自在 /2013

(第五部『鏡の中の』と『誕生日会』の間)

 折からの手料理ブームである。
『ニトロ・ポルカト』が『英雄』とまでなった今、その嗜好を真似る人間達が以前にも増して大急増、中でも麗しい姫君とのエピソードに頻繁に出てくる『手料理』が注目を集め、そこに付随してきた様々な思惑感情思想戦略が絡み合い、それは大きなうねりとなってアデムメデスの経済を活性化させていた。
 あらゆるメディアで料理関連の広告が増えている。調理器具メーカーがスタンダードな包丁や鍋を売ろうとすれば、家電メーカーが最新のオールマイティスライサーやオールマイティーレンジの販売に力を入れ、危機感を抱いた外食業界が客足を引き止めようとあの手この手を講じる一方、食品メーカーはここぞとばかりにスケジュールを前倒ししてまで新商品を大量投入して大々的なキャンペーンを張る。
 それは安定していた――逆の意味では停滞していたアデムメデスの食文化をも活性化させる一種歴史的なうねりでもあった。
「……本当に、お姫さんは凄まじい影響力を持っていますねぇ」
 ハラキリはつぶやいた。彼の眼下にはぎっちり渋滞している車道と、みっちり人のごった返す歩道とがある。道の片側には雑居ビルの立ち並ぶ繁華街があり、その反対側には車と人の海とは打って変わって広々とした緑地帯があった。
「ニトロガ、ジャネェノカ?」
 そう問いを発したのは彼の乗る飛行車スカイカーを制御するA.I.韋駄天である。韋駄天は向かう先、地下駐車場の管理システムから送られてくるナビに従い車を降下させながら、
「コノブームハ、ニトロガキッカケダロウ?」
「しかしそのキッカケ自体、本質はあくまで『麗しい姫君』のため」
「――ナルホドナ」
 ゆっくりと降下する車の窓の正面に屋外広告がせり上がってきた。雑居ビルの壁面に張り付けられた巨大な板晶画面ボードスクリーンに映し出された静止画像の中で、可愛いトマトといかつい唐辛子のキャラクターが何やら必死の形相で競走している。広告はせり上がってきた時と同じ速度で上空に消えていき、やがて人がごった返す“外”を横目にして車は地下へと潜り込んでいく。と、
「サテサテ、ドコマデ大キクナルコトカネェ」
 面白そうに、韋駄天が言った。
 ハラキリは小さく口の端を持ち上げる。
「それは拙者も楽しみではあるけどね」
 車が止まった。
 ハラキリの座る運転席のドアが開く。
「イツデモ逃ゲラレルヨウ、エンジンヲ温メテオクゼ」
 まるでニヤリと笑っているような声だった。ハラキリは小さく笑い、そのまま車を出た。

 ハラキリがやってきたのは、王都の西南部にあるマゴモ国立公園だった。王都西部にあってはスライレンド王立公園に次ぐ広さで、敷地内には大型競技場スタジアムも設けられ、王侯諸侯ではなく行政主体に運営される公園としては王都最大の敷地面積を誇っている。
 このマゴモ国立公園並びにスタジアムにおいては、本日、フェスティバルが開かれていた。例年開催される地元商工会主催の祭である。そのため性質としては各事業者と地域住民との触れ合いが主目的ではあるのだが、しかしその規模は大きく、催される企画も多種多彩であるため、以前からちょっとした行楽イベントとして注目を集めているものだ。そこに、今回、『ティディア&ニトロ』までもが参加するとなれば……その賑わいときたら推して知るべしであろう。
「やあやあ、凄い人出ですね」
 公園・スタジアム関係者専用地下駐車場から、そのままスタジアム横にある事務所――三階建てのビルにやってきたハラキリは『楽屋』のドアを開くなりそう言って、ふと眉根を寄せた。
「ここは――『漫才コンビ』の楽屋ではありませんでしたっけ?」
 そう訊ねたハラキリを、少々やさぐれた眼で見返したのはニトロであった。
「そのはずだな」
 鍋の中身が焦げないようお玉でゆっくりかき混ぜながら、エプロン姿のニトロは言う。
「そのはずなんだよ」
「……何故に、料理を?」
 普段は会議室である部屋の真ん中に置かれた大型の折り畳み式テーブル。ニトロはその上に置いたポータブルタイプのクッキングヒーターの前に立ち、二人の美女が椅子に座って少し離れた横から彼の仕事を見つめている。彼の背後には一体のアンドロイドが控えていた。美女の内一人は幸せそうに笑み、一人はよだれを堪えるようにして鍋を凝視していた。青いユカタを着た一体は難しい顔をしている。
「何故か、料理をすることになったからだよ」
 ニトロが言う。非常に嫌そうに。
「いつものことではあるんだけどさ、こいつが急に台本を変更しやがったんだ」
 ニトロの目がティディアを指し示す。彼女はテーブルに頬杖を突いてニトロに向けていた目をハラキリに移し、またすぐにニトロへ戻す。ニトロはため息をつきながら、
「漫才は取り止めで、手料理の実演だと」
 ハラキリはドアを閉め、部屋に満ちる香りを嗅ぎ、
「トマトですか? スープ?」
「フレッシュトマトを使ったアラビアータソース」
 ニトロの背後に回りこみ、ハラキリは鍋の中身を覗き込んだ。確かに、そこにはトマトソースがある。トマトの香りにニンニクの香りが溶け込んでいた。それに少しの、辛みの気配。もう少し煮込んだら完成といったところだろうか。
「それならまあ、何故も何も単純にお姫さんが食べたいからでしょう? 君の、作り立てを」
「ああ、そうだろうさ、そんなところだろうさ。解ってるんだ、それは」
「ああ。さっきの『何故か』はお姫さんへの嫌味でしたか」
「全っ然通用してないみたいだけれどな」
 ニトロの目の先ではティディアが相変わらず微笑んでいる。ハラキリは、友人の、まるで新夫を見つめるような眼差しを横目にしながら、
「そんなに嫌なら帰ります? 送りますけど」
 と、言ったところでハラキリははたと思い出した。
「ああ、そうか、このお祭の筆頭スポンサーはメルクルオーライでしたか」
「『うちの商品をよろしくお願いいたします!』……平身低頭、そう言われたよ」
 ハラキリは、マゴモ国立公園の傍らで創業し、今や大企業となった食品メーカーの社員を相手に大困惑していたであろうお人好しの姿を思い描いて小さく笑った。
 するとニトロが重ねて、
「しかもメルクルオーライだけじゃなくてね。使う調理器具はジャイオン・ブラックサミス製、水はウェムアクア、食材はマゴモ商店街に居を構える老舗マットンストアからのご提供」
 順に、知る人ぞ知る小さな金属加工所、ここマゴモに王都支点を置く宅配ウォーターサーバーの大手、そしてニトロの言葉の示す通り、個人商店ながらメルクルオーライと並んでマゴモ商工会の顔と言った店。ハラキリはまた笑い、
「それは逃げられませんねぇ」
「おお、逃げられないともさ」
 はあぁと嘆息しながらニトロは言う。
 ――ティディアは、にこにことニトロを見つめ続けている。
 嘆息を吐き終えたニトロは、笑いながら空いていた席に座るハラキリへ、
「それにしても遅かったね」
「交通規制に引っかかっていました。空もまあ大混雑ですよ」
「あら」
 と、そこで初めて、ティディアが口を開いた。
「連絡してくれれば案内を寄越したのに」
「目立つのは嫌いなんです」
 ハラキリが肩をすくめて言うと、ティディアは目を細め、そしてまたニトロへと目を戻す。
 ハラキリは――芍薬がちょうど差し出してきた茶器を受け取り、紅茶をすすりながら、
「で、それでなんで今からアラビアータソースを?」
「ここらじゃそろそろトマトの旬が終わるから今の内に、ってのに加えて“作り置きに便利ですよ”ってやつをね。結構量を作るから、その分時間もかかってさ」
「――ああ、途中まで作って『そしてこれが何分煮込んだものです』ってアレですか」
「そう、それ。そのために今作ってんの」
「急ですね」
「急だったからね」
 ティディアは、にこにこと微笑んでいる。芍薬は難しい顔をして、ヴィタはうずうずとしている。
 ハラキリは自分がここに来るまで、この部屋はどんな空気だったんだろうなと思いつつ、
「それで――そう言えばメルクルオーライからは何をよろしくされたんです?」
「作り置きのアラビアータソースを、一例としてペンネとね。それからプレーンオムレツを作って、そこで『トマトが活きる絶品デミグラスソース』さ」
「なるほど」
 うなずいて、紅茶をすすり、ハラキリはその商品はバカ売れするだろうなあと考え――ふと、気がついた。
「……この仕事、いつからスケジュールを切られていました?」
「? 年始ぐらいからかな?」
 ニトロに確認され、芍薬がうなずく。
「御意。早イ内ニ埋マッテタヨ」
「ふむ」
「どうかしたのか?」
「いや、大したことじゃないんです」
 メルクルオーライは、王都で創業し、飛躍した。その縁もあってと言ったものか、
(確か、王家が株を多く保有していたはずですね……)
 ハラキリはティディアを見た。彼女はやはり幸せそうで――ならばと女執事に目をやると、藍銀色の髪をした麗人は、彼の視線に気がつくや少しだけ目を丸めてみせた。つまり……私も驚いた、ということか。
(『ブーム』を予期していたのか、それとも偶然を利用したのか)
 幸せそうに微笑む王女がこのイベントに出ると決めたその当時、果たしてどこまで予測し、どこまで見通していたのか……それを推して知ることはできないが、何にしても、この状況が彼女の大きな利益になっていることは疑いようがない。
(怖い怖い)
 内心笑いながら、ハラキリは鍋をクッキングヒーターからおろしているニトロを見、
「完成ですか?」
「ひとまずね」
 言うニトロの脇では芍薬が、調理の邪魔にならないところに置いてあるワゴンからボウルと料理箸、食材と調味料を揃えたバットと小ぶりなフライパンを持ってきて、テーブルに整然と並べている。
「まだ、何か?」
 ハラキリが訊ねると、ニトロは彼に小首を傾げるようにして、
「腹減ってる?」
「はい?」
「オムレツ作るのは久しぶりでさ。ちょっと肩ならし」
「いただきましょう」
 若干女執事からの視線が気になったが、ハラキリは即答した。
「えー、私のは?」
 そこに口を出してきたのは、ハラキリに羨望の眼差しを送る女執事ではなく、ティディアだった。ニトロは彼女を一瞥し、
「お前は舞台で食べるだろ」
「味見をしておきたいわ」
「今しなくてもどうせ舞台でつまみ食いするだろ」
「……」
 ティディアはちろっと舌を出す。ニトロはあからさまにため息をつき、
「それより、練習だろう?」
「了解」
 ティディアが席を立ち、ニトロの隣へ進む。料理の準備を終えた芍薬が難しい顔のまま引き下がる。
「?」
 ハラキリは、これから何が始まるのかと並び立った『ティディア&ニトロ』を見つめていた。いつの間にか、ヴィタはビデオカメラを回している。
「さて――
 それではオムレツを作りましょう」
 ニトロがハラキリに顔を向けて他人行儀な口調で言う。ハラキリは自分が客に見立てられていることに気がついた。それならと、彼は気分を客観的に整える。
「用意するのは、一人前で卵を3個。それから塩コショウ少々、バターを大さじ1、牛乳を大さじ1。これだけです。量が多いから卵を2つ、という場合にはバターと牛乳の分量を少し減らしてくださいね。では、まず卵を割りましょう。ティディア?」
 営業用の柔らかな口調でニトロが言うや否や、バットに置かれた卵を手に取ったティディアが、
 ゴツ
 と、ニトロの額で卵を割った。それは見事な割り方であった。ニトロの額を汚すことなく、また卵の中身をニトロの額に触れることなく、殻に決定的なヒビだけを入れる絶妙な力加減。そのままティディアは片手で器用に卵をカパッと割り切って、ボウルに黄身と卵白を落とす。
「今、このバカは」
 ゴツ カパッ
「僕の額で割りやがってますが」
 ゴツ カパッ
「皆さんはちゃんと台などに当てて割ってくださいね。失敗すると大変なことになりますから……面白いか? これ」
 急に首を捻ってニトロに問われたハラキリは肩をすくめ、
「ノリしだいに思えますが――進行はニトロ君で、ずっとこの調子?」
「うん」
「途中でダレませんかね。もっとキャラを……そうですね、単品で出演依頼が来るようなキャラを演じていけるなら面白くなるかもしれませんが」
「……うん」
「キャラ、作れます?」
「そんな器用に見える?」
「君は努力家です」
「ありがとう。でも今ここで『ウケるキャラ』を急遽作れるのは努力家と違って天才だと思うな」
「ならば――先にアラビアータを作るのでしょう? 初めは好意的に迎えられても反応は段々萎むでしょうね。となると今のは萎んだ後にやることになるでしょう? となれば、お客の反応は」
「……うん……かなり……こわいね」
 ティディアから受け取ったボウルの中身をかき混ぜながらニトロが消え入るように言うと、ティディアは口を尖らせ、
「ほらー、やっぱりそうじゃない。ニトロが反対したのよ? 俺が進行する、お前は大人しくアシスタントしてろって」
「……悪かったよ」
「それじゃあ私の提案で」
「……」
 ニトロは渋い顔をしている。
 ハラキリが、そこに問うた。
「お姫さんが進行ということは、お客を飽きさせないよう盛り上げながら?」
「得意分野ね」
「それで、ニトロ君の仕事も邪魔しない?」
「頻繁に邪魔するわよー。どうせレシピはWebで公開するもの」
「邪魔は実演部分にも? 例えばオムレツを作る時とか」
「肝心なところはちゃんと魅せてこそのエンターテインメントね」
「ふむ。それならそちらの方が安定では?」
 ニトロは依然、渋い顔をしている。するとティディアが息を一つ大きく吸い、
「さあ、私がアシスタント兼進行役。そのくせフリーダムに動き回り、オムレツの準備をアシスタントのくせにニトロに任せっきりで、挙句暇そうに客を捕まえて下世話な世間話なんかをしていたら?」
「――おおぃ、アシスタントしろや! てか進行! もう準備できたよ!」
「こんなこと偉そうに言っているけどね、この人うちじゃいっつも優しいのよ。料理も丁寧だけれどセックスも丁寧「うおいお前いきなり何抜かしてんだっ! てか料理中にそういう「はいはい卵ね、割るのね? 割らなきゃ始まらないものね、はいおでこ」
「でこ?」
「ほい」
「ぉ痛ぃ!」
 ゴツ カパッ
「何すんだ!」
「卵を割った」
「普通に割れよ! いいですか皆さん、今のは悪い割り方ですよー? 真似しちゃいけませんよー? 台の角やまな板の上など固いところでコツンとやって割ってくださいね? 卵は意外に固いので、3つもやったら3つ分痛いですからね?」
「そりゃそうね。それでバターは何だっけ?」
「大さじ1」
「大さじ?」
「さっきも使ったろ? これ、この大きいお匙」
「何か書いてあるわねー。えっと……
 15CC!」
「いきなり叫ぶな! その通りだけど!」
「重さならバター大さじ1は13グラム!」
「よく知ってるね!?――
 ……」
「うん。やっぱりこっちのノリのが、しっくり」
 ティディアはにっこりと笑った。
 ボウルに新たに加わった卵も念入りに混ぜ、牛乳を少量加え、軽く塩コショウしながらニトロは酷く苦い顔をしていた。彼もこちらの方が良いと理解しているのだろう。しかし、それに賛同すると、どうしてもティディアに『恋人エピソード』を好き勝手に捏造されてしまう。今まさに実演されたように。そのため、ひどく葛藤しているのだろう。
(別に面白くない方を選んでもいいと思うんですけれどねぇ)
 ハラキリはそう思うが、しかし、真面目でお人好しなニトロである。凄まじい人出の中、わざわざやってきてくれたお客さん達をちゃんともてなしたいと思ってしまうニトロ・ポルカトである。
「やっぱり……こっちで」
 ややあって、歯噛むようにして、ニトロは言った。
「でもやっぱり今みたいな『普段からいちゃいちゃしてます』アピールはどうかと「了解。自由にやるから、舵取りしっかりよろしくね」
 ティディアはにんまり笑ってそう言った。ニトロはフライパンをクッキングヒーターに乗せて……深く、ため息をついた。
 ハラキリは親友の“馬鹿な姿”に心地良く笑いながら、
「とりあえず、どっちにしたって一度は額で割るんですね」
 ニトロはしなだれた様子で言う。
「まあ、やっぱり定番だからね」
「本当は一度ゴベチャ! ってやりたいんだけどねー」
「食べ物を粗末にしちゃいけません!」
「って、ニトロが。
 綺麗に美味しく舐め取るから粗末になんかしないのにさ」
「どんな刑罰だドアホウ!」
「って、ニトロが」
「はあ、なるほど」
 ティディアは席に戻り、ニトロはフライパンが温まった頃合でバターを落とす。熱せられたバターが溶ける。塊の半ば頃までバターが溶けたところでニトロがボウルの卵液をフライパンに流し込んだ。
 シュウ、と、音が立った。
 それからのニトロの手際は早かった。
 左手でフライパンを揺らしながら、右手の料理箸で熱を受けて凝固していく卵液を素早くかき混ぜる。外から内へ、半ば固まった卵を内へ寄せ、寄せることで生まれた空間へまだ液体のままの卵を広げる。それを繰り返し、やがて全体が濃い黄色から薄い黄色へ変わりゆき――その時には、ニトロはフライパンを火から遠ざけていた。液体と固体の狭間で揺れる卵をフライパンの先端に寄せ、トントンと右手で左手首を叩きながらフライパンを小さくあおり、あおる度に焼き固められた卵の層で半熟の層を包み込んでいく。
 ハラキリは、手馴れたニトロの動作を惚れ惚れと眺めていた。ティディアもヴィタも実に楽しげに見つめている。なるほど、先ほど宣言していた通り、これをティディアが邪魔するわけがない。焼かれた卵がフライパンの上であっという間に木の葉型へと整形されていく……ついさっきまで溶き卵だったものが見る見るオムレツとなっていく……これは、ただこれだけでも立派なエンターテインメントだ。
「ありゃ」
 と、ニトロがうめきながら、フライパンを逆手に持ち替え、料理箸を置いて皿を手に取り、
「ちょっと焼き過ぎた」
 皿に移し変えられたオムレツは、ほのかな焼き色のつく見事なものだった。その出来栄えと料理人の言葉に齟齬を感じてハラキリは、世辞もなく素直に、
「そんなことはないでしょう。お見事です」
「焼き色はつけたくなかったんだよ。四つだからって火に置きすぎちゃった」
 皿を持ったままニトロは言う。少し何かを迷うようにして、芍薬を見る。芍薬はちょうどハラキリへフォークを届けているところだった。芍薬は、首を振る。
「これでいっか」
 ニトロは、脇に置いてあった鍋に手を伸ばした。まだ湯気の立つアラビアータソースをオムレツに帯するようにかけて、そうしてハラキリへと差し出す。
「『良いオムレツは黄金に輝く』――ってのが、父さんの持論。外も中も全部一色。俺は焼き色をつけても別にいいとは思うけどね、でも、それが理想なんだとさ」
「そういうものですか」
「そういうものらしいよ」
 ハラキリは眼前に置かれた、卵の黄にトマトの赤の映える一皿を眺めた。
 思わずよだれが口に広がる。
 と、そこでハラキリは不意に殺気を感じて体を固めた。
 凄まじい殺気、いや、違う、それは殺気にも思えるほどの羨望の視線であった。
 ハラキリは振り返った。
 やはり、そこには今にも牙を剥きそうな形相のヴィタがいた。それこそまさに腹を空かせた狼の顔であった!
(これは――)
 やばい。
 ハラキリはそう思うと同時、一つ、違和も感じていた。
 ティディアは……ティディアも羨ましそうにこちらを見てはいるが、そこに必死さはなかったのである。彼女は確かに羨ましそうにこちらを見つめながら、しかし、その意識の半分は別の方向に向けていた。
「ああ、ヴィタさんにも作るから」
 ピン、と、普段は髪の中にうまく隠されているヴィタのイヌ耳が立ち上がった。
「初めからそのつもりだったよ」
 フライパンをクッキングペーパーで拭き改め、今度は自分で卵を割りながらニトロが言うと、ヴィタは直前までの迫力は何処へやら、居住まいを正してにこりと笑った。
「大盛りでお願いいたします」
「オムレツで大盛りって」
 ニトロは苦笑する。
「二つに分けるよ?」
「はい」
 ヴィタがうなずいた時には、芍薬がワゴンに向かっていた。足りない卵を取りにいったのだ。ニトロはそれが解っているから、気兼ねなく残り二つの卵でオムレツを作り出す。卵を割り、混ぜ、先ほどよりやや少ないバターを温まったフライパンへ……
 ハラキリは、さらに熟練を増してきたニトロと芍薬のコンビネーションを心の底で嬉しく思いながら、目をティディアに移した。彼女はやはりニトロをじっと見つめている。ただそれだけでも、彼女の全身には大きな喜びが迸っている。
(本当に、随分可愛らしくなったもので)
 頬に浮かびそうなニヤケを押し殺しつつ、ハラキリはフォークを手に取った。まずはプレーンの味をと、アラビアータソースのかかっていない部分にフォークを通す。すると、ほんのわずかな抵抗の後、フォークはすとんと皿に到達した。
 柔らかい。
 オムレツの断面は、なるほど、ニトロの言う通り山吹色一色であった。ムラはない。それはニトロの素材への火の通し方が均一であるということの証左でもあった。
 ハラキリは、一口大に切り取ったオムレツを口に運んだ。
 思わず、ハラキリはほころんだ。ほころんでしまった。
 薄焼き卵のような表面が舌に触れた時、絶妙な塩気に引き立てられた卵黄のコクが味蕾を包み込んだ。焼かれた卵とバターの香ばしさが調和も素晴らしく鼻腔をくすぐる。舌を動かすと、それだけで半熟の中身がほわりととろける。焼き固められた表層は弾力を持ち容易には崩れないが、しかし歯の上ではふわりとほどける。とろけてほどけた卵の二層それぞれの香味が舌の上で混ざり合い、どこまでもまろやかな旨味が味覚を楽しませ、そこに、ほんの少しの隠れた胡椒のスパイシーさが現れては消える度に卵の味を新鮮に立ち戻らせてくれる。シンプルでありながら全く飽きの来ない味わい。それどころか後を引き、早く次をと思わせる力強さ。飲み込んだ瞬間にも芳しい滋味!
「美味い」
「そうかい?」
 トントンとオムレツの形を整えながら、ニトロが微笑む。
「プロ並みですよ」
「言い過ぎだよ」
 ニトロはくすぐったそうに笑いながら、新しく作ったオムレツを皿に移す。
 それを見た時、ハラキリは、納得した。
 二度目となって、ニトロの作ったオムレツは一片の曇りもなく山吹色であった。『黄金に輝く』とまではいかないものの、その描写が理想と言われることに理解の及ぶ出来。しかも――実はハラキリは“焼き色”がついていたほうが食欲もそそって良いのでは? と思っていたのだが、違った、並べて見て初めて実感したが、むしろ焼き色のついていないこのオムレツの方が舌を誘う。少なくとも、彼はそう感じた。
(実に奥が深いものですねぇ)
 ニトロに出会う以前は、料理については美味しいかどうか……もっと言えば食べられるか否か――食べられるなら美味しいにこしたことはないが――という程度の基準と興味しか持っていなかったハラキリは、素直に感心していた。
「お見事です」
 ヴィタも、満足気に言う。さらに彼女はアラビアータソースに手を伸ばしていたニトロへ、
「一皿は、そのままで」
「ソースなし?」
「十分です」
 ヴィタが言うのに、ハラキリも同感だった。
「それにしても――」
 ヴィタにオムレツを差し出すニトロへ、ハラキリは言った。
「随分作り慣れていますね」
 三つ目に取りかかりながら、ニトロは言った。
「随分作ったからね」
「それは……ひょっとして、修行でもさせられたので?」
「いや、単にオムレツは俺の担当だったんだよ。父さんの方がうまいのにさ」
「うふふふ」
 闖入してきた笑い声は、ヴィタのものだった。オムレツを一口食べたところでヴィタは猫のように目を細め、笑ったのだ。そしてフォークを口から離して彼女は、
「良いお父様ですね」
「そう?」
「はい」
 ヴィタは何か思わせぶりな顔で言う。
 ハラキリはヴィタの意図を掴みかねつつも、今度はソースに絡めてオムレツを口に入れ、そしてまたほころぶ。
「このソースも美味しいですよ。オムレツにも合いますね」
「そりゃどうも」
 次々と好評を得て、ニトロは流石に笑顔を隠さない。口では照れ隠しにぶっきらぼうにそう言いながら、態度が醸す嬉しさも隠さず三つ目のオムレツを作っていく。
 ――その光景を、ティディアは幸せ一杯に見つめ続けていた。
 思いもよらず聞くことのできたニトロと彼の父親との思い出話に心がほころぶ。プレーンオムレツは、火加減の見極めや素材の扱い方など料理人の基礎力を養うに良いと言われるものの一つだ。それを、息子に嫌がらせず、その上で数をこなさせてきたところには敬意すら覚える。
 そして、不思議なことだが、ニトロの作った手料理で友人が笑顔になっているのも、ヴィタが満足そうにしていることにも……この光景を生み出したのは自分ではないというのに、それなのに彼女はまさしく我がことのように感動的な満足すら抱いていたのである。
 この心地良い空間に自分もいられるという幸福を、噛み締めずにはいられない。
(――今は。今は、ね)
 ティディアは『賭け』と『決戦』への覚悟を心の底で醸成しながら、しかし、この時だけは、この幸せにただただ浸っていた。
 ――とはいえ、その事情を未だ知ることのないハラキリにとっては、ティディアの反応は『可愛らしく』ありながらも、やはり少々気にかかるところだった。
(……何を考えているんでしょうねぇ)
 オムレツを食べながら、視野の片隅でティディアを注視しながら思う。可愛らしく幸せ満面であるものの、彼女には奇妙な隠し味が含まれているように思えてしかたがない。これは直感によるもので、何らかの根拠があるものではないため、それが一体何なのかは想像もできず……元より何を考えているのか解らない相手ではあるが……
(まあ、今日のところはろくでもないことを考えていなさそうではありますが)
「どうかしたか?」
 ニトロが、ハラキリの顔を見て言った。それは物思いに耽っていたハラキリの不意を突くタイミングだった。が、
「これなら試食に駆り出される客も太鼓判を押しますよ。メルクルオーライも喜ぶでしょう」
 ハラキリは不意を突かれてなお、言葉を思いつくと同時に飄々と口にしていた。それがあまりに自然であるために、ニトロもそこに疑念は挟まない。苦笑して、彼は言う。
「ああ、美味しくないって言われる心配はないよ」
「どういうことです?」
「ティディアが『あ〜ん』ってするのさ」
「ああ、そりゃあ……」
 絶対に『美味しい』と言われること、必定であろう。
「相手が失神しなければいいですね」
「失神したらしたで、その原因はニトロの手料理が美味しいからって宣伝するわ」
 と、急にティディアが口を挟んできた。ニトロは素早く反応し、
「いやお前、お前のせいでただでさえ『プロ顔負け』って思われて迷惑してるんだぞ? こっちは」
「あら、それは事実じゃない。だって、ニトロの手料理は私にとってはどんなプロよりも美味しいもの」
「ああそうかい。でも、俺のはあくまで家庭料理なんだ。プロには敵わない」
「そんなことないわよぅ。大体、プロが全員腕がいいと思っているの?」
「論点をすりかえるなよ。そういう意味で言ってるんじゃないんだ」
「そうね。でも、プロに敵おうが敵うまいが、ニトロの料理が『安心する味』なことには変わりはないわ。あくまで手料理――なら、なおさらね?」
 そう言われてはうまい反論が思い浮かばず、ニトロが黙する。
 ティディアは微笑み、そして立ち上がった。
「というわけで、安心する味を広めに行きましょう?」
 言われ、ニトロは部屋の壁時計を見て、
「片付けを頼んでいいかな」
「御意」
 芍薬はうなずくと、さっそくワゴンに向かい、それをテーブルの傍に引っ張ってくる。
 ニトロはエプロンを外し、アラビアータソースの鍋を見つめ、
「これは……ヴィタさんに頼めばいいのかな?」
「はい。私が責任を持って取り扱わせていただきます」
「そう、それじゃあよろしく。二人ともゆっくり食べるといいよ。実演まではまだちょっと時間があるから」
 そこに芍薬がペットボトルを差し出した。ニトロはミネラルウォーターで喉を湿らせ、それから先んじてドアに向かっていたティディアを追う。
「ハラキリ、約束は覚えてるよな?」
「ファミレスで、お約束通り晩飯を奢りますよ」
「一番高いの頼んでやるから覚悟しておけよ」
「デザートもどうぞ。
 では、お仕事頑張って。お姫さんも」
 ハラキリが手をひらりと振ると、ニトロはティディアと共に部屋を出て行った。
 二人を見送り、ドアが閉まってから、ハラキリは言った。
「そのソース、お持ち帰りするんでしょう? それもお姫さんの策略ですか?」
 ハラキリはヴィタを見た。彼女は一皿目のオムレツを既に食べ終え、ニトロが残していった二皿目に手を伸ばしていた。彼女は皿を引き寄せながら、
「何故、そのように?」
「ここに来る途中、見たんですよ」
 ハラキリはオムレツを一口食べながら、道中に見た屋外看板を思い描いた。トマトと唐辛子をモチーフにしたキャラクター。あの広告はメルクルオーライの――
「『ガツンと唐辛子の効いたアラビアータソース』。まさしく今売り出し中の新商品でしょう?」
 ヴィタは微笑んだ。
「ニトロ様は、どのような驚き顔を見せてくださいますでしょう」
「そりゃあきっと、面白い顔でしょうね」
「ええ、それがとても楽しみです」
 ヴィタは楽しげに言いながら、この先舞台では決して使われることのないアラビアータソースのかかったオムレツを口にして頬を緩ませる。
 ハラキリは小さく肩をすくめ、
「ところで、芍薬はそれに気づいていたのでは?」
 問いかけられた芍薬は、その問いを投げかけられたこと自体に不機嫌そうに、
「予測ハデキテモ、ソレデ主様ノ『仕事』ヲ台無シニハデキナイヨ」
 調理器具を片付けながら言う芍薬は、この部屋に入ってきた際に見た『難しい顔』をしていた。騙されるマスターを看過はできないが、しかし看過せねばあくまで『漫才コンビ』の片割れとしてある(つもりの)マスターの仕事の完成度が下がる。『漫才コンビ』の仕事が上手くいき過ぎるのも正直具合が悪いのだが、さりとて仕事の質を落とせばマスターに不名誉をもたらしかねない……芍薬にとっては、それはそれは激しい葛藤をもたらす問題であることだろう。
 ハラキリは、笑った。笑ってはいけないと思ったが、思わず笑ってしまいながら、言った。
「芍薬、お前は実に良いA.I.です」
「ソリャドウモ」
 芍薬は、マスターそっくりの口調で言った。ぶっきらぼうに、しかしちょっと嬉しそうに、加えて、少し癪に障ったように。
 ハラキリは、また笑った。ヴィタも笑っていた。
「トコロデ」
 と、そこに芍薬が言った。
「ダカラッテ、コノソースヲコノママ持チ帰ラセヤシナイヨ」
「ならば一戦も辞しません」
 するとヴィタはさも当然とばかりに言った。そこにあるのは王女の執事としての、主人の希望を叶えるための意志ではない。明らかに彼女の食への欲求を礎とした厳然たる覚悟だった。
 それを悟った時、ハラキリの笑みは、凍りついた。
(これは、放っておくと……)
 芍薬VSヴィタ。
 冷静、かつ己がそれぞれを相手にするとしたら――と客観的に考えて、神技の民ドワーフ謹製のアンドロイドを駆る芍薬の方が紛れもなく戦力は上である。が、さりとてヴィタの宇宙を股にかけた混血ミックス故の、それも各人種の良い所取りをした極めて優れた身体能力は侮れない。両者ともに場所柄の手加減はするだろうが、しかし双方の意地がヒートアップすればどうなることか……そしてそれ以前に、この場にいる自分はどうなることか?
 ヴィタから視線をそらさぬ芍薬に、ハラキリは言った。
「ヴィタさんが“責任を持って取り扱う”ことを、ニトロ君自身が了承していましたよ」
 凍りついた笑みの上にへらりとした表情を貼り付けて彼は続ける。
「それに、食べ物の恨みは思うよりも強いものです。ここは退きなさい。マスターを裏切るものでもないのですから」
 芍薬はハラキリを見つめた。ハラキリは芍薬の鋭い不満を飄々と受け流す。
「変に騒ぎを起こしてマスターの顔に泥を塗ることこそ、本意ではないでしょう?」
 まさに殺し文句だった。芍薬は――人間のように、ため息を突いた。物恨めしげにハラキリを一度睨んだ後、半ばふて腐れて、
「『弁当』ガ一ツヤ二ツナクナルコトハ覚悟シテオクンダネ」
 その捨てゼリフに、今度はヴィタの顔が凍りついた。思わぬ反撃だったのだろう、そしてそれが十分考慮できるものであったため、芍薬がため息をつく際には上機嫌にオムレツに突き刺していたフォークを止めて、ハラキリに目をやった。
 ハラキリは隠し通した表情筋の強張りを解凍させながら、
「天秤にかけて、それくらいでニトロ君の“食べ物の”恨みがかわせるなら良いところでしょう?」
 ヴィタに反論は――できない。
 彼女は少ししょんぼりと眉を垂れた。オムレツに刺しっぱなしだったフォークを持ち上げ、たっぷりアラビアータソースを絡めて食べる。しょんぼりと垂れていた眉が弓なりに持ち上がる。ヴィタは言った。
「はい。良いところです」



――「さあ、それではこれを煮詰めたものがこちらになります」
――「その名も『ガツンと唐辛子の効いたアラビアータソース』!」
――「へ?――えッ?」
――「メルクルオーライから発売されているこのソースがあれば、こんな手間をかけなくてもピリッと辛みの効いたアラビアータソースを味わうことができるのよ! しかも保存がすっごい利く!」
――「……うお、ぅおおおおおい!?」

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