「オカエリ、主様」
トレーニングから帰ってきた主は疲労困憊の様子だった。
「ただいま」
声も疲れを隠さず、億劫そうにジョギングシューズを脱ぐと部屋履きに足を突っ込み、よたついた足取りでバスルームに向かっていく。
「…………」
それを芍薬は黙って見つめていた。
今日もニトロは走ってジムに行った。とにかくティディアから逃げるために持久力が必要だ、と。
しかし、芍薬は、『狂騎士』と呼ばれ出したティディア・マニアの存在もあるから、できるだけ車で行ってほしいと思っていた。
いや、今もそう思っている。
だがニトロの努力を見てきているから、それを止めることは自分にはできない。できるのは、その手伝いだけだ。
芍薬は
曇りガラスの向こうでは緩慢な動きでニトロが汗を流していた。部屋着をバスタオルの脇に置き、タオルは洗濯機に放り込む。
トレーニングウェアの上下を持ち帰ってハンガーを通し、それを空調の風がよく当たる場所に置いたハンガーラックに掛けてスポーツバッグもその下に置く。
それからニトロが出てくるのを待ち、髪を乾かして彼が出てきた後、脱衣カゴの中にあるシャツや下着をバスタオルと一緒に洗濯機に放り込み、早速洗濯機を操作して洗浄を開始する。
シャワーを浴びたことで気分がいくらか優れたか、熱に上気した顔色には爽快さがあった。
「芍薬」
壁掛けのテレビに顔を向け、ニトロが言った。
「今日、『映画』の特集番組があったろ?」
「御意」
「録画してる?」
「御意」
ティディアやあのバカに関係する情報は、情報戦で遅れを取らぬよう収集している。特に重要そうな情報はニトロにも知らせておく必要があるから、当然『映画』の特集番組も録画してあった。
「見せて」
「エ?」
芍薬は、ニトロの言葉に驚いた。
「見ルノカイ? チャント『要約』シテオイタケド……」
録画した番組は、それを見てニトロが必要以上に嫌な思いをしなくてもいいよう編集している。時に映像のダイジェストで、時にテキストで。今日もそうやって彼に情報を伝えようと思っていた芍薬は戸惑った。
編集前のデータも、バックアップに残してはいるが……
「『要約』はありがとう。でも、たまには自分で全部見ておくよ」
「御意……」
芍薬の歯切れの悪い返事にニトロは苦笑すると、体を起こして
「そう気を遣わなくていいよ。最近、『映画』も悪いことばかりじゃなかったなーって、思ってるから」
「ソウナノカイ?」
テレビの電源を点け、録画した番組を映しながら芍薬は聞き返した。
「ああ」
「ティディアに絡まれてるのと、有名になっちゃったのはやっぱり悪いことだけどさ」
ドリンクを一口飲んで息をつき、続ける。
「ハラキリと知り合えたし、撫子に、韋駄天にも」
テレビには『超絶大ヒット!』と叫ぶナレーションの煽りと共に、『映画』のダイジェストがオープニングと流れている。それを観るニトロの眼は、不思議と落ち着いていた。
「それに」
「ウン」
芍薬の相槌に、ニトロはぼんやりテレビを見続けながら――それはまるで親しい人に挨拶をするように当然と、一つの迷いもない口振りで言った。
「芍薬がうちに来てくれたし」
「……」
ニトロは、ドリンクを片手にテレビを見続けていた。
ただこちらが言葉を受け止めただけとでも思っているのだろうA.I.が黙したことを気にかけず、それどころか己がA.I.にかけた言葉の影響を全く考えていない様子で、特集番組冒頭の王女のインタビューに半笑いを浮かべている。
実際、マスターは自分の言葉が、どれだけ
だが、それだからこそ嬉しかった。
喜ばせようとして口にした言葉ではない、飾りの一つもない言葉だからこそ。
あの『映画』のマイナスをすら埋めることに自分も数えてくれている。自分が、貴方のA.I.になったことを。
その気持ちが。
(♪――♪♪♪――♪!♪!)
芍薬はマスターが知ることのないA.I.スペースの中で、言葉にならない歓声を上げ飛び回っていた。
終