中編 へ

 後ろ手にドアを閉めたニトロは、階段に向かって歩く『フーニ』を足早に追った。横に並び、横目にこちらを見てくる女教師のグリーンアイを同様に横目で見返す。
 深夜の学校、静かな廊下。
 薄暗い中をカツカツと彼女のヒールばかりが硬い音を立てる。並び歩くニトロのスニーカーは彼の油断の無さを表すかのように音を潜めている。
 生物準備室からは幾分離れた階段脇にあるトイレまであと十数歩。母のいる部屋から距離も取れたところで、ニトロは本題に入ろうと固く結んでいた唇をほどいた。
「ところで」
「何だ?」
 『彼女』は誘い出されたことを理解しているだろうに……それでも聞き返す『フーニ』の口調は変わらずフーニのままだ。
 ニトロは半ば感嘆にも似たものを感じながら、しかし鋭く言った。
「母さんへのプレゼント、本当にありがとう。でも場合によっちゃ怒るよ。ヴィタさん」
 ガツ、と、一際大きな足音を立てて『フーニ』が立ち止まった。
「何?」
 ハスキーな声が不信を刻む。
 それに構わずニトロは彼女の手首を掴み、叩きつけるようにして彼女を壁に押し付けた。壁に押し付けられた『フーニ』は驚愕のあまり目を大きく見開きニトロを凝視した。己の動きを封じる少年の力が存外強く、背と手首の痛みにしかめられた彼女の顔に怯えが混じる。
 驚くほど、抵抗が無かった。
 怪力を持つヴィタ相手だ。返り討ちに合うことも覚悟していたニトロの脳裡に『これは本当にヴィタか?』という疑念がかすめ、その疑念に彼はたじろぎそうになったが、意を決して顔を突きつけ極間近に彼女と双眸を合わせる。
「何をっ――」
 今にも悲鳴を上げそうな『フーニ』に、ニトロは囁いた。
「ここまで近ければカラーコンタクトをつけているって判るよ。それに、その下の瞳がマリンブルーだってのも、もう判ってる」
 『フーニ』が唇を硬く結ぶ。ニトロは続けた。
「もしヴィタさんじゃなかったら、失礼。でもそれならあんたは誰かな? フーニ先生の姿は確認してある、彼女の瞳は青くない。彼女の姿を借りて何をしようとしている? 他人になりすましてまで、何を企んでいる」
 ニトロの語気は強まり、目には異常な気迫がみなぎり始めていた。
「親を巻き込むような相手なら容赦はしない。このまま――」
「乱暴になさいますか?」
 ふいに、彼女は微笑んだ。
 ……涼やかに。
 その声音からはハスキーさが嘘のように消えて、彼女は、ニトロに掴まれていない手をそっと手首を掴む彼の手に添え、馴染みのある声で囁いた。
わたくしの負けです、ニトロ様」
 クィービィ・フーニの顔が、見る間に見慣れた麗人のものへと変化していった。こけた頬は張り、流麗なラインがおもてを縁取り、一目では雰囲気を掴み切ることのできないミステリアスな相貌へと。
 カラーコンタクトがあるため瞳はライトグリーンのまま、髪型も色もそのままであるため違和感は残るが、そこにいるのは確かにヴィタ・スロンドラード・クォフォ――アデムメデス第一王位継承者の女執事だった。
 ニトロは素直に正体を明かしたヴィタを解放し、一歩下がって間を広げた。
「……で」
 彼の顔には未だ険悪な影が残る。まるで挑みかかるように犬歯をむき、彼は問うた。
「何のつもり?」
「リセちゃんにプレゼントを」
 母とちゃん付けで呼び合う園芸仲間のしれっとした言い分に、ニトロは頬を引きつらせた。ふざけんなこの阿呆の手下。彼の顔面に如実に現れた警告を見て取ったヴィタは、即座に言葉を返した。
「何も害のあることは考えていません」
「お前らのやることなすこと全て俺にとっちゃ『害』だ」
「それは少々……酷過ぎないでしょうか」
「胸に手を当ててよぉく考えてみようか。もう一度だけ反論を聞くよ」
「酷過ぎます」
 胸を張ってヴィタは反論した。全く悪びれもせず、全く己の主張が真実だとその目は力一杯語っていた。
「……どっからその自信が出て来るんだか……」
 ニトロは眉間に刻んだ皺を指で叩き、気を取り直して言った。
「プレゼントってんなら、さっきヴィタさんが自分で言ってたようにこんな回りくどいことして渡す必要ないだろ」
「はい」
 ヴィタはさらりと肯定する。
 ニトロは詰問のリズムをこの食わせ者に崩されないよう間を置きながら、もう一度単刀直入に訊いた。
「目的は?」
「リセちゃんにプレゼントを」
 さすがはクレイジー・プリンセスの腹心。解り切っていることだが、彼女もやはり一筋縄ではいかない。
「あまり嘘をつくと、怒るよ?」
「嘘はついていません」
「……フーニ先生は?」
「今頃、酔っ払って爆睡中でしょう」
「本当に?」
「お疑いならホテル・ベラドンナへご確認を」
「分かった、信用するよ。それで目的は?」
「リセちゃんに喜んでもらおうと」
 ヴィタはよどみなく答えた。流れの中で彼女がうっかり口を滑らすことはないとニトロは解っていたが、それでも思わず引きつり笑いを浮かべて内心ため息をついた。
嘘は、ついてない。か)
 とにかく、母にプレゼント、というのは紛うことなき『目的の一つ』であるようだ。だったら確かに彼女の言葉に嘘はなく、このまま『目的』という大きな枠で問うても何にもならないだろう。ニトロはツッコミ方を変えることにした。
 相手の目論見を推測している時に浮かんだ可能性をぶつけてみる。
「これからティディアのいるパーティー会場に連れていって、サプライズゲストにする気だった?」
「いいえ」
「それとも、ティディアの『優しいお気遣い』で俺のポイントでも稼ぐつもりだった?」
「はい」
 ヴィタは、さらりと肯定した。
 ニトロは軽い頭痛を覚え、それを消すために深い嘆息をついた。
「それを言っちゃ、逆に減点じゃない?」
「嘘がバレれば、そちらの方が減点が大きいでしょう」
「すでに俺の……俺達のこと騙してたじゃないか」
「一つの嘘は、そこまでで。嘘に嘘を重ねて大事に至ってはティディア様にも申し訳がありません」
 ヴィタは印象的なライトグリーンの瞳をニトロに向け、言う。その様は常に堂々としてあり、気高いプライドすらをも感じさせる。
 ニトロは彼女の毅然とした態度に何だか毒気を抜かれてしまった。
 騙す、嘘をつくという行為は決して誉められるものではないが……
「……目的は?」
「以上です」
 で、あれば。
 クィービィ・フーニにヴィタが化けていることに気づかなければこのまま帰らされ、母はプレゼントに大喜び、自分は何も無かったことに安堵しつつティディアの気遣いに戸惑っていただけか。
 ヴィタの言う通り、騙され続けていたとしても実質的な『害』はなかったろう。
 しかし、解せない。
 確かにそうなれば自分はティディアの気遣いを記憶に留める。留めるが、それだけであいつに好意に抱くほどのものでは決してない。それはあちらも解っているはずだ。それなのに、
「手がこんでるわりに効果は小さいんじゃないかな。労力に見合わないよ」
「無駄ではありません。小さなことからコツコツと、です」
「今さら遅いって」
「それでも、マイナスではありません」
「仕込みがバレちゃったんだからもうマイナスだよ」
 ニトロは鼻を鳴らして、はたと思い出した。
 今日この件が『ポイント稼ぎ』だったのなら、そうだ、今度はヴィタの不自然な行動に説明がつかない。バレたらマイナスなのに自ら正体を見破れと促すようなヒントを出すというのは、彼女らしからぬ行動ではないか。
 もしや、『嘘』はまだ続いているのかもしれない。
 ニトロは緩みかけていた気を引き締めヴィタに疑惑の目を向けた。すると、それを敏感に察知した彼女は再び彼の問いを促す眼を返した。
「気のせいだったら恥ずかしいんだけど、さ」
「はい」
「何でヴィタさんは……『ヴィタさん』だって気づかせようとした?」
 ヴィタは答えず、黙したままニトロを正視し先を促した。
「ブルームーンベリーなんてヴィタさんの目の色思い出させるようなもの用意して、本物のフーニ先生なら主賓かあさんを相手するはずなのに、俺ばかりを……見て」
 ヴィタは黙したままニトロを見つめ続けている。その眼差しはあまりに真っ直ぐで、視線に射られるニトロの口は次第に重くなっていった。
「その時計だって、見覚えがある。まるで、気づけって、言ってるようにも思えた」
 ニトロが言うのを遮ることなく、否定も肯定もせずヴィタは聞いていた。
「いつもならこんなミスはしないだろ? なのに、何故?」
「……」
 ヴィタはニトロの疑惑を全て受け止めた後、彼を見つめたまま一度何かを言おうとして止め、躊躇いに歪めた唇を薄く開き幽かに吐息を漏らした。
 それは、ここまで即答を続けていたヴィタの、ニトロの知る彼女のらしからぬ挙動だった。
「ヴィタさん?」
 ニトロは怪訝に呼びかけた。不可解な反応に胸が騒ぐ。何か仕掛けてこようとしているのかと警戒心が一気に高まる。
 ヴィタは意を決したように、言った。
「ニトロ様なら、きっと気づいてくださると信じていました」
「だから何を考えてそんなことを」
「好意を寄せる殿方に自分のことを気づいて欲しいと思うのは、女として当然のことではありませんか?」
「――は?」
 問いかけの形で返ってきた答えを、それも余りに意外な内容を理解できずに間抜けな声を出したニトロを瞳に映して、ヴィタは微笑んだ。
 その微笑みは綺麗だった。
 ただの微笑ではない。正解を出したニトロを賞賛するためのものでもない。そこには、初めて見るヴィタの艶めきがあった。
「な――」
 戸惑いニトロが問い返そうとした時、彼の手首を強い力が襲った。
「!」
 その瞬間、ニトロは何が起こったのかを即座に察した。ヴィタが手首を掴んできたのだ。彼は、彼女の言葉に惑いながらも唐突なその行動に対しては――『師匠』に叩き込まれた教えの賜物で――もはや反射の域に達した動きで手を振り払おうと反応し、
「ぁ痛ッ!」
 だが、自分より腕力でも技術でも優れるヴィタに先手を取られながらニトロが逃れることはできなかった。彼は先ほど『フーニ』を押し付けた壁に、今度はヴィタに叩きつけられていた。
「何 ! ――を?」
 ニトロが怒声を上げようとするのを、ヴィタの眼差しが止めた。彼を見る彼女の瞳は熱を帯びていた。頬には紅が差しているようにも見えた。
 今まで見たことのないヴィタの表情、そして眼。
 ニトロはこの状況になった理由が解らず、そしてヴィタの突然の暴走に混乱していた。
 何だ? 何が起こっている?
 彼女は言った。好意を寄せる殿方。それはつまり――好きな男……す 好き?
 なんですと!?
「判りませんか?」
 ヴィタから溢れる熱が、ニトロの肌に触れた。
 深夜の校舎に流れる不可思議な情緒。日中は人が溢れている場所の、夜は無人になった時の厳かな不気味さ。
 それらを身に纏いジッとニトロを見つめるヴィタには、一種の魔力のようなものまでがあった。
 その力に誘引されたかのようにニトロの心臓が早鐘を鳴らし、
「ニトロ様」
 吐息と共に耳を撫でる彼女の囁きに――
「い――いやいやいやいや!」
 ニトロはとにかくヴィタの手から逃れようと身をよじりながら、しかし彼女の本気の力に押さえつけられ逃れることができず苦悶の汗を浮かべた。
「どういうこと!?」
「ですから、私はニトロ様のことが好きなのです」
「そんなん初耳だ!」
「ずっと胸に秘めていました」
「――ヴィタさんは!」
 いくらなんでも唐突過ぎる事態に頭が真っ白になりそうな中、必死に、ニトロは必死に制止の言を搾り出した。
「ティディアの執事だろ!?」
「はい」
「だったら!」
「例え主人を裏切ることになっても……ニトロ様」
「何でしょう!」
「お慕いしています」
 ニトロは息を飲んだ。
 ヴィタの頬は今やはっきりと赤らみ、形作られた偽りの耳までもが熱い血を透かしていた。物事にいつでも平静に当たる彼女が激情を表し、涙を堪えているのか目頭を震わせていた。
 見慣れた彼女の顔。
 見慣れぬ彼女の瞳。
 その不均衡に思考の歯車が齟齬をきたし、かみ合わぬ隙間から怒涛の勢いで流れ込む混乱が心を荒らす。錯覚か、ライトグリーンのカラーコンタクトを透かして彼女の美しいマリンブルーが見える。水晶体に反射する光が濡れ輝いている。
 見慣れた彼女の瞳。
 見慣れぬ彼女の顔
 ふと、ヴィタの鼻先が、ニトロの鼻に触れた。
 そこでニトロはヴィタが自分と唇を合わせようとしていることにようやく気がついた。彼が勢い顔を背けると一瞬ヴィタが身を引き、少し哀しげな目をした後、それでも沸き起こる衝動を収めようとはせずニトロに迫った。
「ヴィタ――」
 ニトロは顔を背けたままヴィタを見、
(あれ?)
 ふいに彼女の偽物の耳で光を受けて閃いたものに、こんな状況だというのに、なぜか異様に関心を寄せた己の感覚に彼は驚いた。驚きのまま、そして閃いたヴィタの小さな水晶を戴くピアスを凝視して――
「ッ!!」
 彼の頬が、これまでになく引きつった。
「ニトロ様……」
 主と同類の執事が甘い息を吐く。つつましく突き出された唇がニトロに寄せられ、
「っ痛!?」
 直後、ヴィタとニトロの位置が入れ替わっていた
 ニトロを壁に押し付け封じていたはずのヴィタは背を壁に強かに叩きつけられ、代わってヴィタに身を捕らえられていたニトロが、彼女の両肩に爪を食い込ませてその体を拘束していた。
 背の鈍痛に目をぱちくりさせ、肩の激痛にヴィタは眉を垂れた。
「……痛い、です――っ!」
 刹那の合間に異常な力で攻勢を奪われたヴィタは、眼前のニトロを見て息を止めた。
 光量を落とされた廊下の薄明かりがニトロの顔に影を生み、その中で静かな憤激をたぎらせる双眸が爛々と浮き上がっていた。
「随分、面白いピアスをしてるじゃないか」
 地の底で響くうなるような声。小さくかすれるほど押さえ込まれているのにはっきりと鼓膜を震わせ、下腹にずしんとした重みを与えてくる恐ろしい声。
 ヴィタの首筋に痺れが走っていた。うなじの毛が逆立っている。彼女の身に流れる、太古、獣であった時の力を濃く遺す獣人ビースターの血が恐怖を告げていた。
 逃げろ! ――と。
 だが、それにはもはや何の意味もない。
 ヴィタはニトロを追い詰めすぎたことを、今さら悟った。
 追い詰められると異常な『力』を発揮する彼を、ああ、主の気持ちがよく解る! もっと前に「冗談ですよ」とからかい終えるはずだったのに、焦り慌てる彼をいじるのがあんまり楽しすぎて加減を見誤ってしまった!
(ティディア様、申し訳ありません)
 胸中で王女に詫び、ヴィタはとにかく己を捕まえる鬼から逃れようと考えを巡らせたが、結論は初めから決まっていた。
 すなわち。
 無理。
「おいコラクソ執事」
「はい」
「ソレが本当の目的か」
「…………はい」
 ヴィタは観念した。
「よく、お気づきになられましたね」
「何だかねー。色々あったからさ、カメラってものに敏感になってるのかもねー」
「それはちょっとした特技です、ね」
「そうだねぇ、でも気づくのが遅かったよ。ピアス型の隠しカメラか、だからわざわざピンで留めて耳に髪がかからないようにしてたんだね。念入りだ。それならきっとばっちり撮れてるよ。なあ、ヴィタさん?」
「慌てふためくニトロ様は、とても可愛らし痛い」
 両肩を握りつぶされそうな威力にヴィタは口を結んだ。
「悪趣味じゃないかな? そういうの」
「……ティディア様にもプレゼントを……と」
「喜ぶかな、そんな映像」
「最近、ニトロ様のガードが固すぎてなかなか迫れず哀しいとおっしゃっていました。そして……先日のトレーニングジムでのことを覚えていらっしゃいますか? 間接キスといった私にニトロ様が焦っていたこと。ティディア様は久しぶりにそんなニトロ様のお顔を見たかった――と、本当に残念そうに」
「はっはあ、なるほどそれで提案したと」
「はい」
「こんな人を弄ぶ催しを、提案したと」
「……はい」
 ニトロのコメカミは怒りの鼓動に脈打っている。
 彼の右手がヴィタの肩から外れ、指でそっと彼女の耳に触れた。まさか耳たぶを引き千切ってピアスを奪うつもりなのか。ヴィタは身を強張らせた。
 ――と、
「こら!」
 その時、横合いから怒鳴り声が飛び込んできた。
 罪人を逃がさぬようまず耳を掴みそれから両の手でピアスを外そうとしていたニトロは、しかし、それを続けることなく反射的に声のした方向へ振り向いた。
 その顔が普段のニトロのものに戻っているのを見て、ヴィタは安堵した。こうなれば驚異の『馬鹿力』はもう消えている。ほっと内心に息をつき、そして彼女もニトロの視線の先へと顔を向けた。
 そこには、小さなアンドロイドを傍らに従え腰に手を当て仁王立つリセ・ポルカトがいた。
「何をしているの、ニトロ!」
 怒声を浴びせられたニトロは自分が怒られていることに驚愕し、ついでこの状況を見て母がどう思うかを悟った。
「ティディアちゃんという恋人がありながら!」
(あああ、やっぱり!)
 つかつかと歩み寄ってくるリセは眉間に皺を刻んでいる。ニトロが物心ついた頃から知っている母の怒り顔だった。彼女の生来の朗らかさが邪魔をしているのか怒りに満ちているというのに全く恐怖を抱かせない形相だが、それが母の力なのだろう、彼女の息子は酷くうろたえ慌てて釈明した。
「違う、母さんの思っているようなことじゃない! そうだ、結構騒いでたから聞こえてただろ!? 初めから見てなかったの? どこから見てた!?」
「防音優秀」
 ぼそりとヴィタが囁く。
 ニトロは今の言葉は失敗だったと胸中で舌を打った。『どこから見てた』など、そんなばったり出くわした人に悪事を見られた人間が吐くようなセリフ、母が聞いたら
「遅いなーって思ってたら……そんな見て欲しくなかった場面なんてあったの? 一体、フーニ先生に何をしたの!」
(うおお、やっぱり!!)
「……って、あら? ヴィタちゃん?」
 『フーニ先生』に謝ろうとしたのだろう足早に近づいてきたリセが、息子に壁に押し付けられている女性を見て目を丸くした。
「なんでこんなところに?」
 怒りを忘れたように、意外極まる人物の登場に首を傾げる。その下をイチマツがすり抜けてニトロに駆け寄り、心配そうな顔をマスターに見せた。
 ニトロは芍薬を安心させるようアンドロイドの頭に手を置き、説明するより先に母がヴィタに気づいたことを幸運に思った。これならこの隙に母の怒りを鎮め、状況を納得させるのも楽だ。
「だから、フーニ先生はヴィタさんだったんだよ」
「どういうこと?」
「特殊メイクで化けていました」
 ヴィタがコンタクトレンズを外しながら言う。ライトグリーンの瞳が消え、光を帯びた美しいマリンブルーが現れた。
「あの『映画』で、ニトロ様も使っていたものです」
「ああ」
 合点がいったらしくリセがぽんと手を打つ。
 それから壁に背をもたれるヴィタと、彼女に迫っているようだった息子を交互に見、
「なんのために化けていたの?」
 至極当然な問いだった。ニトロはヴィタが悪戯心に『ドッキリ』を仕掛けようとしていたことにするかと考え、
「ニトロ様を深夜の学校パワーを借りて誘惑するために」
「ブッ!」
 ヴィタがしれっと言い出したとんでもないことにニトロは仰天した。母を見る。ほらもちろん疑惑の目が向いてるよそりゃ当然だよ!
「ちが、ち、違うぞ母さん!」
「そうしたらニトロ様、まんざらでもなくこのような状況に」
「ヴィタさん何を!」
「ニトロ!」
 リセが再び怒鳴った。
「だから違うって!」
「ソウダヨ、主様ガ正シイ――」
「芍薬ちゃんは黙ってなさい」
「デモ!」
芍薬!」
 抗議の声を上げたA.I.を一喝して黙らせ、リセはニトロに詰め寄った。詰め寄って、ニトロを責めていた眼を急にヴィタへ転じ、
「ヴィタちゃんもティディアちゃんを裏切るなんてどういうこと!?」
「裏切っていません」
 不意打ちのようなタイミングで怒鳴られたというのに、ヴィタは冷静に応えた。それも返した言葉がまた不思議で、顔に『?』を刻んだリセが首を傾げる。
「貴族の殿方は複数の妻を持ってもいいのです。ですから、ニトロ様が私に手を出されても将来的にオールオッケーです」
「あら、そうなの?」
「違うぞ母さん!」
「だって、ヴィタちゃんが言うのよ?」
「ああ、そりゃヴィタさんはそっちの内情詳しいかもしれないけどさ、でもちょっと前にもどっかの貴族が浮気がばれて騒がれてたろう?」
「……そうね。やっぱりいけないことよね」
「それは格下だからです。北の大陸のとある有力な貴族は正妻の他に五人の女性を囲っているのですよ。そのうち二人とは子ももうけているのですが、それでも騒がれていません」
「あら、そうなの」
「はい」
「っつーか何を衝撃ゴシップ暴露してんだこんな時に!」
 ニトロが怒声を上げてもヴィタは止まらない。何か確固としたものがあるような様子で続ける。
「特に王族は――それも『王』は、その貴族とすら格を比べようもありません。聞いたことはありませんか? 他星たこくの王が第二王妃を迎えたというニュースなど」
「聞いたことあるわ」
「そうでしょう。それともお母様は、私があなたの娘になるのはお嫌でしょうか」
「そんなことあるわけないじゃない!」
 リセの目が輝いた。
 ニトロの眉間が激しく痛んだ。
 芍薬がニトロのズボンを掴む。ニトロはイチマツの顔にある心配に乾いた笑いを返しながら、小さく、
「いいよ。なんとかまとめる」
 と言い、ヴィタの巨大ボラを信じかけている――というより信じている? 母に言った。
「アデムメデスじゃ駄目だよ、母さん。大昔ならともかく今はそんな話これまで一度も聞いたことないだろ? 昔、ティディアの上の兄貴が失脚した原因も女性問題だったじゃないか」
「でも、ヴィタちゃんが言うんだもの……」
「ヴィタさんも何でそんな嘘を言うんだよっ」
「ニトロ様が好きだからです」
「ありがとう、でもその好きは今問題になってる『好き』とは絶対違う!」
「……ひどい」
「ニトロ!」
「母さん! 前からずっと思ってたんだけど何でそんなにヴィタさんの……ついでにティディアのものだけど、言うことを何でそんな簡単にほいほい信じるんだ!」
 その問いにリセは一瞬きょとんとし、
「何を言ってるの?」
「何をって」
「ニトロのことを本当に好いてくれる人のこと、お母さんが信じないわけないじゃない」
「――っいや……えぇっと……」
 ニトロは、意味のないうめき声しか母に返せなかった。彼はその時、母を説き伏せるための言葉を完全に見失っていた。
 母が口にしたものは――強い、強い言葉だった。
 さも当然と大真面目に言い切った、単なる馬鹿親とも取られかねないリセのその言葉。
 ツッコミどころはある。論理としても穴だらけだ。例え息子のことを好きだとある人間が言ったとしても、無論その人間が信頼に足るかどうかは別問題で、それに彼女にだって自身の理屈を支える根拠はきっとないだろう。
 しかし、それなのに、無邪気なその言葉には逆らいがたい迫力があった。それを否定することこそが罪とまで感じた。
 あるいはそれは、愚鈍とも言える母の愛だった。
 ただ息子に注ぐ愛情の範囲が、ちょっと変わった形で少しばかり外にも広がっているだけなのだ。
 息子ばかりか彼に親愛を寄せる人間までも当たり前に包み込もうというリセの、ニトロ・ポルカトの母親の、天然の愛情が。
 ……よもや、こんな時に、突然そのような母の心を知るとは思ってもみなかった。
 ここで何をどう語り先ほどヴィタとやりあった事実を伝えればいいのだろうか。母は裏切られたと悲しむか? それとも裏切りと思わず、悪いことをした子どもにそうするように失意を隠しながら叱りつけるだけだろうか。……分からない。自分は感動しているのだろうか。驚いているのか。圧倒されているのか。それも解らない。うまく言葉が出てこない。
 それはニトロだけでなく、芍薬までもがそうだった。
 困惑するマスターの傍らで、芍薬はニトロの困惑を知りながら助け舟を出すことができずに当惑していた。主が困っている。それを助けるのが自分の役目だと強く思いながらも、どの思考回路を開くこともできなかった。母様の愛情を知り、今、その息子のA.I.が出る幕などあるのだろうか。むしろ奇妙な感銘すら覚え、ここでしゃしゃりでることこそマスターへの背徳とまで思えてならない。
 そして、ヴィタは……
「ニトロ様の言う通り、私の言ったことは嘘です」
 彼女は涼しく、そう言った。
 途端にリセがしょんぼりと気落ちした。その姿は嘘を告白していないニトロと芍薬にまで罪悪感を覚えさせるほど、哀れだった。
「何で、そんな嘘をつくの? ヴィタちゃん」
 悲しげなリセにヴィタは微かに――困ったように眉を垂れ、それからニトロを見た。
「っ?」
 ニトロはヴィタの眼差しを受けてぎょっとした。
 その双眸は母に向けるものとは違い、なんというか……必死だった。どうやら凄まじい良心の呵責を感じているらしい。嘘に嘘を重ねて大事に至った彼女はこちらへ何かを一心に訴えかけ、同時に何かを懸命に懇願して――
(――ああ!)
 ニトロはヴィタの心意を悟った。
 この場をうまくまとめるためには、確かにそれしかない。彼女は協力を求めている!
 正直ヴィタを助ける義理は皆無だが、それでもニトロは考えた。
 この場をうまくまとめなくては母は気落ちしたまま家に帰ることになる。折角今日は仲の良い園芸仲間と美味しい夕食をとり、さっきまで希少な植物をもらえる喜びで胸を一杯にしていたのだ。できうることなら、その幸福感を持ったまま楽しい一日を終えて欲しいと思う。
 嘘が罪を産むことなく済ませられるのなら、母のためにそうしてやりたい。
「……シナリオ、崩れちゃったね」
 やおらニトロがぎこちなく言うと、ヴィタの顔を感謝が照らした。
「どういうこと?」
 怪訝に、リセが問う。
 ニトロはヴィタと顔を見合わせた。
 お互いが言おうとしていることをまばたきもせず全身全霊無言で確認しあい、真剣そのものにうなずき合い、そして、言った。
「「ドッキリ大失敗」」

 ……結局。
 それは『ドッキリ』を仕掛けようとした矢先、その直前に『クィービィ・フーニ』の正体がリセにばれてしまったため、アドリブでシナリオをでっち上げようとして派手に失敗した――ということで落ち着き、それをリセに信じてもらえたニトロとヴィタは胸を撫で下ろした。
 その後に聞けば、ヴィタがニトロがリセに怒られる方向に話を進めようとしたのは、ピアスを奪われないようそれをどこかに隠す隙を作るためだったそうだ。
 それはそれで頭にきたが、ニトロは、次のヴィタの言葉で彼女を許すことにした。
『あんなことを言われてしまっては、お母様に嘘はなかなかつけませんね』
 隠しカメラの入ったピアスは、そのまま持ち帰らせてやった。今日のことはあのバカも知ることになる。きっと強烈な薬になることだろう。
 お陰で『自称ニトロの恋人』とヴィタが母と親密さを深めていくことを無防備に見逃しても、気がつけば外堀を全て埋め尽くされた、なんて非常事態にはならなそうだ。
「今回バカリハ、ヴィタノフザケタ計画様々ダッタネ」
「ああ、本当に」
 午前二時十一分。
 母を実家に送り届けたニトロは、芍薬の安全運転に守られながら帰路についていた。
「そうだ、母さんに栽培ケースをプレゼントするから情報集めておいてくれる?」
「承諾」
 母はティディアとヴィタからのプレゼント――ダバパヘクランタの種を心底喜んでいた。車に乗るまでの短い道のりを時折スキップを挟んで歩き、開花の時を夢見て語る際には鼻息まで荒くして、第一の関門は種を腐らせずに発芽させることだ、明日は仕事がないから早速取り掛かるんだと息巻いていた。
 ……が、まあ、明日は無理だろう。
 母は、今夜は興奮して眠れないはずだ。昼近くになってようやく眠り、そして夜に目覚めてショックを受けるのがオチだろう。明日――正確には今日の母の仕事が休みだったのは幸いだった。なに、種は逃げない。それに栽培ケースもうまくいけばその頃に実家へ届く。母は喜んでくれるはずだ。
「……大丈夫、カナ」
 ふと、不安を覚えたように、芍薬が言った。
「何が?」
「主様ヲ好キナラ誰デモ信ジチャウッテ」
「ああ」
 ニトロは芍薬の心配を理解した。
「それは俺も思ったよ。けど……大丈夫じゃないかな」
「ドウシテダイ?」
「母さんの言った『好き』って恋人や夫婦の間のものだけじゃなくて、ほら、ハラキリの言うこともほいほい信じるから友達の間の好意も含まれてるんだろうし、ヴィタさんみたいな『面白好き』も入ってる。もしかしたら有名人への好意もそうかもしれない」
 ダッシュボードのモニターに芍薬の姿が現れ、うなずきを見せた。
「なんせ『ティディア姫の恋人』だ。そういう意味で俺のことを『好き』って言ってくれる人は、多分、たくさんいるんだと思う。でも、母さんは詐欺とか、そういうのにあったりしてないだろ? メルトンからそれに関係するようなトラブル背負い込んだって報せもない」
「御意」
本当に好いてくれる、って言ってたし……母さんなりにちゃんと基準があるんじゃないかな。だからきっと誰でも信じるわけじゃないよ。まぁ、母さん自身は基準とかそういうのは考えても自覚すらもしてないんだろうけどさ」
「……誰ガ誰ニドレクライノ好意ヲモッテルカナンテ誰ニモ分析デキナイノニ、不思議ダヨ」
「母親の直感ってやつじゃないかな」
 冗談めかしてニトロは言った。
「母さんは色々抜けてるけど、時々やけに鋭い時があったりするしね」
 少し先の道路に面したコンビニエンスストアの駐車場から、一台の車が車道の様子を窺いそろそろと出てきていた。芍薬はスピードを落として先に行くよう促す信号をその車の制御システムへ送り、相手が道に入り十分に加速するのを見計らって速度を戻していく。
「主様」
「ん?」
 どこか神妙な顔で、芍薬は言った。
「『オ母サン』ッテ、凄イネ」
「うん。凄い」
 うなずくニトロの傍ら、小さなアンドロイドが座る助手席には、母の気配がまだほのかに残っているようだった。

中編 へ   「企画詳細&コメント」へ

メニューへ