セイラ・ルッド・ヒューランが熱を出したのは、ミリュウの成人祝いのパーティーが何から何まで成功裏に終わり、翌日、帰路に着く賓客を出発する直前まで丁重にもてなし、さらにそれから二日後、邸での滞在を終え王都へ帰るためオリジナルA.I.フレアの操縦する飛行車に乗り込む弟君を無事に見送った――それから二日経ってのことだった。
ここ数ヶ月来心身に緊張を強いていた件への真の一区切りを得て緩んだ心の隙を、病魔に突かれたのである。
未だ居慣れぬ国の中枢から、一時的にとはいえ勝手知ったる故郷に戻ってきて、彼女は活き活きとしていた。
不慣れながらも我が古里での暮らしに親しんでくれる主人をゆったりとした時間の流れの中でお世話し、許されたとはいえ、いや、許されたからこその“罰”に掴みかかられる主人が――愛する『妹』が――それでも次第に美しい顔色を取り戻していく様が嬉しくて、彼女は張り切って毎日を過ごしていた。
だから、己の心身に疲労が蓄積しているなどとは思ってもいなかった。
止めとなったのは、間違いなく主人の成人祝いのパーティーにかける準備であったのだろう。何しろこの
セイラは、家畜相手の日常の仕事とも並行しながら、これら山のような仕事を積極的かつ精力的にこなしていた。祝い対象である主人の力を借りるわけにはいかない。誇りある『第二王位継承者の執事』としても、全ての責任を一身に負い、まさしく寸暇を惜しんで駆け回っていたのである。
それでもセイラは疲れを知らなかったのだ。
今朝、ベッドから起き上がることのできない自分に遭遇するまでは。そうして――「そいやぁ、昨晩ミリュウ様に
部屋付きの汎用A.I.から連絡を受けた主人はすぐに駆けつけてくれた。体調管理のなっていない部下を叱責することなく速やかに一日の予定を組み直し、部下の空けた穴は自ら塞いでくれた。わざわざ往診に来てくれた昔馴染みの老いた医者は、やはり過労が原因だと言っていた。そこにスパイスとして風邪が少々――その診察結果の物言いにころころと笑ったミリュウ姫は、病人に慈愛深い微笑みを残して自ら医者を見送りに出て、そのまま仕事に出て行った。
セイラは、一日中眠った。
時々目を覚ますこともあったが、ベッドから出ることはなく、看病についてくれた母と一言二言交わすだけですぐに眠りに落ちた。
眠りに落ちていく中、己の失態を思うと激しい羞恥を覚えた。その度に体に燃える火の勢いが増した。夢でも何かにうなされていた。悪い夢だった。幸せな時間を過ごした後に見るには相応しくない悪い夢だった。それは覚えている。だが、何にうなされていたのかは覚えていない。しかし、その度に、瞼に残った主人の微笑みが熱を冷まし、その“何か”をも追い払ってくれたことだけは、しっかりと覚えていた。一度か二度、現実に主人の手が額に触れてくれたようにも思う。――だが、それは気のせいだったのだろうか?
ノックの音がした。
セイラは、目を覚ました。
開かれたドアの向こうから現れたのは、ミリュウだった。彼女は枕の上の双眸が開かれているのを見るや、
「お加減はどう?」
夜であった。廊下を照らす明かりが真っ暗な部屋に流れ込み、床にこぼれた光の中に人影が投影されている。それを追いかけるようにして、トレイを持ったミリュウがこぼれるような声音と共に部屋へ入ってくる。
セイラは慌てて上体を起こした。
その様子を見ながら、
「常夜灯を」
汎用A.I.が無言でミリュウに応じ、部屋にオレンジ色の薄い明かりが灯る。
「その様子だと、大分良くなったみたいね」
「はい」
応えたセイラの声は重い。
ミリュウはトレイに載せたものを落とさないようドアを閉め、
「明後日まで皆に仕事を代わってもらったから。明日も寒いようだから温かくして、――久しぶりにゆっくりしてね」
その言葉にセイラが思わず声を張り上げようと口を開き、
「セイラ」
と、綿のように柔らかな声が、セイラの唇をそっと閉じさせた。
「休むのも仕事のうちでしょ? しっかり治してからじゃないと皆に気を遣わせちゃうわ」
ベッド脇の水差しとコップの置かれたナイトテーブルにトレイを置き、日中はセイラの母が使っていた丸椅子によいしょと声をかけてミリュウが座る。
「それに、こういう時は頼りになる人達にちゃんと甘えなくっちゃ」
そう微笑みながら言うミリュウは、その微笑みの奥では少しだけばつが悪そうに、そして、とても照れ臭そうにしていた。
セイラはミリュウを見つめ、
「……」
やおら、うなずいた。うなずいて、少しだけ涙ぐんだ。
ミリュウはセイラの目に光るものには気がつかないふりをして、トレイの上にあるものを示した。
「お腹は?」
「少し」
「良かった」
ミリュウはトレイに乗せて持ってきたものが冷めぬよう被せていた保温蓋を外した。するとそこにはスープ皿があった。
「この地方では、病気の時には甘いミルク粥を食べるのね」
スープ皿とスプーンの置かれたトレイを台代わりに掛け布団の上に置くミリュウを見つめ、セイラはうなずき、そしてほのかに漂う甘い香りに、目が醒めたように、
「もしやミリュウ様が?」
「レシピは、
にこりと、ミリュウは言った。
そう、スープ皿にあったのは間違いなくミルク粥だった。それも芋や豆とチーズを加えて塩コショウで味を調えた日常的なものではなく、ドライフルーツとナッツを加えて甜菜上白糖で味を調えたミルク粥。普段作られることは少なく、少し豪華な食事をする際にデザートとして――そして風邪で寝込んだ病人に対して用いられるこの粥は、それだけに、特に子ども時代には特別な代物だった。セイラの胸に、懐かしさが溢れた。鼻腔をくすぐる甘い香りに混ざるほんの少しのスパイス……これはシナモンの香り。それにナッツの代わりに甘く柔らかく煮たカンガラマメを使い、干しブドウも消化しやすいよう細かく千切って入れるのは、そうだ、確かに母のレシピに間違いなかった。
「ちゃんとできているといいんだけど」
ミリュウの不安とは裏腹にセイラはどこかうきうきとした気持ちでスプーンを手にし、湯気の立つミルク粥を口に運んだ。
口の中にもほの甘い懐かしさが溢れた。
セイラは、ふいに視力を失った。
視界の全てがぼやけて、常夜灯の光の中でもなお白いミルク粥の色一色に染まってしまった。
彼女は、どうにか泣いてしまうことは堪えたが、しかし滲む涙のために何も見えなくなったままであることだけはどうしようもなかった。
「
訛りながら言うセイラの声は、重い。重くて、震えて、半ばかすれている。
「
「良かった」
微笑み、ミリュウはうなずく。
「ありがとうごぜます」
セイラの眼から、とうとう堪えきれぬ涙が一つこぼれた。
ミリュウは――鼻の奥につんとしたものを感じながら――微笑み、
「最近、泣き虫ね、セイラ」
ミルク粥を食べながら、セイラはうなずく。
「はぃ。泣ぎ虫です。わたしわ幸せな泣ぎ虫です、ミリュウ様」
セイラはミルク粥を平らげ、しばらくしてから眠りについた。
セイラが眠りにつくまで――昔、風邪を引いた自分に彼女がそうしてくれたように、子守唄を歌うように静かなおしゃべりをしていたミリュウは、自分のもう一人の『姉』が眠りについた後、空になった食器を引き下げ、キッチンに向かった。
キッチンには、ミリュウの希望通り、もう誰もいなかった。彼女にはそれが嬉しかった。ミルク粥を作った後、ルッド・ヒューラン夫人がこのまま待っていると言ったのだが(この家には金銭的な理由から住み込みの使用人はいない)彼女はそれを断っていたのである。王女としてではなく、この家の言わば『書生』として、いや一員として遠慮はしないでほしい……この地にやってきた日、一家を代表してルッド・ヒューラン卿から希望や要望を問われたミリュウは唯一つだけそう願っていた。もちろん――特に夫人が何かと気を遣おうとしてくるように――皆から“王女への遠慮”は完全には消えないが、それでも皆は色々なことを任せてくれて、とても親しく過ごさせてもらっている。
ミリュウはセイラの使った食器を洗う前に、本来セイラの当番であった明日の朝食の準備に取り掛かった。わざわざ夫人が拵えてくれた袖付きエプロンを着け、自動パン焼き器に材料を入れてタイマーをセットし、自家製ヨーグルトを作るための
ルッド・ヒューラン邸はひっそりとしていた。
キッチンを出ると、それが耳のみならず肌に感じられた。
家族の大半は早朝の仕事のために眠りについている。
未だ煌々と電気のついているいくつかの部屋では、ルッド・ヒューランの子女達が王女と縁のある貴族として恥ずかしくないよう勉学に励んでいる。
今、ルッド・ヒューラン邸の内で歩いているのは、ミリュウ一人だった。
ミリュウは自分のために用意してもらった部屋にすぐに戻ることはなかった。
彼女は、中庭に足を進めていた。
キッチンから玄関ホールに行き、玄関の正面にある両開きの扉を音がしないようにゆっくりと開く。昨晩からルッドラン地方は地元の人間も驚くほど冷え込んでいて、彼女の着るバルキーセーターに気まぐれな山の冷気が無遠慮に染み込んできた。顔や手に触れるのはまるで晩秋の吐息であった。厚手のコットンスカートの裾を翻して――セーターもスカートもセイラの末の妹と“貸しっこ”した物だ――ミリュウは中庭に出た。ロの字型に作られた邸宅の中心、幼児が駆け回るには十分だが少年が走り回るには物足りない広さの庭である。ここに花壇はない。菜園がある。パーティーの時ばかりは花で飾られていたが、今はもうその面影もない。中庭の地表は真っ暗であるが、宙には宅内から漏れる光が薄霧のように滲み、それが余計に地表の暗がりを際立たせている。庭を囲む屋根の向こうに切り出された空は晴れ渡っていた。鮮烈な冷気に研ぎ澄まされた夜空には、煌びやかに、底無しに、無限の
ミリュウは庭の三分所まで足を進めると、立ち止まった。
「……」
今は寂しい中庭を、彼女はじっと見つめていた。
つい先日にはとてもとても楽しく、嬉しかったパーティーの開かれていた場所を。
彼女は少し目を伏せた。睫が星明かりに濡れる。息を吐くと、息が見えた。息が白く色づいたわけではない。そうなるにはもう少しの冷気が必要だろう。しかし、確かにミリュウには己の吐息が――己の温もりが見えたのだ。
瞼を閉じると、ふいに、彼女の瞼の裏に影が走った。
その影は、後悔と呵責から生まれたものであった。
影は現れるや否や彼女を深い慙愧の泥沼の底に沈めようと掴みかかってきた。その泥沼は、ともすれば抜け出すことのできない底無しの沼であった。そこでは悔いと懺悔の念を繰り返すことが求められるのに、そこで悔いと懺悔を繰り返せば繰り返すほど彼女の心は重くなり、重くなるたびにまた沈み、そうしてついには彼女の心を永久に解放しない泥沼であった。その奥底では、彼女の純粋なる悔いも懺悔もいつしか自己欺瞞へと変わり果ててしまうだろう。
だが彼女は、彼女の心は、決して影には捕らわれなかった。
彼女を引きずり込もうとする影を逆に引き止めて、受け入れる。
するとその胸にひどい痛みが走った。
その胸に痛みが走る時、彼女の心には常に手を添えてくれるものがあった。
それは、影の与える痛みとはまた別の痛み。いくつもの痛み。その痛み達には温もりがある。その痛み達と温もりにこそ彼女の心は苦しく締め付けられる。
そして、力強く引き上げられるのだ。
ミリュウは目を開き、今一度中庭を見つめた。
そこには先日の陽気なパーティーの気配はない。
しかし、そこにはもう寂しさもない。
息を吸うと山の冷気に胸が痛んだ。
目を細め、ミリュウは、ぼやけて見える満天の星を仰いだ。
「空が、とても綺麗です。……ニトロさん、お姉様」
終