ニトロの腕の中は、温かい。
今や彼はたくましく、息が苦しいくらい強く抱き締めてくれる。彼だけだ。唯一人、彼だけが『私』をこんなにも強く強く抱き締めてくれる。
「ニトロ……?」
彼に抱かれたまま、ティディアは愛しい人へ声をかけた。
「いきなり、どうしたの?」
「結婚しよう」
「え?」
「俺、お前と結婚して、この
ティディアは、言葉に詰まった。
喉を歓喜が駆け上ってくる。
目を熱い感情が染め上げる。
彼女は声を出そうとした。しかしそれはあまりの喜びのために嗚咽になってしまいそうだった。今にも号泣し、平静を保てなくなりそうだった。
「ニトロ……」
辛うじて彼の名を呼ぶその声は、かすれ、震え、脆くも壊れかけていた。
もっと大きな声で喜びを彼と分かち合いたいのに……そう思うと情けなくもなり、一層何も言えなくなって唇が震える。
すると、彼の手が、幾度も困難を叩き落としてきた彼の手が、抱き締める腕の力強さとは裏腹にそうっと優しく背中を撫でてくれた。背に彼の掌を直に感じる。その時、ティディアは自分が彼と裸で抱き合っていることを知った。
――心地良い温もりに包まれていた。
布一枚隔てることもなく、溶け合うように、互いの存在を肌で感じ合う至福があった。
ティディアはかすかに息を漏らした。
唇に、胸に、下腹に疼痛を感じる。
その甘やかな痛みがこの至福をより強く感じさせてくれている。
ティディアは目を上げた。
彼女の瞳に、ニトロの笑顔が映った。
視界がぼやける。
何も見えない。
それはニトロを喪ったかのようにも思え、思わず彼女は身を震わせた。
すると、今度は額に触れるものがあった。
ほんの少し。けれど、それは確かに。優しい口づけだった。
「――本気?」
ティディアは、ようやっとそう問いかけることができた。二つ返事で彼に応えることは何故だかひどく怖くてできなかった。それにもっと彼の気持ちを確かめたくもある。まだ視界はぼやけていた。彼の口づけが、彼女の目から視力をさらに奪っていた。
「……本気じゃなくて、こんなこと……」
ニトロの腕に、力がこもる。彼の緊張が、その鼓動が、触れ合う胸を通して直接ティディアの心臓に伝わってくる。
ティディアは己の心臓も彼と同じく激しく脈動するのを知った。そうして彼と鼓動を等しくすることに無上の喜びを感じ、とうとう涙をこぼした。今度は私が彼の背を撫でる。優しく、いとおしく。
「……ありがとう、ニトロ。やっと、やっと……その言葉を言ってくれて」
「受けてくれるのか?」
「ええ、ええ、もちろん喜んで……ああ、ニトロ、ニトロ、愛している」
ティディアが何度もうなずき応えると、ぱっと二人をまばゆい光が包み込んだ。
そこはアデムメデス国教会の大聖堂だった。
二人は王族の婚礼に用いられる衣装に身を包み、金色の法衣を纏う法老長へ静かに頭を垂れていた。
歓声が上がっている。
喝采が捧げられている。
大気が揺れていた。
女王ティディアと王婿ニトロの誕生を祝う声が、星までをも震わせていた。
ティディアはニトロを見つめた。
天地を揺るがす鳴動の中、彼女にだけ聴こえる囁き声で、彼は言った。
「愛してるよ、ティディア」
――っていう夢を見て。
むくりと身を起こしたティディアは、しばしぼんやり空を見つめた。
(……たしか、前にも似たような夢を見たわねー……)
今回は、そのマイナーチェンジ版か。それともアップグレード版か? 最悪なことに、夢の中で感じた疼痛が、唇に、胸に、下腹に、あの至福の痛みが未だに残っている。
「……」
ティディアの見つめる空は、やけに乾いていた。
湿度は最適に保たれているはずなのに、どうにも乾いていた。
乾いた空はとても空虚で、そのくせやけに広い。
見慣れた部屋の景色は見慣れた通りに全く変わらないはずなのに、心はそれをひどく広大に感じさせる。
その広大な空間の向こう側から、何かが、夢の余韻を残す胸に押し寄せてきている。
「……」
彼に……
彼に科された『罰』の期間は、ようやく残り一週間となった。
だが、その一週間が、ひたすらに長い。長くて我慢ができそうにない。それでも我慢しなくてはならないけれど……絶対に我慢してみせるけれど……もう、ニトロが作ってくれたお弁当もなくなってしまった。
「……」
カーテンから幽かに覗くのは、王城を照らす人工の光の残滓。
まだ、夜だった。
随分眠ったような気がしていたが、もしかしたら、寝入って間もないのかもしれない。
「……」
それを、部屋付きのA.I.に問うこともせず、
「……」
ぼんやりと空を眺め続けたまま、ティディアは弱く深く、息を吐いた。
終