだろう。だが、ちょっとフォローをしてやろう。
 彼女は喜ぶだろうか? きっと喜ぶだろう。だが、ちょっと皮肉を刺してやろう。
「進路ヲ変エマスカ?」
 ふいに、撫子が言った。
 心を見透かすような言葉に驚き、ハラキリは撫子へ顔を向けた。
「ソレクライハA.I.ワタクシデモ簡単ニ察セマスヨ?」
 秋色のキモノを着た撫子が小首を傾げると、肩の上で切り揃えられた絹糸のような人工毛髪がおどけて揺れる。
 ハラキリは、笑み、
「いや、まっすぐ帰ろう」
 そして肩越しに後部座席を見る。
 そこには買い付けてきた『タンモノ』が積まれていた。
「早く作りたいだろ?」
「――ハイ」
 撫子は一瞬の躊躇いの後、嬉しそうに微笑んだ。
「コレデ芍薬ニ、誕生日会ニ着テイク良イモノヲ贈ッテヤレマス」
 実際に地球ちたま日本人にちほんじんがタンモノからキモノを作るのに必要な日数は解らない。が、不眠不休で集中力も切らさず作業のできるA.I.アンドロイドの手にかかれば、約二週間後に迫った重要なイベントまでに一枚作ることは至極余裕だ。
「ウィーバー婦人との話は随分盛り上がったようだね」
 ハラキリは、それが皮肉にならないように気をつけて言った。撫子はうなずく。
「トテモ参考ニナリマシタ。『キモノ』ヤ『ユカタ』ノ縫イ方ニハマダマダ改良ノ余地――イエ、考察ノ余地ト言ッタ方ガ良イデショウカ」
「解るよ」
「現在ハトニカク形ヲ合ワセテイルダケト思エル所モアリマスガ、今後ハサラニ本物ニ近ヅケル予定デス」
 そこで撫子は言葉を区切り、ちょっと悪い顔で笑った。
「コウナッテクルト、是非『実物』ヲ手ニ入レタイデスネ」
「――ハッ!」
 ふいに韋駄天が短い声を上げた。驚きでもあり、笑い声でもあった。全星系連星ユニオリスタ非加盟国、かつ外宇宙進出もまだの辺境の星から物を持ち出したり、それ以前に『入星』したりすることは違法だ。それを承知の上で真面目な撫子は言ってのけたのだ。
 にやりとして、ハラキリは問うた。
「それは教唆? それとも予告?」
「モシ、ハラキリ様ガアノ星ニカレルコトガアレバ、ソノ時私ハ必ズオ側ニイルデショウ」
「わざわざ行かなくても、手に入れることはできるかもしれないんじゃないかな」
「エエ」
 撫子は、口に片手を当てて笑った。それはどこか意味深な笑みだった。
 そして意味深といえば、先の言葉もそうである。
 ――お側にいる
 ハラキリは腕を組み、
「……珍しいな。撫子がそんなことをはっきり口にするなんて」
「ソウデスネ。少々、芍薬ガ羨マシクナッタノカモシレマセン」
「芍薬を?――いや、本当は、ニトロ君をかな?」
 目を細めたハラキリに、撫子はわずかに目を細めただけで応えない。
 ハラキリは、困ったように眉を垂れた。
「拙者は彼とは違うよ」
「承知シテイマス」
 撫子はうなずき、それ以降はもう何も言わなかった。
「ところで」
 ハラキリも無論、話題を継がなかった。
百合花おゆりはちゃんと仕事を?」
「ハイ。結果ハ帰ッテカラ伝エルト」
「そりゃ意地悪だ。焦らさなくてもいいだろうに」
「『人遣イ粗イ旦那ダンサンナンテ逸ル心ニ苛マレナンシ』――ト」
「そうか。それじゃあご褒美も少し焦らしてやらないとね」
「アンマリ意地悪シナイデヤッテ下サイ」
 困ったような撫子のセリフにハラキリは笑い、ややあってから、うなずいてみせた。
「トコロデ」
 すると、撫子がエア・モニターを起動させながら言った。
「コチラモゴ覧ニナリマセンカ?」
「何?」
 ハラキリが目をやると、モニターに映像が流れた。
 映像に付随している投稿時間を一瞥すると、こちらも友人達の動画と同じくつい先ほどインターネットにアップロードされたものだった。
 映っているのは……ケルゲ公園駅のロータリーか? あそこは『劣り姫の変』の舞台の一つとなったため、最近はその手の観光客も増えているという。どうやらこの映像もそういう類のものらしい。マイクは雑踏の音を拾っていた。バスの発車アナウンスが聞こえ、母親にアイスをねだる子どもの声が近づいて、遠ざかっていく。日の光は夕焼けの頃の暖かな色をしている。
 しばらく大して意味のない映像が続いていたが、やがて、大柄な男が慌てた様子で画面に駆け込んできた。
[ソーニャ!]
 彼が呼び止めたのは、長い金髪を悲しげに揺らして駅に向かっていた女性であった。
[待ってくれ! 聞いてくれ!]
 男は必死に叫んでいた。
 女は、止まった。
 振り返った女の顔には怒りはなく、そこには失望と、諦めに似た影があった。
 その暗い眼差しに男は怯んだようだったが、ぐっと唇を噛み、意を決したようにハンドバッグから何かを取り出し、それを大きな手で握り締めたまま、百を軽く超える衆人環視の中で声高に叫んだ。
[愛している! 愛している! ソーニャ! 俺は、お前を心から愛している!]
 女の顔から失望が剥がれ落ちた。諦めに似た影も消え、瞳に光が射した。
 男は手に握りこんでいたリングケースを差し出した。
 蓋を開けると、夕映えの光を受けて、ダイヤモンドがきらりと閃いた。
[俺について来てくれ]
 そう言ってから男は首を振り、言い直す。
[俺について来い! 絶対に幸せにしてみせる!]
 女は手で口を覆っていた。その目には宝石よりも輝かしい涙がきらめいていた。
 やがて――女は、答えた。
 周囲で拍手喝采が爆発した。
 それを眺めるハラキリは、ただただ苦笑していた。
「まあ、良かったですね」
 彼には、それ以外に言うことはない。
 早くも興味を失いつつあるマスターに、撫子は悪戯っぽい目を送った。
「ソレダケデスカ?」
「それだけだね」
「コチラヲ」
「?」
 撫子の言葉に眉根を寄せたハラキリを誘うように、動画が巻き戻る。
 男が再び女を必死に呼び止め出した。
[待ってくれ! 聞いてくれ!]
 必死に叫ぶ男の後方に、ふと、白い矢印が現れる。
 その矢印が示すのは、ほとんど画面から見切れている一点。
 そこに、ハラキリの通う高校の制服を着た男女が小さく写っていた。少女は黄色いラインの入ったスニーカーを履いていた。
「――あ」
 ハラキリは短く声を上げた。
 動画が少し早回しされる。
 拍手喝采が沸き起こる中、人々の陰に再びあの少年と少女が映り込む。
 彼と彼女は、先ほどは二人並んで歩いているだけだった。しかし、今はしっかりと手を握り合っていた。
「以上デス」
 すまし顔でそう言って、撫子はエア・モニターを消した。
 ハラキリは呆然と画面のあった空間を見つめたまま、うめいた。
「なるほど、これは観察が足りなかった」
 画面が消える寸前、二人はどうやら公園に向かって歩いているようだった。映像ではこれから夕暮れとなり、やがて夜を迎える。ケルゲ公園、あそこはメジャーなデートスポットでもあるから――
「ソレ以上ハ、下世話デスヨ?」
 顔をしかめて撫子が言ってくる。ハラキリは口角を引き上げた。
「おや、また何を考えているのか解った?」
「大抵ノ人間ノパターンデス」
 そう言われては立つ瀬がない。ハラキリは肩を揺らして笑い、それから王都の纏う数億の電飾の煌きを見つめ……やおら、妙に悦ばしい心地を目元に浮かべてつぶやいた。
「まあ、良かったですね」

20:00 ―後吉―


 楽しみにしていた食べ物が全くの期待外れに終わってみると、そのダメージは意外にも後を引くものだ。
 有名ファストフードチェーンであるトクテクト・バーガーが本日0:00より発売した新製品に落胆したニトロは、やはりダメージを引きずったまま帰ることは忍びなく、そこで何をどうして心を癒そうかと考えたところ、件の新製品はリララマという地方の料理をコンセプトにしていたため、ならばどこかの地方料理で敵討ちをしようと思い至った。
 そこで芍薬に良さそうな店を調べてもらうと、彼が入ったトクテクト・バーガー・ゴッテオン駅前店から5kmほど西に走った王都二区と三区の境界線上に、二人共に馴染みのあるルッドラン地方の料理を出す店が見つかった。
 ルッドランという響きには、ニトロは良い印象を持っている。
 その場所と縁を持つことになった一件についてはともかく、実際に訪れたその地では楽しい思い出が勝っている。
 ――ニトロには、トクテクト・バーガーでの落胆のみならず、その店内で自分の不注意もあって引き起こしてしまった出来事トラブルのため、折角芍薬が成功させてくれていた変装を無駄にしてしまったという己への不満も少なからず存在していた。芍薬はもちろんそんなことを気にしてはいないし、マスターの失態よりも、そのトラブルを引き起こした根本である『あのバカ』に対してばかり気を尖らせていたのだが……こういう憤懣を解消することにも、やはり食道楽こそ適切な手段だろう。それが良い印象の地方の料理となればなおさらだ。
 目的の区境くざかいには国道3号と7号を連絡する道路が走っていて、その店は、交通量の多い道の脇にふいに現れる飲食店の集合地帯の一角に居を構えていた。『銀の背の羊亭』と書かれた看板が、山小屋を模した外観の上で青く輝いている。
「いい感じだね」
 近くの地下駐車場から歩いてやってきたニトロは、街灯の光を浴びて紺色のユカタを夜陰に浮かび上がらせる芍薬に笑いかけた。
 芍薬――という今では勇名高きオリジナルA.I.、そしてそれの駆るアンドロイドを共にするニトロは、今、自身も正体を隠そうとしてはいない。立ち止まった二人を追い越したスーツ姿の男が、通り過ぎ様に「あ」と口を開けて、それからはちらちらと振り返りながら歩いていく。
「一応評判ハ良イ店ダヨ。実際ニモ、味ガヨカッタライインダケドネ」
 芍薬はちらと『銀の背の羊亭』の隣の店を一瞥した。そちらは『串刺し肉!』と黄色い地に赤文字を煌かせるBBQ&網焼きステーキの店だった。もうもうとした煙が物凄い勢いで換気扇に吸い込まれていく店内には大勢の客がいて、窓際には大きなビールジョッキを掲げるようにして飲み干す中年男性達がいる。一方で『銀の背の羊亭』はとても静かだ。
「当たり外れも食べ歩きの醍醐味だよ」
 笑みながら、ニトロは言った。
「さっき外れを引いたから、今度はきっと大丈夫」
「逆ニ不安ニナラナイカイ?」
 悪戯っぽく言われ、ニトロは笑みを深めた。一歩進み、
「いや、絶対大丈夫――」
 そう言いながら芍薬へと振り返った時、ニトロはふと歩道の隅、車道間際に鈍く閃く物を認めた。
「?」
 何かと思って歩み寄ってみると、それは真鍮製らしいペンダントだった。かなりくすんでいて、光を照り返すのも車道を行く車のライトがうまく当たった時くらいなものである。
「『太陽ヲ抱ク蹄鉄』ダネ」
 ニトロが拾い上げた物を見て、芍薬が言う。それは確かにアデムメデスで『縁起物』と呼ばれる物の一つだった。少したわんだU字の蹄鉄で燃え盛る太陽を拾い上げているようなデザイン。普通は表裏のないように作られるのだが、これは違った。表側には細かい彫刻で飾られた太陽が勢いよく燃えているが、さながら未加工にも思える扁平な裏側にはどうやら手彫りしたらしいイラストが太陽の中に描かれている。
「鳥の巣に眠る猫?」
「抱卵シテイルノカモネ」
「ああ、なるほど。そうかも」
 これが本当に手彫りであれば随分しっかりしたものだと感心しながら、ニトロは芍薬に言った。
「まあ、まず落し物だよね」
「御意」
 となればやることは一つだ。ニトロは芍薬にペンダントを渡し、
「写真をここの『街角拡張現実ディストリクト・AR』に掲載してくれる?」
「承諾」
 ペンダントを受け取った芍薬はそれを撮影のしやすいように持ち上げ、光の加減のよいところで一時凝視した。そうして画像データを作ると、マスターに命じられた通りに自治体のインフラである『街角拡張現実ディストリクト・AR』のサーバーへアクセスし、その落し物コーナーへペンダントを拾った時間・位置情報と共に投稿する。
「近くに交番は?」
「スグ先ニアルヨ」
「届け先はそこで」
「承諾」
 芍薬は送信した情報に付記を加え、アクセスを切った。芍薬がうなずくと、ニトロもうなずき、
「それじゃあ、行こうか」
「ドコニダイ?」
 芍薬は思わず苦笑した。ニトロはきょとんとして、
「どこにって、交番にだよ」
 さも当然と言うマスターへ、芍薬はおかしそうに肩を揺らして言う。
「あたしガ行ッテクルヨ。主様ハ、委任状ダケ送ッテオクレ」
「でも」
「イクラスグ先ニアッテモ、主様ヲ連レテ行ッテ手続キヲシテ、戻ッテ……ナンテシテタラ遅クナッチャウヨ。主様ガ食ベタイッテ言ッテタノハ煮込ミ料理デモアルシネ? 大丈夫、料理ガ出テクル前ニ戻ッテクルヨ」
 芍薬の言うことはもっともだった。
 ニトロは了解した。それに、あまり一所で立ち止まっていては――努めて気にしないでいたが――この場所に人垣を作ってしまいそうでもある。
「それじゃあよろしく頼むね。委任状はすぐに送るから」
「御意」
 芍薬は『太陽を抱く蹄鉄』を懐に、何かしらの撮影機能を働かせている人々の作る薄い壁を一礼しながら通り抜け、ポニーテールをふわりと浮かせて音もなく走っていく。
 フラッシュが一つ、二つ、光った。
 ニトロはもう慣れたことだと思いながら、しかしやはりどうしても慣れないものを懐に、一人『銀の背の羊亭』へと歩を進める。
 隣の『串刺し肉!』店の窓際で赤ら顔を並べる中年男性達が、ニトロへ大ジョッキを掲げて見せた。その陽気な様子にニトロは笑顔を返して、ルッドラン地方料理店の厚い木の扉――実際には厚くともコルクのように軽い合成木材の扉を開いた。
 外から見ては静かな店だったが、入ってみると店内には朗らかな賑やかさがあった。七人掛けのカウンター席と、四人掛けの丸テーブルが三セット、一番奥に二人掛けのテーブルが二卓ある。空席はカウンターに二つと、奥に一つしかなかった。外に『ニトロ・ポルカト』がいると気づいていなかったらしい、来店した新規客に顔を向けた皆が一様に驚きの色を酔いに重ねてその目を見開いた。
「おお!」
 中でも驚きの声を上げたのは、カウンターの中にいる店主だった。歳は四十前ほどだろうか。固太りで、くせっ毛の髪の下に丸い頬をつけている。彼は双眸をその頬よりも丸くしてカウンターの中から飛び出てきた。
「これはこれはニトロ・ポルカト様! ようこそ『銀の背の羊亭』へ! これはこれは、光栄です!」
 言葉の勢いそのままに強く熱い握手まで受けて、今度はニトロが驚く番だった。
 あまりの歓迎振りに彼が目を丸くしていると、店主は客の疑念を察したらしい。
「ルッドランの人間であなたを歓迎しない者はありません。あなたはミリュウ様をお救い下さったのですから!」
 白いエプロンの前で拳を握り、感激に瞳を輝かせる店主のその言葉を聞いてもニトロにはいまいち合点がいかなかった。確かに、ミリュウ姫とルッドラン地方には縁がある。しかしその縁は、ここまで土地の人間の心を揺さぶる性質のものだったろうか? もちろん、現在はそういった性質の縁も培いつつあるのだろうが……
 呆気と疑問に囚われているニトロへ、店主はなおも笑顔で言った。
「お分かりになりませんか? あなたは、セイラ・ルッド・ヒューラン様のお仕えする御方をお救い下さったのです」
「そうだ! よくやってくださった!」
 と、どうやらルッドラン地方の人間らしい五十絡みの男がカウンターでジョッキを掲げた。
 なるほど、そういうことかとニトロはようやく納得した。
 王家の人間に直接仕えるということは、この星にあっては最高のステータスだ。特に貴族にとってこれ以上の誉れはない。ルッドラン地方は、田舎だ。悪くいうのではなく、正しく田舎なのだ。そのような土地から王家に抜擢されたとなれば、確かにその大出世は個人のみならず土地にとっても最高の誉れとなるのだろう。
「あれはただ、何事もうまくいっただけです。僕はそのお手伝いをしただけですよ」
 とはいえ、これほど歓迎されることには照れがあるし、少し心苦しくもある。ニトロが眉を垂れながら言うと、店主は首を小さく振り、しかしそれ以上は何も言わず、ただ快く『英雄』を迎え入れた。
「さあ、どうぞ。カウンターになさいますか?」
「あ、一人ですが、二人席でお願いします。アンドロイドの同席が駄目ならどうか遠慮なく言ってください。こちらは大丈夫ですので」
「ああ、芍薬様ですね? もちろん大歓迎です! さ、ではあちらへ!」
 店主に席へと通されるニトロにそこかしこから声がかかった。大抵の者は常連客らしく、ほろ酔いの者も完全に酒の回っている者も、もはやこの星で知らぬ者のない少年に好意的に声をかけてくる。それらに会釈を返しながら席に着いたニトロへ、店主が人の好さそうな笑顔をにっこりと浮かべて、
「ご注文は何になさいますか? 当店自慢の料理、腕を振るってお作りいたします!」
 流石にニトロが苦笑いを浮かべかけた時である。
「あんたはいい加減厨房に戻りな。お客さんを待たせてるだろ」
 と、ほっかむりにエプロンをした細身の女性が店主の尻をすぱんと叩いた。注文を聞かずに戻ることを渋る店主を強引に厨房に追いやった女性は、どうやら店主の妻らしい、ニトロへ少し垂れ気味の細目を寄せて、
「すいませんね、うちのものが興奮しちゃって。ただ、腕はいいんでご安心を。こちらメニューです」
 ボードスクリーンをニトロに渡し、おかみは満面の笑顔を――それもきっと店主と同じ性質の歓迎の表明だろう――残してホールの仕事に戻っていく。
「……」
 ニトロの注文は、店に入る前から決まっていた。しかしすぐに言うのは何だかはばかられて、メニューを見る。
(あ)
 そこで彼は芍薬との約束を思い出した。携帯を取り出し、A.I.に落し物を届けさせたことを証明する――つまり落し物に関わる責任・権利を人間マスターが有していることを証明する委任状を作成、署名して送信する。すぐに応答があった。後は遺失物の所有権に関すること等にも芍薬が適切に対応してくれるだろう。
「すいません」
 ニトロはおかみを呼んだ。こちらもすぐに応答し、ビールをなみなみと注いだジョッキを二つ隣のテーブルに置くと端末を手にやってくる。
「レスキズパをお願いします。それと――」
 メニューに目を落とし、
「このおすすめのチーズプリンを食後に」
「いやあ、ポルカトさん、あんた分かってるね!」
 ふいにカウンターから声が飛んできた。
「ルッドランに来だらレスキズパを食わねぐっちゃなんねいよ!」
「グラドっさん飲みすぎよ!」
 おかみが笑いながら言い、ニトロへ振り返る。
「でも、その通り。うちの自慢です。そうだ、パンはどうなさいますか? 柔らかいものもありますが」
「もちろん『くそ石パン』を」
「えらい!」
 またカウンターから声が飛んでくる。
「グラドっさん!」
 おかみが叱責すると、そのやり取りに客達が大笑いした。
「――かしこまりました」
 ニトロに向き直り、笑顔でおかみは訊ねる。
「煮込みますか? 浸しますか?」
「煮込んでください」
「はい。それでは少々お待ちくださいね。お飲み物は?」
「食後にプリンと一緒にルッドランティーを。あとは水をお願いします」
「あら、お酒は召し上がりませんの?」
 そう問われてニトロは苦笑した。
「残念ながら、未成年ですから」
「おかみ、失敗したな!」
 グラドっさんが耳聡く茶々を入れてくる。それにも客達は笑い声を上げる。
「すみません、今はもう“満席”なんですよ」
 二人組が――その視線からして『ニトロ・ポルカト』目的らしい――入ってきたところを店主が応対していた。既存の客達はこちらに注目はしているが、先ほどの店主の態度がうまくブレーキにもなったようでずけずけと話しかけてはこない。おかみはニトロのために水を持ってきて、すぐに厨房から厚切りベーコンをかりかりに焼いたところへ熱で溶かしたチーズをとろっとかけた一皿をグラドっさんの隣に座る中年女性に運んでいく。
「……」
 明るい店内の片隅でニトロは水を飲み、いい気分だった。
 最初は驚いたが、今はもう落ち着いた。
 しばらくして、芍薬もやってきた。異星いこくの衣装に身を包み、今や象徴ともなっているポニーテールを揺らして切れ長の目に凛とした立ち居振る舞いの女性型アンドロイドが入ってきた時、店内には思わぬほどの歓声が上がった。
「――ドウシタンダイ?」
 ニトロの対面に座った芍薬が、流石に驚きを隠せず問うてくる。ニトロがかいつまんで説明し、芍薬が得心のうなずきを見せたところで、注文の料理が届けられた。
 厚く、底も深い皿の中で赤茶けたスープがなみなみと湯気を立てていた。スープのベースになっているものは、もはや形をなくしたタマネギとワイルドトマトだ。野生種に近いトマトの赤に他の具材の色が溶け込んで、それが味の奥行きの深さ、複雑さを目に伝えてくる。煮込まれたことでとろりとしたスープからはごろっとしたマトン肉が、また見るからにぷるんとした羊の内臓モツが、今にもほろりと崩れそうなニンジンやジャガイモの間にその肌を見せている。スプーンの腹で容易に潰せるほど柔らかなカンガラ豆はまるでクリーム色をした玉石にも見え、それが作る敷石の上で肉とモツから出た旨味たっぷりの脂が絶えずきらきらと艶めき、輝き、立ち昇る湯気には様々な香りが混じり合う。中でもルッドラン原産のウィッチマリーというハーブ独特のスパイシーな香気が一際華やかに食欲を刺激してくる。
 そして、肉と野菜から出たダシとコクと旨味を存分に吸い取りながら波間に浮かんでいるのが、通称『くそ石パン』……冷蔵庫もない時代から作られているパンだった。それは保存優先のために皮が石のように固くてそのまま食べるにはとても向かない。味自体も非常に酸っぱく、生地はぱさつき粗い舌触りだ。正直、くそ不味いパンである。だが、どういうわけか、これをこの煮込み料理でふやかして食べると驚くほど旨いのだ。直前に浸して食べるのもいい。しばらく一緒に煮込むことで石のように固い皮が焼き麩のような食感に変わったところを食べるのもいい。
 ニトロは、ミリュウの成人祝いのパーティー会場でこれを食べ、以来、いたく気に入っていた。
「いただきます」
 目を輝かせてニトロが言うと、店主とおかみが郷土を誇るように「おあがりなさいませ」と笑顔を返した。
 食事は楽しかった。
 レスキズパは前に食べたものとはまたちょっと違いながら、しかしとても美味しく、家庭によって違うと聞いたその味わいを深く堪能できるものだった。
 芍薬が来たことで、客達もそれをきっかけに頻繁に話しかけてきたが、それをすべてニトロが相手をすることもない。芍薬が同席していると、質問や話題の向きが『ニトロ・ポルカト』だけではなく『戦乙女』にも分散するからだ。もちろん芍薬にとってはマスターと食事の席で談笑することも楽しみだが、本人の意思としてはむしろこのためにこそ同席していると言っても過言ではなかった。話が『恋人』のことに及ぶのは厄介だが、それも芍薬は強く否定することはなく、ただやんわりと否定的な言い回しを続けて場の空気を壊さない。本来なら頑固に否定したいところではあるのだが、その否定はあのバカ姫のせいでどうあっても『照れ隠し』に受け止められる段階に至ってしまっているし、その段階に至っては強くしつこい否定はかえって惚気のろけにも受け取られ、それどころか――謙虚も過ぎれば嫌味となるように――最悪傲岸な自慢にも取られてしまう。それはマスターにとって不利益以外の何ものでもない。
 希代の王女と『ニトロ・ポルカト』のロマンティックな出会いを口にしてきた隣席の女性へ芍薬は微笑みを返し、
「“ロマンティック”ナルモノハ、イツモソレガ“夢”ダカラト存ジテイマス」
 耳まで真っ赤にして酒に酔い、ロマンティックな恋物語に酔う女性は意味を解さなかったようだが、彼女の上司か何かだろうか、同席している年かさの男は何か引っかかるものを感じたらしく興味深げな眼を芍薬に寄せた。が、その引っかかりが何かまではほろ酔いの頭では察しきれなかったらしく、女性が芍薬に質問する王城や高級ホテルの様子に興味を移して耳を立てる。
 芍薬は、流石はA.I.の記憶力、まさしく見たものを寸分違わず語った。その語り口も見事なもので、ただの説明には陥らず、言葉で絵を描くような語りっぷりは同じ光景を見てきたはずのニトロでも惹き込まれてしまうほどだった。
 そして、そうしている内に、次第に会話の中心は芍薬となっていく。
 話題も主にマスターと共に出向いた先の風光明媚を語ることになる。
 あるいは絢爛な貴族のパーティーを、素朴で温かな地元の人達との触れ合いを、今一度この場に蘇らせてみせるのだ。
 今日の主題となったのは、自然のごとく、ルッドラン地方に出向いた時のこと、山道を歩きながら見た風景のこと、そこで見た人々のことだった。
 質問に合わせて『戦乙女』は語る。
 ミリュウ姫のためのパーティーのことにも少し触れ、最後には列車に乗って山脈を去ったところまでを、レスキズパをおかわりしたニトロの食事のペースに合わせて語っていく。
 マスターへの忠節と愛情に満ちた言葉遣いは聴衆に感動を与え、そして聴衆に感動を与えている芍薬を眺めることはニトロにとってはこの上ない誇りでもあり、また幸福でもあった。それが美味い食事を伴っていれば、なおさらであろう。
 セイン・ルッド・ヒューラン――セイラ・ルッド・ヒューランの兄の紹介で取り寄せたというチーズプリン(これがビックリするくらい美味しかった!)と、ルッドランティーで晩餐を終えたニトロは、腹も、胸も、大満足だった。
「是非、またいらしてください」
 我を押し通して支払いを終えたニトロへ、店主が言った。
「いつでも歓迎いたします。もちろん芍薬様も。またルッドランのことを語っていただきたいものです」
「グラドっさんね、こっそり泣いてたんですよ?」
 おかみが、カウンターでこくりこくりと船を漕いでいる男性を肩越しに示して言う。
「思い出しちゃったんでしょうね、故郷のことを色々と」
「本当によいお話を聞けました。わたしも帰りたくなっちゃったもので……いえ、まだまだ王都で頑張らせていただくつもりなのですが!」
 ニトロは芍薬と一瞬目を合わせ、そして微笑み、
「ご馳走様でした。とても美味しかったです。いずれ機会があれば、もちろんまた立ち寄らせていただきます」
 感激の目で手を差し出してきた店主と握手を交わし、ニトロは『銀の背の羊亭』から外へ出た。
「うわ」
 店の前には人だかりができていた。思わずうめいたニトロの前に芍薬が立ち、そこかしこでシャッター音が鳴る中、丁寧な物腰で、しかし力強く断固として道を作っていく。
 どうにか地下駐車場に辿り着き、車に乗り込んだところでニトロは一つ大きく息を吐いた。
「まさかあんなに“出待ち”がいるとは思ってなかったよ」
 時間は21:43――店には一時間半ほど滞在していた。
 車を出しながら、運転席の芍薬は言った。
「キット暇人バカリナンダヨ」
 ニトロは笑い、それから助手席のシートに深く腰を沈めた。
 地下駐車場を出ると、少し先に交番の明かりが見えた。
「あ、あそこにあったんだ」
 地下からの出口は入り口とは別のところにある。位置関係を思い描き、本当に“すぐ先”にあったのだとニトロは悟った。
「聞き忘れたけど、どうだった?」
「万事問題ナク。所有権放棄デ手続キシテオイタヨ」
 それなら謝礼やら何やらと煩わされることもない。ニトロはうなずいた。
「ありがとう」
「御意」
 芍薬はすぐには空へと飛行車を浮かび上がらせず、交番の前を通った。
 その明かりをぼんやりと見つめていたニトロは、つぶやくように言った。
「何かあったのかな?」
 交番には人がいた。警察官は元より、他に四人。
 ちょうど赤信号となり、交差点の角にある交番の前で車が止まる。
 そこでよく見てみると、警察官は何やら興味深げな顔をしていた。
 他の四人の内訳は男が二人と女が二人。それぞれ男女で組を作っているらしい。片方は初老の夫婦であるようだ。もう一方は、兄妹、だろうか。ポニーテールを朱に輝くリボンで飾る若い女性が、揃って頭を下げる初老の夫婦へ、困惑しているような、驚いているような、それとも感動しているような……そんな複雑な表情を向けて、何やら互いに熱心に話し合っている。
 信号が青となり、車が動き出す。
 交番の中で繰り広げられている人間模様が後ろへ去っていく。
 通りにはまだ人が多くあり、皆それぞれに、思い思いに歩を進めている。
 ニトロは目を車内に戻したところで肩の力を抜くように息をつき、
「さて、家に着くまでお勉強をしようか。
 芍薬、銀河共通語のヒアリングに付き合ってくれる?」
「御意。ソレジャア――エァ・ウ・シィア? ワミ・マストレア」
「ミャ.ワ・オ・シィア」
 早速言語を切り換えて話しかけてきた芍薬へ、ニトロも同じ言語で答えを返す。
 そこで、ふと、二人は同時に言葉を止め、何とはなしに同時に互いを見やりあい、
「……」
「……」
「「プッ」」
 そして同時に、何故だか笑い出してしまった。
 笑いながら芍薬は今日の出来事について銀河共通語でゆっくりと話し出す。
 ニトロも笑いながら芍薬の言葉を聞き取っていく。
 二人を乗せた飛行車は、王都の夜空へとゆるやかに浮かんでいった。

2014−4 へ   2014−6 へ

メニューへ