ティディアは憂鬱だった。
一夜明けてまた日が沈もうというのに、熱はまだ下がりきらない。
体が重く、頭も重い。
特に頭の回転は酷く鈍い。
昨日は、『参謀』として狂騎士達と共にニトロを追い詰めている時は、絶対に失敗できない状況に気力が奮い脳裡も冴え渡っていた。しかし今は薄霧がかかったように思考がぼやけ、いつもなら晴れ晴れとした遠望が全く利かない。
今日から仕事に復帰する予定だったのに、結局
「う〜ん」
本当にこれはどうしたことだろう。この身はこんな風邪ごときに煩わされるような体ではない。自惚れでも不遜でもなく、そう言えるだけの体の手入れは日々欠かさずにしてきている。
基礎体力、基礎代謝、新陳代謝に栄養状況、気力根性全て高水準でオールグリーンだ。
だが実際ひどい風邪をひいてしまい、体はいつまでも「お前は無理をした」と叱責するように汗ばみ、芯からの火照りを消し去ってくれないでいる。
「……ニトロにかまけ過ぎたかしら」
そうとしか思えない。
原因の写真集を作っている時、楽しくて楽しくてそれを贈る相手のリアクションを考えるだけで心が弾んで、いつしか彼のことで僅かな余地もないほど頭を一杯にしてしまい、体の限界を報せる危険信号を掴むことができなかったのだ。
そしてそのことに、自分は気づくことすらできていなかった。
それは『クレイジー・プリンセス』――無敵のティディア姫にとって、自身許せぬ失敗だった。
「ん〜」
しかもその失敗、転じて福となすこともできやしない。
「つまらない」
彼は見舞いに来ない。
こっそりヴィタに様子を探らせていたら、ニトロときたら朝からハラキリとどこかへ出かけてしまった。
「……」
ニトロが来てくれないのは仕方ないとしても、しかしハラキリまで来てくれないとはどういうことだろう。
彼は心配なんか一つもしていない飄々とした顔で、ニトロの話でも土産に来てくれると思っていた。
だからニトロと家族以外の見舞いの面会希望には断りを入れるよう通達している中、例外として彼は通すようにとちゃんと命じておいた。
それなのに、彼まで来てくれない。
せめて友達が来てくれたら、それだけで幸せなのに。
「……はぁ」
だるい体をよいしょと起こし、ティディアはベッドの天蓋から降りるレースカーテンの向こう、広い――今はそれが隙間だらけに感じる部屋を見た。
覚えている限りこんな風に寝込んだのは初めてで、そしてこんな物悲しさを味わうのも初めてのことだった。
このままではどこまでも気落ちしそうだ。ティディアは喉が渇いていることに意識を向けて、滅入る一方の気を紛らわせた。
カーテンの合わせ目からベッド脇の小さな机に置いてある水差しへ手を伸ばし、その中のハイポトニック飲料をコップに注ぐ。
日常のことは自分でやらないと気がすまないため側仕えを極力置かないでいるが、こういう時は誰か一人付けておいてもいいかなと、冷たくも温くもない温度のそれで乾いた喉を潤しながら彼女は思った。
「
「ハイ」
呼び声に、A.I.がすぐに応答した。
「『リスト』を見せて」
「カシコマリマシタ」
ティディアの手元に
「……」
……それは――もしそれがあったら何より先に報せるようにと命じてあるそれが、未だ無いことは分かっている。
分かっていながら、目当ての文字列を検索にかける。
即座にエラー音が鳴った。
ティディアは
「…………」
それから幾ばくの時が流れたか、ふいにドアがノックされた。
「入っていいわよ」
ノックのリズムはこの部屋に来る使用人ごとに決めてある。その打ち方は、ヴィタのものだった。
「失礼致します」
ドアの向こうから執事の声が小さく届いてくる。ティディアは起き上がり、朧な目つきでレースの向こうに静かに開くドアを
「―― 」
ティディアは、目を丸くして彼を見つめた。
彼は一人部屋に入ってくるとまっすぐこちらに向かってきた。その顔はとても愉快そうで、手には簡素な買い物袋が握られている。
「よう」
ニトロは、ベッド脇の机の下から丸椅子を引き出して座った。
「……開けていいかな?」
ニトロの目は天蓋に注がれていた。そこから降りる、繊細な透かし模様のカーテンに。
ティディアがビックリ眼のままでうなずくと、彼はどういう構造になっているのか確かめながらカーテンを開いた。
「本当は昨日、見舞いに来るつもりだったよ。あんな騒ぎがなけりゃ」
彼女の目が『何故?』と問うているのに答えながら、ニトロは買い物袋の中からヴィタに借りた小皿とフォーク、小さなまな板を取り出して机に並べた。
それから自前の果物ナイフを取り出してその折り畳まれた刃を起こし、最後に形は少し悪いが綺麗に赤らんだリンゴを取り出す。
「でも、来ないって……」
まだ驚いているティディアの声は、昨日より良くなっている。
それを耳にニトロはにやりと笑った。
「たまにはこっちが驚かせてやらないとな」
「……言ってくれればこんなパジャマじゃなくて、もっとスケスケのネグリジェとか……」
珍しくしどろもどろな口調、だが言わんとしている内容はいつもと同じなことに、ニトロはやれやれとナイフを軽く振った。
「外に芍薬がいる。妙なことしたら呼ぶので気をつけるように」
刃先が差す方向を見ると、ドアが僅かに開いたままで、そこに王城警備の制服が覗いている。そのアンドロイドの両眼は闘志で
「やー、それは怖いわねー」
ティディアは、そこではじめて笑った。
驚きが消え去ったと同時に、物悲しさも消えた広い部屋で歓声を上げたくなるのを堪えて――しかし感情は抑えきれず、彼女の顔は満面の笑みに輝いている。
ニトロはそれを横目に、リンゴをまな板の上で二等分にした。
「ここの料理長も、怖いな」
二等分をもう一度二つに分ける彼を見つめながら、ティディアは眉根を寄せた。
「なぜ?」
「厨房でリンゴをすりおろさせてもらおうと思ったんだけど、素人が入るなって」
「ふうん」
相槌を打ちながら、ティディアは
(料理長、ボーナス支給!)
内心手を叩いていた。
「悪かったわね。今後ニトロは入らせるように言っておく」
ティディアの言葉は、ニトロがわりと料理好きなことを知ってのものだったが、彼は首を振った。
「別に悪かないよ。セキュリティのこともあるだろうし……それに、ああいう『職人』って感じの人は嫌いじゃない」
四等分の大きさのリンゴを手に、慣れた手つきで皮を剥いていくニトロは様になっていた。あっという間に皮を剥き終わると、最後にもう一度二つに割って八等分の切り身を皿に乗せる。
「あと今後はないし」
「そんなこと言わないで、来なさいよ」
「お断りだ」
ニトロは次々と素早くリンゴを切り終えた。食べやすいように小さく切られたリンゴは
「採り立て、うまいよ」
「わざわざ採って来てくれたの?」
ニトロが差し出した皿を受け取り、フォークの刺さったリンゴの瑞々しさを見る。
「ハラキリの提案でね」
「ハラキリ君は?」
その問いに、ニトロの目尻がぴくりと動いた。
「『拙者は君と行かないことが、一番のお見舞いです』だとよ」
「ふうん」
険悪なニトロに相槌を返しながら、
(ハラキリ君、金一封!)
ティディアは内心サムアップをしていた。
「……食べないのか?」
リンゴの盛られた皿を手ににやにやしているだけのティディアに、怪訝にニトロが言う。
彼女ははたと気づき、フォークに手を伸ばそうとして……やめた。ニトロを見る。
「あーん、ってしてくれないの?」
「調子に乗んな」
ニトロは腕を組んで要求をばっさり切り落とし、そして何か面白いことを思いついたという顔で不敵に言った。
「忘れるなよ。次に会う時は、『敵』なんだ」
それはマンガやドラマ、昔からフィクションで使い古されてきたセリフだった。そらんじたニトロは下手くそな演技調で、だが声には明確な意志がこめられている。
次に二人が対するのは『会見場』となるだろう。
確かにこの場に相応しいセリフだと、こましゃくれた顔を見つめてティディアは思った。
「……」
そう、確かに相応しい。
――すぐに篭絡できると思っていた少年。
ニトロ・ポルカト。
ところが彼はこのティディア姫になびく素振りを少しも見せず、元々持っていた強さにまた違う強さを備え、驚くほどたくましくなって目の前にいる。
ただ捕まえるには手強いだけだったウサギは、今や『敵』と、そう言えるだけの強いウサギとなった。
「……そうね」
思いがけなく湧き上がってきた不思議な感慨に、胸が締めつけられる。
ニトロの成長は、彼を落とすことがどんどん厄介になっていくということなのに、妙に嬉しい。それはこれまで感じてきたどんな嬉しさとも違い……初めて味わう、心臓から心の裏側にまで染み渡る嬉しさだった。
ティディアは奇妙な幸福感に熱に赤らむ頬をまた赤らめ、ニトロに微笑みかけた。
「敵ね」
その微笑は、蠱惑の笑みだった。
挑みかかってくるようで、それなのに誘っているような、全身を優しく愛撫しながら咽喉笛に歯を立ててくるような、美しく妖しい微笑み。
いつものティディアの調子が現れたのを目にしてニトロは、ふんと鼻を鳴らした。
「いただくわ」
ティディアはリンゴの皿を軽く持ち上げて言った。
フォークをつまみ、ニトロが切ってくれた果実を一口齧る。
愛しい者と友達がくれた見舞いの味。酸味と甘みが調和した絶好の果汁が、口の中に溢れた。
「……ありがとう」
ニトロはティディアの礼に、その表情が言う美味しいという感想に、素直な笑顔を返した。
終