中吉 /2013

(このおみくじの『大凶(午後)』の翌日)

 パトネトがニトロをすごいと思うことの一つに、自分よりずっと年下の『子ども』に対して何の抵抗もなく教えを請えるということがあった。
「――ああ、なるほど」
 今も彼は、解き方が解らない数学の設問へのレクチャーを受け、理解し、どこまでも素直にうなずいている。そうやって『解らない時』に固執していた考え方をすぐに修正してしまうことも、それに、“そうやって間違えていた”ということを後に活かすために忘れないことも、パトネトが彼をすごいと思うところであった。
「本当、パティは教え方が上手いね」
 そしてニトロに誉められると、パトネトは嬉しい。大好きな二人の姉達や大好きな両親に誉められるのとも違う嬉しさが胸に満ちて、頬も自然と赤くなるのである。
 その日、ニトロの部屋に遊びに来たパトネトは、存分に『先生役』を満喫してから帰ることにした。ニトロにたくさん教えて、ニトロにたくさん感謝されたことが、パトネトの心の中に降り積もっていた。
 パトネトはニトロのことがとても好きだった。
 しかしニトロには一つだけ、とても嫌なところもあった。
 それは『しかたがない』ことだから彼を嫌いにはならないけれど、しかしパトネトは、できれば彼にそこをすぐにでも修正して欲しいと思っている。もちろん自分の希望通りにはならないことは理解している。――けれど、やっぱり、
「ねえ、ニトロ君」
 エレベーターの中、手を繋いで屋上の飛行車発着場スカイカーポートに向かう最中、パトネトはニトロを見上げた。
「何?」
「あのね、ティディアお姉ちゃんがね……昨日、すごく元気がなかったんだ」
 するとニトロは困ったように笑った。
 パトネトは、それ以上は何も言わなかった。
 そう、これは『しかたない』。
 本当に『しかたない』のかは本当のところでは解っていないけれど、ティディアお姉ちゃんが自信を持ってそう言っているから、やっぱりこれは『しかたない』のだ。
 エレベーターが屋上に着くと、そこには階段を使って先回りしていた芍薬がいた。扉が開くや、芍薬が外のボタンを押して扉が閉じないようにする。パトネトはエレベーターから出ようとして……そこでふと思いついた。
「ねえ、ニトロ君」
「何?」
「だっこして?」
「だっこ?」
 突然の、しかも思わぬ要望にニトロが戸惑う。が、パトネトは構わず両手を差し上げた。
「車はすぐそこだよ?」
「うん」
 うなずくパトネトに苦笑して、ニトロは――いつまでもエレベーターを止めていくわけにもいかない。今日は世話にもなったからと小さな第三王位継承者を持ち上げた。
「でも、何でだっこ?」
 パトネトを抱きかかえてニトロがエレベーターを出る。と、芍薬がボタンから手を離して彼の後に控えるようにして続く。
「……ニトロ君と同じ高さ」
 パトネトはそう言って、屋上の外へと目をやった。
「……」
 ニトロはその言葉の中に不自然さを感じ取ったが、裏に潜む意図までは掴めなかった。……考えすぎだろうか? もしかしたら単に甘えたかっただけなのかもしれない。それともやはり――いや、他に何か意図があったとしても、それが自分の害になるとはどうにも思えない。油断ならない宿敵の驚くべき『秘蔵っ子様』ではあるが、まあ、あまり警戒しすぎるのもよくないだろう。
 屋上には既にパトネトのオリジナルA.I.フレアの運転する車が来ていた。遠目には王軍親衛隊の車両スカイカーも見える。
「ありがとう」
 車の前に来たところでぎゅうっと力強く抱きついてきたパトネトに言われ、ニトロは再び戸惑いながらもゆっくりと彼をおろした。
「それじゃあ、ニトロ君。五日後にね?」
 五日後、パトネトとは一緒にミリュウを訊ねに行くことを約束している。本番パーティーの前日から王都を発ち、向こうの空港近くで一泊して、それから山間にいる彼の姉を祝いに行くのだ。パトネトはそれを非常に楽しみにしているらしく、一昨日彼と会った時には「七日後に」だった。もし明日も会うことになったら、その時は「四日後に」だろう。
 ニトロは笑み、パトネトの頭を撫でた。
「それじゃあ、五日後に」
 ニトロが言うと、パトネトはぱっと顔を輝かせた。そして何かを思い出したように車に急いで乗り込み、
「バイバイ」
 と手を振るや、パトネトを乗せた車は速やかに浮き上がり、やはり何か急いでいるらしく猛スピードで飛び去っていった。
「……何だったんだろう」
 車の後ろ姿を見送りながらニトロが首を傾げてつぶやくと、その傍らで芍薬もマスターと同じように首を傾げていた。

 ティディアは滅入っていた。
 自分の周りだけ時の進み方が遅くなっている気がする。
 一秒が五秒に、五秒が三十秒に、三十秒が三分にも感じられてならない。
 ――あと六日。
 ニトロに科された『罰』を清算するまで、あと六日。
 仕事をしている時はそちらに集中できているからいいが、ほんの少しでも合間が空くとがくりと心が萎む。集中力の持続力も確実に落ちている。それどころか仕事の能率まで落ちている。傍目には――ヴィタは気づいているが――判らないようだが、なんと言えばいいのだろうか……そう、そうだ、私は、老いてしまったかのようだ。
 執務室で書類にサインをしていると、ふいにドアがノックされた。このリズムは、
(パティ?)
 ティディアはちょうど扉の傍にいたヴィタへ目配せをした。そろそろ一服と、茶器を用意していたヴィタがうなずき、扉を押し開く。
「お姉ちゃん……」
 やはりそこには、背後にフレアを従えるパトネトがいた。
「あら、どうしたの?」
 執務室にやってくるには珍しい客を出迎えようと、ティディアは席を立った。パトネトは扉を開いたヴィタをおどおどと気にしながら、
「お仕事の邪魔にならない?」
「ええ。ニトロとは楽しく遊んだの?」
 姉が前屈みになって弟と視線を合わせると、弟は姉の質問には答えず、ぱっと顔を輝かせて両手を差し出した。
「だっこして、お姉ちゃん」
「え?」
 突然の、しかも思わぬ要望にティディアが戸惑う。が、パトネトは構わず両手を差し上げたまま駄々をこねるように小さく跳んだ。
「ね、早くっ」
 そうやって請うパトネトには必死の色があった。
 何故必死なのだろうか。ふと目の合ったヴィタも不思議そうな顔をしている。ティディアは、ともかく弟を抱き上げた。
 すると、その瞬間、パトネトが力一杯抱き締めてきた。
「パティ?」
 ティディアが驚き問いかけると、パトネトは嬉しそうに言った。
「間接だっこ!」
 その言葉を聞いた瞬間、ティディアは理解した。
 理解した途端――
 彼女は、目が潤むのを止められなかった。

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