ニトロの初恋

(第一部 8の数十秒後)

「だから好きな女の一人くらいいるでしょ!? 思春期真っ只中じゃない! ニトロの年頃ならそれなりにヤリタイ盛りじゃない? だったらホラ! ここにちょうど受け入れ先が!」
「魂込めて拒絶ったるわンな慈善事業! っつーかその論理破綻で飛躍は何だ! 好きな女がいるでしょ、からどうしてお前に誘われなきゃならないんだ!」
「私がニトロを好きだから!」
「おーまーえーはー! 質問するなら質問するだけにとどめとかんかい!」
「ハイ先生!」
「先生違うけど何だねティディア君!」
「先生はぁ、一体ぃ、誰が好きなんですかぁ?」
「うっわムカつく。誰が答えるか」
「ん? 答えるかってことは、答えがあるってこと?」
「揚げ足だそれ。言葉のアヤだこれ」
「嘘ついちゃ駄目よ? ほら、先生の目を真っ直ぐ見てちゃんと答えなさい?」
「いつの間に立場逆転か。いい加減面倒臭いぞコンチクショウ」
 後ろでうるさい二人の影響を受けぬようワードソフトの文章入力設定を音声からキーボード入力に変更し、ティディアに頼まれた原稿を一から書き直していたハラキリは、そこでふとモニターに据えていた視線を上げた。
「電話、鳴ってませんか?」
「ん?」
 ハラキリの気づきに、ニトロとティディアの声が重なる。
「あ」
 と、言ったのはニトロだった。ポケットから出したのだろう、音量を増した軽快な呼び出しメロディが部屋に響いた。
「もしもし、芍薬? ――ああ、うん、いた。バカが先に来てた。今ハラキリの部屋で……ぅあぁ鬱陶しい離れろティディア!」
「ハラキリ様」
 ニトロの怒声に合わせて呼びかけてきた撫子に、ハラキリは手で促しを示した。
「芍薬カラアクセスガアリマス。人形ヲ全テ借リタイトノコトデスガ」
「怒ってるかな?」
「ハイ。トテモ」
「断りを返して。流石に修羅場は面倒だ」
「カシコマリマシタ。
 ――芍薬カラ伝言ガアリマス」
「何?」
「『薄情者!』ト」
 ハラキリは苦笑した。
 薄情も何も、天下の王女様が血の海に沈みでもしたら、惨劇現場のこの家は大騒動の中心地となってしまう。それを避けるためには現状何も貸すわけにはいかない。
(しかし、このままだとどこかのアンドロイドを乗っ取ってくるな)
「電話なんて切っちゃってよ。ちゃんと私を見て、『誰が好き』って……言って。
 ね? お・ね・が・い」
 なまめかしい声を出し、ニトロの電話の向こうに聞こえるように言うティディアは明らかに現状を楽しんでいる。芍薬を挑発し、これ以上カオスな状況にしてどうしようというのか。
 ……どうせ、面白計画しかその御脳味噌にはないのだろうけど。
(仕方ありませんねぇ)
 ハラキリはワードソフトを終了させ、コンピューターの電源を落とした。
「撫子」
「ハイ」
「芍薬をうちに入れていい。ただし、システムは貸さないように。あとお茶を用意しておいて」
「カシコマリマシタ」
「さて」
「ぎゃあああ!」
(……ぎゃあああ?)
 悲鳴に続いて聞こえてきた鈍い音に、ハラキリは椅子を引いて体ごと背後の――ティディアにタックル食らって床に倒されそのまま組み敷かれているニトロに目をやった。
 それ以上ティディアの思い通りにさせないよう両足で彼女の胴を抱え込み、辛うじてガードポジションを取ったニトロとばっちり目が合う。
「……」
「……」
 彼は倒れた拍子に取りこぼした携帯電話へ必死に腕を伸ばしながら、救いを請う子犬の瞳をこちらへ向けている。
「…………」
「…………」
「…………駄目じゃないですか。そんな簡単に倒されちゃあ」
「今まさに性犯罪が行われようと! それについてどうか一言!」
 性犯罪と言うより、ハラキリにはただでっかい犬がニトロにじゃれついているようにしか見えないのだが……いや、これは主観の問題か。ニトロからすれば痴漢行為以外の何でもない。
 ハラキリは吐息をつき、じっとこちらを見つめている友人に応えた。
「はいはい」
「はいはいっ!? それが友達の言葉か薄情者っ!」
 薄情者という言葉に、小さく笑い声が聞こえた。撫子だ。芍薬がついさっき言った言葉を直後にマスターが発したことが嬉しいのだろう。ニトロと芍薬、息の合いっぷりがいい感じで上昇している。
「それより練習メニュー、ちょっと厳しく修正しましょうね」
それよりて! 分かった、俺頑張るからとりあえず助けて師匠!」
「はいはい。
 さて、おひいさん。拙者の見るところ、現在ニトロ君に慕う女性はいませんよ。それで納得していただけませんか」
「…………」
 胴に巻きつくニトロの両足を何とか外そうと試みていたティディアが、動きを止めてハラキリを睥睨へいげいする。
 彼女の瞳は餌を盗られまいと威嚇する猛犬のそれだった。
「そんな眼をしても駄目ですよ」
 ハラキリは二人に近づき、ぽんとティディアの肩を叩いた。
「そろそろ痴話騒ぎはやめてください。芍薬の我慢もそろそろ限界でしょうし」
「『モウトックニ限界超エテルヨ』トノコトデス」
「だそうですので、おひいさんもここらで引きましょう」
「……さっき、ニトロに私以外に好きな女いないって言ったけど、本当なのね?」
「ええ、おひいさん含めていないでしょうね」
 ハラキリのざっくりとした物言いに、さしものティディアも眉を垂れる。
 とはいえ、ニトロの顔に隠し事の色が差さず、むしろ積極的にハラキリの言葉を肯定する眼差しであること思えば、まあそれは『正解』だろう。ティディアは恋敵がいないことが確認できただけでいいかと――いたらいたでとっても面白おかしくしてやるつもりだったが――納得し、されどやっぱりニトロに好意を向けられていないことに少しだけ唇を尖らせた。
 こうなったら、もうちょっとだけ『ニトロ情報』を引き出したい。
「譲歩案は?」
「ニトロ君」
「何だよ。俺は何も譲歩する気はないぞ」
「初恋はいつです?」
「はあ!?」
 ハラキリの想定の大外を回って突っ込んできた質問に、ニトロは思わず素っ頓狂な声を上げた。
 この友人、一体何を考えてそんなことを問うてくるのか。
「何だよいきなり」
「いやほら。おひいさん、それを聞けたら満足なさるでしょうし」
「こいつがそんな話で――って、うわ! ものすっご食いついてる!」
 胴を両足にがっちり固定されながらも身を乗り出すようにして顔を近づけてくるティディアの瞳がえらくキラめいていることにニトロは慄然とした。
「ぉ面白くないってそんな話!」
「いやん、そんなこと言わないでお話ししてよぅ。お姉ちゃん、興味深々なんだから」
「断る! それにお前のことだ『どうせ調べてあるし』とか言うんじゃねえのか、ああそうだ『盗聴』なんかしてやがったこともあっただろうがほらそうなんだろう!?」
「んー、盗聴って言っても別にずっと四六時中聴いてたわけじゃないし。それにニトロが恋愛話してるの聴いたことないし。元々その手の話は聴かないようにしてたし」
「あれ? そうだったの?」
「ええ」
「何で? 調べたりとかは?」
「やー、だってそういうのは直接ニトロの口から聞かなきゃおいしくないじゃない。それで聴かないようにしてたんだから、当然調べてもないわよぅ。そしてこんな風に嫌がるニトロから聞き出す日を心待ちにしてたのよぅうふふふふ」
「こ ぉぉのサディストめがっ」
「だ・か・ら、ね? ほら、安心してお話しなさい。ついでに照れて赤くなって私をゾクゾクさせちゃいなさい」
「ふっざけんな拒否だ拒否! てか大体何で俺が痴女を満足させにゃならないんだ!」
「満足させるのはおひいさんだけじゃありませんよ」
「はあ?」
 またも訳の分からないことを言う友人に、今度は悪態混じりの疑念がニトロの口をつく。
「芍薬」
「芍薬来てるの!?」
 ニトロが歓声を上げる。ハラキリは小さくうなずいてそれに答え、芍薬の返答がないことにああと気がついた。
「撫子、音声は開放していい」
 そう言った瞬間、
「ナンダイ」
 ニトロに取っては安堵の、ティディアに取っては厄介の象徴の声が流れた。それはひどく刺々しく不機嫌で、今にも怒鳴り出しそうに震えていた。
 だがハラキリはそれをまったく意に介さず、飄々と問いかけた。
「ニトロ君はシャイだから、これまで芍薬にもこの手の話はしてないでしょう?」
「…………」
 芍薬は答えない。だが、その沈黙は明らかに肯定だった。
 ハラキリは口の端を愉快そうに歪めた。
「聞きたくありませんか? 芍薬が知らないニトロ君の、初恋のこと」
「……ゥゥ」
 苦悶が、部屋のどこぞにあるスピーカーを揺らした。
「……あ、あれ? 芍薬さん?」
 そこでようやく、ニトロはハラキリの術中にはまっていることに気がついた。
「――芍薬っ! 後で話す! 後で話すから!」
「肝心なところは濁すでしょうねぇ。まあ、もし濁されても付き合いの長いメルトン君は知っているでしょうから、知りたければ後で聞きに行って教えを請えばいいと思いますよ」
「ゥゥゥ...」
「芍や……!? ハァァラキリお前『友達甲斐』って言葉を知ってるか!」
「友達だからこそ、A.I.との仲を深めて差し上げようと」
「嘘をつくな嘘を! じゃあお前はどうなんだよ!」
「色恋沙汰は権謀術数けんぼうじゅっすうに非常に有効ですが、あいにく拙者にはそれが必要な状況はありませんでした」
「ああそうだった! お前はそういう奴だった! ごめんよ殺伐とした寂しい過去を抉っちゃって!」
 ニトロの痛烈な皮肉を込めた罵声にハラキリは笑顔で肩をすくめた。
「それで、芍薬?」
「芍薬駄目だぞ。ていうか助けて!」
「拙者が助けている真っ最中じゃないですか」
「むしろ辱めの方向に全力疾走中だ!」
「そうは言っても。芍薬も聞きたがってますよ」
「聞きたいって言ってないだろ!」
「御免ヨ、主様。あたしモ聞キタイ……」
「ひょえぇぇぇぇぇ」
 芍薬の返答を聞いた瞬間、これまで怒鳴り続けて頑張っていたニトロは奇妙な声を上げて力を失い、はたりと大の字となった。よく見ると、彼はちょっと泣いていた。
 そして同時に、胴に巻きついていた封印から解放されたティディアがこれ幸いと動き出――
「おっと」
 そこへハラキリの手が伸びた。
 ティディアの後ろ襟を掴み、引き止める。
「譲歩案にご不満でも?」
「……ハラキリ君……やるわねー」
 肩越しに振り返り、ティディアが目を流してくる。
「お陰で芍薬ちゃんに半殺されずに済んだわ
 ティディアの、こちらの思惑を見透かした物言いにハラキリは片眉を跳ねた。頬も少しだけ持ち上げ、鼻で笑うように嘆息をつく。
「さ、お茶にしましょう。欲張りさんには一番美味しいデザートを差し上げませんが、どうしますか?」
 ティディアの答えは、もちろん決まっていた。

 晒し者だ。
 イチマツ人形型のアンドロイドが運んできたお茶が『ちゃぶ台』という本物の木製の円い小卓に並べられていく様子をぼんやり見つめながら、ニトロはそう思った。
 ちゃぶ台の対岸では、この公開処刑の舞台を整えた憎らしい友人が悪びれもなくあぐらをかいて、遅れてやってきたヴィタに事の顛末を話している。
 自分とハラキリのちょうど中ほどに席を取ったヴィタは、つい数分前、イヌ起源の獣人ビースターの姿で現れた。なんでもティディアに頼まれて、ハラキリへの手土産を発掘した美味しい菓子店で買ってきたのだそうだ。可愛らしいデザインの箱からパティシエが丹精込めて飾り立てた小振りのケーキを取り出しながら、彼女は熱心にハラキリの話にピンと耳を立て向けている。
 そして、憎々しいティディアは……
 すぐ横にいた。
 離れるように言っても彼女は距離を取らず、それどころか『ザ・ブトン』とかいうクッションごとこちらに近づこうと体を寄せてきて、その度に自分と彼女の間にちょこんと座るイチマツ人形に押し返されて「むぅ」とうなっている。
 そのイチマツを操作しているのは芍薬だ。芍薬はティディア避けの壁となりながら、しかし様子は落ち着かず、絶えずこちらをちらちらと窺っている。
 マスターの意思に反して、我儘を言ったことに後悔しているのだ。それでもフォローをいれてこないのは、『聞きたい』ということが抑えられぬ正直な気持ちだからだろう。
「…………」
 もう何度目かティディアが押し返される。そしてその度に繰り返される、ティディアを押し返したイチマツ人形が戻ってきてこちらを見上げ、それからばつが悪そうに座る仕草にニトロは内心で苦笑した。
 芍薬が、悪いわけではない。
 ハラキリの言い回しが巧すぎた。メルトンを利用しあのように言われては、芍薬が『聞きたくない』と言えるはずもない。
 さすがは元マスターと言うべきか。それともさすが『我が参謀』と言うべきか。
 先のハラキリとティディアのやり取りを思い返せば、どうやら彼はバカ姫に怒気満タンであった芍薬のガス抜きを兼ねて策を弄したらしい。
 彼なりに、穏便に済ませようとしてくれたのだろう。だからといってこの迷惑この上ない結果を納得できるというわけでは到底ないが――しかしこうなってしまった以上、もう諦めた。
 また、ティディアが押し返されていく。
 イチマツが戻ってきてこちらを見上げてくる。
 ニトロは、人形のその小さな頭に、そっと手を置いた。
 イチマツが驚いたように目をみはった。しかしニトロが微笑を刻んでいることを知り、頭を撫でてくれる彼の手に嬉しそうに小さな手を添える。
「……なんだよ」
 ふと、目つき悪くティディアが睨んできていることに気づいてニトロは険を返した。
「イイコイイコ、私には?」
「お前を撫でる手は持ち合わせてない」
「じゃあどんな手だったら私にくれる?」
「ドツク手だけは『仕事柄』いくらでもくれてやらあ」
「最近、ニトロ君のドツキは磨きかかってますからねぇ」
 ちゃぶ台にお茶と、茶菓子が揃ったところでハラキリがおかしそうに言った。
「たまに怨念がこもっている時もあるようですが」
「時々物凄く痛いのよ。その時かしら」
「でしょう。評判ウケは良いようですけども」
「一国の王女が嬉々としてボケてツッコまれてる姿なんて笑うしかないだろ」
 ぶすっと頬を膨らませてニトロが言うのに、ハラキリはもっともだとうなずいた。それからお茶を一啜り、
「さて、ニトロ君。お聞かせ下さい」
「…………」
「約束……はしてませんが、こうなったらどーんと」
「……お前ねえ」
「どーんといきましょうよー」
「馬鹿みたいに繰り返すなティディア。大体、お前はどうなんだ」
「私? 私はニトロが初恋の相手」
 にこにこと言うティディアを鼻で笑い飛ばし、ニトロは気を落ち着けるために一度深く息を吸い、嘆きを込めて吐き出しながらちゃぶ台に頬杖を突いた。
 そして、そっぽを向いてぼそりと言う。
「幼稚園年長の時、相手は保母さん」
「…………」
「…………」
「…………」
(……ん?)
 ニトロは、怪訝に思った。恥を忍んだ告白の後、訪れたのはなぜか、沈黙だった。
 てっきりすぐにティディアあたりが反応すると思っていたのだが……。
 目を戻して三人を見ると、そこには微妙な反応があった。
 ヴィタは涼しい顔をしているが、ちょっとだけ耳が垂れている。多分、話が珍しくもないことだったから、ちょっとだけがっかりしているのだろう。
 一方、ハラキリは微笑んでいた。ああいや、いつも笑っているような顔をしているから、彼は最も無反応だった。どうせ彼自身は初恋話になど元々興味を持っていないのだろう。それでいて話だけ振ってくるから余計に腹立たしい。
 最後にティディアを見ると……彼女は、頬を赤らめて小さく震えていた。
「……?」
 震えて? なんで?
「ベッタベター!」
 突然、ティディアが歓声を上げた。手を組んで目を潤ませて、赤らんだ頬はどうやらツボに入って興奮していたかららしい。勢い任せに身を乗り出して叫ぶ。
「ベタベタ過ぎてあーもーかわいい! ニトロ、で、それで!?」
 こちらに飛び掛ってきそうな勢いにニトロはびくりと身を引いた。
「保母さんってどんな人だったのか教えなさい! そのツボくすぐってあげるから!」
「…………いや」
 続けて浴びせかけられた詰問に、ニトロは思い切り引きつり笑いを浮かべた。
「えーっと……」
「えーっとじゃないわよ。覚えてるでしょう?」
「そう……だな。清楚な感じの人だったよ」
「ヴィタ、明日からその路線でいくわ」
「かしこまりました」
「歌が上手くて、体操も上手だったな」
「オッケー、それもクリア」
「……。
 優しくて皆に人気あって、保護者にも信頼されていた」
「皆ってガキよね。大丈夫、私わりと子どもに好かれるタイプ。保護者は……御両親ね。うん、大丈夫。仲良くやってる」
「…………」
「他には?」
 ニトロはティディアのほとばしる熱意に引きつり笑いを深めながら、一度茶を啜った。ヴィタは面白みを感じ始めたのか耳をピンと立ててこちらを見ている。ハラキリの表情は変わらないが、楽しんではいるらしい。ケーキにフォークを通しながら、眼は次をと促してきている。
 すぐ傍らにいるイチマツ人形も、熱心にこちらを見上げていた。
 注目されていることにむずがゆさを感じながら、ニトロは引きつり笑いを少しだけ緩めた。
「髪は長かった」
「伸ばすわ」
「小さい子に引っ張られるからいつも頭の上でおだんごにしてたけど」
「おだんご了解」
「美人、ってわけじゃなかったけど、笑顔は保母さんたちの中で一番可愛かったと思う」
「笑顔、自信ある。クリアクリア」
「で、その人、四股かけててな」
「分かった。四股ね。ん?」
「その中には園児の父親もいてさ、まあ不倫だったわけだけど。ある日浮気されてることに気づいた男の一人が幼稚園にやってきて、門の前で子どもを迎えに来た親を出迎えてた保母さんと痴話喧嘩を始めたわけだ。
 運が悪いのかどうなのか、そこには不倫相手の奥さんもいた。自分の夫の名前が挙がるんだから驚いただろうなー。不倫相手が信頼していた保母さんだし、しかも不倫相手には別の男もいるし、そりゃ怒るわ」
 ニトロはからからと笑いながら、いつの間にやら口を閉じているティディアに微笑みかけた。
「修羅場だったよ。いつも優しかった保母さんがこう目を見開いてさ、歯茎を剥き出して金切り声を上げてるんだ。しまいには不倫相手の奥さんと髪を引っ張り合って殴り合うし、浮気されてた男は泣き崩れるし。喧嘩を止めようとした園長さんは――ああ、結構年配の女の人だったんだけど、殴り合う二人に近づいた拍子に肘が当たって泡吹いて気絶しちゃうし。
 だーれも止められなくてさ。母さんもまだ来てなかったから、俺はいつも一緒に帰ってた友達と泣いてることしかできなかったなあ」
 ずずっとお茶を啜り、ニトロは一つため息をついた。
 そして、目を伏せる。
「俺の初恋は、そこで終わったよ」
 膝に何かが触れる感触があって伏せた目を動かすと、芍薬のイチマツが手を載せて慰めの眼差しを向けてきていた。
 ニトロはこみ上げてきた過去の悲しみを胸に染み渡らせながら、感謝を込めてイチマツの頭にぽんと手を置いた。
 その時だった。
「ぷ」
 一つ吐息が破裂した。
「っあははははははは!」
 そして爆笑が、ニトロの耳をつんざいた。
「!?」
 完全に予想外のことに目を上げると、ティディアがのけぞって笑っていた。ハラキリも声こそ上げてはいないが口元を引き締め、顔を背けて笑いを堪えている。ヴィタはいつもの通り涼しい顔ながら、マリンブルーの瞳をキラキラと輝かせてこちらを見つめていた。
(……ええええっと?)
 ニトロは激しく動揺した。
 笑い話をしたつもりはない。だがどうやらここにいる友人と『知人』共、一体何がそんなにおかしいのか。
(とにかく――)
 まずはティディアだ。涙目になって腹を抱えているこのクソ女から問いただす。
「何がおかしいんだよっ」
 怒りが滲むニトロの声に、ティディアが笑いを止める。ひーひーと荒げた息を整えて涙を拭い、それから彼に目を向けた。
「笑えることなんか話してないぞ」
「何言ってるのよ。最高の笑い話じゃない」
「どこがだ。俺はまったく笑えない」
「ニトロは、そうかもね」
 くっくと喉を鳴らして、ティディアが笑いを噛み殺す。それは人の不幸は蜜の味ということか。そう言われるとそうかもしれない。確かにコメディドラマでありそうなことだと言われれば否定はしきれない。しかしまさに『事件』の当事者で、美しく残るはずだった記憶が真っ黒に染められてしまったニトロからすれば、彼女の反応はさすがに腹に据えかねることだった。
「あのなあ、幼心にでもな、結構トラウマになってるんだぞ」
 低い怒声を発し犬歯を見せるニトロの眼にある真剣さを見て取ったティディアは、ふいに柔らかな笑顔を浮かべた。
 ついさっき爆笑していたことが嘘のように穏やかな、慰めるというより包み込むような眼差しでニトロを見つめ、言う。
「大丈夫よ。そんなこと、これから私が素敵な記憶で塗り潰してあげるから」
 その言葉はあまりに自信に満ちていて――慈悲すら漂う艶美な瞳には、ティディアが持つ『魔力』が潤沢にさざめいていた。
 もし少しでも彼女に心を許していれば、そこから魂にまで切り込まれていただろう。数多の男を、いや幾多の女までをも見惚れさせてきた魅力。それに包まれ投げ込まれた言葉を、『塗り潰される』ことを無抵抗に受け入れてしまっていただろう。
 しかしニトロはわらった。
 よくもまあこのタイミングで多くの者を虜としてきた『ティディア姫の瞳』を、それも即座に見せられるものだと感心してしまう。お陰で怒気が吹き消されてしまった。だが、この星を統一したロディアーナ朝初代王に比肩すると称えられるカリスマも、ニトロにはただそれだけだった。
「お前にはできないよ」
 軽々言い返してくるニトロに、ティディアは小首を傾げてみせた。
「そうね、失敗だったわ。いくら初恋の相手だからって過去の女に合わせるなんて馬鹿馬鹿しい。あ、ヴィタ、さっきのなしね。ニトロはそのうち『私』にめろめろになるから、どうせ意味無かったわ」
「かしこまりました」
 いつの間にかケーキを二つ平らげていたヴィタが、また一つ箱から取り出しながら頭を垂れる。
「めろめろになんかならない」
 ティディアの根拠のない自信に呆れながらニトロは言った。
 ハラキリはもう自分の役目はないとばかりにのん気な様子でこちらを眺めている。ケーキもちゃっかり食べ終えて、VIP待遇の観客気取りだ。
 そういえば自分の前にある……ラズベリーのソースだろうか、滑らかな生クリームに赤が映えるケーキはとても美味しそうだった。
「そんなことないわよー。ニトロは絶対、私に夢中になっちゃうわ」
「妄想ダネ」
 力強く芍薬が放ってきた言葉にティディアは聞こえない振りをして、ニトロに挑みかかるように笑った。
「絶対、ね」
「妄想だ」
 今度はニトロが言葉を返した。傍らのイチマツの肩に手を置いて、芍薬と一緒になって不敵に笑い返す。
 ティディアはふふと笑ってフォークを手に取った。
 手入れの行き届いた純銀製のそれを軽く指で挟み持ち、一度タクトのように振ってから、光を受けて輝く尖鋭をニトロに差し向ける。
「今はそれでも構わない。でも覚悟してなさい。そんなちんけなトラウマごと、私が食べ尽くしてみせるから」

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