前編 へ

 ニトロとリセが案内されたのは、五階建ての時代がかったデザインの校舎――正門に面したコーゼルト学園高等部の第一校舎を素通りし、そこから少し離れたところにある四階建ての近代的な建物だった。
 主に、理系学科のための特別教室棟だという。
 昇降口前でフーニが指紋認証に指を当てIDカードをリーダーに通すと、教室棟の分厚い強化ガラス製のドアの鍵が――それもセキュリティの一環か――大きな音を立てて外れた。内に入ってすぐ正面の階段を昇り、三階につくと廊下に歩を進める。
 学び舎は静寂に包まれていた。
 特別教室棟といっても各学科の実験室以外は一般的な教室が並び、それはニトロの通う高校のものと変わらぬ風景で、日中は生徒の話し声や足音、笑い声や窓の外から聞こえる活動の賑わいが反響しているのだろうここには今は三人と一体の足音しかなく、それがしんとした中に反響するのは不気味であり、同時に、普段なら滅多に足を踏み入れることのない世界を歩くニトロの胸には浮き足立つような、あるいはルールを破るスリルにも似た感覚があった。
 天井に等間隔に並ぶ電灯が、コストカットのためだろう光量を落とされているのに、やけに明るく感じるのはそのためだろうか。
「夜の学校なんていつ以来かなあ」
 どうやら、リセも息子と同じ気持ちでいたらしい。ただそのつぶやきと、きょろきょろと辺りを見回す顔にはニトロにはない感傷がある。過去への憧憬と、過ぎ去った時分への羨望をも感じているのだろう。
 その一方で彼女の傍らには、現在の状況に明らかな困惑を刻む顔が一つあった。
「……あのさ」
 抜け目なく特別教室棟の間取りを確認しながら母の後ろを歩くニトロは、小さなアンドロイドを動かすA.I.の心情をおもんぱかって言った。
「別に手を引かなくてもちゃんとついていくよ、芍薬は」
 リセは車を駐車場に止めた芍薬がアンドロイドに移ってきてからも、その小さな手を離そうとはしなかった。
 芍薬からすれば本来マスターに第一に守ることを命じられている対象に保護されているような状況だ。それに手をつながれている――すなわち片手が完全に塞がり、一面でリセに手を拘束されている状態を維持することは、もし『事』が起きた場合に非常に具合が悪い。
 もちろん芍薬が手を離してもらうよう言えばリセは離してくれるだろうが、もちろん、彼女に心を配る芍薬がそんな直言をできるはずもない。
 そこで代弁を買って出たマスターを肩越しに振り返り、その母は朗らかに言った。
「いいのよ。昔はこうやってよくニトロとも手をつないで歩いてたんだから」
「それが何で芍薬と手をつなぐことに関係あるんだよ」
「だからお母さん、芍薬ちゃんとも手をつないで歩きたいの」
 イチマツ――芍薬が微笑み絶やさぬリセを見上げる。明確な感情を人工の表情筋に表してはいないが、リセの気持ちが嬉しかったのだろう、そのためにマスターの母の気持ちと己の使命との板ばさみが強くなってしまい困惑をさらに深めているようだった。
 ニトロは半ばため息をつき、
それは別に『芍薬』ってわけじゃないと思うけどな」
「じゃあ、お母さんこうやって芍薬ちゃんとお手々つないでる気分」
 のほほんと、しかしきっぱりとそう返されてはどうしようもない。下手に応戦すれば口論になるだけだ。
 ニトロが「無理」と小さく眉を垂れると、それを肩越しに見た芍薬も諦めたらしい。前に向き直り『生物準備室』と電子札に表示された部屋の前でドアを開けて待つフーニの元へリセの歩みをわずらわせないよう歩速を合わせて進んでいく。
 その後ろ姿がまるで本物の母子に見えて、ニトロは思わず頬をほころばせた。
(それも娘の方がしっかり者の、かな)
 もしかしたら、母と手をつなぎ歩いていた幼い自分の姿も他人の目にはこんな風に映っていたのかもしれない。
 そう思いながら『二人』を追って生物準備室に入ったニトロを出迎えたのは、
「あらぁ」
 母の歓声と、よく整理されているのに妙に雑然とした光景だった。
 入ってすぐの右手の壁には教材用なのだろう整理棚が置かれていて、入り口から見て奥、窓に面してはパイプを組んで作られた棚が据えられている。
 その四段作りのパイプ棚の上段から下段までには、陽が通るよう間隔は詰めずにいくつもの鉢が置かれていた。見覚えのある花から見たことのない奇妙な草までが旺盛に育っている。その中のいくつかは温度や湿度だけでなく気圧から大気成分まで調整できる小型の栽培ケースで育てられていて、内に薄いガスを漂わせたケースではアンモニアを吸い窒素を吐き出す植物の代表的な品種が綿毛のような青紫色の葉を茂らせていた。そのすぐ隣のケースで可憐な花をほころばせているのはアデムメデスの高山植物だ。似ても似つかぬ二つが隣接して並ぶ様は実に奇妙で、二種の生態の比較は不思議と知的好奇心を揺さぶるものがあった。
 左手の壁の奥側には次の生物実験室へ続く扉があり、そのスペースを除いてはいかにも重く頑健な水槽台が壁を背に鎮座し、部屋の少なからぬ面積を占拠している。三層にもなるそこには適度な間隔を置いて大小様々な水槽が並び、中でも目立つのは大きなアクアリウム。温水を好む生態系を再現しているらしく、十数匹の小さくもカラフルな魚が群となって水草の脇をすり抜けている。水を循環させるポンプを始め機械の類から響く音も振動もなく、わずかな水音ばかりが灯りの点けられた部屋にこぼれていた。
 他にも一目見ただけでは砂が敷かれているだけの小さな水槽、遮光され何が入っているのか窺うこともできないもの、枯れ木をのんびりのたくっている虹色の蛇が暖かそうな水槽の中でちろちろ舌を出していて……
 正直、この部屋にあるものは高校生物の授業には関係ないものの比率が高かった。いくつかは授業でも使えそうだが、それにしたって色々無駄だ。少なくとも虹色の蛇が出てくるページは教科書にはない。
(こりゃ『生物準備室』ってより『趣味実践室』だな)
 ニトロは苦笑を抑えることができなかった。見事なまでに学校施設を私物化しているフーニ先生は、なるほど『豪快』な人だと再認識させられる。
 どこに目を置き楽しめばいいのか迷う部屋を忙しく眺めていたリセが、やおら小さな水槽に咲く水中花を見つけてそちらに行く。ニトロは周囲に巡らせていた視線を部屋の中央に置かれたテーブルに移し――
「これは何を?」
 そこに放り置かれた一枚の板晶画面ボードスクリーンを覗き込み、彼はフーニに訊ねた。
 画面には月光よりも暗い光に照らされる、細い枝を噴水のように四方へ広げる植物が映っている。画面内に表示されているアイコンを見るとどこかの映像を中継しているようだ。
 植木鉢のパイプ棚を背にした椅子に座り、フーニが言った。
「それだよ。わたしをフり続けてるのは」
 どうやらフーニが着いた席は教職員のためのデスクであるらしい。よく見るとこのテーブルには横辺を3:1に分ける区切りがあり、彼女の机と同じ高さのテーブルが継ぎ足すように置かれているのが判った。こちらには学校の備品らしき簡素な椅子が雑に並べてあるのをみると、生物部部員か、それとも相談に来る生徒のために増設したものなのだろう。
「見たことないか? 結構有名なんだがな」
 机の引き出しをごそごそとやりながらフーニは言う。
 ニトロはテーブルの対面から自分と同じように板晶画面ボードスクリーンを覗き込んでくる母に頭突きを食らわないよう身を引きながら――実際、彼が間を取らなければゴツンといっていただろう――思案し、はたとそれが何かを彼が思い出した時、画面を一目見たリセが答えを口にした。
「ブルームーンベリーね」
 ニトロが思い出したのも、それだった。
 年に一度、たった一晩の短い間だけ、赤と青のアデムメデスの双子月、その青色と同じ色の花を咲かせる風変わりな植物。その果実は生のまま食べるには適さず、愛好家にはもっぱら夢の世界から現れたように咲く花を観賞するために栽培されているものだ。
「蕾も大きい……」
 楽しそうにボードスクリーンを見ながらリセが言う。
「いつ咲いてもおかしくないわね」
「ああ。だけど咲かなくてもおかしくない。そいつは咲き時を見極めるのが難しくてね」
 リセは笑った。
「前に友達が泣いてたわ。三日間ほとんど徹夜して、耐えられなくて寝ちゃった日に咲いた、咲いたら起こすようにA.I.に言ってたけど起きられなかった、朝起きたらもうしぼんじゃってて切なかった! って」
「花言葉は『意地悪』。それそのままの花だからな。お友達はいいように弄ばれたね」
 リセとフーニは旧来の友人のように言葉を交わしている。
 こうやって誰とでもすぐに打ち解けるのはリセの特技だ。他人に警戒心を抱かせない雰囲気が影響しているのだろうか、ニトロは母のこの特技に子どもの頃から何度も感心させられてきたものだった。
「これはどこに?」
「隣にある。昼夜の光量差に敏感なやつだから……そうだ、言ってなかったな。強い光を受けると花を咲かせないから、そこは開けないようにしてくれ」
 フーニは隣の生物実験室につながる扉を示して言った。
 そう言われると極自然な流れでうっかり扉を開けてしまうのもリセの特技だ。ニトロはそれをさせぬよう注意しておこうとしっかり胸に留めた。
「さて、それじゃあリセさん。約束のものを渡す前にやらなきゃいけないことがあるんだ」
「うん、ヴィタちゃんから聞いてる。読んだり書いたりしなきゃいけないものがあるんでしょう?」
 話が早いとフーニはうなずいた。
 引き出しから新しくボードスクリーンを取り出した彼女はそのカードスロットにメモリーカードを挿入し、何やら操作してから簡素な椅子に腰を下ろしたリセの前にそれを差し出す。
 テーブル越しに頭だけ見えるイチマツの影でごとごとと音がし、それが止むとぴょんとイチマツの体がテーブルの上へ飛び出てきた。どうやら音は足場とするための椅子を動かしていたためのものだったらしい。イチマツは行儀よくへそ下で手を組んで立ち、リセが見るボードスクリーンを同じく見つめた。
「そこに『ダバパヘクランタ』の譲渡・所持に関する規約が書いてある。ちょっと長いが、本人が最低でも一度は目を通さないといけないからしっかり読んでくれ」
「分かったわ。でも、解らないところがあったら……」
「それを動かすA.I.のデキはいいのかな」
 フーニの質問に誰が答えるよりも速く、イチマツが任せろと胸を叩いた。
「サポートしてもらうといい。読み終えたら所定の欄に署名を頼む」
「じゃあ、よろしくね。芍薬ちゃん」
「御意」
 芍薬がうなずくのを見ながら、ニトロは、はて……と考え込んでいた。
 ダバパヘクランタ。
 どこかで聞いたことのある名だ。そういえば『罠』を警戒するばかりで母が何を譲り受けるのかを聞くのを忘れていたが……とりあえず、譲渡に際し手続きが必要だとはいえ一般人が所持を許されるのだ。母の喜びようを見ればそれが手に入りにくい珍しいものだということは判るが、まあ珍しいといっても絶滅危惧種ほど希少なわけでもなく、よもや危険なものでもなかろう――と、思うのだが、何だ?
(どこで聞いた?)
 あるいは、見た、のか。
 母に聞いたような気もするし、一緒にテレビだか図鑑だかで見た気もする。
「……ダバパヘクランタ」
 ニトロが小さく口にしたのを、フーニが聞きとめた。
「どうかしたのか?」
 訊ねられ、真っ直ぐにこちらを見つめてくるフーニを見返し、
「ダバパヘクランタっ?」
 ふいにそれが何であるかを思い出したニトロは素っ頓狂な声を上げた。
 それは絶滅危惧種ではない。危険なものでもない。
 ダバパヘクランタ。
 それは、野生ではすでに絶滅した種だ。
 生物の住める環境ではなくなった星が原産の、今では栽培用に他星に持ち出されたものしか存在しない一年草。
 原産地の言葉で『か弱き精霊』の名が表す通り栽培が難しく、また繁殖力が弱く一株から作られる種子の数も少ない儚き花。
 研究用や種の保護のための数は必要十分にあるため市場にも出回っているが、それでも所持するには全星系連星ユニオリスタの条約により公的機関への届出が必要であり、当然先述の理由から希少性が高く、反面『神の芸術』とまで言われる花の美しさから人気も非常に高いため結果として高額で取引される幻の花。
 母はなんとまあ朗らかに譲ってもらえることを喜んでいたものだ。
「そんなものをもらっていいんですか!?」
「ああ」
 ニトロの驚きをフーニは平然と受け流した。
「種に余裕もあったしな。それもわたしが育てたものだから、金額のこととか、そういうのは気にしなくていい」
「そうは言っても……」
「いいんだ。見返りは、ちゃんとある」
 フーニはどこか悪戯っぽく言い、その意味するところをニトロは考えるまでもなく察した。確かに、ヴィタに――あるいはその主に――貸しを作っておくのは色々と得策だろう。
 当事者間で完全に話がついていることに今さら何の口を挟めるものでもない。ニトロはため息にも似た息をつき、したたかさを見せた女教師から熱心に書類を読む母に視線を移した。
「大体、母さん、ちゃんと育てられるの?」
「お母さん今から大張り切りよ」
「張り切ったら育つもんじゃないだろ。えらいデリケートだからプロでも枯らすことがあるって、母さんが教えてくれたんじゃないか」
「腕が鳴るわ」
 リセは愛好家垂涎すいぜんの花を手に入れるためボードスクリーンを凝視しながら言い、何やら専門知識が必要な用語に当たったらしくこれは何のことかと芍薬に聞いた。芍薬は即座に質問に関連するデータベースに当たり、回答を簡潔かつ正確にまとめてリセに説明する。
 その必要な情報を素早く的確に扱うA.I.の様子を感心の目で見ていたフーニはやおらニトロへ振り返り、
「ま、育てるのが難しいってのも人気の理由さ」
「そのようですね」
 ニトロは半ば呆れながらうなずいた。しかし呆れながらも、一方では母がダバパヘクランタを枯らして悲しむのを見たくないから、ちょっと値は張ってもフーニの背にする棚にあるような栽培ケースをプレゼントしようと思う。
「それにしても、ティディア様は君に対してはよくよく気を遣うんだな」
 唐突なフーニの言葉がどういうことか解らず、ニトロは眉をひそめた。
「何がです?」
「わざわざわたしにダバパヘクランタを譲るよう頼まなくても、王立の研究機関なり植物園から持ってきた方が手間も省けて早い。だろう?」
「ああ、まあ、そうですね……」
「だからこの話を受けた時、わたしはそうすりゃいいと言ったんだ。だが、そういうところから特別に分けさせるのは公私混同になると、ヴィタは言った。それは主人の望むところじゃないってね」
 ニトロは、眉間の皺をさらに深くした。
「あいつが公私混同するなんて、今に始まったこっちゃないでしょう」
「この場合、最も恩恵を受けるのは君のお母さんだよ」
 言われて、ニトロは気づいた。
 確かにそれはそうだ。そして、もしそれが世間に知られれば、例えそこにはティディア側からのプレゼントという善意しかなかったとしても、リセは息子から甘い汁を吸う母親という汚名を着せられてしまう危険がある。
 では、それを避けながら母への贈り物を手に入れるには?
 最適なのは、持ちうるコネクションの中で最も『王女の権力』が必要のないところから高価な花を得ることだ。部下の趣味仲間というのはなるほど最高の条件だろう。
 傍若無人な振る舞いも気にせず行うクレイジー・プリンセスの胸中を理解し、ニトロはそれをどう受け取るべきかと困惑した。母はとても喜んでいる。しかし、母を喜ばせるだけでなくそんな気遣いまでありがとうとはどうにも思えない。っつーか思いたくない。
「まあ……あいつは、色々頭が回りますからね……」
 ニトロは、口元に微かな笑みを浮かべるフーニに曖昧な笑みを返し、どうにもこれは心地が悪い話題なので話を変えることにした。
「ところで、ヴィタさんとはどこで知り合ったんです?」
「王城の地下に植物園があるのは知ってるな」
「ええ」
「そこを造るのに大学ぼこうで世話になった教授が協力してね。それを手伝ったのが縁だよ」
「へえ、それで」
 うなずくニトロに、フーニは少しおかしそうに首を傾げた。
「……君は」
「はい?」
「何で立ち続けているんだ? 座ったらいいだろう」
「ああ……そういえば、そうですね」
 ニトロは歯切れ悪く応えた。別に座りたくないと思っていたわけではないが、無意識の内に何が起きてもすぐさま動けるようにと考えていたのかもしれない。椅子はすぐ足下にあるというのに全く意識に入っていなかった。
 指摘されても立ち続けていてはフーニに不審がられるだろう。変に気を遣わせるのも本意ではないから、ニトロは努めて自然に腰を下ろした。
 フーニは満足そうだった。彼女はニトロに視線を定めたまま、次の句を継ぐ間を計っていた。
(……?)
 ふいに、ニトロはフーニのその眼差しに、違和を感じた。
 半ば落ちた瞼から覗くライトグリーンの虹彩はずっとこちらに向いている。もちろんメインゲストは書類を読むのに一生懸命であるから、フーニの意識が自然とこちらに定まるのはおかしな話ではない。彼女が『ニトロ・ポルカト』と会ったことを生徒に自慢すると言っていたのを思えば、話題の糧に会話を重ねようとするのも極自然なことだ。
 ――だが、何か違う。
 ゆったりと座り腕を組んでいるフーニは、話し相手にただ目を置いているという風ではなかった。身を包む白衣のせいだろうか、なんとなく観察されているように感じ――同時に、心躍らせるシーンを心待ちにして舞台上の役者を見る『観客の目』を向けられているようにも感じる。
 それはおよそ『ティディア姫の恋人』に対するぶしつけでミーハーな視線ではなく、かといって初対面の相手の性格を知ろうとする関心からくるものでもない。
 ジッとこちらを見るフーニの視線は、むしろ知人のそれとよく似ていた。
 面白シーンを一瞬たりとて見逃すまいと、自分と『相方』のやり取りをいつも特等席で見つめている女性の、美しいマリンブルーの瞳に。
(類は友を呼ぶ)
 そんなことわざがニトロの脳裡に浮かぶが、果たしてそれで済ませられるのだろうか。彼は心の底でさんざめくモノを感じていた。何か忘れている、何かを見落としている。それも、とても基本的なことを。
「どうも……今夜もまたフラレそうな気配だな」
 ハスキーな、声。
 涼やかなヴィタの声とは全く違う声質。なのに、眼には全く同じ性質。
「やれやれ、身持ち固くて焦らされっぱなしだ」
 洒落か皮肉か、うんざりと言うフーニが何のことを示しているのか心をよそにしていたニトロは一瞬理解できなかったが、彼女の視線がテーブルの上にあるボードスクリーンに落ちたのに気づいて隣室のブルームーンベリーのことを言っているのだと合点し――
 また、疑念を覚える。
(ブルームーン……)
 連想されるのは天に浮かぶ双子月。そして、父親の故郷で月を現す言葉を名に持つ『彼女』の瞳。
 フーニは眼を当たり前のようにこちらへ向けている。
 何日もブルームーンベリーに焦らされ続けているというのにそちらに対しては随分素っ気無く、こちらがブルームーンベリーを意識したと共にそちらへの関心をなくした様は、まるで年に一度の開花などどうでもいいと言っているかのようだ。
 ニトロの違和感は大きくなる一方だった。
 もし自分のこの感覚が正しいのだとすれば、フーニは暗に何を示そうとしているのか。
「それでも日が出るまで寝られないでしょう? 明日のお仕事は大丈夫なの?」
 リセが顔を上げ、フーニに問う。
「問題ない。睡眠時間が短くても平気な口なんだ。日が出てから寝ても十分だよ」
「へー、すごいわねえ。私はたっぷり寝ないと駄目だわ」
 感嘆の眼のリセにフーニが笑みを返し、そしてリセが目を書類に戻す。するとフーニは、やはり視線をニトロに戻した。
 他に何を気にすることもなく、迷うことなく固定されたフーニの視線。
 ニトロは真正面から印象的なライトグリーンの瞳を見返し――
(――あ!)
 その首筋が粟立った。
(しまった、そうだ! ヴィタさん!)
 ニトロは、ヴィタの変身した姿を何度も見たことがある。ネコを起源にしたものとイヌを起源にしたそれぞれの獣人ビースターの姿から、少しばかり顔を変えただけの姿。それから姿だけでなく彼女は体毛の色も変化させることができたし、普段はイヌの耳であるそれを消し偽りの耳を作ることまでしていた。
 だが、そのどれにしても、一点だけ変化のなかった場所がある。
 瞳だ。
 初めて会った時にも第一に心に強く刻まれた、美しい瞳の色。
 クレイジー・プリンセスの傍らに控える女執事。その双眸に輝く宝玉。
 アデムメデスの人間で、今やそのマリンブルーの瞳を知らぬものはおよそいまい。それほどヴィタの目は印象的であり、ミステリアス、涼やかな麗人、クールビューティ、彼女に添えられる様々な形容に確かな裏打ちを与える最大の特徴だった。
 だから、フーニのまた印象深いライトグリーンの瞳を見た時、ニトロは無意識の内に一つの可能性を――この『クィービィ・フーニ』がヴィタの化けた姿である可能性を、完全に捨て去っていた。
 もしかしたら、ヴィタは瞳の色も変えられるのかもしれない。ただ自分がそれを見たことがないだけで。
 そうでなくても、カラーコンタクトを使えば瞳の色を変えることなど造作もないことだ。彼女の眼は夜、暗がりにあると猫の眼のように光を反射させる。その上にライトグリーンを重ねれば容易に印象的な新緑の瞳が出来上がるだろう。それなのに!
「ニトロ君は、ティディア様とはいつもどんなことを話しているんだ?」
「漫才のネタに関することが多いですよ」
 フーニの『ニトロ・ポルカト』にかける問いとしては最も自然なものにニトロも最も当たり障りのない答えを返し、彼は努めて無造作にポケットから携帯電話を取り出した。「失礼」とフーニに目配せし、メールを打つ。
<フーニはコンタクトをつけていないか>
 文を完成させた後もそこそこの長さの文章を打っているように見せかけ、それからニトロは芍薬への質問を送信した。
 彼女の正体はヴィタだ――という疑いを確定させるまでは、軽はずみな行動を取るわけにはいかない。
「あいつは、色々馬鹿なことをするわりに漫才には真面目で、真摯ですから」
 あくまでティディア姫の『相方』の立場から言うと、フーニは面白そうにうなずいた。
「アア、コレハネ……」
 母の質問に答えながら、芍薬がフーニをているのがニトロの視界に入る。
「ネタはどっちが考えているんだ?」
 女教師の振る舞いに不自然なところは皆無だ。口調も、わずかな所作もヴィタとは違う。もしこれが演技だったなら、ヴィタの演技力はあるいはティディアのそれを凌駕するかもしれない。
「相方ですよ。あいつが考えてきたネタを練習しながら磨き上げていく、っていうのが基本ですね」
「そうか……。姫様は多才だな、本当に」
「呆れます」
 ニトロの素直なのか悪態をついているのか判らない肯定に、フーニは生徒からユニークな答えを返された教師のように笑った。
 と、ニトロが手にしていた携帯電話が震えた。フーニに軽く会釈して断りを入れ、彼は素早くメールを確認した。
<コンタクト着用。本来はマリンブルー>
 さすがは芍薬。こちらが言いたいことを察し、次に送るはずだった問いの答えまでをも返してくれた。
 イチマツは、ニトロの視界の隅で、リセの隣でこれまでと変わりなくサポートに徹している。芍薬自身もフーニがあの女執事だと理解しただろうが、それでも安易に行動を起こさず成り行きをマスターに預けている。
 それも、ニトロにはありがたかった。
「練習はいつしているんだ?」
 芍薬に了解と返信し、ニトロはフーニに目を戻した。
「毎日、電映話ビデ-フォンを使って。週に一度くらいは直接合わせてますけど」
 そして、芍薬と同様にこれまでと同じ態度を崩さず彼女に応える。
(さて……)
 目の前にいるクィービィ・フーニ。彼女がヴィタであることはまず間違いない。
 しかしそうであるなら、そうであるからこそニトロには解せないことがあった。
(なんでヒントを出したのかな)
 フーニを演じるに当たって、ヴィタは非の打ち所がなかった。どこにもぎこちなさはなく全ての言動が自然だった。フーニを詳しく知らないこちらにとって、彼女はまさしく『クィービィ・フーニ』その人だった。
 ただ一つ、あの特有の眼差しがなかったなら
 これまで完璧であったヴィタが、つい素に戻ってあの目をしたということはないだろう。おそらく、あれは故意だ。わざとあの眼差しを向け、そしてこちらがそれに違和を感じたのを見計らい、自ら彼女の瞳を連想させる話題を振った。
 ならば、もしや彼女が開花を待つと言ったブルームーンベリーは本来クィービィ・フーニが深夜に人と会うことを迷惑がらずに了承した理由付けのためではなく、初めから彼女の正体を疑わせるための促進剤ヒントとして用意されていたのだろうか。
「毎日か。それじゃあ……」
 フーニは手首を一瞥した。そこには意識していなければ見落としていただろう――実際に今まで見落としていた――見覚えのある腕時計があった。
「今日も?」
 彼女が時計を見たのは日付が変わっていないかをただ確認していたように思えるが……まさか、それはそうして時計に気づかせようという『ヒント』の一つなのか。
「ええ、ここに来る前に」
 だとすれば、それらは一体何のために?
 そもそも、ヴィタがなぜ『クィービィ・フーニ』としてここにいるのか、という疑問がある。
 最も考えられるのは今頃パーティー会場を騒がせているであろう主人の元へ自分を連れていくため、獲物を油断させるカモフラージュとして変装しているということ。
 しかし、ここまで彼女に自分を拘束しようという気配は一欠片も見当たらず、それどころか事ここに至ってもその素振りすらない。このまま母への彼女らからのプレゼントの受け渡しを終え、歓談の後にそれじゃあさようならと手を振って帰れそうにさえ思える。
 本当に、一体何を考えているのだ。
 もしや、彼女は先ほどこちらへ語り聞かせた『ティディアの気遣い』を伝えるメッセンジャーとしてのみそこにいるのだろうか。
 ……考えられないことではない。ティディアに対する好感を上げるため、あいつがいないところであいつの心遣いを、それも人づてに伝えるというのは効果のある手だと思う。
 だが、もしそうであったらばこそ正体を明かしてはならないではないか。その御心を伝えたのが忠実な執事であるとバレれば全てが水の泡。目論見とは逆に強烈な反感を得てしまうだけなのだから。
 ――訳が解らなかった。
 考えれば考えるほど疑問が重なり当惑が深まっていく。
 『フーニ』を見れば、そこにあるのは変わらぬ目の輝き。心に残るライトグリーンの瞳は、ジッとこちらを見つめている。
 観察するように、舞台上の役者に期待をかけているかのように。
 それともこちらの困惑を見透かしているのか。
 会話の間を置き、結ばれた彼女の唇は真一文字にも見え、薄く曲線を描いているようにも見え、その奥にある真意を悟らせようとはしない。それなのに、彼女の眼は、今やあからさまに己の正体を伝えようと力強く訴えかけてくる。
 何を――
 彼女は、一体何のために?
(……直接聞く、しかないか)
 このまま考え続けていてもらちが明かない。まして、このまま時を過ごし相手の企みが判るまで待つなどという悪手も打てない。
 すでに相手に先手を打たれている状況だが、せめてもの応手は返そうとニトロは立ち上がった。
「すいません、トイレに行きたいんですが」
「あら?」
 そのセリフに誰より早く反応したのは、意外にもリセだった。
「ニトロ、まだ一人で夜のおトイレ行けなかったかしら」
「行けるよ、ってか行ってたろ小さい頃から俺一人で真夜中も」
「家だとメルトンがいるじゃない」
「それを言うなら母さんだって一人で行けてないじゃないか」
「――っ!」
「いやいや何もそんな目ぇひん剥いてまで驚かなくても」
 母にそう言いながらもなぜか顔に出てきた羞恥を紛らわすために一呼吸を置き、ニトロは続けた。
「とにかくそういうことじゃなくて。学校は閉門時間が過ぎたらあらゆるドアにロックがかかるってこと、常識だろ? だからフーニ先生がいないと」
 ロックのかかったドアを室外から開けるには学校関係者のIDが必ず要る。学生ならば学生証、教師ならばそれ用の身分証が。
「ああ、そう言えばそうねぇ」
 母が腑に落ちた顔をするのを見て、ニトロは『フーニ』へ振り返った。
「そういうわけで、いいですか?」
「構わないぞ」
 頭を掻きながら立ち上がり彼女は言った。
「子守にゃ慣れているしな」
「ヤな言い方ですねぇ」
 彼女はわざとらしく目を細めると、ニトロの脇をすり抜けドアに向かった。
「あ、ブルームーンベリーのことは平気なの?」
 慌てた様子のリセの問いを背に受け、『フーニ』は足を止めた。
「咲き出したらこれに連絡が入るようになっている。そん時は急いで戻ってくるよ」
 と、腕時計を示し、リセが安心するのを見た後、
「暗証番号は『463』だ。戻る前に何か問題があったら来てくれ」
 言いながら彼女は室内のセキュリティパネルのキーを打ち、ロックを解除するとドアをスライドさせて外に出た。
 ニトロはちらりと芍薬に目を向け、イチマツが不安を示さず小さくうなずいたのを確認し――そして、彼女の後に続いた。

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