幕間話

 憎らしいほど脳天気な青空を仰ぐと、ニトロの瞳の中を白雲が泳いだ。
 夏の陽射しは去りかけて、身を寄せてきた秋の愁いに太陽の熱も幾らかほぐされている。
 快適だった。
 エンジンを止めたフィッシングボートはゆらゆらと海面に漂う。
 その船上で和む心は波に合わせてゆらゆら揺れて、コバルトブルーの中に眩しい白船を撫でる微風も心地よく。
 背を曲げて椅子に腰掛けたニトロは、緊張感というものを完璧に忘却していた。
 力の抜けた体を緩ませて、ひたすらぼうっと竿先を見つめていた。
「ところで……」
 背後から、ハラキリの声がかかった。
「ああ」
 うなずきながら、ニトロは肩越しに振り返った。
 小型のフィッシングボートの上。自分と背中合わせに座るハラキリは、背を向けたまま気の抜けた声で問うてくる。
「なぜに海釣りで?」
「今日、ティディアが半日休暇取ってるんだよ」
「まめに調べてますねぇ」
「生命線だからね」
 突然、ハラキリが竿を持ち上げた。立ち上がってリールを巻いていくが、竿はうおの抵抗を受けてはいない。どうやら釣り針を獲物の口にかけ損なったようだ。
 彼が――アワセのタイミングは完璧だったのか――不思議そうに小首を傾げるのがおかしくて、ニトロは笑みを噛み殺しながら自分の竿に目を戻した。
「ここなら周囲全方見回せて、敵の接近に気づけるだろ?」
「むしろ退路を失ってると思いますが」
「ハラキリがいるメリットでそのデメリットは打ち消せるよ」
「はっきり打算をお口になさる」
 ハラキリは苦笑しているようだった。
「それに、相手の接近が分かればいいんだ」
「ああ、不意打ちが怖いんですね?」
「うん。怖い。凄く怖い」
 彼がまた仕掛けを海に放る音が聞こえた。
「まあ、そういうわけでさ。あと2、3時間付き合ってよ」
「いいですけどね。釣りは嫌いじゃありませんし」
 海は静かだった。
 なだらかな波間に跳ねる太陽光まで柔らかい。
 十海里先にはこのフィッシングボートと釣具を借りたヨットハーバーがある。ヨットやボート、中には大きなクルーザーが並ぶ港の周囲には白壁のシーサイドカフェやコテージが並び、港近くにはマリンスポーツに興じる人影が微かに見える。
 近辺に船はない。遙か遠くを漁船が一目散に進んでいるが、その舳先へさき王座洋スロウンの沖に向かい近づいてくる気配もない。
 ボートは穏やかに揺れて、揺れて、つい眠気に襲われそうになる。
 まだ魚は一匹も釣れていないが、このまま穏やかなままに時が過ぎるなら、ニトロは別に坊主で終わっても満足だと思った。
「?」
 そう思った矢先、竿先が細やかに振れた。
「……」
 アタリだろうか。それは不自然な動きだった。
 ニトロはそっと竿に手をかけ、
「!」
 微かにだが確かに何かが仕掛けに食いついた感触に合わせて、一気に竿を引き立てた。
 腕に重く、手の平を通じて獲物の存在が伝わってきた。
(大きい!)
 勢いよくリールを回す。竿の穂先は海面に向けて強力な磁石に引きつけられているようにしなり、獲物の力と重量を見た目にもニトロに伝えた。
「大きそうですね」
 少し興奮した声でハラキリが言う。
「みたいだ!」
 ニトロは竿を下げながらリールを回し、そしてまた竿を引き立てた。恐ろしく重い手応えがある。どれほどの大型魚の大物がかかったのかと期待に胸が高鳴る。
「――――あれ?」
 が、ふいに竿のしなりが消えた。同時に手応えも消えて、ニトロは戸惑いと共に強烈な失望に襲われた。
「あー、バレちゃった」
 ニトロは肩を落として空を仰いだ。こちら側に寄ってきていたハラキリの顔にも惜しさが滲んでいる。それを見るとまた残念だった。
 ニトロはとりあえず針を確認しようと、リールに自動で糸を巻き取らせていった。
「……あれ?」
 すると、また竿がしなりを帯びた。糸もピンと張り、横走りとまではいかないまでも左右にぶれている。
 竿を立ててみてもさっきほどの手応えはない。だが仕掛け以外の重さはしっかり感じられた。
「変ですね」
 ハラキリも怪訝な顔をして海底を覗き込んでいる。
「小魚が先にかかって、それにでかいのが食いついたけど逃げた……のかな」
「そんな手応えですか?」
「そんな手応え」
 ニトロはとにかく糸を巻き上げていった。
 やがて釣り糸に引っ張られて、大きな魚影が海底から染み出してきた。
 ニトロは驚愕した。
「鮫!?」
 影は大魚としても大き過ぎ、そしてあまりに黒く、鱗の反射が見せる青光りもなかった。
 だがそれにしては手応えが弱すぎる。まるで引き上げられる針を追いかけて、獲物自らが浮かび上がってきているようだった。
「鮫、じゃないですよ」
「え?」
 呆れ声でハラキリが言ったのにニトロが疑問を返したその時だった。
 海の表面を突き破り、ニトロの針にかかった獲物が勢いよく飛び出してきた。
「!?」
 ニトロの目が見開かれた。あまりに予想外の獲物の姿に息を飲み、絶句する。
 釣り上げられたダイバーが、海面に出るなり人工えら式マスクを外して悲鳴を上げた。
「痛ったただだだだだ!!」
 釣り針はダイバーの左手の指にかかっていた。その手を頭上に掲げ、水濡れそぼる黒紫色の髪が振り乱れている。
「……」
 ニトロの顔から表情というものがどこかに飛んでいった。
「ちょちょ! ニトロ糸緩めて!」
 リールの自動巻き取りは終わっていた。だがウェットスーツを着込んだ『獲物』はまだ海にあり、そのせいで釣り糸はピンとテンションを張り続けている。ニトロの構える竿もまたしなっていた。
「ニトロってば!」
 緩慢に、ニトロは糸を送り出して緩めてやった。
 ティディアの顔に安堵の色が差した。彼女はほっと息をつきながら、それでもまだ苦悶の様子でちゃぷちゃぷ波間に漂っている。
「お前、何やってんの?」
 ようやく、ニトロは彼女に訊いた。
 その場で指に刺さる釣り針を外すのは諦めて、傷口を海水につけぬよう巧みに立ち泳ぎながら、ティディアはどこか無理に微笑んだ。
「私、ニトロに釣られちゃった」
 その一言で、ニトロはティディアの『企画』を理解した。
「まった馬鹿なことを。つーか一体どこから湧いて出てきたんだよ。まさかそれだけのためにここまで泳いできた、とか言うなよ?」
 ティディアは唇をきゅっと結んだ。
「途中までは水中シースクーター……」
 このフィッシングボートには、スクリュー音が半径二海里内に入ってくると舟艇等接近注意の表示灯を点ける事故防止システムが搭載されている。
 どうせレンタルした店で船の機能をあらかた調べてきたのだろうが――しかしだとすれば、彼女はこのためだけに約4kmも海中を泳いできたということか。
「…………」
 ニトロは半眼のまま微笑を張り付かせる王女を見つめ、その揃えられた両足に大きな尾びれがついているのに気づいて冷笑を浮かべた。
 おおかた『人魚姫』だとか抜かすつもりだったのだろう。
 彼女がこちらの気を引くように振る左手に見える釣り針は、ご丁寧にも薬指の腹にぶっすりいっている。
 手袋グローブのお陰で貫通はしていないようだが、なかなかしっかり刺さっているようだ。痛いのだろう。塩がみるのだろう。ティディア渾身の微笑は引きつっている。
 ハラキリに目をやると、彼は黙々と救急箱を漁っていた。
「だけどね?」
 沈黙に耐えられなくなったのか、ティディアがぱっと顔を輝かせて明るく言った。
「本当は優雅に浮かんでくる予定だったのよ? スーツも脱いじゃって、あ、この下に新しい水着着てきたの。それでもっとこう、ちゃんとマスクの口に針を通してさ、」
「でも思いのほか早くアワセられてマジで針にかかっちゃったと」
「……」
「……」
「…………」
「………………」
「私、ニトロに本当に釣り上げられちゃった♪」
「君は本っ当に努力の方向を間違っていると思います」
「あああ、嬉しくない! なんかそのツッコミ嬉しくなぁぁい!」
 ティディアが涙目で喚く。喚いて海を両手で叩き、傷口をもろに海水に漬け込んでまた悲鳴を上げる。
 ニトロは竿を置いて、大きくため息をついた。
 傍らを過ぎ去る風の音がやけに大きく聞こえるのは何故だろう。
 ニトロはハラキリがよこしてきたオレンジ色の救命浮輪を受け取り、脱力した手つきでそれをティディアに放り投げた。
 海は、穏やかだった。
 大海原は水平線の先のどこまでも、とてもとても穏やかだった。

メニューへ