吉 /2013

(第四部の直後)

「……美味しかったなー」
 車窓の外、残照に染まる渓谷を眺めながらニトロがぽつりと言うのに、ハラキリは苦笑で応えた。
「何度目です?」
 ニトロはつぶやきの形のまま開いていた口を閉じ、そのままむっとした顔を作ると、テーブルを挟んで対面の席に座る親友へ目を向けた。その表情は如実に「別にいいだろ?」と語っている。それを見たハラキリは口の端を片方、からかうように引き上げ、
「興味はなかったんですがねぇ。実際、ご相伴に預かっておいて良かったですよ」
 言いながら、ハラキリは手元の板晶画面ボードスクリーンに目を落とした。
「確かに、あれは美味しかった」
「だろ?」
 ニトロが身を乗り出して言う。
「ミリュウのルッドランティー、あれは美味しかった」
 ハラキリはニトロが自分の言葉を――どことなく口調も真似て――繰り返してきたことに思わず笑った。板晶画面ボードスクリーンから目をニトロに移すと、意外にも彼はこちらへ不満気な顔を向けてきていた。どうやら、本を読んでないで話そうぜ……そういうことらしい。
 しかし、ハラキリはニトロの誘いはどこ吹く風とばかりに再び目を落とした。強まったニトロの不満が言葉はなくとも伝わってくる。ハラキリは、手元の画面に目を走らせながら、
「嬉しそうでしたね」
「嬉しかったよ」
 本を読みつつではあるが、会話には応じてもらえたニトロが少し声を明るくして応じる。が、ハラキリはその応答に内心苦笑していた。今の「嬉しい」はニトロに対して言ったのではない。まあ、彼からは死角になっていたし、彼女も彼に見えないようにしていたから気づかなかったとしても仕方がないが――
「妹様ですよ」
 ハラキリは言った。
「ん?」
「妹様は、君に飲んでもらって、とても嬉しそうでした」
「そうだった?」
「ええ」
「そう?」
 ハラキリは少しだけ目を上向けた。
 ニトロは再び車窓に顔を向けて、群青色の空に姿を現し出した星を見上げていた。その頬には、一筋の笑みがあった。
 ハラキリは目を落とし、
「おひいさんもニトロ君と仲直りができたようで何よりでした」
「それはまた解りやすい意地悪だなぁ。誰が誰と『仲直り』だって?」
「星空デートをしたのでしょう?」
「あれをデートというのなら、きっと世界が終わっても俺とお前は分かり合えないな」
「おや、これは手厳しい」
 ハラキリは目を落としたまま読書の眼を少しも鈍らせることなく、その上ですらりと会話をやってのけてくる。ニトロは相変わらず器用な奴だと半ば感嘆し、もう半ばでは、ちょっと、気になった。
「……ところで、さっきから何読んでるの?」
「話題の恋愛小説『わたし、あなたがわからない』」
「マジで!?」
「マジで」
「ハラキリってそういうのも読むんだ……」
「情報収集の一環ですよ」
「ああ、そういう……
 で、面白い?」
「ギャグ小説としては」
「そりゃ手厳しい、っていうか、ひねてるなぁ」
「それが拙者の良いところ」
「ンなところを自分で良い言うな」
 ニトロの含み笑いを聞きながら、ハラキリは主人公と恋の相手のやり取りが描かれている場面を読み進めつつ、
「わざとなのか理解力がないのか、相手の言葉を常に誤解しながら『わたし、あなたがわからない』と言われても、それはギャグでしょう?」
「それはまあそうだけど……いや、読んでないからどうとも言えないけど……」
「それは賢明。しかし、少なくともこの恋人達に比べれば拙者とニトロ君は分かり合っていると思いますよ?」
 すると一瞬、ニトロがまごついた。何か不意打ちを受けて面食らったようだった。そして、
「……時々、ハラキリも臆面もなく結構ドストレートな言葉を吐くよな」
「心を込めなければいくらでも言えるものです」
「おーぅ、こぉのやろう」
 歯噛むようなニトロの声の裏には笑みがある。ハラキリは小さく肩を揺らし、続ける。
「もしこの小説の中に君がいたら、多分三分の一くらいの分量で終わっているでしょうね」
「それは誉め言葉か?」
「ええ、心を込めて」
「おーぅ、こぉのやろーう」
 言って、ニトロは笑った。ハラキリも今度は声を出して笑った。
 その時、それまで車窓に切り出されていた渓谷が突然黒く塗り潰された。トンネルに入ったのである。
 ルッドラン地方での用を全て終えたニトロとハラキリは、今、クレプス―ゼルロン山脈を一日かけて横断する懐古趣味全開の観光列車に乗っていた。ともすれば強引にでも帰路を共にしようとしかねなかったティディアとはルッド・ヒューラン邸で別れている。彼女は鬱陶しいほど名残惜しげに足を動かさず、最後には(ニトロに促された)ヴィタに引きずられてようやく飛行車スカイカーに乗り込んだものだった。途中で乗り物を変え、そこからは文字通り音速で東副王都イスカルラに向かうということだったから、今頃は既に到着し、早速翌日の会議のために色々と動いていることだろう。パトネトは、もう二日ばかりミリュウと共に過ごすのだとルッド・ヒューラン邸に残っている。仲の良い姉弟は夕食を楽しんでいる頃合だろうか。こちらもそろそろ、楽しみにしているディナーの時間だ。
 二人を乗せるこの列車は、この手の列車に漏れなく移動するホテルと呼ばれていた。ミリュウの成人を祝いに来るにあたって、帰路に使う移動手段としてこの列車の名を挙げたのはニトロである。しかしこの列車は人気が高く、普通は予約一年待ちがざらである……のだが、どういう手段を使ったのか、ハラキリの手配で一等車の二人部屋を取ることができた。
 二人がいるのは、その個室である。確かに言われる通り、洗練されたホテルの一室をそのまま移築したような部屋だった。写真で見た特等に比べれば見劣りはするものの、とはいえ元々は三等でも……と思っていたニトロにとっては十分過ぎる。さらに追加料金を支払えば料理を特等のものと同じにできるというから最高だった。
 もう一人の道連れ――芍薬はといえば、ニトロにあてがわれたベッドの傍らでアンドロイドをスリープモードにし、自身はジジ家のネットワークを使い、これからの道程の状況を詳細にチェックしている。
 トンネルを抜けた。
 渓谷の続きがぱっと車窓に現れる。
 しかし山の日の落ちるのは早い。その様子はもう薄暗くてよく見えなくなっていた。これから景色を楽しむには、暗みに目を慣らした上で月明かりに頼るか、それとも日の出を待たなくてはならないだろう。
「一本前のを取れれば良かったんですけどね」
 ニトロが振り向くと、ハラキリも外を見ていた。彼が言うのはクレプス方面に向うこの列車ではなく、ゼルロン方面に走るもう一編成のことだった。双子月になぞらえてそれぞれカラーリングされた名物列車が、すれ違いのためにルッドランの隣の駅で待ち合わせをするのは一つの名物ともなっている。もしそちらに乗車していたならばそれを見ることもできただろうが、
「いや、ちょうど良かったよ。お陰でパティと馬にも乗れたしね」
「そういえばお姫さんが凄い形相で指をくわえていました」
「そんなん知ったこっちゃないな」
「おや、つれないですねぇ」
「そりゃあね、どうでもいいから」
 ハラキリは笑いを噛み殺し、それから、
「ルッドランティーも、もう一杯飲めたし?」
 その問いに、ニトロの笑顔が窓に映りこむ。素直な笑顔だった。その素直さが、ハラキリの瞼に、同じように素直な笑顔を浮かべていた少女の姿を蘇らせる。
「美味しかったなー」
 ニトロの、もう何度目かの繰り返しに、
「ええ」
 ハラキリは笑みを返し、そうしてボードスクリーンに目を落とし――そこで気がついた。メールの着信があった。画面に指を触れてメールを開く。と、
「おや」
 ハラキリのその声が少し“違っていた”のをニトロは聡く悟った。ニトロがそちらへ目を向けると、その視線を察してハラキリが顔を上げた。ハラキリは、なんともにやにやとした笑みを浮かべていた。それを見たニトロは考えるよりも早く訊ねていた。
「なんだよ、その顔は」
 ハラキリは愉快気に答える。
「ミーシャさんから、メールが。ニトロ君宛に」
 ニトロは小首を傾げた。
「いや、ハラキリに来たんだろ?」
「とうとうクレイグ君に告白したそうです」
「お?」
 ニトロは目を丸くした。『劣り姫の変』が始まったちょうどその日に一緒に遊んだ女友達と男友達の名、その話題に、その内容に。ふと気がつくと、アンドロイドの顔がこちらに向いていた。どうやら芍薬も気になるらしい。
「――で?」
 ニトロの促しを受け、ハラキリは小さく肩をすくめる。
「まだ失恋してから一月半くらいでしょう? クレイグ君はその手の気持ちを簡単に切り替えらるタイプじゃないですし、実際、切り替えられないようでしたからねえ」
「ああ、それはね。
 で? 焦らすなよ」
「しかしミーシャさんは頑張った」
「うん」
「そして、報われた」
 ニトロの頬に、自然と笑みが浮かんだ。それはハラキリと同じく、にやにやとしたものであると彼は自覚していた。
 彼は目尻を垂れて言う。
「そりゃ吉報だ」
 するとハラキリが片眉を小さく跳ねて問いかけてきた。
「そう思います?」
「思うよ? だって、ミーシャとクレイグは絶対に合うと思うんだ」
「二人は付き合いも中学からだし?」
「それもあるけどね。それよりも、なんとなくさ、根拠はないけどそう思うのさ」
「――ですね。そもそも前の彼女とはうまくいかないと見込んでいましたしねえ、でも、拙者も今回は長く続くだろうと思っていますよ」
「……お前、それ、クレイグに言うなよ?」
「ご心配なく。これでも相手も言葉もちゃんと選んで使っていますから」
心を込めて?」
 ニトロにやり返され、ハラキリは思わず笑った。それから、してやったりと得意顔をしている親友に向けて、
「それで、ミーシャさんが君にお礼を伝えてくれと」
 だから彼女はハラキリへメールをよこしたのか、とニトロは理解した。普段粗雑な調子を作っておきながら実は相当な照れ屋である女友達の顔を思い浮かべると、やはり自然と笑みがこぼれてしまう。
「でもお礼って? 俺、何かしたっけ?」
「君の『立ち向かう姿』に勇気をもらったそうですよ。まあ、勇気をもらってから一ヶ月間も悶々としていたようですけれどね」
 それは――つまり『英雄』としてのニトロ・ポルカトの姿に――か。ニトロはそう思うと少し複雑だった。それを見透かしたようにハラキリが、
い報いは、何であれそのまま素直に受け取るのが一番ですよ」
 ニトロはハラキリを見つめた。
 しかしハラキリはニトロと目を合わせることなく、ボードスクリーンへ目を落としていた。
 ニトロの視界の隅では、芍薬が、かすかにうなずいていた。
「……」
 ほんの数秒の沈黙の後、ニトロは目を細め、
「それは何かの格言か?」
 ハラキリは、その口元に笑みを刻んだ。
「選んだ言葉に心を込めて、君に」

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