プレゼント

(第三部 2の「『心』より」と同じ頃)

 リセ・ポルカトは園芸を趣味としている。
 何でも夫であるニルグと同棲を始めた頃、あまり物を置かず殺風景な恋人の部屋に彩りを添えようと思い出のスライレンドでデートした際に小さな鉢植えの草花をいくつか買ってきたことが、そのきっかけだという。
 息子のニトロ・ポルカトが知りうる限りそれは母の唯一の趣味で、そのため母は暇があれば熱心に庭の花壇や小さな菜園の世話をし、それともインターネットのコミュニティで同好の士達との雑談や情報交換を楽しんでいたものだ。
 それを、父はもちろん、ニトロも問題に思ったことはない。
 リセはいくら園芸に精を出していても、夫と共に子育ての手を抜くことはなかった。庭に出る母の背に幼いニトロが寂しさを感じたことはない。むしろ彼の幼い時の記憶には、庭に咲く小さな花々の名を語り聞かせる母の声と、繋がれた手から伝わる温もりがある。
 いつだったか、母は夢見る瞳で語っていた。将来は大事な一人息子のお嫁さんと庭一面を使って本格的なガーデニングをしてみたい……。
 ニトロも彼の父も、リセの趣味を問題に思うことはなかった。
 まあ、彼女が野菜と勘違いして育てていた毒草を食べてえらい目にあったことはあるが、夫はそれを笑って許していたし、父が許すんならとりたてて息子が趣味をやめろと言えるわけもなく、とりあえずその失敗を除けば議題として家族会議にかけられることもなかった。
 ……しかし。
 最近、ニトロは母の趣味を問題に感じていた。
 その問題は母がここ一年の間に新しく得た、とっても気の合う園芸仲間に起因する。
 彼女は、豊富な知識と潤沢な資金を持ち、かつ、何よりも法律で一般人が持つことを禁じられている種であっても栽培することができる特別な人間だった。であればその趣味友達の口は時として『一般』では接することの出来ぬ経験を物語る。それは母を感動させ、興奮させ、また専門的な見地から出される助言は母を大いに喜ばせてもいた。
 そのうえ彼女はニトロが何度やんわり否定してもいくら違うと言い切っても母が息子の将来の嫁と認識している女性に仕える女執事で、つまり息子が結婚すれば間接的に息子に仕えることになる智と礼と品を兼ね備えた麗人で――そりゃあ彼女に向ける母の親しみが増大するのは至極自然な成りゆきってものだろう。
 昨日ニトロの携帯に母から送られてきたムービーメールは『明日ヴィタちゃんとお食事するのよ』と満面の笑みを添え、彼にちょっとした頭痛を覚えさせたものだった。
 このままこれ以上、母とヴィタの仲が良くなったら……
 正直、ニトロは『ニトロ・ポルカトの未来のお嫁さん』を自称する企み好きな第一王位クソ継承者に外堀を埋められているような気がしてならなかった。まさかあのバカ、これまでも計算して植物に造詣ある人物を執事にした、なんてことはあるまいな?
「ニトロ、聞いてるの?」
 彼の部屋の壁に掛かるテレビモニターには暖色の間接光で『大人の空間』を演出された場所が切り出され、その中心にいる中年の女性が、彼女を映す携帯電話のカメラに顔を寄せて大写しとなっていた。
 ふと思案に耽っていたニトロはそれに気づいて少しぎょっとしながら、
「聞いてるよ」
 女性は満足げにうなずき身を引いた。やや丸みを帯び、実年齢より若く人に見られるその相貌は赤らんでいる。それは食事の際に口にしたアルコールによるせいではなく、彼女――リセ・ポルカトが、思いがけなくもたらされた『幸運』に歓喜し興奮しているためだった。
「話は解ったけどさ、それ、ヴィタさんと行けばいいんじゃないの? そっちの方が何かと都合もいいだろうし」
「ヴィタちゃんはこの後用事があるんだって」
 カメラが動き、シックな服を上品に着こなす母の園芸仲間がモニターに映った。カメラを向けられた彼女はグラスから唇を離し、口に含んでいたはずの白ワインを嚥下した様子も見せず、マリンブルーの宝石を煌めかせる双眸を細めて軽く会釈をしてみせた。
 画面越しにニトロが「何を企んでいる?」と睨みつけるが、彼女は平然としてただ微笑を返すだけ。そのうちに再びカメラが動き、気分上々の母が画面に戻ってきた。
 ニトロは気を取り直そうと一つ息をつき、
「父さんは?」
「今日は夜勤って言わなかったっけ?」
「それは今聞いた」
「そうだっけ」
「そうだよ」
 両親は、揃って同じジスカルラ第9区役所に勤めている。アデムメデスの市区町村単位の役所は、よほどの過疎地を除いて平日二十四時間営業、八時間勤務の三交代制だ。9時―17時を日勤、17時―翌1時を夜勤とし、1時―9時が深夜勤。職員の希望によってそのいずれかを選び、それで各時間帯に必要な人数が確保できない場合はシフト制を取っている。
 業務をサポートする公職用のアンドロイドやA.I.がいるためそうそう無茶なシフトを組むことはないが……何にしろ、父が今現在仕事中であることに変わりはない。父がこれから母に同行するのは無理だ。
「だからこの後、よろしくね」
 リセは有無を言わさぬ調子でそう言うが、そこには威圧感や親の強制は微塵もなく、それは単純にニトロに断られることを全く想定しておらず、また息子が母のその頼みを聞かぬことはないと無頓着に信じきっているためのセリフだった。
 そして、ニトロにも――ちょっとした懸念はあるが――母の小さな頼みを聞かぬつもりはない。
「……別に……俺は構わないんだけどさ」
 だが、ベッド脇の時計を一瞥し、彼は眉根を寄せた。数値はもう22に近かった。
「こんな時間に相手は本当に迷惑じゃないの?」
「迷惑――……」
 母が顔を背け、やおら、
「ないって」
 満面の笑みをニトロに見せた。
 ニトロは内心苦笑した。
(ヴィタさんに迷惑はないって言われてもなあ……)
 実際これから会いに行く予定の人物が『夜更けに見ず知らずの人間に訪問されて迷惑じゃないのか』が問題の本質なのだが……まあ、その友人だと言うヴィタが保証するなら責任は彼女に取ってもらおう。
「分かった。じゃあ――」
 と、そこまで言って、ニトロははたと口を止めた。
「芍薬」
 ニトロの呼びかけを受け、長い黒髪をポニーテールにした、いかにも勝気そうな少女のデフォルメされた肖像シェイプがテレビモニターの隅に現れた。
「どれくらいかかるかな」
「三十分モアレバ着クヨ」
 ニトロはうなずき、母に言った。
「じゃあ、十時半くらいにそっちで」
「あ、でも、ヴィタちゃんもうそろそろ出ないといけないって」
母様ハハサマ、近クニ『ブラウンコート』ガアルカラ」
「そこで待ってればいいの?」
「御意。クーポント地図ヲ送ッテオクネ」
「うん、分かった。ありがとう」
 リセの礼に芍薬が頭を下げる。あちらの携帯電話の画面にも芍薬のその姿が映っているのだろう。彼女はにこにこと微笑み小さく手を振ってから、もう一度ニトロによろしくねと言った。
 それにニトロが了解を返すとカメラが動き、再びヴィタが画面に映り込む。彼女はニトロの母と同じように小さく手を振り、声には出さずルージュを引いた唇だけを動かして「また」と彼に告げた。
 そして――
「芍薬」
 上機嫌な母との通話を切ったニトロは、即座に芍薬に命じていた。
「ハラキリに……ハラキリが無理だったら貸し機械人形レンタドロイドでできるだけいいやつを借りるよう手配して。それからその人物が実在するか、調べてくれるかな」

 ニトロは母の話を聞いた時、ヴィタが「貴重な植物を分けてくれる」と母に紹介した『クィービィ・フーニ』が架空の人物ではないかと、まず疑っていた。
 人生における最大最強の宿敵――クレイジー・プリンセスは、現在、ニトロの住まう王都ジスカルラにはいない。
 母から連絡を受けるおよそ二時間前のこと。
 電映話ビデ-フォンを使った漫才の練習をしようと持ちかけてきた『相方』は、西方のグランロアド領にいると言っていた。珍しくいつも――「一日の終わりにあなたの顔を見ておきたい」と大抵23時頃だ――より早い時間と、王女のスケジュールにない滞在場所に首を傾げていると、これから地元の高校生主催のチャリティーパーティーに飛び入りで参加するのだと言う。
 そして、ヴィタはお母様と会うから置いてきた。ヴィタもお母様と食事をするのを楽しみにしていたしね……と。
 まあ、その言い分には筋が通っていた。
 サプライズ過ぎるゲストの登場にひっくり返るだろうパーティー会場を袖にして『面白好き』のヴィタがこちらに残っている不自然も、『第一ターゲットのニトロの母』を最優先にしたとなれば何の疑問もない。
 しかし、だからこそ、筋が通り何の疑問の持つ余地もないからこそ、余計に怪しかった。
 今となって思えば、あれは最凶の肉食ボケ痴女が遠くにいることでこちらを安心させて心に隙を作るための布石だったのではないか?
 事あるごとに悪巧みを仕掛けてくるバカ王女と女執事のこと。
 彼女らがいくら家族やハラキリ以外の友人を巻き込む『企み』を仕掛けてくることは滅多にないとしても、今回ばかりは意表を突き、母を利用しその息子を誘い出そうとしていることは十分に考えられる。誘い出した獲物を檻に閉じ込めサプライズ過ぎるゲスト第二段にしようと企てている、なんてことも……十二分に。
 そのため、ニトロは芍薬の調査で『クィービィ・フーニ』が実在しないと判明したならば、待ち合わせ場所で母を拾って即座に帰宅するつもりだった。それで母に文句を言われ残念がられても何とかなだめ、譲り受ける手筈の植物はハラキリを何とか拝み倒して別ルートで手に入れてもらえばいいと。
 ――だが、芍薬が集めた情報を慎重に精査して出した結論は、『実在』だった。
 それを聞いた時、ニトロは自分が意外にも落胆していないことに驚いていた。
 もし『クィービィ・フーニ』が架空の人物であれば、母を拾った後は即帰宅という最も安全な選択肢を取ることができたというのに……疑いを挟む余地などない芍薬の答えが、あるいは母を連れて罠の中に自ら飛び込む愚行をしなければならないと決定づける根拠となってしまったのに。ニトロは、自分でも驚くほどその結論を自然と受け入れていた。
 心のどこかで解っていたのだろう。
 そもそもそんな解りやすい罠を奴らが仕掛けてくることはないことを。
 そんな、調べればすぐに判るような『餌』をあの悪女共が用意などしないことを。
 とはいえ、
「だからといって、そう決め付けていたら――」
「フトシタ拍子ニ足ヲスクワレル」
 リセ・ポルカトが待つ場所へ車を走らせるオリジナルA.I.の声が、マスターの言葉を受け継ぎ悪態をつくように車載スピーカーを揺らした。道路地図が表示されたダッシュボードのモニターにA.I.の肖像シェイプは表示されていないが、それを見ずともニトロの眼には口の端を険悪に歪めて肩をすくめる芍薬の姿が鮮明に映った。
「イチイチ油断ナラナイ奴ラダカラネ」
「ん、まったく」
 嘆息混じりに肩をすくめて同意を返し、ニトロはちらと助手席を一瞥した。
 数分後に母が座るその席には今、小型のアンドロイドが座っている。身の丈90cm。見慣れぬ民族衣装に、見る者の警戒心をほぐす穏やかで愛らしい顔。良く手入れされ艶めく人工毛髪は立ち上がれば腰まで流れ落ち、遠い遠い辺境の地で『イチマツ』と呼ばれる人形を模ったそれは背をシートにもたれて脚を投げ出し、電源の落ち閉じた目を直線に切り揃えられた前髪に隠すようにうなだれている。
 そのイチマツは、道すがら落ち合ったハラキリ・ジジから学食二週間分を奢ることを条件に借り受けた、彼が所有するアンドロイドの中でも最高峰に位置するものだった。
 三歳児ほどの小さな体にも関わらず内部には実に様々な装置や武器が埋め込まれていて、暴漢に対するセキュリティロボットとしてはもちろん、およそニトロが思いつく限りの危険に対応するだけの能力を有している。
 無論あちらが思いつく限りの範囲を超え、常識外の攻撃を仕掛けてきたらこの一体だけでは足りないだろうが……まさか母を巻き込んでまでそれほどのことを仕掛けてきはすまい。
 その点だけは、信頼できる敵だ。
「全く今回は何するつもりなんだか……。
 これがただの善意か、母さんの好感を上げたいだけってんならいいんだけど」
 つぶやき、はたとニトロは首を振った。
「いや、そっちの方が面倒か」
母様ハハサマ、主様ガバカノコトヲ好キダッテ本気デ思イコンジャッテルモンネ」
「なぜか、ね。それにしても、何度違うって言っても母さんはなんで『照れ隠し』だと思うんだろうな」
「ソリャ、バカトヴィタガ余計ナコト吹キ込ミ続ケテルカラジャナイカイ? 今日ミタイナ時ニサ」
「……なんとなく、母さんを巻き込んでおかしなことを仕掛けてくれないかな? なんて思ったよ」
「ソウシテクレタラ、イクラナンデモ母様モ考エヲ改メテクレルダロウニネ」
 ――と、ふいにダッシュボードに左の方向指示器を点けたことを示すランプが灯った。カチカチと一定のリズムで刻まれる音と共に速度計の値が見る間に減っていく。前方には母がいるであろうコーヒーチェーンの看板があり、左方には不規則に埋まる駐車スペースがあった。芍薬は二台分空いていた駐車スペースの一方に車体を滑り込ませると静かに止まり、ライトを消すと同時にエンジンを切った。
 ダッシュボードのモニターに映っていた道路地図が消え、ここの管理システムが提供してきた情報が表示される。駐車時間十五分未満は無料、以降十五分毎に50リェンを加算と簡素に告げ、只今ただいまからカウントアップが始まった。
「迎エニ行ッテクルネ」
 その声は、車載スピーカーを通したものではなかった。音もなく起動していた助手席のイチマツが立ち上がり、ニトロに黒い瞳を向けていた。
「うん、よろしく」
 イチマツは頭を下げると、助手席の窓を開けてぴょんと外へ飛び出て行った。窓は自動的に閉まり、耳触りの好いインストゥルメンタルがカーステレオから流れ出す。
 芍薬がイチマツの側から車のシステムに干渉し、操作したのだ。
 小走りで『ブラウンコート』に向かうイチマツを、すれ違った男女が驚いたように、それとも興味を引かれたように見つめている。その気持ちをニトロはよく解った。今ではもう慣れ切ってしまったが、あのキモノという民族衣装は目を奪う。カラフルな色彩、エキゾチックなデザイン。それをイチマツ人形という見知らぬ姿をしたアンドロイドが纏って道を走っていれば、目と心を引かれぬはずはない。
 イチマツが入っていった、アデムメデス中に支店を持つコーヒーチェーンの『ブラウンコート』。
 その名に沿い焦げ茶のシャツと薄茶のエプロンをユニフォームとした店員は、現れた珍客にどんな反応をしているだろうか。
(目を丸くするかな。きっと)
 やはり、驚きと興味が背中合わせとなった感情のために。
 それから時を置かずブラウンコートから一人の女性が出てきた。軽やかな足取りで、ふわりとしたミディアムボブの黒髪を揺らして小さなアンドロイドと手を繋ぎ、まさか幼子おさなごのように手を引かれるとは思いもしなかったのだろう精巧な表情を生み出せる顔にどんな感情を刻めばいいのか戸惑っている様子の『芍薬イチマツ』とこちらへ歩いてくる。
 母だ。
 その背後でブラウンコートのユニフォームを着た女性が店内から少しだけ顔を覗かせ、店内に戻っていく。やはり物珍しいアンドロイドが気になったらしい。
(……そういや、目立つのはよろしくないか)
 今日は目的地に大勢の人はないからいいが、今後ハラキリにこのイチマツを借りることがあれば、あのキモノを別の服に変えてもらわねばならないなとニトロは思った。親友が口にしていたように、自分も最近、目立つのは好きじゃない。
 母はいつもより足早に歩を進めていて、彼女が車の脇まで来ると助手席のドアが自動的に開いた。
「待った?」
「いやいや、それはこっちのセリフだよ」
「お母さんは待ってないわ。ヴィタちゃんがくれたムービー観てたから、あっという間」
「うん、でもそれでも待っていたことには変わりないんじゃないかな」
 助手席に座ったリセはいそいそとシートベルトを引き、いつでも発車オーライだと身を固定していた。息子のツッコミは華麗にスルー……というよりもはや聞いちゃいない。肩にかけていたショルダーポーチを膝に置き、発進は今かまだかとまっすぐ前を見つめている。
 ニトロはイチマツが後部座席に座って『待機モード』に移行するのを背後に感じながら、母の言動は取り立ててたださねばならないものでもないかと話を移すことにした。
「……で」
 カーシステムが芍薬の支配下に置かれたことを示すランプがダッシュボードに灯り、ドアがロックされ、エンジンに火が入れられた。
「ヴィタさんからもらったムービーって? そんなに楽しいの?」
 ウィンカーを点け、車が道に出て行く。自分が確認する必要もないのだが何となくサイドミラーで後方を見ながらニトロが問うと、リセは嬉しそうに言った。
「観たい?」
「内容によるかな」
「ヴィタちゃん特選『世にも珍しい食虫・食獣植物の庭』。なんとかって言うくににある古城の庭に作られててね、綺麗で怖くてもう色々びっくり」
「そりゃまた悪趣味っていうか薬でもキめてから考えたんじゃないかっていうか」
「観てみたいでしょ? すごいんだから。庭師さんがトラクイグサに捕まりかけたところまで観たんだけどね、本当のアクシデントだったみたいでね? 撮影スタッフも大慌てでお母さん手に汗握っちゃった」
「……まさかそういう庭を作りたいなんて言い出さないよね」
「う〜ん、お母さんの趣味じゃないかな。綺麗だったけど」
「趣味だったら作るってかい」
「……。
 でも手入れが大変だからやっぱり作らないかな」
 少しでも作る気があることを微妙な間で示したリセに……それをしたら手入れの問題がどうこうよりも『どういう結果』になるかを考えていない母の昔から一向に変わらない――そして困ったことに愛する夫と共有している――性質にちょっとした空恐ろしさを感じて、ニトロは口の端を引き上げた。
 するとそれを微笑みと見たらしいリセが嬉々として言う。
「観たいでしょ? えっと、芍薬ちゃん映してくれる? わたしの携帯のね……」
 ニトロは母には通じなかった引きつり笑いを消して、今度はしっかり微笑んだ。
「母さん」
「なに?」
「悪いけど遠慮するよ。あ、芍薬、映さなくていいから」
 途端にリセの顔に影が差す。しかし、その反応を完璧に予測していた息子はフォローを忘れていなかった。
「それより、料理のことを聞きたい。ヴィタさんが連れてってくれた店、美味しかったんでしょ?」
 途端、ひるがえって母の顔が輝いた。
 息子の問いかけに楽しい晩餐を思い出したか、
「そうなのよ。すごく美味しかった。今度お父さんとも行きたいわ」
「それで父さんに家で作ってもらう?」
「もちろんっ」
 頬を緩ませ満面の笑みでうなずき、そしてリセは勢いよく淀みなく料理のこと、そして気が置けない園芸仲間と話したことを語り出した。

 クィービィ・フーニが待つ私立コーゼルト学園高等部までの道中、ニトロは思いがけなく忍耐を試されることとなった。
 母の楽しんだ食事は、コースを彩る皿のどれもが絶品だったらしい。作るより食べる方が得意なリセのどうにも要領を得ない説明ではその全貌を脳裡に描くことはできなかったが、とにかく美味しかったと語る母の幸せな感想だけで、ニトロは聞いていて楽しかった。
 だが、その直後だった。
 看過できない事実が母の言葉の中に姿を現し始めたのは。
 ニトロがいくらぐらいのコースを食べたのかを問うと、リセはのほほんと「知らない」と言った。
 どういうことかと訊けば、食事含めて『未来の娘』からのプレゼントだったらしい。今夜の、ヴィタとの食事は。だから店はすでに注文を受けていてメニューを見る必要はなかったし、当然支払いの金額を知らされることもなかったと。
 さらに、これから向かう先で母が目的の植物をもらえるようヴィタが手配してくれたのも本を正せばティディアの提案で――チクショウ、やられた――案の定、母のあのバカに対する好感はさらに急上昇。
 途中からしばらくリセがこれから育てようとしている野菜を美味しく実らせるためにヴィタがくれたアドバイスや特に内容もない世間話のことが続いたが、次第に話は雲行きを怪しくし、やがて……いや、ついに! 母はそれこそが一番肝心だとばかりに、ヴィタから受けた彼女の主がどんなに息子のことを愛しているかの報告を嬉々として、しかも無邪気に、とても笑顔で朗々と! 息子とそのA.I.に語り聞かせた。
 ニトロは――ヴィタとの夕食のことを話すよう振ったのは自分だったとはいえ、微笑みを保ちその話に相槌を打ち続けねばならないのは一体何の拷問だと自問せざるを得なかった。
 母から伝えられる宿敵の想念。
 素晴らしく甘さ大誇張で告げられる恋心。
 実体とは正反対に変換された王女と少年の恋愛模様。
 『あんなに愛されるなんて幸せね、ニトロ。大事にしてあげるのよ?』なんて真剣な顔で言われた時には……もう……もう!
 これまでに起こった、両親にも話していない、というか話すわけにはいかない『事件』を洗いざらい吐き出し「で、ありますから私ことニトロ・ポルカトはティディアなんかちっとも愛していないのです!」と断言したくて堪らなくなった。
 もし……その時、芍薬が言葉を挟んでくれていなかったら、その衝動に口を割っていたかもしれない。芍薬には心から感謝した。本当に危なかったと思う。それを話してしまえば、それを聞いたことで母にも『重大な秘密』を背負わせてしまっていたのかもしれないのだから。
 一応、気を落ち着けた後、頃合を見計らって例のごとく「本当は付き合ってないんだって」と言ってはみたが、母はやっぱり聞く耳持ってくれやしなかったし。
 ニトロは、改めて思ったものだ。
(やっぱり園芸仲間ヴィタさんの存在をこのまま放置しているのは危険だ)
 ――と。
(だけど付き合いやめろなんて言えるわけもねぇし、言ったところでそんな注文を母さんが聞くわけないだろうしなあ……。
 いっそ、友達は選びなさいとでも言うか?
 いやいやそんなセリフは言っていいものなのか。
 子どもが親に言われたら反発必至。言われたことないけど、もし言われたらきっと俺も反発するさ。こうなったからにはそう言う親の気持ちも理解せざるを得ないのは正直なところだけど、それでも交友関係には特殊な事情がない限り個々人の自由意志が尊重され、かつ他者との関わりは一個の人格の形成において重要な――)
 ニトロが<母の母に全く害はないが自分には全く迷惑かけてくれやがる困った知人との交友をどうするべきか。しかも二人わりと仲良し>という難題について現実逃避にも似た思索を開始した頃、ふいに母が口を止め、一点を指差した。
「あれじゃないっ?」
 ニトロがリセと合流したブラウンコートは最寄りのインターチェンジから網状王都高速ネット・ハイ・ウェイに乗り、親子それぞれの自宅方面とは逆の方向へ進むこと十五分。
 王都の中でも五本指に入る高級住宅街があることで知られる3地区ハイガタリアの、その外れに位置する街道を走るニトロの愛車の右前方――中央分離帯で区切られた反対車線に面し、広い敷地を持つ建造物群の影が、厚みを増していく夜の帳の中でひっそりとしてそこにあった。
「ソウダヨ」
 リセの歓声に芍薬が応える。
「フーニ先生は?」
「チョット待ッテネ。今、学校ノ管理システムニ応答カケテルカラ。
 ……――『お待ちしてました』ッテ。通用門デ待ッテルソウダヨ」
 芍薬がそう言うや右折を示すウィンカーが点灯した。このまま直進して街道に面するコーゼルト学園高等部の正門へ向かうことなく、目前の交差点を右折し、ともすると学園から離れていくように脇道へ車を進ませる。
 リセは一瞬何かを言おうとしたが、すぐに乗り出しかけた身をシートに沈めた。
 芍薬が粗悪な判断をすることはないと解っているのだ。
 先まで走っていた街道に比べて格段に街灯の少ない道を車は進み、ほどなく左折した車の前に一際明るい白色に照らし上げられた門がぼんやりと浮かび上がった。
 レンガ然と造られた強化セラミックの塀の一部を切り取って作られたそこに嵌め込まれているのは鋼鉄の柵。簡素だが一目見るだけで強固だと解る門扉の隙間から警備員の詰所が見え、そこから警備アンドロイドが一体じっとこちらに双眸の奥から電光を差し向けていた。
 芍薬が車を通用門の直前まで進ませると、鋼鉄の柵がゆっくりとスライドし始めた。
 警備アンドロイドはもう人工眼球の光を消している。詰所の傍らに女性が一人歩み寄ってきているのが見えた。彼女は太腿まで裾が垂れる上着をはおっていた。カーライトを反射して白々と輝くそれは、きっと白衣だろう。
「あの人かしら」
「そうじゃないかな」
 女性の姿を遠目に窺うリセにニトロが言う。
 芍薬は詰所の横まで車を進めて停め、ドアのロックを解除した。
「駐車場ニ入レテクルヨ。ソレマデイチマツハ自動オートデツイテイカセルカラ」
「分かった」
 芍薬にうなずきを返しシートベルトを外した息子を見て、リセがあたふたとシートベルトを外す。嬉しさ余って気が浮ついている母に落ち着きなよと苦笑しながらニトロが車を降りると、続いてリセが車を降り、最後に芍薬から命令を受けた汎用A.I.の動かすイチマツが車を降りた。
 イチマツはすぐに何か事が起きてもマスターの母親を守れるようリセに寄り添った。学園の管理システムの案内を受けて駐車場へと向かう車と入れ替わるように近づいてきた女性がニトロとリセに小さく頭を下げ、
「初めまして、クィービィ・フーニです。ヴィタから話は聞きました」
 ハスキーな声だった。
 イチマツと手をつなぎながら、リセが辞儀を返す。
「こちらこそ初めまして、フーニ先生。こんな夜遅くに我がままを聞いてもらって、本当にありがとうございます」
「いえ、ちょうど都合が良かったので」
 詰所の灯りの下で挨拶を交わす母とクィービィ・フーニの傍らで、ニトロは『クィービィ・フーニ』の外見は芍薬の集めてきた情報通りだと内心うなずいていた。
まるで別人を出してくる、ってのはなかったな)
 ニトロは早くも打ち解け出したリセとフーニに歩み寄り、
「こんばんは」
 意識をこちらに向けてきたフーニに頭を下げた。
「こんばんは、ニトロ君」
 リセとの会話を中断し、フーニも会釈を返してくる。
(……さすがにいきなり正体を現すこともない、か)
 ニトロは、彼女が『バカ姫の手駒』である可能性を当然捨ててはいなかった。彼はヴィタの園芸仲間だという若い教師を正面にし、改めて、素早く、彼女の印象を注意深く探った。
 クィービィ・フーニ。
 25歳。北副王都ノスカルラ出身。国立ジスカルラ大学理学部生物学科を優秀な成績で卒業、同大学にて教育職員免許状を取得。一身上の都合により退職した前任の生物学教師の推薦を受け、一昨年、私立コーゼルト学園高等部の生物学教師として着任。経験の浅い教師ではあるが、歳が近いこともあって相談を持ちかける生徒も多く男女問わず人気がある。ただし授業は厳しく、生物学を選択履修した生徒の学力を上げる一方で、赤点を食らわされる生徒の数までをも増やした鬼教師。
 背はニトロより拳一つ分低く見えるが、彼女は少し姿勢が悪いため、しゃんと背筋を伸ばし彼と並んだならば本来両者の間には目の縦幅分の差ほどしかないだろう。
 顔を合わせてまず目を引くのは、ライトグリーンの瞳だ。
 学校のWebサイトの教師のプロフィールで写真を見た時もそれはニトロに強い印象を残したが、実際に目の当たりにするとその新緑の眼が心を惹く力は思うより強い。また彼女は眼も大きく、美しい瞳に大きな目とくればそれは素晴らしいチャームポイントになりそうなのに、しかし瞼が半ば落ちているため彼女の目つきは悪く見え、それは瞳の魅力を引き立てるどころか残念なほど削ってしまっていた。
 痩せ型で頬骨の浮いて見える顔にはこれといった愛想もないため人当たりの良い人物という印象はないが、かといって心まで無愛想というわけではなく、こちらのことを歓迎していることは雰囲気からはっきりと窺い知れた。
 赤い髪はおそらく長く、ちょうど眼の真後ろで纏め上げられ、そこで雑に――それとも意図的に爆発させられている。
 それなのに側頭の髪は一本たりとも耳にかかからぬようきっちり整えられていて、よほど自信があるのかくっきりと露にされた耳は確かに形が良く、その両の耳朶じだでは小さな水晶を戴くピアスが柔らかに輝いていた。
 白衣の下には黒いフロントフリルのシャツにブーツカットジーンズといった出で立ち。足下は、校内用なのだろうヒールの低いミュールで固めている。
 一見ずぼらなのか確固とした独自のファッションを持っている人物なのか判別しがたいが、全体的に見ると妙に調和しているから不思議なものだ。その点を考えれば、この姿こそが彼女の人となりを見事に表しているのかもしれないと、ニトロはそう思った。
 ――つまり、癖のある人物だ、と。
 ヴィタの知り合いとして実に相応しい。
「良かったら、後で一緒に写真を撮ってくれないかな。ガキどもに自慢したいんだ」
(……また、口が悪く、豪快な性格から一部の生徒には嫌われている。か)
 芍薬のレポートの一文を思い出し、笑いそうになるのをニトロは何とか堪えた。私立コーゼルト学園は貴族や資産家の子息も多く通う名門校だ。中には初めて『ガキ』と言われた者もいるかもしれない。
「ええ、それくらいならいくらでも。ご迷惑をおかけしていますから」
「迷惑じゃないってフーニ先生も言ってるわよ?」
 リセが心外だと抗議を上げる。
「そりゃ本人はそう言ってもさ――」
 反射的にニトロが言い返そうとした時、
「本当に迷惑じゃない」
 口を止められたニトロが振り返ると、フーニは片笑みを浮かべてみせた。
「ちょうどいい暇潰しの相手が出来て、わたしも都合が良かったんだ」
「どういうことです?」
 ニトロは相手に悟られぬよう体の芯で身構えた。『暇潰し』とは少々嫌な響きがある。
 しかしフーニはニトロの気など知らぬとばかりに肩をすくめ、
「ここんところ、フラレっぱなしでね」
 それが何のことを言っているのか解らぬニトロを焦らすように、彼女は踵を返した。
「さ、行こうか。約束のものを渡すよ」

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