ニトロの夢の中

 ブティックで服を選んでいると、俺の周りをうろうろしていた有名デパートの制服を着た店員さんが、意を決したように声をかけてきた。
「ご注文はございますか? ただいまポテトとのセットがお安くなっております」
「ポテトですか。できればその分値段を下げて……って、あれ?」
 ヴィタさんじゃないか。
「何やってんの?」
 俺の問いかけに、ヴィタさんはマリンブルーの瞳を輝かせた。よく見ると彼女の制服には、ちゃんと図にしないと誰がどの人種だかこんがらがってしかたがなかった家系図が目立たぬ色でプリントされている。
「店員です」
「オー、ザッツライ。
 それじゃあ店員さん。芍薬に似合う服を探してるんだけど、何がいいかな」
「直接芍薬様にお聞きになったらよろしかろうて」
 いや、そりゃそうだけど。てか何か口調が……
「芍薬、朝早くから出かけててさ。どこにいるのか分からないんだ」
「それではこちらにいらっしゃい」
 ヴィタさんが俺を担いで運んでいく。
 俺は何も抵抗することなく……いや、少しは抵抗しろよ俺。ていうかこれまでツッコミどころ満載だったよね? 俺。
「さあ、こちらです」
 ヴィタさんに放り投げられた先は、試着室だった。
「あとは好きになされませっ」
 ヴィタさんは涼やかな顔で、でも怒っているのか語気強く言うと去っていった。
 しかし俺は何事もなかったように、試着室に入ろうと扉を開いた。
「……」
 試着室には先客があった。
 薄紅色の立派な花を咲かせるペオニア・ラクティフローラが、まっすぐしゃんとして姿勢よく佇んでいた。
「あ、失礼しました」
 慌てて俺は扉を閉めた。
 まったく……店員さんときたら、先客のいる試着室に案内するなんてどういうことだ。
「主様」
 ん?
「主様、待ち草臥くたびれたよ」
 あ、芍薬の声だ。試着室の中から聞こえてくる。
「早く行かないと。ヤカンを火にかけてるんだ」
 声は急かしていた。
 それじゃあ早く行かないといけないと、扉を開くとやっぱりペオニア・ラクティフローラが立っていた。
「お待ちしておりました」
 腰を折ってペオニア・ラクティフローラが座った。手品を見ているみたいにその姿が、すーっと薄紅色の着物を着た芍薬となっていった。
「ああ、芍薬だったのか」
「そうだよ、主様。立てばあたしはペオニア・ラクティフローラになるんだよ」
 三つ指突いて深々と頭を下げていた芍薬が、ポニーテールを振り上げて立ち上がる。
 すーっと、芍薬の姿が薄紅色の花咲き誇るペオニア・ラクティフローラになっていき、良い芳香が鼻をくすぐり心を落ち着かせた。
「知らなかった?」
「知らなかったよ」
「それじゃあ貸し一つだね」
「そうだね」
 いや待て俺。そこもツッコミどころじゃなかろうか。貸し借り問答だったか今のやり取り。
「うるさいなぁ。俺はニトロ・ポルカトですよ?」
 え?
「主様、どうかしたかい?」
「いや、何もないよ」
 ……うん……
 何も……ないかな?
「さあ、行こう」
 芍薬が試着室の鏡を押すと、鏡がくるりと小さな回転ドアになった。
 手を握ってきた……思うよりも柔らかな芍薬の手に引っ張られて、回転ドアを抜ける。
 ドアの向こうはトンネルだった。初めは真っ直ぐ歩けたトンネルは次第に天井を低くしていって、最後には腰をかがめなければ歩けなくなっていた。
 奥は行き止まりになっていて、行き先を阻む壁には狭いトンネルよりさらに小さい、大人がぎりぎりくぐり抜けられるくらいの窓枠があった。
 芍薬が先に抜けて、光の中からさあと手を伸ばしてくる。
 その手に光れるまま四角い出口をくぐるとその先には――巨大な、庭園が広がっていた。
 カコーンと鹿威ししおどしの音が鳴り、驚いたカモシカが門松を蹴倒して逃げていく。
 苔生した小道を俺の手を引き歩いていた芍薬が立ち止まる。立ち止まった芍薬は、再びペオニア・ラクティフローラに変身した。手を握る芍薬の指が、緑鮮やかな葉になった。
 薄紅色の花は誇らしげに胸を張った。
「ようこそ、主様。あたしの茶室へ」
 芍薬が示したのは庭園のど真ん中にある小屋だった。
 中に入ると小屋は四畳半で、そのまたど真ん中に囲炉裏がある。炭の上に直接置かれた鉄製のヤカンは真っ赤に燃えていて、慌てて芍薬が別のヤカンを持ってきて取り替えた。
 真っ赤なヤカンは庭の池に放り捨てられて、じゅうじゅう周りの水を蒸発させていたかと思うと巨大な鯉に飲まれてしまった。
「……熱くなかったの?」
 芍薬に促されて囲炉裏の前に正座しながら、俺の目は芍薬の手にあった。
 今にも溶け出しそうなほど熱せられていた鉄の固まりを掴んで投げたというのに、その手は綺麗なままだった。
「主様と、一期一会と思えば熱くなんてないよ」
 囲炉裏を挟んで正座している芍薬は、手元に道具を揃えながらそう言って微笑む。芍薬は楽しそうで、♪マークが頭上に浮かんでは消えていた。
「そっか、一期一会か」
「最強だよ」
「最強かー」
 池の水面に影が滲んだ。ざぱっと波を立て、水底からさっきヤカンを飲み込んだ巨大鯉が、胃の辺りを丸く焦がして浮き上がってきた。
 死んだ魚の目でぷかぷか浮かぶ白い腹へ、芍薬が袖の中に隠していたナイフを投げつける。ナイフは焦げ目が作る的に見事命中し、どこからともなくファンファーレと共に『芍薬様ご獲得』とヴィタさんのアナウンスが鳴り響いた。
「あれが今日のメインディッシュだよ」
「美味しいの?」
「美味しいよ」
「それじゃ楽しみだ」
 いーや待てだから俺!
 さっきから黙って見てりゃ芍薬まで何だそのボケ倒しノーガード戦法!
 俺よ、ニトロよ、なんでもいいから指摘しろ! ツッコミ不在だとカオスなまんまでこのまま進行しちまう!
「それがいいのです!」
 突然ヴィタさんが力強く断じた。どっから出て来るんだ四畳半の畳の一枚を持ち上げ床下から現れて!
 そして断言できた自分に満足したのか、目を猫のように細めて引っ込んでいく。
 ………………
 えーっと。
「主様、どうかしたのかい? さっきからおかしいよ?」
「いや、大丈夫だよ」
 ……がそう言うなら……大丈夫なんだろう、きっと。
 そういうことにしておかないと、何だかそこにいる『俺』とそこにいるはずなんだけどいない『俺』の――あいつが俺で俺がそいつで俺は俺でいやそれは当たり前だし、じゃあ俺を見てる俺は一体あの俺と――
 、
 やめよう。
「ちなみにわたくしの名前は元々『2号』だったんですよ」
 畳の下からヴィタさんが、そっと言ってきた。
「ですがそれだと使い回しで先代と差別化できないなーと、最終的に『二番目の文字』を由来にしたのです」
「へえ。何文字の二番目?」
「ギリシア文字だよ、主様」
「へえ。芍薬は物知りだなあ」
 芍薬はくすぐったそうに目を細める。頬は花の色に、薄紅色に染まっている。
「さ、お菓子をどうぞ」
 道具箱の中から茶菓子を出して、芍薬が差し出してくる。
 それを受け取りながら、俺は言った。
「ところで」
「なんだい?」
「足が痺れてきたから正座をやめていいかな」
「駄目だよ」
「駄目なの?」
「駄目だよ」
「そっか……」
 俺は茶菓子のモナカを齧って、しなだれた。
 足は爪先から膝の辺りまでぴりぴり痺れている。てーか、痛くなってきた。何でこういうのはリアル俺にも伝わってんの? 理不尽だ!
「……駄目?」
 もう一度俺は言った。
「駄目」
 芍薬は大きく腕で×の字を作ってまで駄目と言う。
 じゃあ、駄目なんだろう。
 俺がうなずくと芍薬はにっこり笑って、茶碗の中に緑色の粉を放り込んだ。そして煮えたぎったヤカンの湯を注ぎ、泡だて器で混ぜ始める。
 チャッチャッチャッと、リズミカルな音が四畳半に反響する。
「さ、粗茶ですが」
 芍薬が差し出してきた茶碗には、きめ細やかな泡が立つ抹茶がっていた。
「いただきます」
「どうぞ」
 俺は茶碗を三回回し、熱い抹茶をゆっくりすすった。
 自ら点てた茶を飲む俺を見ている芍薬の背後には、朗らかな花模様が浮かんでいた。
 一口、二口のみ、一度茶碗から唇を離す。香り高さが鼻を抜け、渋みに包まれた甘さが咽喉を潤していく。
 …………美味。
「美味しいよ」
 芍薬は頭を下げた。
 顔は陰に隠れて見えないが、芍薬の横でデフォルメ肖像シェイプの芍薬が踊っていた。
 俺は茶碗を手の中で回しながら、ふと頭をよぎった疑問を話題になるかと芍薬に振った。
「そういえば、抹茶って何からできてるんだっけ」
「こちらです」
 答えたのは芍薬ではなく、ヴィタさんだった。
 姿勢良く正座している芍薬の背後に立ち、涼しい顔でその植物を示した。
「…………」
 顔面が硬直した。
 熱い抹茶が通り過ぎたばかりの食道まで、凍りつく。
「……本当に?」
「はい」
 甲高く引きつった問いかけに、こともなげに肯定するヴィタさんは、手の中のものを強調するように差し出した。
 それは……
 彼女が差し出すそれは、
 魔女の媚薬の材料になるという――人塊根マンドレイク
「ベッドで〜〜がお待ちです。ささ、残りも全部飲んで」
「ひぉぉぉぉぉ!?」
 俺の咽喉が奇妙な風切り音を立てる。
「そうはいくかーーーーーい!!」
 思わず俺は茶碗を振りかぶり、庭園の外へと投げ捨てた。
「ああ!」
 悲痛な叫びを芍薬が上げる。
 芍薬は目を見張って茶碗が飛んで行った方角に手を伸ばし……遠くからガチャンと茶碗が割れる音がして。
 芍薬は声を失い、肩を震わせていた。
 ――あれ?
「あれ? 芍薬」
 あれ? 俺が喋れた?
「……御免よ、主様」
 芍薬が袖で顔を隠して言った。
 声は涙声を堪えて、さらに震えていた。
「美味しいって言ってくれたけど……本当は、口に合わなかったんだね」
「いや、あれ? 芍薬、ヴィタさんが言ってたの聞こえなかった?」
「いいんだよ。主様、そんな慰めをしなくても……。
 あたしが不味いの作っちゃっただけなんだから」
「違っ――ちょ、あれ? ヴィタさんも説明し、って、どこに隠れたクソ執事!」
「ヴィタなんて、ずっといなかったよ」
「いやあれ? ええい、さっきまでの俺! お前までどこ行った!!」
「主様はずっとそこにいたよ」
 芍薬はすっと立ち上がった。
 ペオニア・ラクティフローラが現れる。真っ直ぐに立つその美しい草花は、涙は見せぬと細やかに揺れていた。
「いいんだよ、主様」
 芍薬は繰り返した。
「そんな錯乱してまで、誤魔化してくれなくていいんだよ」
「違う違う芍薬! 芍薬は何も悪く――」
「……っ、出直してくるね!」
 芍薬は踵を返すと、えらい勢いで走り去った。顔を隠す袖の下から、涙の粒がキラキラと舞い落ちて――
「あ、ちょっと芍薬! ま――っ!?」
 芍薬を追おうと立ち上がろうとした瞬間、足から脳へと凄まじい痛みが走り、俺は畳に倒れこんだ。
 その痛みは足の感覚を奪い、動かしても動かさなくても……っていうか歩こうもんならむき出しの神経が直で床に触れているような激痛ががが!!
「ひぉぉぉぉぉーー!?」
 思わず肺から空気が漏れる。
 生まれてこの方味わったことのない足の痺れに、声も出ない!
「泣かせましたね?」
「ぐえ!?」
 突然、背中に物凄い重みが圧し掛かってきた。
「私の娘を、泣かせましたね?」
「……そのお声は……」
 撫子だった。
 撫子の声が、頭上から聞こえた。
 ヴィタさんがやってきて、うつ伏せに潰れている俺にも『上』が見えるよう試着室の鏡を立てる。
「――――ぃっっ!」
 あーーーーーーー!! 見たくなかったーーーーーーーーー!!!
「泣かせましたね?」
 そこには、俺の背中の上には、腿まで届く黒髪を真っ直ぐ垂れた喪服の少女が、あれなんか怒髪天を衝く勢いですか? って感じで真っ白なハチマキ締めて長刀なぎなた持って正座してっ、至極とっても可憐に微笑んでらっしゃる!
「ニトロ様なら自慢の長女を大事にしてくださると、そう思ってましたのに」
 言う度に、撫子の重量は増してくる。
「まさかこんな仕打ちをなさるとは……」
「ぐぅえおおおおおおお……」
 増してくる、増していく、この重さ……まるで山が乗っているようだ!
 ああ折れる! 背骨が、折れてしまう!!
「お仕置きです!」
「うぎゃああああああああああああああ!!」

「!!」
 ニトロは飛び起きた。
「……っ」
 部屋は暗い。まだ夜中のようだ。
 カーテンの隙間から漏れる街の夜光に薄く浮かぶ手を見る。はっとして背中を曲げ、伸ばす。
 無事だ。
 何事もない。
 夢……
 夢のはずだ。あんなこと、夢でなければ起こるはずもない。
 だが胸の中には罪悪感が、足には痺れの感触が、耳には――背骨の折れる音が、嫌に生々しく残っている。
 まさかまだ、夢の中……
「…………」
 茫然として、ベッドの上に座り込むニトロに声がかかった。
「――主様、ドウシタンダイ?」
「!」
 ニトロは呆けたまま、声の主の在り処を窺うように周囲を見回した。
 それはどこか怯え、そして同時に救いを求めているようだった。芍薬は彼の様子がおかしいことに気づいた。
「主様?」
 芍薬の、不安と心配が入り混じった声。
「悪イ夢デモ見タノカイ?」
 芍薬の、優しい声。
「――!」
 ニトロは、勢い良く正座した。
「芍薬! ごめん!」
「エエ!?」
 手を合わせ突如謝ってきたマスターに、芍薬は戸惑いの声を上げた。
「ドウシチャッタンダイ、主様」
「どうしたもこうしたも、なんちゅーかごめん!」
「ダカラドウシチャッタンダヨ、主様!」
 芍薬が問い返すがニトロは生々しい罪悪感にせっつかれ、謝ることしかできない。
「ほんっとうに、ごめん!」
「主様、オ願イダカラ、ソンナニ謝ラナイデオクレヨォ!」

 そしてしばらくの問答の末
 芍薬は完全に目を醒ましたニトロから夢の話を聞き――
 その内容にショックを受ければいいのか、マスターの夢の中に出られたことを喜んだものか吟味して――
 結果
 ヴィタさえ出てこなけりゃルンルンだったと喜んだのは、それから一時間も後のことだった。

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