2014−3へ

4:50(王都時間15:50) ―大凶―


 目を覚ましたミリュウは、部屋付きのA.I.に刻を訊ねて、自分が早く起きすぎてしまったことを知った。
 しかし、どうやら完全に目が醒めてしまったようで、再度瞼を落としてみても、外はまだ暁闇の底だというのに意地悪な睡魔は一歩たりとて戻ってこようとはしてくれない。
 ならばベッドに横たわり続けていることは時間の浪費だと、彼女は起き上がった。就寝前にセイラが用意していった部屋着に着替え、早速何か仕事をしようと部屋を出る。
 星明りの差し込む薄暗い廊下に人が出てきたことを感知して、常夜灯が少し肌寒い空気の中にぼんやりと灯った。
 廊下に面する部屋にはまだ寝ている小さな子どももいる。
 ミリュウは廊下を静かに歩き、玄関ホールへのドアを抜けていった。
 玄関ホールには、小ぶりなシャンデリア型の照明が煌々と輝いていた。そろそろ畜舎に行こうという人間を送り出すために、タイマーセットされていた空調が穏やかな暖気を広々とした空間に満たし始めている。ミリュウは吹き抜けになっている玄関ホールの二階から壁に沿って作られている階段を下りて、真っ直ぐキッチンに向かった。
 換気扇の回るキッチンには、既に忙しく動き回る女性がいた。
「あれ、姫様」
 白い袖付きエプロンをつけてジャガイモの皮をむいていたセイラのすぐ下の妹、サリイがミリュウに気づいて声を上げる。二児の母である彼女は少しこけた頬に怪訝の色を浮かべ、
「どうなさいました。今日は当番ではないでしょうに」
 一度結婚して家を出て、二年前に離婚してこのルッド・ヒューラン邸に戻ってきた彼女の面には、まだその頃の苦労の面影が残されている。しかし、彼女の母は以前に比べれば随分顔色が良くなったと喜んでいて、それに姫様が来てからは顔つきもずっと好くもなったと涙を浮かべていた。
「早く起きちゃったから、何か手伝えることはないかなって」
「ごゆっくりなさればよろしいですのに。姫様は本当に働き者でらっしゃいますね」
 ミリュウと話せることがとても嬉しそうにサリイは微笑み、
「でも、そうですねえ……」
 ジャガイモの皮をむきながら器用に周囲を見回し、
「そうだ、レスキズパを作りますのでウィッチマリーを採ってきてくださいますか」
「分かった。レスキズパは、夜の?」
「はい」
「サリイのレスキズパ、とても美味しいものね。今から楽しみだわ」
 その言葉にサリイは頬をあからめ、一礼をすると料理を再開した。王女の言葉がよっぽど嬉しかったのだろう、彼女は鼻歌を歌い出していた。
 そしてミリュウも、今晩、大きな楽しみができたと喜んでいた。こちらも今にも鼻歌を奏で出しそうな様子で早速キッチンを出ると、玄関ホールに戻り、そこから中庭に出た。
 ウィッチマリーは、ルッドランティーに使われるトルカモンと並んでこの地方原産のハーブだ。全体としてはローズマリーに似ているが、低木ではなく多年草で、葉が少し幅広く、そこに無数の皺が寄っている。『魔女のマリーウィッチマリー』とは、ローズマリーに似ているからということだけでなく、一日中直射日光の当たらない日陰を好む性質と、その葉の皺の寄り方からも付いた名であるらしい。ハーブとしては、別名『匂い葉胡椒』と言われるほどスパイシーな香りが特徴で、しかしベースにはほのかな甘い香りがあり、肉や魚の臭み消しとして特に有用だ。マトン肉と羊の内臓モツをカンガラ豆や野菜と共にタマネギとワイルドトマトをベースにしたスープで煮込んだルッドラン料理『レスギズパ』にはこのハーブが絶対に欠かせない。そしてその煮込み料理で、冷蔵庫もない昔のパン――保存優先のため石のように皮が固く、酸っぱく、生地はぱさつき粗い舌触りの、有体に言ってくそ不味いパンをふやかして食べると、これが驚くほど美味しいのだ。
 中庭に出たミリュウは、一瞬暗闇に目が眩んで、立ち止まった。
 明るい場所から暗い場所へ飛び出たために慣れぬ目が驚いてしまったのだ。
 それでも、まさに降るような星の明かりが中庭をぼんやりと照らしている。徐々に目を慣らしながら、ミリュウは家庭菜園の隅、正午になっても暗い場所に植えてあるウィッチマリーに辿り着いた。そこで彼女は、ハサミを忘れていたことに初めて気がついた。
(うっかりしちゃった)
 手でちぎり採ることもできるが、それだと不必要に傷つけてしまうこともある。ウィッチマリーは、そういう意味ではとても弱い植物だ。
 ミリュウは迷わず家庭菜園から少し離れた隅に向かった。そこに家庭菜園用のスコップや剪定バサミを入れた道具箱が置いてあるのだ。
「えーっと」
 目を凝らすと、暗がりの中のさらに陰の中にぼんやりと四角い輪郭が見えた。壁に背をつけてうずくまっているような道具箱に近づき、手を伸ばす。
 ――と。
 セイラの兄が作った道具箱の取っ手を掴もうとしたミリュウの手の甲に、ぴょんと飛び乗るものがあった。
「?」
 暗がりの中のさらに陰の中、色も黒いそれが何かも分からず虚を突かれたミリュウが固まっていると、それは、ササッと彼女の手首に這い上がってきた。
 やたらでっかい蜘蛛だった。
 地元では地獄蜘蛛と呼ばれている蜘蛛だった。
 ヤスデやムカデを好んで捕食する益虫になるのだが、いかんせん、そのたくましすぎるお姿は、ヤスデやムカデと戦っている時の様といい実に名が体を現している。
「!」
 それが、一直線に袖を伝って、ミリュウの顔をめがけてサササッと上ってきていた。おお、今にも肩へと辿り着く! 星影に照らされ迫り来る複眼! 迫り来る細かい毛の生えた八本足! ああ、それはなんと大きな顎を持つことか! 驚くべき疾さで意外なほどフレンドリーに駆け寄ってくるものの正体を悟ったミリュウの肌が瞬時に粟立ち、そのか細い喉が、引き攣る!
「きょわあああああーーーーーーー!!」
 時告げ鳥に成り代わり、その日、ルッドランの山々に朝を告げたのは、
「ひぃぃぃやーーーーーーーぁぁぁあん!!」
 この星の、第二王位継承者の悲鳴だった。

16:00 ―後吉―


 王立馬事公園は、王都東部において、ケルゲ公園・ジスカルラ臨海公園と並ぶ三大公園の一つだ。年間を通して様々なイベントが行われており、馬術大会などを観るだけでなく、乗馬体験のように馬と直接触れ合う機会もふんだんに用意されている。ロディアーナ朝初期の馬車のレプリカに乗って公園を一周するアトラクションはいつでも人気があるし、季節ごとに行われる騎士の一騎打ちを再現したショーや煌びやかに着飾った人馬の行進等は多くの人出を呼ぶ。
 そして、馬事公園内では馬術に関係のない催しも頻繁に開かれ、また企画されていた。
 例えば北西の広場に常設されているフリーマーケットスペースがそうである。
 馬に興味のない人も呼び込み、その折に偶然でもいいから馬に触れてもらうことで興味を誘発しようという意図から設置されたスペースには、今日も十五ほどの出店があった。そろそろ陽も朱に染まり出した頃合。いそいそと閉店している者もあるが、まだ十近くの店は秋晴れの空に思い思いの品を広げている。客足はまばらだが、熱心に売り手と交渉している客もあった。フリーマーケットには関心がなくとも広場で憩う人も多く、平日の夕方であるというのに未だ売店もシャッターを下さぬほどにここは賑わっている。
 ――その光景を、スポーツキャップの庇の下からじっと眺める、黒曜石を思わせる瞳があった。
 楕円形をしている広場の辺縁に、よく手入れされた植え込みを背に置かれているベンチに座り、ティディアは久々の『お忍び』を楽しんでいた。
 公園内にある王厩での用事を済ませた後、自ら乗ってきた王家専用飛行車はから空のままで飛び立たせ、己は執事と共に馬運車に乗って一度公園の外に出て、再度戻ってきたのである。
 金と黒に染め分けた長髪ウィッグに人気のスポーツブランドのキャップを被せ、やはりそのブランドの黒いトレーニングウェアの上下に、若干サイズも大きく、さらに胸元の大きく開いた薄ピンク色のタンクトップを合わせている。足を組み退屈そうにややうつむき、そうして上衣のポケットに両手を突っ込みベンチに座っていれば、前髪とキャップの庇に隠れた顔を覗き込もうとする者はなく、またトレーニングウェアの上衣はジッパーを開ききっているため、タンクトップから覗く胸の谷間と“見せブラ”に男のみならず女も視線を誘導されて、ここに座る人物の正体が暴かれるような気配も未だない。もしナンパされるならドンとこいだ。その時は、きっと楽しい。
 ここにいられる時間は、あと10分前後。
 ティディアは束の間の戯れを――営業職だろう若いサラリーマンがこちらに気づかれないように胸をチラ見しながら通り過ぎていく――ぼんやりと楽しんでいた。
(ヴィタ、まだかしら)
 ちらりと左方を見ると、移動販売車ケータリングカーが距離を取って三台止まっている。その内の一台に行列ができていた。この広場に着くなり自分と同じく変装した執事はいそいそとその列に並びに行き、まだ戻ってこない。
(こらこら、そんなに凝視していたら怒られるわよー)
 手をつなぎ歩くカップルの片割れが、相手に話しかけながら、その実ティディアの胸を見つめていた。
(気づいているわよ? 彼女さん)
 ベンチ前を通り過ぎ、男はこれまでもずっと恋人にだけ集中してきたかのように会話を続けているが、ティディアは一瞬、女が目だけでこちらを一瞥したことを見逃さなかった。その瞳は、はっきりと敵意に満ちていた。
(怖い怖い)
 ティディアの正面にはフリーマーケットスペースでリサイクル品のようなアクセサリー類をシートの上に広げる若い女がいる。あまりやる気もなさそうに携帯を見つめる女の向こう、広場の反対側には公園の巡回員が相棒のポニーと掃除ロボットを引き連れ、子ども達に囲まれていた。ティディアの前を中年男性が汗を掻きながら通り過ぎる。その汗は穏やかな残暑によってのものか、それとも若い女の胸の谷間に火照ってのことか。
 高校生らしき少年が二人、通りがかった。
「――」
 ティディアは一瞬、体を動かしそうになった。少年達が制服を着ていて、そのズボンが『彼』の高校のものと同じ色だったから……しかし、すぐに聞こえてきた話し声から――いや、それを聞くまでもなく、こんな所を彼が制服姿のままで歩いているはずがないと思い至り、彼女はこれまで通りに退屈そうにぼんやりと公園を眺め続けた。少年の一人はちらりとこちらを見た後は努めて遠方を見つめ、もう一人は気づかず去っていった。
 また、スーツを着た男が通りかかる。
 この広場は大きな交差点に接していることもあり、ちょうど道のショートカットとして使えるため、そのためとしてもひっきりなしに人が出入りしていた。向こう側には大学生らしい青年たちが歩いている。少し酔っ払っているらしい老人が清々しくこちらを鑑賞しながらよろつき通り過ぎていく。恋人を連れた若者は、今度はまっすぐ歩いていた。ポニーとロボットを連れた巡回員はこちらを一瞥しただけで、近所住まいの子どもらしい数人を引き連れるようにして公園内の小道を蹄の音共に去っていく。少し遊び人風の男がちらちらと私を伺っている。また別の男が一瞥してくる。男が、男が、男が――ふと気がつけば、彼女は男ばかりを目で追っていた。
 ――いや、違う。
 男を追っていたのではない。
 気がつけば。
 彼女は、無意識にも、彼を探してしまっていた。
「……」
 それを自覚したティディアは自然と浮かぶ苦笑いを禁じることができなかった。
 先ほど高校生が通り過ぎた時に面影を想起したことがいけなかったのか、彼が今こんな所にやってくるわけがないと思いながら、心のどこかでひょっとしたらと期待してしまっている。
 そして彼女は思うのだ。
 もし、今ここに彼がやってきたとしたら……私は、彼に、きっと私を
(見つけて欲しい)
 そう思った瞬間、ティディアは芯を奮わせた。
 そう空想する自分が急に恥ずかしくなり、頬が自然と赤らんでしまう。
 唇は勝手に歪み、照れ隠しの笑みへと緩もうというのか、それを堪えようとへの字に固まろうとするのか、相反する形を同時に示そうとしてもにもにとしてしまう。
 それを人に気づかれないよう、ティディアは組んだ足に頬杖をつくようにして体を前に屈めた。帽子の陰により深く顔を隠し、驚くほど大きく脈打ち出した胸も人目から隠す。
 落ち着こうと思った時、ティディアは自分が存外に慌てていることに気づいた。
 また、それと同時に自分の耳に周囲の音が戻ってきたことを悟り、そこで初めて彼女は外界の音を忘れるほどに――ぼんやりとしているつもりだったのに――真剣に彼を探していたことにも気がついた。
「――」
 頬杖をつく手も、手に添えられている頬も、どちらもひどく火照っている。
 そして、
「うん、だめだった」
「!?」
 異常に近い所から声が聞こえて、ティディアは内心ひどく驚いた。その驚きを声にも体にも出さず、どうにか内心だけに留めることができたのはまさに奇跡だった。
「買えなかった。売り切れちゃってたよ、お兄ちゃん」
 同じベンチ、つまり隣に大学生くらいの女性が座っていた。つい今しがた座ったばかりなのだろうが、彼女が接近してくることに気づけていなかったことを考えると、自分は聴覚だけでなく視覚までいくらか失っていたらしい。
 流石に苦笑いを浮かべてしまうティディアの横では、突然の同席相手が、最近巷で『キモノ地』と呼ばれている布で飾ったポニーテールをしょんぼりと揺らしていた。
「ちょっと前に最後の一個が売れちゃったって。実習が少し長引いちゃったから……うん、残念」
 革製の洒落たクラシックスタイルのミニトートバッグを膝に置き、うつむき言葉を紡ぐ女性は対話型の独り言を続けているようにも見える。ちょうど彼女が言葉を発した際に前を通りかかったスーツ姿の若い女がヒールの音を一瞬強めていた――話しかけられたのかと誤解してドキッとしたのだろう――が、すぐに相手が『電話』をしているのだと察して歩み去っていく。
(……)
 ティディアは、『接着型』や『埋め込み型』のマイクロテレフォンが普及している現在でも、人が何やらぶつぶつ言っている姿はいつまでも人に“ぎこちなさ”を引き起こす様をおもしろく思いながら聞き耳を立てる。
「……うん、そうだね……」
 隣に座る王女の興味を引いていることに気がつきもせず、ポニーテールを揺らして顔を上向けた女性はもしや涙を堪えているのだろうか。おそらく兄から送られてきているのだろう慰めの電波を一心に受け取り、
「しょうがないけれど……お兄ちゃんから聞かなかったら気づきもしなかったしね。――ううん! そういうのじゃないの! だって実習さえ長引かなかったら……それも私のせいだったんだけどさ、ちょっと失敗しちゃってね、怒られちゃって……散々といえばそうだね、あはは」
 笑う声に、力はない。
 もし、彼女が隣にいる女の正体に気がついたら――ティディアは思った――その買い逃したという何かを手に入れさせてやろう。それが何であっても手に入れてやる。困難であればこそ『クレイジー・プリンセス』は大暴れだ! その時の彼女は、きっと見ものであることだろう。
「――ほんと?」
 と、少しだけ、女性の声に力が戻った。
「でも悪いよ、うん、――うん、そうだね」
 その頬に笑みが浮かぶ。
「それじゃあ、ご馳走になっちゃおうかな。たくさんお肉食べるよ?――あはは、冗談冗談、え? いいの? うん、じゃあ楽しみにしておくね」
 女性は元気をある程度取り戻したらしく、うなずきと共にポニーテールを跳ねさせる。
「後でまた、連絡してね。急がなくていいよ、お仕事終わるまで『トック』で課題でもやってるから。それじゃ」
 言って少し待ち、女性は左右の人差し指の爪を打ち合わせた。そして空中で右手の指を数回躍らせる。きっと彼女はディスプレイ・コンタクトレンズをつけていて、前者の動作はメニューの呼び出し、後者はメニュー操作であったのだろう。が、彼女の爪は見た目には普通の爪で、瞳もただ黒い。
「……はあ」
 通話を終えた女性は立ち上がり、そこで一度ため息をついた。兄の厚意で多少の元気を取り戻せたとしても、何かを買い逃したことが相当ショックであるらしい。そして彼女はそのまま右方に去ろうとし、何かをふと思い直したらしく、正面のフリーマーケットスペースへ歩いていった。
(――本当に『残念』ね)
 折角至近距離にありながら、彼女は大チャンスを逃してしまった。……いや、ニトロには「逆だ。チャンスをしっかり掴んだんだ」とでもツッコまれてしまうだろうか?
「お待たせ、ティナ
 ポニーテールと入れ代わり、今度はファストフードがやってきた。
「……」
 ティディアは、笑うしかなかった。
 チャコールグレイに変えた長髪を大きな団子シニヨンにしたジャージ姿のヴィタが、大きめに作った擬耳を赤らめ、ぱっちりとした目に作り変えた双眸をさらに大きく輝かせ、両手に嬉しそうに大袋を提げてそこにいる。
 基本的にその場で食べるか、持ち帰るにしても多くて三・四人前程度を想定しているであろう移動販売業だ。おそらく、この大袋はその三・四人前のために店が用意していた最大のものに違いない。ティディアは納得した。
「そりゃ遅くなるはずねー」
「スケジュールが押したわ。急ぎましょう」
「誰のせいよ」
 こういう『お忍び』のための口調で言う執事に、それでも楽しく笑いかけながらティディアは立ち上がった。
 と、ふいに彼女は胸に痒みを感じてほとんど無意識にそれを掻き、あ、と気づいて見下ろしてみると、ブラジャーの際、左の乳房をモスキートに刺されていた。
「薬を塗らないといけないね、赤くなっちゃってる」
 ティディアはぽりぽりとまた少し掻き、
「ま、いいわ。これくらいならすぐに治まるだろうし、後で着るやつでも隠れるから問題ないでしょ?」
「あなたがそれでいいなら」
「ええ、十分よ。もしかしたら何かに使えるかもしれないしねー」
 涼しい風も吹いてきた。『何か』ではなく『誰か』を思いながらトレーニングウェアのジッパーを上げて前を閉じたティディアがふいに横を通り過ぎていった人影に誘われるように目を動かすと、フリーマーケットスペースで先ほどのポニーテールが何やら真剣に屈みこんでいた。例のリサイクル品のようなアクセサリーの前で退屈そうにしていた店員も、今は携帯をしまい込み、閉店間際にやってきた客を相手に真剣に商談している。二人の間には、ポニーテールの女性の手にするネックレスがあった。
「……『太陽を抱く蹄鉄』だね」
 主人の視線に気がつき、ヴィタが言う。ティディアはうなずいた。アデムメデスで『縁起物』とされているデザインの一つで、ネックレスとしてもありふれている。少し汚れているようだが、かといって汚れを落としてみたら実は純銀でした――なんてこともなさそうだ。
「何か、えらく気に入ったのかしらね」
 それとも、欲しかった物を買い逃した憂さを別の買い物で晴らそうとしているのだろうか。
「……」
 まあ、いい。何にしろ、さっきよりも元気になっているようだから、それでいい。
 ティディアは視線をヴィタに戻し、訊ねた。
「『グィンネーラ』はあった?」
「『ヴオルタ・オレンジ』も確保した。他にもアドルル・ペッパーを使ったホットドッグや、ゲァヌヮドヮラュンドという“彼”の故郷のスパイスを使ったローストビーフサンドとかも取り揃えてきたわ」
 アデムメデス人には難しい音を綺麗に発音してみせたヴィタは、付け加える。
「で、その“彼”もいたわよ?」
「おや」
 一方の袋を受け取ったティディアは、袋の重さにも少し驚きつつ、
「あれは1号車だったの?」
「1号は他に任せてるんじゃないかな。単に2号車の手伝いに来てるみたいよ? でも、だとしたら幸運だわ。あのおじさんだけだとアタシをまだ捌けていなかっただろうから」
 ――そのおじさんは、ニトロに命を救われたと思っている人物だった。そしてどういう奇縁か『隊長』とつながり、再就職先を見つけて頑張っている。
 ティディアは目を細め、
「『グィンネーラ』は?」
「そっちの袋。書いてあるよ」
 言われた通り、大袋の中、大きな箱の一つにそうシールが貼ってある。
「アタシにも一つ」
「ほれ」
 箱から取り出したグィンネーラを一つ、ティディアはヴィタに差し出した。変装中といっても主人の指を噛まないよう、ヴィタはその軽食スナックを唇で柔らかく挟み込む。ティディアが指を離すと器用に口内に放り込み、やおら満足そうに目を細めた。
 ティディアも一つ食べてみる。
「――うん」
 なるほど、いくら『話題性』があったとはいえ、早くも支店を出すわけだ。
「いけるわ」
「他のも楽しみ。さあ、早く行きましょう」
「はいはい」
 踵を返すや歩き出す食いしん坊の部下を追いながら、ティディアは問うた。
「ところで、どれだけ買ってきたの?」
「フードは全種類一つずつ、サイズは最大」
「いくらなんでも買いすぎじゃない?」
「せっかくなんだから出来立てをたくさん食べたいじゃない」
「今朝とは主張がちょっと違わない?」
「食べるということは、誰と食べるかということも含むのよ。一人がいい時もあれば、二人の方が美味しい時もある」
「――そうね」
 それは、もちろん解っていることだ。しかしこんなにも活き活きと主張されたらさらに理解できることだ。
「あなただって、誰と食べたいって、あるでしょう?」
 突然がれたそのセリフに、ティディアは口を引き結んだ。肩越しに振り返る彼女にはからかいの笑みがある。むっとしてティディアは、言う。
「否定はしないわ」
「ピクニックなんかがいいわね。タマゴサンドにハムチーズ、アタシは、お茶くらいは用意しようかな」
 さらに継がれたそのセリフに、ティディアは笑わずにはいられなかった。
「そういう場を作るために、協力しなさいよ?」
「ええ、そんな美味しいランチのためならいくらだって力を惜しまない」
 ヴィタは作ったキャラを演じて笑う。ティディアは大声で笑いたいのを堪えながら、やがて、大口客ヴィタのいなくなった後にも三人の並ぶケータリングカーの前を差し掛かった。
 その店の名の由来は、銀河共通語で『魅惑的な=ディアフォズィ』と『調和=ポルト』を合わせたということになっている。
 二つ並んだテーブル席にはいずれも客が座っている。
 車の中にはまだ不慣れな様子で一生懸命立ち働いている中年男性と、それを助けながら指導を行う獣人ビースターの大男がいる。
 ティディアは立ち止まった。
 じっと見ていると、ふと、獣人がこちらに気がついた。スポーツキャップを目深に被り、自分に顔を向けて佇む女を怪訝な様子で眺めている。
「いただくわ」
 ティディアは一言、それだけを言って、微笑を残すとその場を足早に立ち去った。
 ヴィタを追い越す。
 すると同好の士は愉快気な顔で追いついてくる。
 やおら、
「こここっコっこここ光栄であります!!!」
 背後からとても大きな声が轟き渡り、次いで、ドシーンという、何か大きなものの倒れる音がした。

16:25 ―吉―


 王都第三区にあるゴッテオン街は、古くから服飾の街として知られていた。昔は多くの布問屋で栄え、現在は有名なブランドショップやオーダーメイド専門の個人店が軒を連ね、そして時に最先端、時に今も昔も変わることのないスタンダードを人々に提供し続けている。
 その中の、王家御用達のテーラーに、ニトロはいた。
 何着ものスーツが並び、何幅もの服地が幅広の棚に整頓されている。木材――それも合成木材ではなく無垢の木材をふんだんに用いた店内はしっとりと落ち着いて、明るい照明に照らされながらも決して浮薄とはせぬ風格が漂っていた。
「いかがでしょうか」
 大きな姿見の前に立ち、生地に白い糸の目立つ仮縫いの着せ付けに臨むニトロは、店内に漂う糸と布と鋏の匂いを嗅ぎながら、
「とてもいいです。何だか服じゃなくて、自分の体みたいです」
「ありがとうございます」
 真っ白なシャツ、濃灰のズボンを太目のサスペンダーで支える初老の男が紳士然と頭を垂れる。
「しかし、ポルカト様、もう少々肩のお力をお抜きになってくださいませ」
「ああ、すみません」
 三度目の来店となるニトロだが、こういうところはやはり慣れない。
 このテーラーの店主に言われてやっと自分が緊張を体に出してしまっていることに気がついた。息を吐き、肩を、それから全身を楽にする。
「ほんの少し、こちらを詰めましょうか」
 店主はニトロではなく、傍らに控えるアンドロイドに言った。紺のユカタを着るアンドロイドは店主の示したシルエットを吟味し、
「御意」
 と、うなずく。
 芍薬は店主が待ち針を使って修正を加えるのを待ってから、
「主様、動キヤスサハドウダイ?」
 問われたニトロは、仮縫い時に許されるであろうと思う範囲で体を動かしてみた。
「うん、動きが妨げられることはないよ。というか、こんなにフィットしてこんなに動きやすいのは信じられないや」
 普段着ている制服や、時々舞台で着ることのあるスーツ――それにしたって高級品であったはずなのだが――とは雲泥の差のある着心地に、ニトロはもう感嘆しか示せない。彼にはこの仮縫いは“仮”などではなく、既に完成しているとしか思えなかった。しかし店主は念入りに確認を行い続け、芍薬も妥協しない。布地の選択からニトロではなく芍薬が前に出ていたからだろう、店主はニトロを立てながらも芍薬と相談を深めていく。
 たっぷり時間をかけて調整を終えた頃には、18時を回っていた。
「急がせてしまって、すみません」
 ここに着てきた学校の制服ではなく、芍薬が持ってきてくれていた替えの服を着ながら、ニトロは何やら板晶画面ボードスクリーンに書き込んでいる店主へ言った。すると店主は穏やかな笑みを浮かべ、
「とんでもありません。お気になさらないで下さい」
 そうは言っても、ニトロが燕尾服を必要とすることにしたのは今月の頭、そして納品は今月の末でなければならないのだから、オーダーメイドでそれを作ってもらうための時間は一ヶ月を切っていた。いくら王家御用達のテーラーで、王女直々の頼みであったとしても、これは明らかに無理がある。店主には他にも顧客がいるはずなのだ。
 だが、店主は朗らかに微笑み、
「これが私の仕事です。必ず当日に、ご満足のいく品をお届けいたします」
 彼の声には紛れもないプロフェッショナルの誇りがある。ならばこれ以上申し訳なさを抱き続けるのは失礼にもなってしまうだろう。ニトロはそれに気がつくと、笑みを浮かべた。
「よろしくお願いします。心から楽しみにしています」
「お任せください」
 店主は深々と頭を下げ、それから前もって頼まれていた通りニトロを店の奥、通常は店員しか入れない場所へ案内した。
「それでは私は店に戻ります。ポルカト様、またのご来店をお待ちしています」
 地下に繋がるドアの前に来ると店主は再度深々と頭を下げ、仕事場へと戻っていった。こっそり店を抜け出そうという客を相手にいつまでも見送りなどしていたら、かえって邪魔になるためだ。ここに『ニトロ・ポルカト』が来ていることを知っている人々がたむろする正面入り口からわずかに見える位置で、彼はまだしばらくはニトロ・ポルカトを相手にし続けているように振舞い続けてくれるだろう。
「急がないとね」
「御意」
 ニトロに言われた芍薬は早速マスターの頭にウィッグをつけ、黒から茶色、少しばかり長髪に変える。次に彼は暗い青のカラーコンタクトレンズを入れた。芍薬が、頬がわずかにこけて見えるよう変装用のメイクを施す。それから『つけ不精髭』を付けて、それもメイクで肌に均し、
「――ウン」
 芍薬のうなずきに、鏡を見るまでもなく十分を悟ったニトロは最後にハンチング帽を自然な程度で深めに被った。コットンパンツにテーラードジャケット、高校の制服から印象を変え、靴も布のスニーカーから皮のスニーカーへ変える。
「ユックリ味ワッテキテネ」
「うん、何かあったらすぐに連絡するよ」
 芍薬が裏口のドアを開ける前に、テーラーの店主に今だけ与えられたアクセス権を用いて店前の監視カメラから周囲を探り、
「右ノ方ガ少ナイ」
「了解。それじゃあ、後で」
「御意」
 ニトロはドアを通り抜け、地下へと潜っていった。
 芍薬は店に残り、店主ともう少し話していく。めくらましの意味もあるが、実際にまだ話したいことがあるのだという。
 王家御用達のテーラーは、事情のある顧客が忍び去ることにも良い条件を備えていた。
 どうしてこういう作りになったのかは店主も知らないらしいが、この店の地下からは、左右の建物に抜けることができるのだ。
 そして、
「失礼します」
 地下に降りてから右の建物に移り、テーラー店主の親戚が営むメンズブティックに上ったニトロは、連絡を受けていた店員に通されて、その店の横口から表へ出た(左に行っていたらシューズショップを抜けることになっていた)。
 表通りに面し、ニトロがテーラーを見ると、そこには人だかりができている。
(――さて)
 そちらから目をそむけ、ニトロは足早に歩き出した。
 期待に胸を躍らせながら、彼が目指すはアデムメデス三大ファストフード店が一つ『トクテクト・バーガー』であった。

17:30 ―凶―


 学校が終わってからハラキリが、ジジ家自慢の飛行車・韋駄天をかっ飛ばしてやってきたのは副王都セドカルラに居を構えるウィーバー荘という施設だった。
 このウィーバー荘は、表向きは老人ホームである。
 だが、ここはどこかの法人が経営するのではなく、入居者それぞれが経営責任を持つという方式を採用していた。その中心人物は、織物業を営む会社の社長・会長と歴任してきた女性である。500年の歴史を誇る会社を傾かせていたワンマン社長の父を蹴落とし、新たなワンマン社長として会社を立て直した女傑は、経営から身を引くに当たって、終の棲家を自ら作った。誰かの経営する老人ホームなんて危なっかしくて入っていられない!――というのが理由である。さらに、彼女には生き甲斐でもある趣味があった。放蕩息子だった父と違い、彼女は根っからの織物好きの技術屋だった。余生は趣味に没頭して暮らしたい。そのためには食事の時間だ何だとうるさいところで暮らしてられるか!――というのも、自ら老人ホームを作った理由であった。
 ただ、ハラキリとしては、ここを『老人ホーム』などとは決して呼べなかった。
 ハラキリの意見としては、ここは『平均年齢84歳のベンチャー企業』である。
 ウィーバー荘に入居を希望する人間には三つの条件が出された。
 一つ、己は客ではないと自覚すること。
 二つ、何かしら被服に関係する技術ないしは知識を持つこと。
 三つ、口論は恥なり、作品で語れ。
 建物の地下には広い工場がある。最新の機織マシンがあり、はたまた資料を元に復元された昔の機織機はたおりきもあり、それらが地下三階に渡って日夜稼動し、新たな織物が模索され、失われた織物が復活を夢見ている。
 そして、もちろん工場外ちじょうでも、例えば王都のコンテストで何度も優勝したことのある老婦人が超絶技巧でレースを編み上げ、例えば腕は超一流だが経営能力が著しく欠如しているため己の店を二度も潰してしまった仕立屋がコツコツと針を動かし、例えば繊維を専門とする元大学助教授が介護人にオムツを替えてもらいながら、リハビリ運動中の被服のアマチュア研究者と宙映画面エア・モニター越しに熱く激論を交わし続ける。定年後に昔諦めた服のデザイナーになるという夢に向かって再起した老人が、この施設に入居する大して歳の変わらぬ老女に弟子入りしてくる、ということもあったそうだ。
 そうして彼ら彼女らが作り出した『製品』は施設の直売所なり卸し先なりで売り出され、それがなかなか好評を得ていた。
 施設の――あくまで土地建造物のみの――オーナーであるウィーバー婦人は以前骨盤を骨折した際に衰えてしまった足の筋力を補うために機械式パワードサポーターを両足につけ、しかしそれを装着する時以外は介護を必要とせず、齢93にして元気に動き回っている。
 彼女が近年力を傾けているのは、特に異星の織物であった。中でも、ある時、不思議な趣味を持った女が突然持ち込んできた『キモノ』や『ワフク』、『ユカタ』という服のための布を、彼女は最も好んで研究していた。
 そう、アデムメデスにおいて地球ちたま日本にちほんの民族衣装は、このウィーバー荘で作られた織物で作られているのだ。
 また、最近巷には『キモノ地』と呼ばれて大人気の布地があるのだが、それもここが販売元(及び特許権利者)である。時流に乗って大儲けらしい。
「それでねぇ、最近ここの景気がもっと良くなってきたでしょう? そしたら今までたま〜〜〜にしか顔を出さなかった娘や孫が急に遊びに来たりするのよ。いいのよ? 嬉しいもの。でもねぇ、お小遣いのせびり方ってものにもねぇ、もうちょっとね、こう、エレガントなやり方っていうものがあるとは思わない?」
「はあ」
 ウィーバー荘のエントランスで、ハラキリはテーブルの向こうから聞いてもいないのに話しかけてくる見事な白髪の老婦人に生返事を返した。
「わたしはいいのよ? だって、何だってあの娘らが会いに来てくれるのは嬉しいもの。孫だって可愛くってならないわ。でも他の方の目もあるじゃない? 露骨に『お金頂戴』はないと思うの。あれは孫に娘が言わせたのよ。まだこーんなちっちゃい娘にそんなこと言わせるなんて、わたしは育て方を間違ったのかしらねぇ。そんなことないよってモッカラさんは言ってくれたんだけど、でもマッカラさんは息子さんと疎遠じゃない? だからどっちがいいのかわからなくって。あら、あの方を責めているわけじゃないのよ? そこは誤解しないでね?」
「はあ」
 一言口にする度に一目編み終えているような勢いで編み棒を動かす老婆は、何だかそういう作業専用のアンドロイドにも見えてくる。
「モッカラさんは凄い人なの。社長と一緒になってなんだか難しい数字を扱っていてね、法律にもお詳しくて、ここの売り物が損をしないようになっているのはモッカラさんのお力によるところも大きいの。それでマッカラさん、最近はまた大きな交渉に忙しくてらっしゃって、なかなか相談できないのよねぇ」
「はあ」
 ちょいちょい『モッカラ』と『マッカラ』を言い間違える老婆を前に、ハラキリは自動販売機で買ったコーヒーをすすりながら、今頃は入居者達から『社長』と呼ばれているウィーバー婦人と地下倉庫で『タンモノ』を熱心に見てはその出来栄えについて語り合っているであろう撫子が、果たしていつ頃地上に戻ってくるだろうかと考えていた。
 撫子は電子の世界の住人だ。わざわざこちらに来て実物をアンドロイドの身で、見て、触り、感じなくとも、ほぼ同じことをデータのやり取りで知覚できる。だが、それでも撫子は『やはり違う』と言う。何がどう違うのかは分からないが、人間で言うなら『気分が違う』ということらしい。ただ、実際にこちらに来て見て触ってからの方が撫子のタンモノに対する理解度は確かに違う、とハラキリにも感じられるところは確かにあった。端的に言えば、生地をキモノに作り変える時、型通りに切り取った布をデザインにただ落とし込むというのではなく、まさに生まれ変わらせるというような……非常に感覚的な違いを発揮するのだ。そこにはもちろん、織物の作り手であるウィーバー婦人との熱心な語り合いが影響していることも見逃せないだろう。
 何にしても、
「それにしてもあなたのA.I.さんは本当にキモノが好きなのね。あら違った、キモノを作るのが好きなのね。だからかしら? 社長と話している時ね、ときどき、あら? あのA.I.さんは人間だったかしらって思っちゃうときもあるのよ。それくらい活き活きしてるのね。あら、わたし変なことを言っちゃってるわね」
 いいや、このご婦人の意見は正しい。
 撫子はキモノを作るのが好きだ。マスターの母のため、今では立派に独り立ちした『娘』のため、相手に喜んでもらえる衣装を作ることこそが撫子の――撫子自身は明言しないまでも確かに趣味なのだ。
「キモノと言えばそうそう、モッカラさんの大仕事ってそれなのよ」
「はあ」
「ひょっとしたらあなたも聞いているのかしら。うちからキモノとか……なんだったかしら、『ユカタン』? 『ワッフル』? とにかくそれを売り出そうって話。会社を作って本格的にやろうかって。だってね? あなたのお友達のポルカトさんのA.I.さんが大人気でしょ? わたしの孫も夢中なの『クノゥイチニンポー!』ちょーーー! って。元気なのはいいんだけど怪我しないか心配だわ。心配と言えばあなたのお友達も心配よね。色々大変なんでしょう?」
「まあ」
「それもそうよねえ。だって、相手があのお姫様ですもの。そういえばお姫様の、あ、下のお姫様のね? でもどっちでもいいのかしら。ほんとうはお姉姫様が動かしてるって話もあるから。ああ、ごめんなさいね? それでなんとかフローラっていう会社からもオファーがあったみたいだけど、どうなんでしょうね、なんでもかんでも高貴な方々ばかりに稼がせるっていうのは、ねえ?」
「まあ」
「だって、ほら! 今の王様はお偉い方で、お優しい立派な方だけど、上のお子様方はとんでもなかったじゃない? ティディア様は素晴らしく賢いお方だけど、でもやっぱりとんでもないことをよくなさるでしょう? またあんなひどい王族様が出てきたらと思うと、ねえ、ちょっとねえ? だけどあなたのお友達のポルカロさんがちゃんとしてるみたいだから、ティディア様はいいのかしらね?」
 ポルカではなくポルカだと、彼がここにいたらそうツッコムだろうなあと思いながらハラキリはコーヒーを飲む。
「それにしてもねえ、ポルカロさんも、ちょっと危ないわよね。何が危ないって、ちょっと真面目すぎると思うのよ。だってあの年頃でちょっと立派過ぎない? もうちょっと浮いた話があっていいとも思うの。女のことに興味がある年頃だもの。もちろん恋人があんなにお綺麗だからそんな気にならないのかもしれないけれど、男ってそういうものじゃないでしょう? 今のうちに遊んでおかないと――あら、こんなこと言うおばあちゃんはいけませんね? でもね? 後になってから急に女遊びを覚えたら大変だと思うのよ。王様になってから急にお妾さん作って大騒ぎになったらティディア様がおかわいそうでしょ? わたしもね、苦労したのよ。うちのバカ亭主が浮気してこさえた子どもが――」
「はあ」
 生返事をしながら、ハラキリは内心苦笑していた。下世話な話も含めて何だかんだと織り交ぜては来たものの、彼女は結局自分の話を聞いてもらいたいのだ。
「わたしはね、我慢しました。そりゃもう涙を呑んで、顔で笑って心で泣いてね。幸せだったのは娘達が皆わたしのことを味方してくれて、慰めてくれてねえ」
 やっと編み棒の動きを止めて老婆は涙を拭う。ハラキリと話し始めてから編み出して、彼にはどうやっているのか判らないが、複数の毛糸で複雑な模様を描きながら、しかし彼女は既に手袋を片方編み上げそうな勢いである。
「これは孫娘のものなの。これから寒くなるものね。寒いと言えば、バカ亭主の外の子どもよ。思えばその子もかわいそうで……」
「はあ」
 話はとりとめもなく続いていく。
 ハラキリはそろそろコーヒーが空になりそうなことを懸念していた。
 この老婆から逃れることは、きっとできない。
 少なくとも撫子が戻ってくるまではここにいなければならない。
 撫子は、とても優秀なA.I.だ。そして――あの芍薬が理想とする――生真面目なオリジナルA.I.だ。いくら趣味に没頭していても、マスターが息苦しくて外に出ようとするならばそれに敏く勘付き、すぐに帰宅を申し出るだろう。
 ……これは、いつも世話になっている撫子への『家族サービス』なのだ。
「だからわたしは言ってやったんです。わかりました、それならその子もうちで預かりましょう。けれど金輪際あなたはわたし達の前に現れないでください。バカ亭主ッたら泣いちゃってね! 泣きたいのはこっちでしたよッ」
 そこから老婆は“不義の子”を加えた一家の波乱万丈の物語を、話題をまたモッカラさんに戻したり、ティディア姫の将来を考えたり、突然貴族に対する不信感を出してみたり、その原因となった出来事からやっと本筋に戻ったりと、とにかく休む間もなく喋り続けていく。
「はあ」
 もう何十度目かも分からない相槌を打って、ハラキリが誰か強壮剤コーディアルでも買ってきてくれないかなぁと思っていると、なんとまあ、そこに現れたのは救いをもたらすヒーローどころか刺繍道具を手にした新たな老婦人であった。
「はあ」
 刺繍の老婆も編み物の老婆と同じく弾丸トークを手元の素早さと比例するかのように発射する。
「まあ……」
 二人の老婆は互いに会話をするように、しかし微妙に噛み合わず、とにかくやっぱりとりとめもない身の上話をやる気がないとはいえ適切な相槌を打って大人しく聞いてくれる貴重な若者に語り続ける。出力設定はステレオなのに、左右のスピーカーからはそれぞれ別のラジオ番組がモノラルで流れてくるようだった。
「……はあ」
 ハラキリは、なんとなく魂が心臓から離れていくような感覚を覚えながら、辛抱強く、満面の笑顔で戻ってくるであろう撫子を、ずっと待ち続けていた。

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