後日譚

 忌まわしい日課である電映話ビデ-フォンを使ったティディアとの漫才のネタ合わせを終えた後、芍薬が淹れてくれるハーブティーを飲みながら、芍薬とのんびり話して心身をほぐすことがニトロの習慣となっていた。
「……アノサ」
 そしてリラックスタイムも過ぎ、さてもう寝ようとベッドに向かったところで躊躇いがちに声をかけられ、ニトロは足を止めた。
「マダ、メルトンガ知ッテテあたしガ知ラナイコト、アルヨネ」
 それが何のことなのか、芍薬が何を思ってそう言うのかが分からずニトロは首を傾げ――すぐに芍薬がそんなことを言い出した理由に思い当たって苦笑した。
「何だ。もしかして、ずっと気にしてた?」
 ティディアに絡まれ、ハラキリの嫌がらせ的な親切心のお陰で話すはめになった『初恋』の話。その時芍薬は、メルトンは知っているのに自分は知らないというコンプレックスを突かれて後手を踏んでいた。
 あれからもう、三日が経っている。
 さばさばとした芍薬にしては随分間を置いたものだと思うが、あの日帰ってからも「御免ヨ」と味方になり切れなかったことを気にしていたから、それを引け目に切り出せなかったのだろう。
 問いかけの言葉を思えば、メルトンに負けている部分があることが許せないのだとも察する。とすると、そうであるからこそ、自分の満足のためにその質問をすることでマスターに嫌な顔をさせたら――とも、逡巡していたのかもしれない。
 芍薬のことだから、きっとそうだ。
「……御意」
 ややあって返ってきた気恥ずかしげな肯定に、ニトロは目を細めた。踵を返し、テーブルに戻る。
「また淹れてくれる?」
「承諾」
 芍薬が淹れてくれるハーブティーは美味しい。初めは試行錯誤もあったが今では好みの味の加減を把握して、飽きが来ないよう日によって、それとも体調によって種類も考えて出してくれる。これまではドライハーブを使っていたが、最近ではハーブティーを飲んでいると知った母が自分で育てたハーブを持ってきてくれたので、フレッシュでも楽しめている。
 早速サーバーで保温されていた湯が再沸騰され始めた音と、ベランダに置いてあるスペアミントの小鉢から必要だけ葉を千切りキッチンへ向かう多目的掃除機マルチクリーナーの車輪の音を聞きながら、ニトロは芍薬のカメラに顔を向けた。
「それじゃあ、何から話そうか」
 芍薬とはこれまで色々話してきている。さすがにこれまでの人生全てを語り聞かせることは不可能だが、思い出話はたくさんしてきた。だが、その中でもスポット的に話してないことがある。芍薬に聞かれたくないわけではない。単純に、それを話すこと自体が照れ臭い話。催促されなければ自分からは話し出さないから知らずと秘め隠していたもの。
「何デモイインダ」
 芍薬はそう言った後、すぐに言い直した。
「メルトンニ『ソンナコトモ知ラネェノカ』ッテ言ワレナイノガイイナ」
 実にメルトンが言いそうなことだと、ニトロは笑った。
 いや、もしかしたら事あるごとにそう自慢されているのかもしれない。
「……それじゃあ、メルトンが絶対に触れようとしない話をしようか」
「ソンナ話ガアルノカイ?」
「まあね」
 うなずき、ニトロは頭の後ろで手を組んだ。
本当の意味での、初恋の話かな」
 しゅんしゅんと蒸気の噴き出す音が聞こえる。茶器が用意される音。茶器を扱う音が奏でられている。
 ニトロはそれを心地良く聞いていた。
 しばしこれから話す思い出に耽るように沈黙し、
「中二の時、同じ小学校だった女子と同じクラスになったんだ」
 やおら、懐かしさを口に含んで、緩やかに言った。
「その子とは小学の最後の学年で同じクラスで、そこそこ話してたんだ。中学に入ってからはクラスが変わって話したことはなかったけど、同じクラスになってまた話すようになった」
 消えていた壁掛けのテレビモニターに芍薬の肖像シェイプが映った。
「話すようになって、仲良くなって、その時には一年間見ていなかっただけでお互いに身長も伸びて体つきも随分変わってて。あっちから『身長伸びたね』って背比べみたいに並んで言われた時……」
 ニトロの口元に、面映そうな笑みが浮かんだ。
「どきっとしちゃってさ。小学校の時は全く意識してなかったのに、それから何だか段々気になっていったんだ」
 芍薬が顎を引き、相槌を打つ。
「行事なんかでも一緒のチームになって、触れ合うことも多かったな。それでそのまま自然と、気になるその子を好きになった」
「告白トカ、シタノカイ?」
「できなかった」
「デキナカッタ?」
 ニトロはハラキリに『ニトロ君はシャイだから』と言われたことを思い出して、内心で苦笑した。当たりだ、彼は鋭い。
「『好きだ』って言うのが恥ずかしかったり、ふられたら嫌だと躊躇ったり、ふられた後はどう付き合えばいいんだろうって悩んだり、その前にどうやって告白すればいいんだって迷ったり……うじうじとね」
 芍薬は神妙な顔で聞いている。
 ニトロは頭の後ろで組んでいた手を解き、テーブルに両肘を突いてぱっと手を広げた。
「そうこうしているうちに彼女が入っていた部活の先輩と付き合い出して、俺は失恋」
「……辛カッタカイ?」
「辛いって言うより、情けなかったな。告白しておけば良かったって」
 そっとティーカップが差し出された。独り暮らしを始めるにあたって母が用意してくれた上等のカップから、儚い湯気と共にミントの香りが立ち昇っている。
 ニトロは一口、爽やかな香りで喉を潤した。
 ミントの香りに混じる甘苦く胸を締め付ける思い出に、穏やかにため息をつく。
「告白してりゃオーケーもらえたなんて保障はないし、友達以上には思われてなかったからふられてたと思うけどさ。でもどうせだったら告白してすっぱり終わりたかった……って、まあ、思ったところで遅すぎたけど」
「ソノ子ハソレカラ?」
「三年になったら違うクラスになって、高校も違うところに行った。その先輩と同じ高校に行ったんじゃなかったかな」
「…………モシカシテ、ダケド。ソノ子ノファミリーネーム、『フォーロブ』カイ?」
 ニトロは、驚き、おずおずと腫れ物に触れるような顔の芍薬を見つめた。
「当たり。よく分かったね」
 芍薬がうつむく。まずいことを聞いたと今さら思ったように。
「ソリャア、記憶ログト符号スルコトモ多イシ……ソレニアノ時、主様、少シダケイツモト様子ガ違ッタカラ」
「印象に残ってたんだ」
「御意」
「どうしてか聞けば良かったのに」
「聞イチャ駄目ダナ、ッテ思ッタンダ」
 ニトロは芍薬の気遣いを今さら知った。悪かったなと思い、ばつが悪そうに顔を伏せ続ける芍薬の姿に少し微笑む。
 『フォーロブ』のことを芍薬が知っているのは、あれはいつ頃だったか……確か『ウェジィ』での一件の後だったと思うが、彼女がムービーメールを送ってきたことがあるからだ。
 フォーロブは自分が『ニトロ・ポルカト』に想いを寄せられていたことを誰かから聞いたのだろう。思い当たる節がないわけではない。その時仲の良かった連中が恋愛話をしていた際、突然お前はと問われてぽろりとこぼしたことがある。それがどういうルートだか彼女に伝わり……。
 そのムービーメールで彼女は、ニトロの気を引こうとした。
 それを知ったニトロは、過去の想い人が寄越してきたメール内容にショックを受けるよりも、いい度胸をしているなと感心したものだった。
 それは――『ニトロ・ポルカト』を誘惑しようという類の行為は、つまり、ニトロが恋人だと言い張るあのバカを、あの『クレイジー・プリンセス』を敵に回すことと同意でもあるから。
 いつかハラキリは言っていた。
『一応ニトロ君は次期女王の夫と思われているんですから、君をモノにできれば次期王の愛人です。そうなれば素晴らしい恩恵を期待できます。リスクを鑑みず突っ走ってくる方もいるでしょう。まあ男女問わず、古来より異性のために身を持ち崩す者は山といますので、お気をつけを』
 すでに異性ティディアのために身が持ち崩れているような気がしないでもなかったが、彼の言う通り、宝箱を目指してクレイジー・プリンセスという恐怖の断崖絶壁をも登ってこようとする者はいた。
 そのほとんどは男女問わず『わが社の』なり『うちの団体の』というものばかりだったが、中にはたま〜に、堂々と言い寄ってくる女性も確かにいた。
[ニトロ君がティディア姫の恋人になったって知った時は驚いたよ]
 懐かしい友人にメールを送るだけにしては不相応なほどメイクをバッチリ決めた彼女の姿が目に蘇る。
[すっごくカッコよくなったね。どきどきしちゃった]
 『ティディアの恋人』になってから周囲に現れ出した『媚び』が、彼女の眼底に輝いていた。
 はっきりと誰かからニトロが自分に想いを寄せていたと聞いたとは言わなかったが、話題は当時の想いを一生懸命呼び起こさせようとしている意図がありありと分かるもので、久しぶりに友人に送る話の流れとしては無理があったものだ。
 少なくとも『覚えてる?』と中学二年でまた同じクラスになったことを口にして、次に突然『運命的だよね』と振るのは、いくら仲が良かったとはいえただのクラスメートだった男子に対するものではないだろう。
[わたしさ、彼とは別れちゃったんだ。今はフリーで退屈してる]
 将来に向けて種をまいておこうとしているのか。
 それとも、あわよくばすぐにでも二番目を狙っているのか。
 前者ならばなかなか策略を心得ていそうだ。後者なら、怖いもの知らずか、それとも考え足らずか。
 そんなことを思いながらムービーを見ていてニトロは、ふいに気づいたものだった。
 思えば、彼女の声も、顔も、姿も、その仕草も、ただ懐かしいと思うばかりで愛しさは感じない。恋心は思い出の中で静かに笑っている――と。
 そして濃密で様々な経験をしてきた現在のニトロ・ポルカトは、彼女に幻滅していないと言えば嘘になるが、ただそれに受けるショックよりも『寂しさ』を強く覚え、また『そうなってしまったこと』を自然に受け止めている――と。
 そんな自分がおかしくて。
 奇妙な感慨まで感じて。
 ……そして同時に、思い出に甘噛みされる心地の中で、知った
「気にしなくていいよ」
 古傷を抉る話題を蒸し返してしまったと、いつまでも顔を上げない芍薬にニトロは穏やかに言った。
 ハーブティーを口にすると、清涼感が吹き抜けていく。
 ミントの香りに包まれながら、続ける。
「あのお陰で分かったんだ」
 芍薬は言葉を待つ。ニトロはカップを置き、軽く腕を組んだ。
「恋愛感情……っていう意味ではちゃんと決着はついてたんだ。彼氏と一緒に歩く彼女が心底嬉しそうだったから、そこでちゃんと。
 だけど『恋』って意味じゃ煮え切らなかったから、ふと思い出す度に情けなくてたまらなかった。そしてその度に、もしそのことをまだ心のどこかで引きずってなんかいたりしたら、また情けないなあって思っていた」
 芍薬が相槌にうなずく。
「でも、大丈夫だった。
 彼女がメールを送ってきたって聞いた時、まさかこっちの気を引こうとする内容だったらショックだなって緊張してたんだけどさ、まあショックって言ったらショックなんだけど、それは好きな人に裏切られたっていう感じじゃなくて、他のそうなっちゃった友達と同じで、それ以上でも以下でもなかった。
 こういうことは相変わらず慣れなくて寂しいけどね。それでも他のそういう時と一緒で、もう仕方がないなぁって思った。昔好きだった人だから寂しさはそれだけ強かったけど、でもそれだけで、『特別』じゃなかった。
 それで、ああ『恋』もちゃんと決着ついてたんだって、確かめられたんだよ。だからあのメールは、送ってもらえてむしろ良かったくらいなんだ」
 そう言っちゃうと相手にしてみりゃ身勝手で失礼な話かもしれないけどね、と付け加えて、ニトロは笑った。
 その笑顔に、芍薬はメモリに溢れる切なさを止められなかった。
(主様……)
 我が主は何という顔をするのだ。
 それはおよそ十七の少年の微笑ではない。
 これが哀愁というやつなのだろうか。
 幾多の苦難を味わってきながら、しかしそれに折れることなく、それらに耐えられるだけ己を鍛え上げ突き進んできた人間の風合い。
 嗚呼、あのバカにかけられた心労が、あのバカに関わってからの気苦労が、その笑顔の裏に透き見えてならない。
「それで、さっきも言ったけどさ」
 ニトロは随分明るい笑顔で言った。
 それはまるで芍薬が切ない思いを寄せていると気づいていて、それを拭い去ろうとするかのような笑みだった。
 彼はどこか悪戯心を混ぜた声音で言う。
「この話はメルトンが絶対に触れないことなんだ」
 芍薬は、ニトロが自分の聞き返しを待っていると察した。
「ドウシテダイ?」
「メルトンが事あるごとにこの話を持ち出したからだよ。うじうじした挙げ句に一人で失恋って情けねぇのって、メルトンの奴、しばらく『からかいネタ』のエースナンバーにしやがったんだ。
 それがあんまりひどくてしつこいから、怒った。もしかしたら『映画』の他じゃ、あれが一番だったかもなあ」
「アア、ソレデカイ」
 芍薬はからからと笑った。鬼の形相のニトロに怒られ怯えるメルトンの姿がメモリに浮かんで飛沫と消える。よほど怖かったんだろうなと、それだけは同情する。
 ようやく明るさを取り戻した芍薬の姿に、ニトロはさらに言った。
「だから、この話を俺が聞かせてくれたと知ったら。あいつは驚く」
 笑っていた芍薬の肖像シェイプが、ぴたりと動きを止めた。
 一度表情を消した顔が、再び笑顔を刻む。にんまりと、マスターの悪戯心を汲み取った満面の笑みを。
「次会ウ時ガ楽シミニナッタ」
「まあ、あんまりいじめないようにね」
「御意」
 何もかも心得たと大きくうなずく芍薬の姿に目を細め、それからニトロは人差し指を立て唇に添えた。
「あと、」
 メルトンへの『反撃』を思い描いていたのだろう楽しげにユカタの袖を振っていた芍薬が、ニトロの様子に小さな?マークを浮かべた。
「このことは俺と芍薬だけの秘密だ。
 彼女からメールが来たことも、それに俺がどう思ったのかも、思い出に決着がついたことも」
 その言葉に芍薬は物凄い勢いで何度もうなずいた。
 バックに輝きをまとって言う。
「秘密ダネ」
 それが本当に心底嬉しそうで、思わず自分も嬉しくなる。ニトロは穏やかにうなずいた。
「ああ、秘密だ」

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