ニトロ、そして鍛える

(第二部『幕間話』の翌日)

 深夜も近くなると、仕事帰りの運動を楽しむ人間もほとんどいなくなり、人気の高級スポーツジムにも閑散とした空気が訪れる。
 ラウンジカフェには運動後の休息を楽しむ数組の客の会話がある。カウンターから聞こえてくる食器を扱う音、それからヒーリングミュージックを背景に、ハラキリはフレッシュフルーツのミックスジュースを飲み、一つ息をついた。
「体力測定程度でそこまでバテていてはこの先が思いやられますよ、ニトロ君」
 ジュースをストローで吸い上げるハラキリの面前、木とガラスをモザイク状に組んだテーブルに突っ伏すニトロは動かない。相槌の代わりか、あるいは「『体力測定』っつうレベルかあれが! いや、実際“測定”にゃ違いないんだけれども! あと最後のスパーリングが追い打ちってーかトドメだったよね!」という抗議の代わりか、彼は重苦しいうめき声を一筋上げることがやっとのようだった。その体はちょっとばかりぷるぷる震えている。怒りのためではない。柔軟性をチェックし、各種筋肉の最大筋力を全身くまなく計測し、様々な計器を装着しての心肺機能検査を行い、それからみっちり護身術のための復習れんしゅうをした後にマーシャル・アーツ・トレーナーとの(トレーナーに彼の現在の実力を確認してもらうための)スパーリングまで行った結果、つまり疲労困憊極まり彼の全身の筋肉までもがうめき声を上げているのだ。
 だが、それに対してハラキリは耳を貸さぬように、
「一応初回ですからそこまで疲れてしまうのも、回復にそこまで時間がかかるのも無理はないとも思いますが、しかし“状況”によっては致命的です。今日の無様を念頭に置いて、まずはしっかりスタミナをつけて下さいね」
「そんな釘、刺され、なくても……」
 先のうめき声をそのまま言葉に変えて、ニトロが言う。
「『危機感』っていう、ぶっとい釘が既に刺さってる――ッうぶ」
「迷惑ですから吐くならトイレで」
「――……ッ……」
 吐き気を喉の底で何とか押さえつけ、ニトロは顔を上げた。その顔色は白い。目はどんよりと曇り、というか沼地の奥底から覗き込むようにしてハラキリをめつけ、
「今のは、いくらなんでも冷たいんじゃないかな」
 するとハラキリは戸惑ったように小首を傾げ、
「ここに来る前、生き生きとして『厳しくてもいい、むしろ望むところだ』と、君は言っていたはずですが」
「だからって言い方ってものがあるだろう? それに『厳しい』と『冷たい』は、全く違うと思う」
「……ふむ」
 ハラキリはジュースをまた一口飲み、そうして、少し顔を上向けた。
「まあ、それは一理」
「だろ?」
 ハラキリの納得を引き出したニトロは、少し嬉しげに言う。ハラキリは上向けていた顔を戻し、うなずく代わりに肩を小さくすくめて見せる。
 と、その時、受付フロントにロッカーキーを返していた女性客がハラキリの背後を通り過ぎていった。彼女はそのままカウンター席に着くと、肩にかけていたスポーツバッグを下し、心地良い疲労の息をつきながら、
「いつもの」
「かしこまりました」
 見た目は細いものの、黒いベストと薄いワイシャツの下から見事な肩の筋肉を透かし見せている金髪碧眼のバリスタが頭を下げ、明らかに常連であろう女性に軽くウィンクをする。女性は見るからに張りのあるヒップを丸いカウンターチェアの上に乗せた。彼女の褐色の首筋には長い白髪が伝い落ち、薄いピンクのタンクトップからすらりと抜き出たその長い両腕は、ラウンジを明るく照らす白光を受けて大理石の彫刻のように艶めいている。
「……あれって」
 ニトロは女性の均整の取れた逆三角形を見つめながら、つぶやいた。ニトロだけでなく他の客達も会話の口を止め、ドリンクを作るバリスタと談笑するカウンター席の女性に注目している。
「この間の試合は見事でしたね」
 小さな、ニトロにだけ聴こえる小さな声でハラキリが言った。ニトロは「やっぱり」と、もう一度女性を見る。先頃行われたオールドスタイル・テニスの中央大陸大会、その頂点に立ったアツェンダ・フォラバッヂだ。ニトロも声を潜め、
「なんて言うか……オーラが違うね」
 食材を抱えてバックヤードから現れたウェイトレスが、自信に満ちた笑顔を作るフォラバッヂへ祝いの言葉をかけている。その光景を丸い目で見つめるニトロの姿に、ハラキリは苦笑にも似た笑みを浮かべ、
「彼女、ニトロ君のすぐ横でバーベル上げていましたよ?」
「マジでッ?」
 思わず声を高め、ニトロはますます目を丸くする。ハラキリは愉快そうに、
「君がベンチプレスで45kgを持ち上げられるかどうかというところで悲鳴を上げている時、彼女は50で軽い運動をしていました」
「……軽い運動?」
「今日は少し体を動かしに来た、という感じでしたから」
「……アスリート、かあ……」
「まあ重量に関しては初心者と経験者の違いもありますけれどね。それに、君も“アスリートたれ”とは言いませんが、きっと良い刺激になりますよ。このジムは、彼女のような方々が他にも多く使っていますから」
「いや……それは確かに聞いていたけれど……」
「――ひょっとして、気後れしていますか?」
「場違いじゃないか? 俺」
「君は正規の会員です。場違いも何もありません」
「……そりゃまあ、道理か」
「道理です」
 うなずき、ハラキリはストローをくわえた。コップの中で水位を下げていく液面を、何気なくニトロはじっと見つめる。ちょうどジュースが飲み切られ、ストローがコップの底でズゴゴと音を立てた。ハラキリはストローから口を離すと、思い出したように、
「先ほどのお話については、善処することにしましょう」
「さっき?――ああ、厳しい・冷たいか」
「ええ。しかし、こちらもまだ色々と不慣れなのでそこらへんはご容赦を」
「? 何が不慣れ?」
「色々と」
 そこで少し言葉を切り、それからハラキリは続けて、
「例えば、初めてのスポーツジムで挙動不審に右往左往していた友人の付き添いを務めたことなどこちらとしても初めてのことで、そのため不慣れも乗じて至らないところが多々あったように思います。ジムに“友達紹介”をした手前もありますし、初日くらいは付き合おうと思ってのことでしたが……いやあ、それでもこちらとしてはなかなか面白くはありましたけれどね?」
 その言葉の遠回しに示唆するものを悟ったニトロは口の片端を引きつらせ、
「そういうところには、もう触れないのが優しさじゃないかな?」
「例えば、誤って女子トイレに入ってしまったことなど?」
「“など”じゃなくてそのものズバリだチクショウ!」
「誰も入っていなくて良かった」
「本当に誰もいなくて良かったよ! てか見てたんだから止めろよな! あん時こっちは走り疲れてふらふらだったんだぞ!」
「止める間もなくふらふらと入っちゃったじゃないですか。すぐに出てこなかったらどうしようかと思いました」
「出てこなかったら放置しておくつもりだったのかッ」
「だって拙者まで変態にされてしまうじゃないですか」
「じゃないですか、ってお前、そんじゃあ友達が変態にされてしまうのはいいのか!」
「真っ赤な顔して飛び出してきた君を見れば誰だって『ああ、うっかり間違えたんだな』と思いますよ。しかし拙者じゃそうはいかない。だから」
「いやだからっ、って……」
 ニトロは歯噛み、そして、ふと視線を感じた。ラウンジカフェにいる客達が――フォラバッヂまでがこちらに視線を寄越している。ニトロは頬が赤くなるのを自覚して、黙った。すると思わず声を荒げていた少年のその様子に――当の少年が『ニトロ・ポルカト』だと気がついた気配と共に――カフェにはどこか微笑ましい空気が溢れた。
 ニトロが勢いをなくして縮こまるところへ、ハラキリが飄々として言う。
「そろそろ元気になってきたようですが。
 飲まないんですか? ぬるくなりますよ? それに、できれば早めに飲んだほうがいい。『ゴールデンタイム』のことはお渡ししたメニューにも書いてあったでしょう?」
 この展開に誘導したくせに抜け抜けと言うハラキリを再び睨めつけ、……と、ニトロはそこでふと勘付いた。
(――不慣れ、か)
 急にハラキリがこちらの失敗談を取り出してきたことは、話の流れから不自然とまでは言えないまでも、しかし直前のトーンからすれば急展開に過ぎたように思える。もしかしたら、あれは、ハラキリが『色々』に対してツッコまれることへ“煙幕”を張ってきたことに他ならないのではないだろうか。
 とすれば、彼は一体何を煙に巻きたかったのだろう。
 ……あるいは、あの『色々』の中には、それこそハラキリの本心が込められていたのではないか。そしてそれが何かと考えてみれば『友人の付き添いを務めたことなどこちらとしても初めてのことで』というセリフに急所が現れていたように思えてならない。友人、初めて、不慣れ……並べて考えてみれば……つまり我が戦友にして親友であるハラキリ・ジジは、こうして仕事外プライベートでトレーニングを助ける等“親しい友人との付き合い方”に対して試行錯誤の段階。右往左往とまではいかないまでも、もしかしたら、これまでの彼の人生の中でも大きな戸惑いを感じている……ということにもならないだろうか。
 もし、そうだったとしたならば――
 ニトロには、ハラキリの態度が、特に先の『冷たさ』が急に微笑ましく思えてならなくなった。同時にそれがまた、彼の心に奇妙なくすぐったさを感じさせてならなかった。
「どうしました?」
 ハラキリが眉根を寄せて問うてくる。
 顔に出ていたらしいとニトロは気づき、しかし慌てることなく手前にあるタンブラーに目を走らせ、
「『プロテインキング&マッチョ・ド・ブラック』――って名前は、やっぱり初見の人間にはビックリだよ」
 ハラキリは、ニトロが内心と言葉を一致させていないことを察していたが、そちらに踏み込むことはせず、
「次は『マッシヴ・マッスル・ハイアングル』にします? 『ビンビンスリム』や『ナイスバルク』も美味しいですよ」
 ニトロはクリスタル製のタンブラーを黒く満たしている『プロテインキング&マッチョ・ド・ブラック』……ようはこのスポーツジム謹製の最高級プロテインを、ンモッタという東大陸原産のフルーツ――見た目は深緑色の産毛を持つ拳大の玉で、固い皮に守られた果肉は墨のように黒く、食感はなめらかにねっとりとして、味は甘いミルクに似る――と、濃いめに抽出したアイスコーヒーにハインディナッツという黒い木の実のペーストとをカクテルしたものを眺め、それからカウンターの上にあるメニュー表を見て、
「どれもこれも説明を聞かないと何が何やら。『キレてます!』に至っちゃ完全にセリフじゃないか」
「その『キレ』ってもちろん味のキレを言っているわけじゃないですよ? いや、味にもキレはあるんですが」
「知ってる。筋肉のれを讃える言葉だろ?」
「おや、よくご存知で。というか、そういえばニトロ君ってこういう……言っちゃなんですが変なところでやけに博識な時ありますよね」
 変な上に胡散臭い知識のありまくるハラキリにそう言われては苦笑するしかない。ニトロは頭を掻きながら、
「前にプロレス好きだった友達が教えてくれたんだよ。団体一の筋肉自慢を売りにしていたレスラーのムーブ……『ムーブ』って知ってる?」
「得意技や、そのレスラー独自の動きやパフォーマンス。でしたっけ」
「うん。フィニッシュ・ムーブとか、定番ムーブとかね。で、そのレスラーが定番のポーズを取る度に観客がお約束で叫ぶんだよ。計三回、ワンポーズにワンコール――ナイスバルク! デカいッ、キレてる! ナイス上腕二頭筋ッナァァァイス!――そして続けての豪快なラリアットで大盛り上がり」
「それはなかなか楽しそうですね」
「楽しかったよ」
 懐かしそうに笑いながらタンブラーに目を戻し、それからハラキリを見て、
「スポーツジムの中で売ってるドリンクは、どこにでもこんな感じなのかな。それともここが特別?」
「さあ、他にもこういう洒落を利かせている所もあるとは思いますが」
「洒落ってレベルかなぁ。『筋肥大』ってのはまあコンセプトが分かるからまだしも、『肉』ってのは間違いなくドリンクじゃないと思うよ? 初めはフードメニューとばかり思ってたよ? つか、フードにしたところで『肉』の一言ってのはなかなかないと思うよ?」
「本日の肉料理は『肉』でございます?」
「完ッ全にノーガードツッコミ待ちだよね」
 ニトロが笑って言うと、ハラキリも笑いながら、
「なら、調べてみます? 他ではどういうオリジナルドリンクが売られているか」
 その言葉は会話を続けるためだけの“その気のない”ものであったが、ニトロは愉快気に口の片端を持ち上げ、
「まさか、飲み歩きでとか言わないよな」
「そこのジムに“ビジター”があれば、ついでにトレーニングして、そうして飲んでもいいかもしれませんねぇ」
「そりゃえらい健康的な飲み歩きになりそうだ」
「何だったらハシゴもしましょうか」
「ジムのハシゴってのも聞いたことないなぁ」
 ふと、自分たちの談笑を耳にしてだろうカウンターのバリスタが満足そうにしている様子がニトロの視界に入り込んだ。その表情には含み笑いのようなものがあり、どうやらこれら一連の“(ともすれば悪ノリであることについては自覚的らしく、それぞれに振られた番号での注文も可能だという)凝ったドリンクネーム”にはこうして客の会話を弾ませる意図もあったらしい。まあ、もちろん、初見の客が、まさに自分が示したような反応をすることもきっと楽しいのだろうが。
 ニトロはまだちょっと力の入らない手で――これは相当酷い筋肉痛を覚悟しておかなければならない――タンブラーを持ち上げ、口をつけた。まずハインディナッツ特有の風味が鼻腔を抜けて、それを追いかけるようにして甘くとろりとした液体が喉を通り抜けていく。正直、ニトロは驚きを隠せなかった。『マッチョ・ド・ブラック』という響きからは想像もつかない繊細なバランス。吟味された素材の質の良さ、材料それぞれの味を相互に活かす分量も洗練されていて、
「ああ、こりゃすごく美味しい」
「それは良かった」
「こんなに美味しいとは思わなかった、次回は『ホワイト』を飲んでみるよ」
「ええ、いっそ五色とも制覇してください」
 笑いながらハラキリはモザイク模様のテーブルの一角に指を這わせる。するとテーブルの表面にメニュー表が現れ、と、そこで彼はニトロへ訊いた。
「胃の調子は?」
「まだ固形はきつい」
 言ってニトロはプロテインドリンクをゆっくりと飲む。ハラキリはふむとうなずいて、
「一応言っておきますが、運動後の栄養補給はそれこそトレーニングの一環として忘れずに行ってくださいね。トレーニング前・中の栄養素についてもあのメニューに書いた通りに、面倒臭がらずに」
「うん。面倒なんて思わないし、芍薬も手伝ってくれるからそこらへんは大丈夫」
「それなら安心。とはいえ、自分で色々用意する時間がない時や、気分を変えたい時にはここを使うのもありですよ、と。言えばトレーニング前にも、終了時間に合わせても作っておいてくれますし、テイクアウトも可能ですから」
「ああ、だからここに誘ったのか? それを“案内”してくれるために」
「それもありますが、今日もこれほど君が疲れていなければ拙者にビックリ眼を向けるだけでなく、きっと勢い店員さんにツッコんでいたと思うんですがねぇ、いや残念です」
 ハラキリらしい皮肉の風味を利かせて悪戯っぽく言われ、ニトロは思わず苦く笑う。
 確かに、もし元気な時にここに初めて来ていたらビックリした勢いで何か言ってしまっていたかもしれない。というか、実際、さっきも疲れた横隔膜が反射的に声を吐き出すのを許さなかっただけで胸には言葉が溢れていた。己を窮地に追い込みもしたこの『悪い癖』。それを、しかしそうやって気軽にからかわれっぱなしなのも癪に障るとニトロがハラキリへ軽く嫌味を返してやるべく口を開きかけた――ちょうどその時、
「お待たせいたしました」
 ハラキリの注文の品を携え、ウェイトレスがやってきた。カフェラテを注文客の前に置き、代わって空いたミックスジュースのコップをトレイに載せる。
 ニトロは口を閉じ、一連の作業が終わるのを見つめていた。
 大人しそうな風体のウェイトレスは一歩下がって丁寧に辞儀をする。そしてその去り際、そのほんの僅かな一瞬、彼女はニトロに対して個人的な好奇心を覗かせる視線を送った。だが、それも一息もつかぬ間に完全に消し去ると、彼女は足音も軽くカウンターへと向かっていった。
「……」
 このジムのどこででもそうだったが、有名人も使うことの多いここで働く人間にはそれ相応のコンプライアンスが徹底的に備わっているらしい。設備の充実度については言うまでもなく、標準よりずっと高い会費がむしろ安いと思われるほどのサービスも、ホスピタリティも行き届いている。ハラキリが口にした“ビジター”……当日限りの利用者制度もなく、通常は一日体験制度もない(指定された『体験日』のみ予約可能である)ため素性の知れない人間が入り込むこともない。ハラキリがここを勧めた理由が実感を伴って良く解るというものだ。
 ニトロはタンブラーの中身を飲み干し、
「――今日は、ありがとう。昨日の今日で付き合ってくれて」
「いえいえ、今日は暇でしたから」
 言って、カフェラテを飲むハラキリの口元は隠れて見えない。
「それからまあ、先ほどはああは言いましたが、例のトレーニングメニューは無理なくできるように作ってありますので、ニトロ君も今後は真剣に全力で疲れながらも決して無理だけはしないで下さいね。君の現状と、その目的からして、もしかしたら君は様々な力を“早く身につけたい”と焦ってしまうこともあるかもしれません。もちろん時には練習量を増やすのもいいでしょう、たまには倒れこむまでやるのもいいでしょう。しかし無理を続けて体を壊せば本末転倒ですし、トレーニングの効果も薄れてしまいます。そしてもしそうなれば、君を殺すのは、他の誰でもない『ニトロ・ポルカト』ということにもなり得ます」
「うん、そこは気をつける。芍薬にも俺がそうならないよう監督してもらうけど、ハラキリも『抜き打ちチェック』の時に気がついたら遠慮なく叱ってくれ」
「承りましょう」
 ニトロは目元だけを緩ませ――話しているうちに胃も元気になってきたし、実は先ほど親友の飲んでいたジュースが気になってしょうがなかった――テーブルにメニュー表を呼び出して追加注文する。
「ところでさ」
 メニュー表を閉じながらのニトロの問いかけに、
「はあ」
 ハラキリは気のない生返事をする。が、気のない生返事とはいえ、それが本当に“気のない”ものではないことをニトロは知っている。
「あのマドネルさん、本当に“無勝のMAマーシャル・アートファイター”だったの?」
「本人の言ったとおりですよ。0勝5敗で、そのまま引退。ですが――」
 ハラキリは、ニトロの疑問の底を汲んで応える。マドネルさんことドルドンド・マドネルは、ニトロのマーシャル・アーツ・トレーニングのサポートを担当するトレーナーだ。ニトロの言う通り元プロのMAファイターであり、
「恐ろしく本番に弱いタイプ、というんでしょうかね。所属ジム内での練習では一階級上の中央大陸チャンピオンとも良い勝負ができるくらいの実力を発揮するのに、リングに上がるとてんでダメだったそうです」
「そうなんだ――って、チャンピオンといい勝負って、物凄く強いじゃないか」
「身をもって体験したでしょう?」
 それが聞きたかったのだろう? と、にやりとハラキリは笑う。ニトロもつられて笑ったが、その笑みは歪んでいた。
「どうりで……ああ、なるほど、どうりで……」
 本日最後のトレーニングとして行ったスパーリングにおいて、凄まじいスピードでフットワークを刻み、にこにこと微笑み手加減しながらも、ていうか本当に手加減してやがんのかと怒鳴りたくなるほど目にも止まらぬ速度でパンチ・キックを繰り出してきた身長187cm・体重120kg・体脂肪率10%の巨漢。体格にも恵まれ、縦も横も奥行きも分厚い――そんな人が勝てなかったとはプロとはどんな恐ろしい人種なのかと思っていたが、それを聞いて妙な安心感を得てしまう。
 ニトロが半ば呆然としていると、先のウェイトレスがミックスジュースを持ってきた。そして先ほどと同じく――ただ今度はニトロに全く好奇心の目を向けず――空のタンブラーを下げ、カウンター内に戻る途中新しくテーブルに着いた三人連れの客に呼ばれてそちらへ足を向ける。どうやらそちらも初利用の客らしい。やり手のサラリーマンといった風情の青年が、メニューについて笑いながらウェイトレスに問いかける。ウェイトレスは客の笑みを写したような笑顔で説明をしていた。
「本人も苦しんだようですが、加えて当時のチームメイトが心底不思議がって、また腹立たしく思っていたそうでしてね。それで段々と居辛くなって、元々ボディビルにも興味があったため、ツテを頼ってこのジムにやってきたそうです。初めは格闘技からはさっぱり離れるつもりだったそうですが、指導する方には才能があったんでしょうねえ、今じゃ朗らかな性格もあって一番人気のトレーナーですよ」
「へえ、苦労人なんだね」
 ジュースのストローを触りながら、ニトロはふと気づき、
「元々ボディビルに興味があったってことは、その頃からあんなにマッチョ?」
「現役時はライトヘビー級で、体重制限もありますから今ほどではないです。とはいえマッチョと言うなら当時でも十分“マッチョ”でしたけどね。名前で検索すれば写真も試合映像も出てきますよ」
「そっか……」
「ちなみに当時は“ダフ・シャーク”にしていました、ミスター・マドネル」
「マジで!?」
 ダフ・シャークとは細かく三つ編みにした髪の一束一束を黒と金に交互に染め分けるヘアスタイルのことだ。初めは“キラービー”と言われていたらしいが、三十年ほど前に大ヒットしたアウトロードラマの主人公の髪型に採用されて以来、その主人公の名で定着している。
「眉毛も剃り落として今とは完全に別人です。一見の価値有りですよ」
「へえぇ……そうなんだ……」
 こげ茶色の髪を爽やかなスポーツ刈りにした現在のマドネルから過去の姿を想像しつつ、ミックスジュースに口をつけようとして、ふと、ニトロは気になった。
「あのトレーニングメニューをしっかりこなしていったら、ひょっとして俺もあんなマッチョになるの?」
 カフェラテを口に含もうとしていたハラキリは、一瞬、何を思い出したのか激しく噴き出しそうになり、しかしそれを何とか堪えて笑って言った。
「そんなことはありません。持久力重視で組んでいますし、特別筋肉を大きくする意図もありませんから……そうですね、外見を形容するなら『ごつい』や『筋骨隆々』ではなく『引き締まった』というタイプで――」
 と、ハラキリの顔に悪戯心が浮かび、それを目にした瞬間、ニトロの脳裡には一つのセリフが閃いた。ハラキリがその言葉を言わんとする最中、一方ニトロの喉の底には自動的にそのツッコミが装填される。
 そしてハラキリが、口火を切った。
「きっと『たくましくなって』と彼女もょ「下がるわモチベーション!」
 思わぬほど速くニトロに迎撃されたハラキリは目を丸くする。ハラキリを驚かせたニトロは得意気に笑む。それを見てハラキリは目尻を下げ、
「ならば、どちらにしろ君は彼女を喜ばせることになるわけですねえ。上がろうが下がろうが、そのモチベーションに関わらず」
「――う」
 会心の打ち返しをあっさり切り落とされたニトロは、抵抗を試みようとして言葉を探すも結局言うべきことを見つけられず、得意気に口角を持ち上げるハラキリから渋々と逃れるように顔をそむけてミックスジュースをストローで吸い上げる。
 それはとても甘く、実に美味しかった。
「……」
 そして、それはとても甘く、実に美味しいのに……何故だか色止めのレモンの酸味が、それはほんの少しだけ入っているはずなのに、それなのに、やけに酸っぱく感じられてならなかった。
「また『冷たい』ぞ、ハラキリ」
 せめてもの、負け惜しみ。
「これが予言にならないよう祈っていますよ」
「……そのフォローは『善処』の結果?」
「いかがでしょうか」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 ラウンジカフェに聞こえる数組の客の会話。
 カウンターからまるで何かの楽器のように聞こえてくる食器の触れ合う音。
 それからヒーリングミュージックを背景に、今は加えて『クレイジー・プリンセスをグーで殴った少年』へのかすかな細波のような注意も身に浴びながら、ニトロはミックスジュースを飲む。ハラキリはカフェラテを飲む。
 互いに言葉を止めた、その隙間。
 何を思ったのかハラキリがぼそりと言った。
「……『キレてます』」
 それはあまりにも不意打ちで、ニトロは鼻からミックスジュースを盛大に噴き出した。

後日談

 トレーニングを始めてからそろそろ二ヶ月。
 ニトロはウェイトトレーニングの正確なやり方フォームを身につけ、狙った筋肉に的確な負荷をかけられるようになった。ストレッチで体を柔軟にし、水泳や低酸素マスクをつけたジョギングを続けることでスタミナもついてきた。マドネルとのスパーリングにもやっと慣れ、最近ではパンチを“計画的に避ける”ことも――二十回に一回くらいは――できるようになってきた。初めの頃はトレーニングを終える度に歩くのも億劫なほど疲労困憊となり、時に吐き気に襲われることもあったが、今となってはそのようなこともない。トレーニング後にはいつも心地良い達成感と疲労感に包まれてシャワーを浴びることができるようになっていた。
 そのため、そもそも『危機感』から始めたこのトレーニングに対して、いつからかニトロは元々の目的に対するものとは別の充実感を感じ始めていた。
『運動不足の高校生』であった以前からは考えられないその感覚。これこそ運動の楽しさというものだろうか。それとも体を鍛えることの喜びというものだろうか。
 ニトロがそのような感傷を覚え出したちょうどその頃、
「ポルカトさん、良いマッスルになってきましたね」
 ある日、スパーリングを終えた後、ニトロはマドネルにそう誉められた。
 マドネルは誉めて伸ばすタイプであるので、格闘術の上達――例えばミット打ちの時などにニトロは彼に何度も誉められてきた。だが、マドネルがこうして肉体について誉めたのは、初めてである。記憶にある限り、彼が他のトレーニーに対して肉体について世辞は言っても誉めている光景も見た覚えがない。
「そうですか?」
 少し驚きながらニトロが問うと、ナチュラル・ボディビルディングをこよなく愛する元プロMAファイターは白い歯を見せ、
「ええ、貴方が実に真摯に、そして真剣に励んでいることが伝わってきます。癖のない体型だからこそでしょうか、形もいい、バランスもいい。どうです、いっそ今後はビルダーも目指してみませんか。マッスル、どでかく鍛えませんか」
 大胸筋をぴくぴくさせながら――最近分かったことだが、半分冗談、半分本気の言葉を口にするときのマドネルの癖だ――言われたニトロは、半分喜びに笑み、半分気持ちを引いた空笑みを頬に刻み、
「いえ、せっかくですがそれは『メニュー』外ですから」
 コンテストが近いため体脂肪率4%まで絞られたことでより迫力を増したマドネルは、そこで大胸筋の動きをぴたりと止めた。とはいえ顔には失望はない。彼は納得を頬に刻み、
「あのプログラムは良くできている。それならばそれがいいでしょう。マッスルは生涯のパートナーですから、この調子で大事にしてやってください。ただ、もっと素敵に育ててあげたくなったらいつでも相談に乗りますので」
 と、未練なく誘いを打ち切った。『王女の恋人』に対しても媚びず、こだわらず、他の客に対するものと変わりない朗らかさを見せる(かつ誉めて育てるタイプとはいえ練習中は何気に容赦のない)このトレーナーを、ニトロは信頼していた。
 そして、その夜のことである。
「……」
 洗面台で歯を磨いている時、ニトロはふと目の前の鏡を意識した。
 そこに映るのは、無論、ニトロ・ポルカト。
 己の鏡像などいつも目にしながらも特に“意識”することはなかったが、今夜は違う。
「……」
 マドネルに誉められた、筋肉。
「……」
 実際、ニトロ自身、例の“充実感”と共に、己の体の変化を意識しないでもなかった。
 間違いなく人生で最も多く運動量を積んできたこの二ヶ月。暇さえあればジムに通い、ジムにいけない時も自宅でできることを行ってきた。栄養補給も的確に、研究熱心かつ優秀な芍薬のサポートもあって一流アスリートもかくやという充実したトレーニング環境。体が変化しないわけがない。それもおそらく可能な限り効率的に、速やかに、堅実に、一朝一夕では衰えぬ基礎を固めて。しかし、ジムでトレーニングをする彼の周囲には常に非常に鍛えられた人々がいる。マドネルはもちろん、以前見たフォラバッヂのようなアスリートと比べるのはおこがましいことだと分かっていても、それでも比べてみれば己の肉体はまだ緩い、緩すぎると言ってもいい。……だから自身の体の変化を意識しないでもなかったとはいえ、ニトロの認識はどこまでも『段々引き締まってきたな』という程度に留まっていたのである。わけても『いい筋肉がついてきた』などとは思ったこともなかった。
「……」
 ニトロは歯を磨き終え、うがいをした後も鏡の前に立ち続けていた。
「……」
 Tシャツの袖を肩までまくり上げ、おもむろに両腕の力こぶを作ってみる。
「……」
 それは、確かに『力こぶ』であった。
「ぉぉ」
 小さく、ニトロは感嘆の声を上げる。
 以前には力こぶを作ってみたところで、それは“こぶ”と言うよりも単に“ふくらみ”というものだった。押せばなるほどそれなりに固い塊が皮下にあるものの、どれだけ力を込めても上腕は全体的になだらかであって、何となく凹凸はありながら、しかしどこから二頭筋でどこから三頭筋かはよく分からない。
 だが、現在は違う。
 ここには間違いなく“こぶ”がある。上腕には薄っすらと筋肉のれがある。ここからここまでが二頭筋だと分かる境界線が。
「おおお」
 ニトロは、嘆息をついた。
 そしてTシャツを脱ぎ捨てる。
 彼は改めてポーズを取った。
 例の筋肉自慢のプロレスラーが決めていたあのポーズ……鏡に対して横を向き、体の脇で左肘をおよそ直角に曲げてその手首を右手で握り、前面へぐっと大胸筋を張りながら肩から脚にかけるラインを通して側面からの肉の厚みを強調する――サイドチェスト!
 ニトロの意識は鏡の中の自分を超えて、思い出の中へと飛んでいた。
 プロレス好きだった友人。
 しばらく前に中央大陸西岸部へ引っ越していった彼と、例のプロレスラーのポーズを真似し合ったことがある。体格の良かった友人はなかなか様になっていたが、反面自分は形ばかりをなぞるだけ。しかし、当時に比べれば自分も格好付けられるくらいにはなっている。
 今度は体を前傾に、握りこんだ両拳を鳩尾の前、そうして首から肩、肩から腕と上半身の筋肉を強調する――モスト・マスキュラー!
 友人は、そのレスラーが大好きだった。
 フィニッシュ・ムーブは膨れ上がった上腕二頭筋で顎をかち上げるラリアット。
 定番ムーブは相手が倒れている間に行う三つのポージング。
 ポージングからフィニッシュ・ムーブにつなげることが最も華やかではあるが、そのレスラーは大抵失敗するのだ。もちろんポージングをしている間に相手が回復するからである。立ち上がった相手に手酷く迎撃されたり、ラリアットをかわされて派手に反撃を食らったり……そういう時に観客が大きなため息をつくのも半ばお約束だったけれど、やっぱり一連のムーブが決まった時の爽快感は格別だった。
 数年前のことなのに、今もまだ昨日のことのように語られる伝説がある。
 そのレスラーは、チャンピオンベルトには縁が薄かった。
 タッグチームチャンピオンの経験はあったが、シングルでは無冠であった。
 実力は認められていた。しかし実力を認められながらもファンの人気の勝る花形レスラー、不人気極まる(逆に言えば大人気の)絶対的なヒールレスラー、あるいは売り出しが成功した次世代エースと目される新人にトップの座を取られ続けていた。たまにタイトルマッチに挑むこともあったが、善戦止まり、あるいは引き立て役……実力があるからこそ、また少しコミカルに味付けされたキャラクター性もあって、それが完全に彼の定位置となってしまっていた。
 しかしある時、流れが変わった。
 それは強者乱立の際に訪れる、まるで誰かの悪戯のような、潮目とでも言うべき瞬間であった。
 当時チャンピオンであったのは、怪我のための長期休業からカムバックしてきたAPWアデムメデス・プロ・レスリングのレジェンドレスラー。花形レスラーも悪役ヒールも次世代のエースも敗れ、そして彼にチャンスが回ってきた。それは興行側からすれば花形レスラーのリベンジまでの繋ぎだったのかもしれない。しかし単なる“噛ませ”では盛り下がる。ならばそれなりの実力者を噛ませておこう……その思惑は、決戦までの道程に組まれたチャンピオンとの抗争において、至宝ベルト奪取へ向けて並々ならぬ闘志を滾らせるそのレスラーのファイトが観客の心を掴んだことで、予断を許さぬものへと変わった。レジェンドも同じくパワーファイター。タイトルマッチは両者のスタイルも噛み合い、ファンの期待に応える壮絶な死闘となった。
 友人の大好きなプロレスラーは、激闘の最中、肋骨を折り、自慢の上腕二頭筋を不全断裂したばかりか古傷の頚椎をも痛め、満身創痍になりながらも、いや、満身創痍であるからこそ生涯最高のムーブを決めた。汗に輝く雄々しいポージング、5万を超える観客が一体となって彼に声をかける、体ごとぶつかっていくようなラリアット、爆発音そのもののような歓声に会場が震える。カウントが入る。チャンピオンは動かない、観客の唱和と共にカウントが一つ、二つ、しかしチャンピオンは動けない。
 悲願達成の瞬間だった。
 ゴングが激しく打ち鳴らされる。
 一緒にテレビ観戦していた友人は始終興奮して大声を上げ、最後には涙を流して手を打ち鳴らしていた。その時の興奮を今もニトロは忘れていない。本当に素晴らしかった。
 それから三ヵ月後ことだった。あのプロレスラーは、リングを去った。表向きには首の怪我を理由にしていた。無論それは偽りない理由ではあったが、後に聞こえた話によると、急死した父の事業……息子がプロレスラーになることを反対していた父がプロスポーツ選手の第二の人生をバックアップするために始めた遺業を、自ら引き継ぐためであったという。
 そして友人とは、彼が引っ越した後には当然のように疎遠になってしまい、彼は『ニトロ・ポルカト』が有名になった際にメールをくれて、事情はともかく久しぶりの交流が嬉しくてすぐに返信もしたが、結局また疎遠となった。
 ――さあ!
 最後の三つ目のポーズは、両腕に、あの頃の自分にはなかった『力こぶ』を作り、リングを囲むオーディエンスへ大いに誇って魅せる――ダブル・バイセップス!
「フンッ」
 鼻息も荒く渾身の力でマッスルを盛り上げる!
 その時だった。
「ナイスバルク!」
 突然、声が上がった。
 鏡の前で己がマッスルを誇示するニトロを讃える声が。
 そして、その掛け声が、彼を一気に思い出の中から現実へと引き戻す!
「ンフィッ!?」
 ハッとすると同時に全身に込めた力が甲高い音を立てて鼻から抜ける。
 彼は慌ててポーズを解いた。
 我に返ると恥ずかしさが急速にこみ上げてくる。
 掛け声の主、芍薬のその声音は、とても明るかった。マスターが喜ぶと、楽しむと、それを我が事のように喜び楽しむ芍薬である。きっとマスターが己の筋肉の付きっぷりに満足し、ご満悦である、心底からそれを楽しんでいると思ったのだろう。いや、確かに楽しんでいたことは否定しない。否定しないが、
「――ッ違う!」
 ニトロは思わず大声を上げた。本当に楽しんでいたのは思い出との戯れなのだ。断じてマッスルに愉悦していたわけではないのだ。Tシャツを着るのも忘れ、顔どころか胸元まで真っ赤にし、オリジナルA.I.のカメラに向けて彼はぶんぶんと手を振り、
「違うよ芍薬! これは筋肉に惚れ惚れしてたんじゃなくて筋肉で懐かしんでたんだ!」
 即座に我ながら阿呆なことを言ったと理解したニトロは、芍薬が「エ?」と聞き返す暇もあらばこそ、わたわたと手のみならず腕まで振りながら叫ぶ。
「あああ、違う! そうじゃなくって、えっとね! 誤解しないで聞いてね!? 問題は、マッスルなんだ!」
 正直パニックに陥ったニトロが誤解なく芍薬に意図を伝えられたのは、それから十五分後も経ってのこと。それも彼の説明が何とか整頓されたためではなく、しっちゃかめっちゃかな彼の言動から何とか要点を拾い上げて主張を理解した芍薬の努力の賜物だった。

 後にはニトロと芍薬の間で笑い話になる出来事ではあったものの、その夜、ニトロがベッドの中でひどく身悶えたことは――言うまでもない。

メニューへ