右腕に痺れを感じて、彼は目を覚ました。
「おはよう、ニトロ」
すると息のかかるほどの距離に、ティディアの明るい笑顔があった。
「うおわあ!?」
ニトロは跳ね起きた。
「あ痛っ」
その勢いでニトロの右腕を枕にしていたティディアの首が微妙な角度に折れ曲がり、筋を違えた瞬間特有の小さな悲鳴が上がった。しかしニトロは構わずベッドから転がり落ち、さらに距離を取ろうと素早く後退した。身構えながら、自分が全裸であることと、この部屋が自宅であることを確認し、ぞっとする。
「いきなり、どうしたの?」
ベッドの……俺のベッドの上に一糸纏わぬティディアがいる! ベッドに、二人きりで、互いに全裸で!? まさか薬を盛られて……そして――ッ!!
ニトロは眩暈を感じた。
慌てて下腹部を見る。
が、そこにはトランクスしかない。
ニトロは、そこではっと気がついた。
「芍薬!」
そうだ、芍薬がいない。こんな状況、芍薬が許すはずがないのに!
「芍薬!?」
ニトロはその名を叫んだ。すぐに応じてくれるはずの『戦乙女』は依然沈黙していた。
「芍薬!!」
三度叫ぶニトロの声は、もはや悲鳴であった。
……しかし、応える者はない。
「芍薬って、だぁれ?」
くすくすと笑いながら、どこかからかうように言う者があった。
無論、ティディアである。
ニトロはティディアを睨みつけた。
ニトロと視線を絡ませるティディアは、薄い紫色のネグリジェを着ていた。極上の絹に透ける彼女の裸身は誰かが『芸術』と評した通りに美しい。ふくよかなだけでなく形も美しい乳房、神の筆が描いたように滑らかなくびれ、一点の曇りもない白い肌は極上の絹よりもきめ細かく輝いている。――綺麗だ。ニトロは思った。ティディアは綺麗だった。綺麗でありながら、しかし彼女の肉体はどこか淫らにも見えた。乳房は肉体のもたれるような柔さを目にも伝え、くびれはだらしなく崩れて劣情を誘い、肌は快楽を求めてなまめかしく舌なめずりをしている、女の体は『芸術』から一寸たりとも変化していないのに、そのはずなのに、時にニトロにはそのように感じられてならなかった。そういえばメルトンがしたり顔で言っていたことがある。美術品のように“綺麗”なものよりも、むしろ少し崩れた肉体の方が劣情を引き起こすのだと。ティディアは綺麗でありながら、同時に淫靡であった。
「ニトロ?」
くすくすと笑うティディアの唇が、その双眸が蠱惑に染まる。
ニトロは彼女に強く惹かれる自己を感じた。耐え難いほどの情欲が首をもたげ、痛いほどに血が沸き立つのを感じた。
しかし、彼は知っていた。
これこそがこのバカ女の最悪にして最大の武器なのだと。
「芍薬は、どこだ?」
ニトロはひたとティディアを睨みつけたまま、渾身の拒絶を込めて、問うた。
するとティディアが眉をひそめた。
心配そうに。
「さっきからどうしたの? ニトロ、悪い夢でも見た?」
「悪い夢なら、今見ている」
ニトロの答えに、ティディアは小さく息をついた。それは馬鹿にするのではなく、聞き分けのない子に対して母親がするような仕草だった。
「ニトロ。芍薬なんて人はいないわ。ここにいるのは、私とあなただけ」
「嘘だな」
「――そうね」
と、何か思い直したように、ティディアがニトロの拒絶の言をいきなり肯定した。
「確かに、ここにいるのは私とあなただけじゃなかったわね」
小さく舌を出し、ばつが悪そうにティディアは言う。そして彼女はベッドから降り、マタニティドレスに覆われた腹部を優しく撫でた。その頬に、ニトロには名状しがたい微笑みを刻んで、
「もう一人、ここに」
「――ッ!」
ニトロに強烈な寒気が襲いかかってきた。怖気のあまりに全身が粟立つ。
それと同時に彼は思い出していた。
そうだ、このネタは以前にもやられたことがあるじゃないか。このクソ女、性懲りもなくまた繰り返してきたのか!?
「想像妊娠か」
「え?」
ティディアが、意表を突かれたように目を丸くする。
「想像妊娠。そうだろう? 電波な女の調子で『責任取れ』――お前はまたそうやって俺に迫るんだろう!?」
一瞬、ティディアが目つきを鋭くした。そこには強い非難と、それから失望があった。
だが、その一瞬後には、彼女はまた微笑んでいた。
「やー、確かにそんなこともあったわねー」
そうしていつもの軽い調子でそう言いながら頭を掻く。
「その節はご迷惑をおかけしました」
ティディアはおどけるような調子で言った。おどけるような――その口調にニトロは激しい怒りを感じたが、次の瞬間には目を瞠り、言葉を失っていた。
「……ほら」
穏やかに、慈愛を込めてティディアが示す。
一糸纏わぬ彼女の腹部はわずかに膨らんでいた。確かに、そこには生命が宿っていた。
「今度は想像じゃない。想像なんかじゃないわ、ニトロ、ここにはあなたと私の赤ちゃんが」
ニトロも一糸纏っていなかった。ティディアと、お互い何も纏わず二人で向かい合い、共に真っ白なシーツがどこまでも広がるベッドに座っていた。
周囲には太陽の光がある。
陽だまりの中に二人はいた。
ニトロは、呆然とティディアの腹を見つめていた。
ふいにニトロの唇に触れるものがあった。ティディアの口づけだった。ニトロはそれを受け入れていた。
「私ね? 幸せなのよ?」
伸ばされたティディアの両腕が、ニトロの頭を抱えるようにして優しく引き寄せる。ニトロはされるがままティディアに引き寄せられ、彼女の腹に耳を寄せていく。
「ほら」
ティディアが促す。
ニトロはティディアの膨らんだ腹にそっと耳を当てた。
そして聞いた。
可愛らしい声が聞こえた!
「パパー。遺伝子ありがとー」
――っていう夢を見て。
「ぅぬぃやああああああああああああああああああお!?!」
絶叫、否、半ば断末魔の悲鳴を上げてニトロは飛び起きた。
「ニャア!?」
すると部屋の壁に埋め込まれたスピーカーから驚愕の、しかし彼にとって心底安堵する声が上がった。
「主様――主様ドウシタンダイ!?」
次に声が聞こえたのは別の場所からだった。そちらを見ると、心配と不安に彩られた顔がカーテンを透く夜明けの薄い光に照らされていた。緊急起動したため若干統率の取れていない動きで部屋の隅の定位置からアンドロイドが駆け寄ってきてくれている。
それを、ニトロはぼんやりと見つめていた。そうして駆け寄ってくる芍薬を見つめながらぼんやりと頭を働かせて……ここは自室であり、自分のベッドには自分一人しかいなくて、そして体にはシャツとコットンパンツ――夏用の寝巻きがちゃんと着つけられていて、何より、やっぱり芍薬がいてティディアがいない! それを理解するや、彼は、ベッドに片膝を乗せこちらを心配げに顔を寄せる芍薬へ轟然と叫んだ。
「芍薬! 俺を殴れ!」
「エエエ!?」
普段冷静な芍薬も、あまりに唐突なニトロの発言に目を丸くする。
ニトロは続けて叫ぶ。
「早く俺を殴るんだ、芍薬! 俺を、俺を処刑……じゃなくって、何だっけ、そう……そう、カイシャク! 俺をカイシャクしてくれ!」
「主様チョイト落チ着イテオクレヨ! ドウシタンダイ! 悪イ夢デモ見タノカイ!」
「ご名答!」
「ドンナ夢ダイ? 話シテミレバキット落チ着クヨ? ネ?」
芍薬にそう促された瞬間、ニトロが、グわッと目を目尻が裂けんばかりに大きく見開いた。
「ッ話せません!!!」
「ニャアァ!?」
そのあまりの剣幕に芍薬は度肝を抜かれた。恐怖のためか、それとも自己嫌悪のためか、血の気を失ったマスターの形相はA.I.から見ても恐ろしく、瞳孔が完全に開き切ったその眼差しには狂気すら宿っている。
「……主様?」
思わず、芍薬は声を震わせてマスターに問いかける。できうる限り労わりの感情が顔に表れるようココロを配って、できうる限り優しい眼差しで問いかける。
しかし、マスターはまるで魂の底から震えるように身を揺らし、それどころかがちがちと歯まで鳴らし出した。
「主様」
芍薬が呼びかける。
ニトロが歯を食いしばり、がちがちと鳴る音を止め、そして歯の隙間から押し出すようなうめき声で、
「話せない」
つぶやく。
「絶対に……」
頭を振る。
「うおお恐ろしい、恐ろしい!」
そして彼は切羽詰った眼差しで芍薬を真正面から突き刺した。
その迫力に思わず芍薬が身を引く。その瞬間、その両肩をニトロががっしと掴んだ。
「だから芍薬! 俺を思いっきり殴るんだ! 殴って俺の一時記憶をレッツデリート!」
「エ、アノ」
「殴って綺麗にレッツデリーーート!!」
「キョ、拒否!」
極めて珍しくおろおろとうろたえ、芍薬は左右に首を振る。とにかくマスターを落ち着かせるために一度間合いを広げようと試みるが……動かない……動けない! この機械の体が完全に押さえ込まれている! まさか……まさかの『ニトロの馬鹿力』が発動している!?
「芍薬! 頼む! 俺の記憶を奪って!」
ニトロが芍薬に迫る。
「――ッ拒否! ソンナノ危ナイカラ、主様!」
芍薬は懸命に首を振る。
「大丈夫! 芍薬なら大丈夫だから!」
「ソンナワケナイダロウ!? あたしガドウコウヨリ人間ノ脳ハソンナ都合良クデキテナインダヨ!?」
「そこは俺を信頼して!」
「信頼デドウニカナル問題ジャナイヨ!」
「芍薬!」
「拒否!」
「芍薬!」
「拒否!」
「芍薬さん!?」
「主様!?」
「それじゃあ提案。こうコメカミをガツンと! もしくは顎をスパッと!」
「拒ォ否ィッ!! 提案モ何モナンニモ変ワッテナイヨッ? テイウカ悪夢ダッタラ気ニシナイ――ソレデイイジャナイカ!」
「気にしないようにすればするほど気にしちゃうだろう!?」
「何デソウイウトコロハ冷静ナンダイ!?」
「さっきからずっと冷静だよ!? だから、さあ!」
芍薬の頭をがっくんがっくん揺らしながらニトロは懇願する。
「サア、ジャナクテ!」
マスターにがっくんがっくん揺らされながら芍薬はもはや涙声である。
「芍薬、お願いだから忘れさせておくれよおおおおお!」
「主様、オ願イダカラ落チ着イテオクレヨオオオオオ!」
――その朝は。
間違いなく、大混乱であった。
終